明治時代のコロボックル論争の先達は、DNAなどは全く思いもよりませんでしたが、人類史が「熱帯・南方」地方(坪井)から北上した数万年(清野)の長さ(第1図)のものであることに気づいていました、不思議な凄さです。 日本人は「列島内で生成された」 と考えていたことも驚きです。

が、現生人類がユーラシア旧人が居る所に一旦北上して、寒冷適応を果たした子孫が強い勢力となって南下して来た「go-backで行き来した歴史」であることまでは分からなかったでしょう。尤も、今でも大陸・半島からモンゴロイドが南下して来た一方向しか意識しない人が多く、日本列島人の始まりに、北(沿海州・樺太)から西(ユーラシア内陸)から南西諸島方向ルートからの3方向と描いている 博物館などがあり、 ①次いで②という北上史をしっかり認識しない不思議です。

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南方からと違って北と西ルートは、出アフリカ後の4~3万年前のルート痕跡もなく、そこにどうやって来たのか(寒く大変な内陸移動でなく、沿岸から上流に河川遡行したのではないのか)、また、時期が違うものをミソも何も一緒に描いて歴史考察上の問題はないかと考えない不思議です。刺身を食べ、次いでご飯を食べそして冷やっこを食べるのと、一つの椀に3つを入れ混ぜて食べるのと全然違うものであることが分かっていない事と同じです。この日本列島史始まりの2万年強は、文化形成上非常に重要であり、その後の外来文化の取捨選択・換骨堕胎の元になっているのです。

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さて、アジア人の親子を今も新・旧モンゴロイドと雑に呼んでいる問題があります。第1図の出アフリカ黒人が東進して、親である原アジア人の「インマレイド」(原初Sundaland地域人)になってから緯度の北上には長期を要し、寒冷適応して子の「モンゴロイド」となって再び南下展開して來た(欧アの東西展開も含む)人類史は、基本的に「北上後の南下混合史」(欧州正面も)なのです。親に注目せずに2代目の子供である南下モンゴロイドに「古」を付した雑な命名は、モンゴル・ジンギスカンに心底驚かされ、Chinaを意識する欧州学者の偏見であり、人類史の認識を大きく過つ元です。更に、第1図を見て分かるように図東端の日本~台湾~フィリピン(比)は、欧州学者の目には無視され勝ちで、第2図、 太古を考える上で必須の半分沈んだSundaland大半島、北東ア平野・曙海、花綵(はなづな)列島(沖縄・与那国島~千島、アリューシャン)、「米臨海」などを人類史の重要ファクタ-として意識していないことをも示しています。

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従って、第2図の男性遺伝子Y-「D」グループの痕跡が、アンダマン・チベット・日本列島・カムチャッカ半島南部に何故残っているのか関心もなく説明もできません。出アフリカ後、横方向に展開して世界の学者が驚く速さで第2図のオーストラリア(豪)に数十kmの海を越えて展開しましたが、気温変化の少なかったことと沿岸の移動し易さが大きな理由で、沈んだSundaland大半島が正に「人類史の補助線」として注目されます。その大半島から北上し、大陸沿岸・比~台湾東部沿岸5万年前~北東ア平野沿岸~九州・日本列島北上~カムチャッカに長期間かかって展開して行った訳ですが、確かな人骨・遺跡で線として繋がらないために学説として言えていない学会事情もあります。

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この点で我が日本列島区間は、約4万年前から3万年前までに九州から北海道まで北上展開したことが1万件を超える遺跡で導かれており、世界史上で重要なのです。そして更に今、32,000年前の北海道「日本祖人」が、カムチャッカから米臨海の沿岸を舟でアメリカ入りし得たことも人類史の大問題「最初のアメリカ人」を巡って重要であり、引き続き太平洋東沿岸を南米南端まで展開した事(MPOR説)もムリなく考えられるのです。現在発見されていなくても、諸事象から推測して太平洋西岸の北上、東岸の南下、 そしてMPOR などの「説」を考え 唱える以前に、考えるための コト・モノの新しい適切な名称を新作することに学界は余りにも慎重過ぎます。子供たちはこのような問題意識も、先達からの学説史も、世界の新説動向も何も教わっていないのです。

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従って、最近、「インド太平洋構想」とか、「自由貿易の環太平洋TPP」とか新し気に言ってますが、数万年前から先祖は既に歩んでいた流れが第2図からよく分かりますよね、温故知新。

