①今回、南方系を明らかにしたのは良いが、古墳時代強調のコメントは尚早で、南北に長い列島及び顔・体格で出自がある程度推測できる我が国の状況にあっては、サンプリングや地域差の扱い方次第で結果と解釈は異なる点に十分留意すべきで、この公正の説明が重要。

②日本史に関して始まりに「3万年」の語を使用するのは誤解の元で、「約4万年」の学界主流説の語とすべき。また、巷間には「大陸・半島からの到達」との誤解があるので、スンダランド地域からの北上、パンカル海・曙海の畔からの到達であることを説明すべき。北海道史も誤解が多く、樺太南部進出の白滝黒耀石の旧石器遺跡、青森・陸奥平野が北の基盤である地位、北千島の祖代・旧遺跡・遺物などが示す北上継続を付け加えるべきで、今人類史注目の北海道で留まる理由は無い。

③年表で59%の期間を占める祖代は、豊富な考古事象が認められ隣国文化の取捨選択や今や「縄文文明」とも言われる特色をもたらした重要要因であり、軽視するのは不適切。DNAの多様性を大量渡来に求めるのは探究不十分な現況では時期尚早で、多様なDNAを有する五月雨の(大量でない)難民的な渡来による島内における勢力の争いにおける優劣の消長要因は重要で付加説明すべき。

―日本祖代研究会(RGaPJ)

1.約4万年前の①北部九州への家族渡海から樺太まで祖人・次代の縄文文化の拡がり

教室は北からの南下事象を強調しがちですが誤解の元で、当時は広大な青森・陸奥平野に充実の列島中央部の人・文化が太平洋側と大雪の無かった日本海側から北上して東西合一し、石器と遺跡の分析から3.5万年前後には北海道に進出し環境に適応しています。

国境の無かった樺太、千島には北上継続の痕跡が亜残り、樺太には祖代の白滝黒耀石や縄文土器と次への移行、擦文土器の痕跡が残っています。流入とみられる北の樺太からの「細石刃文化」の強調は誤解の元で樺太コロボックルの存在を認識すべきであり、北部九州と樺太南南部で亜庭湾北側の「宗谷北」地域は、大陸を視野に歴史的に外来の接点で多様性を有する独特の類似性があることに注目すべきで、宗谷北での南北の犬の混交もその事を示しています。

2.問題は用語「オホーツク文化」で誤解の元、視野をオホーツクでなく大陸に拡げ「宗谷北文化の波及」に修正を

縄文土器が移行し擦文土器も派遣されている土器・文化の「オホーツク」名称は不適切で、肝心のオホーツク海の北・東・南からは採り挙げる影響もなく、注目すべきは宗谷北・窓口へのバイカル・満州系の西の文化の波及(アムール河口経由としても)です。東北から宗谷北への拡がりの深さもオホーツク土器とは比べものになりません。北方史の特徴的な事項を②宗谷北の人骨埋葬がよく示しています。大陸系の父と南方縄文系の母という「別の人種の組み合わせ」を露学者たちは人体形質の分析で明らかにしています。よく沖縄と北海道が縄文DNA比率が高いと言われますが、違う事情であることを子の墓は示しています。先生はオホーツク土器を強調しますが注目は刀で、古墳時代から平安時代へと長い時代に特に東北で改善された蕨手刀(わらびてとう)が北海道から樺太にまで渡っていました。その扱いの重要性と広域性は、注目です。「オホーツク文化」は、カタカナ・針小棒大であることが誤解を与え、本州初期の東海~千葉房総の沿岸文化をパシフィック文化と称するようなもので異様です。名寄のように茂寄(モヨロ)、飛似台(トビニタイ)と漢字にすれば正しい理解はなります。

3.北部九州と宗谷北の類似性は南・弥生文化と北・宗谷北文化と元寇の衝撃

時代や影響の大小は異にしますが、③外来文化を受け伝えて生活に影響を与えた点や元寇が及んだ影響も類似性が見られ、樺太では1284年から元に征討され一時はアムールに反攻したアイヌも敗北・屈服し、この間の南下避難が道史に影響します。

