約4万年前、我が日本列島史の始まりである日本祖代の状況に迫ります。

現生人類が出アフリカを果たし、東進して東南アジアのSundalandの地域に至り、6.5万年前に豪州に数十㎞の海を越えて渡っています。

注目されますのは、東チモール東部のジェリマライ遺跡で5万点もの魚骨が発見されて、4.2万年前と判断される、捕獲が容易でない外洋表層魚(サバ科、鰹やキハダなど)が含まれ、時代は下りますが釣り針も発見されています。(京都府大 小野林太郎博士)

これらの事から、人類の豪州渡洋は、単なるハプニングではなくかなりの数の外洋渡航に長けた海の民家族の必然の渡航であったと言えます。

そして、日本列島史の始まりを考えます時に、Sundaland地域から北上して来た人々が、外洋渡航に長けた「海の民」の子孫であったであろうことは重要です。

海を越えて九州に至り、3万年前頃には北海道にまで達して拡がり、我が列島の原風景が出来ました。その後、樺太から北海道へ、また、西から九州へかなりの人が特に2万年前頃、渡来したようです。

こう考えますと、列島史始まりの日本祖代は、曙海の畔からとなります。

先ず気温が4℃くらい低い時代でした。海水面が80mくらい低下していましたので、北東ア平野が台湾山地から朝鮮山地まで長い海岸線を作っていました。

次に、気温から今と違って曙海の畔には温帯広葉樹林が拡がり、林内には猪や鹿などの動物たちが居たであろうことです。木、竹、骨など十分な道具や暮らしの材料が得られたでしょう。

寒暖と乾湿が、年により季節によりかなり変動が激しい厳しい時代だったようですが、このことは返って適応を図る人々の発達を促したのかも知れません。

その後の早い時期から、関東伊豆の神津島に渡海して黒曜石を採りに行っていますので、やはりそもそもの海の民で曙海の畔で水産物を主に食し暮らしていた事でしょう。

台湾山地から北上して九州に定着するのに約2万年くらいかかったのではと思われますが、これは北上による寒さへの適応(又は南西の長距離海峡越え)とみられます。

欧州の例からこれだけの期間ですと、皮膚の色は大分薄くなっていたものと思われます。

しかし、この初期の寒冷適応によって、九州から北陸、東北、北海道と降雪寒冷地へ拡がって行く基盤が出来ていたのでしょう。

この時代は、国境も無い曙海の畔の人たちはまあ似たような海の民の暮らしぶりであったでしょう。

そしてこの事から、従来の黒潮「海上の道」論ですが、逆に五島から南九州、沖縄本島という時計回りの日本祖人進出ではなかったのかという問題が出てきます。

現在の遺跡・人骨では、山下洞人が八重山人骨よりも古いですし、何よりも長距離の宮古~本島間の海峡越えがあります。八重山へすら、長距離の黒潮越えの厳しさから、台湾からではなく、時計回りに経験を積んだ人々による本島—>八重山であったかも知れないと考えます。

やがて、北東ア平野の人たちは、海水面の上昇に追われて西進し、内陸から来た大型哺乳動物の狩猟民族に圧迫されることになります。

九州から北上した日本祖人は、海水面の上昇でより大陸側と離れて独自の熟成の度を強めたのでしょう。

そんな海の民集団が、太平洋側と日本海側の両ルートで北へ拡がって行ったようです。そして、川を遡行して高地にまで暮らしの範囲を拡げて行きました。

更には、北海道から千島列島、ベーリング地峡南岸を経てアメリカ新大陸へ渡って行ったものと考えます。(https://youtu.be/BGrhO1ntyYo)

(了)

 

