Nara Akira http://www.sunda-wind.net

このホームページで長く追ってきました環太平洋海浜・舟行ルートRLPP説は、世界人類史的には、最初に新大陸アメリカにやってきたdatang ke Amerika のはどんな人たちが・どこからsiapa, dari mana かという問題について、ハーバードHarvard医科大チームが誇りますように明らかにしました。

それに加えて実は我々日本人にとってuntuk Jepang、縄文時代の更に前の時代の語られることの少ない日本祖人(仮称)asal manusia monusia modern di Jepangの状況について、ある程度のイメージを与えてくれる重要なことを含んでいます。

日本祖人については、まずアフリカでの現生人類の誕生からdari Afrika、当時は130-150mくらい海水面が低下していたために現れていた広大な海浜ルートをアジアの楽園Sundalandを経て日本にも展開したことを基礎にしています。

そして、伊豆Izu半島南(約55km)の黒曜石obsidianの原産地である神津島の32,000年前頃の物が、南関東で発見されるという既に知られていた日本祖人の航海、交易活動力kemampuanに対する驚きも世界人類史の流れの中で意味を持ち、理解もされます。

当時、台湾を経てlewat Taiwan沖縄からトカラ列島のルートで南九州には行けなかったのではという意見もありますので、陸伝いルートを主に描きますと下図です。 (最近の研究では、当時の植生の状況からトカラ列島でも人が住めたので行けただろうとみられてきています。)

勿論、日本海側ルートでの北上もあったrute pihak laut Jepang jugaことでしょう。

しかし、3万年を超える古い時代(海岸線は下図にほぼ同じ)の日本祖人については、南方の海の民の進出展開ルートとしてのいわゆる「黒潮ルート」rute Kuroshioは注目され、やがては結果としてアメリカの方へ向かった人たちも現れます。

現在は、海水面が130m以上上昇しており、また、木や竹、石器・骨角器等の文化でしたから遺跡、遺物の発見は困難susah menemukan bekas dan artefak です。

しかし神津島・南関東近辺の例から、少なくとも西・南九州―四国・中国地方―紀伊半島―椰子が流れ着く伊良湖岬から列島沿いの沿岸地域daerah pesisir sepanjang nusantaraに、日本祖人の狩猟採集(定着も?)・交易の生活活動が拡がっていたkegiatan kehidupan manusia adaことは容易に想像できます。

日本祖人asal manusia Jepangは、パンカルPangkal地域(豪・ニューギニアからから南インドにまで至る、現生人類の原初地域)から生活様式を受け継いできた海の民bangsa lautです。

そして、数千年に渡る日本列島における生活が定着し、日々の暮らしぶりkehidupanと宗教的な慣習budaya ritualの日本の原風景が形作られていたJepang dasarことは十分に認識されるべきことでしょう。

そういう状況で大変なことが起きました。それが、姶良カルデラの大噴火erupsiによる広域にわたる火山灰abu gn apiの降下の影響です。

実際に超大噴火が起きた南九州はもとより、火山灰が降り積もる影響terdampakは大変
なものです。そして更に噴火の影響による気温の低下suhu menurunがあり、地震津波
gempa bumi, Tsunamiもあったかもしれません。
私は、この影響から逃れて北へ、あるいは海に漕ぎ出してkeluar いったことがアメリカ
Amerikaに日本祖人で渡った人たちがいる原因ではないかと考えています。
そして、海の民から内陸川傍へke sungai dekatと生活を変えて適応adaptasiしていった
人たちもいたことと思います

いずれにしましても、この大噴火から15,000年前くらいまでの間に人々は真水の川の傍に住むtinggal dekat sungaiようになり、噴火の影響がおさまって新たに東アジア大陸や南方から来た人たちもいたのでしょう、人口も急速に増えていったbertambahnya pendudukようです。

特に、2万年前頃には沿海州から樺太経由lewat Karahutoで、北からも大型哺乳動物を追って多くの人が入ってきてmanusia datangいます。

この大噴火から1万数千年間は、海の民・日本祖人が「想定外」どころでない大噴火の被害を乗り越えて混乱を生き延びbertahan bingungan、そして新たな暮らし方への適応adaptasiをしていきました。