4.樺太アイヌの④北海道への南下で全道の擦文文化が急変へ

猿払町史が一端を記述している④アイヌの南下流入は、漸進的に道内に拡がっていた擦文土器の時代の文化を急変させます。にしていますが、蕨手刀も有って一時はアムールに攻め入った戦闘力を有する樺太アイヌの元寇敗北余波の南下は道内での勢力争い(実は様々な8以上の種族の存在を北海道「アイヌ」と総称する誤解の一括り)をもたらして道史を急変させ、種族の配置を変え消長させていきます。コロボックルの北への逃げ伝承も有名なシャクシャインの闘いもこの一環です。

最初のアメリカ新大陸人の問題で注目される北海道史は、不穏な発言をするプーチン、樺太の地名を中国名に替えていると言われる習政権などの状況を踏まえ、正しく見直されて行かねばなりません。―日本祖代研究会(RGaPJ)

列島中央部の①充実した祖代遺跡の発掘は、太平洋沿岸・広大な関東平野・中央高地・雪の日本海側と広域に及んでいます。

その古さと遺物の質・量は、世界最古の生業航海という活動や暮らしの賑わいと事象の時間的な繋がりを実証する内容の点で世界が驚くレベルのものです。これは考古学関係者の多大な努力と経済開発の故でも有りますが、実は氷河期当時の相対的に恵まれていた環境に理由があります。始まりにおいては相対的な気候の温和はもとより、曙海沿岸の複雑な海岸線と小島が多かった事は生物多様など種々の点で小部族の海民にとって恵まれていました。大河川の河口と単純な海岸線に比べれば自明です。列島では、同様な状況に加えて太平洋側では特に沿岸突端部の照葉樹林、関東平野の遊動キャパシティ、東京諸島・静岡・箱根の黒耀石原産地、陥し穴猟を可能にする地形などが、中央の千メートルを超える高地も賑わいの黒耀石原産地の存在があった事や当時は植生が少なく行動し易かった事が、日本海側は対馬暖流の流れ込みが当時は無く大雪が降らなかったことが、列島北部では北極の冷水がベリンジア大陸地で流れ込まなかったので親潮寒流が無く、弱い寒冷化したカリフォルニア暖流の穏やかなものだったと考えられます。3万年前の鹿児島・姶良大噴火の西日本大被害は有りましたが。つまり発掘されるべき質・量の充実があったのです。そして、曙海の畔から来て列島中に祖人Sojinが拡がったように、同じく稲rice plantが伝わって拡がった事は日本先史に大きな意味を持っていますが、朝鮮半島では見られない大陸の固有種が伝わっているのにB直接横断とし、A海民による拡大曙海の畔ルートを認識していないのは驚きで、曙海沿岸勢力はその後も長く歴史に重要な影響を及ぼしています。

この始まりの曙海と温和に「平和」も含まれる好環境、2.3万年前の北米足跡で定説が揺らぐ人類のアメリカ新大陸進出問題における列島中央部の充実の意義を教室はしっかり教え世界に発信すべきです。

世界人類史で、図左北米ニューメキシコの足跡(2.3万年前)発見が、アメリカ新大陸の移住祖史を数千年遡らせて「誰が、いつ、どのように」は白紙化です。

そもそも東部シベリアとアラスカには、ず~と南下した移住に長期間を要する南米南部の痕跡(モンテ・ヴェルデ14,500年前)程度より古い遺跡は発見されていないブラックボックスなのです。それなのに長い間、「シベリアのマンモスハンターがベリンジア(陸峡)からマンモスを追って入って来た」説を実証第1とする学界が言い巷間に広まり、近年やっと「内陸の無氷回廊は開いておらず、沿岸からフネで来た」説が登場し有力化してきています。

