(夏休み宿題参考) 人類史の食を考える、漁撈民と長期選別改良の東南アジアに注目!

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生臭い刺身を、海の雑草を食べるなんてと言っていた欧米先生が食べだしたのはそれほど遠い事でなく、そのためか人類史は主に狩猟と石器で語られてきました。

しかし、①華奢で皮膚丸出しの新人が厳しい生存競争の中を生き抜いたのは、水辺の食にあると言われています。アジアに関わる出アフリカの揺り籠と言われている東部アフリカには大河と湖沼が多く、豊かな魚介類食こそ新人が見出した競合のニッチで、脳や精に効くDHA、EPAを含む優れモノでした。質量充実した脳を持ち東進した新人は、他の動物は越えない異相線を筏(フネ)で進んで行き豪(6万年前)にまでに至ったほか、早い時代からマグロなどの外洋魚を獲って食しています。実験航海(コン・ティキ号の南米~ポリネシア筏航海)によって、筏には、魚や蟹などが寄って来る、乗り込んで来る小島のようなもので、スコールの水があり、豪へは最大90km以上を航海したと考えられています。また、最古の耕作痕跡から5-4万年前には自然に手を加え芋などの栽培に着手し、長期間かけて選抜改良してきましたが、これは海の魚介の幸、森の根菜類や果実などの幸に恵まれた地で種々の例と余裕の元で試行されたものです。サウアー博士は、鶏・豚の家畜化のように選別が行なわれて、農業の前に東南アジアの漁撈民の庭から中東より遥かに早く栽培農耕が始まり、水稲稲作が(南)中国や日本に伝播し高度化したと言っていますが納得です。②稲作と言えば長江ですが、そもそも「貧相な雑草」の野生イネを最終氷期が完全に終わり、1万年前頃に本格的に温暖化してから選別改良して栽培化し得たか疑問で、漁撈民による伝播があった(DNA分析による支持説)のではないでしょうか。日本に関しては、始まりが500年早まり、必ずしも大陸の戦乱逃れ民による持ち込みの導入説でなく種々議論があるようですが、漁撈具を伴う登呂の水田稲作遺構は原型的で興味深い事です。唱歌「われは海の子」を必修に。

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