今の時期の5月の雨は、また、物事を少しずつ断続的に行うさまが「五月雨(式)」と言われるものです。

左図A北米北西海岸の先住民Nativesは、内陸と全く異なる密で多種多様な言語小種族で、B特にカナダの痕跡にはっきり残されており、C現在でも沿岸30種族は確認されています。1図の①先入の沿岸ルートと②後入の無氷回廊ルートを考えれば、①沿岸は五月雨(式)Samidare進入で、②回廊は、強い狩猟族のまとまり陸続の進入であったと考えれば理解できます。というのは、昨年9月末にニューメキシコにおける子供などの足跡が2.3-2.1万年前のものと発表され、それまでのクローヴィス石器人定説をなんと万年遡らせて学界を驚かせ、ショックで今も特に「誰が」最初の米大陸人(フネで沿岸から)だったのかを考察した説は未だに出ていません(依然シベリア人か?)。更に、発表で沿岸と回廊進入の差は10-8千年という事になり、1万年もあれば沿岸から入った人々はニューメキシコのように内陸にも拡がった訳で、アメリカ東部にも回廊開通以前の遺跡が発見されて示しています。しかし、左図のように内陸の多様性が乏しいことは、後入の強い狩猟族の比較的まとまった陸続進入による沿岸拡がり種族の駆逐・吸収であったのではと考えられるわけです。

そこで次に、最初の沿岸進入に至ったベーリング地峡・ベリンジア地域の状況を考えますと、2図①米カンサスなど3大学チームは、当時(氷期)の沿岸(昆布ハイウェイ)状況、海水面の低下、沿岸地形などから海岸線付近に散在していた一時的な列島小島(Temporary Archipelago)で暮らしていた人々が、その後の温暖化の海水面上昇で島におれなくなり追われるように移動進入して行ったのが始まりだろうという説を発表しました。しかし、昨年の2.3万年前の足跡発見からベリンジア越えは氷期最寒期LGM(2.5万年前頃)の事と一応考えられることから、追われるようにではなく、一時的な列島小島をそれまで同様に開拓的に移住してきたと考えるべきでしょう。またベリンジアに関しては、②優れた広域(北千島、ユーラシア東部など)のフィールドワーカーとして有名な鳥居龍蔵が、チュコト半島のチュクチ海岸族の先人石器人オンキロン痕跡に注目したことが特筆されます。おそらく北千島人の留頓・ルートンとの関連だったのではと思われますが、問題意識が「最初のアメリカ人」であったとすれば、あの時代における驚くべき慧眼です。

右図下A既に3.8万年前から伊豆海民は、黒耀石を求めてフネで東京諸島・神津恩馳島を行き来し、B狭くなっていた津軽海峡を越えて3.5-3万年前には北海道に拡がっていました。C近年の高橋克範氏の研究で、留頓の本拠地は遺跡痕跡からむしろカムチャッカ半島南部であったと考えられ、留頓先人が北上していればオンキロン、べリンジア進入と関わってくることになります。この北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoに関する問題は、日本祖史はもとより「最初の米大陸人」問題と関わる重要なもので、これらに関する総合的な研究は、膨大なアイヌ関連予算からでも割いて投じ、世界にも貢献すべきです。因みに、人類がベリンジアをTemporary Archipelagoから入って行った状況が、「Samidare」(の進入)であったことは用語として提唱すべきです。ともかくこれらの事を子供に教え世界に発信すべきです。

図下約4万年前から祖人Proto-Japanese が列島に拡がって父母祖の歴史は繋がり、江戸幕府・松前藩の千島・樺太の領土認識は、進出して来たロシア(1711年)も「日本の島々」と認めたもの。

図上最上徳内が作成した地図の注目は明確な北千島で、留頓・第1アイヌ・コロボックル石器人は、最近の研究でカムチャッカ南部がむしろ「本拠地」と遺跡群が示しており、近年、「最初のアメリカ先住民」を研究する学者たちが提唱する北太平洋「昆布ハイウェイ沿いの北海道ルート説」と軌を一に。鎌倉時代に入って来て、保護されて女性に優しい社会に変わって行った第2アイヌは特に差別もなく、予算は留頓・第1アイヌと北海道ルート説に関して研究と遺跡の保護等にこそ投じ、世界学界に貢献すべき。