さて、そのブラックボックスに至る以前の状況をみると、図右北海道はもとより列島中央部の充実の痕跡は地域でダントツなのです。最古賑わいの東京・鈴木遺跡や静岡・愛鷹、黒耀石採取の神津島への世界最古の生業航海などに加え、静岡浜松と愛知・三河の実証人骨が祖代と縄文への繋がりを示し、長野の高地での活動や栃木・佐野、千葉・佐倉のキャンプなど暮らしぶり、神子柴の至宝も明らかにしているのです。

問題は、この始まりを論ずる適切な用語がないために、内外共に歴史的に未登場の「Jomon」「Ainu(13世紀)」を述べる誤解が始まり祖代の議論に飛び交っており、祖代・祖人(Sojin, Proto-Japanese)の語で日本祖代研究会(RGaPJ)が発信しているところです。図左、米国学者には北米遺跡(アイダホ州)の石器が北海道(遠軽・奥白滝)物に似ていると学術分析している説も出ていますが、日本ではこの日本史に係る重要な人類史課題を積極的に論じておらず、教室は紹介すらしていない周回遅れの状況なのです。

近現代の先住民NativesのDNAは、新しい時代のシベリア・ハンターの影響を受けていますが、重要なのは逐次入って行った人々の積み重ねた伝統・信仰・言語などの暮らしぶりです。北海道、列島中央部の痕跡を教室に、世界に発信を。祖代研は、歴史文化行政の抜本改善を強く求めます。

世界最古 3.8万年前の伊豆の生業航海、当時の”新宿”賑わいの東京鈴木・静岡愛鷹、長野・香坂山高地の多様石器群、三島・陥し穴猟、浜松・三河の祖・縄文の繋がりの南方系人骨、ナウマン象・野尻湖遺跡などの祖代の有名遺跡や糸魚川の宝石翡翠など、日本が世界に誇る考古史に囲まれた日本始まり祖代の至宝が一般公開(縄文でなくその前の始まり時代です)。 正に列島中央部に咲いた精華。これ等の事を教室に紹介、世界に発信を。-日本祖代研究会(RGaPJ)

日本の始まり探究は、世界祖史の視点からも考察すべきです。①当時は広大なベリンジア(大陸地・地峡)によってアジア(東部シベリア)がアメリカ新大陸と繋がっていました。

巷間では東部シベリアから狩猟族がベリンジアを通って新大陸に入って行ったと教えられ、実証を強調する学界すら当たり前に書いていますが、実は図右、南米南部のモンテ・ヴェルデ遺跡より古い石器はベリンジア地域では発見されていない不思議なのです。無論、北米ニューメキシコで発見されアメリカ史を数千年遡らせて議論されている足跡(子供達や哺乳動物等)の23,000年前にはお手上げです。

それで当時より海水面が数十m上昇して痕跡が海面下の沿岸ルートが注目されますが、北極海の冷水がSTOPされて「米臨海」に流れ込まないと海流が今と違って親潮寒流は無く、赤道から北上したアラスカ暖海流(冬季は南よりの風が卓越するので比較的温暖で,海水温は5℃以上と高い。流速1ノット以上)が周回していたであろう事は重要です。

当時は氷河期でしたので今とは違うでしょうが、厳しかった極寒のシベリアより沿岸の寒さが緩和され濃霧の環境が違っていれば、相対的に沿岸ルート(カムチャッカ、加・米西岸、千島も?)の移住を納得させます。そして、②間宮・宗谷海峡が閉鎖、津軽・対馬東海峡が狭小化し対馬暖流の北上は無く、日本海は言わば穏やかな日本湖(的)になり、家族が約4万年前に大筏(いかだ)で「曙海」沿岸から湖面のような状況で対馬・北部九州に移住となります。

というのは③当時は、朝鮮半島も台湾も山地であった「北東亜平野」の時代であり、未だ全くモンゴロイド化(寒冷・寒風・降雪で身体へ変化)していない南方「インマレイド」が北上(DNA分析)した沿岸海民が、北部九州に渡海して沖縄へ南下し北海道へ北上したことは、➃愛知・伊川津縄文人のDNA、近傍の浜北祖人・縄文人骨、小柄な蜆塚縄文人骨で窺われます。

