英国Cambridgeケンブリジ大学考古学誌(8月8日付)が、Franceフランス・パリ国立自然歴史博物館によるブラジルSanta Elina岩窟(下右図)遺跡の石器や動物の骨などの遺物について、研究成果を掲載しました。

1万年前、2千年前の遺物の有る厚い地層の深い層の上記遺物の発掘と分析から驚きの23,120年前のモノであるというものです。

これまでの古い南米遺跡は、14,000年前頃のチリ南部のモンテベルデ(Monte Verde)の住居跡遺跡でしたから驚きの古さのものです。

最寒冷前期(Last Glacial Maximum)という早い時期に南米のしかも内陸中央に達しています。

ともかくベーリング地峡を渡り、アラスカ-カナダ―北米-中米-南米の太平洋岸から内陸に達していることになります。

当サイトでは、現生人類のアメリカ進入については、A、Bの2種族の移動・移住を考えています。この発見で、下図のAは、23,000BP(LGM)以前に北米進入に修正です。

Bの場合、此の氷河期の冬の気温が-60~50度Cに低下したであろう極寒のシベリア内陸から上図チュコト地区に至った、とは考え難いです。

また、内陸の大型哺乳動物の狩猟族Hunterが、海辺で行動する熟練と海洋についての多くの知見を必要とする全く異なった沿海暮らしを家族ですることも容易な事では無かったでしょう。

操舟を必要とする海辺の食物獲得と喫食による長距離の進入・南下は、考え難いです。

現に、エスキモーの人たちは、殆ど沿岸から離れずに陸地主の暮らしをしています。

さてこう考えますと、此のブラジルでの発見は、既に報告しています下図A種族系の進入を示しています。

魚介・海藻を食し操舟に熟練した日本祖人による北海道からの最寒冷LGM期(約2万年前時代)前の沿岸沿いの昆布ハイウェイでの渡米及び南下である環太平洋移動・移住MPOR説を、正に支持するものです。

無論、東南アジアから直路で太平洋を南米に横断したということは、南太平洋の遺跡の状況から全く考えられないゼロが2つ違う時代の話ですので。

いずれにしろ南米では、米ハーヴァード医科大Harvard Medical Schoolが、アマゾン3古部族のDNAが北米インディアンやシベリア人ではなく、東南アジアSundalandや豪サフルランド地域の人たちに近いという驚きの分析結果を既に発表しています。

この2例目が加わったことで、再び共に注目されるでしょう。

(了)

よく、日本史は○○時代以降を知れば十分と言う人がいますが、何と浅はかな事かと思います。

列島4万年史を知って言っているのだろうかです。

その大半である概ね4分の3に当たる日本祖代は、南方から北上して来た知的レベルのある現生人類が、曙海を越えて渡来して日本祖人となって本州における急速な拡大と雪と寒冷の北海道への進出を果たした事が始まりです。

その後、鹿児島姶良大噴火の災害によって九州地域はもとより、西日本が大きな被害を受け、そのAT火山灰は東北にまで及びました。

主に海辺、川辺の植物採集や漁撈の暮らしでしたので、土地に大きく依存する農耕よりは回復が図り易かったでしょう。

内部の人と渡来してくる人々によってその回復がありました。約9,000年間でした。

更に、最初の渡来に次ぐ2度目の大きなそして異質な大陸狩猟族の進入と拡がるその文化との混じり合いの地域化、変容などの多彩なドラマの経験が約8,500年間でした。

元々の海の民系の人々と新しく入って来た大陸の狩猟系の人々は、婚姻し合うというよりは混在するということだったでしょう。

しかし、狩猟系文化の影響は大きく、新旧の接触の刺激は、大きかったと思います。此の後も我が国では弥生時代にも新たな人々と稲作技術の進入が大きな影響を与えてますね。

この祖代末期に世界に誇る土器が東北で生まれました。知恵の進展、新たな異質な進入者の刺激やまだら気候の温暖化の故であったのかも知れません。

時代は、氷河の更新世から温暖化した完新世に世界史的にも大きく移り変わりました。

縄紋土器(土器には文でなく紋が入りました)が広く使われ、その後の鉄砲に比すべき画期的な弓矢が使用され、竪穴に定住して暮らすような時代へと替わっていきます。

そして、中央の関東地域にウエイトがあり、かつ、太平洋側と日本海側、南北に長い事の両面から地域性ある今に繋がる暮らしの特性が育まれました。

その習俗や精神の基層は、その後大陸や西洋から文化の大波があっても取捨選択と変形をして採り込み、日本文明と呼ばれる独特の文化の熟成が果たされています。

他方、現生人類が、出アフリカから南北アメリカ新大陸に進出していく途上の重要な世界史上の位置を占めていることも注目すべき点です。

幸いにしてこの時代の万点にのぼる遺跡が全国に有りますし、当サイトでは既報告の通り、日本祖人こそが定説より早い時期に、アメリカに初めて渡って行ったとも考えていますので。

