巷間本から、第1図のルーツは内陸3方向から図が消え、(2代目の)縄文人は何処から?という愚問も消えて歓迎ですが、そのためにもやもやで、未だ「沿岸ルート」を言いません。ところが次いで重要テーマである第2図文化地域区分で、間違いの3区分説図が登場して来ました。見にくい図ですが、縄文早期に至っても斜線をよく見ると4区分とすべきことが分かります。

重要なことは、巷間本は①始まりルーツに係る「曙海」沿岸である九州西岸(五島~薩摩)から沖縄地域の繋がりを全く認識していないこと。②津軽海峡で分かれず、祖代はもとより円筒式土器など両岸は共通であること、③中央部で東と西の複合性(現在の関東やがて甲信越・東海含む列島中央部)があることで、この4区分は実は相当長く日本列島文化を認識するベースになり、やがて縄文を過ぎると「西」が注目されるのは承知のとおりです。そして第3図、始まり時代における南方から北上して適応した拡がりと定着、約2万年の「日本祖人」文化の基層を認識していません。北海道「日本祖人」は、世界が注目する「最初のアメリカ人」の候補である可能性が全く巷間本には出てきません。3区分図は、どこから導かれるのか不思議で、史実を全く無視したアタマの産物の酷いものです(歴史説明本なのに!)。


中田君(第1図)が教わった学校がそうだから仕方ありませんが、「大陸と繋がっていた頃、やって来たヒゲもじゃの槍持った・・・縄文」です。今も巷間本にある、日本史の始まりに対する「さらっと」さと関心が縄文から始まる誤りです。その言い訳は、「This is 日本祖人の人骨が無いし」ですが、復元された石垣人や港川人などからのイメージは、時代と場所から十分に「祖人」を窺わせるものなのです。

1万件を超える遺跡から、始まりは約4万年前・九州で考古学者に異論無く、「日本祖人」は、大陸とはとっくに繋がって「いなかった」海を家族で越えて渡り、九州から北上して3万年前には北海道から沖縄までの列島中に拡がり、生活の痕跡を残して切れ目なく次の「縄文人」と呼ばれるようになったことが実証されています。既に、造舟、海洋操舟、陥し穴猟、釣り針など世界でも誇るべきものがあり、極めつけは38,000年前からの伊豆半島~東京都神津島へ、黒耀石を求めて20km以上の海を行き来し、広域の交易までしていた事です。 私たちの基層の文化・習俗となる長い 2万数千年間の「縄文人の親」たち祖先の世界的な偉業です。とても軽視できる時の重さじゃないのです、「ヒゲもじゃの槍者」は勘弁してください。彼は、「元々日本はどうやって始まったのか」という良い問いを発してますが、デタラメで答えになっていない説明が酷過ぎます。

問題はそういう事なので、第2図、雪と寒気の北海道に家族で渡って行って適応を果たし、道内に拡がった北海道「日本祖人」が、世界注目の「最初のアメリカ人」の候補だなんて、中田君には全く思いもよらないのです。子供たちは
(学校の先生も)、道東の状況や遠軽白滝はもとより、「昆布ハイウェイ」もベリンジア(地峡)も知らないので、国際的な場で大恥をかくことになるのです。もう、これは文科省の罪です。


大阪で地形史の研究が、文献・日本書紀や生國魂神社の社伝を実証(長浜浩明:日本の誕生)しました!  神武天皇の長すね彦との戦闘に至る重要記述の実証ですが、その前後の記述を検討すれば、神武天皇の東征・建国に関する記述は、北部九州以外の西日本を統一化した、日本祖代―縄文時代以来の列島史の大転換の画期だったと言えます。日本祖代~縄文時代~建国時代~古墳時代~・・・。