筏を造り海を越えた認知・言語力から瀬戸内・近畿祖人のサヌカイトを使用する難しい石器加工や伊豆の生業航海、社会性ある陥し穴猟、長野高地への適応と多種の石器群などを納得させます。東西合流の陸奥平野の賑わいを基盤に⑤3.5万年前後から北海道に適応し、国宝の石器群を遠軽白滝に残して千島、樺太へ北上を継続し、千島と樺太・オホーツク変わりの2ルート合流説のKポイントである北千島には小柄で南方系の「留頓(ルートン)」種族祖先の6千年前の痕跡があります。

関連して興味深いのは、⑥アメリカの研究者(Dr. Loren Davis) が、アイダホ州Cooper’s Ferry遺跡の石器が北海道・白滝物に類似していると発表しています。また、コロラド川畔のケネウィックマンは海産物が主食で、無氷回廊出口の1,3万年前の子供人骨で知られるアンジック民はDNAこそシベリア系ですが淡水食が主である暮らしぶりであることなどです。巷間、石器が強調され、マンモス・ハンターが、狩猟族の暮らしぶりが祖史として一般的に描かれますが問題です。既に米国の実験考古学では、マンモスの毛と肉厚で北米石器では難しいと結果が出ています。

そして、日米の始まり史に関する記述の量が、図のように大きく違っている事にも注目です。DNA偏重のきらいがありますが、日本史期間の60%の祖代の基層は、後の現代にまで至る暮らしぶり・信仰・言語などに影響するするのに教室はよく分かっていないからと教えていませんが、周回遅れなのです。日本祖代研究会(RGaPJ)は、これらの日米関わり始まり史を将来ある子供たちに、日本史の時間に紹介すべきだと強く要求します。

図右、世界・日本の考古学及びDNA分析等に基づく世界人類拡散史の定説等により、約4万年前、現生人類・南方系海民の「祖人」(初代、縄文前)が、多少伸縮していた「曙海」の沿岸から、(当時)対馬暖流が無かった弱い北海流の海峡を越えた可能性の高い対馬から、家族渡海し北部九州に至って日本史が始まり、沖縄へ北海道へ拡散したと実証性をもって言える「1方向到達拡散」(巷間の3方向渡来図は誤り)でしょう。

3.6万年以降の祖人骨、縄文人骨への繋がり(沖縄、静岡浜松人)は発見されていますが、家族渡海のフネの実証が無いため教室で教えていませんが、実は十分推定しうる状況にあります。大きな要因は、①筏フネは、人類最初の豪への移住(5万年以前)で推定され南方で今も使用されている、②寒氷期で丸木舟用の大木が得られず、③行く手の対馬はよく見え、当時は対馬暖流(元々流速弱い)が無く弱い北海流の流れ込む海峡は穏やかで日和に筏の航海が可能、➃重要な知恵者・産婆として爺・婆が同行(家財携行)したと考えられ(スペース必要)、渡海は筏の可能性が高かったでしょう。
既に偵察したでしょう、奥に広大な緑の北部九州の存在情報があり、家族渡海は学問的に十分推定できます。問題は、ア.各家族・親族で筏造り航海か、イ.大井川の渡し的な専門集団による輸送が考えられ、いずれにしても認知力は優れ、イ.の場合、おそらく世界最古の職業(売春婦はまだいなかったでしょうから)として社会性が注目されます。
そして、筏などの木工・縛りの技術進化は入れ物袋などと共に縄の次代縄文文明に繋がることが理解できます。このように謎でなく4万年の古さに比べ十分な推定ができますから、日本祖代研究会(RGaPJ)は、教室で教え世界に発信することを強く求めます。

図左東大博物館の人骨展は、縄文から江戸時代の多様な生・死のテーマを見つめたこじんまり(スペース限定)の山椒小粒の佳展示との会員報告。

他方、祖史の本格展示が求められており、始まり初代の沖縄や静岡の「祖人骨」及び愛知・伊川津縄文人骨(南方系)など史的に意義深いモノを含め、図右約4万年前の始まり対馬から拡散した鈴木遺跡や北海道・白滝の国宝石器等の遺物も加え、「最初のアメリカ人First Americans」問題で今注目の日本ルート祖史が明らかになるように文化国家の予算を投じ大規模・一挙公開(国際展示場)して生徒・学生教育はもとより、理解少なく誤解も多い世界に発信(腹黒い国際場裡では、歴史認識は主権・政治に直結)するよう、日本祖代研究会(RGaPJ)は強く求めます。