(了)

米国複数機関の人類学者チームが、11月3日付サイトPhys.org(下記)で、人類の米大陸への初渡米について、当サイトの既報告と同様内容の発表を行いました。

誰が、何処からかは書いてありませんが。そのポイントは以下の通りです。

①定説の14,000年前頃の北米クロービス文化人がベーリング地峡から来たというのは間違い。南米含めて古い遺跡が発見されてきている。

②歩いて来たんじゃない、舟で食が豊かな当時の北太平洋沿岸の「昆布kelpハイウェイ」から来た。

③海水面の上昇で今は海面下である彼らの暮らしから、沖合offshoreの研究が必要だ。

その通りですが、私は、北極海の冷水がベーリング地峡で止まりベーリング海に流れ込まなかった時代の地域の状況を考察する諸学協同の環境シミュレーション(気温、動植物食料等)が重要だと思います。

いずれにしろ、既諸報告のとおり、日本祖人が北海道から30,000年前以降も島々沿岸の北上を続け、初渡米したものと考えています。

記事では、日本の遺跡について、写真の中で -16000~13000としてます、日本の事のPR不足ですね!

日本列島史は40,000年前からで、37,000年前には伊豆・神津島に舟で黒耀石を採りに行き来していますから。世界の学界には知られてないんですね~。

Anthropologist group suggests first humans to the Americas arrived via the kelp highway

November 3, 2017 by Bob Yirka report

Recent archaeological finds show that pre-Clovis people arrived in the Americas before 13,500 years ago, likely via a coastal route along the Pacific Coast. Higher sea levels make finding direct evidence difficult. Credit: (c) J. YOU AND N. …more

(Phys.org)—A team of anthropologists from several institutions in the U.S. has offered a Perspective piece in the journal Science outlining current theories regarding the first humans to populate the Americas. In their paper, they scrap the conventional view that Clovis people making their way across a Bering land bridge were the first to arrive in the Americas—more recent evidence suggests others arrived far earlier, likely using boats to travel just offshore.

As the authors note, for most of the last century, the accepted theory of humans’ first arrival was via the land bridge in what is now the Bering Strait—at the time, sea levels would have been much lower. Those early settlers, named the Clovis people, were theorized to have traveled down a central ice-free corridor into what is now the U.S. approximately 13,500 years ago. But, as the authors also note, evidence since the late 1980s has shown that there were people living in parts of the Americas long before the time of the Clovis migration. Archaeological evidence of people living on islands off of Asia and on the North and South American coasts (some as far south as Chile) has been found going as far back as 14,000 to 18,000 years ago. Evidence has also been found of people living in the North American interior as far back as 16,000 years ago.

All this new evidence, the authors report, has caused most experts in the field to abandon the idea of the Clovis people as the first to arrive. Most now believe that the first people to arrive did so by boat rather than walking, and they did it by following the coasts, not through the interior. This would have been possible, the authors note, because of what has come to be known as the kelp highway—kelp forests growing just offshore. All that kelp, it has been noted, would have provided a rich habitat for sea creatures upon which hearty travelers could feast.

The authors conclude by noting that too little research has been done offshore—the early travelers would have been residing mostly on land that is now covered by the sea due to higher worldwide ocean levels. If the scientific community truly wants to learn more about human migration to the Americas, they suggest, more work needs to be done offshore.

Explore further: New evidence — Clovis people not first to populate North America

More information: Todd J. Braje et al. Finding the first Americans, Science (2017). DOI: 10.1126/science.aao5473

Summary
For much of the 20th century, most archaeologists believed humans first colonized the Americas ∼13,500 years ago via an overland route that crossed Beringia and followed a long and narrow, mostly ice-free corridor to the vast plains of central North America. There, Clovis people and their descendants hunted large game and spread rapidly through the New World. Twentieth-century discoveries of distinctive Clovis artifacts throughout North America, some associated with mammoth or mastodon kill sites, supported this “Clovis-first” model. North America’s coastlines and their rich marine, estuarine, riverine, and terrestrial ecosystems were peripheral to the story of how and when the Americas were first settled by humans. Recent work along the Pacific coastlines of North and South America has revealed that these environments were settled early and continuously provided a rich diversity of subsistence options and technological resources for New World hunter-gatherers.

Journal reference: Science

Read more at: https://phys.org/news/2017-11-anthropologist-group-humans-americas-kelp.html#jCp

(了)

First indigenous American from Eurasia.

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Original Japanese ancestor came to Kyusyu,  southern Japan by crossing sea in around 40,000 BP and prevailed up north to Hokkaido by 30,000BP.

