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A. 万年の人類史における新たな発見(人の歯)から、長かったその時代は正にアジアが世界の中心だったことを認識する必要があります。

B. 日本では、南方の島での地道な調査から、当時は住めなかっただろうと思われていた所でも人が住んでいたという新たな研究発表がありました。

人類史における海辺の道、海の民という側面をしっかり認識する必要があります。

黒潮柳田ppeg

(柳田國男Kunio Yanagida  海上の道から)

1.世界人類史におけるアジア

前回、少なくともアジアの人々の祖先Nenek moyangが、8万年以上前にアフリカを出てアジアの楽園Sundalandを通過し、北上して行ったことを示す人歯発見Gigi ditemukanのニュースをお伝えしました。

人類の展開湖南15.10peg

(1)寒さと乾燥

8万年、5万年(画期的な人類進化)、4万年、3万年も前という、現生人類の各地への展開の歩みTersebarは、基本的にはユーラシア大陸北側が寒く北アフリカ・中東は乾燥した氷期の時代(比較的暖かい時期10%含む)のことでした。

その氷期時代の最終氷期LGMである2.1万年前頃のイメージは下図のようなものです。

欧州や教科書で教わった文明の地域は、厳しい寒さあるいは乾燥の状況にありました。

寒かった北緯40-50度地域の人たちは、滅びるか南下して生き延びたことでしょう。(LGM期までには、現生人類以外の近縁人は皆、滅びています。人体への影響のほか、食糧獲得が問題です)

LGMの世界peg15.10

(Stephen Oppenheimer資料から作成)

(2)北方人類の南下移動Bangsa utara dingin menurun ke arah selatan

寒い、乾燥している時期には、人や類人猿の南下移動があったとみられることはDNAから分かります。

豪州先住民アボリジニAboriginには、ユーラシア北側地域にいた現生人類ではない近縁のデニソワ人(シベリア・欧州)ネアンデルタール人(欧州・中央アジア)のDNA痕跡が、7-8%残っています。

アジアの楽園Sundalandで交雑し、豪州へ渡った人がいると考えられています。

また、短い比較的温暖な時代には北へ向かった人々もいたことでしょう。何回かこのような南北の移動が行われたものと思います。

いずれにしましても、当時数万年にわたり続いた現生人類の世界の中心地域は、暖かく植物が茂り多くの動物がいるアジアであり、人々が集まり混じり文化pradaban kunoが生まれたものと考えます。

2.人類史における海辺の道、展開した海の民

前回、出アフリカの現生新人類は、他の猛獣やサル・類人猿と決定的に異なり、水を厭わず水産物をも食する点を指摘しました。

この新人は、熱帯雨林そのもので暮らすのはなかなか大変ですが、広大な暖かい海浜・河岸、森林・灌木地などの地域は、楽園(比較の問題ですが)でしたでしょう。

日本のそんな暖かい南方の奄美・沖縄の状況について、鹿児島大国際島嶼(とうしょ)教育研究センターによる新たな発表がありました。

アジアの楽園Sundalandからの北上ルート上で、先史時代には人は住めなかっただろうとこれまで考えられていた日本南方の島々pulau-pulau selatan でも、(幸せに)人々が住んでいたada manusia prasejarahという研究調査結果です。

 

遺跡から見つかった種子を説明する鹿児島大の高宮広土教授=28日、鹿児島県奄美市

(2015/10/29付 西日本新聞朝刊から)

次回、このことを考えてみます。

 

 

 

 

 

 

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出アフリカ後の現生人類の東進・北上ルート上の中国南部で発見された現生人類の多数の歯Gigi kuno ditemukanは、欧米ではアジアと欧州の比較という波紋を生じています。

Pemunculan soal perbandingan tentang dua rute yang awal manusia modern menyebar, yaitu ke Asia dan ke Eropa.

下の図において、中国南部で8万年前以上となりますと、欧州は何故4万年もアジアより遅れたのだろうかという点に関心が向かっています。(8万年となれば、私の認識では5万年くらい遅れたこととなります)

人類の展開湖南15.10peg

今回発表した人たちも、調査後の帰りの飛行機内で虫の羽音のように騒がしく次のようなことを言い合ったと述懐しています。(Nature誌)

A.欧州人たちは、先行アジア人の末裔なのか?

B.欧州の展開が遅かったのは、

a 既にいたネアンデルタールNeanderthal人(との争い)のせいか?彼らが寒さのためいなくなっていったので、ようやく展開しえたのか?

