北海道は32,000年前頃の氷河期に、九州~本州青森から、80mくらい海水面が低下し狭くなった津軽海峡を越えて北上して来た「日本祖人」(縄文人の先代、初代列島新人)が、沿岸部から道内に拡がって万年の基層を作ったものです。各種資料の記述にみられる樺太の方から南下して来たものが始まりではなく、全く話が逆転した誤解が問題です。そして、鎌倉時代からのアイヌから北海道の歴史話を始める資料は、論外です。

更に、石器の示すところでは、最寒期(LGM)の寒さを逃れてという事よりも、その後の温暖化による植生変化でマンモスなどの食料であるシベリア・ツンドラの草地が減り、ぬかるみで移動も困難になって来たシベリアから大型草食動物が激減した事が南下の主たる理由であり、1万数千年前の細石器による中・小型動物の狩猟へと適応していった時代の南下が主なのです。遥かな大昔にマンモスが北海道から本州に、ナウマン象が瀬戸内にまで入って来た時代の話と混線しています。出戻りした人たちがいた事も考慮すべきです。そして、北海道史で注目すべきことは、氷河期に青森から昆布ハイウェイを北上して来て北海道での暮らしに適応した日本祖人は、その後の状況に応じて食の豊かな千島列島・樺太への北上を続けたと考えられます。

行く先はず~と見えていました。昆布ハイウェイは、カリフォルニア、南米沿岸まで続いていました(プーチンは居ませんでしたし)。つまり、世界の学界が今注目している「最初のアメリカ人」の候補なのです。世界の学界の課題に無関心な、誤った逆立ちの北海道史イメージを正し、北海道の状況を明らかにして寄与しましょう。

人類及び日本人のルーツと拡がりのルートの巷間本の説明が第1図、拡大付記した第2図です。まず、日本人についての説明が、例の3方向から入り混じりのごちゃ混ぜ図ですので問題です。Sundalandから北上した流れを表示してほしいものです。他方、世界の学界が注目する「最初のアメリカ人」問題に寄与・参加する線も、当然にして第2図で付記した説明も全く無く、関心が見られません。

第1図のように、シベリアから来た一辺倒という事であれば、世界の学界がこんなに苦労することはないのにです。日本列島を北上した「日本祖人」が、北海道で留まる訳はないでしょう、non STOP です。その事は、東京・札幌オリンピックを前に、北海道の歴史が、誤解されたままよく分からない状況なのも問題です。実は、第2図北米の氷床が融解して「無氷回廊」の開かれた時期と人類が北米全域に拡がった時期がミスマッチなのはダメです。即ち、鍵が開いてないのに北米部屋に入って子供たちが遊び回っているような図ですから、オレゴン州の学者さんは、こんな説明は相手にしないでしょう。また、33,000年前のベーリング地峡進出の説明も驚きで、どうやってそんな時期にそこに達したのか不明です。いずれにしろ、日本学者の特に出発地の北海道史に関するまともな発信が無いため、世界の学界も困っていると思われます。

ベーリング地峡への進出時期・様相、舟で北太平洋の沿岸(昆布ハイウェイ・ルート)を移住する問題、北極海の冷水がベーリング地峡でstopされて流入しない当時のハワイに繋がる「米臨海」の状況など、本問題に関するいろいろな検討課題がありますが、日本学界の現状は誠に残念、かつ、誤解を振りまいている現状です。正してPRを、子供たちに歴史の真実追求を教えたいものです。


現生人類の拡がりは第1図、①出アフリカ直系インマレイド(欧米学者は、ジンギスカンにびっくりで「先」モンゴロイドと呼称)が北上し、②降雪寒冷に適応してモンゴロイドにはっきりインマレイドから身体変化し、今度は南下して来たものです。この強い影響が東南アジア・インマレイドにまで及びましたので分かり難く誤解の元ですが、マレイ半島には今も黒人ネグロイド系の痕跡の人達がひっそり居て、人類の歩みを教えてくれます。従って第2図左下から、ラオス6万~台湾5万~北部九州4万~東京諸島3.8万~北海道3.2万という基礎となった拡がりの歩みが良く理解できます。


