図左、原産地調べで伊豆諸島の神津・恩馳島産の黒耀石が静岡・関東・長野でも発見されていますが、愛鷹遺跡の物は驚きの3.8万年前と年代測定され、太古のロマンある謎としてかつて朝日新聞が報じました。

最も近い石廊崎から遥か55kmの遠さで、どんな人がどんな舟でという事は実証も出来ず、残念ながら歴史発見ニュースという記事にはなりませんでした。従って、教室には至らず世界にも出て行きませんでした。しかし、①そもそも日本史の始まりは約4万年前、家族が曙海沿岸から対馬海峡40-30kmをフネ(筏)で越えて北部九州に至り、沖縄へ南下し東進して伊豆を通過して北海道に北上している海民性ある祖人Sojin(縄文人の先代)でした。②当時は海水面が数十m低下して陸地が拡大し恩馳島は神津島に繋がり、何よりも利島の西北に鵜渡根島が現れていて伊豆半島から屈強な男達が25km以下で達することができ、大島ルートも同様で利島以降のかなりの部分は舟を曳いて砂浜を歩いて行けたのです。この生業行き来の航海は世界最古です。実は家族による対馬海峡越えより余程容易でした。③当時は黒潮が四国沖で太平洋に去っていましたから、伊豆の海に今のような分岐流は流れ込みませんでしたので漕ぎ流される苦労もなかったでしょう。➃桜で有名な河津地域は、その後の縄文時代には黒耀石の工房があった所ですから繋がりが考えられます。河津東小学校は、校庭の黒耀石片を取り除かねば危なくて運動が出来なかったと言われており、凄い事です。他方、⑤県西の浜松では本州唯一の浜北の祖人骨と繋がりの縄文人骨が発見されていて、重要な実証参考です。フネに関しては、⑥祖代は氷期でその後の森林様相ではありませんでしたが、静岡東部は後の天皇献上の大船が建造されていました。

そして、⑦あのコロンブスが、カルブ海の現地民から聞いた「カヌー」の語は欧州から世界に拡がっているものの発現元が全く見当たらず、枯野・狩野・軽野が源という説を茂在寅男博士(東京商船大名誉教授)が唱えています。これだけの状況証拠ですから謎ではなく、歴史的発見として新聞報道すべきでした。図右、人類史の重要問題である「最初のアメリカ新大陸移住」で日本ルートも登場してきている昨今、要すれば学術に高め今こそ教室で教え、世界に発信する意義は大きいでしょう。

図右、人類史のアメリカ新大陸移住問題についての学界主流の見方はA、Bですが、日本に派遣された中世イエズス会宣教師(アンジェリス、大谷選手と関係なし)の報告はこのA、Bを認識するのみならず、ベーリングが海峡を発見する100年前、あのクック船長一行の150年も前に認識しており驚きです。

更に、当時宝物であったラッコの毛皮と大鷲の羽の出所について、北海道の北(千島)の3つの島で、島民の特徴はアイヌに比し①色はあまり白くない、②ヒゲは生やさず、③アイヌとすっかり異なる言葉(3百年後の1899年・明治32年の鳥居龍蔵の北千島調査では既にアイヌ語と同様)としていることが注目です。宣教師アンジェリスの報告は、北千島の人々はアイヌと直接接触せず、本道・樺太のアイヌのような小人伝承などもなく、一部には小人コロボックル(仮称:留頓ルートン)とは和人の事というアイヌとは異なる人々という一般的な賤視・神秘化認識の線上にあります。北(中)千島のこれらの宝物は、10世紀には交易品として根室地方を経て擦文人により函館で手にされていましたが、平安時代末に北海道を統括する地位にあった奥州藤原氏が12世紀には大鷲の羽を重要な財源とし、(伊勢)神宮の20年ごとの式年遷宮の神宝(4千本の矢羽)として供給していたことが注目されます。つまり北千島は、その宝物の原産地として津軽海峡を越え神宮に繋がる重要な供給ルートの一翼を担い組み込まれた存在でした。北千島―根室―函館―青森―仙台―伊勢という訳です。かつての国宝白滝・八ヶ岳・神津島の黒耀石ルート、沖縄~北部九州~北海道のオオツタノハ貝や新潟翡翠などの宝物ルートの中世版です。そして藤原氏が源頼朝軍に敗れた際も、落人部落でなく海峡を越えて北海道へと藤原泰衡(途中で殺害された)以下多くの臣民が向かいましたが、宝物ルートと無縁とは思われず、また、驚くことに北千島島民が誇りをもって源義経の千島北上伝説を語っていたそうで凄い事(ジンギスカンでなくインディアン大酋長か)です。

