環太平洋の南米南端、流石の侵入欧州人もびっくりしました。裸に海獣の毛皮をまとっただけの人々の暮らしがあったのです。かつては4,000名位いたのが、昭和5年頃には100名にまで激減していました。祖代研究会は、 彼らが太古の先住か、 チリ沿岸~アマゾンの人々が圧迫され逃れて南下したと考えています(太平洋横断説派の人は、ポリネシアから舟で来たと言うかも知れませんが)。

注目は、当時は『仙台以北』で知られている海獣、その毛皮を纏うだけの万年前の暮らしの痕跡です。骨と毛皮で住居や舟も出来ます。つまり、人類史注目(前回報告)の北海道、ベーリング地峡は、栄養ある肉食・卵に植物の昆布、衣服と舟など原始の暮らしがはっきり認識されるのです。そして、Sundalandから北上~南下の南米南端まで、環太平洋移住(MPOR)説、特に、北海道東部「日本祖人」の子孫が、舟による最初のアメリカ人のみならず、南米南端まで関わっていると考えられるのです。

キーワードは、舟と海人ですが、38,000年前!の「日本祖人」は、静岡・伊豆半島(河津町が中心)から、東京都・神津恩馳島まで舟で黒潮分岐流を越えて行き来し黒耀石を交換交易しており、地域では陥し穴で鹿などを捕らえた遺跡から、相当知的な文化レベルを持っていたと考えられます。

問題は、子供たちがこれらの事を何も教わっておらず、また、世界の学問オリンピックに、説を唱えて学者が参加していない事です。

ハーバード大H教授は「日本文明」と言い、日本でもDNA分析や言語の孤立性から、日本は隣近所と違うという理解です。では、何故なのかという答えははっきり言われて無いようです。人類史を考えれば、そんな違いは千年2千年で生まれる訳でなく、約4万年前からの「日本祖代」に答えはあります。下図の左上の素朴荒削りの石器は、「曙海」の畔の言葉をしゃべって、始まりの九州から北海道まで約1万年で拡がった「日本祖人」とその使用した石器は等質で磨製は世界驚きのモノです。その後の変化は右下のナイフ形で、洗練されており、先生方は僅かな特徴ある違いで形式を分類されますが、青森弁と大阪弁程の違いも無い同様な物で、しかも分化が今に繋がっています。

その後、地球環境の寒冷化で大型動物が消えて中・小となり、北の沿海州の方からと大陸内部の方からの文化の南下の影響もあり、尖頭器・細石器が生まれていきます。日本の始まりをこの3方向からと描いている図が一般的ですが、B,C,Eは根の無い大きな間違いの誤解の元で、南からの北上と定着に、その後の南北からの追加混合が、日本の特色なのです。この歴史を積み重ねた事が独自的なのであり、隣近所の「曙海」沿岸からは消されてしまった、見えにくいものなのです。

パリ大学で民族・社会学を学んだ岡本太郎は日本文化の最深部に迫り、太陽の輝き、荒々しい迫力・生命力、お互いに分かり合い易い、淡泊で諦観を有する日本島嶼文化を把握し、「曙海」の認識は無かったものの、台湾古族に、マレー(東南アジア)性を見ています。万博太陽の塔を制作して「インテリが何だコレはアメリカ、フランス、・・・日本にもないと批判されたが、ピープルが魅かれてやってきて喜んだのは、稲作文化、官僚システムに覆われ閉ざされたモラルでも、何千年か前の思い出が血に潜むもの」と言いました。岡本太郎が当時、「日本祖代」を教えてもらっていれば、「万年前の基層」と言われたでしょう。

そして今や、16,000年以前に舟で入って来たという新仮説の「最初のアメリカ人」かも知れないと世界の注目なのです。

38,000年前に、伊豆半島東部から「東京諸島」の神津島村恩馳島に黒耀石を採取に行き来していたことは、沼津物の蛍光X線装置の分析で原産地が同定された驚くべき最古の生活操舟の偉業として、世界の先史学者に知られています。