文化的、生物的に劣っていたというネアンデルタール人に対するイメージを変える必要があるのではないか?

b   熱帯的な現生人類が、欧州の寒さへの適応に時間を要したからなのか?

これから、いろいろ議論が続いていくことになると思います。(ホントに8万年以上前なのか、という疑問を持つ人も出て来るでしょう。)

そういう新たな視点でこれまでの資料が検討され、また、更に新たな資料が発見されることを期待しています。

他方、

アジアの楽園SundalandやタミルTamilという、出アフリカ後の東進・北上ルートを追っています私は、彼らの議論に加え少し違う見 方を持っています。

1.そもそも出アフリカを果たした部族は、水産物をも食する、水を厭わない新種の人たちBangsa laut baru pada masa perbaだったと思います。

虎やライオンはもとより、近縁のチンパンジー、類人猿とも決定的に違う現生人類のこの生き方の特徴(水中適応の身体痕跡)が、何故、いつ頃、獲得されたかということに人類史研究はもっと目を向ける必要があると思います。

(キッズアドベンチャーから)

当時は海水面が130mくらい下がってましたので、アジア正面では遠浅の海浜とマングローブが拡がり、河川も多い地域で魚や貝など水産物は豊か、移動も容易でしたし、トラも海の中までは追いかけてきません。

欧州内陸は道なき道か開闊地で、危険な猛獣や毒蛇・虫なども多く、大変だったでしょう。

2.同緯度の展開が容易です。

やはり初期の人類の展開は、同緯度の発展が容易でしたでしょう。そして、海浜と気候に適した広大なアジアの楽園(インド大陸の2倍)が在ったことは幸いしました。

出アフリカ後の人類が、言語等の画期的な進化があったとみられる5万年前頃以降は、特に舟・筏も使って海浜から河川にも発展し大いに人口も増大していったことでしょう。

さて、

欧米の人たちは、ネアンデルタール人に目を向けるのもいいですが、現生人類の祖先を育んだ海辺の道やアジアの楽園Sundalandが人類史に持つ意義にもっと目を向ける必要があると思います。

(海浜や楽園陸地の過半がその後に海没し、また、海辺や熱帯地域では遺物等が残ることが難しいことは認めますが)

次は、現生人類の発展に幸いしたこのアジアの楽園Sundalandについて考えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アジアの楽園Sundalandからの人類展開の北上ルート上で、これまでの認識より2-3万年は古い現生人類の歯が発見され、その細部の状況が確認されたという驚きのニュースです。

47 Gigi yang hampir awal manusia modern masa Pleistosen, lebih kuno daripada 80,000 tahun lalu, ditemukan di Daoxian Hunan, Cina selatan.

Majalah Nature memuat berita itu dan Prasejarah manusia modern direvisi. Letusan Toba kuno muncul sebagai tema sangat penting.

A.どんな人類考古学上の発見?

中国南部の湖南省の洞窟内で、8万年以上前とみられる現生人類の歯が多数発見されたと科学誌Nature(14 October 2015)が報じました。

B.発見の意味合いは?

これまで、人類の出アフリカ後の展開時期の見方は6万年前頃というものだったので、8万年以上前であれば種々の面で発見の意義は大きいです。

a 出アフリカ定説の時期、態様の見直し検討が必要となる。

b アジア内の展開状況の見直し、新たな意味づけがなされる。

c     アジアと欧州正面の比較、現生人類とネアンデルタール人の関係などの新たな意味合いが考えられる。

などいろいろな面で興味深い検討がなされていくこととなります。

1.発見について

中国主に英米(ロンドン大、ミネソタ大)スペイン等の研究者10数名が、湖南Hunan省Fuyan洞窟内で発見されていた初期の現生人類の歯を47個、ハイエナなどの哺乳動物の物とともに確認し、年代推定しました。

2.意味合いについて

これまでの私の認識に、発見場所の湖南省Fuyanをプロットすると下図のようになります。

人類の展開湖南15.10peg

発見された地層、歯などの状況から、現生人類であり8万年以上前となりますと、

まず、①出アフリカはもっと早かったのか? あるいは、②ユーラシアに渡ってからの遠浅海浜沿いの東進・北上ルートでの展開が極めて速かったのか?