戦後は、ギリシャ神話は教えても肝心の日本の神話を教えない異常な状況にありました。荒唐無稽なギリシャ神話に比し、より史実を感じさせる神武天皇の建国に至る話の戦いに至る部分の一部が、大阪の地形史の分析から実証された意義は大きいです。紀元前1000年前から大和王権樹立頃までの当時の東アジアの状況を俯瞰すれば、神武天皇の建国は意義深く、これまでの魏志倭人伝偏重の史観に転換を迫るものです。稲作北上の”足踏み線”以北の北海道にまでに至る主体の「縄文派」を視野に入れて考察すれば、建国が日本史上の注目すべき大転換の事象であったことが分かります。正に長浜弘明・「日本の誕生」と共に、子供たちに日本史の重要事象を教え継がねばならないと考えます。

第1図、青森・津軽(青円)は、①世界最古級の大平山元土器(縄目なし)、②縄文イメージ一新の三内丸山居住跡、③江戸人も驚き求めた名品である亀ヶ岡土偶と、万年の縄文時代の前・中・後の全期を通じて先進性がありましたが、それは太平洋、日本海、津軽海峡越えの異文化の接触が大きな要因であった事でしょう。

ところが、第2図、秋田と共に「日本祖代」(始まりの九州から列島中に拡がり定着)を感じさせるHB抗原ウィルスの南方型が多いという特徴があり、南A北Bから列島に影響を及ぼした大陸内陸型が最も少なかったという歴史で、次いで図のように高知や東日本が少ないことからも納得です。大昔からの人が維持された「奥の院」のようですが、この事も縄文先進であった事と共に注目されます。他方、北からの影響は南ほどではなかった事も分かり、鎌倉時代に北から北海道に入って来た事が始まりのアイヌもかなり南方型が入っているとみられ、純粋に北の大陸内陸型であればあの入れ墨も考えられず、後発の日本人です。いずれにしても、東北北部人は、私たちの日本史の最古を維持して来ています。

約4万年前に九州に家族で渡って来て列島に拡がった「日本祖人」 の時代 は、黒耀石は狩猟のための石器などとして使用される宝物でした。東京の神津・恩馳島(国立公園)は良質な黒耀石で知られ、今も海底に見ることが出来ます。

そして、島から持ち出された黒耀石は、南関東から東海地方の広い範囲で見つかっており、特に伊豆半島東海岸の桜の名所である河津町の見高段間遺跡は、縄文時代に黒耀石を加工した工房跡も見つかっています。それらの黒耀石の微量のウラン238は、自発的に放射線を出していて、そのウラン濃度を計測すると生成された時点からの時間経過が分かります。従って、どこかの遺跡で発見された黒耀石と神津・恩馳島の物の放射線を比較することで、同じ場所の物かどうかが蛍光X線分析装置によって分かり、いろいろな遺跡で出る黒耀石の「原産地が特定」できます。

更に、中性子放射化分析で年代が分かり、約38,000年前からの黒耀石が島から採り出されて各地で使用されていることが分かって、舟で行き来したその行動の世界最古の古さに驚かされるとともに、島へは半島南端から約55kmもある海域を黒潮分岐流を横断して行かねばならないことから、新聞が人類史の謎として報じた正に金メダル級の事なのです。

ところが、当時の状況などから仔細に検討すると、十分可能なことが分かって来ます。まず、①「日本祖人」は、そもそも始まりから舟で朝鮮海峡30~40kmを九州対馬(又は五島)に渡って来た海民です。②当時は氷河期で海水面が約100m低下してましたので、石廊崎沖9kmの神子元島は陸続きで、何よりも東京諸島は大島を除き島と島がかなり陸続きでした。③海域は従って半島と諸島に挟まれた「伊豆海峡」ともいうべきで、最狭部(城ケ崎~大島)は10数kmでしたから、日本祖人には十分可能です。④以前の 報告 の訂正ですが、どうも当時は黒潮は四国くらいまでしか北上しておらず、「伊豆海峡」に流れがあればむしろ北からの親潮分岐流でした。さて、行き来検討の一番のポイントは、東京諸島側は漕ぐことなく綱で舟を曳いて海岸を歩くことです。舟を 漕ぎ 続けるよりもずっと楽 に移動 きます。

