前回まで日本の始まりに係る下図のパンカル半島地域の状況と日本の状況を見てきました。

日本の遺跡状況をみますと、4~3万年前頃の現生人類の進出展開の状況は、明らかに南古北新です。樺太~北海道ルートでの進入は、ずっと後の2万年前頃とみられています。

そして、南西部日本に至るルートとしては、沿岸ルートと内陸ルートがありますが、当時の海水面が数十m低く海浜低地部が広大な東アジア平野となっていましたので、いずれのルートであってもこの平野沿岸から海を越えて九州に渡ってきたことになります。

次に、日本へは沖縄方面から南九州へと、東アジア平野の北部から北部九州へという2通りのルートがありますが、当時のこの平野の沿岸北部と南部の人たちの暮らしぶりを考えれば、沿岸地域内は北部(黄海地域)も南部(台湾地域)も似たような海浜に馴染んだ人々の似たような暮らしぶりでしたでしょう。

従って、最初に日本の最西端の与那国島に渡来したのか、北部九州に渡来したのかという問いはあり得ますが、知ることは難しく、また、東アジア平野の似たような人たちが渡来してますので、2方向のいずれが先かを論ずることはそれほど意味はないでしょう。

南の沖縄~南九州ルートの方が、長距離の島々を伝っていく必要があること、途中のトカラ列島地域での暮らしが容易ではなかったのではということ、そして、九州・沖縄における現在確認されている遺跡の状況などから最初に九州に入ってきたのは北部からであろうと考えられます。

そして、後続の人たちを含めて太平洋側と日本海側を北上展開していき、3万年前頃には北海道に達し(3.2万年前頃には台湾方向から沖縄へ)ほぼ日本列島に進出展開しました。この始まりの列島に暮らした人たちを日本祖人と仮称しています。(現在の学界では、名前を付されて認識されていませんが。)

日本祖人は、2.9万年前頃の姶良大噴火で九州・西日本地域の人たちが大打撃を受け、2万年前頃には、樺太~北海道へ、九州へも北から狩猟民族が入ってきて混在し、1.65万年前頃の青森で見つかった土器をもってその時期以降は縄文人と呼ばれることになります。

4~2万年頃まで日本に定着した日本祖人は、当時の遺跡からみるに沿岸・河川沿いに発展していった、基本的には”海辺の民”としての暮らしぶりであり、東アジア平野に至るまでの子孫変化と地域特性の差異はあるものの、下図のパンカル地域の遺跡に見られる暮らしぶりと共通性があったものと考えて良いでしょう。

始まりの日本人は直系祖先ですので当然、注目されますが、同様に近年、新大陸アメリカの始まりの時代の人々に関心が高まっています。(約250年、欧州などから来たアメリカ人も自分の土地の始まりに関心が向いた真のアメリカ人になったようです。)

さて通説は、下図のBのとおり、2万年前頃、シベリアからベーリング地峡を経て北米に入りクローヴィス文化を生み、南下して南米に至り拡がったという認識でした。

ところが近年、南米チリのモンテ・ヴェルデ遺跡では、クローヴィスと同様に古くかつ全く違った系統の石器が発見され、また、アマゾン流域の古い部族のDNAは、北米Native(インディアン)やシベリア系統とは全く異なり、パンカル地域の古い民族に(アフリカ系とも)近いものであるという驚きの発見が出てきました。

従って、南米進入はA,C,D,E,ルートが一応考えられますが、C,D,Eルートはその時代のこれまでの考古学上の認識からはとても考えられず、Aルートが注目されるところとなっています。

ここで重要なことは、アマゾン古部族とシベリア型が似ておらず原南方型のパンカル地域の古い人たちが近かったとすれば、Aルートということは日本列島を経由していることとなり、その事は日本祖人が新大陸アメリカに渡ったことを意味する人類史上の注目すべき大きなこと!になります。

それではその当時の日本はどんな状況だったのかということになりますが、先に述べました通り、那覇山下遺跡を含め北海道の十勝青葉の森遺跡まで十分列島沿岸地域に拡がっており、経由地として納得しうるものです。

 

海水面は数十m当時より上昇しているため、遺跡・遺物は今は海中で発見が極めて困難なことと、3.2万年前頃には、伊豆半島から当時の貴重な石材である黒曜石を取るために舟で神津島に渡っている事が確認されています。

そして、関東から静岡の広域で黒曜石の交易が行われていた日本祖人の社会文化性も経由地として注目されます。

残念ながら、この時代の日本祖人の人骨を列島の土壌で発見することも極めて困難ですし、万年の時は鉄をも融かし残しませんが。

下図は、そもそも現生人類の始まり時代がどのようであったのかをグリーンランドの厚い氷床を最高峰から3千mの深さまでボーリングし、氷に残された結果を分析して気温の面から考察したものです。

太い黒線枠内は、25万年前(下部)から1万年前(上部)の間の気温変化を示したもので、今に比べると2.5℃の幅で温暖湿潤と寒冷乾燥の変化の大きい時代であったことが分かります。(左枠内は1万年前から現在で、変化は小さく安定的です。)

既に火と石器を使いユーラシア大陸にジャワや北京などの原人の時代を経て、20万年前頃、現生人類がアフリカで誕生し定着しました。そして、出アフリカを果たしアジアに拡がりました。

5万年前頃には言葉・コミュニケーションの格段の発達があったと言われており、5~4万年前頃には数十kmを舟(筏?)で豪にまで渡っています。

そして、4万年頃には舟で外洋に出て漁撈し、洞窟で手型や動物絵を描画し亡くなった人を埋葬するというというような精神性がみられる事も注目されます。

暖かい良い環境で活発に活動し人口を増加させたことが進歩発展を促したのか、寒い乾燥の厳しい環境が生き残り適応の進化を促したのか興味深い点です。

基礎能力は既に現代人とあまり違わず、赤子を今、東京に存在させることができれば中学校は卒業できるでしょうし、海での行動や動植物、環境に関する知見と対応行動力は都会の現代人より遥かに進んでいたことだろうと思います。

さて、そのような日本祖人(主体はα、原南方型)は、アメリカ新大陸に行けたのでしょうか?いろいろ検討していきます。

(了)

現生人類が20万年前頃アフリカで誕生し、出北東アフリカにより紅海~アラビア半島南端~ホルムズ地域からユーラシアに達しました(10万年前頃?)。

その後、下図のように寒冷乾燥化の氷河期であったため海水面が数十m低下して陸地が拡がった沿岸地域をゆっくり(7.4万年前頃のスマトラ島トバの大噴火で人口激減、回復しつつ)生活の場と人口を拡大しながら進み、4万年前頃、日本の九州に達したとみられています。

当時拡がっていた東アジア平野までは沿岸ルートと内陸ルートがあります。アフリカ出身の人たちの気候への適応、移動及び食料安定獲得の容易性、安全性などから沿岸ルートの可能性が高いとみられています。

東アジア平野から日本へは、海浜地域での生活に慣れ操舟力と海に関する知見に優れた部族が舟で海を渡って来ました。平野北部から北部九州への渡海ルートと平野南部から南西諸島を北上して南九州に達したルートが考えられます。

当時の東アジア平野沿岸部の暮らしを考えますと、北部と南部で暮らしぶりに大きな差があったとは考えられませんので、九州のいずれの地域であっても渡来してその後北上して行った始まりの人々(日本祖人)は一様性あるものでしたでしょう。

