日本の始まり探究は、世界祖史の視点からも考察すべきです。①当時は広大なベリンジア(大陸地・地峡)によってアジア(東部シベリア)がアメリカ新大陸と繋がっていました。

巷間では東部シベリアから狩猟族がベリンジアを通って新大陸に入って行ったと教えられ、実証を強調する学界すら当たり前に書いていますが、実は図右、南米南部のモンテ・ヴェルデ遺跡より古い石器はベリンジア地域では発見されていない不思議なのです。無論、北米ニューメキシコで発見されアメリカ史を数千年遡らせて議論されている足跡(子供達や哺乳動物等)の23,000年前にはお手上げです。

それで当時より海水面が数十m上昇して痕跡が海面下の沿岸ルートが注目されますが、北極海の冷水がSTOPされて「米臨海」に流れ込まないと海流が今と違って親潮寒流は無く、赤道から北上したアラスカ暖海流(冬季は南よりの風が卓越するので比較的温暖で,海水温は5℃以上と高い。流速1ノット以上)が周回していたであろう事は重要です。

当時は氷河期でしたので今とは違うでしょうが、厳しかった極寒のシベリアより沿岸の寒さが緩和され濃霧の環境が違っていれば、相対的に沿岸ルート(カムチャッカ、加・米西岸、千島も?)の移住を納得させます。そして、②間宮・宗谷海峡が閉鎖、津軽・対馬東海峡が狭小化し対馬暖流の北上は無く、日本海は言わば穏やかな日本湖(的)になり、家族が約4万年前に大筏(いかだ)で「曙海」沿岸から湖面のような状況で対馬・北部九州に移住となります。

というのは③当時は、朝鮮半島も台湾も山地であった「北東亜平野」の時代であり、未だ全くモンゴロイド化(寒冷・寒風・降雪で身体へ変化)していない南方「インマレイド」が北上(DNA分析)した沿岸海民が、北部九州に渡海して沖縄へ南下し北海道へ北上したことは、➃愛知・伊川津縄文人のDNA、近傍の浜北祖人・縄文人骨、小柄な蜆塚縄文人骨で窺われます。

筏を造り海を越えた認知・言語力から瀬戸内・近畿祖人のサヌカイトを使用する難しい石器加工や伊豆の生業航海、社会性ある陥し穴猟、長野高地への適応と多種の石器群などを納得させます。東西合流の陸奥平野の賑わいを基盤に⑤3.5万年前後から北海道に適応し、国宝の石器群を遠軽白滝に残して千島、樺太へ北上を継続し、千島と樺太・オホーツク変わりの2ルート合流説のKポイントである北千島には小柄で南方系の「留頓(ルートン)」種族祖先の6千年前の痕跡があります。

関連して興味深いのは、⑥アメリカの研究者(Dr. Loren Davis) が、アイダホ州Cooper’s Ferry遺跡の石器が北海道・白滝物に類似していると発表しています。また、コロラド川畔のケネウィックマンは海産物が主食で、無氷回廊出口の1,3万年前の子供人骨で知られるアンジック民はDNAこそシベリア系ですが淡水食が主である暮らしぶりであることなどです。巷間、石器が強調され、マンモス・ハンターが、狩猟族の暮らしぶりが祖史として一般的に描かれますが問題です。既に米国の実験考古学では、マンモスの毛と肉厚で北米石器では難しいと結果が出ています。

そして、日米の始まり史に関する記述の量が、図のように大きく違っている事にも注目です。DNA偏重のきらいがありますが、日本史期間の60%の祖代の基層は、後の現代にまで至る暮らしぶり・信仰・言語などに影響するするのに教室はよく分かっていないからと教えていませんが、周回遅れなのです。日本祖代研究会(RGaPJ)は、これらの日米関わり始まり史を将来ある子供たちに、日本史の時間に紹介すべきだと強く要求します。