朝日新聞は、これを事実と認めるも「謎」と報じていますが、①「日本祖人」が約4万年前に舟で「曙海」の北海峡を越えて(3-40km)、家族集団で九州に渡って来た海の民であること。②良材で有名な伊豆は枯野・軽野・カヌーと言われる地で、鹿の陥し穴漁の知的レベルから、木か皮の舟があったこと。③「日本祖人」の2代目である縄文人息子・娘は、河津・見高段間縄文遺跡に黒耀石の製作工房跡まで残していること。④黒潮分岐流越えの操舟、行き来の方向維持の太陽・北極星の方向、 東小学校丘陵・今井浜 という適地などから 河津 の縄文遺跡は、先代の「日本祖代」から使われていたであろう事、などから謎ではなく十分納得し得るモノです。

因みに、神津恩馳の黒耀石は、約4万年前、日本祖人が初めて列島にやって来ていた頃に火山噴火で造られたそうで、正に祖人が来るのを待っていたかのような神様の贈り物でした。小池都知事・川勝静岡県知事、岸河津町長さんはご存知と思いますが、東京オリンピックの機会に世界の人たちにPR、いや、先ず地域の、日本の子供たちにしっかり教えて欲しいものです。

ウィキペディアでは(静岡)浜北原人とも言うとなっていますが、我らが直系の現生人類の祖先ですので、「原人」ではないです。日本の始まり時代は、教科書に適切な用語が無くよく理解されていません。人骨は、酸性土壌のために万年の時で跡形もなくなりがちで、「浜北祖人」の一部が発見されたのは奇跡的です。学者さんでも「縄文人のルーツは?」という愚問を発する人が居ますし、かなり多くの人特に外人学者さんでも、Jomonは知っています。でも、縄文人は2代目で、石垣・湊川・浜北などの「日本祖人」の後代ですので、ルーツは基本的に日本列島における先代の日本祖人に決まっています。

さて、注目の静岡は、本州最古の人骨のみならず、世界最古、舟で海を島に行き来して採取した黒耀石が、おそらく河津で交換されて(私見)沼津にまで、また、これも世界最古級でしょう、大シャベルの無い3万年も前の石器時代に陥し穴を沢山掘って、鹿や猪などを獲る知恵のあった痕跡が三島市初音が原で発見されています。

何故、我が国始まりの日本祖代の痕跡が、万年の時を経てもこんなに違う種類が、静岡に残っていて発見されているのか、教えて欲しいモノです。因みに、南国インドネシアでは、天国は「するが」、動詞の辿り着くは「ちば」です。そう言えば向こうからずっと黒潮が流れて通っていますね。

世界人類展開史の最後の謎である「最初のアメリカ人」問題は、これ迄の「氷河期に海水面が低下したベーリング地峡からマンモスを追ってシベリアからアメリカ新大陸にやって来た」という旧説から、「北太平洋沿岸から昆布ハイウェイを舟でやって来た」という新定説が注目を集め、前回報告のように活発な議論が起きています。しかし、欧米では、日本側の発信が無い弱い誤っているためか、図のように、根拠のないルートが描かれ、1万件を超える遺跡で裏付けられた日本列島ルートが無視され、或いは鎌倉時代頃からのアイヌが、政治介入の「先住」が付されたために、万年の先人の祖先であるかのように扱われている例すら見られます。

原因の一つは、日本列島史始まり「日本祖代」の祖先である「日本祖人」の用語が教科書に無いことでしょう。

世界に合わせ追いつこうと、旧石器時代 ・後期の人々 などと分り難い事を説明せざるを得ないことが一因でしょう。どんなグローバル大企業でも、小さな商店であった創業の時代を全社員は見つめます。日本史は、余りに創業時代を軽視していますので、世界の誤解のみならず、子供達にもしっかり継承されていません。「吾輩は猫である、名前は未だ無い」って、大事な日本史祖先に対し、何をやっているのかと漱石先生が怒っています。 スペシャル番組も無く、チコちゃんにも叱られます。

