日本列島史の始まりの時代

我が日本列島史が、4万年前頃に九州で始まり(おそらく八重山もその頃?石垣島で最古の2.7万年前の人骨確認)、3万年前頃には北海道太平洋岸にまで拡がっていました。

 

この地域で、4-3万年と国の南から北までほぼ全域を遺跡のしっかりした裏付けによって、はっきり歴史を描けるのは我が国くらいで、「人類史の基準」と言えるのです。

そして、東亜地中海(台湾 凌教授の命名)の周りの人々、パンカル海(当サイト仮称)の周りの人々は、国境などの無い同様な海の民でした。

なお、5万年前頃には、約80kmくらいの海を多数が家族で越えて豪州に渡っています。

この重要な始まりの時代を、温暖化の海面上昇で陸地が沈んでしまっているからと学校で教わらないのはどういう事でしょう? まさか未だに植民地史観が残っているという事はありませんよね?

(了)

米国テネシー州Vandervilt大学チームが、南米ペルー沿岸の遺跡で7,800年前頃とされていた約30mのマウンドの内下部に動物の骨と共にイグサ科植物で編まれていた物(15,000年前)を発見したとScience(By Lizzie Wade May. 24, 2017)が報じました。

米大陸への人類の移動については、基本的に、A:漁撈系とB:狩猟系が考えられ、これまでは石器などはっきり痕跡の残るB狩猟系が主に考えられてきました。

しかし、南米などで次々に発見される遺跡は、今回の編み物の発見を含め、知見と操舟の能力を有するA海の民の環太平洋移住(MPOR)を示すものと考えられます。

日本列島にはっきり残る遺跡群から、4~3万年前の1万年間で拡がった日本祖人の日本列島史とその後の北上は、世界先史の中で注目されます。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

Sundaland地域は、既に海の民として多数の遺跡・遺物が発見されています。

このルートの注目点は、

①千島列島を越えていけたであろうか?

②極寒のベーリング地峡南岸を通過して東進南下して行けただろうか?

③そもそも地峡を越えて渡米した時期はいつだったのだろうか?

④狩猟族Bから漁撈族Aに替わって行った部族はないのか?

①、②は、既に検討し当サイトで可能性を報告いたしました。

③についても、北海道太平洋岸が30,000年前であること、最終氷期最寒冷期LGM(2.2~1.9万年前)には既に通過していたと考えれば、2.5万年前頃の最も気温が高かった時期、例えば毎年の春から夏に素早く抜けた部族たちが考えられます。

この毎年の春から夏といいましても、2~3,000年にわたる話ですので結構な数の部族が渡米し南下して行った事になります。

④も考えられます。Bは闘いに強かった人たちだと思いますので、沿岸に乗り出してきただろうと思われますが、やはり海辺の暮らしは独特ですので棲み分けたのであろうと考えています。

現在の太平洋岸の先住民の部族数の多さは、それぞれが習俗と言葉を大切に守り伝えていることを示す一方、結婚は他の部族とという事情があります。

A系とというよりも先ずは、日本列島に入って来る時から多数の小B系が通婚しつつ次々に渡って来たというイメージです。それが渡米後も続いたと言う事でしょう。

そして闘いに強いA系がやがて大陸で支配的になり、通婚も進んだという事ではないだろうかと考えています。更に時代はずっと下ってから、欧州人が黒人も連れて入って来たと言う事でしょう。

(了)

 

現生人類が、4万年前に東亜地中海から海を越えて日本列島に進入し、縄文時代と呼ばれるようになるまでの我が国始まりの日本祖人が過ごした日本祖代(4万年前~16,500年前)の時期の区分は次の3つの特色で区分されます。

