欧米先生は、はっきりした中東と東南アジアの往来の実証がないとして採り挙げていません。

ですが図右、①祖代研会員は、当時活躍(主に地中海)していた秘密主義のフェニキアが豪州東部に来ていたとの噂話の記述を見ていますし、何よりもエジプトのヒエログリフに描かれた交易品・宝物は赤道直下の東南アジアからの物とのインドネシア古代史専門家(Dhani Ilwanto)の研究があり、中東・インド洋で行動の海民タミルの関りも考えられます。②図左、有名な女性ファラオであるハトシェプスト女王(言われていたほどの悪女でなく、イメージの修正を)の世界遺産・葬祭殿のデザインは、隣の崩れた土台しかなくよく分からないメンチュヘテプ2世からのもと言われています。だが、エジプトロジスト(エジプト古代史専門家)は、ともかくあのようなデザインはエジプト自発とは思われず、何処から?と、問いを発し論じているのです。エジプトと東南アジア、欧米先生はまともに迫ってほしいものです。そして日本の教室も、いずれこのような世界史の波が海からも新しい刺激として縄文に及んでくるので知っておくべきことなのです。―日本祖代研究会(RGaPJ)

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ときどき街の食堂で、アジアの楽園のSundaland関連記事を探して古新聞を読みますが、この写真にはびっくりしました。

私のホームページ読者の皆さんなら、何度も目にされている人類の進出展開の北上ルートを想起させますので。

渡り鳥図syuku 

(10.1付 Pikiran Rakyat 紙から)

人類進出図和syuku10.5

これはハチクマ鳥の渡りであり、冬モンスーンの9月から3月は、アジア北から大陸ルートを暖かい豪へ、夏モンスーンの1月から8月は、大洋ルートを北上し日本へという、1,300万年前からとみられる渡り行動です。

ハチクマ鳥縮 渡り鳥図

(10.1付 Pikiran Rakyat 紙から)

日本では、ミツバチの巣の蜂蜜や幼虫を食し産卵もしますが、ミツバチは巣を壊されるとまた別の新たな巣を作りますので、鳥によって飼育されているようだと言われています。

雨が近づくこの時期は、渡りが当地では田植えを始める時節であることも告げるそうです。

私の住んでるバンドゥン東北のDago 地区は、渡り鳥が列をなす回廊コースだそうで、記事は環境観光の振興を提案しています。

私は、人間の到着の遙か昔から行われてきたこの万kmという長距離の鳥の渡りは、人間の新たな進出展開に大きな影響を与えたものと思います。

鳥が行って帰ってくるということは、未知の地への展開が保証さているようなものです。空中という天・神に近い所で行動し、人を導く天使のようなものと思われます。

此処では鳥籠の鳥がバスターミナルなどあちこちで売られ、大事にされていますし、国章のガルーダ(イスラム国ながらヒンドゥーの神鳥)はもとより、パレードにも堂々登場します。

パレード鳥syuku

既にお伝えした、例えば、スクー寺院の彫像に羽がついてるものがありますが、鳥人です。

人のようですが、羽を有し顔は鳥であり、足の指爪も鳥です。

鳥の万歳

Samanthoによれば、このような鳥人ものは、下の写真の左がスクー寺院、右上がマヤ、右下がユダヤ民族が過越祭の晩餐で読む有名な冊子にみられる鳥の頭を持つ人だそうです。