米オレゴン州立大が、アイダホ州西部遺跡で発見した石器や炭、動物の骨などは15,000~16,000年前で、北米氷床を考慮すれば、最初のアメリカ人は、太平洋沿岸から舟でやって来たのであり、また、この時代の北海道・遠軽白滝の石器に類似していると発表し、Gigazineニュースが伝えています。ワシントン大グレイソン教授は、石器の類似性に関して慎重であるべきと言い、サンディエゴ大のブライエ教授非常に興味深いつながりとコメントしています

いずれにしろ、日本祖代研究会がお伝えし続けてきた、北海道先住「日本祖人」Nihon Sojinのアメリカ新大陸移住が、米国のみならず世界の重要課題として論議される事でしょう。オレゴン大からは、石器の類似性に関して遠軽白滝の名が出ましたが、当然、発地である十勝帯広から北方領土・千島列島ルートが浮かび上がります。お伝えした「伊豆海峡」の漕舟行き来の金メダルに次いで、

「日本祖代」Nihon Sodaiに渡った北海道から最初にアメリカに行っていれば、2個目の特大の世界先史金メダルが期待されます。なお、アメリカ先住民Native Indianを、祖先故郷のオリピックに招待する話にもなるでしょう。なお、2代目の縄文Jomon人は当時まだ生まれておらず、鎌倉時代からのアイヌは全く対象外ですので、世界の誤解を解きましょう。(科学誌サイエンス8月30日号参照)

皆さん、宿題は終わりましたか? 実は、38,000年前の大昔(海水面が数十mは下がっていた時代)から、「伊豆海峡」を舟で越えて「東京諸島」の神津・恩馳島に黒耀石を採取するため、舟で行き来していた事が、沼津で見つかった物を蛍光X線分析して確認され、年代測定から世界最古の舟による現生人類祖先の生活としての操舟として認定され、金メダルなのです。

神子元から恩馳が直線で50数㎞、城ケ崎から大島が約20km、幸いにして一番問題の方向維持は、太陽(御神火も?)と北極星がありました。どう行き来したのかは未だ定説が有りません。行き来では、黒潮分岐流の流れにムリなく乗る事が大事、伊豆諸島側ではかなりの距離、浜を舟を引いて歩いて行く事も出来ました(直接渡ったと「日本祖人」に叱られるかも)。オジさんの答えはと訊かれれば、有名な河津・見高段間の縄文黒耀石工房遺跡―今井浜は、縄文なんかじゃない、その前の「日本祖代」からの、交換であちこちから人々が集う中心地であったと思います。北極星・黒潮分岐流乗り・太陽(御神火も?)がぴったりですし。因みに伊豆は、良質船材で応神天皇の時代から有名で、枯野は軽野で「カヌー」の語源と言う説があり、しかも米大陸にやって来たコロンブスに教えたという説もあります。

約4万年前に「曙海」を渡って来て始まり、3万年前には列島中に拡がっていた「日本祖人」は、長い海岸線での海辺の暮らしと1万件を超える遺跡の石器や活動・居住などの痕跡から分かる、狩猟採集の暮らしをしていました。

注目すべきは、現在の都道府県の区分の暮らしぶりの違いが、始まりの先史時代から既に窺われる驚きですが、それが長い時間をかけて島国でゆっくり熟成されたモノなのです。

そして、始まり時代に対馬暖流が流れ込んでいなかったので大雪が降らなかった事、長野山梨八ヶ岳や伊豆神津島における貴重な“黒耀石”の採集と交換により、中央部の連接と発展が正に現在を思わせるようです。その後、2.9万年前頃の南九州姶良大噴火による被害のため、相対的に東日本が充実し、最寒期を過ぎて列島中に弓矢や土器という生活文化の普及向上が見られ縄文時代となりました。温暖化による列島全域の人口増加とその後の寒冷化による減少や南下を経て、曙海の西から稲作と金属器の大きな文化の伝わりによる変化がゆっくり北上(図の橙色線)して行きました。

