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6月 « 2018 « 新風 アジアの楽園 & 智ニア来富

日本列島史は下図右、南方のSundaland地域から北上し、台湾山地を経て舟で曙海を渡って九州に至り北上して行ったものです。

その後の歴史を見るに当たり注目したいのは、上図左の三国志の時代に、主に大陸内部発の魏・呉・蜀と異なる海の民性ある種族が、沿岸に依然として存在していたとみられる痕跡(黄色)です。

同種族の「倭」は、入れ墨して海に潜って魚を獲る変なヤツとして魏志倭人伝で扱われています。

氷河期後の温暖化の万年の間に曙海が拡がって(年間約50m)行き、北東ア平野は消えました。

かつて曙海の畔で暮らした人たちは、上図左の痕跡から海岸線の後退に合わせながら沿岸の暮らしを続けたことが窺がわれます。

①沿岸地域の種族と②大陸内部の種族というこの2面性は、その後も大陸内部種族の伸張が続いたものの、今に続く東部アジア地域の特色と考えています。

次に列島史始まりの下図右ですが、この日本祖代には対馬暖流(8千年前頃から)が有りませんでしたので、南から黒潮流が北上して流れ込み、時計回りで曙海から出て北上して行ったのでしょう。

北部九州へは数十kmながら①流れに乗れた②良い風に押されたでしょうが、南西諸島の沖縄・慶良間ギャップ越えは、海水面低下を考えても約200kmあり、多くの家族の渡洋はこの時代にはムリだったと考えます。

因みに伊豆諸島の神津・恩馳島への黒耀石採取の行き来は、伊豆半島から伊豆諸島の見える所へ、流れに乗って行くことが出来ました(30km程度)。

従って、台湾山地以降は北東ア平野の東海岸沿いの拡がりの方が、ムリなく早かった事でしょう。

そして、五島列島~九州西岸~トカラ列島~沖縄ルートが、南への日本祖人の拡がりだったろうと考えます。

現在発見されている遺物・遺跡からは、九州4万年前、沖縄本島3.2万年前、八重山2.7万年前であり、また、台湾東部遺跡で5万年前の物があり、一応当サイトの仮説に矛盾は有りません。

因みに、大陸内部のシベリア・バイカル湖地域は2.4万年前で、大陸内部狩猟族の北と西からの渡来は、最寒期の2万年前頃でしょう。

八重山へは、西の台湾山地から(黒潮越え80km、漕舟力と直角の黒潮流速がほぼ同じで厳しい)か、東の方からか、興味深いことです。

なお、八重山の人骨遺跡では、他のように石器が見つからないとして話題になります。

竹や木、骨や貝器が、暮らしに多く使われていたものと考えますが、大陸内部の人たちと違う、日本祖代の列島沿岸の海の民の暮らしの一つの特徴でしたでしょう。

(了)

実は日本について考える時に、大陸に近い島々であった事から、4万年という大昔に遡って自分たちの歴史を概ね理解できるという驚くべきことが特色なのです。

そして、残された石器・遺跡の年代と拡がりから、その始まりが下図のようなものであった事です。

即ち、曙海の畔に至った人々のうち、舟を造り、渡海力のある人々が家族で北部九州に渡って来て北上・南下して行った歴史と考えられる事なのです。

海水面の上昇のために、多くの真の痕跡はあっても海中ですが。

注目すべきは、ほぼ1万年間で北海道にまで拡がりましたが、サンゴ礁の地から降雪寒冷の地にまで、そして四季に適応して主に水産物を食し暮らした人々は、似たような人だったことが重要です。

私たちは少し前まで、生魚を、海の雑草を好む変なヤツと世界では言われていました。

この最初の1万年間で基礎が作られ、その後は大陸の狩猟族の人々も交え、稲作も始まり、列島史が熟成していったように思います。

日本人、何と言っても、飛騨の山の中の人も生魚刺身と海藻は好んで食べますから、海辺・川辺が列島史始まりの基礎なのです。

(了)