例えば 下図 、行きには城ケ崎から太陽方向に漕ぎ出していけば、北からの流れに流されても諸島側に着き、恩馳島に歩きを多くして行けます。帰りは歩いて利島まで行き少し漕いで大島から城ケ崎に向かえば、流れに押されても河津あたりにムリなく着きます。そして実は、河津の見高段間縄文遺跡が注目されます。行きに太陽に向かって河津を漕ぎ出すと、流されてムリなく新島あたりに着きます。

そして、宝物を積んだ大事な帰りですが、利島まで海岸を歩き大島を漕ぎ出せば河津の浜に着きますが、それは有名な縄文遺跡の見高段間丘陵 (東小学校の丘) と今井浜なのです。

即ち、見高段間遺跡は縄文時代からでなく、父祖が開拓した「日本祖代」からの、 目立つ 最適な、宝舟の発着する賑わいの交易地域であったものと考えます。今井浜のかがり火で、みんなが踊る姿が目に浮かびます。

この 祖先の 偉業を、学校で全く教えていないことが誠に残念です。

いろいろなことのあった今年も暮れです。日本始まりの「祖代」痕跡を追って来ましたが、それが今と何の関係があるのかという声も無い訳ではありません。
さて、下第1図は祖代3万年前の栃木佐野市に残された石器群の痕跡で、学者先生が分析すると遊動暮らしの「日本祖人」のキャンプ痕跡ということです。

また、次の代である縄文時代の秋田大湯には、大きなストーンサークルがあり、葬送儀礼などのモノと考えられています。万年前のこれらは、何故か落ち着きの良い「ま~るい」形です。そして右図、栃木の餃子の皮も、人の集まりでも昔から「ま~るい」形が落ち着きが良いのです。考えてみれば、ライオンが車座になって獲物を皆で食べるとか、アタマの良いイルカが円陣で何かするとは見聞きしません。やはり受け継いできた大昔からのヒトならではの伝統だと思います。除夜の鐘がうるさいなどと言わずに煩悩を反省しましょう、 今現在、大変なお取込み中の議員さんなどもおられますが、まあ皆さん、 令和“輪”元年いろいろありましたが「ま~るく」納めてよい年をお迎えください。


石器に残された(第1図)当時の暮らしぶりの変化から、わずかな発見人骨や遺物(海を越えた黒耀石採取・交換、陥し穴猟、釣り針などを含む)を基に、年表を作成する(第2図)と表題のように思われます。教科書では「旧石器時代後期」という用語ですが、当然に欧州とは違いますので誤解の元です。

始まりの「祖代」(Sodai)は、列島中に拡がって地域に応ずる海・川辺と内陸での同様の生活が確立された①前期、九州はもとより西日本に大きな災害をもたらした姶良大噴火と世界的な最寒期に襲われた自然対応の②後期、そして寒冷から温暖化によって草が減って大型動物が絶滅に向かい、中型以下の動物を獲るに適した細石器の工夫を携えた北方系の人々が北と西から影響を加えた変革の③晩期と区分されるでしょう。この長かった祖代は、現代の我々から見ても激動期と言って良いと思います。この時代を乗り越えた経験は大きな特色であり、縄文時代にも噴火や寒冷化・温暖化はありましたが、総じて定住・弓矢・土器の行き渡った四季に応ずる生活文化の熟成が果たされた「縄文文明」期になります。

「祖代」は原始時代とされ、何かというと縄文から語られることが多いですが、2万年を超える激動のこの経験なしにはとても縄文文明は語れません。何を信じタブーとし、良し悪しとし、旨いと感じ、物作りして交換し・・・、長かった祖代に基礎は築かれたのだろうと考えます。そして、 この祖代・縄文時代が習俗・文化の基層となって、その後の渡来文物や激動を吸収し発展させて来たものと考えます。


人類史は下図の番号をたどり、出アフリカを果たした湾岸②湾岸民・南方人インマレイドの人々がユーラシアを③北上し、降雪寒冷の地に適応して④身体そのものが変化した寒冷人モンゴロイド(吹雪寒風に適応した細い目、低い鼻と張った顎の平たい顔、熱放射少ないずんぐり、乾いた耳垢など)になって北の壁から波が返すように今度は⑤南下して来ました。