北海道先住のコロボックル小人を巡る明治時代の論争は、文明開化後の近代日本学術の確立に向けた学問意欲の成果です。坪井教授は、白人、黒人等の人種や日本の土蜘蛛とさげすまれた人などに、人として何の区別もなく、人猿も同祖と言って真理追求に邁進しました。日本列島に人種交替などなく、最古人以来この列島で育まれた、また、人類起源地は熱帯地方、コロボックルはアメリカ先住民と関連ありなどという視野も当時として素晴らしいものです。これらの中には、現代学界が最近達した高みの事すらあります。(学問研究法の成果は略します)

清野教授の日本原人論は、 始まりに光を当てた 「最初の日本人」真理を探求された事もさることながら、実施可能な地道な研究を通じて、始まりの原(*祖)人の均質性や日本人が列島内で生成されたことの実証、また、2~3千年間という学界の歴史認識の中、列島史に数万年までの視野を持たれました。実はこの種の研究が、当時は皇室尊崇にいささかの誤解も持たれぬよう難しい状況で行われ、憎めない「コロボックル」名称は、研究のコードネームであったかのようにも感じられる良い面がありました。現代の学者が、コロボックルと聞いて相手にしないようなら余りに狭量で、今再び当時の論争に現代科学の光を当てて、成果の継承進化を図ってほしいものです。当時の先達が、刺されることも牢に入ることもなく、学者の良心に従い、慎重・地道かつ大胆に論争して真理を探求され、無論、過誤もありますが挙げられた成果の大きさに驚き、 その研究努力と論議に 敬意を表するものです。何しろ現生人類の出アフリカも、DNA分析も、黒曜石原産地特定も、太古の地域や環境の変化すらも全く知り得ず、発掘も極めての制約多い中での研究でしたから、凄いの一言です。こういう「コロボックル研究」のようなものなら、文系理系を問わず、多大な科研費投入に何の文句もありません。

さて、当時の皆さんに、北海道大学のアイヌDNA分析からの結果をお知らせしたらどういうことになるか、口角泡を想像するだに楽しくなります。現代の学者が 我らが 祖先の始まりに熱い議論もなく、さっぱり最古列島人からの先史を総合的に教えてくれず、先達の 研究の曲折や成果すら子供たちに教えないのが不満です。なお、参考にさせて頂いた三上徹也氏の「人猿同祖なり・坪井正五郎の真実」―コロボックル論とは何であったか―は、素晴らしい労作で一読をお勧めします。今、2.7万年前の石垣人遺跡の国指定という良いニュースも飛び込んで來ました。


北海道大学のDNA分析で鎌倉時代からのアイヌ(第1図)の伝承に、女性がアイヌに捕まって辱めを受けたことに怒って千島の方に去った“蕗の下の小人”コロボックル(第2図)の話があり、江戸時代から既に北海道のこの小人話はありました。

明治時代になって考古学が生まれ、札幌の竪穴遺跡などがアイヌの物ではないとして、学界でアイヌよりも先住人のコロボックル論争が起きました。アイヌの伝承を信じるかどうかでも論が分かれましたが、怒ったコロボックルが去り際にアイヌに言った呪いの言葉「トカップチ(水は枯れろ、魚は腐れの意)」が十勝の地名の由来ですから無視は出来ません。 活字だったら間違いなく学界は相手にしているでしょう。明治32年、鳥居龍蔵が「北千島を調査したが、コロボックルは居なかったし話もない」として決着し、大正時代には小説が書かれて「妙な神様が居た」と扱われ、第2図のようなことになっていってます。

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しかし、東京人は知りませんが十勝の蕗の下の人は、第3図のようなものであり、コロボックルはアイヌより少し小柄であったという話もあります。何よりも今、「最初のアメリカ人」が、第4図のように来た太平洋の沿岸を舟で来た小柄な人となってますので、入れ墨し漁労に優れ貝を食したというコロボックルは大いに注目されます。16,000年前を議論しているときに、明治後半に行ったが居なかったというのは何の不在証明にもなりません。北海道先住コロボックルに再び光を!です。