「日本祖人」が当時の優れた造舟・操舟力のある家族で渡海の民だったので、黒耀石採取のための東京都神津島への行き来も、世界が驚く程の「謎」ではありません。下図で諸島における歩きで舟のえい航を行えば、当時の北からの流れに逆らわずに行き来できます。


次に第2図右下、沖縄本島に至る黒潮越え問題ですが、鍵は越えて行った住民の特性です。Aは渡海の民の子孫で、次の島々が見えていました。Bは欧州の地中海もどこも同様の沿岸におけるカニの横這い(フェルナン・ブローデル説)の一般的な拡がりの民で、始まり時代には島が見えない渡洋という行動は有りませんでした。従って、石器は南西諸島南下を示し、その後の貝類交易の宝物は北上という考古学常識になります。実は八重山へは、台湾からの距離は曙海時計回りが遥かに遥かに遠いですが、九州から南下して行ったのが先の可能性もあります。それは台湾学者が、あの時代に家族が危険を冒し、黒潮流を越えて八重山に行く「魅力」は無かったと言っているのです。

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というのは、島では食料の確保が容易でなく、小型化するだけでなく長く生き続けて痕跡を留めるのはムリというのが歴史界の一般認識なので、南西諸島はやはり驚きなのです。さて問題は、この人類史の流れの基本を違えて内陸の方から矢印を登場させたり、樺太の方から入って来るという、時期が混じり出戻り含めて入った異人の量を考えないごちゃまぜの図が誤解を招いています。ポーランド~南スペインに匹敵する日本の広域への北上拡がりで、かつ、定着1万数千年間の歴史の重さを認識し、オリンピックまでに正し子供たちと訪問客にきちんとPRしましょう。大事なお・も・て・な・しですから。


まず、巷間本の北・西・南3方向から列島に入って来て混じりあったという図が、時期を付しても誤解を生む大きな間違いです。第1図のとおり北上史を石器がはっきり示し実証されています。第2図左下、約4万年前当時の地形から、南方から北上して「曙海」ほとりの「北東ア平野」沿岸から時計回りに入って来た最も基本のルーツに関わるルートの事がどの本にも、博物館の図にも有りません。そして、九州から列島中に拡がり、北海道も数千年以上の基礎がありました。

最寒期(約2.4万年前)までの長かったこの間の補充は、基本的に曙海ほとりの同種の人たちです。即ち、列島に拡がった「日本祖人」の基礎の上に最寒期頃以降に、北・西などの端から、しかも「ゲルマン民族大移動」のような大量の流入や入れ替えは日本史には無く、量が多くない大陸系の人・出戻りの人たちが加わり日本祖人と混じり合っただけものです。このような①基本の北上筋を押さえず②列島登場の時期・仕方も③それぞれの量も違うモノを、3種混合のように記述している間違いです。あたかも胃に入れば同じと、ご飯と刺身と吸い物を丼に入れ混ぜて「日本人丼」として出されたようなもので、とても食べられたものじゃなく、また欧米人が好む旧人話も別な事です。次に、巷間本は、ともかくも‟縄文”です。

酷いのは、ずばり縄文人のルーツを問うてます(2代目なのに)。日本の酸性土壌では、「This is 日本祖人」という人骨が見つからないという事情だからです。①2.7万年前の沖縄・石垣人骨は曙海ほとりなので、日本祖人と同様と考えて良いのです。皆が認める南方系ですし、②年代明らかで豊富な石器遺跡が、日本祖人の存在を十分示しています。③北海道「日本祖人」を認識していないため、今や世界学界の関心事である「最初のアメリカ人」論議に寄与どころか参加すら出来ていないのです。米ネイティブ・インディアンは、正に親族かも知れないのにです。縄文、アイヌはいい加減にしましょう、図書館・本屋の多数の書籍にため息が出ます。もはや、日本の子供脳に対するイジメです。東京・札幌オリンピックまでに、しっかり正してPRしましょう。



