人類史の初期アメリカ新大陸移住に、日本ルートが登場して注目される北千島民の留頓(ルートン)は、かつてはカムチャッカが主体でした。祖先の物という6千年前の縄文遺跡も注目です。明治明治期の文明開化で東京帝大坪井教授が、日本の起源を探究する議論の学術用語としてアイヌ伝承から採用した仮り名コロボックル、北千島からやがて研究が進んで沖縄までコロボックルとなっていた事でしょう。

しかし、明治32年の鳥居助手の現地調査を期にコロボックルは実在しないことと受け止められ、熱かった学術議論も立ち消えに。その後教授は逝去され、十数年を経て 各地のフィールドワークを重ねた鳥居龍蔵が、特に無言交易などに着目して大正6年に、北千島のアイヌは第1渡道(アイヌは第2)のコロボックルであると学会で発表明言し、人類学誌に掲載されましたが、諸事情から用語が学界で復権することは有りませんでした。そして18歳の女子大生作家として鮮烈なデビューを果たした中條(後の宮本)百合子が、鳥居のコロボックル実在講演の翌年(大正7年)にアイヌ豪族の娘であり英人でキリスト教宣教師の養女となった年長者の案内で開道50年の北海道東のアイヌコタンを訪問し、「風に乗って来るコロポックル」を発表しました。ところが何故か、アイヌ伝承では被害者のコロボックルが、小説では主人公アイヌの前に複数が風に乗って現れ、悪戯し悩まし騙し宝物を強請ってくれねば罵詈雑言を浴びせると懸念させるような加害者イメージの敵役・悪訳として描かれていますが、全く不思議な事です。そして、その後は童話でアイヌの中の悪い者を懲らしめる蕗の下(小さい人の意)の神様や、ファンタジーの妖精などとして描かれ、最後の北千島コロボックルの田中キヌが没したことからか、もういないと絵本の題名になり、学術とは完全に切れて様々な内容のおとぎ話や商品にまで使用されて今に至っています。仮に大正6年のフィールドワーカー鳥居龍蔵の認識が、明治32年の現地調査後に示されて学界の研究が継続し、鳥居講演の翌年に中條百合子が描いたようなアイヌの敵・悪役でなく伝承どおりの被害者の北千島民であった内容で補強されていたならば、坪井教授のコロボックル(全国)遺跡図は、北千島、北海道のみならずあの大森貝塚コロボックルとして内外に学術的なインパクトを与え、その後の研究進展に測り知れない好影響を与えたであろうと思うと誠に残念です。

問題はそれらの事が明らかになった今も、用語コロボックルを案出して自由闊達な議論を行い、祖代(後期旧石器時代)・縄文時代からの日本起源論を探求し続けた坪井教授が復権されず、明治来の先達の苦心の努力が正しく教室で教えられることもなく、海外に発信されていないことです。日本祖代研究会(RGaPJ)は、それらの事と日本起源論や北海道祖史の抑圧の無い自由活発な議論を強く求めます。時代は、人類史の初期アメリカ新大陸移住に日本ルートが登場しているのです。

図左、原産地調べで伊豆諸島の神津・恩馳島産の黒耀石が静岡・関東・長野でも発見されていますが、愛鷹遺跡の物は驚きの3.8万年前と年代測定され、太古のロマンある謎としてかつて朝日新聞が報じました。

最も近い石廊崎から遥か55kmの遠さで、どんな人がどんな舟でという事は実証も出来ず、残念ながら歴史発見ニュースという記事にはなりませんでした。従って、教室には至らず世界にも出て行きませんでした。しかし、①そもそも日本史の始まりは約4万年前、家族が曙海沿岸から対馬海峡40-30kmをフネ(筏)で越えて北部九州に至り、沖縄へ南下し東進して伊豆を通過して北海道に北上している海民性ある祖人Sojin(縄文人の先代)でした。②当時は海水面が数十m低下して陸地が拡大し恩馳島は神津島に繋がり、何よりも利島の西北に鵜渡根島が現れていて伊豆半島から屈強な男達が25km以下で達することができ、大島ルートも同様で利島以降のかなりの部分は舟を曳いて砂浜を歩いて行けたのです。この生業行き来の航海は世界最古です。実は家族による対馬海峡越えより余程容易でした。③当時は黒潮が四国沖で太平洋に去っていましたから、伊豆の海に今のような分岐流は流れ込みませんでしたので漕ぎ流される苦労もなかったでしょう。➃桜で有名な河津地域は、その後の縄文時代には黒耀石の工房があった所ですから繋がりが考えられます。河津東小学校は、校庭の黒耀石片を取り除かねば危なくて運動が出来なかったと言われており、凄い事です。他方、⑤県西の浜松では本州唯一の浜北の祖人骨と繋がりの縄文人骨が発見されていて、重要な実証参考です。フネに関しては、⑥祖代は氷期でその後の森林様相ではありませんでしたが、静岡東部は後の天皇献上の大船が建造されていました。