最近、最初のアメリカ人は、第1図の太平洋岸の昆布ハイウェイを舟でやって来たと定説が替わり、分岐点ジャンクションのコロンビア川地域では、アメリカ最古の石器・糞石・人骨などが注目される第2図A地区ですが、別の点でも興味深いです。米大陸は、5~4千万年前には欧州やシベリアと繋がっていて、タイガー、馬、鹿などが入ってきており、やがてはマンモスも来ています。

ところで第3図の古くから居るピューマですが、赤道付近の暑い所では小型 で、寒い所では大型というA,B,C区分のベルクマンの法則どおりです。しかし、万年前でも新しい北米の人間は高緯度のA地区でも小柄であり、言わば入って来たままで法則と違います。もっと新しい極北のイヌイットなどは熱放射を少なくする高い座高・短足という第2図の別のアレンの法則が見られます。
イヌイットよりもずっと古いA地区の人たちは、小柄で舟で入って来てますので、「日本祖人」は有力候補なのです。

上図の南米は基本的にはベルクマン法則ですが、沿岸が不明なのが興味深く、小柄であれば正に「日本祖人」などの南下でしょう。古いシベリア人が、ベルクマン法則に従っていたのか、それともアレンの法則なのかはよく分かりません。因みに、北から入って来たアイヌの伝承では、北海道に古くから居た小人が追い払われたように伝わっていて、明治時代には学会の大論争になりました。データが沢山加わった今、このアイヌの伝承の小人には、最初のアメリカ人問題で、再び光が当てられるべきでしょう。

Human migration to new American Continents might have started from Hokkaido since 30,000 BP . The route ① was along the coast of Beringia and down to south. It’s also known as the “Kelp Highway” now. Original Japanese “Nihon Sojin” families crossed Akebono sea by boat and had started life in Kyusyu, then prevailed to Japanese Archipelago by 30,000 BP from Okinawa south to Hokkaido north. Ancient Akebono sea and Bering sea should be paid attention more as cradles for Japanese and American natives. The environmental situation of those for ancient people aren’t so clear though. One for Bering sea, cold water of North Pole sea had been stopped by Beringia land bridge and connected with warm sea around Hawaii.  

オリンピックのマラソン、競歩が札幌に決定とのニュースです。実は別の話ですが、新人類展開の最後の謎と言っていい「最初のアメリカ新大陸人」問題について、Japanすなわちそれは北海道を意味しますが、8月末にはっきり活字になりました。現生人類の最初のアメリカ新大陸への移住は、大まかに①~④まで説があり、②ルート(無氷回廊)が定説でした。

今は、新大陸西沿岸ルートが有力な新説になっていますが、図の②シベリアが「アジア」となっているように、新説でも欧米はシベリアから西沿岸へという認識だろうと思います。ところが、Scienceが最新の遺跡発掘のレポートにおける 研究者の発言 として、図右のように北海道発①を意味するJapanを活字にした訳です。アフリカ・ボツワナを13~10万年前に動き出した新人類は、出アフリカ後の南方から緯度の北上を重ねて約4万年前頃に渡海し九州に、3万年前には北海道の雪と寒気に適応し、「日本祖人」は北上を続けて舟で米新大陸沿岸から進入した有力候補と考えられるのです。

次代の縄文人は16,000年前の進入に間に合わず、無論、鎌倉時代以降(北海道大学のDNA分析)のアイヌは論外です。欧米の縄文人やアイヌという誤解を解くのはもとより、子供たちに学校が何も教えない、この世界注目の問題を教える必要があります。

豪シドニー大学チームが、我々現生人類の始まりを第2図アフリカ南部のボツワナ、約20万年前と発表しました。そして、そこから拡がり出したのは13~10万年前とのことです。驚きは、今住んでいるIkuntaさんは、父祖の地に累代が住み続けたかのようなDNAであることです。さて私たちは、大方の学者が同意する約4万年前に、第1図曙海を渡って北部九州にやって来たことが始まりです。

すなわち、シドニー大チームのように1,200人のDNAを九州沿岸から、まあ歴史ある出雲までの離島を重視して主に九州内で探せば、もしかしたら“日本のIkuntaさん”が見つかるかも知れないのです。肥前国風土記は値賀島・五島列島の白水郎(あま)は隼人・鹿児島に似て、その容貌や言語は周りの人と違っていると書いて、「曙海」ほとりの古い繋がりの痕跡をうかがわせています。無論、”日本のIkuntaさん”は、実際には東京に、あるいは北海道などに居るのかも知れませんが) 参考として、①小柄で、②「日本祖人」に似た男女を選べば効率が良いでしょう。(湊川人は、縄文人には繋がらないと学者先生は言っていますが、南方系ですので参考にはなります) そして、仮に万が一、南九州・高千穂地区で見つかったりしたならば、日本中が腰を抜かすでしょう。口に綿棒を入れて皮膚をこすり取れば、簡単にDNAを採取できますので、子供たちの教育のためにも是非、科研費を有効に使って探してもらいたいものです。