「日本祖代」と縄文時代という日本史の93%の期間を占める時代の暮らしの影響は、これまで無視されがちでした(日本史は室町時代からで十分という暴言)。しかしその期間に、何が良い・悪い、好き・嫌い、きれい・汚い、など生き方の基本が出来上がったように思われます。その後に渡来人が増え、稲作や金属、律令制や仏教やキリスト教が入って来ても、先史時代に熟成された島国の“日本教”に照らして取捨選択、換骨堕胎の和風化をして来たため、最近では、「日本文明」と言われるようになりました。92.5%の厚みなしにはとてもそうならかったと考えます。霊を山を敬い、水と緑の樹木を大切にし、生魚・海藻を好み、セミや虫の音が雑音でなく風流に聞こえる事などは、夏に感じる子供たちに伝えたい日本文化の特色でしょう。

これまでに標題関連の多くの本が出版されていますが、最新の(まとめ)をご参考とします。現生人類は、出アフリカ後に東南アジア・Sundaland地域に至って北上及び東進し、図の曙海畔から約4万年前に対馬~五島に渡海、3万年前にはほぼ列島中に拡がりました。

多くの本の説明が、日本列島には南から、西から、北から人々がという時代の違いを踏まえない3方向から渡来という記述となってますが、大きな誤解を招くものです。始まりから一貫して北上であり、列島内も北上を続け、おそらくアメリカ新大陸へも北上して行ったこの一方向性がその特色であり、極めて重要な点です。

この点を理解している筈なのに、何故、3方向からと言うのかむしろ不思議で、余りに「単一民族説」の否定に 過ぎ、 傾く歪曲です。何しろこの一方向性の南方海人(太平洋沿岸)系の拡がりと定着した文化は、2万年以上の積み重ねとなっているからです。

さて、「日本祖代」末期の最高寒期最寒冷期(LGM)前後に、西から北から大陸系の人々の渡来がありましたが、更に縄文時代1万年以上にわたり基本的には文化が継続されたものと考えられ、近年、「日本文明」と言われるようになった重要な要因でしょう。そしてこの国柄の古い基層の延長上で、南九州勢力の東遷(近年実証)によって大和王権が樹立されて「芯」が出来ました。

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他国と違って昨日今日のものでない、誰かが頭で考えた理屈の人工のものではない、長い間に島国で熟成された南方海人系の島国独特の民俗を背景に生まれた、多数の支持を得た「芯」を有する政体となっていきました。その後、大陸・半島系の人と文化の渡来を混ぜ乍ら曲折を経つつ 継承されて来 て、現代の「令和」の時代に至っています。まとめとしては、①出アフリカ後、南方から北上して 来て渡海し、引き続き北上(一部南下)した 一方向性 の拡がり とこの文化の列島中での定着、②万年を超えて積み重ねられた南方海人系の島国における文化基層の形成及び熟成、③その基層上の多数に支えられた王権社会の樹立とその後の継承、が標題の主な答えとなります、ご参考まで。

日本史は約4万年前、南方から北上した現生人類が、北部九州に「曙海」を舟で渡って来て「日本祖代」が始まり、2代目縄文Jomonに続きます。

中国史は約4千年前、下図の長江から進んだ「夏」王朝を始祖とし、北西草原の民に滅ぼされて2代目「殷」王朝となります。いずれも始まりは南方発で、渡海しあるいは河川を遡行したものです。

さて、結論的にこれまでの地域史は北部偏重で、大陸の中原 洛陽 が、そこで陳寿が書いた魏志倭人伝・邪馬台国が論じられてきました。尤も、陳寿も「倭は会稽東冶の東の海中」という当時のみんなの常識に抗えずに里程を記述したために、その後の日本の邪馬台国論争を招くことまでは分かりませんでした。しかし、魏志でなく呉志・孫権が、「夏」王朝と呉・越・亶(タン)洲の関係が、九州中南部の天孫降臨や神武東征、亶(タン)洲 の話が、我が国の歴史を考える上で極めて重要であり、注目されてきています。何と言っても「曙海」周辺の関係の深さを示し、驚きなのは中国「夏周」王朝と呉・越の元になった3兄弟の父親が、亶洲人(九州中南部・種子島か?)だという話です。倭人は、太伯(呉国)の子孫という話もあります。