図のアメリカNativeインディアンのTシャツが、白頭鷲の羽をあしらってますが、ロシアの東西向いて統一支配すると言うような双頭鷲とは違った趣です。19世紀、いよいよロシアの進出で北方が厳しい状況になった際も、江戸幕府直轄として東北大藩の仙台藩が道央南沿岸の白老に元陣屋を構え、東北海道の大半と択捉・国後というあのルートに加え樺太警備にも任じましたが納得です。これらを教室で教え、内外の誤解を正し、世界に発信です。

現在の認識は、コロボックルとは日本史始まりの祖人・縄文人のことでしたし、アイヌは13世紀から。また、人類史のアメリカ新大陸初期移住問題の世界の学界認識は、シベリアのマンモスハンター・クローヴィス石器人のベーリング地峡からの進入説Aが揺らぎ、西海岸・舟進入説Bが浮上です。

図左下、米の高校教師参考の一教材動画ですが、最新発見のニューメキシコの「足跡」から、ルートC、Dを含めて一応巷間の諸説を網羅して基礎的な特色・実証面の問題点を紹介し、学生が考え・調べるための素材にもなっています。上図の日本ルートですが、舟が2万年前と紹介されているのは、発見最古の千葉・市川の縄文舟7,500年前と伊豆~神津島の黒耀石採取の生業航海38,000年前の中を採ったのでしょうか? 沿岸が離れる千島列島については、stepping stone として渡って行った感じを出しています。世界の議論がこういう状況となれば、明治文明開化の先達の諸議論に光が当たりますが、東京帝大の坪井教授による①日本の始まりを科学的に探求する、②学術用語コロボックルを導入して処罰の恐れなしに自由に研究議論する、③衝撃のダーウィン進化論を受け止め、貝塚遺跡人はアイヌ以前のより古い別種人というモース教授の実証考古学成果の理解、➃自らの北海道遺跡の実視とアイヌ聴き取りによる両面からの現地調査内容の判断 により開花期に科学的な真実追求の学問確立を目指したことが注目されます。諸外国の文献等の研究も踏まえた事でしょう、アメリカ北部まで視野(鳥居龍蔵の回想、大正8年帝大紀要)に入っていたことは驚くばかりで、他を抑圧することも無く小金井教授等の多数派に抗し奮闘されていたのは尊敬します。北海道新聞の記事、「鳥居龍蔵が恩師である坪井正五郎のコロボックル説を否定した」は、大正6年になって(北千島調査の18年後)師の説に関し学会講演で北千島コロボックルであるとはっきり求め人類学誌に記述されている北海道史の基本的な重要事項と異なる誤解報です。

これ等の事が教室で紹介され、内外の誤解が速やかに正され、研究者の発言が撤回・謝罪を求められることも無く自由が保障されますよう、日本祖代研究会(RGaPJ)は強く求めます。

江戸・明治人の坪井正五郎(日本人類学の祖)は、「皇国の臣民が猿と祖先は同じ」(ダーウィン進化論)、「北海道の竪穴や土器はアイヌの前に居た古い人民」(プレ・アイヌ説)という衝撃の外国人論説を理解し受け止め、現地調査などを踏まえて日本の始まり探究における先人呼称について、学術用語コロボックル(現英語表記Corobocle)を案出して文明開化の人類学を興し、科学的な熱い論議を主導しました。

用語コロボックルによって、議論は謝罪・撤回の強制や失職・入牢の咎めを受けることもなく、また、仲間同士の反論を抑圧もせず、遂には学術的な(全国)遺跡分布図を作り上げました。当時はDNA分析やAMS加速器年代測定・ウラン系列年代測定など全く想像もできない時代に祖代・縄文の実相にかなり迫っていましたが、驚きの素晴らしい偉業です。可愛いコロボックルが広まっているのはよいですが、教室で当時の学術面の活動と成果が至当に紹介され教育されていないのは問題で残念な事です。その一因は、明治32年の鳥居龍蔵の北千島コロボックル調査にあり、政府の保護策で色丹島に移住させられていた島の人々はコロボックルなど聞いたことも無いと答えたことが大きな理由で世の中の熱意が失われ、やがてコロボックルはおとぎ話に変わっていきました。蕗の下の(小さな)人という意味のアイヌ伝承は、鳥居の助手である北千島出身の現地古老が「バカにするなと」と怒ったようなものでしたので、言われている当の島の人々が語らず知らないのは当然ともいえることでした。鳥居自身は第1級の優れたフィールドワーカーであり、研究の積み重ねから18年後の大正6年になって、北千島の人々は師である坪井教授の唱えたコロボックルであると理由を付してはっきり認識するに至り、講演を行い活字(人類学誌)にもなっています。問題はその事が今も師説否定と誤報され、追認の認識が正しく大きな声で発信努力がなされておらず、欧米の一流大学の教授や国連UNにこのような日本史が誤解されて誤った内容がまかり通っている事なのです。

