日本人は何処から?3方向渡来図の出発地(赤丸)がおかしく、B1地域とちゃんと描くべきです(Aからなら意味なし)。ところがここで、ジンギスカンにびっくりした欧米学者の誤りは、AとB1を同じ「古モンゴロイド」と呼んでいることです。

本来、B1がその後、降雪寒冷に適応して体が変化した(平たい顔、細い目、貧毛、短足・手など)人たちをモンゴロイド(B2)と呼ぶべきなのです。このB1とは何かが、出アフリカ後に何処をどう来たのか、どのくらいの量か、どんな変化か、混じり合いと時代の差もあり、「訳分かりません」。そして、3方向からの人たちを混ぜ合わせたらどんな人たちになるのか、これも図を入口で止めているので「訳分かりません」。つまり、単一民族ではないと言いたいだけの印象操作図ですから学問足り得ません。決定的なのは、DNAもさることながら3方向を描くなら重要となる言語であり、AとB1は万年を遡って違うのです。それはA環太平洋語族とB1内陸の諸語族の違いなのです(次回)。

日本人は何処から、誰?は、約4万年前から始まり3万年前には列島中に拡がった Aの西太平洋沿岸族の北上を基本に、後でいろいろに渡来した者たちなのです。重要なことは、いろいろ渡来して混じり合っても言葉の基本、文化習俗に共通性の幹があることなのです。言葉の基本を変えるような大量の人の流入や征服は無かったのです。違いは地域の特性に応じた暮らしぶりと方言なのです。


前回は世界人類史の北上(第2図)でしたが、何故、アフリカを出た黒人が北海道にまで至ったのかは、幾つかの幸運のお蔭でした。第1図、注目は仙台以北の狩りが容易な海獣・鳥・卵の食と衣・住への活用の幸運です。北海道という寒さに適応する訓練が出来ていた上、更に昆布ハイウェイがあり豊かな海藻が加わりました。

当時は対馬暖流が無く、日本海側に大雪が降らず、各地に点在した宝物の黒耀石が長野でも採れて太平洋側と日本海側が繫がり列島2軸並行発展と文化融合がありました。北海道でも宝物石が豊かに採れた事も幸運でした。神津・恩馳島に良質な物が有ったので、海洋を舟で行き来したのも大変な造舟操舟のノウハウ向上でした。それでも北部九州から北海道まで行きつ戻りつし、厳しい寒さに適応するまでに1万年というじっくりの長さを要しています。3万年前、沖縄へはトカラ越えが大変だったのでしょう。北海道から更に北上を続け、米新大陸に向かったと考えられます。

そして更に、1万数千年後に温暖化に伴う煮炊き保管の土器が生まれ、学者によってはこの時期から縄文時代と呼んでいますが、当然、前後で人に違いは有りません(江戸人と明治人)。ここで、青森は注目です。太平洋側と日本海側の東西、東北と北海道の南北文化がクロスした十字路ですから先進性が生まれて納得で、三内丸山、遮光土偶と日本文化をリードします。2.9万年前の先進鹿児島を襲った姶良大噴火が大変残念でした。

「因みに、出アフリカ黒人が東南アジア・Sundalandで変化したのは「インマレイド」人種(仮称)で、北上して日本列島に来ています。日本列島でなく南シベリア・モンゴル地域へ、あるいは出アフリカから直北上して同地域に至り、「降雪寒冷適応」を果たして変化した人を「モンゴロイド」と言うべきです。従って、モンゴロイドが日本列島に来るのは、実はずっと後の事(せいぜい2万年前)なのです。現在の新旧モンゴロイドという言い方は、ジンギスカンにびっくりさせられた欧米学者のアジア人に対する大雑把な呼称で、誤りです。

  

巷間本・博物館の第1図3方向渡来図は、日本列島に入るばかりで出て行かないので、鎖国のようで世界人類史研究には何の寄与もありません。実際は南方からの北上の一方向性が1万件の旧石器遺跡で示されているのにです。