また、内陸の大型動物を狩猟し、寒冷地適応を果たした体と暮らし方を持った新たな人たちmanusia utara dinginも日本列島に進入してくるという激動の時代waktu punuh gejolakであったように思われます。

それが過ぎいよいよ縄文土器文化が始まりmulai zaman Jomon、日本祖人は縄文人と呼ばれることになります。縄の字が入っている沖縄ですが、海の民・日本祖人の独自の発展がしばらく続いたようです。

私は、この激動の時代を乗り越える中から縄文土器が生み出されたmuncul gerabah Jomonものと考えています。そして縄文土器は、あの岡本太郎さんをして「芸術は爆発だ。」と言わしめた世界的な傑作へとやがて発展していきます。

 深鉢形土器(火焔土器)、 縄文中期 新潟県長岡市関原町馬高遺跡出土

 – Wikipedia

勿論、煮炊き、物資保管など土器の実用的なことpragmatisは驚くほどです。

コロンブスがアメリカに到着する前、すなわち800年前の土器がカナダCanadaで掘り起こされましたが、その中身は種bijiで蒔いたら実がなったというアジアからアメリカへ渡った先人たちの驚きの智慧です。

以上、

今につながる人類のアフリカでの誕生から縄文土器の始まりまで、日本祖人と呼ぶべき私たちの祖先に関する、ルーツakar org Jepangに係る大まかな足取りの流れが掴めてきています。

そして、日本列島に縄文文明がしっかり定着してきた7,300年前頃、再び南九州沖で喜界カルデラ大噴火bencana besar Kikai erupsiが発生し、九州は壊滅的に、四国も大被害、火山灰は東北にまで及んだと言われています。

これをもまた乗り越えて先人の縄文人bangsa Jomonたちは、発展へと歩を進めたpengembanganわけですが、本当に頭が下がりlayak hormatます。

やはり、世界が見る日本人の原点asal karakteristik Jepangはこういう歴史の中にあるのだろうdipelihara dalam sejarah iniと考えます。

研究の集い―Perkumpulan penelitian

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Nara Akira http://www.sunda-wind.net

名門バンドゥン工科大ITBのProf.Dr. Hendra Gunawan 数学教授は、科学探求の一環で2ケ月に1度くらいのペースで図書館で催しを企画され広報しますので、一般の参加もできます。

教授、研究者、学生、関心ある一般の方々が、その月の科学的なテーマの話を聞き皆で議論する楽しいもので、知己のProf.Dr.Suharja教授と出かけます。

会合で新しい、知らない話を聞き、友達ができ、文字通り智慧の輪が拡がります。

当ホームページをご覧の皆さんは既に最近の内容でご承知のとおり、ハーバード医科大Harvard Medical SchoolのDNA分析から見えてきますPangkalやRLPP説とともに、沈んでしまった文明の曙、アジアの楽園Sundalandと実証となる巨石遺跡グヌン・パダンについて発言しました。

グヌン・パダンGunung Padangについては、現場を率いた当国の第1人者である科学院LIPIのDr.Danny Hilman Natawidjaja研究部長からいろいろ皆さんの知らない説明もありました。

これを勉強するといいよと本をいただいたり、アドヴァイスを受けたりと有難いことです。

何しろ人類の百貨店の当国のこと、Dhani Irwantoさんは、人類が何千年もかけて改良した世界の農業の始まりのバナナに関して、自身の会のホームページに赤いバナナをアップして皆さんにfollow upされてます。

文字通りの老若男女が、自由に、立場にこだわらず関心のあることを、疑問に思っていることを発言する楽しい機会です。数学と聞くと背中がちょっと寒くなりますが、案外、主催のHendra教授の計算通りなのかもしれません。