更に昨今、人類史の最後の謎ともいうべき「初期アメリカ新大陸移住First Americans」問題において、2.3万年前のニューメキシコにおける足跡の発見で人類の初渡米定説が揺らぎ、九州~北海道~北千島を通過する昆布ハイウェイ・ルート説も登場しており、アイヌと異なる最古の第1渡道で北千島に北上したコロボックルであり、祖先の石器人遺跡を有する遊動海民「留頓・ルートン・Routon」(仮称用語)が、かつてはカムチャッカ半島南南部が主体(北海道大 高瀬克典)であって注目される時代なのです。教室でこれらを紹介する教育と学術論議が行われ、世界に発信を行って内外で正しく認識されることを強く求めます。 ―日本祖代研究会(RGaPJ)

生臭い刺身を、海の雑草を食べるなんてと言っていた欧米先生が食べだしたのはそれほど遠い事でなく、そのためか人類史は主に狩猟と石器で語られてきました。

しかし、①華奢で皮膚丸出しの新人が厳しい生存競争の中を生き抜いたのは、水辺の食にあると言われています。アジアに関わる出アフリカの揺り籠と言われている東部アフリカには大河と湖沼が多く、豊かな魚介類食こそ新人が見出した競合のニッチで、脳や精に効くDHA、EPAを含む優れモノでした。質量充実した脳を持ち東進した新人は、他の動物は越えない異相線を筏(フネ)で進んで行き豪(6万年前)にまでに至ったほか、早い時代からマグロなどの外洋魚を獲って食しています。実験航海(コン・ティキ号の南米~ポリネシア筏航海)によって、筏には、魚や蟹などが寄って来る、乗り込んで来る小島のようなもので、スコールの水があり、豪へは最大90km以上を航海したと考えられています。また、最古の耕作痕跡から5-4万年前には自然に手を加え芋などの栽培に着手し、長期間かけて選抜改良してきましたが、これは海の魚介の幸、森の根菜類や果実などの幸に恵まれた地で種々の例と余裕の元で試行されたものです。サウアー博士は、鶏・豚の家畜化のように選別が行なわれて、農業の前に東南アジアの漁撈民の庭から中東より遥かに早く栽培農耕が始まり、水稲稲作が(南)中国や日本に伝播し高度化したと言っていますが納得です。②稲作と言えば長江ですが、そもそも「貧相な雑草」の野生イネを最終氷期が完全に終わり、1万年前頃に本格的に温暖化してから選別改良して栽培化し得たか疑問で、漁撈民による伝播があった(DNA分析による支持説)のではないでしょうか。日本に関しては、始まりが500年早まり、必ずしも大陸の戦乱逃れ民による持ち込みの導入説でなく種々議論があるようですが、漁撈具を伴う登呂の水田稲作遺構は原型的で興味深い事です。唱歌「われは海の子」を必修に。

2.3万年前の北米足跡発見の衝撃で静かな中、最新のアメリカ先住民史IHNの動画は、①米国Davis・Madsen 両博士の沿岸ルート、北海道東(ゲートウェイ)発進説を可能性が高いとして採り上げ(従来のベリンジア地峡のハンター通過説を否定はせず)ています。

特に赤枠で囲った地域に注目(注:PSHKのS樺太は異質)し、1.北海道祖人Sojinが道東を発進とし、アリューシャン列島東端(「米臨海」を抜けた本土入り口?)迄の図の青線が4,600kmと紹介しています。また沿岸ルートであることから北海道~カリフォルニア、南米西岸にもある食豊かな「昆布ハイウェイ」と共に、2.日本の海民性に着目し、3.8万年前に黒耀石を求めて伊豆の海を神津島へ生業航海した事や沖縄の3.6万年前の実証人骨と釣り針を指摘しています。北海道については、当時海水面の数十m低下で陸奥湾が河川を有する広大な平地であり、太平洋側と大雪が降らずに暮らせた日本海側から北上した東西の祖人Sojinが合流し賑わいの状況があっただろうことは、発掘された祖代遺跡はもとより、水没後の次代一日にしてならずの縄文世界遺産(土器が北海道へ)の親であり納得です。始まり時代は背後の本州文化に支えられて大間・竜飛から渡道した北海道の基盤であったことに思いを致すべきです。2.の海民性も、そもそも始まりの北部九州への約4万年前の40-30kmの家族渡海をした造舟・操舟の能力は、欧州の洞窟で絵を描くより凄くないですか。伊豆の航海も次の縄文では工房が出来ていますし、近くの同時代の愛鷹石器群、人骨実証の浜松、長野高地には多様な石器群があり、原産地なのに神津島産が発見されている驚きの交易など、広域の厚い実証の基礎に支えられておりもっと世界に状況が発信されるべきです。