オレゴン州立大チームが、コロンビア川のCooper’s Ferry 遺跡で16,000年前頃の石器などを発掘し、 「最初のアメリカ人」に関して、北太平洋沿岸の「昆布ハイウェイ」から舟で南下して来た説を裏付 け、 ハイウェイ・ジャンクションから分岐して 川を遡行した ものと発表しています。地域では、これまでに古糞石(15,800BP)や人骨(ケネウィック・マン、9千年前)などが既に発見されてよく知られています。

注目は、発見された素朴な石器で、それまでのクロービス尖頭器(14,000年前頃、下部に樋状削り)とはっきり異なる米最古型です。そしてチームには、日本の物と似ているとの意見も出ています。この古さで現生人類が此処まで来ているなら、それでなくとも舟で「昆布ハイウェイ」を来たというなら、約4万年前に南方から曙海を舟で九州北部に渡って来て、 3万年前には北海道に適応していた「日本祖人」Nihon Sojin (縄文人の先代)の自然な進入が注目されます。海民の「日本祖人」が雪と寒気に適応していた、食料豊かな千島列島の次の島が見えていた事などが日本でも教えられていないので、まだまだ縄文Jomon人かも、アイヌAinuかもという誤解した話が世界中で出ます。有力な候補ですから、日本学会が世界に発信し、議論に参加する事が求められています。

世界人類史の最後の「謎」とも言われる南北アメリカ新大陸への現生人類の移住問題は、「太平洋沿岸を舟で」が主流となっています。 コロンブスよりずっと早かったということで注目される大西洋方向からのSolutreans説もありますが、普通の学者さんは相手にしていません。さて、 ①北海道から北上か、②シベリアから東進か、③Beringiaで混合かなどであり、図の無氷回廊の開通問題やどんどん明らかになってきた遺跡の状況、特に北米16,000年前頃(最近ではアイダホ州、オレゴン州などでも)、南米チリ14,800年前頃の発見が大きいことです。

遂にネットでは、有力候補として北海道が登場していますが、日本では学校で何も本件を教えられず、世界でも縄文Jomon、アイヌAinu(北海道大学のDNA分析で鎌倉時代以降)かという誤解が根強いです。3万年前からの北海道「日本祖人」の研究と発信は、①「伊豆海峡」を舟で行き来していた、②千島列島は次々に島が見えていたことなどを踏まえて、今や日本学会の世界に対する務めなのです。学校で教えて、若い人の世界での活躍に期待しましょう。

世界人類史の最後の大きな「謎」として、「アメリカ新大陸人」問題があります。以前は第1図、シベリアのトナカイ・マンモスハンター(B)が、最寒期LGM(2万年前頃)を過ぎてからベーリング地峡を、大型動物を追って入って来たというものでしたが、近年の南北アメリカでの遺跡発掘状況と研究により、「入って来た16,000年前頃以前は、北米内陸の無氷回廊は開いていなかった(氷床のまま)ので、ベーリング地峡沿岸/昆布ハイウェイから、舟で入って来た」新説が主流となっており、第1図下図の暮らしぶり図が登場しています(ちょっと寂しい図ですが)。

1.Aの北海道「日本祖人」が北上したのか、2.Bのシベリア狩猟族が海辺の暮らしに適応した(赤矢印)のが、3.A、B両者が地峡沿岸で混じり合ったのか、いろいろ考えられます。現在の南北アメリカにおけるBのDNAの影響は強いようですし、これまでのB説イメージも依然として根強いです。そこで、「伊豆海峡」行き来が、今注目されるのです。舟を造り、海流・気象などを理解して操るのは知的レベルが高いです。しかも、数千年かけて雪と寒さの北海道の暮らしに適応しています。何故、極寒の地へ北上したのか、それは生活にとって、実は大変に豊かな海獣・鳥卵、魚と海藻が無人の地で得られたからでしょう。3万年前、北海道の暮らしに適応した「日本祖人」こそ先住民であり(アイヌは鎌倉時代以降)、もしかしたら最寒期(2.5~1.8万年前)後の暖化期ではなく、以前の暖期に入って行った可能性すら全く否定は出来ない、古い時代のその優れた海民性が、正に新説に合う有力候補なのです。