そして、⑦あのコロンブスが、カルブ海の現地民から聞いた「カヌー」の語は欧州から世界に拡がっているものの発現元が全く見当たらず、枯野・狩野・軽野が源という説を茂在寅男博士(東京商船大名誉教授)が唱えています。これだけの状況証拠ですから謎ではなく、歴史的発見として新聞報道すべきでした。図右、人類史の重要問題である「最初のアメリカ新大陸移住」で日本ルートも登場してきている昨今、要すれば学術に高め今こそ教室で教え、世界に発信する意義は大きいでしょう。

図右、人類史のアメリカ新大陸移住問題についての学界主流の見方はA、Bですが、日本に派遣された中世イエズス会宣教師(アンジェリス、大谷選手と関係なし)の報告はこのA、Bを認識するのみならず、ベーリングが海峡を発見する100年前、あのクック船長一行の150年も前に認識しており驚きです。

更に、当時宝物であったラッコの毛皮と大鷲の羽の出所について、北海道の北(千島)の3つの島で、島民の特徴はアイヌに比し①色はあまり白くない、②ヒゲは生やさず、③アイヌとすっかり異なる言葉(3百年後の1899年・明治32年の鳥居龍蔵の北千島調査では既にアイヌ語と同様)としていることが注目です。宣教師アンジェリスの報告は、北千島の人々はアイヌと直接接触せず、本道・樺太のアイヌのような小人伝承などもなく、一部には小人コロボックル(仮称:留頓ルートン)とは和人の事というアイヌとは異なる人々という一般的な賤視・神秘化認識の線上にあります。北(中)千島のこれらの宝物は、10世紀には交易品として根室地方を経て擦文人により函館で手にされていましたが、平安時代末に北海道を統括する地位にあった奥州藤原氏が12世紀には大鷲の羽を重要な財源とし、(伊勢)神宮の20年ごとの式年遷宮の神宝(4千本の矢羽)として供給していたことが注目されます。つまり北千島は、その宝物の原産地として津軽海峡を越え神宮に繋がる重要な供給ルートの一翼を担い組み込まれた存在でした。北千島―根室―函館―青森―仙台―伊勢という訳です。かつての国宝白滝・八ヶ岳・神津島の黒耀石ルート、沖縄~北部九州~北海道のオオツタノハ貝や新潟翡翠などの宝物ルートの中世版です。そして藤原氏が源頼朝軍に敗れた際も、落人部落でなく海峡を越えて北海道へと藤原泰衡(途中で殺害された)以下多くの臣民が向かいましたが、宝物ルートと無縁とは思われず、また、驚くことに北千島島民が誇りをもって源義経の千島北上伝説を語っていたそうで凄い事(ジンギスカンでなくインディアン大酋長か)です。

図のアメリカNativeインディアンのTシャツが、白頭鷲の羽をあしらってますが、ロシアの東西向いて統一支配すると言うような双頭鷲とは違った趣です。19世紀、いよいよロシアの進出で北方が厳しい状況になった際も、江戸幕府直轄として東北大藩の仙台藩が道央南沿岸の白老に元陣屋を構え、東北海道の大半と択捉・国後というあのルートに加え樺太警備にも任じましたが納得です。これらを教室で教え、内外の誤解を正し、世界に発信です。

現在の認識は、コロボックルとは日本史始まりの祖人・縄文人のことでしたし、アイヌは13世紀から。また、人類史のアメリカ新大陸初期移住問題の世界の学界認識は、シベリアのマンモスハンター・クローヴィス石器人のベーリング地峡からの進入説Aが揺らぎ、西海岸・舟進入説Bが浮上です。

図左下、米の高校教師参考の一教材動画ですが、最新発見のニューメキシコの「足跡」から、ルートC、Dを含めて一応巷間の諸説を網羅して基礎的な特色・実証面の問題点を紹介し、学生が考え・調べるための素材にもなっています。上図の日本ルートですが、舟が2万年前と紹介されているのは、発見最古の千葉・市川の縄文舟7,500年前と伊豆~神津島の黒耀石採取の生業航海38,000年前の中を採ったのでしょうか? 沿岸が離れる千島列島については、stepping stone として渡って行った感じを出しています。世界の議論がこういう状況となれば、明治文明開化の先達の諸議論に光が当たりますが、東京帝大の坪井教授による①日本の始まりを科学的に探求する、②学術用語コロボックルを導入して処罰の恐れなしに自由に研究議論する、③衝撃のダーウィン進化論を受け止め、貝塚遺跡人はアイヌ以前のより古い別種人というモース教授の実証考古学成果の理解、➃自らの北海道遺跡の実視とアイヌ聴き取りによる両面からの現地調査内容の判断 により開花期に科学的な真実追求の学問確立を目指したことが注目されます。諸外国の文献等の研究も踏まえた事でしょう、アメリカ北部まで視野(鳥居龍蔵の回想、大正8年帝大紀要)に入っていたことは驚くばかりで、他を抑圧することも無く小金井教授等の多数派に抗し奮闘されていたのは尊敬します。北海道新聞の記事、「鳥居龍蔵が恩師である坪井正五郎のコロボックル説を否定した」は、大正6年になって(北千島調査の18年後)師の説に関し学会講演で北千島コロボックルであるとはっきり求め人類学誌に記述されている北海道史の基本的な重要事項と異なる誤解報です。