前回の時代区分の「日本祖代」について、主要な事象を年代で書き込み期区分すると下図のようになります。

①前期は、曙海を渡って舟で北部九州に来て、沖縄や北海道にまで拡がり原型の基盤が出来ました。

注目したいのは、舟で黒耀石を採集に黒潮分岐流を渡って行き来したこと、27基のワナ猟の穴という世界クラスの知力がはっきり残されていることです。

祖人について、その認知思考力、言語力、生活環境整備などが窺がわれ、「原始人」イメージは修正が必要です。

②中期は、姶良大噴火が特に西日本にもたらした大きな被害のインパクトと復興の期間です(それほどでもなかったと言う先生もいますが)。

東北、関東は充実進歩を続けたのでしょう。

そして、異質な大陸内部の狩猟族の人たちの進入のインパクトです。

また、この期間に初渡米していると思っています。

なお、世界クラスの釣り針発見(沖縄)があり、「海の民」性は、はっきりです。

③後期は、前述の進入してきた人たちとその異質な文化の影響が、列島中央にまで及び各地域で違いがはっきり出て来たことが特徴です。

北の青森で世界クラスの土器が生まれ、次の縄文時代への助走が始まりました。

やはり、南から北の降雪寒冷までの環境の多様性と季節変化に適応したこと、そもそも舟を造り海を渡って来たかなりのレベルの人たちに狩猟族が加わった混じり合いなどが、世界クラスの考古痕跡を生み出した理由なのではと考えます。

祖先の頃から地震や津波も有りましたので、激動の時代でした。

(了)

4万年前頃から遺物・遺跡が急増しますので、海を越えて新人家族が渡って来ただろうという事で大方の意見は一致しています。

気温は4℃くらい低く、海面は数十m低かったので、瀬戸内海、東京湾等は陸地でした。

南西諸島の慶良間ギャップ越えは距離的に難しかったでしょうが、津軽海峡地域は距離ではなく降雪寒冷が厳しい状況だったでしょう。

対馬暖流が無かったので日本海側に大雪が降ることも無く東西が同様に拡がり、特に関東と甲信越が、中央部で黒耀石が採れたためもあって早い段階で繋がっていたことが注目されます。

原型が出来上がりました。

北から狩猟族の人が入って来た(一部戻ってきた)のは、ずっと後の話(2万年前頃)です。同様に西からも入ってきましたが、これらの影響は大きかったようです。

また、数十万年前のジャワ原人や北京原人系の人類、十数万年前からのデニソワ旧人が来ていたのかは、今も調べられ特に後者の議論がなされていますが、祖先では有りません。

縄文時代の始まりと終わりは議論がありますが、まあ上図が主流でしょう。

最近、「弥生人」がやって来たという事については否定的な論が出ています。稲作という大きな生活変化はありましたが。

そして、実は世界の学界の一部で注目されているのは、日本列島人が、当時の昆布Kelpハイウェイを通ってベーリング地峡南岸から、初めてアメリカ新大陸に渡って行ったのではないかという事です。

「歴しニア」は、日本祖人とその子孫が、太平洋沿岸を北米に至り南米にまで拡がったと言う考えです。

少なくとも子供たちの副読本には、前述くらいの事は載せる段階に来ていると思います。

(参考動画)

(了)

戦前の歴史学問や教育を非難する人たちが放置した、早急に訂正されるべきデタラメ国会決議があります。

史実の裏付けのない事を、政治的な理由から「歴史」としてしまう酷さで、問題の根の深さは、投獄される恐れも無いのに誰も声を挙げない異常さです。

これは権力の弾圧よりも恐ろしく、時に科学の装いを施して世界人類史の流れに反したことを声高に主張し、他を沈黙させる恐ろしさです。

一人として先生方が、声を挙げない恐ろしさです。

因みに最近の先生方による地道な数万年前、十万年前に及ぶ石器などから、日本列島における旧人の存在を挙げる研究があります(学界論議中)が、それは別のことであり、旧人は先住民では有りません。

これも紛らわしい装いを施してデタラメの強化・補強に使われます。我々が問題とすべきは、最初の現生人類です!