最初のアメリカ人問題で注目の日本・北海道祖人(3万年前後から、最古痕跡は帯広。遠軽白滝祖人の黒耀石は国宝指定)は、図右「道東ゲートウェイ」からの2方向の北上を始めて「Kポイント」(仮称、カムチャッカ南南部・北千島)に集約されます。

そこに居た人々(留頓:ルートン、仮称)を明治の先達が論じたコロボックルとは、東京帝大の坪井教授が列島全国に石器・土器・竪穴住居跡などを残した先人を学術仮り名で命名したものです。鳥居助教授は、大正6年になって最初の調査(明治32年)のもたらした巷間の「コロボックルは居ない」という誤解を学会講演(その後人類学誌に掲載)ではっきり訂正し、北千島の相当に古い第1アイヌ(道内アイヌは遅れて存在の第2)であると実在と先後を認識してその実情を遺跡や言語・習俗に至るまで紹介しました。

しかし、残念で不思議な事ですがその訂正が学術界で今も採り挙げられることなく教室に登場せず、巷間ではかけ離れたファンタジーの扱いのままなのです。

他方、図左の静岡・浜松の蜆塚(しじみづか)遺跡の縄文人骨は150㎝と小柄であり、坪井教授や鳥居助教の認めた列島中央部における正に実証のコロボックルです。そして、近傍の浜北・根堅(ねがた)遺跡では上層に縄文人骨が下層に始まり祖代の祖人骨が発掘され、また、隣の愛知・伊川津縄文人が最新のDNA分析で南方系であり、これらの繋がりは重要です。

更に、この南方系のコロボックルが小人と伝承され北方の北千島に居たことが歴史的に重要な繋がりなのです。他方、伊豆の海における神津島への黒耀石を求めた生業航海と交易、愛鷹遺跡、東京・鈴木遺跡など日本最古3.8万年前の実証痕跡が拡がっており、これらを総合すれば実証的に日本の始まりが示されている世界遺産とすべきものです。

よく分からないからとの理由で世界に発信せず教室で扱わないのは、全く周回遅れの不適切であると日本祖代研究会(RGaPJ)は指摘し、教育と公開展示・発信を行政に対し強く求めます。

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(人類史最前線) 「最初のアメリカ人」、東アジア系の沿岸移住説が強まり先達学術のコロボックルに光!

現生人類拡散史の最後の謎ともいうべき「最初のアメリカ人」問題に、図左、北米大氷床を前にするアイダホのCooper’s Ferry遺跡の長年積み重ねた考古学分析と最新のDNA分析等から、オレゴン考古学会のDavis博士は総合的に新説発表です。

(Who?)南方北上の東アジア系(75%)と主に西・北からのシベリア系(25%)の混合種族が、(Where?)①北西太平洋沿岸から、②内陸ベリンジアからの2つの可能性を挙げて前者①の可能性が高いとの見方を示しています。

③沿岸ルートは海獣・海鳥・海産物食とフネ使用を含むでしょう。これらのことは、定説であった「シベリアのマンモス・ハンター進入説」の転換です。そして石器の分析から日本は注目と指摘されています。

日本祖代研究会(RGaPJ)は、基本的に発表を支持し以下の諸点を指摘します。第1に.可能性が高いとされる沿岸ルートはカムチャッカ南南部と北千島地域の「Kポイント」(仮称、赤丸)で集約される重要性です。

図左下(図右参考)北部九州に渡海した祖人は、北上して当時の陸奥平野で東西合流し、北海道最古遺跡の帯広・道東へ。そこで甲:千島列島を北上と、乙:遠軽白滝~宗谷~樺太と北上したでしょうが、結局Kポイントに至ります。

このKポイントは、文明開化の時代の先達が正に熱い議論で注目した地なのです。「人の祖先は猿」と喧伝された驚きのダーウィン進化論や外国人教師モースの大森貝塚発見、更に「プレ(前)アイヌ」論を受け止め、東京帝大の坪井教授は「コロボックル」(学術上の仮名)用語で列島の先人を探求する重要研究の方向付けをし、発見されていた石器・土器・竪穴住居等のコロボックル遺跡全国図を作りあげました。

