巷間本から、第1図のルーツは内陸3方向から図が消え、(2代目の)縄文人は何処から?という愚問も消えて歓迎ですが、そのためにもやもやで、未だ「沿岸ルート」を言いません。ところが次いで重要テーマである第2図文化地域区分で、間違いの3区分説図が登場して来ました。見にくい図ですが、縄文早期に至っても斜線をよく見ると4区分とすべきことが分かります。

重要なことは、巷間本は①始まりルーツに係る「曙海」沿岸である九州西岸(五島~薩摩)から沖縄地域の繋がりを全く認識していないこと。②津軽海峡で分かれず、祖代はもとより円筒式土器など両岸は共通であること、③中央部で東と西の複合性(現在の関東やがて甲信越・東海含む列島中央部)があることで、この4区分は実は相当長く日本列島文化を認識するベースになり、やがて縄文を過ぎると「西」が注目されるのは承知のとおりです。そして第3図、始まり時代における南方から北上して適応した拡がりと定着、約2万年の「日本祖人」文化の基層を認識していません。北海道「日本祖人」は、世界が注目する「最初のアメリカ人」の候補である可能性が全く巷間本には出てきません。3区分図は、どこから導かれるのか不思議で、史実を全く無視したアタマの産物の酷いものです(歴史説明本なのに!)。



やはり、学校教育は罪深いです。「最初のアメリカ人」のシベリアルートが揺らぎ崩れているため、世界学界では南方からの右第1図、日本列島に注目(緑線)して来ていますが、井の中の論争相手多勢は、全く理解出来ずトンデモ話扱いです(学問に多数決はないのに、聞く耳を持ちません)。北海道へは北から南下の信念強固で、頑迷。

さて、折角の第1図南方・日本列島ルート着目ですが、日本学者の発信が無いので問題が2つ。①南西諸島の慶良間ギャップが約200km、②アリューシャンのアッツ島へは450km(赤〇)で、万年大昔には家族が舟で多数が行くのはムリでしたでしょう。で、黄色線に修正です。次にベーリング地峡の細部ですが、第2図、A沿岸とB内陸です。ルートはa、bで、有力説の「舟で沿岸・昆布ハイウェイから」となるとBで来てb2に切り替えが、容易な事ではないですがあり得ます。更に、A、Bが混血してCになって入って来たことも考えられます。今、世界はここを幅広く何とか解明をとなるのですが、激論君たちとはとてもここまで話は行き着きませんでした。彼らは縄文以前は用語も意義づけも従って議論は無く、無関係と言うのみです。鎌倉時代からのアイヌは、彼らにとっての始まりである縄文からと言う1点張りで、他人の話を理解する気がなく、聞いたことないトンデモで切り捨てです。 激論の彼らが相手にしない北海道「日本祖人」は、重要な候補なんですが残念、 まずはため息と共にご報告。

「最初のアメリカ人」の我が投稿に対し、返信質疑をやりとりしたところ最後には、「そんな論文は見たことない、妄想だ」と言われました。そうです、日本学者が世界に向けて発信していない事が問題なので、見ていないのは当然です。質疑してみると北海道史を理解しておらず、アイヌを誤解しており、標題の下図3点セットを送りました。

第1図、これまでのシベリア定説が、氷床による閉鎖中の古い遺跡が北・南米で幾つも発見されて崩れ、また、ベリンジア地域での発見遺跡は今のところ15,000年前ですが、2.5~2万年前から数千年間ベーリング地峡で滞留して温暖化後(17~16,000年前)に、北太平洋沿岸・昆布ハイウェイを舟で入って来たと替わり、ルートAがしっかり浮上、①~④で説を支えます。出発地の状況は、第2図、32,000年前には北上した日本祖人が道内に拡がり、北上を続ければルートAと成ります。なお、北海道大学の研究結果の第3図、アイヌは鎌倉時代からのことですので本件の万年前話には無縁ですが、「先住」国会決議・アイヌ新法の誤解は罪深いことです。縄文人さえ間に合わずお呼びでないのです。即ち、「日本祖人」という用語がなければ、欧米の論議に分かり易く参加する事ができず、現に日本列島を通るルートAが浮上しているのに参加が無い、むしろ世界の誤解を放置しているのが現下の問題なのです。次回、その辺を。