図中、最終氷期の海水面が数十m低かった当時、よく見えた対馬、そして七里ケ曽根から沖縄に南下し、北上して青森・陸奥平野から北海道の暮らしに適応しました。

発見最古の遺跡は何と列島中央部の東京・鈴木、静岡・愛鷹、伊豆の海を宝物の黒耀石を求めて神津島に行き来した生業航海の3.8万年前から逆算して約4万年前が日本史の始まりと考えられ、3.7万年前には長野の高地に至っています。

始まりの対馬渡海は、人類が豪州への古く長距離の渡海を既に果たしていますので問題にはなりません。舟(筏)を造り、海で1日行程の長距離を上手に操作して知恵者の老人、子供を乗せて越えるのは言語力なしにはムリでしょう。

実は伊豆の航海は屈強な男たちの25kmですから謎ではアリマセンし、沖縄から北海道までの大変な拡がりからも認知力は既に原始人を脱していたと言えるでしょう。

では始まりの祖人Sojinはどんな人たちだったかといえば、人類史の拡散の状況から①巷間言われている大陸・半島(当時は無かった)から来たというのは誤解で、曙海のほとりの沿岸で暮らしていた南方系の海民であり、まだ寒地変化のモンゴロイ化の影響が無い「北インマレイド」種族の人々と考えられ、沖縄・石垣島で発見された人骨(2.7万年前)の顔復元でも納得です。

これらの事が何故、内外によく知られていないのかといえば、②実証最古で“当時の新宿”の賑わいの鈴木遺跡等に対する教室での扱いが全く適切でないことと、重要な始まり祖代Sodaiを後期旧石器時代と外来語で呼んで放置(英語にすれば、約4万~縄文始まりの期間なのに世界で誤解される)していることにあります。

大進入の無かった島国の我々、沖縄や浜松の人骨から繋がりが示されている島内変化なのに始まりの祖人が異人であったかのような印象を与え、また、今や最初のアメリカ人との関わりの可能性で注目されているのに、祖代の多くの世界考古学史上の特筆すべき事項が認識されていない問題にもあります。

日本祖代研究会(RGaPJ)は、重要な遺跡や年表の内外への周知と共に、祖代・祖人、曙海・北東亜平野・陸奥平野、インマレイド種族など始まり時代を適切に理解し、研究議論を的確容易かつ活発にし得る用語の採用を提言します。「後期旧石器時代」では長過ぎて、生徒が議論で舌を噛みます。

人の脳はリセットがない古い記憶を深部に留めており、図左目立つ花だけが日本史でない事は、AI時代に重要です。

①石垣島や愛知・伊川津の古人骨は未だモンゴロイド化前の南方系の痕跡をとどめており、浜松地域の古人骨は列島中央部で祖代と縄文の繋がりを示しています。

②日本史は約60%期間の祖代Sodaiの基層と縄文Jomonを併せた92.6%が根幹の基盤です。花々に目が向きあまり知られていない地面の下の根ですが、1万件超えの遺跡発掘で世界が注目すべき豊かな文化のあったことが知られ、始まりの対馬海峡(40-30km)の家族渡海と遺した痕跡から祖人Sojinは原始人ではありませんでした。

日本列島史上、マンモス・ハンター、騎馬民族の進入やゲルマン民族大移動のような痕跡は見られません。五月雨渡来であり、出戻り説も出ています。弥生から戦国時代、明治維新期の戦い、近畿政権の有力者の他地域赴任に伴うDNA影響は有りますが、南北に長い日本の地域性ある「列島内の育まれ変化」です。