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学閥に捉われず古代の真実を追求したと言われた作家の松本清張氏が、「曙海」・北東ア平野沿岸を認識できなかったことはやむを得ないとしても、重要な呉志孫権・呉越・亶洲など と古代の我が国との関係に ついて殆ど触れていませんが、不思議なことです。まさか、北部九州・小倉出身だからではないですよね(失礼しました)。いや~歴史研究は、誠に難しいものです。

「最初のアメリカ人」問題について、米オレゴン大のJon M. Erlandson教授は科学誌National Geographicで、「昆布ハイウェイを舟で沿岸からやってきたのではないか」と新説を提唱し、「舟を操る海洋民が日本に居た」と述べていますが、これに対する日本の反応が今一つなのは驚きです。

教授の発言の背景には、3.8万年前頃から黒耀石を採取するために、伊豆半島から20km以上離れた神津恩馳島に黒潮分岐流を越えて行き来していたこと (黒耀石 原産地分析と 交換の痕跡から) が知られているのです。


シベリアや北東アジア 地域で、1.6万年以前に舟を操っていた種族は、「日本祖人」以外見つかっていません。シベリアの狩猟族が舟を造って操り、厳しい北の海に適応するのは、とてもとても大変なことです。正にハワイに繋がる当時の「米臨海」地域と北海道の道東は、 環境が そんなに大きく違ってませんでしたから、行けた筈が無いと言う人の理由が分かりません。

日本祖代の人骨としては、沖縄石垣島で2.7万年前の人骨がはっきりしてますので、「日本祖人」と大きな違いは無かっただろう考えられます。

先生、子供たちに「世界先史の金メダル」のこと、舟で入って行った「最初のアメリカ人」の事を教えましょうよ。 G20で来ている人たちにも。

世界人類史の大テーマと言ってよい「最初のアメリカ人」問題について、シベリアから狩猟族が動物を追ってベーリング地峡を越えてやって来たという、長い間の定説が崩れています。北米大陸内の通路とされた無氷回廊が融けて開くよりも古い遺跡が、南米チリ沿岸で見つかったのも大きな理由です。北太平洋沿岸から「昆布ハイウェイ」を舟でやって来たという新説は、「日本」が登場しています。

世界が知っている2代目の縄文人(Jomon-jin)よりも1万年以上古い時代の話であり、日本学界の対応が無いために、残念ながら「舟を操る海洋民」としてしか表現されていません。さて、北海道大学がDNA調査を行って、アイヌが鎌倉時代からと明らかにしたにも拘らず、国会は、先に住んでないのにアイヌの政治「先住」という決議と新法で、豪アボリジニや米Nativeインディアンが驚く1国2種類の先住民という、笑えない誤解を世界と子供たちに振り撒き、何よりも学校で「日本祖代」、「日本祖人」(Nihon Sojin)も「最初のアメリカ人」沿岸進入説も教えていないという異常さなのです。

日本人は何処から、ルーツは、日本史の起源は、などについて沢山の本が出ていますが、標題の用語なしに語れる筈が有りません。約4万年前に沿岸から舟(筏)で北部九州に渡って来て 日本列島中に拡がり 始まっています。

その海岸線は時代によって動いてましたが、一人ひとりにとっては生まれて亡くなるまで変わらない、曙海のほとりの人たちは万年の長きにわたる 親族のような ものでした。遥かに下った歴史時代の呉、越、百済などと言ってもその末裔の地域なのです。

五島と薩摩に共通の古い言葉が残ってる、南西諸島の貴重貝が出雲どころじゃない北海道で見つかっている、古代中国正史では倭(日本)だけでなく、遠くベトナム(南越)に繋がる呉・越地域の人たちも「変なヤツ」と書かれており、筏の実験で朝鮮半島に直接行っていた事が実証され、大陸内部の種族とは違う南方の人たちが地域の始まりなのです。 半島南部には縄文遺跡や前方後円墳すら多く見つかっており、また、 元寇で侵入して来た呉越の人は殺しませんでした 。そして「日本祖人」は、出アフリカから今は、北太平洋の昆布ハイウェイKelp Highwayを舟で入って行った「最初のアメリカ人」ではという事で世界の注目です。