北からマンモスハンターは来なかった。図右下約4万年前に現生人類・新人が北部九州に渡海し、3.5-3万年前には沖縄から北海道にまで拡がったことは1万件を超える旧石器遺跡が示しています。

そして図右上北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoは、伊豆の海をも越えて黒耀石を求めた海民の子孫としてそこで留まった理由もなく北上を続けたと考えられます。東京帝大の鳥居龍蔵は明治~大正の北千島調査と分析から最終的には師の坪井正五郎が祖人について研究・議論するために提唱したアイヌ伝承のコロボックルこそ古い第1アイヌ・留頓ルートンで、樺太からの第2アイヌと違うという認識を記述(注:第2アイヌは得撫、77kmの新知島へは越えない)し、近年、北大の高瀬克範はカムチャッカ南部の遺跡研究から、むしろ北千島アイヌ(留頓)の本拠地はアムチャッカ側にあったとの認識を記述していますが、このことは、古い時代には更にカムチャッカ北部に居てカムチャダールの進出で圧迫されて最南端のロパトカ岬に後退してきたことをうかがわせます。他方、「最初のアメリカ先住民」研究の米学者は、北米大陸が厚い氷床で覆われている時代の遺跡(1.6万年前級)が処々に、また、その時代の南米チリにすら遺跡が発見され、北太平洋沿岸の食豊かな「昆布ハイウェイ」からフネで南下して来たと考えるようになり、「北海道ルート説」を唱える複数の学者が現れました。昨年9月末のニューメキシコにおける驚きの2.3万年前の足跡発見は、それまでの進入定説を数千年遡らせる氷期最寒期(LGM)にというもので説を補強、「誰が」来たのかはまだ米学者から定説化に至る論が出ていません。

さて今回、巷間の北海道史年表に強い疑問を抱いた中村恵子氏(北大)が、本来は中軸として記述されるべき幕府の松前藩・東北諸藩の行動とアイヌ配意の対応などに光を当てて歪められた北海道史を正す労作を発表されましたが、やって来たロシアも「日本の島々」と認識していました。このことによって、祖人から、坪井正五郎の本州同様のコロボックル石器(縄文)人時代、古代・中世の倭人・擦文人・蝦夷人(鳥居龍蔵命名の第2アイヌ含む)、近世の幕府・藩人
(第2アイヌ含む) 、そして北海道人と呼ばれる一連の歴史が理解できます。この間、樺太の方から2万年前頃の細石刃文化の影響が言われ、最寄人、アイヌの進入がありますが、征服や民族の大移動などは確認されません。年表には近世「「松前時代」を。子供に教え、世界に発信、更なる研究とウポポイ館を充実の北海道北海道記念館に改装を。

3世紀に内陸盆地出身で図の「曙海」のほとり地域はよく知らない①陳寿(233-297年)が、魏略というタネ本、呉は敵、東西南北の周辺国は野蛮格下、海民のヘンな習俗紹介などを基礎に、得られた諸資料から広大な周辺地域の意義づけ扱いバランスも考えて魏国史を描いた、断片的な事実を含む創「象」で、歴史書というより神話的と称すべきもの。

従って、邪馬台国・卑弥呼などそれらしい似た存在はあり得ても、北部九州と畿内(それ以外にも無数)に所在説が分かれ、依然として実証できないことで分かるように見つかりません。現在の教科書の採り挙げ方は史実かの如く誤解させるもので、日本書紀・古事記の扱いに比し不当です。但し、図右下の約4万年前頃の列島史の始まり「祖代」の状況である現生人類の出アフリカ後の東進北上による移住史を下敷きにすれば、魏志倭人伝の時代でもキーワード「曙海のほとり」の暮らしの痕跡や諸国の関係性が感じられることが重要です。そもそも沿岸の呉(越)と内陸の魏との南船北馬と評される違いと対立、狗邪韓国の倭性、②五島地域人と隼人が付近の人々とは違っているのに「類縁性」がある事、③侏儒国は北海道のコロボックル同様に原初的な民と考えられる表現であり、邪馬台国・卑弥呼、黒歯国などは根も葉もないものではありませんし、台湾山地沿岸人と倭人の最近のDNA類縁性の分析と符合しています。実は新しがりのインド太平洋構想などもその線上の温故知新です。子供に教え、世界に発信を。更なる研究予算の投入を。