欧州正面では、南下したバイキングにこの身体の寒冷人化が無かった点が違います。そして、アメリカ新大陸には、3.2万年前には達していた北海道「日本祖人」が候補であり、北の壁で変化した寒冷人が東進して入っていったと考えられます。さて、日本人は最初の③の波に洗われて1.5万年間くらいの基盤が出来上がった後、寒冷人の波が北から西から及んできたものです。大陸は、寒冷人の波が南方にまで及びましたが、日本などの島嶼への影響はそれほどではなく、アフリカ、豪州アボリジニには殆ど及んでいません。なぜ、近い中国などの大陸人と日本人の言葉や暮らしぶりが大きく違うのかは此処に理由があります。多くの本や博物館が図で示すような、日本人は、西から北から南から人々が入って来て混じり合ったということなら、大陸の人たちとこんなに違うことになりません。

即ち例えば、A.まず味噌汁そしてお刺身、ご飯を食べ、豚しゃぶに箸を伸ばし漬物もという食事を、B.味噌汁・刺身・ご飯・豚しゃぶ・漬物をどんぶりに入れて混ぜて食べるのとの違いを、胃に入ればAもBも一緒だからと言っているような不適当な事です。どの順番、時期、量がとても重要な事なのです。某学者が、日本には古代に100万人レベルで西から大陸人が入ってきたと言いましたが、今では否定されています。西と北の玄関地域には当然に量も多く、荒々しく入って来たこともあったようですが。日本史を見ると、東北大震災の比ではない2度の南九州大噴火が祖代と縄文時代にあり、これを乗り越えた事のほうが大変で、総じて吸収し混じり合ったと考えてよく、大陸のように大殺戮・交代ということはなかったようで、 今や縄文文明とも言われる後に続く日本の島嶼文化の基礎です。 さて後は、「最初のアメリカ人」と北海道「日本祖人」の関連に注目です。


日本文化の基層は南方系であると言われて来ましたが、DNAはもとより下図のスンダランド、北東ア平野、曙海などの始まりの地形認識もなく、習俗の分析からそういう認識に至った明治以来の先人学者は素晴らしいことです。Tanya Smith前ハーバード・豪Griffith大教授が、DNA分析から現生人類がインドネシア・スマトラ島に7.3~6.3万年前には達して居たと発表しました(第1図)。

近年、豪州へは前回報告の壁画のスラウェシから、北廻りでの可能性が高いという発表(上図下部)があり、達したのも6万年前という数字が北部遺跡の発掘から出てきています。現生人類が出アフリカ後に東進し、沈んだ“人類史の補助線”と言われるSundaland から、台湾~九州とムリなく繋がり、「日本祖人」は3.2万年前には沖縄、北海道に達していた(その後アメリカにまで?)ことが理解できます。今、祖人はそのまま北上を続けて、舟で北太平洋ベーリング地峡沿岸から入って来たと言われる「最初のアメリカ人」候補になっています。

時代を付していても日本列島に3方向から入ってきたという図はよく見る博物館などの図は誤解の元で、基本は北上史なのであり、また、国境を無視して広範囲の人々を「ヤポネシア」などと勝手に呼ぶのは隣国とのトラブルの元です。加えて、縄文人はどこから、ルーツはなどという問いを立てて論じているのもありましたが、日本祖人後の2代目の縄文人は日本列島発に決まっている愚問です。当時の地形とともに、「日本祖代」、「日本祖人」という要語を設定認識しないことによる混迷で、祖先に対し失礼なことです。「スンダランド」と共にその重要性を子供たちに教えましょう。