何しろ、此処の人たちは普通にCap Stone付きのギザGizaのピラミッドを食べてますんで底知れません。

Nara Akira http://www.sunda-wind.net

前回でパンカル人の子孫keturunan bangsa Pangkalは日本列島を後にしましたが、旅行ツアーではありませんbukan pariwisataのでアメリカに到達したという意味は、様々なことがあったこの時代の歴史の中で幾つかのグループのうち生きて達した人たちがいたbeberapa kelompok tiba di Amerikaということです。

1960年代の米スミソニアンSmithsonian博物館のBetty Megers博士などは、南米エクアドルEkuadorで発見された古いバルディビア土器grabah Valdiviaが、「九州縄文時代前期から中期の初頭の土器、例えば曽畑式などと酷似seperti sama dengan bikin Jepangしている」(エクアドルの歴史 – Wikipedia)として、縄文と南米の接触・伝播説Teori transmisiを唱え、博士等3者はその研究結果を出版しています。

博士は、よく似ているだけでなく、土器grabahが突然エクアドルの古い層に姿を現していてtiba-tiba muncur di bawah tanah kuno Ekuadorどこにも普通に見られる発展段階の物がなくエクアドルやアメリカの土器文化が始まっていることにも注目しています。

また、米北西部ワシントン州(内陸)における縄文人骨とみられる発見など時代としてはずっと下ったいくつかの事例ですが、参考になります。

なお、Megers博士は来日datang ke Jepangし記念講演会で伝播についての自説Teori transmisiを説明し、日本の学者等と意見交換し確信されています。その他、東京古田会Tokyo Furutakaiは、伊豆の下田を出航したdari Shimoda五千年前からある種のダブルカヌーkano pasangan第三野生号で五か月lima bulan足らずでエクアドルまで辿り着くberhasil tiba di Ekuadorことに成功したと報告しています。(東京古田会 メガース博士来日記念講演会の報告から)

海流をみると、古来幾多の人・物がアメリカに到達していることが納得できます。そして

赤道khatulistiwa海流は、正に南米北部ke Amerika selatanに達しています。

海の民bangsa lautとして逞しく生きてきたパンカルの人々の子孫keturunan Pangkalの

知見・技術と行動力daya tindakanであれば達し得ると思わせられます。

他方、日本列島dari Jepangから、カムチャッカ、アリューシャン列島を経てlewat Aleutian

海浜・舟行pantai・perahuで北米太平洋岸から南米へというルートruteも考えられます。

アマゾン流域に部族が残るということは、女性も交えての移動bersama wanitaですので、

陸地沿岸を行くルートは着実langkah demi langkahです。

当時の北米大陸のカナダCanada地域は、厚い氷床es tebalに覆われていましたが、地域

のアラスカ海流は、沿岸気候を温和化しています。

一方で4-2万年前当時ですが、その中には比較的温暖な時期もあり、「アラスカAlaskaは

1年中寒いというイメージbayangan sangat dinginがあるかもしれないが、夏の暑い日には

30℃を超えることも珍しくない。

なかでもアンカレジAnchorageを中心とする中南部沿岸や西南部は、比較的温暖hangatな

気候で知られる地域だ。」(地球の歩き方)に思いを致すことも必要でしょう。

海水面が約130m下がって海浜が拡がり、また、沿岸には島々も多く、冷涼に対応しつつ

berkesesuaian dingin生活の場を着実に早めに移して南下していったberpindahと考え

られます。

基本的にはその後の海水面の上昇で遺物の発見menemukan artefakは極めて困難

susahですが、逞しい行動力の人々が舟も使い海浜・島々を暖かい夏場の時期に南下

tampakbisa turun ke selatanしていったことも考えられるでしょう。

パンカル人子孫が、アメリカヘ渡ったmenyebarang ke Amerikaのは、もともと人類

manusiaは旅をする生き物makhluk berjalananで人間の脳otak manusiaもそれに伴

って進化evolusiしており、また、誰もいない無人の地tak berpenghuniに食料が沢山

makanan banyakあるという魅力に惹かれたdiharapkanなどのことだったのでしょう。

これらに関して、更に私が注目tertarikしていることがありますが、それは今、注目されて

きていますカタストロフィックな大災害bencana katastrofikについてです。

前述のBetty Megers博士などや東京古田会も注目していますberpikirが、縄文人を船出

Jomon kapal berangkatさせた原因ではないかと考えられている南九州沖laut Kyusyu

selatanの喜界カルデラの噴火erupsiと火山灰abu volkanによる甚大な被害・影響です。

(鬼界アカホヤ火山灰 – Wikipedia)