沿岸ルートでは、パンカル半島Sundalandが、その広さ、長い海岸線と多い河川、今より気温が3-5℃くらい低い過ごし易さと豊かな動植物食料などから多くの人々の文化が育まれたでしょうし、更に豪にまで進出していったことからも注目されます。

そこの遺跡・遺物については、前回お伝えしたとおりです。

広大な地域を生活の場としており、いわゆる石器人の狩猟採集の暮らしというよりは水産物の比重が高く、外洋魚も含まれてますので操舟力はもとより網・釣り針を使うに至っていたとも考えられ、また、洞窟絵や素朴な土偶作りなどから精神的な成熟も見られます。

人類は既に言語によるコミュニケーション力が高まっていましたし、竹・木及び石器等による道具の製作などが行われ、Sundalandから豪Sahur Landにまで渡っていますが、下図の点線のように動植物様相を異にする地域に適応しつつ、時に数十kmを舟で渡っています。

これらの状況を見ますと、かなり進んだ海の民が海浜地域を北上して東アジア平野に達していたことが窺がわれます。

なお、その後、3万数千年を経た三国志・日巫子の時代にあっても当時やって来た海の民の子孫が、内陸系の魏呉蜀の激しい争いの外側で、狭められた半島や沿岸地域、島々で暮らしを続けていた様子が窺がえます。

他方、4万年前頃に九州に渡来した日本祖人が、下図のとおり伊豆の南海上の神津島に黒曜石を取りに舟で渡っていて研究者を驚かせていますが、パンカル地域の遺跡や豪への進出などを考えますと無理なく理解できます。

(神津島への渡海)

そしてこの黒曜石が、関東及び伊豆地方など広域で交易されていたことから、日本祖人の進んだ社会性も窺がえるものとなっています。

それでは、九州に渡来してからはどうかと見ますと、太平洋岸地域と日本海側に残った旧石器時代の当該時期の遺跡の状況は下図のとおりです。

誠に残念ながら、姶良大噴火の影響から見え難いところがありますが、両正面とも同じような速度で沿岸を北に進出して行っている状況が分かります。

そして、太平洋岸沿いは北海道にまで達し、また、関東から日本海側などや中国山地など、沿岸のみならず高地川傍にまで広域に進出している適応・活動力が窺がえます。

このように、東南アジアのパンカル地域から日本列島の北海道にまで沿岸地域を、また、川傍の内陸高地にまで着実に現生人類が進出している状況が分かります。

そして、この長い進出展開に特に黒潮が大きな影響を及ぼしていることと思われます。無ければあるいは逆流であれば歩みの速度が変わり、内陸の人々の流入による混合なども違ったものとなったでしょうし、その後の国柄にも影響したかもしれません。

そして、この後にいろいろな人たちが西、南、北から入ってきて中で混じり合い日本人が形成されますが、ある時期に大量の人たちが短期に入って来て日本人の組成に大影響を与えたという部族の痕跡はないそうで、長い間の部族ごとの違いがあるサラダボールのやがて坩堝ということでしょう。

さて、こういう状況から我が国に先住民族と言える人びとはいたでしょうか? 後に樺太の方から南下してきた人たちの子孫であれば先住ではないですし、北上していった人たちの中のグループの一つであれば、そういう中の争いであって先住民族問題ではないでしょう。

長~い歴史ある島国とはそういう性格のものでしょう。

ところで、

当時からは海水面が数十m上昇しているため、海浜の遺跡・遺物は海中ですし、万年の時は鉄をも融かすと言われていますので生活痕跡を知り得る多くの物の発見は困難です。

しかし、見つかっている遺物などから、旧石器人に分類される日本祖人は、これまで考えられていたよりも進んでいたであろうことが窺がわれ、特に、東南アジアのパンカル地域、北上途上の他の地域と関連付け乍ら研究する重要性に思い至ります。

更に、東南アジアのパンカル地域が日本祖人の、いや、我々の遠~い父祖の地であることを感じます。

(了)

 

 

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日本史の授業は具体的には縄文時代(1.6万年前~)からであり、日本の始まりの4万年前頃は、学校で教わった記憶はなくどうも教科書に様子が書かれることもないようですが、とても重要なことと考えています。

科学信仰のある種の誤解から、神話や国の開闢の様相は歴史・考古学的な裏付けがないとして扱われませんが、民族の記憶としてあるいは始まりの原点として見つめる努力は必要です。例えばギリシャ神話は、荒唐無稽な事であっても教えられており今の人にも大きな影響を与えていますね。

さて、日本の始まり頃の様子ですが、当時は氷河期であり最も寒かった最終氷期最寒冷LGM期(2万年前頃)よりは少し暖かかったですが、今より2-4度C寒かったでしょう。

寒暖が不安定で、気温もさることながら海水面が数十m今より低下し上下していましたので、列島の地形も様相が大分違っていましたし、針葉樹と草原がかなり拡がっていたことでしょう。

そして、東南アジアから北上した黒潮が列島を挟むように流れていたのが大きな特徴です。海や川は今の乱獲もなく極めて豊富な魚介類がいたことでしょう。例えば北海道ではかなり前になりますが、にしん御殿と呼ばれる家屋敷が沢山建つほどニシンが獲れていました。

当時は、朝鮮半島も台湾もなく広大な東アジア平野と緑豊かな朝鮮山地、台湾高地でした。いずれにしても日本の始まりは、西の東アジア平野から一家が、一族が舟で九州に渡来しました。

黒潮の太平洋沿岸はもとより、近代に至っても北前船が活躍していますことから、まずは列島沿岸沿いを北上して拡がって行ったとみられます。

南西諸島方向からも舟で渡り九州にまで来たのかは関心のあるところです。

当時の東アジア平野は、北と南で人びとの暮らしぶりががそれほど違っていたとも思われず、また、海に馴染み海を越えて舟で家族として九州にやって来た人たちですので、渡海の時期が同じ頃であれば日本祖人としてのその特徴に差はあまりなかったことでしょう。

問題は、渡って来る前の東アジア平野沿岸にどういう人たちが居たかです。

東南アジア沿岸から北上したか、中国内陸から東進して来たかですが、出アフリカ後の移動の容易、食料の獲得、猛獣・毒蛇などに対する生活の安全、アフリカに近い気候などから、南方からの海岸の北上沿いルートと思われています。

出アフリカで紅海を越えた人類の豪にまで至る進出の早さ、舟・筏で数十kmを渡っていることなどからもそう考えられます。大きな海面上昇で遺物などは今や水中ですが。

板子1枚下は地獄と言われる渡海は、長い間積み重ねられた豊富な経験と知見knowhowがものをいう世界ですので、寒い内陸での狩猟生活を続けてきた人が海辺に来て渡海できるというものでは有りません。(蒙古来襲の失敗、難しい遣唐使船の渡海成功)

現代の軍においても海・海浜で移動・活動するとなればやはり海軍・海兵隊であり、”塩っ気”のない陸軍兵には厳しいことです。海を越えて陸に上がってもかなりの間は地面が揺れていますので。

さてそうなりますと、出発の東南アジア沿岸での現生人類の状況はどうであったかですが、暑さで人骨が残らず万年の時は鉄をも融かす難しさと言われる地での遺跡・遺物を発見する訳ですが、その後人々があまり使わなかった洞窟などに結構残っています。

下図の通り、広範囲で多くの人たちが海の民を感じさせる暮らしていたことが分かります。

舟で外洋に出て漁をしていて海産物をよく食し、磨かれた石器を使用し、埋葬はもとより既に洞窟絵や素朴な作りですが土製の飾りなどの精神性も見られます。彼らと子孫が北上して日本に着く頃は更にいろいろなことを身に付けていたことでしょう。