現生人類が出アフリカを果たし、東進そして西太平洋沿海を北上の後、「曙海」を渡って約4万年前に九州に多くの家族が舟で来て、南方系の「日本祖人」は3万年前には雪と寒気の北海道から沖縄まで列島中に拡がり(1万件を超える旧石器遺跡が実証)ました。寒暖の四季があり緯度の幅が広く噴火(姶良大噴火)や地震・津波の多い地に適応(現在の基礎)し、遊動生活を開拓しました。

北海道からアメリカ新大陸にも向かったであろう、長かった時代末期の最寒期(LGM)の寒さやシベリア温暖化期(草食激減)の大型獣の減少などで西からと北からの狩猟族の流入がありました。次いで、定住化した縄文時代には、広域の交易も行われて列島内の生活文化の向上と熟成が見られました。末期には、大陸の戦乱の影響や稲作・金属使用の生活変化が九州から再び北上して行きました。この生活変化は王を生み出していき、神武天皇(大阪の地形研究で神武東征神話を実証) からの祭政両面にわたる独特の皇権による統一化が進み、やがて憲法と律令が整い名実ともに日本国となります。



米国スミソニアン(博物館)誌の新年号の特集トップ記事・第2図は、「最初のアメリカ人」問題で、北海道Hokkaido in Japanがしっかり登場しています。第1図、北海道の多数の旧石器遺跡の中で道東「日本祖人」は、道内でも最も注目されます。第2図シベリア・バイカル湖人Bと並ぶ実質的な2大候補として世界の注目でもあります。

記事のDNA分析からは、第2図、最初に入って来たのはAだけでもBだけでもない、〔2万年前(以前)に達したとみられるベーリング地峡での(数千年の)一時的な滞留間にDNAが変化した〕「C」ということだそうです。B ルートは遺跡が少なく(今後の発見にもよる) 真冬には-60℃にもなる移住であり、約2万年前からの温暖化以降と考えられますが、A北海道の遺跡は多く、古さもあり、千島列島は次々に島が見えていたハワイに繋がる「米臨海」沿岸の「昆布ハイウェイ」の移住であることなどの点で条件は良く、有力な候補と考えます。米諸大学・加・デンマーク・露の学者の発言中に、2万年前のベーリング地峡南側の到着に間に合わない縄文Jomonや全く論外である鎌倉時代からのアイヌAinuが話に出なくなったのは大変良いですが、折角、(日本祖人が)黒耀石採取で伊豆の海を行き来したことに言及されているものの、年代が3.8万年前であるのに、3.5~3万年前となっているのは訂正を要する日本側の発信の問題です。

さて第2図、DNA分析からは最初の進入は数百~1・2千人、沿岸の氷床が融解したのは18~17,000年前で内陸の14,000年前頃より遥かに早かった、南米や大陸内の遺跡の状況から南米への南下と2・3百年での北米内拡がりは速かった、沿岸南下の最初の分岐はワシントン、オレゴン州境のコロラド河口だった、シベリア北部のYana遺跡(3.2万年前)を露が挙げてるが実質的には本件に関わらないとされるなど納得しうるものです。尤も、コロンブス以前に北大西洋から北米東部に渡って来たという説が、依然として挙がっています。本件ではとてもあり得ないと思います。いずれにしても、露学者の名は出ているのに北海道「日本祖人」を擁する日本学者の名が本件に出ないのは問題で、北海道の先史研究に科研費の有効利用を期待したいですし、これらのことを全国の学生・生徒が殆ど知らない現状は大きな問題です。 科研費を投入して世界に寄与し、 東京・札幌オリンピックを機に「日本祖人」と米国Nativeインディアンが関わりのありうることのPRなど、是非とも挽回を図ってほしいものです。

建国記念日に寄せて。

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大阪で地形史の研究が、文献・日本書紀や生國魂神社の社伝を実証(長浜浩明:日本の誕生)しました!  神武天皇の長すね彦との戦闘に至る重要記述の実証ですが、その前後の記述を検討すれば、神武天皇の東征・建国に関する記述は、北部九州以外の西日本を統一化した、日本祖代―縄文時代以来の列島史の大転換の画期だったと言えます。日本祖代~縄文時代~建国時代~古墳時代~・・・。