スクーの万歳

そして、鳥人はメソポタミアのシュメール(Samantho左)、バビロニア(同右)とも共通性があります。

長江文明も太陽と鳥、インダス文明の鳥土偶、そして日本のアイヌの鳥信仰は縄文人にもあっただろうと推測され、神武東征神話は、八咫烏です。

先史時代、鳥は遠く離れた地域でも人々にとって特別な動物であったようですので、人々の移動・交流は興味深いことです。

やはり人間も同じように、氷河期終期の寒冷期にはアジアの楽園に南下し、暖かくなれば北上して行くということが繰り返されたことでしょう。

そして人々のこの離合集散が、異質の触れ合いによる文化、文明を育んだものと考えています。

鳥は、渡りを行うことや船乗りなどの情報収集に重宝された天・神に近い、人を導く天使のようなものであったのだろうと思います。

当地バンドゥンは、オランダが植民地時代にジャワ(島)のパリにしようとしましたので、アジアの楽園のSundalandの中でもユニークな街でしょう。

日本の皆さんに人気のインドネシアのバリに対するジャワのパリという訳です。

jawaぱり縮

そこには、銀座か青山かなと思う店が並んでますが、増えてきている近代的なところと昔を残しているところが混在している発展途上の国の街でもあります。

じゃわ青山縮 jawa青山縮

近代昔縮

赤道を越えた、乾季と雨季のある南の群島国の街ですので、近づいている雨季には、午後2時間くらい激しい雨、時に大きな雷が落ちます。

雨3 (2)syuku

乾季を含めても基本的には、水に恵まれていますので美しい花、果物、作物は豊富なアジアの楽園です。(バナナ、椰子の実、いろいろな香辛料・作物などは多すぎて省略です。)

hana縮

高い花縮

果物syuku

作物縮

通りの普通の店には、多種多様な食物が並んでいます。

 

少なくなってきていると老人は嘆きますが、まだまだ緑も豊かで、寄り添うように暮らす穏やかなアジアの街です。

密集家縮

女性陣縮

 

日本大好きな学生さんが日曜日の歩行者天国に集まって、日の丸の小旗を振って勝手に歩くこともある自由ないい国です。

少子高齢・限界集落に悩むお国は、彼らの力を発揮してもらったらと思います。

何しろ穏やかハーモニーの人たちが、2億5千万人になろうかという若い力の国ですので。

日本好き学生縮

日本から意欲ある若者が来て、バンドゥン・ジャパン・ハウスBJHに起居し、今、それを実現すべく努力していることも大変素晴らしいことだと思います。

今日は、断食明けのお祝いに並ぶイスラム教徒の犠牲祭で祝日であり、メッカへの巡礼も佳境でしょう。

生贄として捧げられるヤギが街に沢山見られますが、テレビでは動物愛護の人たちが反対のデモをしているのも放映していました。

一寸意外な多様性、自由さを感じました。

ヤギさん

進出している企業の人が、「穏やか」で「素直」と評する万年の穏やかハーモニーの人たちが、ヤギさんを屠殺し神に捧げますが、すみませんヤギさん、「黙殺」します。

他家のことに関しては節度が必要ですし、当国は余計な口出しを要する状況にはないと思います。

捧げた肉は必ず貧しい人たちの口に入るようにという教えだとも聞いていますので。

私も国に帰れば、節度をもって獲られていると思うクジラを食します。

さて、長かった植民地時代を血を流して脱し、独立後も50年前の今月の事件など、緊張の激動期を乗り越えながらの道のりでした。

多様な国柄のまとまりの維持に努めつつ、自由を守り続けてきた若い力で、引き続き地域の諸国とともに発展して行ってほしいと思います。

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今日は秋晴れの中(当地は今、いつも晴れですが)、楽園Sundalandでは、バンドゥン日本人学校の夏祭りが行われました。

夏休みが終わり、地元のイベントを終えてから予定より1週間遅れのものだそうです。

ゆかた姿が目立ち、子供たちも楽しそうです。

こどもsyuku

そして、多くの現地の人々が何せクールジャパンのイベントですので集まって楽しんでいます。

現地の人々縮

学校は、先生方のご努力はもとより、現地の企業の方々の並々ならぬご尽力に支えられて運営されています。校庭もしっかりあります。

元締めsyuku

校庭syuku

さて、会場はお神輿があってお店が出ている和風のもので、久しぶりにお国を感じました。

神輿店縮

焼き鳥はここではSateですので人気です。そして、やきそばもMi Gorengがありますので人だかりです。

(更に、おいしいうどん店なども出てましたが、本人が嬉しくて食べるのに夢中で写真を撮り忘れました、すみません。)

焼き鳥syuku

採算syuku

採算とは随分しっかりしてるなあと思われるでしょうが、そういう名のレストランがありますので、そこの出店でしょう。

会場には、やはり万年の穏やか東進・北上ルートの気心の通ずるものがあるのでしょう。

人類の展開9.16syuku

笑えるのは、当地の学校には鉄棒が無いので、いい歳のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちが、珍しいのか夢中で遊んでました。