Many Paleolithic sites all over Japan indicates it. Then they probably continued to go up north and stepped in American continent along coastal route before Last Glacial Maximum.

カナダ・モントリオール大学チームUniversity Montréalが、米加国境近くで既に発見されているBlueFishムツ洞窟遺跡で掘り出されたの動物の骨を再精査しました。

遺物はいろいろ出ていますが、中に見られた馬やカリブー(北米産トナカイ)の骨についている下写真の傷は、人の手によるモノで約25,000年前頃という判断をし、今年1月に発表しました。

28,000年前頃のマンモスの骨も既に発見されています。

しかし此の発表も、シベリア・アラスカ・カナダのベーリング地域や北米で発見されている遺跡遺物がせいぜい14,000年前程度以後のモノで、このムツ洞窟遺物の桁違いに孤立した古さから、どうも学界ではっきり認められていないようなのです。

無論こんな場合はいつも、傷が人の手によるものか、年代測定は妥当なのかはしばしば問題になりますが。

さて、人類の渡米については下図で、環太平洋沿いA赤、シベリアからB黄がありますが、欧米学界は長らくBイメージでしたが、近年はB-沿岸のように変わってきているようです。

シベリアBからは、一般にC緑をイメージしますから、そんな大昔に、真冬はマイナス50~40度Cになる内陸極寒における石器時代人の家族移動・生活は、困難なので発見の遺物の古さは信じがたいとの思いが強いようです。

(実は彼らが学校で教わった地図では、一番右と左に遠く離れて分かれていました。くっついていてかつ昆布ハイウェイが走っていることなどもイメージし難いかもです)

私が問題にしたいのは違っています。

ところで欧米学者さん、4万年前に海を越えて九州に渡来し、3万年前には北海道にまで拡がっていた日本祖人が居た事を認識されているのでしょうか?という事です。

帯広の寒い雪の中の暮らしに慣れた人たちの遺跡遺物は豊富にあります。そこからの北上は、食料豊かな処女地で行く手の千島の島々は見えてました(樺太回りなら陸続き)。

そして重要な事は下図の通り、当時のベーリング海は北極海の冷水が入ってこないハワイに繋がる海でした。

海水温はもとより、気温、海流、食物となる動植物、何より移動・生活のし易さが違っていたでしょう。

温かめなので食料動植物が良かったとは一概に言えませんが、ともかく極寒の地での行動や生活が比較的し易かったことは重要です。

ということから、プーチンもいなかったのに(笑)、日本祖人が北海道を出て北上しなかったとは、それまでの現生人類の歩みから考えられません。

さて、日本祖人が北上したとすると、5,000年かけて最も寒くなった最高寒期LGM(約2万年前頃)になる前にアラスカのYukon川を遡行してムツ洞窟に行き、他方、南下して米本土西海岸に達している事は、それまでの人類の歩みから十分あり得る(そういう行程Aの海の民家族は成功確率が高かった)、理解しうるものです。

因みに、祖人子孫の縄文人は、土器が発見された16,500年前頃からそう呼ばれてますので本件に関り有りません、渡米はあくまで縄文人以前の「日本祖人の子孫」の偉業です。

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo
https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

 (了)

ハロウィンの時節となり、派手な入れ墨をする人もいます。

入れ墨のtatooや禁忌のタブーなどは、欧州人がポリネシア人と接して採り入れた言葉といわれてますから、これは数百年前の新しい事です。

世界には未だに万年前の石器時代のような暮らしをしている種族がおり、原色のボディペインティングをして装身具で飾っています。

このペインティングや切り傷つけ(創痕生成)などから体への入れ墨は生まれたのでしょう。

豊穣や戦いへの願い、魔除け・厄禍を防ぐ、仲間の識別、男女とも一人前・成人になった証に、漁撈の安全、獲物の祝い、など様々な理由と仕方の種類があったようです。

彫り込む紋様も、例えば「+」や「✖」などは魔除けの記号であり、トーテム信仰に基づくものであったようです。

顔料も使われ永久に消えない事が、来世へ持っていけて食物を得る、身元を確認するといったことがあったようです。

注目しますのは、南方から台湾、日本列島、ベーリング海地域でも見られ、北米、南米の先住民部族にも見られ、遠隔の地の類似性もあります。

魏志倭人伝(AD3世紀末)の時代になっても倭人は黥面文身して海に潜るヘンな奴たちという扱いでした。

近世でも入墨は残り、生魚や海藻を好んで食すことと共に欧米人に違いを強く意識させています。

今や和食がすっかり素晴らしいものとして世界で受け止められていますが、少し前までは全く考えられない事でした。

人類の起源のアフリカ、裸で過ごせる南方で始まった習俗が北上して拡がり、痛みを伴い入れ墨が今も各地に根強く残っていることは、それが信仰などと結びついた精神性の高いものであったことを窺がわせます。

