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9月 « 2017 « 新風 アジアの楽園 & 智ニア来富
歴史の裏付けのない「アイヌ先住民国会決議」は名称変更を!
我が国先史における皆さんの議論は、まだまだ「縄文」で留まっているようです。結論的に、4万年前頃からの列島史始まりの「日本祖代」は、少なくとも3つの大きな出来事が挙げられるようです。
1. 現生人類の移動及び我が国の旧石器遺跡分布の状況から、南方の現生人類・海の民が、4万年前頃、初めて曙海(仮称)を越えて九州(八重山含む?)にやって来ました。
 
そして太平洋側と日本海側を北上し、3万年前頃には北海道にまで拡がり至り、また、内陸高地にも拡がりました(当初の列島の原風景)。
2. 2.9万年前頃、鹿児島・姶良大噴火があり、特に九州は壊滅的に、西日本も大きな被害を受け、火山灰は東北にまで降りました。当時の人々が、海辺川辺で暮らしていたので、農業ほどではなかったとしても寒冷化や灰汚染は厳しいものでしたでしょう。
他方、この大災害が人々の精神心理に及ぼした影響も極めて大きかったものと思われます。
実は私は日本祖人が、北海道から千島~新大陸アメリカへ渡ったと考えていますが、この大噴火が人々を北方に押し出す契機になったのかも知れないと考えています。

3. 氷期最寒期の2万年前頃、大陸から樺太を経て北海道へ、また、北東ア平野から九州へと狩猟族の渡来があり、列島人は圧迫されあるいは混じり合い文化的に大きな影響が及びました。

因みにアイヌの先祖は、早くてもこの時期の渡来とみられ、我が国の南方発「先住民」からは史実の裏付けの無い政治的な国会決議(2008年)は名称変更が必要です(例えば、「アイヌの人権を尊重する国会決議」のように)。
何よりも、簡単に「先住民族」などと言える人がいないことが、万年熟成の長い歴史を有する我が国の特徴ですから。
なお、アイヌの古い言い伝えでは、小柄な海の民・先住民を北に追いやったとなっており、明治時代にこの事は一旦否定されてましたが、現生人類の出アフリカということなどが分かってきている現代の歴史認識からは、納得できる伝承です。
お雇い外国人のモース教授が大森貝塚を発見して考古学を導入し、坪井教授が唱えた先住小人コロボックル説は、今こそ見直されるべきと考えます。

そして、最寒期の終わる寒暖乾湿の変動の激しい状況の中、土器が出現し(1.65万年前頃)、生活の変化が始まって縄文時代(万年間強続く)と呼ばれていきます。
主たる海の民・日本祖人と大陸渡来の一部狩猟族の混じった縄文人という訳です。
地域によって違いがありましたが、何しろお国の始まりの事ですので、研究中だがとして、子供たちに教えて良いのではと思います。
遺跡から出て来る人骨は、水産物・植物を主に食し、多くが毛皮パンツで槍持って大型獣を追っていた訳ではないようです。
少し前までは、日本人と言えば生魚や海藻を好む変なヤツと言われていましたが、列島史始まりからの特徴をよく表していると考えます。
ところで祖代末期の最初の土器は、私は、堅いアクの強い植物や暖かくなって臭くなり易い水産物などを煮たのでは、と思っています。
そして、百年前の日本人を撮った写真は、魏志倭人伝に書かれた海の民・倭人そのもののようです。曙海を越えて来た日本祖人の子孫であることを感じさせますね。
(了)

約4万年前、我が日本列島史の始まりである日本祖代の状況に迫ります。

現生人類が出アフリカを果たし、東進して東南アジアのSundalandの地域に至り、6.5万年前に豪州に数十㎞の海を越えて渡っています。

注目されますのは、東チモール東部のジェリマライ遺跡で5万点もの魚骨が発見されて、4.2万年前と判断される、捕獲が容易でない外洋表層魚(サバ科、鰹やキハダなど)が含まれ、時代は下りますが釣り針も発見されています。(京都府大 小野林太郎博士)

