タイ東北のバンチェン遺跡は、1967年のテストサンプルの測定で7,000-5,000年前と出ました。その後、定住し始めた人々は、5,600~1,800年前頃まで文化の華を咲かせていたとされています。

最初の発見は、1957年に自宅建設中のお医者さんが彩色された土器壺を見つけて学校に贈り、その後も見つかった古い土器は学校に展示されました。

66年に米ハーバード大の学生が人々の生活の調査に来て多くの土器片を地上で見つけてタイ美術館長に届け、館長はタイで見たことのない先史時代の遺物と判断し、テストサンプルを米ペンシルベニア大に送り、前述の測定結果となりました。

バンチェン遺跡と言えば、ユニークなデザインと鮮やかな彩色の土器類です。

陶器

ところが、82年からのペンシルベニア大とスミソニアン博物館による米国巡回展示のタイトルは、「バンチェン-失われていた青銅時代の発見」でした。

青銅

青銅文化は、5,000年前頃中東で始まり、2,500年くらい遅れて東南アジアに伝わったという定説の大変更を迫る発見の衝撃でした。バンチェンの物は、この遙かな遠隔の地で5-4,000年前頃からのものです。

それは、その後の鉄器時代をも経た連綿と続いた文化であって、東南アジアに対する見方、認識を大きく変えるものでした。

銅は周辺の地域から、錫は、ラオスの古都ルアンパバーンや現首都ビエンチャン地域からのものとみられ、タイ-ミヤンマー国境地域からのものも考えられるという広域にわたる交易状況も明らかになっています。

そして、これらメコン川流域のラオス大都市の何千年前からの由来も想像させます。

中東から伝わったのだろうか、楽園発だろうか、タイ東北の楽園の一隅だけのことだろうか、楽園の他の地域や沈んでしまった楽園中央はどうだったのだろうか、考させられます。そして、昨年末の期末試験後に飛んだ錫の名産地、ジャワ海のブリトゥン島が想い出されます。

いよいよ本題に入ります。まず、最初に感じましたのは、副題のとおりです。プミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ9世王) (1946年6月即位)は、考古学や博物にもご関心を持たれて各地をご訪問されていますが、1972年3月、妃殿下とともにバンチェン遺跡の発掘現場をご視察されました。

「それらの貝は、淡水からか海水からか分かっているのか?」

「遺物は発掘現場で見たいと思っているが、何故、これほど多くの遺骨や彩色土器が出てるのか? ここは墓か?」

「赤く彩色された土器は、焼いた後で彩色したものだな?」

「遺骨の年代測定は、できてるのか?」「バンチェン遺跡は、国際的な関心事であり、年代測定には、皆の協力と参加が期待できるし、より信頼度が増すだろう。」

「この遺骨が第1、第2ピット(穴)よりも古いというのは、深いところにあったからということか?」

「ここに居た古代の人々と200年前にここに移住してきた人たちに何か関係はあるのか?」

国王と妃殿下のご視察は、遺跡が特筆すべき国家的な考古学遺跡であると関係者に認識させ、それらの協力、バンチェン遺跡の永続的な保存と発展を呼び起こすこととなった。                                      (バンチェン国立博物館ガイドから)

国王と妃殿下のご視察は、74年米ペンシルベニア大学との共同調査、75年国立博物館開館、80年ニュージーランドの大学の調査参加、ハワイ大学の遺骨調査、82年から4年間の米国巡回展示、次いでシンガポール展示、83年ケネディ財団の博物館への資金支援と国際化し、92年、遂に世界遺産に登録されました。

2006年に博物館はリニューアルしていますが、現場の考古学調査の状況も展示されています。現時点、東南アジア最古の遺跡の世界遺産です。

BT舘入口 博物館敷地 展示 人骨現場展示 見学奈良青銅器 土器など

なお、敷地にたなびくタイの国旗が、インドネシアの紅白国旗を2つ上下に置き中央に幅のある青い帯を入れたものだと気づきました。日本は白地に赤丸で、3者が類似の親戚ものだとあらためて感じました。