このような南方基盤の時間的な連続性と先生は違いを強調しがちですが沖縄から北海道までの地域性・時間差ある同様なことが、時間・空間史の「断続の無い」島国日本史の特徴であり祖代断絶視は誤解です。容易でない離島生活の継続も世界が注目なのです。

図右③今、北米大氷床時代の2.3万年前の子供たちの足跡発見で、シベリアからマンモスを追って入って来た定説が揺らぎ、祖人が道東ゲートウェイから昆布ハイウェイを北上して行った日本列島ルート説は注目です。

関わり可能性のある祖人の東京小平・鈴木遺跡や伊豆の海地域の遺跡など〔北海道遠軽・白滝遺跡の石器群が国宝に指定(6月27日))が生徒・学生によく教育されておらず、世界に発信されていない現状の抜本改善を日本祖代研究会(RGaPJ)は強く行政に要求します。

Hot discussion on Footprints in White Sands and Japanese crowded Suzuki site, Izu sailors in 38,000 BP.

世界祖史の謎、図右「最初のアメリカ新大陸人」問題で、北米の無氷回廊(IFC)の開通以前(!?)とされる2.3万年前のニューメキシコWhite Sandsの子供達の足跡やチリのモンテ・ベルデ遺跡の発見により、学界の定説であった「シベリアのマンモスハンターがマンモスを追ってベーリング地峡に至り滞留し、氷河期が終わって温暖化で融けた回廊を通ってカナダ・米国から南米にまで拡がった」という定説は揺らぎ、今、白紙化の争鳴状況にあります。

内陸の通路が閉まっていたなら太平洋沿岸からではとなり、100mを越える海水面の上昇で痕跡の発見は極めて困難ですが、太平洋沿岸ルートは出発の北海道「道東ゲートウェイ」から昆布ハイウェイの生活好条件とも相まって注目されています。そうなれば当然に、約4万年前から北部九州に家族渡海して3.5万年前後には北海道に拡がって祖人が暮らした日本列島に目が向き、沖縄の3.6万年前の山下町の洞窟祖人骨や2.7万年前の石垣島祖人骨が実証遺物として世界に知られてきています(図左下も)。しかし更に古い日本いや東部シベリア・太平洋地域における重要な3.8万年前の実証最古の遺跡・活動である、①当時の新宿ともいうべき賑わいの東京鈴木、静岡愛鷹(あしたか)遺跡、②伊豆祖人が黒耀石を求めて神津・恩馳島を行き来した生業航海などが未だよく内外に知られていないのは、図左上学術・文化教育行政の問題で、 北海道・白老のウポポイ共生館に比し国宝級の重要遺産の扱いがあまりに酷いです。日本祖代研究会(RGaPJ)は、次代の子供たちの為にも抜本的な改善を強く求めます。

現生人類は、何の得もなく、疲れ、腹減り、喉渇き、塩と汚れの付くだけのサルとAIはしない事をした者です。

但し、それが人類の渡海という偉業に道を開いたものと思いますが、案外子供の遊びが重要だったのでは? 当時の暮らしは、沿岸部は100m級の海面上昇で発見困難なため証拠がなく、現代の学校教育では 毛皮パンツの槍持ちばかりで 教えてくれません。約4万年前の祖代から日本列島の海辺から高地まで、確かな暮らしがありました。DNAが万能なように語る学者がいますが、軽視される祖代・縄文で日本史期間の92.6%の基盤を成しており、文化・習俗・信仰・言語・・・影響は大きく、近隣諸国との違いの理由の基本的な要因でしょう。原点を見つめることが保守の基本です。

日本史の始まりは、図左3.8万年前の鈴木・愛鷹・神津島等の実証遺跡から逆算して約4万年前とされ(学界主流説)、曙海沿岸からフネ(筏)で40-30kmの対馬海峡を家族渡海して北部九州に至り、沖縄へ南下、本州を東進移住して行きました。