北海道ルートは、書かれている時代に沿海州にも樺太にも遺跡の発見は有りません。それよりも北上した遺跡が3万年前から十勝、千歳、2.8万年ですが遠軽白滝にあるのです。対馬ルートは、あたかも大陸の内部から来たかのようですが、実際は沿岸からの北上で、時期も38,000年前は既に伊豆の海を行き来していますので、約4万年前とするのが正確なのです。沖縄ルートは、九州からの南下なのです。先島が、慶良間ギャップ越えか、台湾からか議論となります。移住は、女性や老人・子供を伴うものですし、台湾の学者は、黒潮を越えては行かなかっただろうと言っています。それは、危険に比して食料などの魅力が不十分だからです。このようにおかしい誤解を招く図が描かれ、世界への寄与も阻害されているのです。

むしろ、欧米学者の説を取り上げた第2図、緑線は日本列島を通って17,000年前頃に渡米しています。その理由は、米大陸が氷床に閉ざされている時代に、同等以上に古い遺跡が米本土のみならず南米で発見されているからです。但し、細かい点で地域への理解が不十分です。①出発は大陸内陸からでなく、パンカル海の沿岸族の北上です。②家族の慶良間ギャップ越えは無理で、沿岸から北部九州に至り日本列島を北上したものです。③アッツギャップは、450kmもあり家族の渡海はムリでしたでしょう。④DNA専門家は、ベーリング地峡で、沿岸氷床の融けを待った“滞留”があったと考えています。北海道「日本祖人」A,シベリア狩猟族Bが共存した事でしょう。

以上から、昆布ハイウェイを行った「最初のアメリカ人」Xは, A, B, A+B, 混ざって変異したCなどが考えられますが、誤りの多い第1図3方向渡来図は、全くこの議論に参加できず寄与しない事が最大の問題なのです。


人類が円環を認知し、造形に至った遺跡は重要です。欧米ではストーンヘンジが有名で、狩猟採集時代から農耕定住時代になってからのことと言われてきました。ところが近年、トルコで世界驚きのギョベクリ・テぺ(12,000年前頃~)が発見され、狩猟採集時代にこれほどの建造物が有ったことが分かっただけでなく、造形が円環なのです。

さて、それらとは、建造の程度で全く比較にはなりませんが、普通に見えて驚きも無い佐野上林(かんばやし)の「日本祖人」の環状ムラは、人類の認知性史、社会史に着目した場合、驚きの古さの痕跡(3万年前)なのです。日本には、秋田大湯の縄文環状列石が精神性を示す物として有名です。日本祖代では、①伊豆の海を舟で行き来した、②環状ムラで暮らした、③動物の習性を知って陥し穴を多数作って猟をした、④釣り針で魚を取った、おそらく⑤北の海で海獣を食したなどは、世界人類史に記述される誇るべきものであり、決して教科書に名前の無い原始人では有りませんでした。


此処は遠きブルガ~リア、欧州最古の現生人類史は、若干遡って4.6万年前から(May 11 in Nature)になりましたが、依然としてアジアの台湾や豪州に遠く及びません。ボスポラス海峡は狭く歩いて渡れるくらいで、実は、出アフリカ後のブルガリアは遠くありませんから不思議です。

どうも欧米先生は、先に居たネアンデルタール旧人研究好きで、埋葬のお花があったとか、現生人と交雑があったとかで騒ぎますが、彼らは無縁です。肝心のアフリカの黒人が、どのように欧州人になったのかの足取りがはっきりしません。これだけ時代差があるとインド人が戻って行った可能性も排除できないでしょう。同様に中国先生も北京原人や旧人好きですが、進化して中国人になったとするのは学問的にはっきりムリであり、いつ頃、何処からの出自はよく分からず、目立たなくしているピラミッドや青い目のミイラの分析の方が重要でしょう。という訳で、肝心の自分たちの始まり時代は余り世界が研究熱心でないからでしょうか、日本の教室がこの程度の事も教えないのが、誠に困ったものです。


第1図と第2図の違いが分からない日本人説明が権威を持って出回っていますが、間違いです。

第1図、北上した西太平洋沿岸族である「日本祖人」が1万数千年以上の暮らしを作り上げた基礎の上に、複合大陸族が北、西、南から時代も人数も様々に渡来したものです。第2図、時代も新しく中身も異にする複合甲、乙、丙が混ざり合って出来上がったものとは文化習俗が違います。食べ物で言えば、胃に入れば似たようなものですが、ご飯、刺身とサイコロステーキ、味噌汁を一つ一つ味わうのと、どんぶりにこれらをすべて入れて混ぜて食べるのは、味わいという文化習俗の違いと言えば、まあ例になるでしょう。「日本人とは?」、猫飯ではありません。出アフリカの現生人類は皆同じようなものですが、日本人が一寸違う特色は、こういう生まれと育ちにあるからでしょう。