さて、長い間、アメリカ先住民は、シベリア~ベーリング地峡からマンモスを追って入って来たと考えられていましたが、第1図、氷床で閉鎖されて米国・南米に行けない頃よりも古い遺跡が幾つも発見されて説が崩れました。もっと早く氷床通路が開いたのではと考える人もいますが、有力説は北太平洋沿岸・昆布ハイウェイを舟で入って来たとなっています。2.5~2万年前には地峡に出て来てそこで滞留して種族が混ざり合ったと言うのがDNA分析学者の説です。それでも何となくシベリア狩猟族が、地峡で舟に乗り換えてと思っている人が多いのでしょうが、当然、ルートA説が浮かび上がります。


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①北海道に32,000年前から「日本祖人」(38,000年前には伊豆の海を島に行き来した海の民)が居た、②千島列島は食豊かな昆布ハイウェイ沿いで次々の島が見えていた、③「米臨海」には北極の冷水が流れ込まなかった、④地峡沿岸の気温は氷河期ながら今もとあまり変わらず、昆布ハイウェイは続いていたなどが、説を支持します。米先住民に残っているDNAはシベリア系要素が多いようですが、南米までも視野に入れれば、沿岸ルートは重要です。そして、第2図北海道の日本祖人は、九州から北上し青森から津軽海峡を渡って雪と寒気に適応した人々です。これらは石器分析で明らかです。そして、この問題で欧米にも誤解の多いのがアイヌで、第3図、鎌倉時代頃に北から入って来て日本祖人~縄文人~擦文人という先住民と混血した人々です。国会決議のアイヌ「先住」は誤解を生んでいる罪深いものです。そして、「最初のアメリカ人」問題を論議できないのは、標題の3点セットが教えられずに誤解を生んでいるのが問題なのです。現在、ルートAを学び、研究して世界学界に寄与することが求められており、少なくとも東京・札幌五輪では、問題の存在とこの3点セットを理解してお客を迎える必要があります。日本人と米先住民は、親族の可能性があるのですから。


中田君(第1図)が教わった学校がそうだから仕方ありませんが、「大陸と繋がっていた頃、やって来たヒゲもじゃの槍持った・・・縄文」です。今も巷間本にある、日本史の始まりに対する「さらっと」さと関心が縄文から始まる誤りです。その言い訳は、「This is 日本祖人の人骨が無いし」ですが、復元された石垣人や港川人などからのイメージは、時代と場所から十分に「祖人」を窺わせるものなのです。

1万件を超える遺跡から、始まりは約4万年前・九州で考古学者に異論無く、「日本祖人」は、大陸とはとっくに繋がって「いなかった」海を家族で越えて渡り、九州から北上して3万年前には北海道から沖縄までの列島中に拡がり、生活の痕跡を残して切れ目なく次の「縄文人」と呼ばれるようになったことが実証されています。既に、造舟、海洋操舟、陥し穴猟、釣り針など世界でも誇るべきものがあり、極めつけは38,000年前からの伊豆半島~東京都神津島へ、黒耀石を求めて20km以上の海を行き来し、広域の交易までしていた事です。 私たちの基層の文化・習俗となる長い 2万数千年間の「縄文人の親」たち祖先の世界的な偉業です。とても軽視できる時の重さじゃないのです、「ヒゲもじゃの槍者」は勘弁してください。彼は、「元々日本はどうやって始まったのか」という良い問いを発してますが、デタラメで答えになっていない説明が酷過ぎます。

問題はそういう事なので、第2図、雪と寒気の北海道に家族で渡って行って適応を果たし、道内に拡がった北海道「日本祖人」が、世界注目の「最初のアメリカ人」の候補だなんて、中田君には全く思いもよらないのです。子供たちは
(学校の先生も)、道東の状況や遠軽白滝はもとより、「昆布ハイウェイ」もベリンジア(地峡)も知らないので、国際的な場で大恥をかくことになるのです。もう、これは文科省の罪です。


北海道は32,000年前頃の氷河期に、九州~本州青森から、80mくらい海水面が低下し狭くなった津軽海峡を越えて北上して来た「日本祖人」(縄文人の先代、初代列島新人)が、沿岸部から道内に拡がって万年の基層を作ったものです。各種資料の記述にみられる樺太の方から南下して来たものが始まりではなく、全く話が逆転した誤解が問題です。そして、鎌倉時代からのアイヌから北海道の歴史話を始める資料は、論外です。