これらの事から、人類の豪州渡洋は、単なるハプニングではなくかなりの数の外洋渡航に長けた海の民家族の必然の渡航であったと言えます。

そして、日本列島史の始まりを考えます時に、Sundaland地域から北上して来た人々が、外洋渡航に長けた「海の民」の子孫であったであろうことは重要です。

海を越えて九州に至り、3万年前頃には北海道にまで達して拡がり、我が列島の原風景が出来ました。その後、樺太から北海道へ、また、西から九州へかなりの人が特に2万年前頃、渡来したようです。

こう考えますと、列島史始まりの日本祖代は、曙海の畔からとなります。

先ず気温が4℃くらい低い時代でした。海水面が80mくらい低下していましたので、北東ア平野が台湾山地から朝鮮山地まで長い海岸線を作っていました。

次に、気温から今と違って曙海の畔には温帯広葉樹林が拡がり、林内には猪や鹿などの動物たちが居たであろうことです。木、竹、骨など十分な道具や暮らしの材料が得られたでしょう。

寒暖と乾湿が、年により季節によりかなり変動が激しい厳しい時代だったようですが、このことは返って適応を図る人々の発達を促したのかも知れません。

その後の早い時期から、関東伊豆の神津島に渡海して黒曜石を採りに行っていますので、やはりそもそもの海の民で曙海の畔で水産物を主に食し暮らしていた事でしょう。

台湾山地から北上して九州に定着するのに約2万年くらいかかったのではと思われますが、これは北上による寒さへの適応(又は南西の長距離海峡越え)とみられます。

欧州の例からこれだけの期間ですと、皮膚の色は大分薄くなっていたものと思われます。

しかし、この初期の寒冷適応によって、九州から北陸、東北、北海道と降雪寒冷地へ拡がって行く基盤が出来ていたのでしょう。

この時代は、国境も無い曙海の畔の人たちはまあ似たような海の民の暮らしぶりであったでしょう。

そしてこの事から、従来の黒潮「海上の道」論ですが、逆に五島から南九州、沖縄本島という時計回りの日本祖人進出ではなかったのかという問題が出てきます。

現在の遺跡・人骨では、山下洞人が八重山人骨よりも古いですし、何よりも長距離の宮古~本島間の海峡越えがあります。八重山へすら、長距離の黒潮越えの厳しさから、台湾からではなく、時計回りに経験を積んだ人々による本島—>八重山であったかも知れないと考えます。

やがて、北東ア平野の人たちは、海水面の上昇に追われて西進し、内陸から来た大型哺乳動物の狩猟民族に圧迫されることになります。

九州から北上した日本祖人は、海水面の上昇でより大陸側と離れて独自の熟成の度を強めたのでしょう。

そんな海の民集団が、太平洋側と日本海側の両ルートで北へ拡がって行ったようです。そして、川を遡行して高地にまで暮らしの範囲を拡げて行きました。

更には、北海道から千島列島、ベーリング地峡南岸を経てアメリカ新大陸へ渡って行ったものと考えます。(https://youtu.be/BGrhO1ntyYo)

(了)

 