近年の研究で、沖縄はもとより本州における実証人骨の解明によっても裏付けられてきています。図中東京小平・鈴木遺跡は、発見日本最古の3.8万年前の当時にあって正に現在の新宿を思わせる賑わいの地であり、周辺遠隔の地の多様な遺物が豊富に発見され、知的レベルと社会性を示す陥し穴猟も行われていました。祖人は長野の高地でも活動し、関東・甲信越の繋がりを果たし、青森・大陸奥平野へ太平洋・日本海両側から北上して狭かった津軽海峡を越え、3.5万年前後に北海道の暮らしに適応しました。そして今、最初のアメリカ新大陸人関りの可能性が挙げられる状況なのです。問題は、図右当時の状況をよく示す国宝級鈴木遺跡が世に知られず、地元の学生・生徒ですらその意義と実態をよく教えられていないことです。文化・教育行政の貧困の改善を、日本祖代研究会(RGaPJ)は政治に強く訴えます。なお、観光開発というならば、群馬・岩宿遺跡や神津島をはじめこれらの世界的に重要な祖代遺跡を祖人の活躍の状況を連携してPRすべきです。

北海道の小人コロボックルは、ジョン・セーリスの「日本渡航記」(1613年)が初出でその後も種々記述され、①北海道調査の松浦武四郎も注目して絵にしており、伝承はアイヌが入れ墨を真似た、背丈低く漁に巧みで、アイヌとのトラブル被害で道東から北に(千島)去ったとされ、樺太、北海道、南千島で広く伝承(北千島では無し)されています。

②文明開化期の明治時代に、日本人類学の祖とされる東京帝大の坪井教授は、北海道における竪穴遺跡と石器・土器やアイヌからの聴き取りなどの現地調査を行いました。そこからアイヌの伝承は信頼できるとしてそれを踏まえ、学術用語コロボックルという仮り名を定めて列島史始まりの石器人問題を学界として活発に論じ合いました。結論的に、弟子のフィールドワーカー鳥居龍蔵は大正6年に学会講演で、明治32年の調査から広まったそれまでの巷間の誤解を改める「北千島民(仮称:留頓ルートン)は相当古い第1渡道のコロボックルである」と明言しました。札幌大の瀬川教授も現代の学界人として本件を扱い、坪井説と同じく現地調査を重ねたジョン・ミルンの研究に仮託しつつ事実であるとの認識を示しています。注目は③この小人コロボックル伝承は、(独)ベルクマンが唱えた寒冷地の動物は同種他地域のものに比し大型化するという説に反している事ですが、逆に言えば南方から北上した古い「北インマレイド系」(仮称、東南アジアの古種族インマレイドを、古モンゴロイドとした呼称は欧米学者の偏見用語で、モンゴロイドとは寒冷・降雪・寒風環境で身体変化した新種族)で、青森から北上したとされる遺跡・遺物の考古学分析 (全国1万件超え祖代遺跡) と符合します。➃鳥居調査で、あの竪穴は父が、祖父が、・・・ずっと昔の祖先がと北千島民は答えており、近年の北千島の研究で6千年前の縄文遺跡が確認され(ワシントン大 Dr. Ben Fitzhugh)、また、北千島民はカムチャッカ南南部がむしろ主体だった(北大 高瀬克範)事が明らかになっていますが、気候条件がより厳しい地域に遥かな昔に「道東ゲートウェイ」から北上して行っていたというこれらの事は重要です(食豊かな処女地の魅力だったか)。

今、人類史の「最初のアメリカ新大陸移住First Americans」問題で、北米が大氷床で覆われていた時代に南のニューメキシコWhite・Sandsで2.3万年前の子供達の足跡が発見され、カナダ西海岸では1.4万年前のここは氷床に覆われていなかったTriquet島で海獣食の村人の木槍・銛などの暮らしの痕跡が発見されて沿岸ルートが注目される重要な内容をテレビが報じているのです。「誰が」の候補は、日本列島・千島樺太ルートでは縄文人ではなくその前・先代の祖人コロボックルということになるのですから、学説史としてのコロボックルとともに現代の課題に関わるこれらの事を教室で教え、世界に発信すべきであると日本祖代研究会(RGaPJ)は政府に対し、声を大にし強く要求します。

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