(東京・札幌五輪) 「理論先史学」、花綵千島列島は行けただろう!

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図①約4万年前の日本列島史の始まりは何処から?で、理論的には海水面が低下していた当時の「北東ア平野」東沿岸・「曙海」西岸域の時計回りルート(渡海含み)説(日本祖代研究会)があります。

近年、②豪州始まりは定説と異なり北ルートがよいと、日本人研究者の先行研究があるテーマに、豪女性研究者が詳細な分析(渡海含み)を発表し、③米・伊3大学チームが、「最初のアメリカ人・先住民」はベーリング地峡南岸の“一時的列島”Transitory Archipelago、いわば甲-2ルートをフネで入って行ったと発表しています。この沿岸進入となれば注目されるのが、④千島列島です。残念ながら日本にさえその研究は有りませんが、図右下a.次々に島が見えており、鳥が通う火山の煙もあり得た状況で、b.”米臨海“は、地峡で北極海の冷水がstopされ、正にハワイに繋がる海だった、c.列島内の最大離隔は77km、豪州行き90kmを考えればムリではない(祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoは、伊豆の海を行き来していた先人の子孫)。

その北千島の調査では、何と言っても鳥居龍蔵を驚かせた(旧石器時代的な)”遊動海民”の暮らし振りであり、現代の瀬川拓郎などが明治の鳥居報告から受けとめた、道内各地のアイヌ伝承のコロボックル話の小柄な先住種族が「居た」と考えられることです。北部千島は、寒さ、吹雪、霧、荒れる海、…聞く私達には大変厳しい所ですが、実は適応し暮らした事のある人々は一様に、食の宝庫で暮らしやすいと述懐していることも考えねばなりません。樺太千島交換条約で、日本政府はそこが密漁勢力が来る危険な所でもあり、住民を色丹島に移住させ定着させるべく住宅から生業の生活支援を整えていきましたが、その認識とは異なり、北部千島は適応した人々の述懐では暮らしやすい所だったのです。

なお、図の乙の千島列島からカムチャッカ半島、そして甲と甲-2の2つのルートが考えられますが、甲はコマンドル諸島からアリューシャン列島アッツ島への420km越えはムリだったでしょう。人類史の大きな謎、「最初のアメリカ人」は誰が、何処から、どのようにという課題に関し、日本学界は「理論先史学」によるルート分析の発表が、今、世界から求められているのです。ともかく問題の所在を子供に教え、世界に発信を。

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