因みにオーストラリアへの旧石器時代の現生人類の進出は、数十kmの海を越えて4万年前頃から5万年前と言われています。上図のフィリピン南部タボン遺跡群で4.7万年前頃の人骨が発見されていますので、それらの事から北上して日本列島へは、4-3.8万年前頃に初めて渡来したものと考えられています。

さて、やって来た日本祖人はどんな様子でしょう? おそらく肌の色はまだ黒褐色、貝などの飾りも付けかなり入れ墨をした目のくりっとした小柄な人たちで、会話コミュニケーション、基本脳力はかなり現代に近く、動植物・自然に対する理解と対応力は優れていたでしょう。

上図で紹介した人たちの子孫である彼らは、舟を操り木竹道具と石器を上手に操り、海浜・河口・川の魚介類・小動物・植物を主に食し、女性・老人・子供たちは既に浜辺や川傍の素朴な苫屋での定住的な暮らしぶりであり、今で言う自然共生の生活であっただろうと私は考えています。

勇を鼓して渡海した日本列島は、緑豊かで手つかずの動植物食物がある良い所でしたので、家族が増え更に渡来してくる人もおり北へと拡がって行ったことでしょう。

火山噴火、地震、津波、そして台風が難点でしたが。

あるべき遺跡・遺物の多くは水中ですが、この程度のことは学校で子供たちに教えて良いと思います。更なる暮らしぶりについては、今も世界に残る中から子供たちが適当と思うものを選んでイメージを膨らませたら良いでしょう。

結論は、自然を大切に共生適応することの意義の見直しであり、災害対応を忘れず、そしてポケモン遊びはそこそこに野外に親しむことの重要さでしょう。

(了)

 

 

 

 

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パンカル地域と日本の関わりにつきまして、巡り来る暑い夏ですので現代史に飛びましてスカルノ碑を紹介します。

今回、インドネシアの若いジャーナリストWenri Wanhar(ジャカルタのスカルノ大卒、雑誌「歴史」記者)が、碑に光を当てインドネシアの独立における日本人の活躍と寄与を掘り起こし出版しました。標題は、日本の情報活動の軌跡というものです。

本の話の中心は、大東亜戦争でインドネシアに進駐した日本軍の海軍武官府の活動であり、インドネシア独立宣言に至る関連と独立闘争の物心両面の支援です。

彼は、スカルノ碑から話をはじめていますが、それは東京の真ん中、江戸市中を見下ろせる、曲垣平九郎が見事馬で石段を駆け上がって全国にその名を轟かせたという逸話があり、愛宕神社、NHK記念館のある愛宕山の上り口で青松寺に接する植垣の中にひっそりとあります。

(以下、写真はJejak Intel Jepang、wikipediaから)

 

碑は、諸般の事情からスカルノ(これで姓名)とだけ書かれ肩書がありません。碑文の拙訳は、市来龍夫君と吉住留五郎君へ(あなた方が寄与したインドネシアの)独立は一(インドネシア)民族の(ための)ものならず、全人類のものなり(なんですよ!)1958年2月15日東京にてスカルノ というものです。

肩書の無いことが、かえって人間から人間に贈られた心の碑文と感じます。人類20万年史の十大ニュースに入る戦後のアジア・アフリカの植民地解放・独立。長く困難な独立達成における日本人・軍の物心両面の寄与を身に染みて知り、バンドンでのAA会議を主導したスカルノ大統領ならではの表白碑文です。

スカルノ大統領によって手書きされた碑文は、国章の入ったインドネシア大統領の用箋に書かれ、碑の樹立に奔走した西嶋重忠氏に渡されたもので、同じく手書きの独立宣言と違って全く修正のないものです。

なお、碑文の裏面には、インドネシア勤務歴ある作家の富沢有為男氏(冨澤元陸幕長の父)が両名の在イ歴等について記しています。

市来、吉住両名とも海外雄飛で戦前にインドネシアに渡航して職に就き言葉を身に付け、共に商業新聞で勤務して日本の国策、現地の民族主義運動等を理解し、嘱託として日本軍に関わっていきました。

市来龍夫は、熊本人吉出身、日本進駐後に創設された郷土防衛軍PETAで歩兵操典を翻訳しつつ訓練生を指導し、戦後はアブドゥル・ラフマン名で闘争の現場に身を投じて敵の銃弾により戦死した英雄戦士です。

他方、吉住留五郎は、山形鶴岡出身、海軍武官府嘱託でジャカルタ本部員として活躍したことから本でかなりの頁が割かれています。

渡航間にスパイ容疑で蘭軍に逮捕され拷問を受けた豪刑務所での収監病歴、闘争闘士への車両通信機等の物的な支援、憲兵隊に目を付けられているスカルノ等の闘士たちを守りながら草案の起草及び宣言の実施へと進めた支援、進駐する連合軍に渡すべき日本軍の武器等を基地隊長と闘争勢力の間に立って引き渡しのお膳立ての交渉に尽力するなど裏面史での活躍がよく描かれています。

その後、アリフ名でインドネシア独立軍に参加、東部ジャワの山中で病死しました。

 

吉住留五郎                     市来龍夫

戦後のインドネシアの独立闘争には、約千名にのぼる日本軍人等が身を賭して関わったと言われていますので、碑に記された両名はその代表と言ってよいでしょう。

戦後のアジア・アフリカの植民地からの解放と独立は、人類史に特筆される出来事ですが、中でもアジア・アフリカ会議を主導したインドネシアの血を流した困難な独立闘争と達成は際立っており、それに対する日本人の寄与は高く評価されてよいものです。

本件、欧米には愉快な事でなく現下の日本には重要な協調相手ですし、インドネシアにとっては自らの活躍による達成であることから、注目されない事情は理解できますが、静かに小さくとも日本人は語り伝えるべき事です。

碑は、愛宕山のNHK記念館の足元にある日本、アジア、世界史の正に第1級の歴史資料で灯台下暗しです。スペシャルやクローズアップ現代してほしいですし、池上 彰の子供解説もしてもらいたいものです。

他方、インドネシアの独立は、終戦2年前に日本軍によって創設され教育訓練された郷土防衛軍PETAの要員の活躍が中核でした。歩兵操典・軍人勅諭をもとに日本軍人教官に育てられた幹部が終戦時には3万数千人の勢力にまで発展させていました。

PETAと地域の若者、インドネシア名に変えて戦いに身を投じたいわゆる残留日本軍人たちが、戻って来て再び植民地を復活させようとした蘭正規軍に対し立ち上がって闘争しました。独立宣言後、4年5ヶ月にわたる戦争で80万人と言われる犠牲によって困難な独立が達成されました。

 

この独立からスカルノ大統領は、その後のアジア・アフリカ会議(1955年)を主導し、バンドン精神・平和十原則が高らかに謳い上げられました。尤も、現在の南・東シナ海での緊張のように、まさか平和宣言した仲間が大きな問題になるなど当時は全く想像もできなかった時の流れですが。

スカルノ碑は、ジュウグンイアンフ、ロウムシャをテーマとする日本の教授が採り上げることも教科書に載ることもなく、不都合な真実であるかのように佇んでいます。戦後、いまだ終わらずです。

 (了)

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ジャワのマジャパヒト王国は、13世紀末から約200年間、パンカル地域に広大な支配を及ぼし(下写真図が最大)、遠く琉球王国とも交流があったことで知られています。