確かに今や「縄文Jomon文明」と言われるほどの文化的に素晴らしい種々の遺跡・遺物が発見され、実証性の面でも縄文時代の事柄が多く明らかになってきましたので理解できます。

しかし、①最近のDNA分析で南方から(Kae Koganebuchi 東京大:台湾先住民のDNAと縄文人のものの類似性)であることが明らかになり、サルではない祖先主対象である現生人類・新人は、陸続きではなかった春は「曙」、始まりの海を家族で渡海して祖人Proto-Japanese が列島に拡がったこともはっきりで、沖縄・石垣島で2.7年前のモンゴロイド化以前の南方系人骨が発見されているなどの実証性もあります。特に②黒耀石を採取に海を渡って、38,000年も前から東京諸島に求め、物々交換し、広域の遊動暮らしや陥し穴猟や社会性ある集団キャンプや世界的に1万年も早い磨製石器など考古学界の注目です。そして、③近年の世界的な「最初のアメリカ人」論議(2.3万年前に米国ニューメキシコに足跡)で、北海道から北上を継続し、北太平洋沿岸の「昆布ハイウェイ」から入って行ったと考える北海道ルート説が登場しているのです。

➃祖代末期の静岡・浜北人骨は縄文人に似ており、各地の遺跡・遺物も祖代から縄文にムリなく繋がっているとみられる上に、祖代における大規模な人の流入や入れ替えは、遺跡やDNAの分析でも確認されておらず、少数の五月雨の渡来と考えられているのです。

従って、「私たちの祖先は縄文人である」は、誤解を招く表現であり、ましてや「縄文人はどこから?」は、2代目ですから日本列島に決まっている誤りの愚問です。あたかも江戸人が、明治維新でザンギリ頭に背広を着て、すき焼肉を食べようと、一皮めくれば江戸人であることと同じようなものなのに、余りにも縄文、縄文、Jomonで、これは米国の「2.3万年前の足跡」問題に参加できなくさせていることや酷いのは鎌倉時代のAinuの誤解が世界の学界や動画で登場するのが大問題なのです。そして、2代目のJomonは、初めて青森で発見された土器の16,500年前からなのか、定住や弓矢や土器が拡がった1.5-1.3万年前からなのか、というだけの事なのです。因みに、青森・最古土器は、祖代文化を基礎に東・西・北が融合した先進地域で温暖化の環境変化と共に生まれた産物と解釈出来る、それはそれで意義深い事です。子供に教え、世界に発信することが求められています。

北千島のアイヌ、正しい認識は「留頓・Routon」(第1アイヌ、コロボックル石器人)の本拠地はカムチャッカで、「最初のアメリカ人」への玄関口ベリンジア沿岸まであと1歩!です。

右図Ancient Geographic4月22日最新動画の「最初のアメリカ人」に係るインドネシア~フィリピン~日本~昆布Highwayでカリフォルニア・チャネルアイランド説は、オレゴン大Jon Erlandson提唱のCoastal, Kelp Highway 移住説が基本となっています。これに東京大-Kae KoganebuchiさんのDNA分析による台湾先住民~約4万年前に日本列島へ渡海(北部九州)した最初の「祖人」Proto-Japanese ~縄文人(渥美半島)の繋がりという、台湾が加わって説は補強されます。そして、アメリカへの出発地となる北海道に関しては、北海道大の高瀬さんが、②北千島アイヌ、正しい認識としては遊動海民の「留頓ルートンRouton」(鳥居龍蔵は、樺太から鎌倉時代に入って来た第2アイヌと対比し第1アイヌと命名)・コロボックル石器人(坪井正五郎命名)が、その遺跡・遺物から実は本拠地は南カムチャッカであるとの認識を示し(2019 年度 地域の文化財普及啓発フォーラム 北海道の古代集落遺跡)ています。