朝日新聞が、黒燿石を採取するための伊豆半島から東京都伊豆諸島の神津・恩馳島への行き来(最短約50km)(最新の原産地・年代分析に基づく)を、人類史の「謎」が眠るとして報じました(第1図)が、第2図のように黒潮分岐流を考慮し、海水面の約100m低下した当時の諸島が大島以外は陸地続きの部分が多かったことから、A,B,Cという行き来であればムリ無くできたでしょう。

諸島が晴れた日ははっきり見えていた事、行き帰りの太陽(時に御神火)、伊豆の山、北極星などの目標がはっきりしている事が大きな要因です。Aは、城ヶ崎~大島が最短の十数kmですが、漕ぐのが約5km/h、分岐流が約4km/hとすると、流されて大島に着かない場合は、房総の方に持って行かれて太平洋で漂流という悲惨なことになります(近代でも事故有り)から、もっと南の方から出発するのが良いです。Bの地域は、出来るところは海岸沿いに舟を曳いて行くと良いです、そして1泊。帰りは宝物を沢山積んで重い状況で、神子元(島)へ40数kmですが、これも流されますし変な所へ着いたら宝物を奪われるかも知れません。これらを考えると、岩礁の多い伊豆東部では、河津地区から出て帰って来るのがムリのない最良の行き来となります。しかも第3図のように、小学校の丘が目標として目立ち、居住条件も良く、今井浜は最適な発着場です。関東南部から東海地方の人々が物々交換に集まるとしても、かがり火に踊りのお祭り騒ぎにも良いです。

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そして、伊豆はずっと船材木(枯野)で、付近は3万年も前の痕跡があある陥し穴猟(三島などで発見)で、有名な地ですから丸木や動物の皮利用の舟造りにも申し分有りません。さて、伊豆の歴史ではこの河津地区が実は縄文時代の黒燿石の集散地で、なんと工房まであった事が分かっており(見高段間遺跡)、河津東小学校は、グラウンドの黒燿石を片付けないと危なくて運動も出来ない宝物だらけだった凄い所なのです。ですから、縄文先代の「日本祖代」にもその基礎があったと考えて何もおかしくはないでしょう。問題は、日本中の子供達はもとより、当の元気な「段間っ子」ですら、世界の考古学会が驚き、朝日新聞が謎という日本始まり時代の祖先(「日本祖人」)の偉業をよく教えられていない事なのです。(なお、小学校にある縄文住居の見学などは、河津町への届け出が必要です)

天下のHarvard日本人論が、最新版で「縄文人のルーツは?」を削除しました。そりゃそうです、2代目のルーツは、親である初・先代の「日本祖人」に決まっています。問題は、①成り立ちです。本や博物館が、出アフリカ後の痕跡が定かでないA、B、Cの3方向からの混じり合い図を描いてますが、時代を変えて書き添えたところで、誤りです。下図赤線Jaのように南方から「日本祖人」が「曙海」-北部九州ルートで北上して行った、約2万年に及ぶ旧石器遺跡が示す一方向性、同様性が特色です。

日本祖代、日本祖人、曙海、北東ア平野といった時代の用語なしには理解できません。そして、②「日本祖代」の長い積み重ねが大変重要なのです。2万年前頃に北、西から文化・人が渡来していますが、人は一部の出戻り含む大陸人によるあくまで渡来(アイヌは、ずっと後の鎌倉時代以降)です。この約4万年前からの古い積み重ねの特色が、周辺に同じ種族が見つからない理由なのです。「曙海」から始まった、北海道・大本州・南西諸島の同様性こそ注目すべきであり、今や「最初のアメリカ人」候補でもあるのです。