9月14日付、シベリアタイムズ報道。

豪(ウォロンゴン大学)・露共同研究者が、アルタイ地区のデニソワ旧人洞窟を調査したところ、5万年前以前の緑泥石の腕輪など驚きの遺物の数々を発見した。

これまでの研究から、デニソワ旧人のDNAが、豪新人先住民アボリジニに4%入っており、その他チベット人やパプアニューギニア・メラニシア人にも入っている。

そしてこれらは、デニソワ人DNAがワラス線を越えて数十kmの海を渡り豪州に6.5万年前に至っていたことを示すが、これも驚きの謎である。

旧人とはいえ、今回発見の進んだ遺物を見ると舟や筏を作ったのかも知れないと研究者が呟く状況である。

さて上図のとおり、5万年前以前と言う旧人の遺物は全く驚きの知的な品で、これまで新人最古のインドネシアのスラウェシ・マロス洞窟手型でさえ4万年前です。

また、豪露チームにとっては、8,500kmの離隔が何よりの驚きですが、これは我が日本祖人にも関係深い人類史の補助線「スンダランド」に注目でしょう。

つまり、スンダランドでデニソワ旧人と出アフリカ後の新人の交じりが生起し、そのDNAを有する新人「海の民」が越えて行ったと考えるべきでしょう。

人類史の百貨店スンダランド地域では、ジャワ原人のみならず議論の多い小原人ホビットなど興味深いことが多々有ります。

豪露チームは、これらに関し更なる研究が必要と言っています。

デニソワ旧人が日本列島に来ていた可能性も全く無い訳ではないでしょうし、デニソワ人がこれほどの文化であるなら、新人も我々の想像以上に進んだ文化を有していたかもしれない夢が拡がります。

現生人類が海を越えて日本列島に来て、伊豆・神津島に外洋を渡って黒曜石を採取し交易していたことは、やはり、日本祖人が元々進んだ海の民であったことを示していると考えます。

やがて更に北上して北海道にまで拡がって渡り、降雪寒冷地に十分慣れた彼らは、前方に見える食糧豊富な処女地の千島列島の島々に渡って行った事でしょう。

そして更にカムチャッカ半島東岸からベーリング地峡南沿岸を進み、その意義など知らぬ間にアメリカ新大陸に到達していたことでしょう。(https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

これまで、旧石器遺跡の状況からとその後の文献からと2回にわたり我が国始まりの祖代を探りました。今回は、言葉の痕跡から探ります。

現生人類の流れの基本(約10万年前頃の出アフリカが始まりで、Sundaland-豪へ拡がり、北上)を考えれば、如何に遠く離れているとはいえ、日本語とタミル語が近い(大野 晋博士)とか、タミル語とも近いアルタイそしてツングース系と日本語が近いと言われても驚くことはないです。

日本語が混合言語であり、タミル、アルタイ・ツングースの要素があるという事は納得理解できます。

しかしここで注目したいのは、漢字を共通にする大陸の中国中央部の漢語とは違う種の言葉であり、暮らしの習俗も異なることが実に興味深いです。

この事は、既に日本祖語が出来上がっていたことを示します。丁度、戦後アメリカに占領されても米語にはならなかったようにです。

北東ア地中海の古語の痕跡を探ります。

例えば、八重山とインドネシアの語の「山芋」、南方ルートの語「海浜」は薩摩の隼人、アイヌにまで共通です。

また、太陽、月、光その他の語や真っ白・真っ黒のマ、出る・動く・抱く等の動詞や食・果物など南方インドネシア等、台湾、比、日本など明らかに南方ルートの共通性が実に沢山残っている(琉球方言の成立をめぐって 村山七郎)ようです。

また、あかあかいらいらなど繰り返す畳語は、日本語と南方語の共通性を強く感ずるもので、米インディアンにもみられるようです。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

因みに、こういう点に関しよくポリネシアからという人がいますが、万と千で日本の古さはゼロが一つ違う古さですので、スンダランドからというべきです。

これらの痕跡からも、南方と関係の深い遠い昔の日本祖代の言葉の成り立ちが窺がわれ、それはまた、祖人の成り立ちでもあります。

無論、これらについて黒潮北上の流れが関係している事は言うまでもありません。

さて、先史時代のユーラシア東部は、ざっくり、A(旧)タイプ:沿海川漁撈の根菜・稲作系とB(新)タイプ:大陸狩猟の牧畜・麦作系の地域グループに大別されます。

Bにより内陸高地に追われ、その状況に適応していったA系もいたようです。

そして、日本は東の行き止まりの海中の細長い列島でしたので、他と違って坩堝で地域差を持ちつつ熟成されたということが大きな特徴でしょう。

(了)