第1級のフィールド・ワーカーである弟子の鳥居龍蔵は、明治32年の北千島調査で「コロボックルは伝承であっていない」という巷間の誤解に対し研究を重ねた大正6年に、はっきり相当古い北千島の第1アイヌが伝承のコロボックル・先人であると訂正の学界講演をし、その内容が人類学誌に掲載されました。

北千島の「留頓・ルートンRouton」(仮称)が、あの竪穴は父が、あれは祖父が、全て祖先が残したものでコロボックルなど聞いたことも無いという事でした。この事が誤解を生みましたが、1.その後6千前の縄文遺跡まで発見されていますがそれらは全て留頓の祖先が残した物との認識は重要、2.コロボックルは、鳥居の現地老人である助手が「コロボックル(小人)だなんてバカにするな」と怒ったようにアイヌ伝承は悪口の込められたものと受け止められるので、当の留頓達が知らなくてある意味で当然と解すべきでした。

いずれにしても、鳥居の重要なこの訂正が教室で教育されず世界に発信されていない事こそ問題です。そしてKポイントに係る内外の膨大な資料・発掘遺物が死蔵されている状況にあると言って過言でないことが問題であり、祖代研はウポポイ共生館あるいは国際展示場でホコリを払い公開されることを強く訴えます。

世界学界の最初のアメリカ人に係る最新の論議を踏まえ、図右日本祖史及び北方史の見直しを含めた研究の深化は世界に対する日本の世界学界に対する義務とも言え、研究・文化行政の抜本改善を強く求めます。

欧米先生は洞窟絵の認知力に注目ですが、筏フネを造っての海峡越え、生業航海も凄くないですか?

図左、スペインの最古物や有名な仏アルタミラなどの洞窟絵が、旧人(近年ではネアンデルタールもの、スペイン・6.5万年以前)と違う現生人類の認知力・精神性を示すモノとされて長らく欧米人内心の優越感をくすぐってきましたが、インドネシア・スラウェシ島で更に古い動物・手型の洞窟絵が発見され学界にショックを与えました。
しかし待ってください。図右、近年のDNA分析や環境を含めた考古学、特に日本の1万件を超える祖代遺跡研究の進展などから、同じ頃に筏フネを造り一日がかりで家族が曙海のほとりから対馬海峡(対馬暖流なし、40-30km)を越え、祖人(初代、縄文前)は黒耀石を求めて生業航海し広域で交易していた認知・言語力も、図左インドネシアの洞窟で舟を描いていたのも凄くないですか?
今、大氷床時代の北米・ニューメキシコで2.3万年前の子供たちと大型哺乳動物などの足跡が発見され、人類の初期アメリカ新大陸移住における昆布ハイウェイの太平洋沿岸ルートに光が当たってきています。日本列島ルート・道東ゲートウェイ北上説も注目されており、教室でこれらの始まり祖代の海民・祖人の状況を教え世界に発信し、唱歌「我は海の子」が必修曲として津々浦々で歌われますよう、日本祖代研究会(RGaPJ)は強く求めます。

図右、世界・日本の考古学及びDNA分析等に基づく世界人類拡散史の定説等により、約4万年前、現生人類・南方系海民の「祖人」(初代、縄文前)が、多少伸縮していた「曙海」の沿岸から、(当時)対馬暖流が無かった弱い北海流の海峡を越えた可能性の高い対馬から、家族渡海し北部九州に至って日本史が始まり、沖縄へ北海道へ拡散したと実証性をもって言える「1方向到達拡散」(巷間の3方向渡来図は誤り)でしょう。