期(学年)末試験を終え、早速、遺跡見学にアジアの楽園北部、タイ東北にある東南アジア最古という世界遺産バンチェン遺跡(7-5,000年前頃~1,800年前頃まで)を見学に行って来ました。旅行社で格安バンコク行きを買い、試験前なので遺跡の概要と行き方とバンコクでの見物をチェックしたくらいで出かけました。

ところが、ジャカルタの空港で便予定を確認したところ、時間、便名はいいのですが、行き先はこれまで何回かトランジットしたことがある市街東部の空港ではなく、北部の空港であることが分かりました。確かにバンコクの国際空港だそうですが、いやはやです。

バンコクなので、お寿司は控えるにしても旨いうどんにはありつけるだろうというささやかな期待はしぼみました。それはさておき、言葉も字も全く分からないタイ東北ウドンターニー(以下、ウドン)の田舎に行くプランは変更を余儀なくされました。大体、東京から青森に行く感じです。

今は海の上、かってはアジアの楽園だった上空を飛びますと生き残った島々が見えます。それにしても楽園は広かったなあ、多分何か痕跡はあるのだろうなと思いつつ。4時間で正午前に北部空港に着きましたが、駐機の飛行機も少なく記憶にあるあのバンコク空港での各国機の賑わいはなく、港内の店数も比較になりません。

うどんは全く無理と諦めました。Informationで行き方を聞きましたところ、お嬢さんが私の行きたい所をあの難しいタイ字で書いてくれ、外のバス乗り場〇番で〇〇行きに乗り運転手、車掌に見せなさいと言ってくれました(私にとっては通行手形)。

空港からの町のバス停と東北行き長距離バス乗り場は離れていますが、我々を町で降ろした後、空港へ戻るバスが、あんたはそのまま乗っていなさいと言い、途中、近い所で降ろしてくれる親切でした。

あとは、近くの店、バス乗り場、窓口、・・手形を見せて少しづつ進み、昼パンを買って便数の少ない出発10分前の東北行バスに乗れました。(実際の出発は、予定の20分後)

バスの予定では、到着は正に真夜中ですが何とかなるだろうです。実際、バスが着けば3輪トゥクトゥクの運ちゃん達が来て、値段を交渉して近くの適当な宿まで連れて行ってくれました。

出発してしばらく窓外を見てましたら、1時間ほどするとアレッ!?ラオスかな?カンボジアかな?という景色になってきました。

そして、ホントにびっくりしました。幹線道沿いに点々とあるローカルバス停らしき小屋があのバンドゥン・スンダの2段式屋根なんです。そして、看板で地名を確認すると(右下)ウドンにもバンドゥンがあります。

考えてみれば、バン コクなんですから、行きたい遺跡バン チェンがあり、バン ドゥンがあって不思議はない訳です。何せ楽園内のことですので!!。違う国、遠い遠い違う所というこれまでのイメージが、現場で変わりました。旅程は長かったですが。

2段屋根  タイのバンドゥン

2段式屋根、地名について、どっちからどっちに伝わったのかですが、アジアの楽園が沈んだ(7,000年前)後、3,500年前頃以降、学界では台湾-フィリッピン経由でアジアの楽園南部に人の大きな移動があったと考えられていますので、これもそのある時期ウドンターニー方面の方から南下し、ジャワ島スンダに伝わったのではないかと考えられます。

かって万年の昔、北上して行った人たちの子孫が、気候風土の違いから肌の色や容貌もすっかり変わり新たな経験を携え、長い年月の里帰り移動南下したのでしょう。そして、タイ東北のバンチェン遺跡などが川沿いにありますので、家財具・動物を積んだ船が活躍したと思います。

タイ東北遺跡 川沿い遺跡

タイ東北のバンチェン遺跡など  同遺跡は、川沿い(バンチェン国立博物館から)

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