逆上がりはできないようでしたが。

鉄棒1syuku

鉄棒syuku

的に当てて楽しむゲームも日本らしい遊びで、現地の人には珍しい楽しさのようです。

的syuku

皆さん、やはり日本のイベントは穏やかで楽しくおいしい、いい時間を過ごしているようでした。

それにしても、お国の国会とその周辺の行動や言葉使いは、海外に居る日本人に肩身の狭い思いをさせるものです。

折角のクールジャパンのイメージも台無しですし、子供たちに見せられないようなものなのも辛いものがあります。

喪服も登場したようですが、亡くなった方はおられなかったようでよかったです。

何より、ダイビング攻撃なるものがあるようでは、日本が攻めてくるのではという全く無用な誤解を招きかねないのではと気になります。

海外で黙々と頑張っている企業の人たちや先生方の足を引っ張ることのないよう、お国を見ている子供たちをがっかりさせないよう、そして、仲秋のお月様を泣かせることのないよう、お願いしたいものです。

 

 

 

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珍しく当地の新聞が1面トップで日本を採り挙げました。アジアの楽園Sundalandは、気候風土に恵まれていますが、泣き所は災害です。

何せここへきて早い時期に覚える単語が、macet渋滞とbanjir洪水ですので。

機内からジャカルタ北西沿岸が水に浸かっているのを見ましたし、雨季にはここでも街の坂道は溢れ流れ下る泥水で様相を一変させます。

友達が日本でも洪水があるのかと聞きましたので、あの優れた車・バイク・電気製品、すし、ゲーム・アニメ、AKB・・のクール日本でbanjir大被害があるのか、という感じなんでしょう。(同病相哀れむ。)

洪水新聞syuku

火山の噴火、地震・津波、洪水と歴史的にも前回報告したとおりで、日常を、明日を奪われる悲しい出来事です。(合掌)

小さな災害は回数も多く、大災害は数は少ないですが被害は甚大です。

そして、万年を視野に入れて歴史を見たとき、気候変動とともに大災害の与えた人類の進路への影響の大きさに思い至ります。

現在、前回報告しました大悲劇などに関連しまして、歴史におけるカタストロフィックな突然の大災害に当地の研究者の関心が集まっています。

最も分かり易いのは、6,500万年前突然、当時の地球の王者の恐竜たちが絶滅しました。

メキシコ湾への隕石の衝突による暗黒から、その気候変動の影響によるものという説が有力です。

当地でも1883年のスンダ海峡クラカトアKrakatoa火山の噴火、2004年のアチェAcehの津波被害は、世界的によく知られています。

実はこのスマトラ北端のアチェは、14-15世紀には大変栄えておりました。

マルコ・ポーロ、明の鄭和や史上最も偉大な旅行家の一人と考えられているモロッコのあのイブン・バットゥータが、アチェを訪れています。

その際、肥沃な土地、大きく美しい町は壁で囲まれ、地域の交易が金を通貨として行われているアチェAceh地域の先進性にびっくりしています。

アチェ1縮

(Dr.Danny Hilman 著書(「Plato never lied」から)

なお、スマトラ島は、ジャワ島の北西で4倍、マラッカ海峡に接し、昔から金の産出で有名です。

そのアチェ王朝が、15世紀半ばに不思議な状況で消え、世紀末には突如新たな王朝が出現しています。

当国の地質学専門家の調査によれば、世紀半ばの1450年に2004年のものよりも大きな津波が襲ったことが分かりました。

更に、津波は周期性をもって襲ってきていることも分かりました。

これらのことから、地質学専門家で歴史にも詳しいDanny Hilman博士は、通説に対し著書(「Plato never lied」)で疑義を呈しています。

人類は緩やかな人口増で万年を過ごし、ファラディの電磁気理論以降、急増発展したということではないだろうと。

人類はもっと早い時期に栄えたが、Tobaの火山大噴火や氷河期後の温暖化による大洪水などでその都度、人口は急減し言わば発展は振り出しに戻ったということではないのかというものです。