3.6万年以降の祖人骨、縄文人骨への繋がり(沖縄、静岡浜松人)は発見されていますが、家族渡海のフネの実証が無いため教室で教えていませんが、実は十分推定しうる状況にあります。大きな要因は、①筏フネは、人類最初の豪への移住(5万年以前)で推定され南方で今も使用されている、②寒氷期で丸木舟用の大木が得られず、③行く手の対馬はよく見え、当時は対馬暖流(元々流速弱い)が無く弱い北海流の流れ込む海峡は穏やかで日和に筏の航海が可能、➃重要な知恵者・産婆として爺・婆が同行(家財携行)したと考えられ(スペース必要)、渡海は筏の可能性が高かったでしょう。
既に偵察したでしょう、奥に広大な緑の北部九州の存在情報があり、家族渡海は学問的に十分推定できます。問題は、ア.各家族・親族で筏造り航海か、イ.大井川の渡し的な専門集団による輸送が考えられ、いずれにしても認知力は優れ、イ.の場合、おそらく世界最古の職業(売春婦はまだいなかったでしょうから)として社会性が注目されます。
そして、筏などの木工・縛りの技術進化は入れ物袋などと共に縄の次代縄文文明に繋がることが理解できます。このように謎でなく4万年の古さに比べ十分な推定ができますから、日本祖代研究会(RGaPJ)は、教室で教え世界に発信することを強く求めます。

図左東大博物館の人骨展は、縄文から江戸時代の多様な生・死のテーマを見つめたこじんまり(スペース限定)の山椒小粒の佳展示との会員報告。

他方、祖史の本格展示が求められており、始まり初代の沖縄や静岡の「祖人骨」及び愛知・伊川津縄文人骨(南方系)など史的に意義深いモノを含め、図右約4万年前の始まり対馬から拡散した鈴木遺跡や北海道・白滝の国宝石器等の遺物も加え、「最初のアメリカ人First Americans」問題で今注目の日本ルート祖史が明らかになるように文化国家の予算を投じ大規模・一挙公開(国際展示場)して生徒・学生教育はもとより、理解少なく誤解も多い世界に発信(腹黒い国際場裡では、歴史認識は主権・政治に直結)するよう、日本祖代研究会(RGaPJ)は強く求めます。

図中、最終氷期の海水面が数十m低かった当時、よく見えた対馬、そして七里ケ曽根から沖縄に南下し、北上して青森・陸奥平野から北海道の暮らしに適応しました。

発見最古の遺跡は何と列島中央部の東京・鈴木、静岡・愛鷹、伊豆の海を宝物の黒耀石を求めて神津島に行き来した生業航海の3.8万年前から逆算して約4万年前が日本史の始まりと考えられ、3.7万年前には長野の高地に至っています。

始まりの対馬渡海は、人類が豪州への古く長距離の渡海を既に果たしていますので問題にはなりません。舟(筏)を造り、海で1日行程の長距離を上手に操作して知恵者の老人、子供を乗せて越えるのは言語力なしにはムリでしょう。

実は伊豆の航海は屈強な男たちの25kmですから謎ではアリマセンし、沖縄から北海道までの大変な拡がりからも認知力は既に原始人を脱していたと言えるでしょう。

では始まりの祖人Sojinはどんな人たちだったかといえば、人類史の拡散の状況から①巷間言われている大陸・半島(当時は無かった)から来たというのは誤解で、曙海のほとりの沿岸で暮らしていた南方系の海民であり、まだ寒地変化のモンゴロイ化の影響が無い「北インマレイド」種族の人々と考えられ、沖縄・石垣島で発見された人骨(2.7万年前)の顔復元でも納得です。

これらの事が何故、内外によく知られていないのかといえば、②実証最古で“当時の新宿”の賑わいの鈴木遺跡等に対する教室での扱いが全く適切でないことと、重要な始まり祖代Sodaiを後期旧石器時代と外来語で呼んで放置(英語にすれば、約4万~縄文始まりの期間なのに世界で誤解される)していることにあります。