何より、7万3千年前頃とみられる人類史に残るトバToba(インドネシア・スマトラ島中西部)の大噴火の前にアジアの楽園を通過して、中国南部に達していることになります。

従って、その時代に特にアジアの楽園及びインド亜大陸で暮らしていた多くの人は大変な被害を受けたことになります。

これまでの定説では、噴火後の6万年前頃に展開、到着したので、影響はそれほどのものではなかったろうという見方ですので、大きく覆します。

アジアの楽園は、7万年前頃の大噴火と1万年前頃の大水の2度にわたり人類史に残る大災害に見舞われたことになります。

恵まれた楽園で生活していた中で大噴火を経験して生き延びた(進んでいたであろう少数の)人たちと、全く知らずにおさまってから遠い所から楽園に来た人たちとでは、生活文化や精神意識に大きな差が生じていたものと思います。

また、海を越えて渡るサフルランドへの到着が、これまでの見方よりも4万年くらいは遅れることになります。

5万年前くらいに人類は言語面など画期的な進化があったとみられていますので、それまではやはり長距離の海を越えるのは難しかったのかなということになります。

そして、現生人類の展開の時期が、アジア方面と欧州方面ではこれまでの認識よりも更に大きな差が出ます。

欧米で関心がもたれるこの点に関しては、次回考えたいと思います。

 

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出アフリカを果たしました現生人類の東方への展開におけるアジアの楽園のSundalandに至る前、前回お伝えしましたようにインド亜大陸地域の文明が明らかになってきました。

図1

人類の進出展開10.23peg

それは、ドラヴィダ族の万年に遡る広域かつ石器から青銅金属器にまで至る長期にわたる文明であり、かつて教わったインダス(川)文明と言う狭い呼称におさまらないものです。

高いヒマラヤ山脈を発しアラビア海にまで至ることをもって、文明を担った人々が聖なる川と認識し、何度も最古の聖典リグ・ヴェーダに登場するサラスヴァタ川流域(現在は干上がった土漠)の新たな遺跡を含む文明です。

ヒマラヤ山脈南西の諸河川流域及び海岸部と現在の海中をも含めた広域にわたる注目すべきドラヴィダ族の古い先史文明です。

図2

ヒマラヤ南西文明peg10.23

 

サラスヴァタ川沿いの約2,600遺跡の2/3が、近年になって発見されています。流域の文明は、4,200年前頃、300年にわたる長期干ばつにより衰退したものとみられています。

(川である水の女神サラスヴァタは、仏教に伴い日本に入ってくると弁天 様となっています。)

河口のドゥヴァラカ海底遺跡では、海面下23mの海中に砦壁、波止場などの興味深いものが発見されています。

この文明の中核を担ったタミルの人々は、クマリ・カンダムKumari(女王名)Kandam(大地)の話を長くしっかりと語り継いでいます。

大昔に印亜大陸の南にあった、父祖の進んだ王国の大地が(破滅的に)海に奪われたというものです。

15世紀になって、その陸地の広さ、内部の地域区分が記述されているようですが確としたものではありません。

図2で分かりますように、万年前頃の昔は大陸とスリランカ地域が陸地として繋がっていましたので、そこではないかという説があります。

あるいはもしかしたら、南の解釈によっては、同じく図2の海底遺跡地域のことかもしれません。

他方、近代になってから、アフリカ東方マダガスカル島と東南アジアの生物の不思議な類似性が注目されました。

島にキツネザル(レムール)が生息しており、この仲間は世界中でここからしか知られていない。しかし化石種インドから発見されており、また近縁の原猿類はこの島を挟んでアフリカ中部と東南アジアマレー半島インドネシアにのみ生息する。このようにインド洋を隔てた両地域には近縁な生物が見られる(隔離分布)。(ウィキペディア)

このことから、キツネ猿・レムールが住んでいたレムリ アLemuria大陸がかってあったのではという説が登場し、タミルのクマリ・カンダム話と結びつきました。

Kumari Kandam map.png

(wikipediaから)

ところが、この大陸の仮説は現代の地質学によって完全に否定されています。

でも見てください、仮説レムリア大陸の東方横には海によって大地を奪われたアジアの楽園Sundalandがあります!!