  • 前期は、列島に進入し、八重山から北海道まで、また、高地の野尻湖や島々などにまで生活の場が発展し、日本文化の基層が形成され、原風景となりました。また、伊豆諸島の神津島に黒曜石を採りに十数km以上の外洋を行き来し、関東南部や伊豆で交易が行われていたことは、世界史的にも注目されます。
  • 中期は、姶良大噴火が起き、この特筆すべき残念な大災害からの復興、再生が主でした。当時先進の九州は大被害で、西日本は大きな影響を受け、火山灰は東北にまで及びました。火山灰のみならず寒冷化したことも考えられる厳しい状況から復興を果たしたことになります。この文字通りの天変地異が人々の精神性に及ぼしたことも重要な事と考えます。その後の農耕の民に比して、漁撈の民であったことが復興にとってはよかったのではないでしょうか?
  • 後期は、大陸の寒冷降雪地に適応した形質・DNAの変化を生じた狩猟民族の流入でした。その後も列島には人の流入の波が何波かありましたが、この流入は、戦いをも持ち込んだものであったとみられます。そして、現代に至る私たちのDNAにも大きな影響を与えたものと考えます。但し、それ以前の約2万年の間に列島で形作られた海の民としての漁撈採集を主とする暮らしの文化がありましたので、坩堝の中に混ぜられていったのでしょう。穏やかなのに時には激しく闘う日本人の2面性は、こんな歴史のなせる事とも考えられます。

勿論、人々も文化も断絶することなく、土器の出現に着目した縄文時代と呼ばれることになって行く、長く熟成された歴史です。

やはり、東は太平洋の大海原という行き詰まりの島々であったこと、北と南の2方向から人々が入ってきたことが、独特の文化を醸成したものと考えています。

このくらいの事は、子供たちに教えて良いのではないかと思います。

(了)

 

日本祖代の状況について

沖縄石垣島で発見されていた古人骨の年代は、27,000年前と発表されました。

4万年前頃、東亜地中海の海を越えて、家族で日本列島に渡って来た海の民、日本祖人による列島史の初期の人骨が確認されました。大災害である姶良大噴火後のものですが。以前から居た人たちか、新たに渡ってきたのか興味深いです。

既に、生活の場と葬る墓域が分かたれる精神性を有していて、風葬であったとみられています。

石器は、おそらくあまり発見されないでしょう。竹、木、草、海藻、骨、貝、サンゴなどの道具で生活し得た海の民であったことを示しているものと考えます。

そして、3万年前頃には、水平適応では北海道から八重山迄、垂直適応では高地の野尻湖などにまで、日本祖人は概ね列島に拡がり、我が国の文化の基層、原風景が形作られていました。

この間、少なくとも十数kmの外洋に漕ぎ出し、伊豆の神津島に貴重な黒曜石を採りに行っていた、そして、それが南関東や伊豆で広く交易されていたことは世界史的にも特筆されることです。

なお、沖縄本島へは、宮古島との距離(約300km)と当時の操舟力を考えれば、南九州からトカラ列島を越えて南下してきたのでしょう。

 

姶良大噴火は、当時先進の地域に起きた誠に残念な大災害で、北北東方向に火山灰は東北にまで拡がりましたが、祖先はそれを乗り越えて発展してきたものです。

日本の始まり(4万年前)-概ね列島全域への拡がり(3万年前)・姶良大噴火(2.9万年前)―大陸狩猟民族の流入(2万年前頃)ー縄文時代の始まり(1.65万年前)となります。

因みに、アイヌの人たちの祖先が北から渡って来たのは、2万年前頃以降と考えています。国会の先住民決議は、史実の裏付けが有りません。

推進した人たちが、日本神話に裏付けがないと言うのは遥かに笑止の沙汰です。

アイヌの人たちの人権は尊重され、習俗は守られ、差別があるならば是正されねばなりませんが、長い歴史を有する我が国に先住民問題なるものは有りません。

(了)

「歴しニア」の報告  日本祖人と昆布ハイウェイ

日本祖人の渡米(30,000年前以降)に関して、米北西太平洋岸の州Oregon大学自然文化史博物館、Jon Erlandson博士は、最終氷河期最寒冷期LGM後の17,000年前頃、下図緑部の昆布ハイウェイKelp highway(凡例赤枠)を海の民が、日本から渡って来たという仮説を唱えています。

両サイドに共通の食料としてカワウソなどの海洋哺乳動物、鰒あわび、エビ・カニ類、多くの魚・海鳥、海藻などを挙げています。

北太平洋の東西の鏡面対称性(北大 大原昌宏教授)からも納得できます。
海藻類は、食料としてのみならず、ロープに使用されたり、茎の中空部に灯火のための油などを保管する等、種々の有用な用途もありました。

スンダランドSundalandから、日本列島、ベリンギアBeringiaを経て、モンテ・ヴェルデ遺跡のある南米まで、環太平洋の海の民の移住(MPOR)の重要な一端を示すものでしょう。

(了)

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