当時のレプリカの木造帆船(20m)が建造され、今回、ジャカルタを出発して79日をかけて下写真図のような北上の親善航海を果たして東京湾の船橋港に到着しています。

日本の始まりを考えますと、日本祖人は4万年前頃、数十mは海水面が低下して拡がっていた海浜をパンカル地域、ベトナムから東アジア平野北部を経て舟で、狭まっていた対馬海峡を渡り北九州に入ったものと思います。

他方、東アジア平野南部(台湾地区)正面から舟で島伝いに沖縄(3.2万年前の人骨遺跡)まで、あるいはパンカル地域からフィリピン(北部に6.7万年前の人骨遺跡)までは同様に進出しており、もしかするとそこから舟でこの正面に渡って、日本祖人は南西諸島を北上し南九州に達していたかも知れません(トカラ列島越えは厳しく図も点線!?)。

私がそのように考えるのは、紅海を越え出アフリカを果たした現生人類の小部族が、下図のように海面下降によって拡がった海浜沿いに進出展開していくことが安全な移動や食料の獲得など種々の点で容易であると考えるからです。

数十万年前頃、ジャワ原人や北京原人が居たアジアにおいては、日本でも12万年前くらいの石器が発見され、インドネシアのフローレス島では小人ホモエレクトス原人が発見されていますので、アジアにおいても原人は広範囲にいた筈です。

では何故、欧州がネアンデルタール人との共存軋轢による進出展開の遅れがあったのに、アジアでは無かったように見えるのか?私は、海浜河川沿いに発展した言わば海・水辺の民であったため、内陸の原人と軋轢無くまずは進出展開できたことによるのではと考えています。

更には、そもそも出アフリカを果たした小部族は、海浜・水産物食に適応した人たちであったのではと考えています。さすれば早い豪までの進出展開も理解できます。

さて、アジアの楽園Sundaland地域では、最終氷期の最寒期(2万年前頃)でさえも温暖な気候、広大な海浜・陸地の動植物の食料など恵まれた条件下にありましたので、人口も増大し多くの人の集まりの中から文化も育まれたものと考えます。

そして、2万年前頃にはベーリング地峡を越えて北米大陸へ入って行ったものと考えられていましたが、もっと早い時期に入っていたのではという説が出てきました。

昨年、Harvard医科大が、アマゾン3部族のDNAを調べたところ、北米やユーラシアには同種のものを見いだせず、アボリジニ、アンダマン、パプアなどの出アフリカ後の早い時期の人々が近いという驚きの調査結果を発表しました。

このことの意味合いは、内陸での寒冷降雪地に適応を果たしDNA変化をさせた人々でないことを示しています。従って、ベーリング地峡から入ったインディアンの人たちでないということでDNAが合わないこともよく理解できます。

別に、アボリジニと南インドの人たちのDNAが近いということから本サイトでは、そこも含め下図点線部をパンカル人・地域と認識することとしました。

 

問題は、上図のAからBに直路渡ったとは考えられないことです。現在の考古学の成果では太平洋に人類が乗り出したのはせいぜい3,500年前くらいでゼロが一つ違うのです。

すると、黒潮ルート沿いに日本を経由してDNA変化を起こすことなく北米大陸に達し、南下してアマゾンに至ったと考えざるを得ません(RLPPルート自説)。

他方、

日本における石器の調査から2.5~2万年前頃、 沿海州から樺太を経て北海道に多くの人々が入ってきています。

シベリア南部・沿海州との石器の共通性などから既に寒冷降雪地に適応したDNA変化を果たした人たちと見られますので、前述のパンカル子孫が日本を経由して北米へ渡って入って行ったのはそれ以前だろうと私は考えます。

下図のように、4万年前頃、日本列島に入って来て北海道にまで進出展開していった日本祖人は、樺太からの南下以前に北海道に達していることが石器調査から明らかですので、前述の内容と矛盾なく理解できます。

更に近年の研究により、パンカル人と日本人のDNAの近さも認められますので、パンカル地域からの北上、日本経由の北米渡米が一通り矛盾なく理解できます。

おそらく日本祖人は、小柄で肌の色もかなり黒茶色であったでしょう。これが今も南西諸島に多く見られる人たちの特徴に近いものでもあります。

洞窟絵を描き、欧州では小屋を造り、言語コミュニケーション能力は基本的に現代人と近いレベルのパンカル人の子孫は、3.2万年前頃には那覇市に存在し、伊豆の神津島に黒曜石を獲りに舟を操って渡洋し、関東の各地で交易しています。

今回のマジャパヒト号の親善訪問は、14世紀の頃のことだけでなく、実は基本的なところで4万年前頃の日本の始まり時代をも推測させるものであると考えています。

そして、これまで全く歯牙にもかけられなかった日本からの北太平洋ルートの北米渡洋と南米への南下も、Harvard医科大の調査成果から荒唐無稽なことではなく、研究に値するものであると思わせる状況になってきていると考えます。

(了)

 

 

 

 

 

 

番外―Cool Japan へ一歩前進

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ゴキほいほい

中の”待つぞえ”の所へぞろぞろと入って行く。

唯一、彼のした良い事がこれ。先頭は、よせばいいのに恥かくために最後に顔出した口舌だけの噂の男、お次は、それは曲が違うだろうといういつもの歌で呆れられている他を非難するだけの男・女のブーメラン4人組、アブない学生もどきの連中、暗い隅のドンだのゴロ、一部の歪みマスゴミ、・・・やったね~~の一掃ポイ。

少しは子供たちに見せられるものになっていくなら仕方ない出費のゴキほい設置料。ちゃんとした批判勢力がいない地方にもしっかり置いて積年のゴキを除去し、次の永田町向けは〇側をぐっと大きくして、あ、それと退場すべき年寄が杖なしでも入れるのにしなくちゃ。

政治は、最も大切にされ尊敬をもって見られるものであるべきでしょう。党利党略は論外、無知利己の輩や食い扶持にしてる政治屋は排除されねばなりません。

これを疎かにしているといずれ大きな災禍に襲われることは戦前に、いや数年前に体験済みです。

(了)

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東ジャワの州都スラバヤでAndi遺跡文化保護局長さんからお聞きし、スラバヤ西南モジョケルトからプナングンガン山麓へ上がって訪れたジョロツンドJolotundo遺跡ですが、出かけたのは訳がありますと前回お伝えしました。

Jolotundo遺跡の基本構造は、プナングンガン山麓を切り開いて造られており、背後の山岩壁の前に階段を上がると本殿・奥の祠が見えます。階段を上がった所は、広い水平の池で平面テラスとなっています。

東ジャワには、かって多くの古い山麓神社があり、その様式はPunden berundak崇められている雛壇式墓場、古代廟、村人が誓いを立てる所などと呼ばれるものです。地域の人々の語り伝えをJohn Miksicが図にしたものが下図であり、高校の歴史教科書にも載っています。

私が気づく特徴は、例えば番号を振ったようなものです。

今回訪れたJolotundo遺跡は、この東ジャワ伝統の古い山麓神社の基本的な構造を踏襲してヒンドゥー教様式で造られているとみられます。

 

人類の百貨店の当地では、古い聖地に新たに何度も宗教的な施設が造られている例は多々あります。また、今回は東ジャワを見ましたが、かっては西ジャワ、いやスマトラ島などにも在ったかも知れません。