仮に、何%かの影響が我々現生人類のDNAに及んでいるとしてもです。

日本列島史の始まりは北上史であり、その後の南下・西入も同族が含まれていることも考慮が必要です。

この列島で4万年(縄文時代以降プラス2万数千年)の長きにわたり受け継いできた大切な習俗に注目する必要がある事も、言うまでもありません。

(了)

前回は、縄文人より2万年も早かった陥し穴猟から日本祖人を探りましたが、今回は人類史の始まりの方から探ります。

学界をリードする欧米は、遺跡遺物が豊富なネアンデルタール旧人、クロマニョン新人という陸地で活躍した人たちの暮らし振りから主に先史を捉えています。

しかし、猿や旧人とはっきり違う新人・現生人類の大きな特徴の一つは、「海・川辺のサル」というべきものです。

最古級の新人遺跡である南アの海岸洞窟は、主に水産物を食し、オーカー塗料での彩色や貝ビーズで装飾したヒトの知力ある生活を明きらかにして世界を驚かせました。

アフリカを出た初期の人類にとって容易な海岸移動ルートでは、水産物や小動物・植物食料の得られるマングローブやサンゴ礁などは、万年の痕跡発見は困難ですが重要であった事でしょう。

更に、祖人が出て来た東南アジアSundaland地域では、当時の陸地は恐ろしい巨獣・蛇などが跋扈していましたので、海の民性は地上での重要な暮らしぶりであったと考えられます。

当時の海・川辺の「見つからない暮らし」は、他所や現代にも痕跡が見られる「有ったであろう暮らし」です(理論考古先史学の原則)。

「曙海」を家族が舟で渡り九州にやって来て、列島中に拡がって行った日本祖人は、そういう先人の子孫です。

であるからこそ、北海道で留まることなくアメリカ新大陸へと「昆布Kelpハイウェイ」を通って入って行ったのです。

(了)

日本人は何処から? 下図1のように、時代を異にする事を一緒に書くのは誤解の元で✖です。②、③は後々の話です。

中には縄文人は何処から?という本もありますが、2代目なのですから日本列島に決まっています。

さて上図の①として、当時は台湾山地の後、右図2のように北東ア平野があり、「曙海」となっており、対馬暖流が無くといった地形の違いと気温も4℃程度低かったようです。

台湾での痕跡が図1の長濱5万年前とすれば、図2のように九州まで1万年かかっているのは気温のせいでしょう。

更に1万年を要して北海道に拡がっているのも降雪寒冷への対応のためで、南方ルーツの人たちの北上の故と考えています。

私は図1で、当時は南西諸島の慶良間ギャップの北上越えは余りに遠距離でムリ、家族での八重山への激しい黒潮横断すらも、今論じている始まりの頃は難しかっただろうと考えています。

あの神津・恩馳島への黒耀石採取の舟は、言わばベテランによる黒潮分岐流に乗った、実質20km程度の見えている島伝いのものだったろうと考えています。

従って普通に、北東ア平野の東沿岸を北上して流れに乗って北部九州へという事だったでしょう。

注目すべきは、いずれにしろ此の「曙海」の周辺の人たちは、上図左写真の男に似たような”海の民“性を有した人たちであった事です。

他国ではその後の歴史でかなり変わってしまって分りにくくなっています。

しかし日本では、極東にあり大陸と距離を置いた島国であった事などから、4万年を経た今も大陸と異なるその習俗などが列島に残っていると感じられる事です。

最近では、ベーリング海を越えた米大陸太平洋沿岸にも、こちらとの繋がりを窺がわせるものが発見され出していて、「環太平洋」という先史視点が注目されます。

(了)

横須賀・船久保遺跡で発見された27基の穴が鹿猟の陥し穴とすると、下図右①上に掲げた標題のことが分かります。

そしてこの事は、下図左②舟を含めて縄文時代の現物が発見されている事は、実は多くの事は既に先代の日本祖代にあったのだろうと考えられます。

例えば、北海道縄文人は、アザラシ、オットセイを食べていた。本州では、魚、貝などの海産物や植物、沖縄では、サンゴ礁に棲む小さな魚、貝を食べていたと分析結果が出ています。

この事も、縄文人を日本祖人と言い換えて何の違和感もありません。時間が緩やかに流れていた時代です。

も一つ注目すべきは、下図のAのように世界最古の陥し穴は、鹿を魚のように獲っていたことです。

明らかに欧州や大陸内部のBの槍や弓矢で狩るのと違う生き方があったことを窺がわせることです。

曙海の畔から九州に海を越えて至るまでの生き方が、既にB系とは違っていた「海の民系」と言えるものでしょう。

最近の様々な発見から、最初のアメリカ人は下図2において、B系ではなくA系だろうということになってきています。その後のB系の影響力の強さで見えにくくなっていますが。