大進入の無かった島国の我々、沖縄や浜松の人骨から繋がりが示されている島内変化なのに始まりの祖人が異人であったかのような印象を与え、また、今や最初のアメリカ人との関わりの可能性で注目されているのに、祖代の多くの世界考古学史上の特筆すべき事項が認識されていない問題にもあります。

日本祖代研究会(RGaPJ)は、重要な遺跡や年表の内外への周知と共に、祖代・祖人、曙海・北東亜平野・陸奥平野、インマレイド種族など始まり時代を適切に理解し、研究議論を的確容易かつ活発にし得る用語の採用を提言します。「後期旧石器時代」では長過ぎて、生徒が議論で舌を噛みます。

人の脳はリセットがない古い記憶を深部に留めており、図左目立つ花だけが日本史でない事は、AI時代に重要です。

①石垣島や愛知・伊川津の古人骨は未だモンゴロイド化前の南方系の痕跡をとどめており、浜松地域の古人骨は列島中央部で祖代と縄文の繋がりを示しています。

②日本史は約60%期間の祖代Sodaiの基層と縄文Jomonを併せた92.6%が根幹の基盤です。花々に目が向きあまり知られていない地面の下の根ですが、1万件超えの遺跡発掘で世界が注目すべき豊かな文化のあったことが知られ、始まりの対馬海峡(40-30km)の家族渡海と遺した痕跡から祖人Sojinは原始人ではありませんでした。

日本列島史上、マンモス・ハンター、騎馬民族の進入やゲルマン民族大移動のような痕跡は見られません。五月雨渡来であり、出戻り説も出ています。弥生から戦国時代、明治維新期の戦い、近畿政権の有力者の他地域赴任に伴うDNA影響は有りますが、南北に長い日本の地域性ある「列島内の育まれ変化」です。

このような南方基盤の時間的な連続性と先生は違いを強調しがちですが沖縄から北海道までの地域性・時間差ある同様なことが、時間・空間史の「断続の無い」島国日本史の特徴であり祖代断絶視は誤解です。容易でない離島生活の継続も世界が注目なのです。

図右③今、北米大氷床時代の2.3万年前の子供たちの足跡発見で、シベリアからマンモスを追って入って来た定説が揺らぎ、祖人が道東ゲートウェイから昆布ハイウェイを北上して行った日本列島ルート説は注目です。

関わり可能性のある祖人の東京小平・鈴木遺跡や伊豆の海地域の遺跡など〔北海道遠軽・白滝遺跡の石器群が国宝に指定(6月27日))が生徒・学生によく教育されておらず、世界に発信されていない現状の抜本改善を日本祖代研究会(RGaPJ)は強く行政に要求します。

Hot discussion on Footprints in White Sands and Japanese crowded Suzuki site, Izu sailors in 38,000 BP.

世界祖史の謎、図右「最初のアメリカ新大陸人」問題で、北米の無氷回廊(IFC)の開通以前(!?)とされる2.3万年前のニューメキシコWhite Sandsの子供達の足跡やチリのモンテ・ベルデ遺跡の発見により、学界の定説であった「シベリアのマンモスハンターがマンモスを追ってベーリング地峡に至り滞留し、氷河期が終わって温暖化で融けた回廊を通ってカナダ・米国から南米にまで拡がった」という定説は揺らぎ、今、白紙化の争鳴状況にあります。