さて、

エジプトの先史建造物は世界に誇るピラミッド群ですが、そこに最初で最後の女性のファラオ、ハトシェプストの造った葬祭殿があります。

ハトシェプストの数奇な運命は、治世が終わるとその栄光の事績を描いた数々のものが削り取られ抹消されるという正にドラマでした。

そのミイラは発見されず、彼女のナースであったミイラの傍らにボロ雑巾のようになって転がっているミイラ、専門のエジプト学者たちも全く気付かなったそれが女王なのではないのかという話があるくらいです。

 「ハトシェプスト」の画像検索結果

(wikipedia)                                                           (ameblo)

他の男性ファラオたちとは異なり、女性なるがゆえにピラミッドは造れず代わりに後世の人々をして豪壮比類なきといわしめる葬祭殿を、ルクソール西岸の断崖を背に造りました。

(nabe-scm.com)

問題は、そのハトシェプストの葬祭殿と東ジャワのJolotundo遺跡に至る古い山麓神社の基本的な構造が類似ではないかというものです。単なる歴シニアの私の意見です。番号を振った所などが同様と思います。

先生方に聞けば、ハトシェプストのは紀元前15世紀半ば、Jolotundo遺跡は紀元997年で、古い山麓神社は、紀元前後だろうかはっきりしないということになります。そもそも似てないと言われる先生もいるでしょう。

私が注目しますのは、①東ジャワの村人たちがハトシェプストの葬祭殿を知り、かつ、真似をしたとは思えないこと。②一部のエジプト専門家が、ハトシェプストの比類なき葬祭殿は、エジプトの風土から生まれたとはとても思えない、他所から導入したものではないかと言っていること。にあります。

エジプトのファラオたちが大航海によって、神の地・宝物の地のPuntから金、香辛料、木、動物など沢山の貴重な宝物を得ていたことはヒエログリフの壁画に描かれ史実として認識されていますが、Puntの場所については東部エチオピアなど諸説あり不明です。

そして、ハトシェプスト女王が、このPunt大遠征により神に捧げる沢山の貴重な品々を得たことは、今も詳しく壁画等に残っています。

私は、その得た品物の種類・特色と海の民フェニキアの研究を経て、PuntはパンカルPangkal地域と考えています(本サイト―フェニキア項)ので、ハトシェプスト女王が葬祭殿の元になるデザインをも得ていたとしても驚きません。

むしろ、一部のエジプト専門家が、葬祭殿のデザインは何処か外からもたらされたと言うならば、それはパンカル地域しかないだろうと考えています。

 

実にロマン溢れる驚きの大ミステリーであり、引き続き追っかけて参ります。

(了)

 

 

 

 

 

 

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前回お伝えした東ジャワの州都スラバヤ西南モジョケルトからプナングンガン山麓へ上がったジョロツンドJolotundo遺跡ですが、出かけたのは訳があります。

それは、東ジャワに昔あったという神社について、人々の言い伝えをもとに描かれた図があります。今は無いにしてもそこを一度この目で見てみたいというものです。

Andi歴史文化保護局長さんに会ってその話をしたところ、東ジャワには同様の遺跡が多くあり、スラバヤからの近さ、行き易さからジョロツンドがいいだろうというアドヴァイスをいただき出かけました。バス、ミニバスを乗り継ぎ最後は、バイクタクシーで上っていきました。

正面の左右から階段で上ることができ、上がった裏側に祠があり、お参りする人もいることは既にお伝えしたとおりです。

問題は、遺跡の場所の選定と全体の造りであるその基本構造ですが、この遺跡は①山麓斜面を切り開いたもので、②遺跡の背後は壁のようであり自然の立派な大岩が数個あり、③前面に開けた本殿施設があります。

大岩の大切さは、バリからの一行の老師が、足の弱さにも拘わらず惹かれて皆が行かない所に上がっていっていることがそれをよく示しています。

そして、正面の堂々とした本殿前には広い池が平面テラスのように、また、中央と側方の階段も特徴です。正面右手の大木は、明らかに日本ならご神木です(ここでは、お参りのご一行が特に関心を示す様子は見られませんでしたが)。

そして、私が強く惹かれ見に行きたいものだと考えた図は下のようなもので、巨石構造物の1種であるPunden berundak(崇められている雛壇式墓場、古代廟)としてインドネシアの伝統遺産紹介本、高校歴史教科書にも掲載されています。

個々の単語の意味は、辞書では次の通りです。

Punden・・・始祖の墳墓、聖なる場所、村民が誓いを立てる場所

berundak・・・階段状の、広い段々になった  sawah(田) berundak・・・棚田

山麓斜面を切り開き、広い平坦なテラスとそこに至る中央及び側方の階段を有し、背後に屏風のように感じられる壁とテラス上の施設に加え奥にも小さな施設があります。

さて、最初に紹介した東ジャワ各地に同種の施設があるジョロツンド遺跡とこの古代廟をあらためて比べてじっくりご覧ください。このページですと小さくなって分かりにくいのが残念ですが。

 

私には、場所の選定、造りの基本が同じように見えます。時代は、左のJolotundo遺跡が千年前頃、右は、2-3千年前頃と考えられていますがよく分かりません。

そして、その時代よりもずっと前にこの図の更に元となる原始的な施設が在ったかもしれないと思わせるところが此処、人類の百貨店です。

此処、人類の百貨店では、古代のアニミズムから仏教・ヒンドゥー教、そしてイスラム教(キリスト教も)が時代を異にして入ってきていますが、昔からの聖地が生かされて新たな施設がそこに造られている例は多いです。

そして、これらの場所、基本構造が類似なものであると認識しますと、実は驚きの大変不思議なことに導かれていきます。次回をお楽しみに。

(了)

 

号外

カテゴリー: 最新情報,前線ルポ,遺跡

日本を語り前へ進める力ある候補を、良識の府へ!!

4万年前頃、列島に入り拡がった「海の民」日本祖人、そして縄文人・弥生人へ、始まりの祖先の地であるパンカル半島の遺跡や環太平洋の古くからの人の繫がりの史的研究への支援・協力を力強く前へ進める、世界を視野のCool Japan 候補に1票を!!(史的な語彙・見解は、筆者責。)

(了)

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東ジャワには、古くからの聖地にその後ヒンドゥー教の施設があちこちに建設されており、興味深いものがあるため、独立闘争の聖地である大都市スラバヤの見学と併せてそれ程遠くない所を訪ねてみようということで出かけました。

スラバヤ西南の1-2時間で行ける町モジョケルト、そこに高名を聞いていたAndi Soid文化保護局長さんがおられるのでコンタクトし、アルジュン山と並ぶプナングンガン山麓などにもある遺跡についてアドヴァイスを求めるべく連絡しました。

丁度スラバヤ市街に業務で出てこられていたAndi局長さんとお会いでき、プナングンガン山麓のJolotundo遺跡が近いし適当で良いとのアドヴァイスをいただきました。

バス1.5時間、乗り合いミニバス1時間を乗り継いで最後はバイクタクシー・オジェに乗って遺跡に向かいました約30分。途中アルジュン山・プナングンガン山がよく見え、御殿場から須走口に向かうような景色を楽しみながら行きました。

Jolotundo遺跡の入口                         Andi文化保護局BPCB長

遺跡の前には休憩・土産店もあり、聖なる地とみているイスラム教徒訪問者の祈りの場所ムショーラもあります。入口を入って進んで90度左に向きを換えると遺跡に正対します。正面の階段を上がって本殿遺跡になります。