しかしこの事も、それではA系だとしても北米痕跡が1.7万年前であれば、もはや縄文人ではなく日本祖人だったのではないのかとなる訳です。

それもこれも、2代目縄文人に名前があって、先代の日本祖人という名が使われていないから分らなくなっているのです。

何故、約4万年前からの日本列島史の始まりを表現する日本祖代、日本祖人という名称がなかったのか、今もってないのか、誠に不思議なことです。

以下、ご参考まで。

(了)

 

日本祖人(日本列島史の始まり時代で、縄文人以前の人々)が、下図①黒潮分岐流の伊豆海峡を越えて舟で神津恩馳島の黒耀石を採取に行き来していたことは世界を驚かせています。

今回発見された②船久保の3万年前頃の27基の穴遺構にも驚かされることでしょう。

日本祖代(前期)におけるこの海の傍の2例は、日本祖人の相当の知的レベルを窺がわせるものです。

穴遺構は、先生方の言われる動物捕獲のためのものだとすれば、2mに及ぶ深さと一見必要ない最下部の最も大変な作業を丁寧に削り取っている匠の技が不思議です。

舟を造り家族で曙海の数十kmを越えて初めて九州に渡って来て列島中に拡がって行った祖先の人たちですので、これらの海の傍の活動は、まあ驚くほどではないのかも知れません。

また、見つかった所の地名が「船」久保であることも大いに納得するものです。

日本祖人は、毛皮のパンツに槍を持った荒っぽい人というイメージは修正しましょう。も少しスマートで目先がきいて几帳面な人たちだったのでしょう。

(了)

アフリカ発の我らが祖先である現生人類が、どのように世界に拡がったのかについて、日本列島は、今の①Wikipediaのようにこれまで長らく無視されてきました。

私はここ2年くらい当ブログで「日本祖人」を発信してきましたが、なんと上図のように②National Geographic誌が、日本列島のみならず(日本祖人の)渡米まで入れるようになりました。

③、④もそれぞれミトコンドリアDNAや人体などから赤丸のようなことで入り始めました。そして、環太平洋ルートから大陸の方へという拡がり方の表現も注目されます。

これらの②から④まで、どのようなことの結果から図に描かれているのかは不明ですが。

因みに私は、南米チリ遺跡やアマゾン古DNA,ブラジルの遺跡等から日本祖人子孫が太平洋沿岸を南下し、南米にまで拡がったと考える自説の環太平洋移動・移住MPOR(Migration along Pacific Ocean Rim)を提唱しています。

日本列島へは、4万年前頃に現生人類がやってきたという事で学界に異論はありません。

しかし、ここに掲載した図と異なり、列島史始まり期に大陸内部から日本列島に渡来したという、私には考えられない異説もあるようです。

更に、4万年前からの日本祖代間に九州から北上して北海道にまで拡がったにも拘わらず、時代を曖昧にして大陸から(あっても旧人)や北方からも来た(2万年前頃)という紛らわしい、下図と異なる図説もあるようです。

やっと祖先始まりの日本列島史が世界の議論の俎上に上がって来たことを喜びつつ、誤解を生まない図説に基づく議論の深まりを期待するものです。

なお、Yハプログループはどうかという意見があり、ネットチェックしたところ、Sundaland, 渡米、そして南米までが画れており環太平洋移動・移住MPOR自説を支持していることが分かりました。

いずれにしろ、私たちの始まりの祖先について、少なくとも大要を義務教育教科書に記述する時期が来たと考えています。

(了)

先ず下図1南方から来た人々が台湾山地から黒潮流を越えて直路で八重山に来るのは、日本祖代の始めの頃は大変だったでしょう。また、慶良間ギャップも遠い事です。

対馬暖流が無く黒潮が時計回り性の流れだったので、北東ア平野の東海岸を北上して九州北部に来たと普通に考えます。

そして、列島を北上して行き、沖縄本島へと南下して行ったのでしょう。

いずれにしろ当時の曙海の畔の東西南北の人々は、下写真に似たような人たちだったことでしょう。

その後、八重山に台湾山地から来たのか、沖縄本島から南下して来たのか興味深い事ですが、東南アジアとの強い類似性がみられます。

北海道の遠軽・白滝の黒耀石が、樺太や沿海州で見つかったと騒ぎますが、曾爺さんの所に佳い宝の石がある事は知ってました。もしかしたら形見を持って拡がったのかもですので、驚きではないです。