マダガスカル島には、現在も遠く離れたマレー・インドネシア系の子孫が生活しており、同じ言葉を話している不思議さがあります。

キツネザルが教えてくれるマダガスカルMadagascar島―アフリカ中部Mid Africa-インドIndia-アジアの楽園Sundalandの関連性はもっと注目されてよいと思います。

そして、タミルの語り継ぐクマリ・カンダムKumari Kandam話は海に沈んだアジアの楽園Sundalandのことかもしれない、と私は考えます。

そうしますと、図1のように出アフリカ後の人類の東進・北上ルートはその後も往来が続く訳ですので、海の民でもあるタミルと日本の古い時代の関わり、言葉の類似性は驚くほどのことではないでしょう。

そして、大家の柳田国男先生が晩年の昭和36年、日本人の起源について、もっと海上の道に目を向ける必要があるのではないかと言われたことにも思い至ります。

名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月・・・

(柳田先生の話をもとに島崎藤村)

イネ島やしpeg

(インドネシア・ブリトゥン島の椰子の実)

丁度、先生の生誕140年を記念する展示会が、横浜の港が見える丘公園の神奈川近代文学館で11月23日(月・祝)まで開催されています。

小学校の遠足でこの港に行き、沢山の外国の貨物船を見ました。そして大人になってから、遠足で感じた気持ちを「海外雄飛」と表現することを知りました。

貿易立国、日本の若い人たちがこの気持ちを忘れないで欲しいと思う歳になりました、余談です。

 

 

 

 

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前回お伝えしましたように、インド亜大陸地域では、近年驚くべき古さ、数の遺跡が発見されています。

まず注目されるのは、アフガニスタン国境に近い古いメーガルMehgaruh遺跡と衛星写真分析に連携したサラスヴァタ川(現在は干上がっている)流域の多数の遺跡群です。

印遺跡群jpeg10.20

メーガル遺跡は、フランスチームが、9,000年前から3,000年前ころまでのものと報告しています。当時は今と違って、森林と水が豊かな地域だったようです。

現在と変わらぬような泥土の家での定住、初期農耕・家畜、新石器のほかに人骨、装身具、小立像などが発掘されています。

歯が西方ではなく東方(アジアの楽園Sundaland系)の人たちと類似であることが注目されます。

有名なインダス遺跡モヘンジョ・ダロMohenjo-daro(4,500-3,800年前、約4万人)からアフガニスタン南部のカンダハルに至る経路沿い地域でもあります。

そして何よりも、パキスタンにあって今もドラヴィダ族語が話されている地域の近傍です。

ドラヴィダ・タミル言語遺跡peg

サラスヴァタ川沿いは、かねてハラッパ遺跡として知られていましたが、リグ・ヴェーダの記述を裏付ける広域にわたる驚きの数の遺跡群です。

更に、海岸地域でも海中を含め遺跡が発見されてきています。

そして、万年前は大陸と陸続きだったスリランカの中央山地に残るドラヴィダ語族の状況から、万年前のインド亜大陸地域は、ドラヴィダ系語族に占められていたことが窺われます。

近年の研究により、上図の北西のカイバル峠方向からのアーリア族が侵入した(3,500年前頃から)ことによる大きな変化というこれまでの見方は修正され、もっと緩やかな自然な変化であったようです。

丁度、我が国における縄文人と新たに入って来た弥生人の緩やかな移り変わりという近年の新たな歴史認識への変化のようです。

違いは、言わば縄文タミルが今もインド亜大陸南部と一部、スリランカ、ネパールなどにしっかり残っていることです。

理由の一つは、語り伝え守ってきたタミルの古く高い精神性、長く活躍してきた優れた海洋交易、造船の民という特性によるものでしょう。

インド中央・北部のサンスクリット語と南部のタミル語を比較した場合、遙かに多くのタミル語がサンスクリット語に採り入れられていることからもその事情がよく窺われます。

ドラヴィダ・タミルは、地域西部のメーガル遺跡の方から東部へ移って行き、また、北部から南部へと縮小して行ったとみられています。

但し、上図ようにインド西部沿岸で数千年前の海底遺跡が発見され、更にドゥワルカ遺跡はもっと沖にも海底遺跡があるのではないかとみられていますので、タミル人は東漸してデカン高原南部に来たと言えるだろうかという状況です。

今やインダス文明と言って片づけている状況ではないでしょう。

メーガルや海底遺跡の古さや近年新たに発掘が進んだサラスヴァタ川沿いの遺跡の豊富さとそれらの遺跡の拡がりの広域さから、ヒマラヤ南西流域文明とでも呼ぶべき状況と考えます。

更に、古い海底遺跡と海洋での国際交易活動が注目されます。

種々の言語との基本的な語彙の共通性などから言葉の面でもタミル語こそ母なる言語と言われるようになってきています。

ところで、インドネシアは、正に多様な人々の島々から成る国であり、それだけに多様な中の「統一」という標語を掲げ建国以来、大変な努力をしてきています。

問題の多い現在の国際連合UNが、範として研究すべき国と私は思っています。

国は一つの言葉インドネシア語ですが、例えば西ジャワ州では地方の言葉を大事に守っており、州庁教育局に地方の言語文化振興の部課があります。

 