同様に私は、パンカル人子孫との関係でhubungan dengan keturunan Pangkalその生起

した時代から注目していますのが、鹿児島の桜島Sakurajima付近で始まったとされる姶良

大噴火erupsi besar di Airaです。日本列島の先進地域は、少なくとも2度の大打撃を受け

たことになります。

姶良カルデラ(あいらカルデラ)は、鹿児島湾北部(湾奥)において直径約20kmの窪地を

構成しているカルデラである。加久藤カルデラ阿多カルデラの間に位置する。カルデラ

を形成した姶良大噴火erupsiは、約2万9000年前から2万6000年前tahun laluである

と推定されている。(姶良カルデラ – Wikipedia)

火山灰の状況keadaan abu volkanは、下図のとおり広範囲に及んでおります。

(Wikipediaから)

大災害bencana besarは、有無を言わせず人々を駆り立てたmanusia didorongのではない

でしょうか。歴史にはdalam sejarah、暑いの寒いの辛いのと言っておれない厳しい時代

dahsyatがありました。つい最近にもです。

それでも船出は、無謀ではなかったと思います。

それは人間より遥かに前から、下図のように渡り鳥たちberung  bermigrasiは陸地から

それ程遠くない所を季節に応じ行き来trafikしていました。(但し、東西方向の直路はあり

ません。)

当時の海の民はこのことを知っておりbangsa laut tahu、ある程度の見通しを持って動いて

いたと考えています。

パンカルPangkal地域からマダガスカルに人が、根菜類ubi-ubianが西アフリカに渡ってい

るのも、更には何故か大西洋岸のカナリア諸島Kanariasやイギリスなどに付近から孤立し

た形で巨石遺跡situs magalitikがあるのも下図のように鳥に導かれた海のルートがあった

から伝播tersebarしたのだろうと思っています。

いずれのルートdua rute mungkinにしても日本列島からdari Jepang海浜・舟行で太平洋

lewat Samudera Pasifikを越えて初めてpermulaannya南米に渡りましたmenyebarang

sampai ke Amerika selatan。

そして、縄文時代以前の万年の大昔に、東南アジアの赤道地域の人たちが日本列島を

経由して、寒冷地適応型に遺伝形質を変化させることなく南米に達していたことが重要

です。

この馬蹄型ルート(仮称)沿いの事跡の見直し、今後の新たな研究が期待されます。

米ハーバード医科大チームの素晴らしい研究成果に対し、心から敬意を表します。

It’s important that people in equator region had crossed Pasific Ocean through Japan

without changing trait of human body to South Amerika in Pleistocene.

It’s needed to revise prehistory  and to study newly along this horseshoe route.

I salute to great research outcomes by the Team of Harvard Medical School .

 

Nara Akira  http://www.sunda-wind. net

さて、前回お伝えしたような特色を有するパンカル地域の人々は、海面の低下で拡がった海浜地域かフィリピン東の黒潮流を利用したのか、北方に向かい少しづつ展開していきました。

(第1図)

そしていずれの方向からにせよ台湾Taiwan地域で集約されます。

海水面の下がった2万年前以前の日本列島付近sekitar kepulauan Jepangは、東アジア大陸(仮称)の東アジア平野(仮称)Daratan Asia Timurが近接しており、伊藤俊幸氏は日本半島と呼ぶべきかとする状況でした。

因みに、この4-2万年前のその早い時代は、台湾から東アジア平野の沿岸地域は同様の人々orang-orang yg seperti sama di zona regionalと考えるべきで、その後の起点となる南九州に平野の北から来たのか、南から来たのかはあまり意味がありません。

