現生人類が20万年前頃アフリカで誕生し、出北東アフリカにより紅海~アラビア半島南端~ホルムズ地域からユーラシアに達しました(10万年前頃?)。

その後、下図のように寒冷乾燥化の氷河期であったため海水面が数十m低下して陸地が拡がった沿岸地域をゆっくり(7.4万年前頃のスマトラ島トバの大噴火で人口激減、回復しつつ)生活の場と人口を拡大しながら進み、4万年前頃、日本の九州に達したとみられています。

当時拡がっていた東アジア平野までは沿岸ルートと内陸ルートがあります。アフリカ出身の人たちの気候への適応、移動及び食料安定獲得の容易性、安全性などから沿岸ルートの可能性が高いとみられています。

東アジア平野から日本へは、海浜地域での生活に慣れ操舟力と海に関する知見に優れた部族が舟で海を渡って来ました。平野北部から北部九州への渡海ルートと平野南部から南西諸島を北上して南九州に達したルートが考えられます。

当時の東アジア平野沿岸部の暮らしを考えますと、北部と南部で暮らしぶりに大きな差があったとは考えられませんので、九州のいずれの地域であっても渡来してその後北上して行った始まりの人々(日本祖人)は一様性あるものでしたでしょう。

沿岸ルートでは、パンカル半島Sundalandが、その広さ、長い海岸線と多い河川、今より気温が3-5℃くらい低い過ごし易さと豊かな動植物食料などから多くの人々の文化が育まれたでしょうし、更に豪にまで進出していったことからも注目されます。

そこの遺跡・遺物については、前回お伝えしたとおりです。

広大な地域を生活の場としており、いわゆる石器人の狩猟採集の暮らしというよりは水産物の比重が高く、外洋魚も含まれてますので操舟力はもとより網・釣り針を使うに至っていたとも考えられ、また、洞窟絵や素朴な土偶作りなどから精神的な成熟も見られます。

人類は既に言語によるコミュニケーション力が高まっていましたし、竹・木及び石器等による道具の製作などが行われ、Sundalandから豪Sahur Landにまで渡っていますが、下図の点線のように動植物様相を異にする地域に適応しつつ、時に数十kmを舟で渡っています。

これらの状況を見ますと、かなり進んだ海の民が海浜地域を北上して東アジア平野に達していたことが窺がわれます。

なお、その後、3万数千年を経た三国志・日巫子の時代にあっても当時やって来た海の民の子孫が、内陸系の魏呉蜀の激しい争いの外側で、狭められた半島や沿岸地域、島々で暮らしを続けていた様子が窺がえます。

他方、4万年前頃に九州に渡来した日本祖人が、下図のとおり伊豆の南海上の神津島に黒曜石を取りに舟で渡っていて研究者を驚かせていますが、パンカル地域の遺跡や豪への進出などを考えますと無理なく理解できます。

(神津島への渡海)

そしてこの黒曜石が、関東及び伊豆地方など広域で交易されていたことから、日本祖人の進んだ社会性も窺がえるものとなっています。

それでは、九州に渡来してからはどうかと見ますと、太平洋岸地域と日本海側に残った旧石器時代の当該時期の遺跡の状況は下図のとおりです。

誠に残念ながら、姶良大噴火の影響から見え難いところがありますが、両正面とも同じような速度で沿岸を北に進出して行っている状況が分かります。

そして、太平洋岸沿いは北海道にまで達し、また、関東から日本海側などや中国山地など、沿岸のみならず高地川傍にまで広域に進出している適応・活動力が窺がえます。

このように、東南アジアのパンカル地域から日本列島の北海道にまで沿岸地域を、また、川傍の内陸高地にまで着実に現生人類が進出している状況が分かります。

そして、この長い進出展開に特に黒潮が大きな影響を及ぼしていることと思われます。無ければあるいは逆流であれば歩みの速度が変わり、内陸の人々の流入による混合なども違ったものとなったでしょうし、その後の国柄にも影響したかもしれません。

そして、この後にいろいろな人たちが西、南、北から入ってきて中で混じり合い日本人が形成されますが、ある時期に大量の人たちが短期に入って来て日本人の組成に大影響を与えたという部族の痕跡はないそうで、長い間の部族ごとの違いがあるサラダボールのやがて坩堝ということでしょう。