この事は、1.さらに北上していれば、アメリカへの玄関口ベリンジアに問題なく沿岸から達するもので、2.その後の新たな東進シベリア勢力の圧迫によって、ロパトカ岬、北千島にまで南下後退させられた可能性をうかがわせる注目すべき痕跡です。更にこの地域では、③函館西方の知内町の遺跡(2万年前)の墓の副葬品とカムチャッカ半島のウシュキ遺跡(1.3万年前、石器はアラスカの物と類似)の物が類似であると言われてますが、道東を経由してムリなくつながりが理解できる痕跡で、②③から、函館~道東~北千島~カムウチャッカ沿岸~ベリンジアの北海道ルートが想定されるものです。子供に教え、世界に発信すべき痕跡を踏まえた説となります。アイヌに対する現下の膨大な予算(年度末に使いきれず)から、本関連研究に振り向けるべきです。


昨日4.22動画登場。①昨年9月末、米国ニューメキシコ・ホワイトサンズで子供や絶滅大型獣の足跡が発見され、「最初のアメリカ人」定説を数千年遡らせると騒ぎに。

②当時は陸地続きだったベーリング地峡を越えて「いつ」やって来たのか?となり、足跡の状況、絶滅獣が示す古さ、何よりも安定の地層の上下に存在する植物の種子のDNA分析などが全て示す「足跡は2.3-2.1万年前」となって、半年を経て遂に③定説で教科書説明の無氷回廊から入って来て(モンタナ州子供人骨)拡がったクロービス人(13,500年前)より前に、ニューメキシコへは沿岸ルートが早く該当するとなり、カリフォルニア州チャネル・アイランドの13,500年前の人骨が注目され、クロービス人が石器を投げ捨てて高度な舟と釣針の海民暮らしになったとはとても思われず、アラスカから北西海岸を南下して来たという事に。

そして、➃釣り針の最古は日本で、そもそもインドネシアでは数万年前に豪州に向け舟・筏で渡海(約90km)しているし、既に舟で出て外洋魚を獲り食している痕跡骨が見つかっている。Kelp Highway(昆布ハイウェイ)は、魚はもとより海獣・鳥、貝、海藻、の食豊かなルートで適しており、図で先頭に書かれているJapanは約4万年前から1万件を超える旧石器遺跡に支えられ、フネでの北部九州への渡海始まりや伊豆の海を行き来の海民で、出発地である北海道・北千島「留頓」ルートンの海民暮らしが知られています。今もって北海道から出て行かない学界は周回遅れです。

世界の動向を子供に教え、研究予算を投じて世界の歴史界に貢献を。

今注目の北海道史の熱い論議が、新しい第3番目・世代の石器とも言われていた小指の爪先ほどの細石刃の謎をめぐって行われています。

祖代末期、土器出現(縄文時代草創)の前頃に登場したと考えられていた細石刃は、図左2.5万年前の氷河期中の道央千歳(柏台遺跡)で発見され最古とみられています。学界一般では大陸の中国北部やシベリア南部バイカル湖地域発と言われていますが、千歳の物はそれに近い時期で、かつ右図祖代のメイン青ルートである道内最古遺跡の帯広や黒耀石日本一の白滝に最古級の発見が無いため、左図樺太から日本海側の沿岸を南下したとすれば、旧石器遺跡の発見が無いのです。通常、考古学論議では先生方は発見が無いからと新説を認めませんが、この細石刃については、大陸~樺太南下の伝搬説を教科書でも採りあげ、北海道史でほとんどが記述(しかし、確認されているのは、紀元数世紀後のオホーツク・モヨロ人、鎌倉時代からのアイヌ)しています。

他に考えられるのは図左B道央の広大な低地帯の千歳で(小石刃から発展)生まれた(青森の最古土器のように)、または最近発見された長野・香坂山遺跡では3.7万年前の小石刃が発見されてますので、本州発(大陸から 朝鮮 半島を経て九州への伝播は、半島と九州の石器組成の比較などの状況から疑問視されてます)で、北上し変化していった伝播やC白滝や帯広などの細石刃から未だ最古が発見されていないというものです。いずれにしろ、北海道の始まり時代の大きい重要な問題ですので、(アイヌに対する膨大な予算から)発掘・研究等の予算を捻出して、各地の遺跡や細石刃石器の年代測定などを行うべきです。北海道史の重要事項の解明を、子供と世界が待っています。