これ等の事が教室で紹介され、内外の誤解が速やかに正され、研究者の発言が撤回・謝罪を求められることも無く自由が保障されますよう、日本祖代研究会(RGaPJ)は強く求めます。

江戸・明治人の坪井正五郎(日本人類学の祖)は、「皇国の臣民が猿と祖先は同じ」(ダーウィン進化論)、「北海道の竪穴や土器はアイヌの前に居た古い人民」(プレ・アイヌ説)という衝撃の外国人論説を理解し受け止め、現地調査などを踏まえて日本の始まり探究における先人呼称について、学術用語コロボックル(現英語表記Corobocle)を案出して文明開化の人類学を興し、科学的な熱い論議を主導しました。

用語コロボックルによって、議論は謝罪・撤回の強制や失職・入牢の咎めを受けることもなく、また、仲間同士の反論を抑圧もせず、遂には学術的な(全国)遺跡分布図を作り上げました。当時はDNA分析やAMS加速器年代測定・ウラン系列年代測定など全く想像もできない時代に祖代・縄文の実相にかなり迫っていましたが、驚きの素晴らしい偉業です。可愛いコロボックルが広まっているのはよいですが、教室で当時の学術面の活動と成果が至当に紹介され教育されていないのは問題で残念な事です。その一因は、明治32年の鳥居龍蔵の北千島コロボックル調査にあり、政府の保護策で色丹島に移住させられていた島の人々はコロボックルなど聞いたことも無いと答えたことが大きな理由で世の中の熱意が失われ、やがてコロボックルはおとぎ話に変わっていきました。蕗の下の(小さな)人という意味のアイヌ伝承は、鳥居の助手である北千島出身の現地古老が「バカにするなと」と怒ったようなものでしたので、言われている当の島の人々が語らず知らないのは当然ともいえることでした。鳥居自身は第1級の優れたフィールドワーカーであり、研究の積み重ねから18年後の大正6年になって、北千島の人々は師である坪井教授の唱えたコロボックルであると理由を付してはっきり認識するに至り、講演を行い活字(人類学誌)にもなっています。問題はその事が今も師説否定と誤報され、追認の認識が正しく大きな声で発信努力がなされておらず、欧米の一流大学の教授や国連UNにこのような日本史が誤解されて誤った内容がまかり通っている事なのです。

更に昨今、人類史の最後の謎ともいうべき「初期アメリカ新大陸移住First Americans」問題において、2.3万年前のニューメキシコにおける足跡の発見で人類の初渡米定説が揺らぎ、九州~北海道~北千島を通過する昆布ハイウェイ・ルート説も登場しており、アイヌと異なる最古の第1渡道で北千島に北上したコロボックルであり、祖先の石器人遺跡を有する遊動海民「留頓・ルートン・Routon」(仮称用語)が、かつてはカムチャッカ半島南南部が主体(北海道大 高瀬克典)であって注目される時代なのです。教室でこれらを紹介する教育と学術論議が行われ、世界に発信を行って内外で正しく認識されることを強く求めます。 ―日本祖代研究会(RGaPJ)