江戸期の罪人への入れ墨、明治の入墨禁止令の影響は大きいもので、急速に廃れて行きましたが、元来、縄文時代の土偶にも入墨線刻が見られて歴史は古いものです。

4万年前に九州西側の当時の曙海を越えて、家族で列島にやって来て拡がった海の民である日本祖人に想いを馳せる時、おそらくボディペインティング、入れ墨をしていたのではと思います。

さて、DNA分析で日本人は何処から来たのかがよく論じられます。

しかし例えば、アメリカで日系の結婚を重ねた日系5世を考えた場合、DNA分析では日本人となるのでしょうが、言葉も出来ず、和食よりもハンバーガーやステーキの方を好むでしょう。

体と言う容れ物ではなく、遺物として残らない言葉や心や習俗といった脳の働きが重要です。

洞窟絵や土偶などといった物と同様に、消えゆく入墨習俗は重要な心の働きや種族の関係を窺がわせるものとしてもっと研究される必要があるでしょう。

シベリア、アラスカといった着ぶくれする所でも入れ墨の習俗はあるのですから驚きです。

DNA分析と共に、そこに着目すれば、ずっと古い時代に南方の海の民の人々が北上し、日本列島、ベーリング海地域を経て北・南アメリカへ進出して行ったことが、無理なく理解できると思います。

何しろ、どう調べても太平洋を西から東の南米へ万年前に渡って行った痕跡が全く無いからです。

下の写真の遠いブラジル秘境のこの女性は、入れ墨が無ければ全く違和感なく日本で見られますよね。驚きです。

そして入れ墨者をヘンなヤツと思う大陸内部の狩猟族の人々(B)と、沿岸や島々の海の民の人々(A)との特色2区分、史的な違いが注目されます。

閑話休題。

ハロウィンの画像を用いた南方紹介です。

https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

(了)

カリフォルニア大学サンタクルーズ校の主導によるイースター島の古代人DNAの研究結果は「Current Biology」に掲載されていますが、南米との関係が全くないというものでした。

ということは、下図のように西方から航海して移住してきたことになります。

我がサイトでは、アマゾン古部族のDNAがSundaland地域の古部族に近い事や、環太平洋地域の遺跡遺物の状況から、既に幾度となくご説明していますが、現生人類の移動・移住を出アフリカ-Sundaland-日本列島-Beringia-北南アメリカという環太平洋沿岸時計回りの移動・移住(Migration along Pacific Ocean Rim)説を提唱しています。

そして、沿岸ルートが最古としておりますのは、北米の氷床通路が温暖化で開いたのが上図のように12,500年前でして、その時すでに沿岸ルートの南米チリ遺跡(14,000年前頃)にまで進出していたことが分かっています。

北海道を3万年前以降に通過した世界最古のルート。今回の加大の研究結果は、これをはっきり裏付けたものと考えています。

ハロウィンが近づいておりますね。

https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

(了)

人間の進化の歴史では、顎と脊椎が出来た4億年前頃の魚が原点だそうです。

その後、両生類として海辺で暮らし、やがて幾多の変化を経てサルになって、現生人類に進化していきました。

ここで、ヒトの体に残る海・水辺で暮らしたと思われる体験、泳ぎや潜水能力、イルカなどと共に知能に優れ音声コミュニケーション力に優れる点などの海に関わる点が注目され、進化の過程で水辺に馴染む暮らしをしていた種族なのではと思わせます。

4万年前頃、曙海の畔から両生類が陸上に上がるように現生人類が九州に上がり北上しましたが、太平洋側の早い段階での神津島への渡海による黒耀石採取が注目されます。

そして、当時からは海水面が数十mも上昇したために祖代の暮らしの痕跡は見つかりませんが、その近くの海沿い、万年前の三浦半島の夏島遺跡は、何とか祖人の暮らしを想像させます。

四季折々の海の幸や山の幸など今の日本の特色を思わせる多彩な物を食していたことが、貝塚で発見された物から分かります。

既に丸木舟で外洋魚を釣ったり漁網で魚を獲ったりしていたようです。

長く島だったので遺跡が運よく残っていたと言えます。

(遺跡説明)貝類以外に魚類も利用していたことが分かる。出土量が多いボラクロダイスズキハモコチなどは水面近くを回遊する習性を持つことから、やヤスによる突き漁、小型の骨製U字型釣り針が出土していることから釣り針を用いた釣り漁、漁網を用いた漁などが行われていたことが推測できる。またマグロカツオなど外洋性の魚類も見られ、丸木舟によってかなり沖合へ乗り出して漁労活動していたと考えられる。固い殻で覆われたドングリクルミなどの木の実をたたいて砕いたり、すり潰したりする石皿磨石などの石器の道具類が貝層の中から出土している。また、シカイノシシなどの動物の骨や釣り針なども出土している。