戦後は、ギリシャ神話は教えても肝心の日本の神話を教えない異常な状況にありました。荒唐無稽なギリシャ神話に比し、より史実を感じさせる神武天皇の建国に至る話の戦いに至る部分の一部が、大阪の地形史の分析から実証された意義は大きいです。紀元前1000年前から大和王権樹立頃までの当時の東アジアの状況を俯瞰すれば、神武天皇の建国は意義深く、これまでの魏志倭人伝偏重の史観に転換を迫るものです。稲作北上の”足踏み線”以北の北海道にまでに至る主体の「縄文派」を視野に入れて考察すれば、建国が日本史上の注目すべき大転換の事象であったことが分かります。正に長浜弘明・「日本の誕生」と共に、子供たちに日本史の重要事象を教え継がねばならないと考えます。

日本人とは、「日本人のルーツは?に強い関心を示す者たち」と言われています。そして、巷間の書籍や博物館は、第1図のような複数の赤内陸ルートからを示していますが、①黄色の沿岸ルートで「北東ア平野」沿岸を北上して「曙海」のほとりから舟で渡って、列島を北海道にまで北上とはっきり図示したものは無く、このために世界的にもこれを図示したモノはまず見ません。1万件を超える我が国の旧石器遺跡の検討から導かれるのにです。

ところが、赤ルートは、アフリカを出た現生人類がどうやってそれぞれの小赤〇にやって来たのかと問えば、内陸の遺跡が黄色ルートから河川を遡行したことも考慮すると、実は日本始まりの検討に値する古い足取りの考古学的な裏付けが辿れず、答えに窮します。北ルート樺太から入って来たと図示されるので、②北海道から外に「出ない」ため、「最初のアメリカ人」論議とは無縁となっているのです。まして北海道~樺太~沿海州という「日本祖人」の北上などまるで考えられていませんから、沿海州の遠軽白滝・黒耀石も単に交易で済まされています。更に、日本人のルーツに触れた高名な学者の一般書も③縄文人は、ということですから、「最初のアメリカ人」は1.7万年前以前に来たという最新説の議論には、日本学界諸説で最も早く縄文人を登場させるもので1.65万年前ですから、全くお呼びでないのです(世界に誤解の多いアイヌは、鎌倉時代からで論外)。

即ち、単に旧石器時代(後期)と記述する(しかも世界とは期間を異にする)だけのことで、「日本祖人」という祖先の、人の用語が無いところに思考は生まれないのです。日本の始まり歴史のこういう扱いですから、第2図、渡米の基礎となる北海道史はどういう事なのかという重要問題にも関心が薄く、明治以来の欧米におけるアイヌは白人系という国連UNにも誤解の影響が及んでいる事も含めて、放置されていると言うべき残念な状況なのです。世界の学問的な重要課題オリンピックに参加もしていない現状は不適切であり、先生方は認識せず、子供たちが全くこういう現状を聞いてもいない事が問題です。東京オリンピックはスポーツの祭典ですが、世界の誤解を解きかつ正しく理解してもらう内外PRのチャンスなのです。


第1図、西太平洋沿海原族が北上して「曙海」を舟で渡って九州に来て、北海道・沖縄にまで至りました。舟を操作でき海を家族で渡れる言葉と生活文化を持った祖先は、2万年を超える時の積み重ねを経て、次代の縄文人と呼ばれることになります。始まりを考えれば、3.8万年前に黒耀石を求めて東京神津恩馳島に行き来していたのも謎ではなく、海辺の道東が先進であった事も不思議じゃないです。

第2図、道東は青森に近く、食は豊かで、日本一の黒耀石産地と も 絡んでいました。襟裳岬の春は、なんでもある春だったのです。ですから、プーチンが居ない時代に留まっていた訳がなく、千島列島を北上し続け、ベーリング地峡で北極海の冷水が止められた「北太平洋沿岸の昆布ハイウェイを舟で入って来た」(最初のアメリカ人の最新説)の有力候補だと言っているのです。無論この重要な北海道史に、アイヌは無縁です。 因みに、道東の人たちの旅行先が、東京・大阪よりもアメリカ西海岸だって知ってますか? 父祖の地の始まり時代の歴史を子供たちに教えましょう。