図が示すように、西太平洋沿岸族に①②の差がありますが、注目は複雑なB③との違いで、後にこのB③が日本に入って来て複雑化したものを、北・西・南の3方向から日本に入って来た複雑さと歪曲した図が主流となっている問題があります。あくまで下図の北上拡散が、私たちの最深の基層です。

次に北海道が注目で、最初のアメリカ人にはっきり含まれ、更に樺太沿海州に北上を続けてますが、今の日本には歪曲された樺太からの南下図しか有りません。

最後に、原郷のパンカル東岸地域も、豪州へ向かった(結果的に)人々とスラウェシ島・マロスで分岐しています。彼らは世界の学界では、現生人類最古の渡海者(数十km)として紹介されています。

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さて、ご先祖はフィリピンへ2~3度の渡海、バシー海峡を渡海し台湾山地沿岸に、そして約4万年前に対馬か五島に、伊豆の海を交換財の黒耀石を求めて行き来し、津軽海峡を越え、千島を渡り沿岸をアメリカ新大陸へと実に海の民としての理解できる拡散です。これらは、考古遺跡と一致するもので、米国博士のこの図が、日本に一つもない現状こそが問題です。マロスには世界最古の洞窟絵(4万年前)だけでなく舟を描いたものがあり、島中部にも有って私はホントに驚かされました。なにしろ洞窟に舟ですから。

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島中部のトラジャ族は舟ような高床家や習俗で倭族的と言われ、島南部沿岸のマカッサル・ブギス人は、海の民としての有名な活躍と拡がりで、シンガポールにはブギス駅があります。これらは、考古遺跡や歴史とも合致し、むしろ驚かされる全くの納得です。我が国の始まりに関する現生人類のこの地域における古い歴史研究は、欧米・豪州人によるもので、ご先祖研究に貢献しない日本の研究事情とそもそも子供たちに全く教えない現状が誠に情けないです。皇族の薨去は「お舟入り」です。


  米国Wells博士が、Y-DNAから現生人類の拡散を描いていますが、日本列島を通過する線を遡ると第1・2図で直接的な原郷は「パンカル海」東岸域(赤点線)になり、第1図北上した分岐の北海道が注目され、「最初のアメリカ人」も氷床寒冷線の無氷回廊の閉鎖を考えれば最新考古学説と一致しています。

細部を第2図で見ると、最新研究で北ルートになった豪州へ行った人々とスラウェシ地域で分かれています。ここのマロス洞窟壁画は世界最古(4万年前)で壁に舟を描いている海の民で、マカッサル・ブギス人は、近代でもマレーシア~豪州に渡る最高の海の民として知られています。さて北上し、渡海に注目すると下図第1図フィリピン、バシー海峡小島を越えて台湾山地沿岸から、第2図北部九州へとこれも考古学遺跡と一致して納得しうるものです。

注目すべきは、博士が第1図「パンカル海」東西とその北部の地域に2本の線を引いていることです。西太平洋沿岸族ですが、更に細かく見れば、第1図①島系と②陸地系に違いがあるという興味深い図になっています 。

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現生人類のアジア移住は、インド8万、豪州6.5~5万、フィリピン6.7万、ラオス6万年前などの周辺情報から、第1図スンダランド・トバの大噴火(7.3万年前頃)前後の通過となり、この西太平洋沿岸族の北上については、近年、「パンカル海」西岸の発掘が、旧人の時代とも考えられるものを含み活発です。そして、第2図台湾山地から「曙海」時計回りで沖縄本島までと北上して北海道にまで拡がり(姶良大噴火:2.9万年前)ます。