 出アフリカ後の現生人類が、東進後に北上して「曙海」畔を時計回りに進み、約4万年前に北部九州に渡海して来て北上し拡がりました(第1図)。

そんな大昔の始まり「日本祖代」ですが、1万件を超える旧石器遺跡と周辺地域の状況から、日本人の成り立ちが推察できます(第2図)。3.5万年前頃にはナイフ形石器が本州中に拡がりました。狭くなっていたとはいえ津軽海峡を越えた北海道の環境に適応することと、南のトカラ列島越えを含む沖縄への進出には長期間を要していますが、同様の「日本祖人」が3.2万年前頃には概ね列島中に拡がった事①②③が注目されます。その後、北・西(南も?)から渡来・出戻りがあったのでしょう、ナイフ形石器に地域差を生じています④。

そして注目すべきは第2図、最寒期(LGM)を終えて温暖化した「日本祖代」末期の1.7万年前頃から、⑤の細石刃(北)・尖頭器(西)という小石器を装着した高性能の槍などで環境変化に適応した中・小動物の狩猟能力などを向上させました。それらの石器の違いと④のような影響の波及方向の区分から、地域差を生じました。その後は、この国の人の成り立ちで変化の少なかった1.2万年間くらいの縄文時代の熟成を経て、渡来人数はそれほどでもなかったようですが、2,800年前頃から南方稲作の大きな影響が、再び九州北部から始まって北上することになりました。

その後の時代に、大陸と半島からの渡来人を受け入れましたが、実は呉・越系、百済・半島南岸系という「曙海」沿岸地域人の受け入れであり、これらのことは、日本人とは?ということだけでなく、対外関係を含めた日本史の考慮すべき重要な特質です。「曙海」認識の無い歴史観は、問題です。そして「国のかたち」は、基層となる南方から北上した列島人に 大陸人を加えたものであって、決して巷間に見る北・西・南の3方向からの混じり合いで出来たるつぼ国でもサラダ国でもありません。

それにしても、この細石器文化が始まって直ぐの16,500年前には青森・大平山元の無紋土器が生れ、やがて縄文時代へと途切れなく歴史が繋がっていきます。学界は、この私たちの始まりの祖先の呼称さえ無く放置していますが、名を付けない理由などない極めて不適当なことです。

サルと別れて700万年前頃に人類への歩みを始め、~20万年前頃にアフリカで今に繋がる現生人類に進化し、13~10万年前頃には広く展開してやがて出アフリカを果たし、学者が注目する早い速度で同様緯度のオーストラリアに数十kmの海を越えて6万年前頃には拡がりました。第1図、北上して台湾に5万年前頃、落葉広葉樹もあった「北東アジア平野」の「曙海」沿岸を気温の低下に慣れつつ北上を続けて約4万年前に家族で海を越えて九州に達し、さらに北上して3.2万年前頃には、北海道と一部南下した者たちは沖縄本島に達したと考えられます(北上し一部南下した歴史)。

始まり時代には、先が分からない遠距離の慶良間ギャップ越えは困難で、台湾からの黒潮流越えも家族では容易でなく、先島の2.7万年前の人骨は台湾から来たとは言い切れないでしょう(台湾の学者は、当時の先島に魅力があったとは思えないと言ってます)。この基本から、本や博物館展示で列島に①、②、③の3方向から来たという説明は、方向も、また、ばらばらな時期からも誤り、誤解を招きます。後々に渡来してくる事と3方向から混ざり合うかのような図は全く違います。刺身を食べ、汁物を吸い、次いで焼き魚を食べるのと、3つを混ぜて食べるのは違います。