さて、こういう状況から我が国に先住民族と言える人びとはいたでしょうか? 後に樺太の方から南下してきた人たちの子孫であれば先住ではないですし、北上していった人たちの中のグループの一つであれば、そういう中の争いであって先住民族問題ではないでしょう。

長~い歴史ある島国とはそういう性格のものでしょう。

ところで、

当時からは海水面が数十m上昇しているため、海浜の遺跡・遺物は海中ですし、万年の時は鉄をも融かすと言われていますので生活痕跡を知り得る多くの物の発見は困難です。

しかし、見つかっている遺物などから、旧石器人に分類される日本祖人は、これまで考えられていたよりも進んでいたであろうことが窺がわれ、特に、東南アジアのパンカル地域、北上途上の他の地域と関連付け乍ら研究する重要性に思い至ります。

更に、東南アジアのパンカル地域が日本祖人の、いや、我々の遠~い父祖の地であることを感じます。

(了)

 

 

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日本史の授業は具体的には縄文時代(1.6万年前~)からであり、日本の始まりの4万年前頃は、学校で教わった記憶はなくどうも教科書に様子が書かれることもないようですが、とても重要なことと考えています。

科学信仰のある種の誤解から、神話や国の開闢の様相は歴史・考古学的な裏付けがないとして扱われませんが、民族の記憶としてあるいは始まりの原点として見つめる努力は必要です。例えばギリシャ神話は、荒唐無稽な事であっても教えられており今の人にも大きな影響を与えていますね。

さて、日本の始まり頃の様子ですが、当時は氷河期であり最も寒かった最終氷期最寒冷LGM期(2万年前頃)よりは少し暖かかったですが、今より2-4度C寒かったでしょう。

寒暖が不安定で、気温もさることながら海水面が数十m今より低下し上下していましたので、列島の地形も様相が大分違っていましたし、針葉樹と草原がかなり拡がっていたことでしょう。

そして、東南アジアから北上した黒潮が列島を挟むように流れていたのが大きな特徴です。海や川は今の乱獲もなく極めて豊富な魚介類がいたことでしょう。例えば北海道ではかなり前になりますが、にしん御殿と呼ばれる家屋敷が沢山建つほどニシンが獲れていました。

当時は、朝鮮半島も台湾もなく広大な東アジア平野と緑豊かな朝鮮山地、台湾高地でした。いずれにしても日本の始まりは、西の東アジア平野から一家が、一族が舟で九州に渡来しました。

黒潮の太平洋沿岸はもとより、近代に至っても北前船が活躍していますことから、まずは列島沿岸沿いを北上して拡がって行ったとみられます。

南西諸島方向からも舟で渡り九州にまで来たのかは関心のあるところです。

当時の東アジア平野は、北と南で人びとの暮らしぶりががそれほど違っていたとも思われず、また、海に馴染み海を越えて舟で家族として九州にやって来た人たちですので、渡海の時期が同じ頃であれば日本祖人としてのその特徴に差はあまりなかったことでしょう。

問題は、渡って来る前の東アジア平野沿岸にどういう人たちが居たかです。

東南アジア沿岸から北上したか、中国内陸から東進して来たかですが、出アフリカ後の移動の容易、食料の獲得、猛獣・毒蛇などに対する生活の安全、アフリカに近い気候などから、南方からの海岸の北上沿いルートと思われています。

出アフリカで紅海を越えた人類の豪にまで至る進出の早さ、舟・筏で数十kmを渡っていることなどからもそう考えられます。大きな海面上昇で遺物などは今や水中ですが。

板子1枚下は地獄と言われる渡海は、長い間積み重ねられた豊富な経験と知見knowhowがものをいう世界ですので、寒い内陸での狩猟生活を続けてきた人が海辺に来て渡海できるというものでは有りません。(蒙古来襲の失敗、難しい遣唐使船の渡海成功)

現代の軍においても海・海浜で移動・活動するとなればやはり海軍・海兵隊であり、”塩っ気”のない陸軍兵には厳しいことです。海を越えて陸に上がってもかなりの間は地面が揺れていますので。

さてそうなりますと、出発の東南アジア沿岸での現生人類の状況はどうであったかですが、暑さで人骨が残らず万年の時は鉄をも融かす難しさと言われる地での遺跡・遺物を発見する訳ですが、その後人々があまり使わなかった洞窟などに結構残っています。