四面環海、長い海岸線と島に、そして川辺の高地にも日本祖人のこのような暮らしがあったことを想わせられます。

鹿児島―高知ー和歌山南ー東海南ー伊豆・三浦ー房総、4万年前からの「海の民」日本祖人の暮らしの微かな痕跡が感じられます。

日本祖人をさておいて、アイヌが先住民?腹筋崩壊です。国会決議は、先住民の語を外し、アイヌの人権を尊重する決議と名称変更すべし、日本歴史学の恥辱です。

さて、それでは、早めに渋谷ハロウィンをお楽しみください。

https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

(了)

現在、台湾と日本は1時間の時差がありますが、台湾の人たちの中にこの時差をなくして日本や韓国と同じ時間にしようという意見が出てきています。

現在の日本文化や日本統治時代の良い想い出があることも一因でしょう。

ところでそうなりますと、正に4万年前頃の日本列島史始まりの日本祖代に戻り、下図の曙海の畔が注目されます。

日本祖代の人たちは、どんな顔立ちだったのでしょう?後の時代の縄文人と出アフリカからSundaland(東南アジア)を北上してきた人たちの混じったような顔でしたでしょうか。

さて、よく縄文人は何処から来たのか?という問いが発せられますが、これは誤りです。

日本祖人が、3万年前頃、概ね列島全域に拡がった後、大陸からの新たな異質な狩猟族の進入を2万年前頃に受け、列島での暮らしを多様に熟成させた日本祖代の約2万3,500年という長い時を経て、土器が現れて縄文人と呼ばれていきます。

その頃の人は、当然、列島に継続して住んでいる祖代の人たちであって、ある日に皆が縄文人に変わった訳ではありません。

ところで、「江戸人」と言って1枚の絵を出せるでしょうか?

北の北海道から南の八重山迄生活している多様な人々を1枚でこういう人と言うのはムリでしょう、誤解の元です。

この始まりの日本祖代は、世界の行き止まりの列島で2万年を越える長い時代を過ごした海の民である日本祖人の列島における風俗習慣、文化が作られた時代です。

西・南と北・東の違いや地域ごとの人と暮らしぶりの違いも出てきていることが、残された石器などから分かります。

この日本祖代は、決して無視されるべきではない、ある時から縄文時代と呼ばれていく、未だ学術的な名前すら与えられていない、私たちの遠い祖先である日本祖人が暮らした始まりの時代です。

この国の原風景であり、近年、世界で認められている日本文明の始まりなのです。そして祖先である日本祖人は、おそらくは世界史上初めて北海道から環太平洋地域をアメリカ大陸に渡って行ったと考えられる人たちなのです。
https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

日本祖人の初渡米(2)

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Youは、何しにAmerica へ?

TVインタビュアーの質問に対し、日本祖人が、答えました。

3万年前に、引き続き北海道から次々に見える処女地で手つかずの食料がある島々や沿岸陸地を越えて北上して行ったら、入っちゃったんです。

そりゃ当時はカムチャッカからベリンギア地峡沿岸を入って行けば、国境標識も無いですから気が付くことも感慨を抱くことも当然なく、カナダを経て米本土への進入もそういう同じ事情でしたね。

偉大かつ幸運だった、昆布ハイウェイ

当時、北極海の冷水は地峡があったためにベーリング海に流れ込まない、ハワイに繋がる比較的温かい海でした。

世界の学者は長い間、最初にアメリカに来たのは、シベリア(B)からだと考えてきました。

近年、Bのルートで米国本土へ入った時期とOregon州で見つかった遺物(実は南米の遺物なども)の時期などから、特有共通の石器を使うクロービス文化人を含めて北太平洋沿岸ルートが注目されています。

しかし、依然として何となく、B人が来たというイメージがあります。

それは、①A海の民の日本祖人が、北海道にまで北上して3万年前に雪の中でしっかり暮らせていた事、また、千島列島越えは次々に行く手の島々が見えていたこと、

②北太平洋沿岸が比較的暖かく、北海道と最寒のBeringia地域の真冬の温度差は想像に反し差が小さく、また、「昆布ハイウェイ」と呼ばれる海の民の移動生活に適したルートであったこと、

③何よりも海水面の数十m上昇により沿岸生活痕が海中で、残る痕跡は後から来た強いBのものが殆どであることなどが、よく認識されていないからでしょう。

極東シベリア東部チュコト地域でのBの時期・状況もはっきりしません(15,000BP頃?)。簡単に海の民への切り替えは、出来ないでしょう。

そして、④今もって、当時の温かったベーリング海沿岸の気候、地形、食料になる動植物の状況、移動生活の要領などが、学際的に研究され想定されていないからでしょう。

従って、今もって日本祖人が新大陸アメリカへ渡って行ったことをしっかり研究記述した論文は世界に有りません。(欧米人にとっては、地図の一番右と左を繋げていくことが思いのほか難しいのかも?)