内陸の通路が閉まっていたなら太平洋沿岸からではとなり、100mを越える海水面の上昇で痕跡の発見は極めて困難ですが、太平洋沿岸ルートは出発の北海道「道東ゲートウェイ」から昆布ハイウェイの生活好条件とも相まって注目されています。そうなれば当然に、約4万年前から北部九州に家族渡海して3.5万年前後には北海道に拡がって祖人が暮らした日本列島に目が向き、沖縄の3.6万年前の山下町の洞窟祖人骨や2.7万年前の石垣島祖人骨が実証遺物として世界に知られてきています(図左下も)。しかし更に古い日本いや東部シベリア・太平洋地域における重要な3.8万年前の実証最古の遺跡・活動である、①当時の新宿ともいうべき賑わいの東京鈴木、静岡愛鷹(あしたか)遺跡、②伊豆祖人が黒耀石を求めて神津・恩馳島を行き来した生業航海などが未だよく内外に知られていないのは、図左上学術・文化教育行政の問題で、 北海道・白老のウポポイ共生館に比し国宝級の重要遺産の扱いがあまりに酷いです。日本祖代研究会(RGaPJ)は、次代の子供たちの為にも抜本的な改善を強く求めます。

現生人類は、何の得もなく、疲れ、腹減り、喉渇き、塩と汚れの付くだけのサルとAIはしない事をした者です。

但し、それが人類の渡海という偉業に道を開いたものと思いますが、案外子供の遊びが重要だったのでは? 当時の暮らしは、沿岸部は100m級の海面上昇で発見困難なため証拠がなく、現代の学校教育では 毛皮パンツの槍持ちばかりで 教えてくれません。約4万年前の祖代から日本列島の海辺から高地まで、確かな暮らしがありました。DNAが万能なように語る学者がいますが、軽視される祖代・縄文で日本史期間の92.6%の基盤を成しており、文化・習俗・信仰・言語・・・影響は大きく、近隣諸国との違いの理由の基本的な要因でしょう。原点を見つめることが保守の基本です。

日本史の始まりは、図左3.8万年前の鈴木・愛鷹・神津島等の実証遺跡から逆算して約4万年前とされ(学界主流説)、曙海沿岸からフネ(筏)で40-30kmの対馬海峡を家族渡海して北部九州に至り、沖縄へ南下、本州を東進移住して行きました。

近年の研究で、沖縄はもとより本州における実証人骨の解明によっても裏付けられてきています。図中東京小平・鈴木遺跡は、発見日本最古の3.8万年前の当時にあって正に現在の新宿を思わせる賑わいの地であり、周辺遠隔の地の多様な遺物が豊富に発見され、知的レベルと社会性を示す陥し穴猟も行われていました。祖人は長野の高地でも活動し、関東・甲信越の繋がりを果たし、青森・大陸奥平野へ太平洋・日本海両側から北上して狭かった津軽海峡を越え、3.5万年前後に北海道の暮らしに適応しました。そして今、最初のアメリカ新大陸人関りの可能性が挙げられる状況なのです。問題は、図右当時の状況をよく示す国宝級鈴木遺跡が世に知られず、地元の学生・生徒ですらその意義と実態をよく教えられていないことです。文化・教育行政の貧困の改善を、日本祖代研究会(RGaPJ)は政治に強く訴えます。なお、観光開発というならば、群馬・岩宿遺跡や神津島をはじめこれらの世界的に重要な祖代遺跡を祖人の活躍の状況を連携してPRすべきです。

北海道の小人コロボックルは、ジョン・セーリスの「日本渡航記」(1613年)が初出でその後も種々記述され、①北海道調査の松浦武四郎も注目して絵にしており、伝承はアイヌが入れ墨を真似た、背丈低く漁に巧みで、アイヌとのトラブル被害で道東から北に(千島)去ったとされ、樺太、北海道、南千島で広く伝承(北千島では無し)されています。