左図、3.8万年前から伊豆の海をフネで行き来して良質な東京諸島・恩馳島原産地の黒耀石を採取し、広域で交換して活用していた祖人は、更に最新の発見で高地の長野・香坂山において、おそらく八ヶ岳~和田峠地区原産地の黒耀石を使用し、また最新の香坂山の発掘で、3.7万年前から、高度で多様な石器を使用して遊動暮らしをしていたことが分かってきました。

北上した祖人は東北における暮らしから北海道の降雪寒冷地暮らしに適応し、右図、遂に白滝の大黒耀石原産地を発見しましたが、青森~函館~千歳~十勝~オホーツク沿岸と暮らしが拡がっていけば、フネで神津島黒耀石を探し出した祖人ですから、いずれは発見されるものでした。その後の白滝産の拡がりは驚くべき広域さで、その質量の豊かさを示すものです。ここで注目すべきは、列島中央部の賑わいで情報交換して長野・香坂山で発見された高度で豊かな石器を有していた祖人は、樺太の白滝産痕跡から、北海道でとどまることなく北上していた可能性をうかがわせます。大陸北からマンモス・ハンターが南下して来た痕跡は無く、約4~3万年前頃の始まり時代の当時としては、ユーラシア東部におけるこの世界がうらやむ豊かな黒耀石の原産地と環境でした。傑出した日本列島中央部の高度で密な文化というエンジンを基礎に、北に拡がっていった祖人が北海道で留まる理由もなく、北上をず~っと継続して行ったと考えるべきでしょう。巷間の北海道史は、根本的に見直されるべきです。

祖代の列島中央部では(赤枠)、対馬のように太平洋側沿岸の暮らしの痕跡は海面上昇で今は海中に消え、日本海側も大雪が降りませんでしたので、沿岸の暮らしがあったとみられますが同様です。

しかし、沖縄から北海道にまで祖人の暮らしが拡がった3万年前頃、列島陸上中央部の賑わいは、東京諸島の神津・恩馳島(38,000年前から)や豊富な八ヶ岳地区の黒耀石の採取・交易、野尻湖におけるナウマン象や大角鹿と種々の旧石・骨・木器等の痕跡は「野尻湖文化」と言われ、最近発見された長野・香坂山遺跡(3.7万年前~)の認知力が高い多様な石器群、陥し穴猟は鉄のスコップの無い時代に1m以上の穴を60基(三島市)も掘って動物を獲る知恵と社会性(時代は別にして九州や北海道でも)を示し、広域の遊動暮らしの中ではアメリカ先住民Nativeインディアンかと思わせる佐野などの環状キャンプがみられ、何よりも既に上越北陸(新)幹線が通っているような、太平洋側~日本海側が連接された列島中央部の人々の暮らしの賑わいは、現代の状況を思わせるものです。それらの事は、狭くなっていた津軽海峡を越えて北海道の暮らしに適応し、留まる理由もなく北上を継続してやがては「最初のアメリカ人」関りか? 

そして注目は、縄文的な静岡・浜北人骨(祖代末期)であり、祖代から縄文時代へと切れ目なく繋がりバトンタッチしていることを示す重要な痕跡で、祖人が今や「縄文文明」と言われるに至った豊かな種々の文化の基礎を作ったこと示しています。巷間本にみられる「日本人の祖先は縄文Jomon人」ではなく祖人Proto-Japanese, Sojin,であり、「縄文人はどこから?」は全くの愚問であって、祖人の子である2代目縄文人は日本列島に決まっています。あまりに子のJomonが有名で世界に誤解を与えており、また、事象がバラバラに教えられて分かりにくいですが、3万年前頃がこれだけ分かって描ける国はそうそうなく、約4万年前の「曙海峡」越えの始まりから、今や「最初のアメリカ人」関り?が注目なのです。総括的に祖先の素晴らしい状況を教えない学校はあまりに頑なというより怠慢です。世界にも発信を。


学期・年度が桜で始まる 春は曙。島国であることから、世界が驚く約4万年前(殆どの考古学者が同意)の「祖代」から概略明らかな日本の歴史。その頃の人骨が見つかっていない事から教科書がしっかり採り挙げていませんが、1万件超えの旧石器遺跡は十分に概要を明らかにしています。今後、サルと我々の中間の「旧人」(デニソワ人、ネアンデルタール人)の石器などの痕跡が仮に見つかっても対象外なのです。