下図の通り、広範囲で多くの人たちが海の民を感じさせる暮らしていたことが分かります。

舟で外洋に出て漁をしていて海産物をよく食し、磨かれた石器を使用し、埋葬はもとより既に洞窟絵や素朴な作りですが土製の飾りなどの精神性も見られます。彼らと子孫が北上して日本に着く頃は更にいろいろなことを身に付けていたことでしょう。

因みにオーストラリアへの旧石器時代の現生人類の進出は、数十kmの海を越えて4万年前頃から5万年前と言われています。上図のフィリピン南部タボン遺跡群で4.7万年前頃の人骨が発見されていますので、それらの事から北上して日本列島へは、4-3.8万年前頃に初めて渡来したものと考えられています。

さて、やって来た日本祖人はどんな様子でしょう? おそらく肌の色はまだ黒褐色、貝などの飾りも付けかなり入れ墨をした目のくりっとした小柄な人たちで、会話コミュニケーション、基本脳力はかなり現代に近く、動植物・自然に対する理解と対応力は優れていたでしょう。

上図で紹介した人たちの子孫である彼らは、舟を操り木竹道具と石器を上手に操り、海浜・河口・川の魚介類・小動物・植物を主に食し、女性・老人・子供たちは既に浜辺や川傍の素朴な苫屋での定住的な暮らしぶりであり、今で言う自然共生の生活であっただろうと私は考えています。

勇を鼓して渡海した日本列島は、緑豊かで手つかずの動植物食物がある良い所でしたので、家族が増え更に渡来してくる人もおり北へと拡がって行ったことでしょう。

火山噴火、地震、津波、そして台風が難点でしたが。

あるべき遺跡・遺物の多くは水中ですが、この程度のことは学校で子供たちに教えて良いと思います。更なる暮らしぶりについては、今も世界に残る中から子供たちが適当と思うものを選んでイメージを膨らませたら良いでしょう。

結論は、自然を大切に共生適応することの意義の見直しであり、災害対応を忘れず、そしてポケモン遊びはそこそこに野外に親しむことの重要さでしょう。

(了)

 

 

 

 

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パンカル地域と日本の関わりにつきまして、巡り来る暑い夏ですので現代史に飛びましてスカルノ碑を紹介します。

今回、インドネシアの若いジャーナリストWenri Wanhar(ジャカルタのスカルノ大卒、雑誌「歴史」記者)が、碑に光を当てインドネシアの独立における日本人の活躍と寄与を掘り起こし出版しました。標題は、日本の情報活動の軌跡というものです。

本の話の中心は、大東亜戦争でインドネシアに進駐した日本軍の海軍武官府の活動であり、インドネシア独立宣言に至る関連と独立闘争の物心両面の支援です。

彼は、スカルノ碑から話をはじめていますが、それは東京の真ん中、江戸市中を見下ろせる、曲垣平九郎が見事馬で石段を駆け上がって全国にその名を轟かせたという逸話があり、愛宕神社、NHK記念館のある愛宕山の上り口で青松寺に接する植垣の中にひっそりとあります。

(以下、写真はJejak Intel Jepang、wikipediaから)

 

碑は、諸般の事情からスカルノ(これで姓名)とだけ書かれ肩書がありません。碑文の拙訳は、市来龍夫君と吉住留五郎君へ(あなた方が寄与したインドネシアの)独立は一(インドネシア)民族の(ための)ものならず、全人類のものなり(なんですよ!)1958年2月15日東京にてスカルノ というものです。

肩書の無いことが、かえって人間から人間に贈られた心の碑文と感じます。人類20万年史の十大ニュースに入る戦後のアジア・アフリカの植民地解放・独立。長く困難な独立達成における日本人・軍の物心両面の寄与を身に染みて知り、バンドンでのAA会議を主導したスカルノ大統領ならではの表白碑文です。

スカルノ大統領によって手書きされた碑文は、国章の入ったインドネシア大統領の用箋に書かれ、碑の樹立に奔走した西嶋重忠氏に渡されたもので、同じく手書きの独立宣言と違って全く修正のないものです。