また、第2図2-1の縄文先代の「日本祖人」に似た人が、当然に第1図曙海のほとりにいたでしょうが、現在の国境外の人も含めて仮に例えば「ジャパカン人」などと国境を無視し勝手に「人」を命名して呼称すれば、隣国との無用のもめごとの元です。現在の国境内の祖先を「日本祖人」と呼べばよく、また、その頃は7世紀じゃないので日本など無かったなどともっともらしいことを言うこともないです。祖人も縄文人も、①中国人 ②朝鮮人 ③日本人のどれかと試験に出せば、国境を尊重している限り世界は③を選びますから。他の問題は第2図2-2、世界でも稀な始まりと拡がりの歴史が1万件を超える遺跡で言い得るのに、無あるいは先土器時代と言って、始まりをはっきりさせない不適切です。現在のところ、約4万年前以前の痕跡ははっきりせず、先の時代は見つかっても直接の祖先と言えないい“旧人”でしょうから全く別の話なのです。仮に4.5万年前の“新人遺物”がはっきり発見されたら、始まりを4.5万年前に修正すれば良いだけのことです。また、「後期旧石器時代」と呼ぶのは国際的なハイカラなようで英語のその呼称の時代は、日本とは異なりますので、結局誤解の元です。縄文人は世界の学者が知っていますから、先代の「日本祖人」Nihon Sojinは、約4万年前から1.5万年前だと言えばいいのです。すると「アンタの所は、始まりが言えるのか、凄いな。境はっきりの島国だからな」とびっくり羨み感心する事でしょう。始まりの約4万年前も第2図2-2、3.8万年前と本などにはありますが、一見厳密そうでむしろはっきり誤りです。確かに現在の日本最古は関東・東海の遺跡で3.8万年前ですが、北海道に拡がるのに数千年、台湾から九州が1万年を、まあ要しています。対馬に来て関東に直ぐに達する筈もなく常識から約4万年前と大数表現するが妥当なのです。

それにしても第2図、日本史の60%を超える期間を等閑に付してる現状は祖先に失礼なだけでなく、学問的に誤りです。まあ、最近はやりの宇宙ダークマターの重要性を思ってください。人間の本質変化は期間を要します、この長い期間に、正しい・誤り、美味い・不味い、好き・嫌い、美・醜感、タブー・・・などの重要な基本が言葉とともに形成されたことでしょう。その後の日本文化に特徴的な外来文化の取捨選択・換骨堕胎の基層が作られたと考えます。縄文時代を含めるにしろです。それに、なんと言っても相変わらず未だ縄文人は何処から、ルーツは?という愚問を立てて独り相撲している書が後を絶ちません。2代目なんですから、どこからも来ない、日本列島発ですし、ルーツは日本祖人に決まっています。明治人は何処から、奈良人は何処から、・・・そんな問いは意味ないことを分からなくさせているのが現下の大きな問題です。問いは、日本祖人は何処から、いつ、どのようになどにならねばなりません。そして、無土器時代人、先土器時代人、後期旧石器時代人など呼ぶ事が適切でないと感じられるように、「人」、祖先の意識を等閑視していることが 現下の時代呼称の大きな問題です。 ジャワ原人や北京原人の方がよほど「人」に注目していいぇ良いくらいです。列島への南北からの人の出入りはずっとあっても、現生人類「「日本祖人」から縄文人、・・・と入れ替えもなく続いているとみられていますので、極めて重要なことです。

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さて当時は、対馬暖流がまだ日本海に流れ込んでませんでしたので、北陸など日本海側に大雪が降らず、また長野に貴重な黒耀石が出たこともあって、本州中央の関東・甲信越が早くから繋がっていたことは特筆すべきことでした。 実は日本の国柄となる地域特色なども既に日本祖代に生まれ、骨格が形作られて来ていたことが旧石器の形式の少しづつの差異で分かります。最後に、DNA分析の専門家が「日本人とは、分かった」と本などで言いますが、おかしいです。仮にA地点、B地点、C地点の人のDNAが分かっても、どちらがどちらにどう移動したのかはDNAでは分かりません。始まり時代の出アフリカ人は、一般的には昼夜夏冬の気温差が厳しくない沿岸から川を遡行し上流奥地に達して残した遺跡もあるでしょう。海越えのオーストラリア行きの速さが示しています。照葉樹林の内陸奥地間を移動するのは、比高差・道なき植生繁茂・猛獣害虫など、赤子連れには大変です。沿岸汽水のマングローブ・落葉広葉樹域の海水面が低下した砂浜を歩き、舟も利用しての方がよいです。
第1図、「伊豆海峡」の神津恩馳島行きが示しています。