日本でも人気の隣のバリ島から、白装束の人たちがこの聖地にお参りに来ています。時々皆さんでバスを仕立てて来ているとのことです。千年前(AD997)に建てられた山麓の丈の高い木々に囲まれた静かな寺院です。

此処は水が豊富であり、イスラム教徒を見慣れた私には馴染みがないですが、若さ維持の効能の聖水を有難く思う人たちにとっては素晴らしい所で水を浴びています(世界第3位とか)。

昔は水口が52あったとかで、大池と別に今も左右に沐浴できる小施設があります。男性はかなりの程度脱衣していますし、女性も衣服の濡れを全く気にしていません。(皆さんお参りの後、着替えています。)

ここで祈りの一夜を過ごす人もいるそうです。

そして私には印象深いのですが、この背景に実に立派な天然の岩が自然のまま沢山あります。ここが選ばれた一つの理由と考えています。

下の写真で若い人が無心にお祈りしていますが、上方を見てください、白装束の一行のリーダーがお歳で足も少し不自由なのにわざわざ背景の岩群に惹かれて登って行き鎮座しています。

若い人たちは行きませんが、明らかに(私と同じように)この岩群をも有難いものとして意識しています。日本の磐座に通ずるものがあると感じます。

そして正面からは見えませんが、本殿中央の上の裏奥に小さな祠のようないわば奥の院があります。

こちらは多くの人が正面横の階段を上がって行って見ており、お参りする人もいてお花や供物などが見られます。

当国はイスラム教の国と思われていますが、遺跡だけでなくこのように現在も種々の信仰、伝統文化がそれぞれを尊重しながら生きています、多様性の中の統一。

左手から登っていける山頂の方にはお墓も多いそうで、此処は明らかに当国各地で見られる万年の古い山岳信仰が受け継がれてきています。

(了)

 

 

 

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私がそういう目で見てしまうことも一因ですが、パンカル地域では万年の伝統を感じることが多いです。

休日朝に子供たちが清掃活動をしていることを見ますが、ちょっとした道路や橋の修復など公共のために助け合う、gotong -royongの精神が強調されています。

歴史教科書の先史大昔の項の記述でも、人々は既に助け合っていたとの記述になっていますが、学術的にも現生人類の類人猿との大きな違いはコミュニケーションとこの助け合いにあったことが裏付けられています。(下写真の格好はちょっと現代的なハイカラですが)

更によく見ますと、先取りした今の男女共同参画にもなっています。

旅しましたスラウェシ島のマカッサルの港町の像ですが、どこかの国のように空しいエライさんの像ではなく、伝統衣装を纏った父母、男女ペアの像で女性が前の、日本にまで共通する天照大神、日巫子の昔の伝統の母系社会を感じます。

そして、万年の遺物が残らないため注目されませんが、おそらくいろいろ活用されていたであろうと思われますのが、木と竹製品です。

隣の市のGarutの湖には、日本同様に足で漕ぐおもちゃ舟がありますが、ここでは万年の筏舟もあるところが正に人類史の百貨店です。

そして、日本に至るまで竹製品を佳しと感じ、生活のための素晴らしい芸術作品が生まれているところも正に伝統継承の技とらしさです。

実はこれらは、内陸で石器・金属を多用し寒冷降雪の地で大型哺乳動物を狩猟して切り裂き食していた人たちとの大きな違いの一つでしょう。

生活ぶりや気性も含め、現代があらためて注目すべき木や竹を多用した寒さのない地で魚介獲りする海・舟の民の特質をよく示すものであると考えています。私たちが忘れてしまった多様な魚獲りの木・竹製品も沢山あります。

(了)

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従来から下図のパンカル地域東端の豪アボリジニやパプアの人たちとインドの南部やアンダマン諸島の人たちのDNAが近い古いものであることは知られています。

現生人類が、アフリカを出て10万年前頃からユーラシア東南端を移り住みながらパンカル地域に至ったと考えられていますので、その時代の地域の人々は同類であったことはよく理解できます。

定説では、その後北上し2万年前頃には北端のベーリング地峡を越えて北米大陸に入り、南米に入ってからは千年くらいという短さで南端まで至り拡がったと考えられていました。

それに対し、パンカル地域を発し、2万年前よりももっと古い時代から環太平洋を海浜を歩き舟を使用し、アメリカ大陸に渡り南米に達したという現生人類の展開の様相を唱えるのがRLPP自説です。

(第1図)

ハーヴァード医科大が、南米アマゾンの3部族の示すDNAは、北米大陸には見つからずパンカル地域に残っている豪アボリジニ等と近い古いものであると発表しました。

直路の太平洋横断の移住が全く新しいせいぜい4-3千年前以降のことですので、これまで等閑に付されてきたアメリカ大陸での諸事象を総合して考察し北回りのRLPPルート説が出る訳です。

そして重要なことは、ベーリング地峡を越えて北米大陸に入って行った人とは異なり、寒冷降雪地に適応したDNAの変化をしていない言わば元のままの人たちが南米に至っているという不思議な、驚くべき内容であることです。

さて今回、インドネシア南スラウェシのマカッサル地域を旅し、有名なマロス洞窟で手型・動物絵を見ましたが、その約30km北のパンケッPangkep洞窟で下の写真のような素朴な舟も見ました。

洞窟に住み毛皮をまとい、石器を使用して動物を狩猟する石器人のイメージと舟の取り合わせはやはり珍しいものです。

しかし、人と舟の取り合わせは舟が万年の遺物として残らないだけに歴史上等閑に付されてきたのだと思います。そして、洞窟で生活していた石器人であっても食の主体は貝であったということも確認しました。

やはり海辺、川辺が初期人類の生活の地であったことを実感します。更に、下の写真のように洞窟に暮らしながら複数人が乗って艪で漕いでいる舟には帆があります。これまで考えられているよりも舟との関わりは深く、かつ、造舟、行動力は進んでいたのでしょう。

今でも見られる当地の家は、山間に居住する種族でありながら明らかに舟との強い結びつきのある暮らしをした伝統を伝える人たちであることを窺がわせます。

パンカル地域から北上した人類の展開を考えますと、海浜を、舟も使用して移住、行動していたことを思わせますが、3世紀半ばの「やまたい国」の日巫子の時代であってもその痕跡は残っていたことが分かります。

内陸で寒冷降雪地への適応を遂げていたであろう魏・呉・蜀の人たちの争う三国志の時代にあって異質な人々が沿岸部に赤円のように残っていますが、パンカル地域から初期に北上した人たちの末裔であろうと考えられます。

倭の国も、魏志倭人伝では入れ墨し海に潜る者として明らかに異質な者たちとしての存在が記されていて、パンカル地域から北上した人たちの末裔の存在を窺がわせます。

そもそも3万2千年前頃という古い時代に、伊豆半島南方の神津島に渡航して黒曜石を発見し、繰り返し渡って交易に活用されていたことも明らかになっています。

その黒曜石の交易は、離島を含め私たちが考える以上に広域で活発な行動力があったことを示しており、北海道白滝の物は、沿海州にまで及んでいます。

これらのことから、3万数千年という古い時代に遡っても当時の人たちは海を恒常的に越えて活動しうる舟を造り操れる行動力のあったことが分かります。正に、基本的には海の民であったのです。

そして、最近の調査で北米大陸西岸で発見された9千年前のケネウィック人骨が、ベーリング地峡越えの人たちと違うアリューシャン列島の方のルートで渡米した者とみられるという調査結果が発表されました。