なお、碑文の裏面には、インドネシア勤務歴ある作家の富沢有為男氏(冨澤元陸幕長の父)が両名の在イ歴等について記しています。

市来、吉住両名とも海外雄飛で戦前にインドネシアに渡航して職に就き言葉を身に付け、共に商業新聞で勤務して日本の国策、現地の民族主義運動等を理解し、嘱託として日本軍に関わっていきました。

市来龍夫は、熊本人吉出身、日本進駐後に創設された郷土防衛軍PETAで歩兵操典を翻訳しつつ訓練生を指導し、戦後はアブドゥル・ラフマン名で闘争の現場に身を投じて敵の銃弾により戦死した英雄戦士です。

他方、吉住留五郎は、山形鶴岡出身、海軍武官府嘱託でジャカルタ本部員として活躍したことから本でかなりの頁が割かれています。

渡航間にスパイ容疑で蘭軍に逮捕され拷問を受けた豪刑務所での収監病歴、闘争闘士への車両通信機等の物的な支援、憲兵隊に目を付けられているスカルノ等の闘士たちを守りながら草案の起草及び宣言の実施へと進めた支援、進駐する連合軍に渡すべき日本軍の武器等を基地隊長と闘争勢力の間に立って引き渡しのお膳立ての交渉に尽力するなど裏面史での活躍がよく描かれています。

その後、アリフ名でインドネシア独立軍に参加、東部ジャワの山中で病死しました。

 

吉住留五郎                     市来龍夫

戦後のインドネシアの独立闘争には、約千名にのぼる日本軍人等が身を賭して関わったと言われていますので、碑に記された両名はその代表と言ってよいでしょう。

戦後のアジア・アフリカの植民地からの解放と独立は、人類史に特筆される出来事ですが、中でもアジア・アフリカ会議を主導したインドネシアの血を流した困難な独立闘争と達成は際立っており、それに対する日本人の寄与は高く評価されてよいものです。

本件、欧米には愉快な事でなく現下の日本には重要な協調相手ですし、インドネシアにとっては自らの活躍による達成であることから、注目されない事情は理解できますが、静かに小さくとも日本人は語り伝えるべき事です。

碑は、愛宕山のNHK記念館の足元にある日本、アジア、世界史の正に第1級の歴史資料で灯台下暗しです。スペシャルやクローズアップ現代してほしいですし、池上 彰の子供解説もしてもらいたいものです。

他方、インドネシアの独立は、終戦2年前に日本軍によって創設され教育訓練された郷土防衛軍PETAの要員の活躍が中核でした。歩兵操典・軍人勅諭をもとに日本軍人教官に育てられた幹部が終戦時には3万数千人の勢力にまで発展させていました。

PETAと地域の若者、インドネシア名に変えて戦いに身を投じたいわゆる残留日本軍人たちが、戻って来て再び植民地を復活させようとした蘭正規軍に対し立ち上がって闘争しました。独立宣言後、4年5ヶ月にわたる戦争で80万人と言われる犠牲によって困難な独立が達成されました。

 

この独立からスカルノ大統領は、その後のアジア・アフリカ会議(1955年)を主導し、バンドン精神・平和十原則が高らかに謳い上げられました。尤も、現在の南・東シナ海での緊張のように、まさか平和宣言した仲間が大きな問題になるなど当時は全く想像もできなかった時の流れですが。

スカルノ碑は、ジュウグンイアンフ、ロウムシャをテーマとする日本の教授が採り上げることも教科書に載ることもなく、不都合な真実であるかのように佇んでいます。戦後、いまだ終わらずです。

 (了)

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ジャワのマジャパヒト王国は、13世紀末から約200年間、パンカル地域に広大な支配を及ぼし(下写真図が最大)、遠く琉球王国とも交流があったことで知られています。

当時のレプリカの木造帆船(20m)が建造され、今回、ジャカルタを出発して79日をかけて下写真図のような北上の親善航海を果たして東京湾の船橋港に到着しています。

日本の始まりを考えますと、日本祖人は4万年前頃、数十mは海水面が低下して拡がっていた海浜をパンカル地域、ベトナムから東アジア平野北部を経て舟で、狭まっていた対馬海峡を渡り北九州に入ったものと思います。

他方、東アジア平野南部(台湾地区)正面から舟で島伝いに沖縄(3.2万年前の人骨遺跡)まで、あるいはパンカル地域からフィリピン(北部に6.7万年前の人骨遺跡)までは同様に進出しており、もしかするとそこから舟でこの正面に渡って、日本祖人は南西諸島を北上し南九州に達していたかも知れません(トカラ列島越えは厳しく図も点線!?)。