更に、石器の示すところでは、最寒期(LGM)の寒さを逃れてという事よりも、その後の温暖化による植生変化でマンモスなどの食料であるシベリア・ツンドラの草地が減り、ぬかるみで移動も困難になって来たシベリアから大型草食動物が激減した事が南下の主たる理由であり、1万数千年前の細石器による中・小型動物の狩猟へと適応していった時代の南下が主なのです。遥かな大昔にマンモスが北海道から本州に、ナウマン象が瀬戸内にまで入って来た時代の話と混線しています。出戻りした人たちがいた事も考慮すべきです。そして、北海道史で注目すべきことは、氷河期に青森から昆布ハイウェイを北上して来て北海道での暮らしに適応した日本祖人は、その後の状況に応じて食の豊かな千島列島・樺太への北上を続けたと考えられます。

行く先はず~と見えていました。昆布ハイウェイは、カリフォルニア、南米沿岸まで続いていました(プーチンは居ませんでしたし)。つまり、世界の学界が今注目している「最初のアメリカ人」の候補なのです。世界の学界の課題に無関心な、誤った逆立ちの北海道史イメージを正し、北海道の状況を明らかにして寄与しましょう。

人類及び日本人のルーツと拡がりのルートの巷間本の説明が第1図、拡大付記した第2図です。まず、日本人についての説明が、例の3方向から入り混じりのごちゃ混ぜ図ですので問題です。Sundalandから北上した流れを表示してほしいものです。他方、世界の学界が注目する「最初のアメリカ人」問題に寄与・参加する線も、当然にして第2図で付記した説明も全く無く、関心が見られません。

第1図のように、シベリアから来た一辺倒という事であれば、世界の学界がこんなに苦労することはないのにです。日本列島を北上した「日本祖人」が、北海道で留まる訳はないでしょう、non STOP です。その事は、東京・札幌オリンピックを前に、北海道の歴史が、誤解されたままよく分からない状況なのも問題です。実は、第2図北米の氷床が融解して「無氷回廊」の開かれた時期と人類が北米全域に拡がった時期がミスマッチなのはダメです。即ち、鍵が開いてないのに北米部屋に入って子供たちが遊び回っているような図ですから、オレゴン州の学者さんは、こんな説明は相手にしないでしょう。また、33,000年前のベーリング地峡進出の説明も驚きで、どうやってそんな時期にそこに達したのか不明です。いずれにしろ、日本学者の特に出発地の北海道史に関するまともな発信が無いため、世界の学界も困っていると思われます。

ベーリング地峡への進出時期・様相、舟で北太平洋の沿岸(昆布ハイウェイ・ルート)を移住する問題、北極海の冷水がベーリング地峡でstopされて流入しない当時のハワイに繋がる「米臨海」の状況など、本問題に関するいろいろな検討課題がありますが、日本学界の現状は誠に残念、かつ、誤解を振りまいている現状です。正してPRを、子供たちに歴史の真実追求を教えたいものです。


現生人類の拡がりは第1図、①出アフリカ直系インマレイド(欧米学者は、ジンギスカンにびっくりで「先」モンゴロイドと呼称)が北上し、②降雪寒冷に適応してモンゴロイドにはっきりインマレイドから身体変化し、今度は南下して来たものです。この強い影響が東南アジア・インマレイドにまで及びましたので分かり難く誤解の元ですが、マレイ半島には今も黒人ネグロイド系の痕跡の人達がひっそり居て、人類の歩みを教えてくれます。従って第2図左下から、ラオス6万~台湾5万~北部九州4万~東京諸島3.8万~北海道3.2万という基礎となった拡がりの歩みが良く理解できます。


「日本祖人」が当時の優れた造舟・操舟力のある家族で渡海の民だったので、黒耀石採取のための東京都神津島への行き来も、世界が驚く程の「謎」ではありません。下図で諸島における歩きで舟のえい航を行えば、当時の北からの流れに逆らわずに行き来できます。