この点で②、巷間本や博物館に「日本人は何処から」で3方向渡来図が見られますが、時代の異なる方向で肝心の沿岸ルートは無く誤解を与えます。始まりの移住は、北部九州から北海道への北上と沖縄への南下です。何より、3方向渡来図は日本から出ないため、①両博士の説が出て来ない大問題です。③IHNは、Y-DNAの世界拡散図を紹介していますが、環太平洋移住(MPOR)説(日本祖代研究会)を支持する日本列島通過ルートも含まれているのです。日本始まりの北上・南下図とし、世界には「道東ゲートウェイ」発進説が出ていると教室で教えるべきです。国際共同研究を主導し、日本の特筆事項の世界への発信も。

図左、世界には区別ない人は沢山いる、良し悪しでは全くない。

「RとL聞き分けられぬ耳で良し日本語をまずおまえに贈る」(俵万智)

その耳でよし、虫の音を川のせせらぎを楽しみなさい。そして、現生人類史の謎、アメリカ新大陸の先住民問題と日本の関わりにも目を開かせよう。

図右、Y-DNAの拡散で東南ア・スンダランド地域から北上し、日本列島ルートを通過する動画が登場。23-21,000年前の北米ニューメキシコにおける足跡発見で、「最初のアメリカ人」定説が揺らぐ中、日本祖代研究会(RGaJP)が長く提唱して来た日本を含む環太平洋ルートの現生人類初期における環太平洋の沿岸地域の移住(MPOR)説と軌を一にしており、説にも光が。これにより、当ブログでかねてから累次説明してきました北海道・「道東ゲートウェイ」(帯広で昨年、1.5万年前の黒耀石がザクザク)から千島・樺太への北上継続による世界人類の拡散史における関わり可能性の重要性が認識され、祖代史の研究と更なる発掘に日本の責務ありです。

日本史は巷間に誤解が多く、①マンモス・ハンターも騎馬民族も来ず、先の大戦でも敗れて占領軍が来ましたが大量混血は無く、大陸のような民族的な入れ替わりが歴史上無かった事は特色です。

基本的に五月雨の渡来ですが、時代を経て戦いに強い富者のDNAの影響が島国に拡がったものです。明治の文明開化で列島史始まりの実証的な研究において、東京帝大の坪井教授は遺跡遺物の調査から「本邦の石器時代人民は一種類(コロボックル)であった」と明言しています。教室は扱っていませんが、コロボックルをおとぎ話と片付けるのは誤解であり学術用語をめぐる正しい内容とおとぎ話を加えた教え方とせねばなりません。そもそも②、出アフリカの新人類黒人が亜熱帯を越えて「北インマレイド」に変化し、約4万年前にフネで家族が北部九州に渡海して長く重要な基層の「祖代」が始まり(縄文を加えて「基盤」)ましたが、欧米先生が「古モンゴロイド」と呼んだのが誤解の元で、寒冷・降雪・寒風に適応して身体変化したモンゴロイド化人種の登場はずっと後の事〔2.5-1万年前から、(米)Harvard大 Dr. Howells〕です。テレビ番組などでDNA分析を紹介し誤解させる弥生人なんていません。江戸人と明治人も外見が大きく変わったものの、中は替わっていないことは皆承知の事です。五月雨渡来の人々を過度に強調するのは誤解の元です。それよりも、最新の研究で神武東征における最初の内陸進入の試みにおける日本書紀の記述と河内潟の古地形分析の状況が一致していること(「日本の誕生」、長浜浩明)が分かり、文献学の進展もあって(仏)レヴィ・ストロースが正に「日本は神話から歴史が滑らか」と説くようなことから、年表を新しく理解すべきでしょう。

また、人々の歴史において重要な言語面の研究においても、欧州諸国は成り立ちの歴史が分かっていますが、孤立語の日本語は、祖語が古すぎて辿れません。南北に長く当然に表現も相当に多様ですが、新旧や地域変化の違いであって日本語であることははっきりしています。学者先生はことさらに地域文化の違いやDNA特性の地域における違いを言挙げしますが、世界から見れば皆、日本人なのです。誤解を正し研究の新動向について教室に世界に。