(第2図)

トカラ列島からは来なかったのではという説がありますが、最近の研究で島々の植生が充実していたことから意外に生活できたものとみられていますので、渡っていたのではないかと思います(海水面も今より約130m低下していました)。

と言いますのは、3万2千年前頃、第3図の神津島pulau Kouzushimaの当時の貴重な石器である黒曜石obsidianが南関東で見つかっています。

海の民が、これを獲得しに舟を使い島を行き来しており、私たちを驚かす海洋行動力daya bertindak lautを有していました。

(第3図)

(参考) その時代、海水面は約130m低下していました。200m線でも下図の太青線のとおりで、長距離を舟行動していました。

(関東・東海海況速報(2016.1.8)から作成)

(まとめ)

そして、「海の民」パンカル人が日本列島地域に進出し展開しやがて米大陸に向かったことを俯瞰して考えれば、流れ着いたヤシの実と柳田國男の黒潮「海上の道」の指摘は、ニュートンとリンゴの話のように思えます。

他方、今の大学生・高校生に同様の道具で丸木舟を製作して外海の神津島を往復することという課題が与えられたとして、どれだけ達成できるでしょうか。現代ではスマホは得ていますが、失った知見・逞しい行動力もまた大きいです。

それ程昔でなくとも子供の頃、「われは海の子、白波の~、騒ぐ磯辺の松原に~」と歌い海に親しんでいました。オリンピックも島から島を往復して金メダルを競う種目があっていいと思います。陸上のマラソンがあるのですから。(余分でした。)

さて、南九州以降は、一般には黒潮沿いに瀬戸内海等にも展開しつつ房総半島へと展開していったことになります。勿論、日本海側を北上した人たちもいたことでしょう。

但し、この時代の人骨が残り日本列島で発見されるのは環境条件から極めて困難です。海の民の”とまや”苫屋もその材質と海水面が130m以上も上昇した今となっては痕跡を見つけられないです。

しかし、パンカル人「海の民」が、台湾到着Taiwan―>日本列島ブラックボックスblack box Jepang―>米新大陸Amerikaに出発という、その入りと出ははっきりしています。

従って、かっての湯川秀樹博士Dr.Yukawaの「中間子meson」のように理論上はある筈である。見つかっていないがあるものbangsa Pangkal ada di Jepangとしていろいろ考えようとなります。

その後の歴史の波に消えた人が多いかもしれませんが、海辺・川辺に残った人、自分たちの伝統文化を持って海から山里へ切り替えて適応し生き残っていった人たちなどもいると思います。Sebagian mereka beradaptasi kehidupan di Jepang dengan tradisi dan budayanya.

最近のDNA調査で、縄文人Jomon(期間は長いが)は、パンカル地域アンダマンAndaman諸島、チベットTibet(パンカル地域から展開と考えられる。)の人が一番近いという結果もあります。

パンカル人bangsa Pangkalは、何しろ沿海州地域から新たな寒冷地型の人々が南下し入ってくる2万年前頃、縄文時代が始まる(土器の開始は1.6万年前頃)という時代の前に、万年の長い期間、「海の民」として主に黒潮・親潮地域に、また日本海沿岸にも存在し影響を残したberbekas dalam Jepangと考えられる人たちです。

私は、今回のハーヴァード医科大Harvard Medical Schoolのアマゾン族のDNA調査結果は、寒冷地適応を受けていない海洋性ある人たちbangsa lautの太古の日本列島への入りと出ke/dari Jepangの存在を明らかにした点terungkapにおいて非常に意義深いsangat pentingと考えています。

さて、次回はブラックボックスを出て、米新大陸に向かいdari black box Jepang ke Amerikaます。

Nara Akira http://www.sunda-wind.net

私たち現生人類の出アフリカ後の展開について、米ハーヴァードHarvard医大のアマゾン3部族のDNA分析で最も近いとなったアボリジニ等(赤丸塗りつぶし)とアボリジニに近い南インド人(赤丸)をいわば「元々の人々」ということで、下図のようにパンカル人Bangsa Pangkal(仮称)と認識しました。