私がそのように考えるのは、紅海を越え出アフリカを果たした現生人類の小部族が、下図のように海面下降によって拡がった海浜沿いに進出展開していくことが安全な移動や食料の獲得など種々の点で容易であると考えるからです。

数十万年前頃、ジャワ原人や北京原人が居たアジアにおいては、日本でも12万年前くらいの石器が発見され、インドネシアのフローレス島では小人ホモエレクトス原人が発見されていますので、アジアにおいても原人は広範囲にいた筈です。

では何故、欧州がネアンデルタール人との共存軋轢による進出展開の遅れがあったのに、アジアでは無かったように見えるのか?私は、海浜河川沿いに発展した言わば海・水辺の民であったため、内陸の原人と軋轢無くまずは進出展開できたことによるのではと考えています。

更には、そもそも出アフリカを果たした小部族は、海浜・水産物食に適応した人たちであったのではと考えています。さすれば早い豪までの進出展開も理解できます。

さて、アジアの楽園Sundaland地域では、最終氷期の最寒期(2万年前頃)でさえも温暖な気候、広大な海浜・陸地の動植物の食料など恵まれた条件下にありましたので、人口も増大し多くの人の集まりの中から文化も育まれたものと考えます。

そして、2万年前頃にはベーリング地峡を越えて北米大陸へ入って行ったものと考えられていましたが、もっと早い時期に入っていたのではという説が出てきました。

昨年、Harvard医科大が、アマゾン3部族のDNAを調べたところ、北米やユーラシアには同種のものを見いだせず、アボリジニ、アンダマン、パプアなどの出アフリカ後の早い時期の人々が近いという驚きの調査結果を発表しました。

このことの意味合いは、内陸での寒冷降雪地に適応を果たしDNA変化をさせた人々でないことを示しています。従って、ベーリング地峡から入ったインディアンの人たちでないということでDNAが合わないこともよく理解できます。

別に、アボリジニと南インドの人たちのDNAが近いということから本サイトでは、そこも含め下図点線部をパンカル人・地域と認識することとしました。

 

問題は、上図のAからBに直路渡ったとは考えられないことです。現在の考古学の成果では太平洋に人類が乗り出したのはせいぜい3,500年前くらいでゼロが一つ違うのです。

すると、黒潮ルート沿いに日本を経由してDNA変化を起こすことなく北米大陸に達し、南下してアマゾンに至ったと考えざるを得ません(RLPPルート自説)。

他方、

日本における石器の調査から2.5~2万年前頃、 沿海州から樺太を経て北海道に多くの人々が入ってきています。

シベリア南部・沿海州との石器の共通性などから既に寒冷降雪地に適応したDNA変化を果たした人たちと見られますので、前述のパンカル子孫が日本を経由して北米へ渡って入って行ったのはそれ以前だろうと私は考えます。

下図のように、4万年前頃、日本列島に入って来て北海道にまで進出展開していった日本祖人は、樺太からの南下以前に北海道に達していることが石器調査から明らかですので、前述の内容と矛盾なく理解できます。

更に近年の研究により、パンカル人と日本人のDNAの近さも認められますので、パンカル地域からの北上、日本経由の北米渡米が一通り矛盾なく理解できます。

おそらく日本祖人は、小柄で肌の色もかなり黒茶色であったでしょう。これが今も南西諸島に多く見られる人たちの特徴に近いものでもあります。

洞窟絵を描き、欧州では小屋を造り、言語コミュニケーション能力は基本的に現代人と近いレベルのパンカル人の子孫は、3.2万年前頃には那覇市に存在し、伊豆の神津島に黒曜石を獲りに舟を操って渡洋し、関東の各地で交易しています。

今回のマジャパヒト号の親善訪問は、14世紀の頃のことだけでなく、実は基本的なところで4万年前頃の日本の始まり時代をも推測させるものであると考えています。

そして、これまで全く歯牙にもかけられなかった日本からの北太平洋ルートの北米渡洋と南米への南下も、Harvard医科大の調査成果から荒唐無稽なことではなく、研究に値するものであると思わせる状況になってきていると考えます。

(了)

 

 

 

 

 

 

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