温故知新。①隣国は4千年の歴史を誇りますが、それって明治人が日本史とした期間であり、今ではDNAやウラン系列分析法などで約4万年前と1桁遡っています。

E.モースが扉を開き、東京帝大の坪井教授が制約の中、アイヌ伝承のコロボックルの語で探究の熱い人類学論議をし、弟子の鳥居龍蔵が明治32年の現地調査で北千島の遊動海民(*留頓ルートンRouton)はコロボックルではないと広まった誤解を、大正6年にコロボックルであると正しましたが今も誤解は続き教室でコロボックルが語られることが無いのは問題です。何よりも始まり時代と人の名称が多様かつ問題があり、結論的に、日本語で簡潔な祖代Sodai・祖人Sojinの用語で説明と活発な議論がなされるべきで、鎌倉時代からのアイヌについての内外の誤解は正されねばなりません。②日本史が「大陸・半島から来た」人々で始まったと言う誤解も、伸縮していた曙海の畔から家族がフネで30-40kmを越えて北部九州に来て始まり、沖縄へ北海道へと列島中に拡がったものです。そして当時未だモンゴロイドは登場しておらず、南方系の北インマレイド(仮称)が亜寒帯を越えておそらく身体も出アフリカ黒人からかなり変化し渡海したものです。海水面が当時より数十m上昇して沿岸の痕跡を消し、九州最古は内陸の熊本遺跡群に残されています。③列島中央部は、不思議に発見が日本最古の物が多く、また、当時の宝物である黒耀石が東京神津島や箱根、長野にあったことや関東大平野などのためもあり賑わいが見られ、世界最古の生業航海、陥し穴猟、環状キャンプ、磨製石器、最新の長野高地石器群、野尻湖キルサイト、至宝の神子柴石器など充実の痕跡が残されています。道東の石器が北陸と似ていると言う研究者もおり興味深い事です。本州島の土質では人骨が残り難いですが、静岡・浜松に祖代と縄文人骨が同地域で発掘されており繋がりを示す重要なものです。➃南西諸島は、鹿児島から海を越えて行った痕跡が見られ、先般も馬毛島で祖代石器がザクザク発見されています。何と言ってもサンゴ礁のアルカリ性土質のために、充実の人骨が発見されており、また沖縄では石器より竹や骨が工具として使用されたと考えられ、最古の釣り針も発見されています。

⑤北では、当時の仙台に海獣がいましたので北海道暮らしの予行ができたでしょうし、陸奥湾は平野で太平洋と日本海両側の合流の賑わいがあったでしょう。津軽海峡は狭かったので、大間・竜飛から容易に北海道に進出でき3.5万年前後に拡がりました。道内最古遺跡の帯広では昨年、1.5万年前の黒耀石がザクザク発見されています。遠軽町白滝石器群の国宝指定で、道内の祖代・縄文遺跡の更なる発掘が期待されます。鳥居龍蔵が調査した北千島の遊動海民・留頓ルートンですが、世界人類史の昆布ハイウェイとして千島列島は注目されており、その占守島で6千年前の縄文遺跡が発掘され、更に留頓はカムチャッカ南南部が主体であったことが明らかにされていますので、カムチャッカに至れば世界人類史のアメリカ沿岸先住南下の要地ベリンジアは指呼の間です。日本史の60%を占める祖代は基層であり、痕跡が南と北に色濃く残っている事は興味深く、今や縄文文明と言われますが1日で成るものでなく、日系4世がハンバーグ好きで英語しか話せねばアメリカ人であるように、五月雨で列島に入って来た人々が日本島民語を話すことに秘密があり、祖語が由来の分からないくらいに古く孤立的であることは注目すべき重要な事で、隣国の影響を過大に言い募ることは誤りです。教室に世界に。

北海道白滝石器群の国宝指定で注目の日本史始まり時代は左図、多様な用語がありますが、結論的に始まりは約4万年前からの祖代Sodai・祖人Sojinの用語が適切で、2代目の縄文Jomonに繋がります。