いずれにしろ最寒期(LGM)には、ルート上で最も緯度が高く寒いベーリング地峡沿岸を、舟で既に通過して行ったA:日本祖人の家族群の南下した移住成功確率が一番高かったでしょう。

海中の遺跡が見つかっていなくても、周辺の遺跡等の諸状況から、理論的にこういう提唱をすることがあっていいTheoretical ancientology「理論歴史考古」(遺跡・遺物の学でない)分野もまだまだ低調、未熟です。

沿岸をシベリアから来た人たちが海に慣れたB’の人たちとして生まれていれば、Aに続きましたが。
Mr. President Trump, they were the first Americans !
https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

日本祖人の初渡米に注目!

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中国科学アカデミーによる湖南省で発見された天元人DNA(4万年前)分析の最近の発表では、下図のように中南米にまで拡がっているとされ、欧州ではアジアとの違いも注目されるでしょう。

確かに東部ユーラシア・アジアで、万年前の時代に拡がって行ったのはそうなんでしょう。3000年前頃には、更に、スンダランド地域にまで拡がっています。

ところで、この分析と米国Harvard医科大が頭抱えた、上図黒丸の豪・パプアとアマゾン古部族のDNAの類似性の問題を併せ考え、カムチャッカ半島のDNA、そして人類史の補助線というべきSundalandに目を向ければ、それらのリンケージが上図のように認識されます。

不思議な事ですが、日本において4-3万年前の旧石器遺跡・遺物が豊富に発見されている状況を、こういう世界人類史の文脈で考察した論文は意外に有りません。

さて、インド、東南アジアからカムチャッカを経て南米というリンクに注目する事は、出アフリカ人類の最古の進出ルートとして、南米に至る環太平洋沿岸に沿うものがあった事を認識することになります。

一番問題となるのは、北方領土~千島列島~カムチャッカ半島東岸~ベーリング地峡沿岸を行く可能性ですが、このサイトの読者の皆さんには既にお馴染みのものです。

最新の研究により、米国西部海岸のオレゴン州の古い遺物などが従来の下図Beringia地峡ルートでは説明できず、昆布ハイウェイで沿岸を渡って来たのではとなってきていますよね。

残念ながら、何となくシベリア内陸東部からというイメージが世界の学界の主流のようです。

当サイトでは、次々に見えた千島列島越えやアラスカの寒さなどを踏まえ、重要な点としてベーリング海に北極海の冷水が入っていなかった当時の状況や動植物の東西対称性などを指摘し、南米における古い遺跡・遺物の情報と併せその最古の移住進出を提唱(MPOR説)しています。

それはとりもなおさず、環太平洋ルートで通過して行ったそのリレー中間の4-3万年前BP日本祖人(今は列島で発見しにくいDNA)が、初渡米したことを示すものであります!(進出可能という前述内容の前回分もご参照ください)

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

4万年前頃、南方のSundalandから北上した子孫たちが、曙海の畔での暮らしから家族で越えて九州にやって来て北上して行き、北海道にまで拡がった日本祖人の暮らしに迫ります。

下図のように、先ず、列島全域に拡がった「海の民」の暮らし振りの基層の上に、大陸からの第2層の人々が、北の樺太からと西の曙海越えの両方向から流入しました。

そのためその特徴は、西と東・北に別れ、人と文化の流れから太平洋側と日本海側に別れ、更にこの2つの流れの重なった中央部分に重心があった、重層そして熟成されたものと言えるでしょう。

(今に繋がる特徴と思いませんか?関ヶ原戦が話題ですし)

他国と違って、行き止まりと言われる日本列島における人々と文化の分かり易い特徴です。

因みに、祖代後に縄文時代を経て、弥生時代に西から米文化を持った第3層の人々が渡来して関西に重心が移り、徳川時代にまた実は大昔のように戻ったと言えるでしょう。

これが、長い旧石器時代と言われる後期の日本祖代における全国の遺跡・遺物(主に石器形式)から導かれる暮らし振りの「くにのかたち」です。

西からのA西型と北からのB北型という異なった石器形式に別れ、更に、黒曜石をみますと図のように、原産地を中心に円の広い地域の仲間で交換され、北海道の白滝産や北部九州の腰岳産は、域外にも出て行っていました。

更に、祖代から縄紋時代に移行していく頃には、細部の石器道具の作り方が地域ごとに違いを見せて来ていて暮らしぶりもグルーピングできそうな特色があったものと思わせます。