JB教育局peg

アルファベットの下に見えるのが、この地域のスンダ語のスンダ文字です。そして、近隣のタイなどのどこよりもタミル文字に似ています。

このようなタミルは、古い時代に彼らの父祖の進んだ王国Kumari Kandamが(破滅的に)海に没したという語り継いできた神話を有しています。

また、古い時代から場所を換えても守ってきた文芸アカデミーSangamに咲いた文学も評価されています。

更に次回も、タミルを追って探究を続けます。

 

http://www.sunda-wind.net 現生人類の出アフリカ後、アジアの楽園のSundalandに至る前にインド亜大陸地域の海浜を経て来ています。 そこの万年の歴史を探って行きますと、実証という観点ではドラヴィダ・タミルの人たちに行き当たります。

南インドIndia selatanを中心に、長きにわたり自分たちの文化を持ち続けてきた人たちですが、何しろ日本語に一番近い言葉として真っ先に挙げられる言葉が話されています。

展開言語図日10.13縮

シンガポールへ行きましたときに、公用語としてしっかりタミル語が示されており、インド人街となってますが、実態はタミル街があります。

土産 (1)縮

タミル塔縮

イギリスがゴム園などでの労働者として、植民地から多くのタミルの人たちを連れてきたと言われており、現在も道路工事、建設現場などで多く見られます。

マレーシア・クワラルンプルの空港でもレストランや空港の清掃などで働いていますし、バンドゥンでは数は少ないですが、親子2代でお店を持って反物を売ったりしています。

タミル嬢syuku 

タミル人男縮

3高のイケメン君は、自分は多数派のタミルオリジナルではない港町マドラス系だと言っていました。親とはタミル語、店ではスンダ語、インドネシア語、英語で頑張っており、ここでやっていくということです。

インドネシアでは植民地としていたオランダ人に連れて来られ、北スマトラの大都市メダンMedan、リアウRiau、首都ジャカルタを主に数万人とみられる人たちが、多い所では自分たちの学校や病院などを持ってしっかり根づいています。

さて、インドと言えば聖典Rig Vedaリグ・ヴェーダです。 古代以来長らく口承され、のちに文字の発達と共に編纂・文書化された数多くあるヴェーダ聖典群のうちのひとつで、最も古いと言われています。

祭祀、呪法、生活、神、性愛、宇宙などの内容の全10巻で、1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)です。

 

リグ・原本

(ウィキペディア)

神話扱いされてきた古いリグ・ヴェーダですが、その中で独りきわだち勝る大河と記述されている聖なる、ヒマラヤからアラビア海に至るサラスヴァタ川沿いを主に地域で約2,600の遺跡が発掘されています。

これまでは神話として片づけられてきましたが、記述と遺跡発掘の附合から見方を変えていかねばならないでしょう。

下図左の上のメーガル遺跡は、フランスチームTim Prancisによって約9,000年前という驚きの古さが報告されています。

また、学校で教わったインダス川モヘンジョ・ダロ、印パにまたがるハラッパ遺跡などに加え、衛星写真分析から干上がった聖なるサラスヴァタ川沿いの状況が明らかになり、発掘によって無数の遺跡が発見されてきています。

印遺跡群jpeg10.20

いわゆるインダス文明、そして聖典リグ・ベーダの内容の年代・記述の歴史性、更にはインド先史とそれを担ったドラヴィダ・タミル史が全く見直される状況になってきているのです。

Kini prasejarah India, Dravida Tamil sedang terevisi secara drastis.

日本語の源流議論もそういう状況を踏まえてなされるべきだと思います。

さて、世界史的Sejarah duniaに実に大きな意義sangat pentingを有するタミルDravida Tmilについて、更に探って行きます。

 