新型肺炎コロナウィルスが今問題ですが、そこは大河の揚子江・長江の中流域です。稲作は、かつては高地の雲南で始まったと言われた時期がありましたが、その後の河姆渡遺跡の発掘などから中・下流域でと修正されました。このことは、歴史の捉え方を教えてくれます。

即ち、西太平洋沿海原族は北上しただけでなく、河川を遡行もしたということです。高地で古い遺跡が発見されたからといって、人々の歴史が、上流から下流に展開していった訳ではない事例ということです。そのことは、上図のAの傍証でもあります。はっきり言って学界は、内陸部偏重です。日本人のルーツ研究の問題で、心しておかねばならないことを武漢が教えてくれています。高地少数民族で、武漢が原郷だと語り伝えている種族もいます。万年前の川傍・海辺の遺跡が発見されるのは容易なことでなく、流れが変わり海水面は上昇しますので。稲作の始まりが修正された事例は、揚子江・長江にとどまらないのです。また、一旦、河川を遡行して上がって行って、優れた文化が下って来る、下がってからということもあり得ます。インドネシア・パプアで、9000年前の農耕の痕跡が高地で発見されて最古と言われていますが、見つからないからといって中・下流、それ以外の地では無かったとはとても思えないのです。

多くの書籍や博物館等の展示に赤B3方向図が描かれていますが、前回までの説明のとおり青Aであり赤B混ざり合い図は誤解の元です。日本人は、南方から北上した一方向性の 長かった 万年の基層の上に、新たに3方向から多くはない人たちが寒さに追われ獲物を求め戦乱を逃れて、出戻りを含めて加わった歴史です。

当時は、対馬暖流がなく日本海側に大雪は降りませんでしたので太平洋側との両方から北上し、列島中央で連接も果たされていました。これらのことは、列島の1万件を超える旧石器遺跡の状況等から導かれます。赤B図が問題なのは、①約4万年前からの九州人より新しい大陸内陸の現生人類遺跡から、日本人のルーツでは有り得ません。入って来たのは2万年前頃以降でしょう。②沖縄人は、当時の「北東ア平野」沿岸地域を北上し「曙海」のほとりを九州から南下して行った人たちでしょう。台湾山地沿岸から黒潮流を与那国島に渡って更に宮古島から慶良間ギャップを多くの家族が越えるのは、始まり時代にはムリだったでしょう。

③「最初のアメリカ人」問題が、世界の現生人類史学界の最後に残された大テーマですが、赤3方向渡来図では欧米の議論に参加する発信が出ないことが問題です。ここでも入った人たちはAかBかとなりますが、ベーリング地峡で混ざり合った混合Cも考えられます。いずれにしても、「最初の、舟で来た」となれば、既に一部の米研究者からは注目されている北海道「日本祖人」は、参加すべき有力な候補なのです。尤も、(鎌倉時代からの)「アイヌ」という問題外の語が依然として出る誤解が放置されているのは問題です。

そのルートで 東京オリンピックを機に、青A図をしっかり知ってもらい、正しく「最初のアメリカ人」問題に参加すべきです。将来、北海道「日本祖人」が、金メダルを獲得するかもしれませんので。また、近年、「インド太平洋戦略・構想」というご大層な語が登場していますが、ご先祖様は笑っていることでしょう、「戦略なんてなかった、暮らせる所で懸命に暮らして そのルートで 拡がっただけの結果だ」と。


第2図、HB抗原ウィルスの分布から、南方型の痕跡が東北北部に色濃く残り、また、水稲耕作の北九州からの北上、途中での”足踏み”後の東北北部に至る拡がりとHB抗原の南方型分布との興味深い符合などが分かりましたが、更に、第1図、入れ墨の歴史があります。