博士の資料を基に私なりに整理したのが下表(文責奈良)です。5万年前頃の画期的と言われる人類の進化(言語等)も考慮しました。

縦横軸尺度の記述内容にご注意下さい。

つまり、アチェのように豊かだった#1アジアの楽園スンダランド文明が育まれていたが、大災害で発展は振り出しに戻った大悲劇という赤い点線の認識です。

人類発展 syuku

そしてその後、#1についてある程度は語り伝わり、#2文明である教科書のメソポタミアなどが登場してくるということでしょう。

悲劇の当該地域である楽園については、Danny博士が世界遺産ボロブドゥール地域の話の例を挙げています。

ボロブドゥール地域(中部ジャワ州の南部)がムラピ火山噴火の灰の下に埋まった時、生き残ったのはたまたま北部の町スメランの親戚の所に会いに行っていた、Cobek(香辛料をすり潰すすり鉢)作りの職人だけだったそうです。

ボロブドゥール建立の一流の建築設計家、石工など全ての人が犠牲になり、地域は戻ってきたcobek職人レベルの知見から再び始まりました。

そして、優れた仏塔群はその後、あのラッフルズ(シンガポールの一流ホテル名にも)により灰土の下から発見(1814年)されるまで千年を越える眠りにつきました。

修復hp

修復中の時代のボロブドゥール

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(世界遺産ボロブドゥール・・・のヒミツ)

さて、博士は、地質学のイロハとして「過去を知りたければ現在が鍵であり、将来を知りたければ過去が鍵である。」という至言も紹介されています。

前述の日本の洪水を報道した新聞には書かれていませんが、鬼が怒る川が氾濫したんですよと言えば、万年を生きてきた此処の人は「そうか、分かった。」と言うでしょう。

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楽園Sundalandの今、家の近くのバイクタクシーのオジェたまり場で、斜面をレンガで整えています。

巨石遺跡の追っかけとしては、その素朴な積み上げ作業に目が向きます。Piling up bricks, stones since ten thousand years ago.

レンガ積syuku

が、見て頂きたいのは格好です。標高750mくらいとはいえ、半袖で動き回っている私からはフード被りの作業は考えられません。

オートバイに乗るので、皮ジャン着て上から見ているオジさんも分からんではないですが、何せ赤道の国の爽やかな朝ですから。

もっと標高の低い洞窟も無い所でジャワ原人は暮らしていましたが、確かに夜も暖かかったです。ここへ連れて来たらジャンパーを着せろというのでしょう。Comfortable morning, but early Hominid Java will ask me to put him a warmer on if I take him here.

家が密集して暮らせることに私はアジアを感じます。ここには、敬語も謙譲語もあります。They can live friendly in densed relation.

写真下のとんがり屋根は、タイでも見た楽園内の様式です。

 

密集家syuku

花は正に色とりどりで、もう無数にあります。

花suku 赤花syuku

バス停近くの交差点に張り出し空中店が開店しました。やるもんです。

新店syuku

上の赤矢印看板red sign boardは、米名門スタンフォードStanford大の小・中校への標識です。良い国際協力ですが、2億5千万人当国の将来の指導層future leaderへのアプローチapproachともいえるでしょう。

そういえば2年間くらいの英語教師として、郡部には米政府系資金で若い女性がこのイスラムの国の義務教育学校に一人づつ沢山来ています。Many young Americans voluntarily work in rural schools here as a language teacher.

彼女らの逞しさと米国のこれらの対外政策の厚みを感じます。

次は食です。

ここでは、一人で引いて開店する食事店から露店、洋風のシャレた店など多種あります。

屋台syuku 緑店syuku

スンダ伝統の構えたレストランには、屋根に千木があり伊勢神宮や出雲大社を思わせられます。Chigis at rooftop are the same style as those of Ise, Izumo shrine.

スンダ店syuku

食べ物は、果物が豊富です。

果物syuku パパイヤも (1)syuku

なんかないの?おカーさん。nangkaがあります。皮は恐ろしそうですが、種も大きくビワに近いいい味です。

なんかsyuku

お菓子、特に煎餅の類が豊富です。

菓子syuku えびなし煎餅syuku

通りでは、揚げ物もよく見ます。とうふは、tahuです。

揚げ物縮

中尾先生が世界の農耕の始まりと言われるバナナは、種類も豊富です。勿論、椰子の実も豊富にあります。Banana was the very first food of agriculture.