また、第2図下のように、DNAでは欧米的な小野田議員、中国・台湾的な金さんが、実際は日本人以上に日本人と言われ、日系4世君が仮にDNAはお二人よりも縄文人に近くても、日本語も話せず好み考え方はアメリカ的という問題があります。DNA分析の解釈は万能ではなく、日本人とはの血だけでないソフトの重要性があります。また、日本史は、そんなに大規模な民族移動渡来があったとは考えられていません。基本的に緩やかな渡来定着と大きめの文化影響です。日本中にマクドナルド店、スタバ店があったことが1,000年後に遺跡で分かっても、アメリカ人が大進出していた、子供たちのDNAが欧米化していたと解釈するのは誤りです。大事なのは実際の暮らしぶりです。

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第1図、北海道の地名を今は何でもアイヌ(鎌倉時代以降)のと言うのもはっきり誤りで訂正を要します。日本祖人、次の縄文人・・・などが舟を造り操作する、多数の陥とし穴を備えて動物を獲る、芸術的な土器を作るなど、あれだけの文化を示しているのに、山、川、動植物、・・・に名前を持たなかったなんてあり得ず、「日本祖語」の名前が有りました。全部アイヌが新しくしたなんてアリエンでしょう。そして、第1図、北海道の日本祖人は、千島列島からにしろ、樺太から北上したにしろ、世界が今注目の「最初のアメリカ人」として入って行った可能性があるのです。

このように大事な祖先、私たちの始まりの歴史が不適切なまま誤解に満ちて放置されているのは良くないです。東京オリンピックを機に、始まり時代の諸問題の認識だけでも子供たちに持たせる必要があります。 

朝日新聞が、黒燿石を採取するための伊豆半島から東京都伊豆諸島の神津・恩馳島への行き来(最短約50km)(最新の原産地・年代分析に基づく)を、人類史の「謎」が眠るとして報じました(第1図)が、第2図のように黒潮分岐流を考慮し、海水面の約100m低下した当時の諸島が大島以外は陸地続きの部分が多かったことから、A,B,Cという行き来であればムリ無くできたでしょう。

諸島が晴れた日ははっきり見えていた事、行き帰りの太陽(時に御神火)、伊豆の山、北極星などの目標がはっきりしている事が大きな要因です。Aは、城ヶ崎~大島が最短の十数kmですが、漕ぐのが約5km/h、分岐流が約4km/hとすると、流されて大島に着かない場合は、房総の方に持って行かれて太平洋で漂流という悲惨なことになります(近代でも事故有り)から、もっと南の方から出発するのが良いです。Bの地域は、出来るところは海岸沿いに舟を曳いて行くと良いです、そして1泊。帰りは宝物を沢山積んで重い状況で、神子元(島)へ40数kmですが、これも流されますし変な所へ着いたら宝物を奪われるかも知れません。これらを考えると、岩礁の多い伊豆東部では、河津地区から出て帰って来るのがムリのない最良の行き来となります。しかも第3図のように、小学校の丘が目標として目立ち、居住条件も良く、今井浜は最適な発着場です。関東南部から東海地方の人々が物々交換に集まるとしても、かがり火に踊りのお祭り騒ぎにも良いです。

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そして、伊豆はずっと船材木(枯野)で、付近は3万年も前の痕跡があある陥し穴猟(三島などで発見)で、有名な地ですから丸木や動物の皮利用の舟造りにも申し分有りません。さて、伊豆の歴史ではこの河津地区が実は縄文時代の黒燿石の集散地で、なんと工房まであった事が分かっており(見高段間遺跡)、河津東小学校は、グラウンドの黒燿石を片付けないと危なくて運動も出来ない宝物だらけだった凄い所なのです。ですから、縄文先代の「日本祖代」にもその基礎があったと考えて何もおかしくはないでしょう。問題は、日本中の子供達はもとより、当の元気な「段間っ子」ですら、世界の考古学会が驚き、朝日新聞が謎という日本始まり時代の祖先(「日本祖人」)の偉業をよく教えられていない事なのです。(なお、小学校にある縄文住居の見学などは、河津町への届け出が必要です)