今や、南米に至ったか否かが問題ではなく、アリューシャン列島の島々を伝って北米に達したのか(今後の石器遺物の発見に期待)、それとも渡り鳥を見ていて陸地の存在を予想し短期間に海流に乗って渡洋して北米に達したのかが注目されます。

これまで全く学界がまともに相手してきていない時計回り馬蹄型の環太平洋ルートは、人類展開史上の重要問題として総合的な地域研究が期待されます。

(了)

 

 

 

 

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前回は、ヒトと水の深い関連について考えました。

アフリカでヒトは、気候変動で森の食料が減ったためそこを出て重要な水が得られる所でそこの食物にも対応していった、また、天敵であるヒョウやライオンなどのネコ科動物は水が苦手なので、水中は逃げ場所にもなり水辺は安心できる棲み処であったのではないか、などがヒトの体にも進化をもたらしたものと考えます。

火、簡単な道具と言葉コミュニケーションを獲得したヒトは、それらをもって水、食、安全が得やすく確保される生活が当時の基本です。そして、湖・川の水辺からやがて海水域へ適応していくのはそう難しいことではないでしょう。

この水辺という食べる食品と棲み処の幅の広さの適応性(当初は寒冷降雪地を除く。)が、氷河・乾燥期の海水面が低下し移動しやすい安全な海浜が拡がった地域において人口を増やしながら、海浜のマングローブという生き物が豊富な地形の特色へ適応しつつ、まずは東南方世界に早く進出して行けた理由でしょう。

 

従って、人類史初期の営みは海浜・川辺にあったと考えていますが、当時からは海水面が130mも上昇していますので痕跡の発見が極めて困難で、石以外の木、竹といった重要な生活の遺物は万年の時の長さに堪えません。

陸上で発見された遺跡・遺物を主にした現在の歴史記述となっていることは理解できますが、その偏重には疑念があります。

当地に住んで訪問した土地や種々の資料から、人類史初期の営みが海浜・川辺にあったことを私は「歴シニア」として確信しています。

今回、南スラウェシ・マカッサル、東ジャワ・スラバヤ地域を行動しましたが、スラバヤの独立闘争記念塔博物館の壁画で此処の人たちが普通にイメージする伝統の暮らしの基本が正に海浜・川辺にあることに感じ入りました。

万年前から続いたマカッサル北のマロス洞窟では、洞窟暮らしであっても魚介類や舟と密接な海の民の暮らしでした。

勿論、マカッサル地域で発見される石器は動物を狩猟し食していたことも示していますが、マロスの当時の海浜(現遺跡公園)、海岸崖の地形、貝塚群は明らかに魚介類が主たる食であったことを示しています。

 

パンカル半島から、ユーラシア大陸東岸地域、比・台湾・日本などの石器人の暮らしを欧州のように”狩猟・採集”と表現するのは誤解を招くと考えています。私は、水産物(川を含む)を得ることを漁撈というのであれば、漁撈及び狩猟採集の暮らしとすべきと考えます。

このことは、その後の歴史を考える上でも重要であり、この漁撈を主に暮らした人々とユーラシア内陸で狩猟を主に暮らした人々とではその後大きく違った発展の道筋をたどり、両者を対比して捉えることが歴史理解をより適切にし、また、寒冷降雪地への適応を遂げたかどうかの区分も重要な尺度であると考えています。

その後の歴史は、狩猟を主に寒冷降雪地への適応を遂げた戦いに強い、広域での行動力のある種族がリードするところとなりました。(農耕と牧畜という区分も重要です。)

そして、現代の繁栄をもたらしたと言えますが、地球環境の悪化、争いや貧富の差などの諸問題も副産物としてあります。従って今の時代、人類初期の(結果として)自然と調和し漁撈を主にした海浜・川辺の暮らし方に参考とすべき点があり、まずは概念としてしっかり認識する必要があると考えています。

それは、4万年前頃、列島に移り住んできた日本祖人から縄文期の人たちの暮らし、私たち日本人の原点を考える上で重要なことであるからです。

2万年前頃には、特に北方から狩猟を主とし寒冷降雪地への適応を果たした人たちが多数入ってきていますが、先住者の海浜・川辺での暮らしぶりの影響を受けたと思われますし。

また、1万年前頃の新宿、市ヶ谷で暮らした縄文人は、成人男性が狩猟を行った食の主体は海浜・川辺の暮らしぶりのようにみられます。

この老若男女の役割の違いを踏まえた時代ごとの食の主体、暮らしのイメージ化も重要で、今や先史研究において単なる狩猟採集とするのでは表現が荒いでしょう。

(了)

 

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フェニキアの活躍した更にずっと以前、そもそも我々に繋がる人類史の始まりはアフリカ東北部から紅海の海に乗り出したバンドから始まりますが、このことが現生人類史の原点なのではないかと考えています。

つまり、進化上サルから決定的に分かれたと言えるこの海へ乗り出したということにもっと注目する必要があると考えます。

第1に、私たち現生人類の体について、サルになる前のずっと遠い昔に海から上がった当時の痕跡を残しているのか、サルから分かれるころの前後に淡水の水辺で暮らしていたのか、ともかく水に馴染む幾つかの特徴があります。羊水から生まれますし。

何といっても人の一番の特徴はいずれ出産や言語にも影響してくる直立二足歩行ですが水中では浮力が働き無理なくこの体型に移行していけます。

また、サルと違って体毛が薄く皮下脂肪が多いですが水に戻ったクジラやアザラシなどは、水中での行動がし易く冷たい水温に対応するためそうなっています。

人間の手には水掻きの痕跡がある、赤ちゃんは泳げる、女性は水中出産ができ水中交尾もできるなどいろいろな特徴があります。感情で泣き、涙を流すこともコミュニケーション上の重要な特徴です。

そして、ヒトの場合、潜る前に大きく息を吸い水中では息をとめたり吐きだしたりと自由に呼吸することができますが、他の類人猿はできず水に潜れないという大きな違いがあります。

また、このことが「あ~~」と「あっ」の違いを自由にできることになり、やがて高度の言葉ができる体の構造上の基盤ともなっています。

気候変動で森の食料が減り水辺の食物に対応した、天敵であるヒョウやライオンなどのネコ科動物は水が苦手なので、水中は逃げ場所にもなり水辺は安心できる棲み処であったのではないか、などもこの進化をもたらしたものとも考えられます。

そして、湖・川辺からやがて海水域への適応はそう無理なことではないでしょう。

この食べる食品の幅の広さ、棲み処の幅の広さという適応性(当初は寒冷降雪地を除く。)が、海水面が低下し移動しやすい安全な海浜が拡がった氷河・乾燥期にも人口を増やしながらまずは東南方世界に進出していけた理由でしょう。

そして、海浜のマングローブという地形の特色への適応も注目されます。

(Wikipedia マングローブ)

干潟の性質を持ちつつ、そこに樹木が密生する場所である。干潟は、河川上流からや海から供給される有機物が集まって分解される場所であるため、非常に生産力の大きい環境であり、多くの生物の活動が見られる場所である。

主要な動物は海産の底生生物甲殻類貝類等)や魚類であるが、哺乳類鳥類昆虫類なども利用している。アイゴ類やハゼ類など、多くの小魚がみられ、さらにそれらを捕食するフエダイ類やオオウナギなどの大型魚もいる。

マングローブが自然の防波堤となることで、津波の人への被害の原因となる漂流物体が食い止められるというものである。紅海では砂漠の沿岸でマングローブの形成が試みられている。