ばななsyuku

バナナの皮に持ったごはん、肉、野菜に辛味香辛料サンバル付きのナシクニンは、ここらしいものです。

バナナ葉飯縮

お山盛りのご飯は、収穫感謝の祝いピラミッドPyramidで、肉は北京ダックduckと同じbebekです。

ホントの祝いの場所では、ご飯riceを1mくらい盛り上げてます。

ぴらご飯syuku

街の飾りが竹による芸術Bamboo art なのもここらしいです。

竹飾り縮

サーファーの聖地や大自然とそこに生息する動植物の多様な素晴らしさなどは他に譲り、今の町の普通のいろいろな状況をお伝えしました。

その万年のアジアの楽園は、大昔の世界の温暖化の影響によって海に沈んで行きました。

11,500年前頃起きた、この世界人類史の最初の悲劇のビッグイベントについて、次回ご報告いたします。Next, about first big tragedy of civilized human being in the Paradise.

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アジアの楽園Sundalandでは、陽気は1年中まあ変わりません。晩秋から春の雨季に、一般的には午後遅めでざあーと強い雨、しばしば驚かされるすごい雷というところです。

8月は、お国も当地も特に現代史的に重要な時節です。

純白制服に中は赤いシャツ(国旗と同じ赤白)の女性兵士が登壇して、大統領から直接、国旗を拝受して掲揚隊の男性兵士に渡します。

女性no兵士

(18日付KOMPAS紙から)

その大赤白旗が晴れた空に翻り、また、戦闘機群が式場上空を飛行するという、当国のドラマチックだった独立の記念式典があります。

街でも国旗が林立する中、この月は様々な行事が行われ賑やかな雰囲気に包まれます。

日曜日の歩行者天国で、日本語を勉強しているいろいろな大学の学生さんのグループの行進にも出会いました。何しろ日の丸の小旗を振りながら堂々と歩いてます。

日の丸no学生

スンダの伝統文化を守ろうというグループは、いつものようにPRと工芸品の販売などをしています。写真は気取っていかめしくなってしまいましたが。

スンダG

当国はやりの健康サイクリング、家族の楽しみ、歌と踊りなどがありました。

自転車 2

CFDno家族

CFDkazoku

CFD歌と踊り

さて、私も気分は時期外れのショートバカンスとします。

 

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楽園Sundalandの現代史です。70年前の今日、闘士スカルノとハッタは、太陽が昇った10:30過ぎに、スカルノ邸に設えられた演壇に上がる歴史的瞬間を迎えました。

集まった皆の前で闘士スカルノは、これまでの皆の努力を述べた前言の後、独立を宣言し、権力等の移譲事項が遺漏なく、かつ速やかに主催されることを宣しました。

しかし、宣言や唱えるだけで独立や平和がもたらされるわけではないことを青年活動家たちも認識することになります。

戻ってきた特に蘭軍に対し、血を流す抵抗を伴って幾多の曲折の中、4年半の歳月がかかりましたから。

何しろ勝利した連合国側として戻ってきた蘭軍の司令官は、なあにまた300年、同じことをしてやるだけさと答える意識でしたので。

(尤も、日本によって覚醒し訓練されたインドネシア人の力を見誤っていましたが。)

そしてこの独立戦争の中で、この地に残った元日本軍人の命を賭した関わり、独立勢力への巧妙な武器・弾薬等の支援などがありましたが、細部はまだ歴史の中に埋もれています。

但し、前回報告しましたスカルノ初代大統領が、日本の地に元日本軍人に対する記念碑を建てたという前例のない行動が、実情を何より雄弁に語っていると思います。

さて、当地では各地で式典が行われ、競り合う楽しいイベントが行われました。

テレビで見た独立(大統領)宮殿での式典では、150m四方くらいの前庭に代表の軍部隊等が整列する中、大統領臨場、女性兵士による大統領からの国旗の受領と男性兵士による掲揚、宗教指導者の辞、戦闘機部隊の飛行、音楽演奏などがありました。

特筆すべきは、大統領の式辞はなく2名の中学生男女が、一節づつ交互に語る未来を見据えたインドネシアの方向を述べました。独立宣言が行われた頃の時間にです。

来賓席には、近郊から招待された生徒が沢山見えました。

画面を見ていた限り、観えた女性兵士比率が高く、また、来賓側に生徒さんが多かったことは、お国も参考にしたらと感じました。

街の方では笑い声の中、いろいろな競争イベントが行われていました。宝取りは柱に油が塗られています。煎餅食い競争と綱引きは、ここと日本くらいでしょうか。しかもジルバブ女性が。

柱上がり縮

柱上りsyuku 登りsyuku

観客syuku iguanaの縮

喰い競争syuku

女綱引き

万年の歴史の厚みを持つ山の神の力の強い民だと感じました。そして小さい子供が多く目につきます。

本日、新聞は休刊でした。(?)