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日本人は何処からに関して、アジアにおいては人類が海を渡ったことは特筆すべき特色です。
注目すべきは、第1図豪州、比と北部九州では渡海が始まりの”海の民性”です。多くの家族が造舟(筏)・操舟で、危険を伴って新天地に渡っています。日本ではその後3.8万年前に伊豆の海を行き来し、3万年前には沖縄へ、狭いですが津軽海峡を越えて北海道に拡がりました。今「最初のアメリカ人」は、沿岸を舟でやって来た、というのが新説です。移住とは、女性、子供、老智者を含む家族多数が、造舟(筏)・操舟で、危険を伴って新天地に渡っている訳です。巷間よく3方向渡来図を見ますが誤解の元です。この海の民性は、約2万年間の「日本祖代」の期間の長さもさることながら、日本史中世まではっきりでしたし、現代でも皇族が薨去された場合、私たち下々の入棺ではなく、「お舟入り」と言われる事からも分かります。

そして、海を渡った西太平洋沿岸族の知力向上の進化について、インドネシア・スマトラ島トバの大噴火がもたらした可能性が考えられます。艱難汝を玉にすという訳です。問題は標題のように、私たちの現生人類の祖先について、世界における日本人研究者の寄与が殆ど無く、この図のようにスンダランド、パンカル海から曙海に連接した一貫図を見ることも無いことです。はっきり言って誤解を招く3方向渡来図も含め、歪んでいます。明治~戦前の先人は、スンダランドもこのような遺跡も知りませんでしたが、地域を廻って人々と文化習俗を調査して、原郷は南方という同じ結論に達していました。子供達に見せて考えさせましょう。ところで、インド太平洋構想って、この万年前の北上のことですか?



世界人類史の注目は、「最初のアメリカ人」です。ベーリング地峡で 米新大陸の氷床が融けるまで 数千年間、滞留して遺伝子に変化が生じ、温暖化した頃 (17,000年前以前) に舟で沿岸の「昆布ハイウェイ」沿いに入って行ったが新説です。

でも世界の学界は、依然としてマンモスハンターのシベリア狩猟族が来たというイメージは変えていないようです。簡単に線を引きますが、東部シベリアは山脈が多く真冬には―60度Cで現代でも寒さで人が亡くなっています。しかし、日本の先生が北海道を発信しないため、世界の話題になりません。北海道「日本祖人」の充実の古い遺跡、既に伊豆から東京諸島を行き来した造舟操舟力、千島列島は海面低下で陸地が増え、次々に島が見えており、海獣・鳥卵・海藻など栄養も豊かな食の処女地でしたのにです。北極海の冷水がベーリング地峡で止められた「米臨海」は、当時としては温かい沿岸でした。一番乗りとは言わなくても、少なくとも関わっていると考えます。世界に発信しましょう、オリンピックの札幌マラソンの地ですから。


始まり当時の環境変化の大きな一つは、世界人類史の補助線である 過半が沈んだ Sundalandスンダランドです。ここから西太平洋沿岸族・語族の重要性が理解されます。原図は日本の先生が日本部分を正しく認識しないために、日本部分がダメで、世界に誤解を与えているのです。

標題と異なり、日本旧石器遺跡1万件以上の結果が理解されていません。「日本祖代」は、北部九州から北海道への北上、沖縄への南下を遺跡・遺物が示しているのです。今や世界人類史の中で、北部九州約4万年前、北海道概ね拡がり約3万年前はとても重要です。信頼できる大陸内陸のバイカル湖畔のマリタ遺跡は2.4万年前なのです。北海道は、今世界注目の「最初のアメリカ人」問題に関わるのですから。その他、世界人類史の基本的な事項を赤で修正しましたが、まだまだ世界の予選会にも参加できないレベルです。

何故か学校では教えませんが、今の自宅学習が世界を、世界の中の日本を理解するチャンスです。


日本の始まり時代は、1万件以上の旧石器遺跡によって北上であることが実証され、出アフリカ後の南方からの西太平洋沿岸族の北上と、その継続による渡米の可能性に結び付く世界人類史の流れの中の区間です(青矢印)。対馬暖流が日本海に流れ込んでいなかったので、日本海側に大雪の無かった事は重要で、列島の概ね斉一な拡がりを可能にしました。

赤矢印は、最も移住容易な沿岸ルートを無視し、時代の異なるものを合成した誤りで、出アフリカ後の道筋も妥当な 複数の 遺跡で辿れず、沿岸の河川から遡上したことも無視した歪んだイメージを与えるものです。また、北海道「日本祖人」の「最初のアメリカ人」の可能性を塞ぐものでもあります。現在、種々の書籍のみならず博物館の展示にも用いられており大きな問題です。当ブログで、これまでの「曙海」時計回りの始まり、 列島 北上の拡がりと定着などを参照してください。


最後の謎と言われる「最初のアメリカ人」(第2図)は、定説が覆り沿岸を舟で17,000年前以前にです。問題はシベリア人か北海道「日本祖人」の絡みは無いのかで、ホントにシベリアのマンモスハンターが、舟を造り家族が北の海を漕いで行ったのか?