②文明開化期の明治時代に、日本人類学の祖とされる東京帝大の坪井教授は、北海道における竪穴遺跡と石器・土器やアイヌからの聴き取りなどの現地調査を行いました。そこからアイヌの伝承は信頼できるとしてそれを踏まえ、学術用語コロボックルという仮り名を定めて列島史始まりの石器人問題を学界として活発に論じ合いました。結論的に、弟子のフィールドワーカー鳥居龍蔵は大正6年に学会講演で、明治32年の調査から広まったそれまでの巷間の誤解を改める「北千島民(仮称:留頓ルートン)は相当古い第1渡道のコロボックルである」と明言しました。札幌大の瀬川教授も現代の学界人として本件を扱い、坪井説と同じく現地調査を重ねたジョン・ミルンの研究に仮託しつつ事実であるとの認識を示しています。注目は③この小人コロボックル伝承は、(独)ベルクマンが唱えた寒冷地の動物は同種他地域のものに比し大型化するという説に反している事ですが、逆に言えば南方から北上した古い「北インマレイド系」(仮称、東南アジアの古種族インマレイドを、古モンゴロイドとした呼称は欧米学者の偏見用語で、モンゴロイドとは寒冷・降雪・寒風環境で身体変化した新種族)で、青森から北上したとされる遺跡・遺物の考古学分析 (全国1万件超え祖代遺跡) と符合します。➃鳥居調査で、あの竪穴は父が、祖父が、・・・ずっと昔の祖先がと北千島民は答えており、近年の北千島の研究で6千年前の縄文遺跡が確認され(ワシントン大 Dr. Ben Fitzhugh)、また、北千島民はカムチャッカ南南部がむしろ主体だった(北大 高瀬克範)事が明らかになっていますが、気候条件がより厳しい地域に遥かな昔に「道東ゲートウェイ」から北上して行っていたというこれらの事は重要です(食豊かな処女地の魅力だったか)。

今、人類史の「最初のアメリカ新大陸移住First Americans」問題で、北米が大氷床で覆われていた時代に南のニューメキシコWhite・Sandsで2.3万年前の子供達の足跡が発見され、カナダ西海岸では1.4万年前のここは氷床に覆われていなかったTriquet島で海獣食の村人の木槍・銛などの暮らしの痕跡が発見されて沿岸ルートが注目される重要な内容をテレビが報じているのです。「誰が」の候補は、日本列島・千島樺太ルートでは縄文人ではなくその前・先代の祖人コロボックルということになるのですから、学説史としてのコロボックルとともに現代の課題に関わるこれらの事を教室で教え、世界に発信すべきであると日本祖代研究会(RGaPJ)は政府に対し、声を大にし強く要求します。

図中、世界第1級の研究機関である(独)マックス・プランク研究所の教授が、9千年いやそれ以前から日本語はアイヌ語だったという驚きの動画を発信(9千年前に何があったの?)しています。

図左下、日本語とアイヌ語の接触はそう古くはない論外の事ですが、政府・学界から訂正の申し入れもなく放置されています。図左、明治期の文明開化の日本考古学の祖モースがプレ・アイヌ(以前)としてはっきり違いを認識して始まり、東京帝大の坪井教授がアイヌ聴き取りを踏まえた北海道での現地調査後にアイヌ伝承のコロボックルを学術用語として採用し、祖史探求の自由活発な論議を始めたことから、現地調査も行ったミルンも坪井説の支持を表明しています。図右明治32年の北千島の現地調査で当初の残念な誤解が世間に広まったことがあったものの、優れたフィールドワーカーの鳥居龍蔵が、大正6年に北千島民はコロボックルであるとして(坪井教授説を認め)、学会で講演し人類学誌にも記述されたことが現在の基本認識です。そのコロボックルが小説で加害者として描かれ、あるいはファンタジーのおとぎ話のまま学術的に無視されて教育されることも無く、学問史で貴重な坪井教授の遺跡図が教室に貼られることもありません。北海道新聞では、鳥居龍蔵が坪井説を否定したという誤解のまま堂々と報道されています。他方、被害者コロボックルが、中條(宮本に変更)百合子により加害者として小説に描かれた事も正されずに放置されたまま、親しみある神様やファンタジーのおとぎ話になって今も語られています。勿論学問的には、アイヌ文化は13世紀からで、図左下のように言語学的にも日本語とアイヌ語の「両語の接触」はそう古くなく、9千年など全く論外で問題になりません。このような状況で図中下、アイヌを、アイヌの、1万年と誤解させる祭りが行われ、また、日本史教育においては北海道日本人が白紙になった時期があると誤解させる、世界の知る人が呆れロシア・プーチンを喜ばせる内容が将来を担う子供たちに振り撒かれている「子供脳のいじめ」です(「お母さん、土器作りしたボクの擦文人は何処に行ったの?」)。図中コレらのような誤った日本史内容が国連UNや国際社会に広められがちであり、コロボックルは正しく知られず、跳ね返って日本にも大きな害を及ぼしています。