そして、この中から北方に展開していくことになります。

それでは次に当時のそのパンカル人の地域の状況がどうであったかを考えますと、その中心のアジアの楽園地域は半島陸地ですがインド亜大陸と比較して分かりますように広大な地域でした。

基本的には世界が氷期の寒冷・乾燥であった中で、出アフリカ後に進出したこのパンカル地域は、温暖な暮らし易い気候と植生に恵まれていました。

動植物の種類と量も豊富で水産物も豊かな食料が豊富な地域でした。従って楽園地域surga di dalam Asiaと呼んでいます。

中でもバナナbanana栽培は極めて古く、おいしく食べれるよう改良を重ねたもの(遺伝育種学の大家 故中尾佐助)で農耕の始まりawal pertanianとされ、重要な食べ物です。

各国首脳が来た昨年のアジア・アフリカ会議の大統領招宴午餐のデザートが、ピサンゴレンpisang goreng(揚げバナナ)であったと知り納得です。

地域については、水利専門家のDhani Irwantoが楽園地域の主要な河川sungaiの状況を推測していますが、下図のとおり水は豊かです。帰省することを川上に帰るという人たちです。

今も基本的にスンダの人は、川そばに家々を造り背後に田畑が基本ですし、舟を持つ漁村は漁村ですが、マングローブ(熱帯・亜熱帯の湿地森林)mangroveでのワニの子獲りの写真を見たことがありますので、いわゆる魚、貝でないものも食料としていたでしょう。

そしていくつかの地域区分が生じ、暮らしぶりの特色も場所で異なり、多少の差異が出てきていたかもしれません。

次に、当時の人々orang Pangkalはどうだったかですが、出アフリカ後の人に近いだろうといわれているのがアンダマン諸島、マレー、比にいて今も暮らしている少数民族ネグリトNegrito人の人たちで下図の大円地域は少なくともそうであったと考えられています。

その大円地域のジャワでは、4万年前頃のワジャックWajak人がいますが、ネグリトNegrito人からはすでに変化しているbedaようです。

また、地域の北部ベトナムで1万年まえのハンチョウ人が発見されており、沖縄で発見されている2万年前頃の人骨に似ているといわれていますので、時代が新しくなれば変化も大きいようです。

4-3.5万年前頃の洞窟goa絵、人の手型がスラウェシSulawesi南部で確認されており、その精神性や芸術性は当時の人類の先端を行っているレベルtingkat tinggiです。また、石器類も当然使用され社会性ある集団であったと当地教科書に書かれています。

人について、各地から人が集まるバンドゥンにいてどうかと聞かれれば、パプアの学生さんがイメージに近いかなと思います。

以上、パンカルの地域と人の状況を考えてきましたが、恵まれた広大な地域であったにも拘わらず、北に向かったtersebar ke utaraのはそれでも暮らし易い海辺・川辺での人口が飽和penduduk jenuhanしたのでしょう。

もしかしたら火山の噴火・噴煙や地震津波といった災害bencanaが契機であったのかもしれません。今も噴煙での立ち入り制限や洪水災害のニュースをよく見ますので思い付きます。

次回は、いよいよこのパンカルの人々が北上した先の日本列島について考えます。

 

 

 

 

Nara Akira     http://www.sunda-wind.net

前回は、Harvard Medical School のDNA分析チームによる万年を超える大昔に関するアマゾンAmazon部族のDNA分析の調査報道をお伝えしました。

その内容の検討に入る前に、まず大昔の私たちの祖先について述べます。

今、地球に生きる全ての人々の万年の大昔の祖先のアフリカにおける誕生、そして出アフリカ、世界への進出展開についての当サイトの認識は、これまでお伝えしておりますように下図です。

(第1図)

さて、前述の調査報道のタイトルは、豪アボリジニは最初のアメリカ人か?となっていますが、図で分かり文中にも書かれていますとおり、パプアニューギニア、アンダマン諸島の人とも近いです。従って、アボリジニの強調は、豪報道機関である故でしょう。白丸はアマゾン3部族とDNAの関連がないことを示しています。

Geneticists have found that Native American tribes living in the Amazon are most closely related to Aborigines from Australia, Papua New Guinea and the Andaman Islands, as shown in the image above, where warm colours show the greatest level of genetic affinity. White circles show populations with no genetic link.