未だ問題の多い現代の人間社会のあるべき方向、その将来を考える上で温故知新、人類の大規模な文明社会の始まり、原点の様子を探ることは重要でしょう。

近年、DNAの分析などにより祖先である現生人類の足取りがかなり分かって来たのは大きな成果です。

アフリカを出て海浜沿いに東進、アジアの楽園のスンダランドで北上し、南から、西から日本に到達して日本を覆った後、北からも進入してきています。

人類の展開9.16syuku

しかし遺骨などから分析しうる肉体は、人間を人間たらしめる行動を司る最も重要な精神や心理を内部におさめて運搬する、いわば容器に過ぎません。

この点で、現生人類は出アフリカ後、5万年前頃には容器内のコンテンツとして言葉の画期的な進化を果たし、4万年前頃には洞窟絵を描く精神性を示しています。

そこで、他の動物群とはっきり異なる、人間らしい大規模な集団社会の生活状況となりますと、集団の言葉が精神性や生活文化と直結しますだけにその分析が重要です。

日本では、4万年―2万年前頃に南・西、北から入って来た頃から既に生活に重要な道具として黒曜石の使用が各地で認められています。

それを探して船出し、その使用痕跡の分布から、遙かな遠隔地と人々が交易する知能、コミュニケーション力と海上移動技能を有し、日本全域で生活していたことが分かります。

黒曜石図jpeg

縄文人が1万数千年前には、確認しうる世界最古の土器を作り、狩猟採集その後の初期稲作、交易などに必要なかなりの言語力を有して生活していたことは確かでしょう。

弥生人が3千年前頃に南・西から進入するまでに1万年以上の期間があります。

その間の縄文人による言語の使用、生活文化、信仰などは、地域で差があったとしても日本全土を覆い、その後の基層をなし現代に続く重要なものと考えていいでしょう。

この点で7,000年前頃、南九州鬼界島の火山の大噴火で当時の先進地域の九州はほぼ壊滅したと言われています。

西日本も大きな被害を受け関東、東北にまで灰が及んだ大災害による後退は、誠に残念なことです。

日本語の言わば親語はどれだろうということで、100年以上も言語学的な分析が行われてきていますが、どうも誰もが納得する決め手はまだないユニークな孤立的な言語と言われています。

その中で名前が挙がっているのが、①南方(ポリネシア系)語、②インド亜大陸のタミル語と③シベリアの南のアルタイ語です。

近隣の大陸国と同系でないことは不思議です。

候補が遠隔の途上国の地であり、欧米を含めた言語、文化、歴史などの総合的な研究が容易でないことも解明に至らない理由の一つのように感じます。

因みに、ポリネシアは、せいぜい3千数百年前にアジアの楽園のSundaland 地域からラピタ人が漕ぎ出し入植したとみられていますので、南方地域語と言うべきでしょう。

そして、南方地域語と言えば、7千年前頃には平野部が海没してしまいましたが、基層語としてアジアの楽園Sundaland 地域のことがよく認識されていないのではと感じています。

人類が東アジアに達する前に既に東南アジアで話されていた言葉に思いを馳せる必要があります。

更に、次の候補のタミル語が人によっては、日本からあまりに遠隔地のため結びつかないようです。

しかし一方で、世界的には下図のアルタイ語も(ウラル語も)タミル語に類似と言われていますので、日本での議論はなんだかなあです。バイカル湖地域○Bの人々もCからよりもAルートから進出し北方適応したのでしょう。

展開言語図日10.13縮

その後、強い影響力を持った大陸語に追われた古いものは、離隔した島、陸の孤島と言うべき人里離れた所、山奥などに残ったのでしょう。

現存の言葉をみていきますと、その始源的な古さと広域にわたる影響力でドラヴィダ・タミル語に比肩しうる親語と言うべき言語は、おそらく世界には無いようです。

(南方地域語として、万年の昔のアジアの楽園Sundaland語は、既にそれぞれ類似なものが複数存在していたと思われますが、タミル語との関係を含め不明です。)

現在のイラクであのメソポタミア文明を興したシュメール人の粘土板文字から解明された言葉に接したタミルの学者は、「これは、タミル語だ!」と共通性を実感しています。

また例えば、時代は万年の議論に比べればずっと新しいものの、あのイエス・キリストが最後に発した7語があります。

十字架の上の苦しみの中で、 回りにいた人は誰も理解できなかったとも言われているその7語は、ドラヴィダ・タミル語では、「神よ、死をお与え下さい。」だったと解されている始源性があります。

そして、青年時代の状況が全く不明なイエス・キリストは、当時、各地にあったインド伝道所に接触していたのではという見方すらあります。

人類史におけるドラヴィダ・タミルの地理的な位置、古い文化、近年の発掘成果を踏まえたその先史をもっと認識する必要が有るように思われます。

タミルの影響が日本に及んでいることも、共通の単語や日本の地名に残っており間違いないでしょう。

では次に、そのドラヴィダ・タミルに光を当ててみたいと思います。

 

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ときどき街の食堂で、アジアの楽園のSundaland関連記事を探して古新聞を読みますが、この写真にはびっくりしました。