贅沢美食の殿様が、「こんな美味いものが、この世にあるのか」と言いました。同じ物を食べたとして同じ感想を言う人たちが世界にいないところが、注目すべき点です。生魚を食す日本人には、明治時代にやって来た欧米人はもとより、2千年前のシナ王朝の人たちも、「曙海」沿岸の呉越人や対岸の倭人が、入れ墨して海に潜る、魚や海藻を食すヘンな奴と書いています。森のサルの暮らしから灌木疎林のサバンナに出て肉を食すようになり、海辺で魚介類を食すようになったのは大変化です。どうも新人(アジア)は湖・川に関係深く、南アの海岸遺跡は魚介を食しただけでなく、赤色オーカーを用い、ビーズ装飾品を使う最古級の知的レベルが注目されています。

もしかしたら、環太平洋移住(MPOR)は、海辺の暮らしの南ア発かも知れず、展開移住のルート上のスリランカで、これまで学者が無いと考えて来た「熱帯雨林内での暮らし」が4.5万年前の古さで最近になって驚きとともに発見されました。そして興味深いのは、南米高地の先住民が海藻を好むことです。入手のため下山して2週間程かけて行き来していることで、海辺の民が追い立てられ逃げるように高地暮らしになって行ったのでしょう。南アの海岸からアンデスの高地まで、欧米学者さんには余り注目されませんが、今、「最初のアメリカ人」問題で注目のBeringia沿岸の「昆布ハイウェイ」だけでなく、海辺の人類史は実は世界の歴史認識上、極めて重要なのです。 陛下献上の神饌は、鰒や海藻などが大切にされた歴史です。 目黒のさんまはその痕跡です。

現生人類の出アフリカ後は南方から台湾山地沿岸Bを北上し、「曙海」を越えて北部九州Aに家族で渡海して約4万年前に始まりました。引き続き列島を北上して「日本祖人」は、3万年前には北海道にまで拡がり、今や更にアメリカ新大陸に進入した可能性が世界で注目されています。この拡がりの一方向性と島国での同様性、熟成が特色です。九州・南西諸島と当時の「北東ア平野」沿岸に囲まれた「曙海」の時計回りの移住からの発展であり、2.7万年前の日本祖人・石垣人と似たような南方系の人々が畔に居て北海道にまで拡がった、皆が親族のような始まりが、日本の特色の秘密なのです。1万件を超える旧石器遺跡が示しています。

本や博物館によっては、樺太、朝鮮半島、南西諸島の3方向から渡来して混じり合ったかのような、しかも最も可能性が高い本図のルートの無い、誤解を与える図がありますが、違います。そして、①家族で海を越えた民である事は、造舟・操舟・進取の知的レベルを示し、②曙海の畔、東南アジアに至る交流はその後も稲・鉄の伝播など大きな影響を及ぼしています。人類史の流れ、当時の地形と環境、そして新たな用語によって、4万年からの民族史を科学的に辿れることが、世界驚異の、子供たちに伝えたい日本の特色なのです。お隣さんの4,000年の歴史?ゼロが一つ違います、当方は 4万年はっきり ですよ。

米Harvard 医科大が、南米アマゾン古部族のDNAが北米やユーラシアに無くSundaland周辺地域で見つけましたが、太平洋を直路横断と“冗談”に言って終りにしました。南米は前回の海獣毛皮人も驚かしてくれますが、下図中央、主にアフリカ、日本、ニューギニアやカリブ地域などで見つかる白血病ウィルスの不思議もよく知られています。

上図左のように、日本では中央部でない所で見つかっており、縄文人からと言われています。このアフリカ―日本―南米をどう理解するかが、やはり説明がないのです。これも矢印の環太平洋移住MPOR説(祖代研究会)なら理解できます。さて、縄文人とすると、「最初のアメリカ人」問題で明らかなように、16,000年以前にアメリカ新大陸に渡って行った人たちには間に合わず、「日本祖人」がとなるのです。縄文時代なら勢いのいいシベリア狩猟族がどんどん入って拡がって居ますので消えないのも ヘンでしょう、疑問です。

また、近代になって南米には日本人が移住していますが、下図のようにこれほど広範囲に南米アマゾンなどに拡がっているのは疑問です。

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問題は今、日本では、何か古い事については縄文人と言いますが、上図右上のように父母の「日本祖人Nihon Sojin」(約4~1.5万年前)が居ますので、おかしいです。アイヌだけでなく、何でも縄文人(実は2代目)と言っているが世界に誤解を与えているのです。先頃成功した3万年前の航海も「日本祖代」の事であり、到着したときから「日本祖人」なのです。

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