(第2図)

ハーヴァード調査チームは、出アフリカ後の比較的早い時代に島から島へとアジアから豪へ移った(hop)海の民a sea faring people アボリジニの子孫がアマゾンの3部族であり、太平洋を越えしかもベーリング地峡から北米に入った人類よりも早かったのでは(may be)とみています。

さてそれでは、南米へ向け出発・展開した元々の方のことを考えてみましょう。

それは、豪アボリジニとパプアニューギニアとアンダマン諸島の人々がDNA的に近かった時代です。そして、豪アボリジニの祖先Nenek moyang Aboriginについては 現在では南インドIndia Selatan系とする説が有力である(Wikipedia)とみられています。

調査チームは、①今回調査して見つけたアマゾン3部族のDNAは古いもの ②同様のDNAが北米大陸に無かったこともあり、ベーリング地峡を渡ってアメリカに入った人たちよりも前に南米に入っただろう(may be) として述べています。

これらのことから、人類がアジアの楽園Sundalandから、報道では海と暮らす民a sea faring people とされている人々が島伝いに筏・舟で豪に渡り、アボリジニとして痕跡を残す4万年前頃からベーリング地峡を越えて人類が北米に入る(筆者:2万年前頃)間の時代だったのだろうとなります。

そしてその展開は、豪アボリジニ、パプアニューギニア側の人たちであればフィリピン東を北流する黒潮Arus Hitam沿いが考えられ、アンダマン諸島側の人たちであれば海水面が大幅に下がり広々と拡がっていたアジア大陸東側の海浜pantai地域を北上したことが考えられます。

(第3図)

ここで報道が触れていない隠れている問題を考えたいと思います。

上図の赤で囲われた4地域のDNAの近い人々は、第1図から分かりますとおり、人類の

出アフリカ後の比較的早い時代の人ひとたちですので、今と比べれば人数もずっと少な

く人の形態、言葉、生活なども類似性の強いものだったでしょう。

そして、民族としての慣習を守る結びつきの強さや部族によっては人里離れた地域で、

アマゾンの3部族の人たち同様にこの現代にまで生き抜いてきています。

さて、隠れている問題とは、人類の展開としては中で最も早い南インドの人がアボリジニに

近いといっても途中を飛ばして直接、達することは考えられません。

従って、この地域では同種の人々が暮らしている状況の時代だったということで下図のよう

になり、当時この地域にいた人々をパンカル人Bangsa Pangkal、地域をパンカル地域

と仮称します。

それは、現生人類の状況をなかなか推定することが難しい大昔の時代におけるDNA分析

の実証性を有する概念です。なお、パンカルpangkalとはここの言葉で「元々」の意です。

(第4図)

これにより、当サイトのお伝えしてきている前掲第1図の現生人類の展開図に、サフルランド

方向からの北上ラインを加えます。

次回は、人類史上注目すべきこのパンカル人、地域について考えていきます。

遠いですが、日本列島が視野に入ってきます。

 

 

 

 

 

Nara Akira    http://www.sunda-wind.net

当サイトは、昨年の十大ニュースのトップにHarvard Medical School の遺伝子専門家Prof.David Reich教授チームによる先史人のDNA分析結果を挙げました。

それは、南米アマゾンAmazon流域の先住3部族のDNAが豪アボリジニAboriginと最も近く、隣といっていい北米インディアンとは違うberbeda dengan Amerika Indianという驚きのものです。

これまでの人類史の定説は、2万―1.5万年前頃、ベーリング地峡からアラスカを通って北米に入った人類は、南米に入って1000年くらいの間に南端に達し南米域に拡がったというものです。