 

 

アジアの楽園Sundalandの現代の雄インドネシアの独立宣言ドラマのあった日から70年後の今日、日曜日のバンドゥンは、いつもの歩行者天国CFDカー・フリー・デイです。

賑わい縮

タバコ・フリー・デイは、タバコ煙の禁じられた日という訳で、日本ではフリーが誤解されてませんか?

それはともかく、通りは出し物でいつもよりにぎやか、やはり人気は音楽と踊りです。子供劇もありました。

70年pura 自転車kumi踊り

音楽縮ドラエモン縮

キャラクター縮 子供劇 (1)縮

スンダ人の文化を伝えようとするグループの出し物は、今日は蛇でした。子供を産んだお母さんは強いです。万年の伝統を受け継ぐ使いこまれた竹製のバドゥイ族のバッグは売り物ではなく、宝剣クジャンを付けたいわばお店の金庫です。

スンダ縮 蛇syuku

竹カバンsyuku

若い学生さんの行進は、緑を守れ、若者に明日をというまっとうなものです。

学生no行進

さて、今日の新聞Kompas紙は、独立宣言に関する博物館などのルポが載っています。

写真には、独立宣言をまとめる雰囲気の様子として左からハッタ、スカルノ、スバルジョ(奈良注:後の外相)、壁には宣言が拡大されて掲示されています、宣言起草博物館にてと説明されています。

打ち合わせsyuku

記事中には、日本海軍の前田少将の家族用食卓テーブルの3人と書かれていますが、博物館を訪れている人たちに意味合いが伝わっているかなあとも思います。

記事では、ともかく日本から与えられた独立と誤解されないようにという強い意志を主張していた青年活動家たちが、一度は壮年闘士スカルノとハッタを拉致し隠した場所(今では家はゴミの山)から、探し連れ戻した事情も紹介されています。

そして今夜、大日本帝国海軍武官府の前田少将公邸で打ち合わせを重ねつつ、ドラマはいよいよ宣言が起草され集まった代表たちにスカルノ邸で発表される大団円へと向かいます。

当地、外では花火の音が聞こえました。

 

 

アジアの楽園Sundalandの雄インドネシアは、今、赤白国旗が至る所に飾られ17日の独立記念を迎えようとしています。

おめでたい赤白は、国旗を見ると日本、マレーシア、タイはもとより、フィリッピン、台湾、そして要素が似てると言えばカンボジア、ラオス、ミャンマー、東ティモール、ネパール、更に韓国、北朝鮮も似た系統と言えるでしょう。

私には、現生人類の展開の北上ルートに沿った興味深い類似性です。中国、ベトナム、バングラデシュが、仮に主義や宗教を除いたとしたらどういうものになるか大変興味深いです。

さて、我が地区では橋にまで彩色していますし、沢を越えた自然公園などではペンキを塗ったり、階段を補修したり準備に余念がないです。

橋no国旗

ペンキ塗り

独立については、小学校から大学まで内容の深みに差はあれ、教わる国の原点の重要事項です。

何と言っても独立の闘士スカルノ(初代大統領)・ハッタ(副大統領)による70年前の独立宣言は、手書きの一部修正の跡も残るリアルなものが、スカルノによって読み上げられたドラマチックなものです。

独立no宣言

(SEJARAH untuk SMA Kelas Ⅹから)

05と見える年号は、皇紀2605年というものです。西暦ではなく、植民地イメージを避けたとも言われています。

そして、宣言後も復活を目論み戻ってきたオランダに対して武器をとって抵抗し、血を流して4年5ケ月後に勝ち取ったものです。

植民地化から約350年の長い抑圧の時代から解放したドラマです。

この戦いに加わった元日本兵の約千名が戦・病死したと言われており、帰化してインドネシア人となった人たちは、今はジャカルタの英雄墓地に眠っています。

しかし、独立の闘士や青年層を前にして行われたそのドラマチックな独立宣言が何故、直前の深夜長時間、ジャカルタにあった大日本帝国海軍武官府の前田少将の所で打ち合わせがなされたのかという面でのそこに至る日本の貢献はあまり知られていません。