天下のHarvard日本人論が、最新版で「縄文人のルーツは?」を削除しました。そりゃそうです、2代目のルーツは、親である初・先代の「日本祖人」に決まっています。問題は、①成り立ちです。本や博物館が、出アフリカ後の痕跡が定かでないA、B、Cの3方向からの混じり合い図を描いてますが、時代を変えて書き添えたところで、誤りです。下図赤線Jaのように南方から「日本祖人」が「曙海」-北部九州ルートで北上して行った、約2万年に及ぶ旧石器遺跡が示す一方向性、同様性が特色です。

日本祖代、日本祖人、曙海、北東ア平野といった時代の用語なしには理解できません。そして、②「日本祖代」の長い積み重ねが大変重要なのです。2万年前頃に北、西から文化・人が渡来していますが、人は一部の出戻り含む大陸人によるあくまで渡来(アイヌは、ずっと後の鎌倉時代以降)です。この約4万年前からの古い積み重ねの特色が、周辺に同じ種族が見つからない理由なのです。「曙海」から始まった、北海道・大本州・南西諸島の同様性こそ注目すべきであり、今や「最初のアメリカ人」候補でもあるのです。

現生人類の出アフリカ後は南方から台湾山地沿岸Bを北上し、「曙海」を越えて北部九州Aに家族で渡海して約4万年前に始まりました。引き続き列島を北上して「日本祖人」は、3万年前には北海道にまで拡がり、今や更にアメリカ新大陸に進入した可能性が世界で注目されています。この拡がりの一方向性と島国での同様性、熟成が特色です。九州・南西諸島と当時の「北東ア平野」沿岸に囲まれた「曙海」の時計回りの移住からの発展であり、2.7万年前の日本祖人・石垣人と似たような南方系の人々が畔に居て北海道にまで拡がった、皆が親族のような始まりが、日本の特色の秘密なのです。1万件を超える旧石器遺跡が示しています。

本や博物館によっては、樺太、朝鮮半島、南西諸島の3方向から渡来して混じり合ったかのような、しかも最も可能性が高い本図のルートの無い、誤解を与える図がありますが、違います。そして、①家族で海を越えた民である事は、造舟・操舟・進取の知的レベルを示し、②曙海の畔、東南アジアに至る交流はその後も稲・鉄の伝播など大きな影響を及ぼしています。人類史の流れ、当時の地形と環境、そして新たな用語によって、4万年からの民族史を科学的に辿れることが、世界驚異の、子供たちに伝えたい日本の特色なのです。お隣さんの4,000年の歴史?ゼロが一つ違います、当方は 4万年はっきり ですよ。

米Harvard 医科大が、南米アマゾン古部族のDNAが北米やユーラシアに無くSundaland周辺地域で見つけましたが、太平洋を直路横断と“冗談”に言って終りにしました。南米は前回の海獣毛皮人も驚かしてくれますが、下図中央、主にアフリカ、日本、ニューギニアやカリブ地域などで見つかる白血病ウィルスの不思議もよく知られています。

上図左のように、日本では中央部でない所で見つかっており、縄文人からと言われています。このアフリカ―日本―南米をどう理解するかが、やはり説明がないのです。これも矢印の環太平洋移住MPOR説(祖代研究会)なら理解できます。さて、縄文人とすると、「最初のアメリカ人」問題で明らかなように、16,000年以前にアメリカ新大陸に渡って行った人たちには間に合わず、「日本祖人」がとなるのです。縄文時代なら勢いのいいシベリア狩猟族がどんどん入って拡がって居ますので消えないのも ヘンでしょう、疑問です。

また、近代になって南米には日本人が移住していますが、下図のようにこれほど広範囲に南米アマゾンなどに拡がっているのは疑問です。

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問題は今、日本では、何か古い事については縄文人と言いますが、上図右上のように父母の「日本祖人Nihon Sojin」(約4~1.5万年前)が居ますので、おかしいです。アイヌだけでなく、何でも縄文人(実は2代目)と言っているが世界に誤解を与えているのです。先頃成功した3万年前の航海も「日本祖代」の事であり、到着したときから「日本祖人」なのです。

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