結構、道州制の議論とかみ合っていたり、今も見られる西と東・北の様々な違い(丸餅と角餅などなど)を思わせる驚きの附合と言えるものです。

日本祖代の時期的な区分は下記の前回投稿をご参照ください。

祖人分布10.5

さて、このように日本祖代を見てきますと、日本史は、近世以降を知れば十分という人もいますが、不遜でしょう。

海の民の暮らし、どんどん重なって行った4万年にわたる暮らしぶりは、精神面を含めていろいろ繋がっていることでしょう。

(了)

 

4万年前頃、曙海の畔から多くの家族が海を越えて九州(八重山にも?)にやって来て、3万年前頃には日本祖人は北海道にまで拡がりました。

しかし、2.9万年前、鹿児島・姶良大噴火に遭って九州と西日本は大きな被害を受けました。そして一部の渡来を含めて或る程度その回復がありました。

最寒期の2万年前頃には、北と西の双方から暮らし振りの違う狩猟族、寒冷適応族の新たなかなりの人々の流入がありました。

1.35万年前頃には、関東にはっきり人々の多い列島の新たな形が整いました。そして、列島における生活に一般的に土器が含まれる縄紋時代となります。

このように、日本祖代(約2.8万年)で始まりの「くにのかたち」が出来上がって縄紋時代に移行していくときは、関東に人が多い現代の「国のかたち」に似ていたことが驚きです!(この後の時代には色々変化しますが)

日本全国に残された旧石器遺跡から人々―日本祖人に注目すれば、

①前期 曙海の畔の西・南から第1回目の人々が、初めて海を越え入って来て北に拡がって行った西高北低

②中期 姶良大噴火の九州・西日本被害により相対的な西低北高と一部渡来によるその回復化

③後期 最寒期に北と西から第2回目の多くの人々が入って来て、寒気が緩む中で列島に広く及んで平準化、そして関東のはっきりした肥大化

です。

暮らし振りは、先ず列島地域に「海の民」の暮らしを主に高地の川辺にも人々が拡がって始原風景が出来ました。ちょっと前まで、日本人は生魚と海藻を食べる、好む、変なヤツと言われていました。

そして、噴火大災害に遭ってその損失・傷を何とか回復していった2万年前頃の最寒期に、新たに大陸の狩猟・寒冷適応族という暮らしぶりの異なる人々が北の樺太から、また、狭くなった西の曙海の海峡を越えてかなり入って来ました。

そのことで生業が海、そして更にはっきり陸の狩猟等もとなって行き、関東に更に人が集まって縄紋時代(万年間)に移行していったようです。

日本祖代とは、初めて日本列島に今に繋がる現生人類の海の民が入って来て列島中に拡がり、後期には更に北と西の2方向から大陸より暮らしぶりの違う狩猟・寒冷適応の人々が入って来て拡がりの収まりを見せ、一応「くにのかたち」が整った時代と言えるでしょう。

そこには、列島の北・東北部と西・南部及び太平洋側と日本海側の違い、関東と甲信越の繋がりといった実は今に続く特色が窺がえるものでした。日本史は、中世から、近世から学べば十分と言う人がいますが、誤解でしょう。

祖代の後期には世界最古の土器も出現しましたが、やがて文字通り縄紋の土器が広範に使われる縄紋時代へと暮らし振りもはっきり変わっていきます。

(因みに万年を経た縄紋末期には、お米を持った人々が西から入って来て陸上主体の弥生時代になって行き西高北低化の人口は増加し、盛んに争いも生じました。)

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

 

4万年前頃から始まった我が国の歴史において、日本祖人が37,000年前頃という大昔に、伊豆半島沖の神津島に舟で海を越えて黒耀石を採取に行き来していました。

そして南関東や伊豆などの広域においてそんな古い時代にその黒耀石の交換が行われていた事も世界の学界に驚きをもって迎えられています。

先史人たちの狩りなどの重要な道具の宝であった輝く切れ味鋭い黒耀石は、他に北海道、本州中央、隠岐の島、九州北部などの原産地が良く知られています。

海水面が数十m低かった当時の日本祖代の「海の民」の木・竹・骨・皮などを活用した暮らしは今は海の下ですが、陸に残された黒耀石の石器は、当時の状況を探る大きな要素です。

神津島行きの渡海の時代と広く見つかっている事実から、日本祖人は曙海の畔から海を家族で越えて九州(八重山も?)に来た時には、既に黒耀石の価値を知っており、探して交換をした経験を有していただろうと考えられることが重要です。沈んだSundalandから北上してきましたので。

さて、例えば日本語はいつできたのか? 一昔前にある学者は、母音子音もはっきりしない状況からまあ言語らしくなったのは3,000年前頃だろうと言いました。

私は、日本祖人の作・操舟、渡海、黒耀石採集、交換などとSundaland地域の状況を考えれば、4万年前、九州に来た頃から既に結構な話コミュニケーションが出来ていたものと考えます。