豪州人(第3図)は、若い女性研究者が、環境分析から、定説の南ではなく北ルートだとし、いつ来たかが問題です。さて日本(第1図)は、西太平洋沿岸族が曙海を越えて約4万年前に北部九州へであり、対馬か浅い海を越えた近回りの五島は?です。更に、先島へは台湾からの黒潮越えか慶良間ギャップ越えか、です。奄美を越えた時計回り、沖縄の厳しい海の民・糸満ウミンチュに祖人の痕跡を感じます。 教授、当時の環境の理論環境の分析をしましょうよ。 先生、子供達にこういう問題を出しましょうよ。なお、それぞれについは、既に当ブログで報告しています。


鹿児島指宿高校の先生であった小野重朗氏の書籍(1977年)で、原郷も基層の語も正に南西部日本の民俗を長い間研究されて、民俗学者として辿り着かれたものと感じられます。先島から五島まで、東南アジアを北上した古い古い文化だと指摘されており、その認識は「曙海史観」そのものです。

70年代のことですから、南の先島から北の五島にまで至ったと言う認識も理解でき、曙海西岸が海中なのですから時計回りで南下した可能性を求めるのは酷です。その後の考古学界の実証で、九州から沖縄へ文化が南下したという認識となり忘れられていますが、小野先生が、最深部を掘り当てたと考えられた内容自体は間違いでは有りません。驚きの先人の研究努力に敬意を表します。実は、西岸の民である呉・越との深い関わり、長崎の人が元寇の侵攻で、捕まえた大陸内陸の北の民と異なり南の沿岸の民を誅さなかったことなど、曙海東・西・北沿岸の西太平洋沿岸族の古く長い関わりを学ぶことなしに、日本史の理解はできないと考えています。 

それにしても関連書籍の書評で、未だ下図✖が記述されるお粗末には驚き呆れます。

蛇足ですが、カンプン・ナガ(竜の村)は、インドネシアのパジャジャラン大学外国人語学研修生の西ジャワにおける修学旅行地で、長い急な階段を下り上がりしたことを想い出しています。

明治10年、米人E.モースが大森貝塚を発見しアイヌ以前の人によるものであると言い、坪井東大教授は北海道に同じくアイヌ以前に居た先住のコロボックル説を唱え、日本の人類・考古学の扉が開かれました。残念ながら、北千島に逃げて行ったとアイヌの伝承にあるコロボックルは、現地にいないし話も無いとして否定され立ち消えました。石器時代人の話を明治になって出かけて居ないからと否定する方が科学的でなかったのです。

ところが、大正時代になって、冒険空想小説と紹介されている「三千年前」が、実は専門家ではないものの十分に歴史考古学を勉強した江見水蔭(えみ・すいいん)(小説家翻案作家雑誌発行者冒険家)によって書かれました。それは、①三千年前(奇しくも縄文人)も②アイヌより先住の石器人も③関東多摩川(大森貝塚の影響)を代表させ広範囲に居たと言う認識も④北に逃げて行かなかったと言う記述も、全て当時の最先端のもので、かつ、現代人の誤解などより遥かに現代的な驚くべき内容です。厳しい皇国史観の縛りの中で、小説の形をとっていわば「日本祖人」を追求した在野の歴史考古学家の挑戦の論文です。いわば縄文人に勇者スマンベと初めて名前を付けたことも空前絶後のものです。坪井権威が説を唱え、弟子が現地研究でそれ否定し、それをまた在野研究家がやはり坪井初説が妥当と小説の形で否定した、今も学ぶべきものがある素晴らしい先人の歩みです。アイヌ「先住」国会決議という歴史の誤りを犯した国会議員先生方に、武漢コロナの自宅学習で学んでほしいものです。


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