私のホームページ読者の皆さんなら、何度も目にされている人類の進出展開の北上ルートを想起させますので。

渡り鳥図syuku 

(10.1付 Pikiran Rakyat 紙から)

人類進出図和syuku10.5

これはハチクマ鳥の渡りであり、冬モンスーンの9月から3月は、アジア北から大陸ルートを暖かい豪へ、夏モンスーンの1月から8月は、大洋ルートを北上し日本へという、1,300万年前からとみられる渡り行動です。

ハチクマ鳥縮 渡り鳥図

(10.1付 Pikiran Rakyat 紙から)

日本では、ミツバチの巣の蜂蜜や幼虫を食し産卵もしますが、ミツバチは巣を壊されるとまた別の新たな巣を作りますので、鳥によって飼育されているようだと言われています。

雨が近づくこの時期は、渡りが当地では田植えを始める時節であることも告げるそうです。

私の住んでるバンドゥン東北のDago 地区は、渡り鳥が列をなす回廊コースだそうで、記事は環境観光の振興を提案しています。

私は、人間の到着の遙か昔から行われてきたこの万kmという長距離の鳥の渡りは、人間の新たな進出展開に大きな影響を与えたものと思います。

鳥が行って帰ってくるということは、未知の地への展開が保証さているようなものです。空中という天・神に近い所で行動し、人を導く天使のようなものと思われます。

此処では鳥籠の鳥がバスターミナルなどあちこちで売られ、大事にされていますし、国章のガルーダ(イスラム国ながらヒンドゥーの神鳥)はもとより、パレードにも堂々登場します。

パレード鳥syuku

既にお伝えした、例えば、スクー寺院の彫像に羽がついてるものがありますが、鳥人です。

人のようですが、羽を有し顔は鳥であり、足の指爪も鳥です。

鳥の万歳

Samanthoによれば、このような鳥人ものは、下の写真の左がスクー寺院、右上がマヤ、右下がユダヤ民族が過越祭の晩餐で読む有名な冊子にみられる鳥の頭を持つ人だそうです。

スクーの万歳

そして、鳥人はメソポタミアのシュメール(Samantho左)、バビロニア(同右)とも共通性があります。

長江文明も太陽と鳥、インダス文明の鳥土偶、そして日本のアイヌの鳥信仰は縄文人にもあっただろうと推測され、神武東征神話は、八咫烏です。

先史時代、鳥は遠く離れた地域でも人々にとって特別な動物であったようですので、人々の移動・交流は興味深いことです。

やはり人間も同じように、氷河期終期の寒冷期にはアジアの楽園に南下し、暖かくなれば北上して行くということが繰り返されたことでしょう。

そして人々のこの離合集散が、異質の触れ合いによる文化、文明を育んだものと考えています。

鳥は、渡りを行うことや船乗りなどの情報収集に重宝された天・神に近い、人を導く天使のようなものであったのだろうと思います。

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アジアの楽園のSundalandは、恵まれた環境にありますが、災害だけは辛いものがあり、天は二物を与えずです。

従って、当国では地震・津波、そして洪水などに関心が強く、日本の洪水も関心を呼びました。

9月16日付で、「災害は日常を奪い、歴史をも変える―明日を知る「鍵」は過去に」でお伝えしました。
(2015.09.16)
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茨城県 鬼怒川の堤防が決壊し、大きな浸水被害を受けてから2週間、仮の堤防を造る作業­が行われ、(9月)24日に完成しました。

「仮堤防完成」の報告をしたのは、国土交通省・現地対策本部長の堤 盛良さんで、grapeページでの浅葱カレンシアさんのコメントで知りました。

なんともピッタリのお名前ですね。

Nama orang Tsutsumi Moriyoshi, jabatan adalah kepala strategi markas besar lokasi yang dikirimkan oleh Menteri ke sana . Nama keluarga Tsutsumi, artinya tanggul. Nama sebutan Moriyosi artinya hal yang membangun baik dengan pekerjaan yang menumpukan tanah.