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現生人類・新人の家族が「曙海峡」をフネ・筏で北部九州に渡って来た沿岸暮らしの痕跡発見は3.8万年前から急激に増え始め、3万年前には祖人Proto-Japanese は沖縄から北海道にまで拡がりました。なお、祖代や縄文時代の人口推計が出ていますが、少ない数字は海面上昇で痕跡が消えた沿岸暮らしの人々をカウントしているのだろうかと疑問です。当時、朝鮮半島は無く「北東亜平野」沿岸から「曙海峡」越えの始まりの渡海(巷間本の多くが朝鮮半島からと記述しているのは、誤り) です。 海峡は最低期でも幅10-15km、4万年前頃は30-40kmでしたでしょう(見えた対馬は島ではなかったのです)。 海峡越えのための造舟・操舟・工具の操作や気象・海象の状況、食料・水を積んでの渡海等の理解が、①各家族毎か、②大井川の渡しのような専門集団の社会性か、いずれにしろ大昔のこのような祖人の認知力から、 その後の伊豆の海越えは約17km先の大島が見えていて「謎」ではなく(海面低下で諸島の陸地が増して連なり、 出来る所ではフネを綱で引いて海岸を歩けば漕がずに楽に移動)、 恵まれた 黒耀石と広大な平地がある関東・甲信越の連接と拡がりに繋がっています。また、祖代の考古学上の数々の注目すべき最古の事象が生み出された始まりの時代は、教科書がさらっと記述している槍を持った「原始人」ではなかった事が重要なのです。因みに新人は、ニューギニア・オーストラリアへ、5-6万年前頃には、約90kmを渡海していたと世界の考古学界では認識されていますが、当時の東南アジアの半島大陸地で過半が沈んでいるスンダランドから東進した種族です。日本祖人は、このスンダランド種族の子孫系統でしょう。

始まり時代の九州の暮らしをよく見ると、石器の組成は多様であり、適した素材を求めて遠距離を移動していたことも半島の遺跡とは異なり、その後の関東・甲信越の賑やかさに繋がります。振り返れば、対馬(島でない!)や大島がはっきり大きく見えたこと、九州腰岳、列島中央の八ヶ岳地域や北海道白滝など各地で当時の宝物の黒耀石が採取できたこと、日本海側に大雪が降らなかった、北に昆布ハイウェイがあり、ハワイに繋がる太平洋に面していたことなども幸い(火山、地震、津波がありますが) でした。 そして、渡海と遊動の民の子孫である北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoは、人類の移住特性からも北海道で停止した理由はなく(プーチンもおらず)北上し続けたものと考えられますが、巷間本に全くこの事の記述がみられないことは異常です。既にアメリカの複数学者が、「最初のアメリカ人・Nativeインディアン」問題で、Kelp Highway/昆布ハイウェイからの北海道ルート新説を唱えているのにです。祖代・祖人について、これだけ明らかなのですから、よく分かっていないからなどと言い訳で逃げずに、子供に教え世界に発信せねばなりません。

内外で今、注目の北海道史ですが、約4万年前の北部九州から青森を北上した祖人の拡がりの3.5-3万年前が始まりです。

①最初のアメリカ人問題において、昨年9月ニュー・メキシコでの2.3万年前の足跡の発見は、北海道ルート新説を強め、その時代には縄文人は登場しておらず北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの北上Aが対象であり基本ですので、学界は速やかに対応を。日本一の白滝・黒耀石が樺太や沿海州で発見されているのも祖人の樺太以北への進出を示しているとも考えられます。また、北上Aの痕跡は、坪井正五郎・鳥居龍蔵研究のαの子孫で石器人の暮らしぶりの第1アイヌ・ルートン・コロボックル②③と➃同様のオンキロン海岸族です。誤解の多い巷間の大陸ルートは、痕跡の無い事と人類移住史からマンモスハンターは来ておらず、せいぜい2万年前頃からの中小中小動物を主に狩猟する細石器文化の伝来 B ですが、礼文島縄文女性が沿岸A系とみられ、大陸狩猟族の流入は大量ではなかったでしょう。それは温暖化に向かう時代でもり、巷間言われている氷河期の寒さを逃れて大量に南下という説明も疑問です。