次に第2図右下、沖縄本島に至る黒潮越え問題ですが、鍵は越えて行った住民の特性です。Aは渡海の民の子孫で、次の島々が見えていました。Bは欧州の地中海もどこも同様の沿岸におけるカニの横這い(フェルナン・ブローデル説)の一般的な拡がりの民で、始まり時代には島が見えない渡洋という行動は有りませんでした。従って、石器は南西諸島南下を示し、その後の貝類交易の宝物は北上という考古学常識になります。実は八重山へは、台湾からの距離は曙海時計回りが遥かに遥かに遠いですが、九州から南下して行ったのが先の可能性もあります。それは台湾学者が、あの時代に家族が危険を冒し、黒潮流を越えて八重山に行く「魅力」は無かったと言っているのです。

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というのは、島では食料の確保が容易でなく、小型化するだけでなく長く生き続けて痕跡を留めるのはムリというのが歴史界の一般認識なので、南西諸島はやはり驚きなのです。さて問題は、この人類史の流れの基本を違えて内陸の方から矢印を登場させたり、樺太の方から入って来るという、時期が混じり出戻り含めて入った異人の量を考えないごちゃまぜの図が誤解を招いています。ポーランド~南スペインに匹敵する日本の広域への北上拡がりで、かつ、定着1万数千年間の歴史の重さを認識し、オリンピックまでに正し子供たちと訪問客にきちんとPRしましょう。大事なお・も・て・な・しですから。


まず、巷間本の北・西・南3方向から列島に入って来て混じりあったという図が、時期を付しても誤解を生む大きな間違いです。第1図のとおり北上史を石器がはっきり示し実証されています。第2図左下、約4万年前当時の地形から、南方から北上して「曙海」ほとりの「北東ア平野」沿岸から時計回りに入って来た最も基本のルーツに関わるルートの事がどの本にも、博物館の図にも有りません。そして、九州から列島中に拡がり、北海道も数千年以上の基礎がありました。

最寒期(約2.4万年前)までの長かったこの間の補充は、基本的に曙海ほとりの同種の人たちです。即ち、列島に拡がった「日本祖人」の基礎の上に最寒期頃以降に、北・西などの端から、しかも「ゲルマン民族大移動」のような大量の流入や入れ替えは日本史には無く、量が多くない大陸系の人・出戻りの人たちが加わり日本祖人と混じり合っただけものです。このような①基本の北上筋を押さえず②列島登場の時期・仕方も③それぞれの量も違うモノを、3種混合のように記述している間違いです。あたかも胃に入れば同じと、ご飯と刺身と吸い物を丼に入れ混ぜて「日本人丼」として出されたようなもので、とても食べられたものじゃなく、また欧米人が好む旧人話も別な事です。次に、巷間本は、ともかくも‟縄文”です。

酷いのは、ずばり縄文人のルーツを問うてます(2代目なのに)。日本の酸性土壌では、「This is 日本祖人」という人骨が見つからないという事情だからです。①2.7万年前の沖縄・石垣人骨は曙海ほとりなので、日本祖人と同様と考えて良いのです。皆が認める南方系ですし、②年代明らかで豊富な石器遺跡が、日本祖人の存在を十分示しています。③北海道「日本祖人」を認識していないため、今や世界学界の関心事である「最初のアメリカ人」論議に寄与どころか参加すら出来ていないのです。米ネイティブ・インディアンは、正に親族かも知れないのにです。縄文、アイヌはいい加減にしましょう、図書館・本屋の多数の書籍にため息が出ます。もはや、日本の子供脳に対するイジメです。東京・札幌オリンピックまでに、しっかり正してPRしましょう。



現生人類が出アフリカを果たし、東進そして西太平洋沿海を北上の後、「曙海」を渡って約4万年前に九州に多くの家族が舟で来て、南方系の「日本祖人」は3万年前には雪と寒気の北海道から沖縄まで列島中に拡がり(1万件を超える旧石器遺跡が実証)ました。寒暖の四季があり緯度の幅が広く噴火(姶良大噴火)や地震・津波の多い地に適応(現在の基礎)し、遊動生活を開拓しました。

北海道からアメリカ新大陸にも向かったであろう、長かった時代末期の最寒期(LGM)の寒さやシベリア温暖化期(草食激減)の大型獣の減少などで西からと北からの狩猟族の流入がありました。次いで、定住化した縄文時代には、広域の交易も行われて列島内の生活文化の向上と熟成が見られました。末期には、大陸の戦乱の影響や稲作・金属使用の生活変化が九州から再び北上して行きました。この生活変化は王を生み出していき、神武天皇(大阪の地形研究で神武東征神話を実証) からの祭政両面にわたる独特の皇権による統一化が進み、やがて憲法と律令が整い名実ともに日本国となります。