明治時代の文明開化で、お雇い外国人学者の(米)エドワード・モース(日本考古学の祖)が紹介したダーウィンの進化論は、「猿から人へ」の受け止めで学界に衝撃を与えました。大森貝塚の発見や北海道の竪穴住居はプレ(前)・アイヌと主張し、科学的な人類・歴史考古の学の扉を開き、この刺激で図下、東京帝大の坪井教授(日本人類学の祖)は、プレ・アイヌについてアイヌ伝承のコロボックル(蕗・ふきの下の人の意)を学術用語とし、当時の学界は日本史は4千年くらいと考えていましたが、真実探求の活発な議論と学会を興したのです。弟子の鳥居龍蔵による北千島の現地調査(明治32年)報告から、彼の地の人々はコロボックルではないと世に広まり、その後コロボックルは可愛い蕗の下の小人としておとぎ話になって大正時代に巷間の人気になりました。鳥居自身は、その後の研究も踏まえ大正6年に北千島の人々(6千年前の縄文痕跡も確認され、留頓・ルートン・Routonと仮称)はコロボックルであるとはっきり師の坪井説を認め訂正しましたが、最初に広まった巷間の誤解は今も続いていて学術的に採り挙げられていません。図右上、祖代の期間は日本史の60%(教室で語られぬ宇宙のダークマターのよう)で、人と文化の基層として、「縄文文明」と言われるようになった今、重要です。最古の痕跡は、伊豆・神津島(当時は海水面低下で恩馳も含む)から生業航海で採取した黒耀石が3.8万年前、長野高地石器3.7万年前、沖縄人骨3.6万年前、熊本石器3.5万年前などから、沿岸民の家族が対馬海峡を渡海した日本史の始まりは約4万年前からの列島拡がりというのが学界認識で、北海道は3.5万年前後です。

他方、日本には無いとされていた旧石器が戦後、相沢忠洋によって群馬・岩宿で発見されて国際意識の幕が開き各地で続々と発見され、時代と人の名称・用語に使用されるようになりました。しかし実は、英語にすれば世界と期間は違って誤解を与え、後期旧石器としてもそもそも日本固有の歴史なので新石器時代が縄文に含まれて合わず使われず、当然にして縄文、鎌倉、江戸などの他の時代用語と合わない違和感であり、また、用語が長すぎて教室での説明・議論にも不適で低調な一因となっています。相沢忠洋ゆかりの「岩宿」も学術名称にすれば、沖縄人骨や白滝石器を岩宿人で語る混乱となることから、沖縄祖人、白滝祖人が適切です。伊豆の海で世界最古の生業航海をし、大規模な陥し穴猟や環状キャンプで世界より万年早い磨製石器を製作していた祖人は、海民性・製作技術力・社会性を示し、毛皮のパンツに槍を持ったひげもじゃイメージの「原始人」ではアリマセン。今、祖人は北海道から北上を継続して、人類史注目の「最初のアメリカ新大陸移住」に関わった可能性が挙げられるに至っていることなど、世界を視野に誤解無い固有の確立と説明が国際的であるとして定めるべきです。これらのことを教室に、世界に。

図左、先般、国宝に指定された白滝石器もさること乍ら、「動物を狩る道具を越えている」と言われる神子柴石器(正に石器の神の子、マラドーナ、メッシ)はその仕上がりと共に始まり祖代と次の縄文の端境期に出現していて繋げる地位にあることが重要です。

何と言っても、祖先を知る上で静岡の浜北祖人、浜松・蜆(しじみ)塚縄文人も同地域で繋がっており、発掘が豊富な沖縄では多くの祖人と縄文人の発見が歴史を繋げ、顔の復元で南方系のイメージが得られていることも重要です。そして図右、約4万年前からの始まり時代を語るために、時代と人の名称が英語にしても誤解無く、正しく分かり易く議論しやすい言い易さが重要です。制約の中で近代科学の歩みを始めた明治の開花時代にコロボックルの語を案出し、真実追求に熱い議論を戦わせた先人の尽力に思いを馳せましょう。国際語の旧石器Paleolithicは誤解を招き、時代・人を表す日本語ではなく、縄文Jomon(特別に文明・時代・人)、江戸Edoなどと合わないです。フネを造って家族で対馬海峡を、黒耀石を求めて伊豆の海を生業渡海し、大規模な陥し穴猟をしていた祖先は、原始人ではアリマセン。話題のアイヌは、13世紀からで縄文直系ではないですから、内外に誤解のない説明が必要です。教室で教え、世界に発信です。

縄文Jomonの前、祖代Sodaiからの遺跡の遺物である北海道遠軽の白滝石器群が国宝に指定答申される遥か前から、北米最古級のクーパーズ・フェリー先住遺跡の石器が極めて似ているとの学術研究が既に発表されていました。

実は、伊豆からフネで世界最古の生業航海により求めた最古の黒耀石(3.8万年前~)で知られる東京・神津(恩馳)島の物と長野(最古級の香坂山高地遺跡3.7万年前を最近発掘)の和田峠の物が、遠く離れたさいたまに届いており、その中の尖頭器と白滝モノは似ています。白滝の方では、現生人類・祖人が北上を継続した基盤である「道東ゲートウエイ」遺跡の中心ともいうべき帯広で、今も黒耀石(昨年、1.5万年前の物)がザクザク発掘されて話題となっており、他方、長野には何と言っても祖代の至宝、驚きの神子柴石器などがあります。さいたま(伊豆・東京・長野)―白滝・道東―クーパーズ・フェリーは友達の輪?!という不思議発見(もう、ダサイなんて言わせない)です。今や文明と呼ばれる縄文Jomonは一日にして成らず、なのです。教室に、世界に。