そして日本の敗戦を正規に確認し、宣言文書を作成して読み上げるに至るまでに2日を要したドラマもあります。

まして、港区の青松寺に特に2名の元日本軍人ため、肩書きの無いスカルノ名で記念碑が建てられていることは、此処では殆ど知られていないでしょう。

また、碑にはこれも肩書きの無い氏名のみの2人へとして、独立は一民族のものならず全人類のものなり。というちょっと不思議な文言が刻まれています。

正にこれこそ、その後続々と植民地から解放されたアジア・アフリカ諸国が参加したバンドゥン会議をやり遂げた後に碑を建立した、スカルノ大統領ならではのものです。

前田少将ほか数名がインドネシアの叙勲を受けていますが、特に貢献し亡くなられた元日本軍人2人に対する最高の歴史評価と謝辞と言えるでしょう。

あなた方の貢献は、一インドネシアのためだけじゃなかったんですよと。

さて、最初に述べた近くの自然公園には、かなりの内部構造を有する日本軍の洞窟もあります。

この地域は今は、人々のリクリエーションの場となっており、ブランコなどの遊戯施設、自然博物館や売店も多い西ジャワ州森林局の管理です。

清掃された洞窟も普通に(懐中電灯を借りて)見学されています。

入口no付近

洞窟人だかり

そして本日、日本時間正午頃、気さくに応じてくれたここの様子を撮りましたので報告といたします(肖像権不明のため小さいですが)。数百m離れたオランダ軍の洞窟も同様でしたでしょう。

集合no写真 洞窟no前

当時は少年も作業に参加させられ苦労していますが、今の子供たちには、上に見えるJepangは、好感ブランドとしての受け止めなのかもしれません。時は経ちました。

少しでもホームページを見てもらいたいと思い、facebookを始めて交流しています。断食明けルバランの休みに授業の復習をしていて感じ入った話を紹介しました。

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2人の旅人と1頭の熊-インドネシア語授業の復習(Dua orang pengembara dan seekor beruang)

あるとき2人の旅人が森の中を歩いてました。そしたら茂みから突然、熊が出てきました。

一人は仲間のことも何も考えず急いで近くの木に登りました。もう一人は、一人では熊に立ち向かうこともできないし、地面に横たわり息をころしてました、熊はしんだものは触らないと聞いてましたので。

木の上の者は何もしないで見てました。

熊は地面の旅人の頭のあたりでくんくん嗅いでましたが、一寸してから行ってしまいました。

木から降りた者が、聞きました。
「熊が君の耳もとでなんか囁いてたようだけど、なんて言ってた?」

横たわってた者が言いました。
「助けようとしないヤツを友達にしたり、危ない時ほっとくようなヤツと一緒に旅したりしない方がいいぞって。」

Nara Akiraさんの写真

(Mahir Berbahasa Indonesia untuk Penutur Asing から仮訳)

ラマダン断食月明けのお祝いが週末ということで、休暇状況に入っています。此処では帰省することを川上に帰ると言いますので、万年の国らしいです。が、今では高速道が混むのは、日本と同じです。

活気を呈す一つは、宝石売りです。街にも売ったり、磨いてたり目立ちます。原石の掘り出し物があるかもです。

宝石縮

石磨き

教室では、接頭辞perにmata(目)を付けて宝石permataです。このmata目が、日hariとで太陽matahari、水airを付けて湧く泉mata air(逆は涙)、足とでくるぶしmata kaki、講義とで授業科目mata kuliahなどです。

目mataは、他に生業、釣り針、矢じり、刃、羅針盤方位、最近では核弾頭もある重要単語であるだけでなく、メソポタミア、エジプト、長江などの文明に「目」の強調が共通して観られます。アメリカのドル札にも見られます。

この先史からの伝統を窺わせる言語感覚の「宝石」ですが、此処の人の宝石好きは、指輪(チンチンcin-cinと言います)、ネックレスもわがカミさんが素敵、欲しいと言うのとニュアンスが違います。(ちなみに、恋・愛はcintaで、此処の歌では一番連呼される重要語です。)

「写真、いい?」

「勿論さ。一寸待て、まだあるんで付けるから。」(小バッグから取り出しポーズ)