米国スミソニアン(博物館)誌の新年号の特集トップ記事・第2図は、「最初のアメリカ人」問題で、北海道Hokkaido in Japanがしっかり登場しています。第1図、北海道の多数の旧石器遺跡の中で道東「日本祖人」は、道内でも最も注目されます。第2図シベリア・バイカル湖人Bと並ぶ実質的な2大候補として世界の注目でもあります。

記事のDNA分析からは、第2図、最初に入って来たのはAだけでもBだけでもない、〔2万年前(以前)に達したとみられるベーリング地峡での(数千年の)一時的な滞留間にDNAが変化した〕「C」ということだそうです。B ルートは遺跡が少なく(今後の発見にもよる) 真冬には-60℃にもなる移住であり、約2万年前からの温暖化以降と考えられますが、A北海道の遺跡は多く、古さもあり、千島列島は次々に島が見えていたハワイに繋がる「米臨海」沿岸の「昆布ハイウェイ」の移住であることなどの点で条件は良く、有力な候補と考えます。米諸大学・加・デンマーク・露の学者の発言中に、2万年前のベーリング地峡南側の到着に間に合わない縄文Jomonや全く論外である鎌倉時代からのアイヌAinuが話に出なくなったのは大変良いですが、折角、(日本祖人が)黒耀石採取で伊豆の海を行き来したことに言及されているものの、年代が3.8万年前であるのに、3.5~3万年前となっているのは訂正を要する日本側の発信の問題です。

さて第2図、DNA分析からは最初の進入は数百~1・2千人、沿岸の氷床が融解したのは18~17,000年前で内陸の14,000年前頃より遥かに早かった、南米や大陸内の遺跡の状況から南米への南下と2・3百年での北米内拡がりは速かった、沿岸南下の最初の分岐はワシントン、オレゴン州境のコロラド河口だった、シベリア北部のYana遺跡(3.2万年前)を露が挙げてるが実質的には本件に関わらないとされるなど納得しうるものです。尤も、コロンブス以前に北大西洋から北米東部に渡って来たという説が、依然として挙がっています。本件ではとてもあり得ないと思います。いずれにしても、露学者の名は出ているのに北海道「日本祖人」を擁する日本学者の名が本件に出ないのは問題で、北海道の先史研究に科研費の有効利用を期待したいですし、これらのことを全国の学生・生徒が殆ど知らない現状は大きな問題です。 科研費を投入して世界に寄与し、 東京・札幌オリンピックを機に「日本祖人」と米国Nativeインディアンが関わりのありうることのPRなど、是非とも挽回を図ってほしいものです。

大阪で地形史の研究が、文献・日本書紀や生國魂神社の社伝を実証(長浜浩明:日本の誕生)しました!  神武天皇の長すね彦との戦闘に至る重要記述の実証ですが、その前後の記述を検討すれば、神武天皇の東征・建国に関する記述は、北部九州以外の西日本を統一化した、日本祖代―縄文時代以来の列島史の大転換の画期だったと言えます。日本祖代~縄文時代~建国時代~古墳時代~・・・。

戦後は、ギリシャ神話は教えても肝心の日本の神話を教えない異常な状況にありました。荒唐無稽なギリシャ神話に比し、より史実を感じさせる神武天皇の建国に至る話の戦いに至る部分の一部が、大阪の地形史の分析から実証された意義は大きいです。紀元前1000年前から大和王権樹立頃までの当時の東アジアの状況を俯瞰すれば、神武天皇の建国は意義深く、これまでの魏志倭人伝偏重の史観に転換を迫るものです。稲作北上の”足踏み線”以北の北海道にまでに至る主体の「縄文派」を視野に入れて考察すれば、建国が日本史上の注目すべき大転換の事象であったことが分かります。正に長浜弘明・「日本の誕生」と共に、子供たちに日本史の重要事象を教え継がねばならないと考えます。

日本人とは、「日本人のルーツは?に強い関心を示す者たち」と言われています。そして、巷間の書籍や博物館は、第1図のような複数の赤内陸ルートからを示していますが、①黄色の沿岸ルートで「北東ア平野」沿岸を北上して「曙海」のほとりから舟で渡って、列島を北海道にまで北上とはっきり図示したものは無く、このために世界的にもこれを図示したモノはまず見ません。1万件を超える我が国の旧石器遺跡の検討から導かれるのにです。