大陸の内陸種族である「魏」人は、倭人や沿海の越人に対し、入れ墨をして海に潜り魚を獲って食すヘンなヤツらとの認識を魏志「倭人の条」に書いています。この倭人の特徴の入れ墨は、習俗として沖縄の女性に残るのみならず、鎌倉時代に北の方から北海道に入って来て混血が進んだアイヌの女性にも見られ、その伝承では(先住の)コロボックルのものを真似たとあります。このコロボックルについては、我が国人類学の祖とされる明治時代の坪井教授が、北海道での現地研究から、アイヌの伝承は信頼しうるとして唱えたものです。その後、鳥居龍蔵が北千島(伝承でコロボックルが逃げて行ったと言われる)の現地調査を行ったものの、コロボックルはおらずそういう話も無いとして説は立ち消えました。

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今になれば、鎌倉時代頃からの話が明治になって無いからといって存在が無かったとはいえず、来日学者のモース博士(大森貝塚を発見)は、「プレアイヌ説」で、アイヌの前に先住者が居たと指摘していました。当時は全く想像すらできなかった日本祖人、次の縄文人以来の北海道の万年前の先住者に具体的な想いを致すことは容易でなく、他の来日学者がアイヌは白人系であると言った誤解すら、今も根強く尾を引いています。さて、出アフリカ後の現生人類が、南方から北上して来て北海道にまで拡がった日本祖人が、そこで停止する理由もなく北上を続け、千島列島や樺太の方から、「最初のアメリカ人」についての最新説「北太平洋沿岸を舟で“昆布ハイウェイ“に沿ってアメリカ新大陸に入って」行った可能性が注目されています。

従って、博物館等で日本列島に北・西・南の3方向から人々が入って来て混ざり合って「日本人」になったという図が見られますが誤解の元です。南方から北上した始まり万年の一方向性の基層を誤解させるものであり、そのルーツは「西太平洋沿海原族」で、「曙海」を渡って北部九州にやって来て始まった南方型です。その上に時代が下ってから北・西・南ルートで、大陸からの出戻りを含めて人々が渡来し混血し、地域の文化を育み現在に至っているものです。

 

秋田・青森県人が、列島史始まりのHB抗原ウィルス南方型(第2図)ということは、第1図、海水面が約100m低下していた約4万年前の「曙海」・「北東ア平野」の時代に、出アフリカの現生人類がスンダランドから北上(ラオス、ベトナム、台湾痕跡)して大陸から対馬~五島に舟(筏)で渡って来て北海道にまで拡がりましたので納得できます。

さて、人種が近かった曙海のほとりの人々も、2万年前頃には更に近づいたものの、その後の海岸線の後退で離れて行きましたが、はるかに時を経た日本史の大きな画期である水稲の耕作を見ますと、人類史の痕跡ははっきり残っています。戦後の始まりに安藤広太郎・農業博士が、インド、タイ、中国広州などに広く稲の原生が見られ、日本の稲作は(呉越地域の)ジャポニカが過半の苗族・オーストロアジア系民族の稲作に(起源として)注目されたのは、正に卓見です。

現代学者は、稲作がいつ、どのルートから(第1図①②で、南西諸島ルートは稲種が該当せず)に関心を持っていますが、安藤博士はそれもさることながら、苗族・オーストロアジア系民族(現代中国の少数民族など)や南船北馬の違いに注目され、ユーラシア大陸内陸種族と西太平洋沿海地域の種族の違いという現代の東アジア理解を、インドにまで及ぶ稲作研究からも認識されていて、その後の学界のタイ・越関係研究にも繋がっています。更に、水稲耕作の伝わり方も戦乱など該地の人々が身の危険に迫られ逃げ出したもの(難民)との見方をはっきり示されました。この点は、むしろ交易の倭人の船乗りが、曙海のほとりの地から持ち帰ったものという見方もあります。安藤博士説を後進の樋口博士が斜線で示した中国南部~我が国の東北にまで繋がる水稲耕作論の図化は、共通性ある古く長い歴史を示すものとなっており、また、最近の研究で図の日本陸稲線で(品種改良のため)稲作北上の足踏み”休止”があったと言われていますが、これがウィルス南方型の東西線ともなっていることが、誠に興味深いことです。