今回、マラッカ海峡に面するスマトラ島の北部・東部を旅し、考古学研究所や博物館などを訪れました。容易に想像できますが、万年の昔から環境に適応し海浜・川岸の民として出アフリカを果たした現生人類が生きてきたことを実感しました。

鉄も溶ける万年の時の長さに貝塚以外には残る物が殆どなく、生活の場は今は海底ですし、どうしても遺物が残る洞窟の生活に考古学の注目が集まりますが、それは明らかに少数派のことです。洞窟が収容できる人数など明らかに限りがありますし。

このことをまず歴史の事実ではなく真実として、記述の中心に据える必要があります。

そのことから、海・川の交易が、一部の狩猟と栽培・家畜・工芸品などが、埋葬などの習俗が、そして階層ある社会の組織化がもっと早い時代に果たされていたことが推定されます。

これまで等閑に付されていたメソポタミア文明以前の最終氷河期(2万年前頃)に遡るいわゆる石器人の活動力を見直す必要があります。

即ち、石器人と呼ぶよりも”低地の水辺人社会”というべき生活実態を持った人たちによるサルの社会と決定的に異なる活動力を有する人間の「文明の曙」時代・原点と認識すべきです。

トルコ東南部のギョベクリ・テペ遺跡では、驚きの巨石建造物が、1.2万年前頃に大規模に造られ続けています。

このホームページで既にお伝えした海浜・舟行ルートによる寒冷降雪地適応を受けていない現生人類・日本祖人のアメリカ進出の可能性などもその1例です。

小学生くらいはスマホなどから解き放ち、仕事で忙しい大人たちもレジャーで焚火と水辺に親しむようにもっと社会的に野外活動の環境を整えましょう。

そうすれば、眠っている日本祖人のDNA要素が活き活きして本来の日本人らしい健全な人間味を取り戻し、勉強・仕事の能率も上がり、殺伐とした事件もずっと減るのではと南のこの地で思い至ります。

(了)

 

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海の民フェニキアFhoeniciaをずっと追ってきましたが、史上あまり採り上げられないのは遺跡・遺物が陸上主体にならざるを得ないこと、フェニキアがギリシャ、ローマに敗れたことで、歴史の研究・記述をリードしている欧米の人たちの関心が今一つであったのはないかと感じていることが根底にあります。

一時は東西の交易の中心として栄華を誇ったエジプト・アレキサンドリアAlexandria、その知の宝庫であった図書館にはフェニキアに関する記述が豊富にあったと言われていますが、失われているのは誠に残念です。

そして、そもそも人類史初期の営みは海浜・川岸にあったと考えていますが、当時からは海水面が130mも上昇していますので発見が極めて困難なため、陸上遺跡・遺物を主にした歴史の偏重に対する疑念があります。

(現在、仮に海水面が130m上昇しますと世界の主要な都市は殆ど海没し、日本でも主要な都市は長野、甲府、山形などに残る程度になります。)

また、石以外の木、竹といった重要な生活の遺物はそもそも鉄をも溶かすと言われる万年の時の長さに堪えませんので、実証という点で現状がやむを得ないという理解はできますが。

更にもう1点、歴史の記述が発見され実証されたことだけで記述することが本当に真実に迫っているのかという全く別の疑念があります。

その疑念は、当地に来て有名なジャワ原人Jawa manに会いに行き、益々強まりました。

見てください、彼らは所在なげに裸で立っています。実証される物が有りませんのでこうなります。但し、重要な実証は彼らが洞窟ではなく川岸の平地で生活していたことです。

虎なども居た地で百万年前に遡ろうかという原人でさえ、川岸の平地で暮らしていました。当時は分かりませんが、私が訪れた中ジャワ・ソロの夜は涼しい快適なものでしたが、所在なげに立っているような暮らしでなかっただろうことは想像できます。

つまり、発見された物を主に歴史を描くことは着実、真実そうでその実、真実を描いてはいないということです。人里離れた洞窟に遺物が残り実証できるのは理解できますが、数に限りある洞窟暮らしkehidupan dalam goaは、現生人類初期の暮らしを考える場合、その主体ではなかったであろうということです。

従って、人類史の主体を描く場合、実証に依拠するに努めつつももっと緩やかに想像力を働かせて”筈だろう”という諸説を展開すべきであると考えます。実証を積み重ねた定説がしばしば大きく覆るのが人類史ですから。

つまり、実験物理学と理論物理学の例でいえば、もっと理論(歴史考古)学とでも呼ぶべき分野がおおらかに充実してよいと思うのです。

さて、十万年前頃にアフリカを出てkeluar dari Afrikaユーラシアに達した現生人類の部族は、火と石器を扱い協力のコミュニケーション力もあったことから、ここへきて感じますがもっと赤子、幼児を加え年寄りもいたでしょう。学術的には「バンド」と呼ばれる小部族として。

 wikipedia紅海イエメン側

現在、出アフリカの成功バンドは、海水面が数十mは低下していた状況で、アフリカ東北―紅海―イエメン―アラビア半島南側―ペルシア湾―ユーラシア到達と考えられています。

それは、環境に適応し得た運の良いバンドが拡大していったことでもあります。スエズ運河正面のように出アフリカし得てもやがて消えたバンドも無数にあったであろう上でのことです。

この成功バンドは、狭まっていたとはいえともかく紅海を渡り越えてイエメンYemenに達しています。ここで私のアフリカ勤務体験に基づく歴シニアの実感なんですが、この紅海越えは、注目してよい大変重要なことと思います。

それは、700万年前頃に最後の枝分かれをしたサル・チンパンジーと決定的に違う特性だからです。アフリカ西部アンゴラの浜辺の食堂で食事をしていたとき、広い海辺で2人の少年が竿を持って海の中で遊んでいるのを見て人とサルの違いを強く感じました。

紅海越えのバンドは、その後の数的な拡大を考えれば、何かに追われ迫られ海に逃げ込んでいったわけでは有りません。

筏を使ったにしてもこの海に乗り出していくという行動は画期的ですが、考えたいのはその行動の前に助走、即ちバンドの皆が海の水を厭わない慣れがあったことです。

さて、下の人類の進化図evolusiを見ました時に、200,000年前頃、火を自在に扱えるmengunakan apiようになってから今の我々に継がります現生人類asal manusia modernがアフリカで誕生し、100,000年前頃には海を越えユーラシアに渡りmenyebarang ke Eurasia、そして、50,000BP年前頃のコミュニケーション力、40,000BP年前頃からの芸術的創造性の進化が特筆されます。

しかし、この進化図には有りませんが、海を越えてユーラシアへ渡った人たちは、ライオンやトラなどはもとより、森のチンパンジーと全く違う、水を厭わず水産物をも食するという火の使用に匹敵する意義ある優れた水辺適応 の進化素地を上図のどこかで遂げていたのでは考えます。

こんな様子は、チンパンジーには考えられません。森や草原で生きる縛りから完全に解き放たれています。

この適応進化を遂げたのは、いつ頃、(アフリカの)何処で、何故か、は人類史の重要な問題と感じています。(そして、もう一つがその後の展開過程での寒冷降雪地適応 です。)

我々に繋がる人類史の始まりは海に乗り出したバンドから始まりますが、考えようによってはむしろ水産物をも食し海の出アフリカを果たせる進化を遂げた種族の出現を待っていたかのようです。そしてこのことが現生人類史の原点なのではないかと。

(了)

 

 

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