これらの事とは全く別の話の鎌倉時代に大陸要素を含む第2アイヌabが進入して来た当時に、先住民A系のコロボックル遺跡が札幌~北方領土・北千島にまで広く有りました(坪井・鳥居)ので、北海道に南下した第2アイヌは豪アボリジニや米国のNativeインディアンとは全く状況が違います。先住民族だとか縄文人直系だとかいうのは世界に誤解を与える誤りです。今、「最初のアメリカ人」問題が世界の注目であり、ロシアが言いがかりをする時代ですから、正しい北海道史を子供に教え世界に発信せねばなりません。

①明治黎明期の東京帝大を主とする用語を工夫した歴史・人類学上の大論争「コロボックル」問題、実は 残念な行き違いがあって、日本列島における石器人分布図まで作成に至っていた提唱者である坪井教授の死去などにより、論敵に敗れる形で学問的には立ち消えとなりました。

②その後大正時代に、一寸法師にも比すべき「小人」性の可愛いらしさから、おとぎ話として復活して一般に広まり、現在の清瀬市の「ころぽっくる」や世間に種々見られるものもこの流れのものです。その陰で、明治17年の北千島調査では、「現地でコロボックルは確認できなかった」(これが否定の論拠)とした東京帝大助教授のフィールドワーカー鳥居龍蔵は、①各地を調査した研究と、北千島調査の際に助手にした老千島人が色丹などでコロボックル話を聞いており「バカにするな」と言っていること(ころぼっくるは、アイヌによる小人を小ばかにした話なので、言われている当人たちが知らないのは当然と思い至ったのでしょうか)から、遂に大正6年には、コロボックルとは北海道先住で北千島の第1アイヌ(ルートン)との認識に至り、雑誌論文に記述していたのです。人類アフリカ発もDNAも現在の人類史認識も知らない明治・大正時代に、先達は無論誤りもありますが、世界に誇るべき素晴らしい研究成果です。

今、世界の歴史学会は、③昨年9月末の米国ニュー・メキシコにおける23,000年前の子供などの足跡の発見・発表で、世界人類史最後の謎「アメリカ新大陸進入問題」・「最初のアメリカ人」First Americansの到来は、数千年遡り騒ぎですが、既にある北太平洋沿岸進入説はこのことで定説化が強まり、それに伴って複数学者がすでに発表していた北海道ルート新説に光が当たります。そうなれば樺太から鎌倉時代に入って来た(北海道大学のDNA分析)第2アイヌに追われた形( ①図で引き込まれ泣いている女性が辱めを受けたので激怒して)で去った、先住の小人コロボックルは、北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの子孫で痕跡はっきりの石器人であり、注目です。渋谷新市長は、この歴史を掘り起こして子供や大人にも教え、歴史の真実を清瀬市から世界に発信して欲しいものです。

現生人類は、30-20万年前にアフリカで誕生し、10万年前頃からの出アフリカが正にエポックメイキングで、東に北に西にと世界に拡がりました。そして今、最後の謎とも言うべきアメリカ新大陸に、「誰が、何処から、どのように、いつ頃」入って行ったのかが議論されています。

それまでは、「シベリア狩猟族(マンモスハンター)が、ベーリング地峡からマンモスを追ってアラスカに入り、無氷回廊 (カナダ~北米)が開通した(1.4万年前)頃に米国本土に入って来たというモノでしたが、南米チリでそれより古いモンテ・ヴェルデ遺跡が、多くの学者を招いた現地調査で認められ、図右①先駆者アーランドソンの沿岸・昆布ハイウェイ進入説に光が当たるようになりました。更に米本土で1.6万年前級の遺跡の発見もあり、丁度氷河期が終わり温暖化した1.7万年前頃に入って来たというようになり、北海道ルート新説も複数の学者が動画で言い出しています。そこに、昨年9月のニューメキシコにおける2.3万年前頃の子供たちの足跡発見で、時期が数千年早まる衝撃が加わって、「誰が、何処から、どのように、いつ頃、」入って行ったのかを統一的に説明したものは未だ出ていない状況にあります。大勢は、なんとなくまだシベリア狩猟族をイメージしているのかもしれません。何しろ、海水面の数十m上昇で沿岸痕跡は海中ですし、2.3万年前に入って来るなら氷河期の最盛期の寒さの中の移住となりそうですから、学界の静けさも理解できます。残念ながら、新たな試みの海中探査や沿岸の調査から未だ突破口は開かれていません。