稲作の時代にあっても、曙海ほとり認識の重要性は変わらず、実は各種の古来各種の中国史書は、「倭」を広い範囲の曙海ほとりの人々として様々な地の人々を「倭」と表現して書いていますので、学者さんに混乱を与えています(倭寇以外にも多く)が、読み解きには「曙海」認識が必須なのです。因みに、元寇の襲来においてさえ、長崎の人々は内陸種族と曙海ほとりの沿海種族を分けて(捕らえた侵攻の沿海種族は殺害せず)扱いました。このように、始まり時代から歴史時代にまで長く地域空間と歴史時間の流れがムリなく繋がり、西太平洋沿海地域と河川遡行の諸族(現在は内陸高地にも)の祖先(沿海原族)が、人類移住史と水稲耕作史からも「日本祖人」との共通性が大きい(曙海史観)と考えられます。このように大きく2区分に認識しうる東アジアの諸族の特色から、大陸、中国、朝鮮半島・韓国といったおおまかな語で東アジアの歴史を語ることは、とてもできないのです。


第1図、青森・津軽(青円)は、①世界最古級の大平山元土器(縄目なし)、②縄文イメージ一新の三内丸山居住跡、③江戸人も驚き求めた名品である亀ヶ岡土偶と、万年の縄文時代の前・中・後の全期を通じて先進性がありましたが、それは太平洋、日本海、津軽海峡越えの異文化の接触が大きな要因であった事でしょう。

ところが、第2図、秋田と共に「日本祖代」(始まりの九州から列島中に拡がり定着)を感じさせるHB抗原ウィルスの南方型が多いという特徴があり、南A北Bから列島に影響を及ぼした大陸内陸型が最も少なかったという歴史で、次いで図のように高知や東日本が少ないことからも納得です。大昔からの人が維持された「奥の院」のようですが、この事も縄文先進であった事と共に注目されます。他方、北からの影響は南ほどではなかった事も分かり、鎌倉時代に北から北海道に入って来た事が始まりのアイヌもかなり南方型が入っているとみられ、純粋に北の大陸内陸型であればあの入れ墨も考えられず、後発の日本人です。いずれにしても、東北北部人は、私たちの日本史の最古を維持して来ています。

春節移動期の新型コロナウィルスが大問題ですが、かつて厚生省の研究チームが、日本から約1万、世界各国から約2万の血液検体を集めて分析し、分類してHB抗原の分布図を作成しました(1975年)。第1図のように、一見して列島の南部に北方型が多く、北部に南方型が多いという不思議な結果になりました。

実は赤A,Bは、北方型というよりも大陸内陸型と認識すべきものなのですが。それでは何故、秋田・青森に南方型が多い(〇点線)のかです。この事は第2図の人類展開史から理解できるのです。始まりはアフリカで、出アフリカを果たした現生人類①ネグロイドは、東西に拡がりました。歴史学者も驚くスピードと海を渡って豪・オーストラリアに至りましたが痕跡が①として残っています。当然、現在は過半が沈んでいるスンダランド(茶色)経由したもので、その後②インマレイドに変化し北上した現生人類の南方型(スンダランド・大陸沿岸型)は、九州に渡って来て「日本祖人」は北海道にまで至り、内陸ではシベリアの雪と寒気に適応して体を変化させた③モンゴロイドとなり、今度は南下して遂には東南アジアにまで至った歴史の流れなのです。こういうスンダランドを認識せずに「東南アジア」の語を使用すると、全く状況が分からなくなります。

つまり、②インマレイドが北上して(青太矢印)渡来し北上を続けた「日本祖人」、次の縄文人の痕跡が、南北からの大陸内陸型の流入の強い影響を受けずに秋田・青森の歴史に残っているという訳なのです。即ち現生人類史の流れ、スンダランドと東南アジア、③モンゴロイドの形成と南下、大陸内陸と大陸沿岸の違い、日本列島史といった種々のことが認識されなければ理解できない事なのです。欧州方面も同様で、西進したネグロイドが②ラテニドに変化し、北上して③ユーロパイド(白人種)に変化して再び南下しています。この間に大ユーラシアの東西交流もありましたが、基本は上述のとおりです。


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