既に報告しましたように、今とは大分環境が違いました4万年前、北東ア地中海の畔から海を越えて九州にやって来た人々は北上し、旧人とも遭遇しつつやがて北海道にまで拡がりました(3万年前頃)。

約2万年間(6-4万年前)とみられる長い北東ア地中海の畔における暮らしは、その後の列島での暮らしの原点でした。

北上した北海道までの沿岸部の拡がりとともに、結構早い段階から内陸の高地部にも拡がっていたことが残された旧石器遺跡から窺がわれます。

さて、日本史最大の謎、3世紀の倭の邪馬台国については今も論争が続いているようです。その後の7世紀には、隋に船が派遣されて学びの交流接触がありました。

その隋書では、下図のように依然として倭国の位置の認識が会稽の東と少し変ですが、東西南北の大きさ(行程5及び3ケ月)や朝鮮半島からの距離(3千里)などがしっかり示されています。

そこから、最初に書かれた魏志・倭人伝の侏儒国、裸国・黒歯国に注目すると、あまり違和感なくそれらが上図のように収まります。

重要な事は、裸国・黒歯国が船で1年くらいかかる所で、交易があったことです。

その行程と地域の状態からは、フィリピンだったのだろうと思われますが(インドネシアかも?)、紀元前後の簡単な船で熟練のノウハウを要するそんな長期の外洋航海が行われていたことが重要です。

無論、黒潮流を活用したものですが、海人の航海行動力があったこと、また何よりも、代々語り伝えて来たその方の地からやって来たからこそ、交流したのだと思われます(貴重な貝などを求めての事でもありますが)。

日本祖人は、基本的に南方からやって来た人たちと考えられ、その子孫の海人がまだ多く倭国各地に存在した邪馬台国話からも遥かな「日本祖代」の状況が窺われるのです。

因みに隋書は、「新羅・百済は、みな倭を大国で珍物が多い国とし、ともにこれを敬仰し、つねに通使・往来する。」と書いています。

(了)

夏休みも終わりましたが、以下ささやか宿題の提出です。
4万年前頃の我が国の始まりを考察しました。

下図第1図のとおり、海を越えて九州に至った海の民・日本祖人は、列島を北上して3万年前頃には北海道東部に達していました。

その間、黒曜石採取の神津島行き舟行が世界史的にも大変注目されます。

そして右第2図のとおり、この地域の古い事では、五島から沖縄本島に至る共通性ある円筒石斧の使用が注目されます。

よく言われる南から北上した黒潮文化圏というよりも、台湾から東アジア平野沿岸を北上し時計回りした北東ア地中海文化圏と認識する方が適切ではないかと考えます。

即ち、以前報告しました沖縄本島への南下説です。

また、九州西北部(五島等)が長い間にわたり弥生化を拒み保持していた縄文以前の習俗(祭祀・呪術)や言葉などは、北東ア地中海の畔の当時の様子を幾らかなりとも示唆するものと考えます。

さて、家族居住の一番乗りは、1.台湾から近い黒潮流越え八重山か、それとも2.長距離北上し時計回りで渡った寒い九州北部か、興味深い事です。

今、渡来ルートについて強いて意見を言えとなれば、先着はともかく基本的に後者の九州北部だろうと答えます。

①渡来後の列島での北上拡がり状況、②八重山で3万年より前の遺跡は未発見、③黒潮越え約70km舟行の困難さ、④台湾に比べた八重山小島の当時の相対的な生活魅力、などからです。

遺物は海水面が数十m上がった北東ア地中海の畔の海の中ですが、こんな我が国始まりのイメージは如何でしょうか?

そしてその後、北海道からアメリカ新大陸へ渡って行ったものと考えています。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

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