最新の無人ドローン対潜水艦船が、下図左下のように初お目見えしましたが、そのデザインの水すましアウトリガーは大昔からあり、今も南方で使用されているもので波を行く安定性抜群の機能です。

上図右上のように日本列島史は4万年前頃、九州に舟に乗って多くの家族が渡って来て、3万年前には北海道にまで拡がりました。

そして上図右下のように、その「日本祖代」に道具となる宝物石器の黒耀石を手に入れるため、伊豆半島から伊豆諸島南部の神津・恩馳島に黒潮分岐流を越えて37,000年前から行き来していたことが、黒耀石原産地の蛍光X線分析によって明らかとなり、世界の考古学会を驚かせています。

それが伊豆半島のみならず、交換によって関東、いや長野でも発見されているのです。

最短でも20kmは漕がねばなりませんので大変なことでした。恐らく距離はもっと長く、潮流と風を利用したでしょうが。

残念ながら、国内最古の物は千葉・市川市の7,500年前の丸木舟で、2代目の縄文人の物です。

全長約7.6メートル、幅約50センチ、厚みは船底部の端で約8センチで、長さは、今のプレジャ-ボート並です。櫂は、全長約2メートルでした。

低湿地にあり、住んでいた所でない、海の近くで作業を行う番屋のような所で見つかっています。

舟は木・皮・葦製にしろ、「日本祖人」がどういう舟で恩馳島まで行き来していたのかは朽ちて分かりません。

浜辺の海水面は、当時より数十mも上昇していますので痕跡はあっても海中という謎です。しかし正に海で活躍していた前述の縄文舟は、当時の技術が緩やかに進んでいたことを考えれば、大いに参考になるのではと思うのです。

アウトリガーは見つかっていませんが、舟が壊れてもアウトリガーは他で使われた、あるいは他の用途に転用されたことも有り得ることですので、何とも言えません。

九州に渡る際は、男成人だけで渡った訳ではなく、奥さんやノウハウを有し指図する爺さん、お産などに欠かせない婆さんや・子供も乗っていたことでしょう。

なお、津軽海峡はいまよりずっと距離が短かかったので、舟で渡るのが大変だったのではなく、降雪寒冷の地に適応するのが大変だったのです。

最新鋭のドローン対潜船同様に、当時、舟を造ること、天文・海象・気象の外洋を家族で渡ることが大変なノウハウを要し、高い知的レベルにあったことは容易に想像されます。

今、2代目の縄文人に多くの人たちが関心を示していますが、そもそも先代の「日本祖人」が、外洋を操舟し渡った第1級の知識人・技術者であったことにも思いを馳せましょう。

(了)

近年、世界の人類史では新たな発見が伝えられています。

アフリカ北西部で定説を10万年も遡る30万年前の人骨発見、あるいは東南アジアの人たちは定説より古く複雑な成り立ちであったことやアマゾンで全く近代文明と接触していない古部族が発見されたり、豪州の始まりもずっと古いようです。

万年を遥かに超える前の事に関しては、100mを越える海水面の上昇から特に沿岸の地形変化は大きく、消えてしまったモノもあり、また数字も当然にしてaboutな幅があります。

そういう中で、4万年前頃に九州に渡海して来て、「日本祖人」(縄文人の先代)が3万年前頃には北海道にまで拡がっていたことが、1万箇所以上の列島旧石器遺跡の分析から確認されていることは、世界人類史上で尺度と言える大変重要なことです。

また、九州に渡海しただけでなく、37,000年前頃、伊豆半島と伊豆諸島を、黒耀石を採るために黒潮分岐流を越えて舟で行き来していたことは、世界が驚く確定事象として有名です。

他方、最初のアメリカ人についても、かつての定説は見直されてベーリング海の北岸地域の「昆布ハイウェー」を舟で渡って来たと考えられるようになっています。

但し欧米の学者さんは依然として、シベリア種族が来たものと何となく考えているようですが、マンモスハンター狩猟族が、簡単に操舟の海民になったとはとても思えません。

大変なノウハウの継承が必要ですし、海藻を食べると腹を壊す欧米人もいますから。

従って、操舟力ある日本祖人による北海道・千島ルートが注目されてきています。

ところで何故、日本祖人が降雪寒冷の地に入って行ったのか、それは「北の漁場」があったからでした。

「襟裳岬」は、正にリッチな昆布ハイウェー傍(魚介・海獣・鳥など含む)にあるのです。

春夏秋冬、何もない襟裳岬だったら、誰も苦労して住み着きません。

被災の北海道が、今、世界人類史において注目されています。

(了)

南アの海岸の考古学的に有名なブロンボス洞窟で、下写真左のように、赤色“クレヨン”で石に線が描かれているのが発見(ノルウェー・南アの大学による)され、7.3万年前で世界最古のモノだと英BBCが報じました。