②そういう状況で温故知新、東京帝大助教授の鳥居龍蔵の現地調査と各国の千島・カムチャッカ・チュコトの研究資料研究は、当時として慧眼の深堀りがされており注目に値します。海民というべき北千島アイヌ・ルートン・チュプカ(人々の呼称は種々)は、明らかに北海道アイヌと違った「余程古い」石器人暮らしで、カムチャッカ半島南端部のクリル湖地域にまで進出していた事は、カムチャッカ人と争いのあったこと、特に③オホーツク正面の地名がルートン語であることからも分かります。そこに至ってたならば、アメリカ沿岸進入において直接的に注目される➃シベリア東端のチュコト人伝承の古い先住石器人であるオンキロン海岸族(図の青、赤、黒の考えられるルート)との関連が注目されますが、⑤北海道祖人の古さに比し、大陸~樺太の南下ルートからは、1万数千年前からの細石器文化の進入ですし、チュコトで確認されているのは海岸族から陸上内陸だが沿岸に近い狩猟族への転換変化という逆の流れから黒ではなく、青または赤となりますが、北極海赤ルートの氷河期移住は困難だったと考えられ(チュコト地域の遺跡は温暖化後の1.5万年前頃から)、青の沿岸北上ルートの可能性が高いでしょう。

いずれにしろ辿り得るこれらの残された痕跡からは、北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoが北上したカムチャッカ進出は考えられても、ニューメキシコに2.3万年前に到達する2.5万年前頃の時代に、カムチャッカ半島から海を越えての南下、樺太から狩猟族が北海道に進入したとは考えにくく、むしろ逆に出北海道の方が説として導かれます。 学界に、出北海道説が見られないのは学問的に誠に不思議な事です。理論上として、子供に教え世界に発信すべきです。

東京大の海部教授は、①4万年前からの遺跡の急増から渡海仮説を提唱、学界大勢に異論なし。仮に、5万年前が見つかれば修正も、10万年であれば、大ニュースになるとしても実は現生人類とは無縁の旧人です。

②歴史研究家の小名木氏は、神話の分析から北東亜平野、蛭湖(曙海)に着目です。実は最寒冷の2万年前と祖人始まりの4万年前では、北東ア平野の海岸線はかなり異なりますが。③古荘氏は、海部説に加えて38,000年前の静岡(恩馳島原産)の黒耀石採取に注目しており、これら3者は祖代研究会と軌を一にしています。重要なことは➃曙海を家族で北部九州に渡海して来た祖人Proto-Japaneseは、北東ア平野の沿岸を北上と考えられますが、仮に内陸を北上して来たとしても「モンゴロイド化」していなかったので、祖人例(石垣島祖人:2.7万年前)とあまり違わないと考えられるのです。また、黒耀石採取の38,000年前からの伊豆の海越えは、「謎」と報じた新聞もありますが、分析すれば20km渡海であり、始まりの30-40km越えの北部九州への家族渡海より容易でした。世界に例のない列島1万件を超える旧石器遺跡の分析により、沖縄~北海道までの拡がり、特に関東・東海、甲信越の充実などが分かります。

⑤コロボックルの語を使用して祖史の石器人を追求して分布図を描いた東京帝大の坪井教授、北千島のルートン (第1アイヌ・実はアイヌではない)がよほど古いことに着目し、シベリア最東部海岸族オンキロンに着目した鳥居助教授の仕事は、驚きの素晴らしい先行研究でした。今、米国では「最初のアメリカ人」研究において北海道ルート仮説が複数学舎から提唱されており、昨年9月末の23,000年前のニュー・メキシコにおける子供などの足跡の最新の発見は、ベリンジア陸路越えマンモスハンター進入の定説をはっきり覆し、沿岸・昆布ハイウェイ説を定説化していますので、遂に、曙海の北部九州への渡海から北海道祖人(PJH,Proto-Japanese Hokkaido)の渡米まで仮説が繋がりました。周回遅れの学校は、子供・学生に仮説の状況を教え、世界に発信せねばなりません。

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