前回報告の「(夢の)日本の始まり大企画展」に図左、ミトコンドリアmtDNA(母系)の注目すべき状況の出品です。

それは現生人類の拡散において、北米ニューメキシコで2.3万年前の足跡が発見されて最後の謎ともいうべきアメリカ新大陸移住問題の定説が崩れ、種々の事が新たな光で検討されています。そういう中で、アメリカ大陸太平洋沿岸部(西岸)に残されたmtDNAハプロ-最古Dが、北米始まり時代の大氷床の直ぐ南であるコロンビア川流域に、また、南米南端部パタゴニア地域に図のように残されていますが、なんと関東縄文人はDが最も多く、これらと類縁なのです。従って北太平洋・昆布ハイウェイ(Kelp Highway)を、ず~とフネで北上して移住して行った可能性があるという事です。無論、大陸の種族が関東縄文人に、アメリカ西岸先住民に影響した可能性もありますが、何しろ祖人Sojin(縄文の前)は北部九州への家族渡海が始まりで、沖縄へのトカラ越えや伊豆の海での生業航海の海民ですから、マンモス・大型哺乳動物狩猟族とは明らかに違い、沿岸ルートに光が当たる時代は注目されます。そういうこともあってか、図右、アメリカ新大陸移住問題において日本の教室とは全く違って、日本がさらに具体的になって北海道の関わり可能性があるとして登場している動画が近年、続々なのです。①は最新で人気が高く、コロンビア川域遡上の米先住民Nativesの古い言い伝えをインタビュー紹介してクーパーズ・フェリー遺跡が重要と着目し、北海道と石器が極めて似ているとするオレゴン州大Dr. Loren Davis の研究を紹介しています。②は近年のDNA分析成果と考古学発掘成果を総合的に検討し、アジアからのmtDNA-ハプロDは最古第1波(ハプロA,B,C,Xは後)で重要であり、また、アボリジニや日本人が5万、3(4)万年前にフネで渡っている事を挙げ、カリフォルニア沖チャネル諸島の 人骨・遺物が内陸のクローヴィス文化とは違う、南米最古のモンテ・ヴェルデ遺跡で20種の海藻が見つかっているなどの海民性からも、Dr. Edwin Barnhart 個人的には沿岸進入ルートだろうとししています。

③では、北米氷河期の無氷回廊の開く13,000年以前の北米にメドウクロフト遺跡19,000、南米のモンテ・ヴェルデ遺跡14,800年前など複数あり、人類は4万年以前に豪にボート(カヌー)で渡っており、 カムチャッカから 沿岸ルートで海産物と陸性動植物を得ながら、新大陸へは2.5~2万年前に入って沿岸を南下して行っているとしていますから、日本は北海道は出発地(「道東ゲートウェイ」)候補です。いずれにしても、日本の教室は、この問題を全く扱っておらず、扱うための祖代の祖人Sojin(縄文人の前)などの用語もないのが問題です。また、関東縄文人やアメリカ先住民にミトコンドリアmtハプロ-Yは見られませんが、アムール河口地域人はそれが60%を超え、アイヌは20%ですから異質であって縄文直系ではない学術内容も教えず誤解を放置しています。生徒・学生に教えて周回遅れを取り戻し、世界に日本の大企画展の状況を発信です。