最近の発見(北西アフリカ)では、最古の現生人類が31.5万年前と大幅に古く記録を塗り替え(20万年前から)ました。

この線描発見の意義は、現生人類がはっきりと抽象的な認知力を有して意図的に描いた最古のモノと言う事です。芸術とまでは言えないのでしょうが。

更に、この人々が海岸で水産物を食していたことに私は注目します。サルともライオンともはっきり異なる暮らしです。

おそらく浅い海を越えてアラビア半島南端沿いに出アフリカを果たした種族の子孫が、数十kmの海を舟・筏で渡って6.5~5万年前には豪州に進出しています。

緯度が同様の暖かい(当時は氷河期)地域への展開は早いですが、北上して行くのは適応に期間を要します。

そして、4万年前頃に九州に舟・筏で渡って来て、「日本祖人」(注:縄文人の先代)は、3万年前頃には雪と寒さの北海道にまで拡がりました。

注目すべきは、この4~3万年前がおそらくまず動かない歴史的な意義なのです。

仮に万が一、アフリカのようにもっと古い痕跡が発見されたとしても、それは旧人であって直接の祖先ではないですし、新人の物だとしてもせいぜい当時の冒険者のギネス的な意味に留まるものでしょう。

これまで発見された列島の1万件を超える旧石器遺跡の状況からそう考えます。

問題は、上写真右のように世界でも極めて貴重な、異論のないこの4~3万年前という意義ある日本史始まりの内容を、子供たちに教えていない事です。

(了)

4万年前に海を越えて九州に渡り、3万年前頃には北海道にまで拡がった日本列島史始まりの日本祖代は、正に激動でした。

図1

当時の古環境の推定、見つかった旧石器遺跡(約1万箇所)の分布・位置(中小河川・湖沼の傍)・様子や遺跡数の急増減、遺物(石器)の石材や種別(叩く突く切る掻く)・型式・持ち物の組み合わせ、その変化などから大昔の暮らしが推定出来ます。

注目すべきは祖代の中期及び後期の共に初めであり、①鹿児島の姶良大噴火の影響、②北から西からの人と文化が流入という正に激動であって下写真の通りです。

図2

特に、列島に拡がった日本祖人の所に、北から西から、始まりと同様の南からも新しい人と文化が及びました。

残された石器を見ると、違う形式の石器群を使う北と西から入って来た部族には境界が出来ていたようです。(安蒜政雄 日本旧石器時代の起源と系譜 から文責筆者)

それでも宝物の黒耀石が列島中央部にあったためか、関東と甲信越が早くから連接していました。

東京湾が陸地だった広大な関東平野は、北側と西側からの行き着いた接点として混在し、人も多かったのです。

対馬暖流が未だ北上しないこの時代は、日本海側に大雪が降らなかった事が、まだストーブの無かったこの時代には大変ラッキーでした。

出雲と遠く離れた東北の言葉に共通性があったり、関東は混み合い、また、列島中央部を境に東と西で今もお雑煮の餅などや色々な物が違う原型が万年前からでは思わせる類似です。

そして他の点では、ゆっくり拡がった曙海の事です。

温暖化の海水面上昇で、対岸がどんどん遠くなって行きましたが、もとはと言えば畔の遠い親族ですので、その後の五島、対馬を通ずる関係は納得です。

先史必読の「魏」志倭人伝では変なヤツ扱いですが、曙海の畔の人々である呉・越、江南の海の民とは近いです。

広島の呉・呉服・越前カニ・越中褌・越後屋さん、江南市・(平塚)江南高校・・・半島含めてみんな曙海繋がりです。

そして内陸発の「蜀」はもとより、倭人伝の「魏」も日本では見当たりませんね、不思議ですが、内陸狩猟の民との違いなのです。

私たちのDNA分析では、江南と共に山東半島の名前も出ますが、曙海の意義をよく示しています。

遥かに時代を経たその後も遣隋・唐使などの関係が続きました。

行くのは大変だったですが、向こうからはそれほどでもなく、兎も角も対岸の人たちが戦乱を逃れるなどして幾度となく渡来しました。

かつて、縄文人のルーツが探されましたが、結局、何処にも見つかりませんでした。

そりゃそうです、南方Sundaland発の日本祖人にこのような激動の混じり方をした独特な「日本列島ブランド」ですから。

図1再掲

ところで上の図2のように、北の何も無いと言われた襟裳岬の前は豊かな昆布ハイウェイでしたが、これに関しては別の機会に。

(了)

縄文土器は、素晴らしい!これはもう世界に誇るべき芸術です。

しかし、下写真は縄文土器を紹介した最近のある資料ですが、旧石器時代欄は空白です。

それはいいとしても、縄文時代欄に土器が作られると書かれていて、それ以前には無かったかのようです。

無紋であったりして、「縄文」ではないからという事なのかもしれませんが、いずれにしろどんな会社の社史でも、先ず初代・創業を見つめます。

華々しい2代目の縄文土器も先代・創業の「日本祖人」による「祖代土器」の土台があってのことでしょう。

現に、世界最古級の青森の土器のみならず、北海道から種子島まで広く先行土器が作られていました。

問題は、旧石器時代という適切でない呼称にあります。

文化の上で重要な土器が、広く日本列島で作られているにも拘らずです。

それに世界では、旧石器時代・人と言えば、200万年前位から言いますので、我が国の4万年前から2万数千年の間を表現するには全く不適切なまま放置されているのです。

創業のご先祖様を見つめましょう。

外洋を越えて舟で離島を行き来し、鹿を陥とし穴で獲り、釣り針で魚を釣り、環状に家を作って暮らしたり、世界に注目されるような当時の高い文化を有していました。

吾輩は始まりの日本祖人、教科書に名前はまだない、はひど過ぎます!

縄文人をひがんでいる訳じゃないのです。

(了)

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