人と宝石

「そうだ、小指の分もあるから一寸待て、撮り直しだ。」

「いやいや、行かなきゃいけないんで。それで十分、ありがと。」

文化人類学の先生によると、飾りは元々は交易・付き合いによる人脈の豊かさを示すものだそうです。良い品、高価な品、沢山の物は、人脈の良さ、高さ、そして広さを示すという訳です。

ボスザルのように群れの中で優越しているというところから、やがて天、神と語り・願い事できるという知的で精神性のあること、物的な財力を支配している、特に海洋の交易力があるといったことが、人脈の豊かさ、本人の偉大さになったのでしょう。

アメリカ・インディアンなど遠隔の地でも、特に酋長はいろいろ飾りをしてますが、理解できます。

万年のアジアの楽園Sundalandが注目されるのは、その気候風土、食べ物としての動植物のほかに、この貴重な鉱物(ダイヤも!)があります。

宝石は小さく、軽量、その後の胡椒などの香辛料と同じく海洋交易のパワー源です。そして、楽園は、西方(中東など)、北方(シナ、日本など)、東方(太平洋地域)へのルートの中間、中心の要でした。万年前の先史時代は近距離を繋いで行ったのかも知れませんが。

この鉱物もいたる所に火山があるからでもあります。そして、時には石よりも固い貴重・希少な物を見つけた人もいるでしょう。

「残念ながら、万年の時は鉄をも融かす。」(Danny Hilman博士)ので、使われたという証拠evidenceは見つかってませんが。

南方の歴史は、当時の木、竹、作物、相伝の工法・技、語り伝え、 そして遺骨・遺品も残り難く、evidenceは?と言われ泣かされています。

さて現在、この万年の宝石掘りは過熱気味で、政府は環境破壊を心配する状況になってきているようです。何しろここでも爆買いに来る人たちがいますので。

宝石の掘りHaloJepang

(Halo Jepang紙4月号から)

シェアハウス(バンドゥン・ジャパン・ハウスBJH)の私たちは、バンドゥン市長の信任篤い釜我BJH長を筆頭に、それぞれができることで努めています。

BJH日本支部(!?)の宮下さんは、当地で(難しい)日本語を勉強している膨大な数の人々の明日に向かう参考資料(日本居住の人、学校、企業人事部門などのインタビュー分析とアドヴァイス)を当国の大学数十校に送ります。

私はできるところで、本日、それを西ジャワ州の教育局に手交しました。 Abur課長さんは、日本留学経験(3年、名古屋)があるので真剣に読まれ、「素晴らしい。」との評価で局の協力を約して下さいました。

課長

課長読み

すかSUKI hp

私はといえば、アフリカを出た現生人類が主に東方沿岸を展開して拡がり、その後南北の人々の坩堝の中で今日の原点が生まれたと考える1-2万年前のアジアの楽園Sundalandの研究です。

そして、それを実証しうるグヌン・パダン先史巨石遺跡等に日本のハイテク技術が投入されることを目指し、先人の石斧ならぬ蟷螂斧を振り回しています。

お伝えした(英)ストーンーヘンジ、(トルコ)ギョベクリ・テペ、(当国)グヌン・パダンの万年越えの三羽烏が、明日へと導く八咫烏になりそうです。

断食ラマダン

カテゴリー: 当地事情,こぼれ話

18日から1ケ月間、当地で実際に見聞するイスラム教徒のラマダンが始まりました。特にコーランを意識し読み、日の出から入りまで飲食、喫煙などを慎しみ神の恵みに感謝します。その前後である、早朝、夜間には若干食べています。

早朝特売はルポしましたが、日中の通りの屋台は、休業状態です。それでも洋風レストラン、目立たない立地の店などで異教徒が食べるところはあります。

この時期は、関心が神に向いているためと食べてないという大義名分もあるのか、仕事はスローになりますので、日本人の管理者は、やきもきするでしょう。我々の許可申請などもその影響を受けます。

日没後、街に夕食に出たら断食後の食として普段は見ない日本でいえば白玉とバナナを甘く似たものが売り出され供されていました。胃にやさしく栄養もいいのでしょう、やはり、万年のバナナの登場です。

断食日没食

そして、1ケ月先のラマダン明けのお祝いに備えて、店の柱にペンキを塗って準備を始めたところもあります。

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