日本語は、ぴったりした発地が分からない孤立語ですが、おら、あんた、好いとるは、英語や中国語のI love you.に比し古いことが分かります。シチュエーションを考えれば、おら、で十分、おら、あんたで十二分でしょう。見つめていますので。

同じような人たちによる以心伝心があった海岸の小社会の大きなものであったことを窺がわせ、いろんな部族が居る内陸狩猟族の慌ただしい暮らしぶりとは違ったのです。結論を早く言えなどと言われない。

ところで黒耀石です。

バンドゥンの小さな展示館にも黒耀石の石器は飾られ、隣町のGarutは大原産地ですが、国際学会の資料には載っていません。その資料から、不思議で当然かもしれませんが、人類世界の文明の源流痕跡が窺がわれます。

環太平洋の豊かな黒耀石分布は、現生人類の進出展開によく合っていて、日本は今や一文明と言われる理由が納得しうる豊かさですし、人類がユーラシアに出た地域やメソポタミア・欧州への進出の源流に符合していることも不思議です。

アメリカ新大陸の状況は、今後の解明ということかもしれませんね。

そして、既に報告した環太平洋の火山帯・人類展開史とも符合しているのです。鋭いガラス状の黒耀石が火山帯で見付かるのは当然ですが、人類史の進出展開と足並みを揃えていることが不思議です。

 
 (了)
歴史の裏付けのない「アイヌ先住民国会決議」は名称変更を!
我が国先史における皆さんの議論は、まだまだ「縄文」で留まっているようです。結論的に、4万年前頃からの列島史始まりの「日本祖代」は、少なくとも3つの大きな出来事が挙げられるようです。
1. 現生人類の移動及び我が国の旧石器遺跡分布の状況から、南方の現生人類・海の民が、4万年前頃、初めて曙海(仮称)を越えて九州(八重山含む?)にやって来ました。
 
そして太平洋側と日本海側を北上し、3万年前頃には北海道にまで拡がり至り、また、内陸高地にも拡がりました(当初の列島の原風景)。
2. 2.9万年前頃、鹿児島・姶良大噴火があり、特に九州は壊滅的に、西日本も大きな被害を受け、火山灰は東北にまで降りました。当時の人々が、海辺川辺で暮らしていたので、農業ほどではなかったとしても寒冷化や灰汚染は厳しいものでしたでしょう。
他方、この大災害が人々の精神心理に及ぼした影響も極めて大きかったものと思われます。
実は私は日本祖人が、北海道から千島~新大陸アメリカへ渡ったと考えていますが、この大噴火が人々を北方に押し出す契機になったのかも知れないと考えています。

3. 氷期最寒期の2万年前頃、大陸から樺太を経て北海道へ、また、北東ア平野から九州へと狩猟族の渡来があり、列島人は圧迫されあるいは混じり合い文化的に大きな影響が及びました。

因みにアイヌの先祖は、早くてもこの時期の渡来とみられ、我が国の南方発「先住民」からは史実の裏付けの無い政治的な国会決議(2008年)は名称変更が必要です(例えば、「アイヌの人権を尊重する国会決議」のように)。
何よりも、簡単に「先住民族」などと言える人がいないことが、万年熟成の長い歴史を有する我が国の特徴ですから。
なお、アイヌの古い言い伝えでは、小柄な海の民・先住民を北に追いやったとなっており、明治時代にこの事は一旦否定されてましたが、現生人類の出アフリカということなどが分かってきている現代の歴史認識からは、納得できる伝承です。
お雇い外国人のモース教授が大森貝塚を発見して考古学を導入し、坪井教授が唱えた先住小人コロボックル説は、今こそ見直されるべきと考えます。

そして、最寒期の終わる寒暖乾湿の変動の激しい状況の中、土器が出現し(1.65万年前頃)、生活の変化が始まって縄文時代(万年間強続く)と呼ばれていきます。
主たる海の民・日本祖人と大陸渡来の一部狩猟族の混じった縄文人という訳です。
地域によって違いがありましたが、何しろお国の始まりの事ですので、研究中だがとして、子供たちに教えて良いのではと思います。
遺跡から出て来る人骨は、水産物・植物を主に食し、多くが毛皮パンツで槍持って大型獣を追っていた訳ではないようです。
少し前までは、日本人と言えば生魚や海藻を好む変なヤツと言われていましたが、列島史始まりからの特徴をよく表していると考えます。
ところで祖代末期の最初の土器は、私は、堅いアクの強い植物や暖かくなって臭くなり易い水産物などを煮たのでは、と思っています。
そして、百年前の日本人を撮った写真は、魏志倭人伝に書かれた海の民・倭人そのもののようです。曙海を越えて来た日本祖人の子孫であることを感じさせますね。
(了)

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