生臭い刺身を、海の雑草を食べるなんてと言っていた欧米先生が食べだしたのはそれほど遠い事でなく、そのためか人類史は主に狩猟と石器で語られてきました。

しかし、①華奢で皮膚丸出しの新人が厳しい生存競争の中を生き抜いたのは、水辺の食にあると言われています。アジアに関わる出アフリカの揺り籠と言われている東部アフリカには大河と湖沼が多く、豊かな魚介類食こそ新人が見出した競合のニッチで、脳や精に効くDHA、EPAを含む優れモノでした。質量充実した脳を持ち東進した新人は、他の動物は越えない異相線を筏(フネ)で進んで行き豪(6万年前)にまでに至ったほか、早い時代からマグロなどの外洋魚を獲って食しています。実験航海(コン・ティキ号の南米~ポリネシア筏航海)によって、筏には、魚や蟹などが寄って来る、乗り込んで来る小島のようなもので、スコールの水があり、豪へは最大90km以上を航海したと考えられています。また、最古の耕作痕跡から5-4万年前には自然に手を加え芋などの栽培に着手し、長期間かけて選抜改良してきましたが、これは海の魚介の幸、森の根菜類や果実などの幸に恵まれた地で種々の例と余裕の元で試行されたものです。サウアー博士は、鶏・豚の家畜化のように選別が行なわれて、農業の前に東南アジアの漁撈民の庭から中東より遥かに早く栽培農耕が始まり、水稲稲作が(南)中国や日本に伝播し高度化したと言っていますが納得です。②稲作と言えば長江ですが、そもそも「貧相な雑草」の野生イネを最終氷期が完全に終わり、1万年前頃に本格的に温暖化してから選別改良して栽培化し得たか疑問で、漁撈民による伝播があった(DNA分析による支持説)のではないでしょうか。日本に関しては、始まりが500年早まり、必ずしも大陸の戦乱逃れ民による持ち込みの導入説でなく種々議論があるようですが、漁撈具を伴う登呂の水田稲作遺構は原型的で興味深い事です。唱歌「われは海の子」を必修に。

2.3万年前の北米足跡発見の衝撃で静かな中、最新のアメリカ先住民史IHNの動画は、①米国Davis・Madsen 両博士の沿岸ルート、北海道東(ゲートウェイ)発進説を可能性が高いとして採り上げ(従来のベリンジア地峡のハンター通過説を否定はせず)ています。

特に赤枠で囲った地域に注目(注:PSHKのS樺太は異質)し、1.北海道祖人Sojinが道東を発進とし、アリューシャン列島東端(「米臨海」を抜けた本土入り口?)迄の図の青線が4,600kmと紹介しています。また沿岸ルートであることから北海道~カリフォルニア、南米西岸にもある食豊かな「昆布ハイウェイ」と共に、2.日本の海民性に着目し、3.8万年前に黒耀石を求めて伊豆の海を神津島へ生業航海した事や沖縄の3.6万年前の実証人骨と釣り針を指摘しています。北海道については、当時海水面の数十m低下で陸奥湾が河川を有する広大な平地であり、太平洋側と大雪が降らずに暮らせた日本海側から北上した東西の祖人Sojinが合流し賑わいの状況があっただろうことは、発掘された祖代遺跡はもとより、水没後の次代一日にしてならずの縄文世界遺産(土器が北海道へ)の親であり納得です。始まり時代は背後の本州文化に支えられて大間・竜飛から渡道した北海道の基盤であったことに思いを致すべきです。2.の海民性も、そもそも始まりの北部九州への約4万年前の40-30kmの家族渡海をした造舟・操舟の能力は、欧州の洞窟で絵を描くより凄くないですか。伊豆の航海も次の縄文では工房が出来ていますし、近くの同時代の愛鷹石器群、人骨実証の浜松、長野高地には多様な石器群があり、原産地なのに神津島産が発見されている驚きの交易など、広域の厚い実証の基礎に支えられておりもっと世界に状況が発信されるべきです。

この点で②、巷間本や博物館に「日本人は何処から」で3方向渡来図が見られますが、時代の異なる方向で肝心の沿岸ルートは無く誤解を与えます。始まりの移住は、北部九州から北海道への北上と沖縄への南下です。何より、3方向渡来図は日本から出ないため、①両博士の説が出て来ない大問題です。③IHNは、Y-DNAの世界拡散図を紹介していますが、環太平洋移住(MPOR)説(日本祖代研究会)を支持する日本列島通過ルートも含まれているのです。日本始まりの北上・南下図とし、世界には「道東ゲートウェイ」発進説が出ていると教室で教えるべきです。国際共同研究を主導し、日本の特筆事項の世界への発信も。

図左、世界には区別ない人は沢山いる、良し悪しでは全くない。

「RとL聞き分けられぬ耳で良し日本語をまずおまえに贈る」(俵万智)

その耳でよし、虫の音を川のせせらぎを楽しみなさい。そして、現生人類史の謎、アメリカ新大陸の先住民問題と日本の関わりにも目を開かせよう。

図右、Y-DNAの拡散で東南ア・スンダランド地域から北上し、日本列島ルートを通過する動画が登場。23-21,000年前の北米ニューメキシコにおける足跡発見で、「最初のアメリカ人」定説が揺らぐ中、日本祖代研究会(RGaJP)が長く提唱して来た日本を含む環太平洋ルートの現生人類初期における環太平洋の沿岸地域の移住(MPOR)説と軌を一にしており、説にも光が。これにより、当ブログでかねてから累次説明してきました北海道・「道東ゲートウェイ」(帯広で昨年、1.5万年前の黒耀石がザクザク)から千島・樺太への北上継続による世界人類の拡散史における関わり可能性の重要性が認識され、祖代史の研究と更なる発掘に日本の責務ありです。

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