ところが、赤ルートは、アフリカを出た現生人類がどうやってそれぞれの小赤〇にやって来たのかと問えば、内陸の遺跡が黄色ルートから河川を遡行したことも考慮すると、実は日本始まりの検討に値する古い足取りの考古学的な裏付けが辿れず、答えに窮します。北ルート樺太から入って来たと図示されるので、②北海道から外に「出ない」ため、「最初のアメリカ人」論議とは無縁となっているのです。まして北海道~樺太~沿海州という「日本祖人」の北上などまるで考えられていませんから、沿海州の遠軽白滝・黒耀石も単に交易で済まされています。更に、日本人のルーツに触れた高名な学者の一般書も③縄文人は、ということですから、「最初のアメリカ人」は1.7万年前以前に来たという最新説の議論には、日本学界諸説で最も早く縄文人を登場させるもので1.65万年前ですから、全くお呼びでないのです(世界に誤解の多いアイヌは、鎌倉時代からで論外)。

即ち、単に旧石器時代(後期)と記述する(しかも世界とは期間を異にする)だけのことで、「日本祖人」という祖先の、人の用語が無いところに思考は生まれないのです。日本の始まり歴史のこういう扱いですから、第2図、渡米の基礎となる北海道史はどういう事なのかという重要問題にも関心が薄く、明治以来の欧米におけるアイヌは白人系という国連UNにも誤解の影響が及んでいる事も含めて、放置されていると言うべき残念な状況なのです。世界の学問的な重要課題オリンピックに参加もしていない現状は不適切であり、先生方は認識せず、子供たちが全くこういう現状を聞いてもいない事が問題です。東京オリンピックはスポーツの祭典ですが、世界の誤解を解きかつ正しく理解してもらう内外PRのチャンスなのです。


第1図、西太平洋沿海原族が北上して「曙海」を舟で渡って九州に来て、北海道・沖縄にまで至りました。舟を操作でき海を家族で渡れる言葉と生活文化を持った祖先は、2万年を超える時の積み重ねを経て、次代の縄文人と呼ばれることになります。始まりを考えれば、3.8万年前に黒耀石を求めて東京神津恩馳島に行き来していたのも謎ではなく、海辺の道東が先進であった事も不思議じゃないです。

第2図、道東は青森に近く、食は豊かで、日本一の黒耀石産地と も 絡んでいました。襟裳岬の春は、なんでもある春だったのです。ですから、プーチンが居ない時代に留まっていた訳がなく、千島列島を北上し続け、ベーリング地峡で北極海の冷水が止められた「北太平洋沿岸の昆布ハイウェイを舟で入って来た」(最初のアメリカ人の最新説)の有力候補だと言っているのです。無論この重要な北海道史に、アイヌは無縁です。 因みに、道東の人たちの旅行先が、東京・大阪よりもアメリカ西海岸だって知ってますか? 父祖の地の始まり時代の歴史を子供たちに教えましょう。


新型肺炎コロナウィルスが今問題ですが、そこは大河の揚子江・長江の中流域です。稲作は、かつては高地の雲南で始まったと言われた時期がありましたが、その後の河姆渡遺跡の発掘などから中・下流域でと修正されました。このことは、歴史の捉え方を教えてくれます。

即ち、西太平洋沿海原族は北上しただけでなく、河川を遡行もしたということです。高地で古い遺跡が発見されたからといって、人々の歴史が、上流から下流に展開していった訳ではない事例ということです。そのことは、上図のAの傍証でもあります。はっきり言って学界は、内陸部偏重です。日本人のルーツ研究の問題で、心しておかねばならないことを武漢が教えてくれています。高地少数民族で、武漢が原郷だと語り伝えている種族もいます。万年前の川傍・海辺の遺跡が発見されるのは容易なことでなく、流れが変わり海水面は上昇しますので。稲作の始まりが修正された事例は、揚子江・長江にとどまらないのです。また、一旦、河川を遡行して上がって行って、優れた文化が下って来る、下がってからということもあり得ます。インドネシア・パプアで、9000年前の農耕の痕跡が高地で発見されて最古と言われていますが、見つからないからといって中・下流、それ以外の地では無かったとはとても思えないのです。

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