*ベーリングBering海峡 – Wikipedia

最狭部はデジニョフ岬プリンスオブウェールズ岬の間で、86km。深さは30–50m。海峡

の中にはダイオミード諸島がある。7月から10月以外の間は結氷状態になる。(問題にして

いる時代には、海水面は100m以上現在よりも低下していました。)

ハーバードチームは、アマゾン族の祖先2%は、豪アボリジニにとリンクしていること、南北アメリカへは複数波で現生人類が来ていることを明らかにしました。

また、出アフリカ後の古い人類であるアンダマン諸島人やニューギニア人と近い豪アボリジニの子孫は、may be を付けてますが、ベーリング地峡から北米に入ったインディアンよりも早い時期に南米を「colonize植民地化」 したとしています。

そして、may haveをつけていますが、広大な太平洋を横断してcrossed the vast ocean expanseと。しかし、北側の氷床ice sheetsを通って北に来ることもできたがと。

(下図のDNAの近親性は、最も近い赤から暖色の順に。白色は近親性がない。)

即ち、人類がベーリング地峡を通って北米に入ったと言われているよりも早い時期(2万―1.5万年前puluh ribu tahun lalu以前)に、①舟で豪から南米に渡る ②氷床を通って北米に入り南米に至る。の2ルートが言われています。

しかし、

①は、ラピタ人が3千年前頃、楽園Sundaland地域から漕ぎ出し東方の太平洋の島々nesia(ミクロ、メラ、ポリ)に展開していったと考えられており、それ以前のしかも万年前の古い時代の横断の裏付けは全くなく無理でしょう。

②も人類はベーリング地峡手前で数千年以上の足踏みをした後、地峡を通ってアラスカへ入っていったと考えられています。

それ以前の時代において、言われる氷床通過は難しいでしょう。また、チーム自体が北米大陸通過に否定的なDNA分析の評価です。

従ってこれらのことから、人類が展開していった時代における北回りbalik utara馬蹄型penbentukan tapal kudaの環太平洋海浜・舟行ルートRLPPの存在を提案するproposalものです。

南回りルートは、文字通りとりつく島がありません(南極経由は論外ですし。)、また、時代は下りますが関連で、米太平洋岸で縄文土偶が、南米北部で縄文土器と同様のものが発見されるなど日本列島人との関わりが発見されています。

(RLPPとは、当サイトの下図中のインドネシア語拙訳の頭文字をとり、海浜のpantai・舟perahuの2つのpは・で結ばれる内容から1つにしました。)

RLPP説は、紹介してきました豪アボリジニとアマゾン部族の問題から、むしろ今の世界に生きる肌の色も違う全ての人々の祖先、即ち出アフリカを果たした後の現生人類の展開の歴史に関わる問題を提起することとなります。

それは、アボリジニAboriginの豪とアジアの楽園Sundaland、日本Jepang列島の関連の重要性hugunbang pentingを浮かび上がらせるものです。

更にこのことは、実は報じられていない注目すべき重要なことが秘められていると考えており、次回更に説明していきます。

 

 

Nara Akira    http://www.sunda-wind.net

明けましておめでとうございます

遥かな祖先は、天・神・自然を敬い畏れ、環境と共生しつつ、力を合わせて活動し、サルの社会と全く異なる人間の社会を建設していきました。

明日のため、今年もまたその源流の状況を探っていきます。

そしての方向の赤道越えの地にて、この地域とお国のお役に立つべく, しっかり直立2足歩行し微力ながら努めて参ります。

本年の皆様のご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げます。

Selamat tahun baru.

Nenek moyang berkembang sosial manusia yang berbeda lain lagi dengan itu monet.

Mari meneliti keadaan asal usul itu demi masa depan.

Saya mau bekerja sosial untuk Indonesia dan Jepang oleh berdasarkan penelitian ini.

Tulus berdoa untuk keluarga Anda sekalian yang kesehatan dan kebahagiaan semuanya.

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