始まりは約4万年前、曙海の畔から北部九州への家族渡海ですが、数十mの海水面の上昇で沿岸遺跡は今や海面下で、 ① 始原の遺物は数ケ所の熊本遺跡群からです。

②九州西岸~鹿児島からトカラを渡海し3.6万年前に沖縄の山下町洞窟に達しており、石垣島・港川そしてうるまの縄文人へと時代的な繋がりが見られます。北南からのいずれにしろ、大昔の南方系である曙海畔の人々(北インマレイド)と考えられ同様で、海民の世界発見最古の釣り針(2.3万年前)も出品です。③北部九州から東進した東海地方では、最古3.8万年前の伊豆から神津島への生業の航海や愛鷹山麓の遺物、祖人のレベルの高さを示す陥し穴猟の跡、浜松祖人・縄文人骨の時代的な繋がり遺跡群が人の面の実証で支え、隣の愛知・伊川津縄文人が南方系という納得の示唆をDNA分析で与えています。初めて日本列島祖代の人類痕跡を世に知らしめた群馬・岩宿、アメリカ先住民インディアンのような栃木・佐野の環状キャンプなど多様豊富な関東出品があります。➃当時は数度気温が低かったので仙台に海獣がいて北海道の暮らしの予行が出来た東北、太平洋側と大雪の降らなかった日本海側から北上した祖人が、陸奥平野の賑わいの青森に物見台と丸山などの祖代遺跡を残し、大間、竜飛の両方から狭かった海峡を越えて北海道へ行ったのでしょう。最古土器や芸術品の土偶など、北海道の千歳・道南への拡がりと世界遺産の充実の縄文へと繋がり続いていきました。⑤ 祖代からの 道内最古遺跡の帯広は、最近も縄文草創の黒耀石がザクザク発見され、「ゲートウェイ道東」から北の1.国宝指定の遠軽白滝と留まる理由もなく昆布ハイウェイの2.千島列島へと北上を継続したのでしょう。

北千島は6千年前の痕跡を有し、明治時代の先達である東京帝大の坪井教授、鳥居助教授(大正6年に見解修正)がコロボックルであるとした遊動海民の留頓(ルートン)は、カムチャッカ南南部が居住の主体だった事が研究(北大 高瀬克範)で明らかとなっており、かつての陸峡ベリンジアはまあ指呼の間で、最初のアメリカ新大陸移住問題が賑やかな現在、昆布ハイウェイ上にあって注目されます。何と言っても馬場・鳥居コレクションや大学の所蔵品、幕末の外国品を含めてあまり知られていない重要な多くの遺物が、世界に本格初公開となります。なお、13世紀からのアイヌは内外に誤解がありますが、本件祖史の論外です。そして、⑥特別出展は、今、関わり可能性が注目される南北新大陸の重要遺物で、沿岸から河川を遡上した北米最古級のクーパーズ・フェリー遺跡及び南米最古モンテ・ヴェルデ遺跡から20種の海藻含む遺物が、南米最古ブラジルのルチア人骨も顔面復元像と共に登場です。

学生・生徒は入場無料の授業としての見学としましょう。

何故、①日本史は、実証的には列島の中央から始まるのか?静岡東部の石器等の遺物、伊豆の海の世界最古の生業航海や長野高地からなのか?

人類史を俯瞰すれば、南方の考古遺跡とDNA分析から出アフリカ後の南方インマレイドの北上と分かり、②沿岸系の方が対馬へ渡るルートとして可能性が高く、海民家族の北部九州への渡海です(「大陸、半島からやって来た」は誤解で、曙海の畔からです)。にも拘わらず、1万件を超える祖代遺跡が発掘されているのに、4万年前頃の遺跡が何故九州で見つからないのか、最古熊本遺跡も発見年代は南下して行った遥か先の沖縄と同じという遅れです。それはその後の数十mもの海水面の上昇の為で、今は海面下の沿岸の海民の暮らしぶりだったからと理解できます。この事は、アメリカ先住民が示していた沿岸の暮らしが、海水面を上昇させ万年の時を経過させればどうなるかを考えれば分かります。つまり見つからないから教室で扱わないというのは誤りで、海民の沿岸の暮らしぶりだっただろうと教えるべきなのです。見つからないことが、別な重要な事を示していると教えるべきです。他方、見つけた事では、南米最古遺跡で20種の海藻が発見されている暮らしぶりなので総合すればよく理解できるのです。では③北はどうでしょう。九州と同じように痕跡が発見されていませんが、こちらは、俯瞰した北ルートのアムール河口・樺太の始まり時代痕跡が無い状況は、来なかったからなのだろうと推定されます。巷間本では北からを匂わせ或るいは南北を曖昧にしているのも見られてきましたから、来なかったのだろうと教えるべきなのです。始まりの白滝への道は、列島中央部から東西合一の青森・陸奥平野の賑わい~道内発見最古の帯広遺跡~道東端~白滝における黒耀石の利用状況分析から道東沿岸地域を北上し湧別川の河口に至り、そこでの十勝石(黒耀石)発見から遡上して行ったのだろう、不定形・簡単加工の石器が重要なのだと教えるべきです。

この日本史の始まり時代の特色のキーワードは渡海です。フネを作り、 海で 25~40kmを操作し活動しうることは原始人ではアリマセン。毛皮のパンツにヒゲもじゃで槍持って野山で動物ハントする教室でのイメージを変えましょう。植物、魚介を食し女性が大きな働きをしていたイメージも加えましょう。この渡海民イメージ・フネ人(伊豆の生業航海は世界最古)を、発信しましょう。「われは海の子」を必修とし努めて独唱のレベルへ。

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