9月14日付、シベリアタイムズ報道。

豪(ウォロンゴン大学)・露共同研究者が、アルタイ地区のデニソワ旧人洞窟を調査したところ、5万年前以前の緑泥石の腕輪など驚きの遺物の数々を発見した。

これまでの研究から、デニソワ旧人のDNAが、豪新人先住民アボリジニに4%入っており、その他チベット人やパプアニューギニア・メラニシア人にも入っている。

そしてこれらは、デニソワ人DNAがワラス線を越えて数十kmの海を渡り豪州に6.5万年前に至っていたことを示すが、これも驚きの謎である。

旧人とはいえ、今回発見の進んだ遺物を見ると舟や筏を作ったのかも知れないと研究者が呟く状況である。

さて上図のとおり、5万年前以前と言う旧人の遺物は全く驚きの知的な品で、これまで新人最古のインドネシアのスラウェシ・マロス洞窟手型でさえ4万年前です。

また、豪露チームにとっては、8,500kmの離隔が何よりの驚きですが、これは我が日本祖人にも関係深い人類史の補助線「スンダランド」に注目でしょう。

つまり、スンダランドでデニソワ旧人と出アフリカ後の新人の交じりが生起し、そのDNAを有する新人「海の民」が越えて行ったと考えるべきでしょう。

人類史の百貨店スンダランド地域では、ジャワ原人のみならず議論の多い小原人ホビットなど興味深いことが多々有ります。

豪露チームは、これらに関し更なる研究が必要と言っています。

デニソワ旧人が日本列島に来ていた可能性も全く無い訳ではないでしょうし、デニソワ人がこれほどの文化であるなら、新人も我々の想像以上に進んだ文化を有していたかもしれない夢が拡がります。

現生人類が海を越えて日本列島に来て、伊豆・神津島に外洋を渡って黒曜石を採取し交易していたことは、やはり、日本祖人が元々進んだ海の民であったことを示していると考えます。

やがて更に北上して北海道にまで拡がって渡り、降雪寒冷地に十分慣れた彼らは、前方に見える食糧豊富な処女地の千島列島の島々に渡って行った事でしょう。

そして更にカムチャッカ半島東岸からベーリング地峡南沿岸を進み、その意義など知らぬ間にアメリカ新大陸に到達していたことでしょう。(https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

これまで、旧石器遺跡の状況からとその後の文献からと2回にわたり我が国始まりの祖代を探りました。今回は、言葉の痕跡から探ります。

現生人類の流れの基本(約10万年前頃の出アフリカが始まりで、Sundaland-豪へ拡がり、北上)を考えれば、如何に遠く離れているとはいえ、日本語とタミル語が近い(大野 晋博士)とか、タミル語とも近いアルタイそしてツングース系と日本語が近いと言われても驚くことはないです。

日本語が混合言語であり、タミル、アルタイ・ツングースの要素があるという事は納得理解できます。

しかしここで注目したいのは、漢字を共通にする大陸の中国中央部の漢語とは違う種の言葉であり、暮らしの習俗も異なることが実に興味深いです。

この事は、既に日本祖語が出来上がっていたことを示します。丁度、戦後アメリカに占領されても米語にはならなかったようにです。

北東ア地中海の古語の痕跡を探ります。

例えば、八重山とインドネシアの語の「山芋」、南方ルートの語「海浜」は薩摩の隼人、アイヌにまで共通です。

また、太陽、月、光その他の語や真っ白・真っ黒のマ、出る・動く・抱く等の動詞や食・果物など南方インドネシア等、台湾、比、日本など明らかに南方ルートの共通性が実に沢山残っている(琉球方言の成立をめぐって 村山七郎)ようです。

また、あかあかいらいらなど繰り返す畳語は、日本語と南方語の共通性を強く感ずるもので、米インディアンにもみられるようです。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

因みに、こういう点に関しよくポリネシアからという人がいますが、万と千で日本の古さはゼロが一つ違う古さですので、スンダランドからというべきです。

これらの痕跡からも、南方と関係の深い遠い昔の日本祖代の言葉の成り立ちが窺がわれ、それはまた、祖人の成り立ちでもあります。

無論、これらについて黒潮北上の流れが関係している事は言うまでもありません。

さて、先史時代のユーラシア東部は、ざっくり、A(旧)タイプ:沿海川漁撈の根菜・稲作系とB(新)タイプ:大陸狩猟の牧畜・麦作系の地域グループに大別されます。

Bにより内陸高地に追われ、その状況に適応していったA系もいたようです。

そして、日本は東の行き止まりの海中の細長い列島でしたので、他と違って坩堝で地域差を持ちつつ熟成されたということが大きな特徴でしょう。

(了)