次に渡米ですが最初の上図2、ポイントは北極海の冷水が流れ込まないベーリング海(米臨海)は当時、正にハワイに繋がる海でした。

そして、北太平洋沿岸には下図緑の食料豊かな「昆布Kelpハイウェイ」が北海道から米西海岸へと繋がっていました。

世界の学界は何となくシベリアBのイメージのようですが、米臨海・昆布ハイウェイを考えれば普通に日本祖人Aだったでしょう。

日本列島は、世界の人類展開史に重要な地位を占めているのです。

更に、南米で新たに発見されてきている遺跡やDNAから、Sundaland~日本列島~ベリンジア南岸~米西海岸~南米太平洋沿岸へと、これも普通に環太平洋移動移住(MPOR)論が導かれます。

(了)

日本祖人の初渡米に関して

カテゴリー: 最新情報

4万年前頃、日本列島に千を超す家族が舟で渡って来て、3万年前頃には北海道にまで拡がった日本祖人は、降雪寒冷に慣れて下図1のように引き続き北上したことでしょう(食料豊かでプーチンも誰も居ませんでしたので)。

今回、上図2のように、Science Advances 誌 が、氷河期の北米西岸の氷床が最寒期LGM直後のT2:17,000年前頃から人類の移動、食料等の点で行動が可能であったという発表をしました。

米大陸進入については、「昆布ハイウェイ」の沿岸ルートが新たな定説ですが、A:北海道ルート、B:シベリアルートについては、何となく世界ではBと思われているようです。

さて、氷床が最寒期LGM直後のT2に行動可能であるなら、そのLGM前のT1:2.5万年前頃も北米西岸に行動可能性が有ります。

ここで、カナダのユーコン川上流のムツ洞窟遺跡で24,800年前頃という遺物が出ていて注目されます。

3万年前に北海道に達していた日本祖人が、T1の氷床の状況からも北米西岸を一応行動可能であったことが、世界では未だ全く理解されていないようです。

Bルートのシベリア内陸は、今でも真冬はー60℃、亡くなる人が出ています。

一方、当時のベーリング海は今と違って、北極海の冷水が流れ込まない、正にハワイに繋がる海でした。

(了)

 

学校で教えてもらえなかった日本列島・現生人類の始まり時代、遥かな大昔の私たちの祖先の事。

これまでの諸報告を考え方を含めて要約いたしました。

日本列島人は、どこから、いつ、どのように始まって、そして、どのように進んで行ったのか。渡米まで含めての要約です。

その独特の歩みと文化の熟成は、近年、「日本文明」と言われていますが、その訳の一端もご理解されるでしょう。日本史は、○○時代を知ればとは何とも傲慢です。

流せば50秒ですが、適宜スライドを止めて、ゆっくりマイペースでご覧ください。

東京湾岸・市ヶ谷の縄文人が魚介好きだったはいいとして、福井の鳥浜遺跡人もそうだった、そして今回、内陸である福島・喜多方の1500年前の豪族もそうだった、DNAは縄文人と大きく異なるのにと学者先生を驚かせています。

そもそも、先祖の「日本祖人」である原始人は、ひげもじゃで槍を持った裸に毛皮のパンツ的な格好で獣を獲るのイメージのようですが、実は我が国の発見された人骨は意外に魚介類好きです。

日本史に詳しい欧米人は、アジアで急速に近代化した日本の不思議を感じ、言語・慣習・信仰などがどうも大陸・半島と違うそのFar Eastの外辺・孤立に原因があるようだと考えています。

そこには、4万年前から熟成されたモノがあることがよく理解されていないようです。

舟を造り九州へ家族で千を超える数が渡海した始まりと3万年前には列島に拡がり、西からはその後も舟で来れる人が来ていたのです。

歴史は海で暮らす人が陸の暮らしになって行くが、逆は攻撃でもされないと殆どないです。

DNAは兎も角、魚介好きは私たちの大事な特色で、魏志倭人伝の昔は入れ墨して海に潜る、少し前までは生魚・海の雑草を喰う変な奴と言われていました。

因みに南米の太平洋岸の高山に海藻を大事にし、好む不思議な人たちがいます。

誰だ、他所者にトロ、刺身の旨さを、海藻サラダのヘルシーを教えちまったのは!

(了)

 

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