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日本祖代研究会(RGaPJ、略称:祖代研)は、加害者やおとぎ話とされる学術用語コロボックルと日本人類学の祖である坪井教授の復権について、政府と日本学術会議により速やかに内外の誤解を正す是正措置がとられるよう、強く求めるものであります。

人類史の初期アメリカ新大陸移住に、日本ルートが登場して注目される北千島民の留頓(ルートン)は、かつてはカムチャッカが主体でした。祖先の物という6千年前の縄文遺跡も注目です。明治明治期の文明開化で東京帝大坪井教授が、日本の起源を探究する議論の学術用語としてアイヌ伝承から採用した仮り名コロボックル、北千島からやがて研究が進んで沖縄までコロボックルとなっていた事でしょう。

しかし、明治32年の鳥居助手の現地調査を期にコロボックルは実在しないことと受け止められ、熱かった学術議論も立ち消えに。その後教授は逝去され、十数年を経て 各地のフィールドワークを重ねた鳥居龍蔵が、特に無言交易などに着目して大正6年に、北千島のアイヌは第1渡道(アイヌは第2)のコロボックルであると学会で発表明言し、人類学誌に掲載されましたが、諸事情から用語が学界で復権することは有りませんでした。そして18歳の女子大生作家として鮮烈なデビューを果たした中條(後の宮本)百合子が、鳥居のコロボックル実在講演の翌年(大正7年)にアイヌ豪族の娘であり英人でキリスト教宣教師の養女となった年長者の案内で開道50年の北海道東のアイヌコタンを訪問し、「風に乗って来るコロポックル」を発表しました。ところが何故か、アイヌ伝承では被害者のコロボックルが、小説では主人公アイヌの前に複数が風に乗って現れ、悪戯し悩まし騙し宝物を強請ってくれねば罵詈雑言を浴びせると懸念させるような加害者イメージの敵役・悪訳として描かれていますが、全く不思議な事です。そして、その後は童話でアイヌの中の悪い者を懲らしめる蕗の下(小さい人の意)の神様や、ファンタジーの妖精などとして描かれ、最後の北千島コロボックルの田中キヌが没したことからか、もういないと絵本の題名になり、学術とは完全に切れて様々な内容のおとぎ話や商品にまで使用されて今に至っています。仮に大正6年のフィールドワーカー鳥居龍蔵の認識が、明治32年の現地調査後に示されて学界の研究が継続し、鳥居講演の翌年に中條百合子が描いたようなアイヌの敵・悪役でなく伝承どおりの被害者の北千島民であった内容で補強されていたならば、坪井教授のコロボックル(全国)遺跡図は、北千島、北海道のみならずあの大森貝塚コロボックルとして内外に学術的なインパクトを与え、その後の研究進展に測り知れない好影響を与えたであろうと思うと誠に残念です。

問題はそれらの事が明らかになった今も、用語コロボックルを案出して自由闊達な議論を行い、祖代(後期旧石器時代)・縄文時代からの日本起源論を探求し続けた坪井教授が復権されず、明治来の先達の苦心の努力が正しく教室で教えられることもなく、海外に発信されていないことです。日本祖代研究会(RGaPJ)は、それらの事と日本起源論や北海道祖史の抑圧の無い自由活発な議論を強く求めます。時代は、人類史の初期アメリカ新大陸移住に日本ルートが登場しているのです。

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