鎌倉時代からのアイヌ(北海道大学DNA分析結果)を政治「先住」と言ってるのも歪曲の困りものですが、世界の人が、いや子供たちが、「日本祖代」「日本祖人」を知らず、2代目の縄文(Jomon)人からしか語っていないのが、「最初のアメリカ人」テーマに参加できていない大誤解の問題で、罪深いことです。

豪先住民アボリジニの祖先は、図右下のように5万年(6.5万年説も)前に、たまたまではなく計画的に海を越えて北から1,300人以上が舟でやって来たと研究報告が報じ(Newsweek)られています。つまり、科学的に諸学共同の検討がなされ分析研究が行われているのです。

図左の一般的な「日本人は何処から?」に基づき、九州に約4万年前(3.8万年前説はもっともらしい誤り)、沖縄~北海道にまで3万年前には拡がっていたことが1万件以上の遺跡分析から分かっています。さてその九州へも、約4万年前当時は水深が数十m以上100m近くも低く、「北東ア平野」が現れて「曙海」となり、対馬がやや独立的ながら五島から壱岐~博多~出雲は陸地繋がりでした。最初の1000人以上の「日本祖人」家族は、舟(筏)で30km以上を越えておそらく対馬(もしくは五島)に来ています。問題はこの重要な民族の始まりを、豪のように科学的に研究されていないのです。出アフリカ後にアボリジニと同じようにSundaland地域から祖先は北上して来たでしょう。豪アボリジニの経験から舟で渡洋する能力もあったでしょうし、3.8万年前には、伊豆神津恩馳島に黒耀石の採取に行き来してました。その後は3万年前以降の北海道から、最初にアメリカに渡って行った可能性がある、アボリジニ・「日本祖人」・インディアンの先住民繋がりが、今、世界の注目なのです。鎌倉時代からのアイヌ(北海道大学のDNA分析)を政治的に「先住」にするなど、アボリジニやインディアンと「日本祖人」を伝えて連帯できていない子供たちに対する罪です。科研費を是非とも充当して、各国と協力し研究してほしいものです。

「明治人」のルーツは? はい、維新もあり外国人も沢山来ましたが「江戸人」です。縄文人のルーツは?はい、始まりの「日本祖人」を全員どかして縄文人が何処かから来たなんてアリエナイので、先代・初代の「日本祖人」です。こんなようなやりとりが、今も世界で行われているのは歴史学会の問題なのです。島国であるために民族の始まりが、1万件を超える数の遺跡に支えられて「約4万年前」ということで学者さんに異論のない、世界でも稀に恵まれている状況を、何故か認識したがらないのです。

その始まり時代を「日本祖代」、私たちの祖先を「日本祖人」と学界が認識したがらないために、世界のハーバード大学で前述の如きマンザイのようなやり取りになっています。明治人の親が江戸人であるように、2代目の縄文人の親は、初代・先代の「日本祖人」なのです。そして、問うならば、「日本祖人」のルーツは?ですが、人のみならず遺跡や言語系統を含めて 本欄で 累次説明してますように、出アフリカ~東南アジアSundaland地域~太平洋沿岸を北上して、「曙海」ほとりから海を越えて北部九州にです。3万年前には沖縄~北海道にまで拡がって、今は「最初のアメリカ人」の可能性が最新学説で注目なのです。

「日本祖代・祖人」を認識せず、その出発地である北海道の「先住」を鎌倉時代からのアイヌ(北海道大学のDNA分析) と やらなくて良い政治的なゴールポスト動かしを行っているのです。


更に、日本には下図E樺太、C朝鮮半島、B南西諸島の3方向からという誤りの図で世界に誤解を振り撒いているのは、子供たちに対しても罪な事です。 下図右のように、3方向からではなく、始まりは南から北上の1方向です。

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