ここでは、万年を過ごしてきた人々が曜日を重んじ、祝い事や旅立ちや何かを正にお日柄縁起を大切にしてますので、私は分家と考えてます日本の事に感じ入りました。

怒った鬼もマイッタと言っていることでしょう。早い復興をお祈りいたします。

さて当地災害は、あの世界遺産ボロブドゥールを埋めた火山の噴火もそうです。今、噴煙であちこち難儀しています。

北部のボルネオ・カリマンタンでは、オランウータンが難儀していて当地紙が報じています。

Orang(人)hutan(森)、なんだ森の人ということなんだと分かったのは、インドネシア語の勉強初期の嬉しかった思い出です。

人と思って宜しくお願いしたいものです。

(じゃかるた新聞10.3日付抜粋 から)

森林・泥炭地火災による煙害が8月末からインドネシア各地で深刻化し、生態系の破壊が急速に進んでいる。

中でもカリマンタン島には約5万頭のオランウータンが生息しており、すみかを追われる事態が発生している。

カリマンタン島でオランウータンを保護している非政府組織(NGO)「ボルネオ・オランウータン・サバイバル・ファウンデーション(BOSF)」は、森林や泥炭地のうち、ホットスポット(高温地帯)や火災が発生した約30万9000ヘクタールで調査を実施。

これまでに火災ですみかを追われたり、煙害で弱ったりしている野生のオランウータン3千頭を保護・診察した。

ニャル・メンテン保護区では子どものオランウータンを室内で保護している

アジアの楽園のSundalandは、人類史の百貨店のようだとお伝えしていますが、保存修復中のスクー寺院で新たなミステリーが発見されました。

(当地のスンダランドSundaland会、Dhani Irwanto から)

中部ジャワのスクー寺院が不思議な寺院であることは、以前に「中部ジャワ旅、驚きのピラミッド遺跡-スクー寺院」でお伝えしました。
(2015.08.02)
http://www.sunda-wind.net/report/1461
(2015.07.21)
http://www.sunda-wind.net/report/1392

スクー寺院は、遠く離れたアメリカ新大陸のマヤ遺跡との類似性などのミステリーを秘めています。

今回の発見は、当国名門の地元ガジャ・マダ大学考古学チームによれば、寺院内部の地中に別の建造物があり、その上部の遺物が発見されたもので、Journal Timesが報じています。

西ジャワの巨石遺跡グヌン・パダンも内部に時代を異にする構造層があることが確認されています。

万年の歴史を有するこの国では、他にもまだまだあるでしょう。

今後の遺跡調査の細部の結果を待ちたいと思います。 

Dhani Irwantoさんの写真

Dhani Irwantoさんの写真

More mysteries found in Sukuh Temple!

SUKUH TEMPLE: A TEMPLE INSIDE A TEMPLE, EXPERTS CONFUSED

jurnaltimes.com, 26 September 2015

The uniqueness of Sukuh temple on the slopes of Mount Lawu precisely in the Berjo Village, Ngargoyoso Subdistrict, Karanganyar Regency [Indonesia] is not only the type of stone, the shape of the temple and even the bas relief on the walls. The strangeness of the conditions inside the temple when the stones dismantled is shocking, evidently it is exceptionally different from the temples in general which contain soil. But in Sukuh temple there are two layers of stones. Under the outermost stones, the team found another layer of brownish stones.

Until recently, a team of researchers who conducted the restoration of the temple have not confirmed if the type of fill that resembles stones is a natural hill or a fill. Another uniqueness, it turns out that the stones inside the Sukuh temple do not have fastening or locking mechanism like the other temples which serves to fasten a stone to the others to strengthen the temple.

Niken Wirasanti, one of the archaeological team from the University of Gadjah Mada (UGM) was very surprised to get a lot of peculiarities in Sukuh, which is currently undergoing restoration. Many new findings should be studied further by the other teams.

“It is an interesting fact that we will discuss, in contrast to other temples I ever learned before,” said Niken recently while doing research in Sukuh. In addition to the fill inside the stone structure, according to Niken, inside the temple there are also found antefixes under the stairs of the temple which are buried under the soil. Whereas the antefix should be positioned outside the temple.

“Antefix is a triangular-shaped stone as a temple decoration. They are found buried in the soil under a stair leading to the top of the temple. Antefixes are usually placed outside the temple,” she explained.

The findings in the field, Niken explained, still need to be studied further. In order to find answers related to the mystery of Sukuh uniqueness, which also raises several allegations related to the temple.

Initial assumption raises a number of allegations that there was augment of the structure on Sukuh, with the discovery of another stone structure when the temple was dismantled. There are also findings of antefixes commonly found and mounted on the front of a temple. Antefixes are found in the inner layer of the Sukuh temple.

“It will be studied further with the team, whether Sukuh always been like this from the beginning or whether there was the possibility of the augment of the structure, also changes of the shape of the structure,” she concluded.

http://www.jurnaltimes.com/2015/09/anehada-candi-dalam-candi-sukuh-bikin.html

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