既に報告しましたように、今とは大分環境が違いました4万年前、北東ア地中海の畔から海を越えて九州にやって来た人々は北上し、旧人とも遭遇しつつやがて北海道にまで拡がりました(3万年前頃)。

約2万年間(6-4万年前)とみられる長い北東ア地中海の畔における暮らしは、その後の列島での暮らしの原点でした。

北上した北海道までの沿岸部の拡がりとともに、結構早い段階から内陸の高地部にも拡がっていたことが残された旧石器遺跡から窺がわれます。

さて、日本史最大の謎、3世紀の倭の邪馬台国については今も論争が続いているようです。その後の7世紀には、隋に船が派遣されて学びの交流接触がありました。

その隋書では、下図のように依然として倭国の位置の認識が会稽の東と少し変ですが、東西南北の大きさ(行程5及び3ケ月)や朝鮮半島からの距離(3千里)などがしっかり示されています。

そこから、最初に書かれた魏志・倭人伝の侏儒国、裸国・黒歯国に注目すると、あまり違和感なくそれらが上図のように収まります。

重要な事は、裸国・黒歯国が船で1年くらいかかる所で、交易があったことです。

その行程と地域の状態からは、フィリピンだったのだろうと思われますが(インドネシアかも?)、紀元前後の簡単な船で熟練のノウハウを要するそんな長期の外洋航海が行われていたことが重要です。

無論、黒潮流を活用したものですが、海人の航海行動力があったこと、また何よりも、代々語り伝えて来たその方の地からやって来たからこそ、交流したのだと思われます(貴重な貝などを求めての事でもありますが)。

日本祖人は、基本的に南方からやって来た人たちと考えられ、その子孫の海人がまだ多く倭国各地に存在した邪馬台国話からも遥かな「日本祖代」の状況が窺われるのです。

因みに隋書は、「新羅・百済は、みな倭を大国で珍物が多い国とし、ともにこれを敬仰し、つねに通使・往来する。」と書いています。

(了)

夏休みも終わりましたが、以下ささやか宿題の提出です。
4万年前頃の我が国の始まりを考察しました。

下図第1図のとおり、海を越えて九州に至った海の民・日本祖人は、列島を北上して3万年前頃には北海道東部に達していました。

その間、黒曜石採取の神津島行き舟行が世界史的にも大変注目されます。

そして右第2図のとおり、この地域の古い事では、五島から沖縄本島に至る共通性ある円筒石斧の使用が注目されます。

よく言われる南から北上した黒潮文化圏というよりも、台湾から東アジア平野沿岸を北上し時計回りした北東ア地中海文化圏と認識する方が適切ではないかと考えます。

即ち、以前報告しました沖縄本島への南下説です。

また、九州西北部(五島等)が長い間にわたり弥生化を拒み保持していた縄文以前の習俗(祭祀・呪術)や言葉などは、北東ア地中海の畔の当時の様子を幾らかなりとも示唆するものと考えます。

さて、家族居住の一番乗りは、1.台湾から近い黒潮流越え八重山か、それとも2.長距離北上し時計回りで渡った寒い九州北部か、興味深い事です。

今、渡来ルートについて強いて意見を言えとなれば、先着はともかく基本的に後者の九州北部だろうと答えます。

①渡来後の列島での北上拡がり状況、②八重山で3万年より前の遺跡は未発見、③黒潮越え約70km舟行の困難さ、④台湾に比べた八重山小島の当時の相対的な生活魅力、などからです。

遺物は海水面が数十m上がった北東ア地中海の畔の海の中ですが、こんな我が国始まりのイメージは如何でしょうか?

そしてその後、北海道からアメリカ新大陸へ渡って行ったものと考えています。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

インドネシアでは、海の民として活躍したブギス・マカッサル人の根拠地としてスラウェシ島南部は良く知られています。

そこのマロスMarosは、4万年前からの洞窟遺跡で有名です。

現生人類の描いたものとしてスラウェシ島のこの地の手型や動物絵(写真下右)が世界最古級としてよく知られ、私も現地を訪れた際に洞窟壁に舟と動物が描かれている(万年・数千年前)のを見て強い感銘を受けました。

世界的には、人類最古の紋様として南アフリカ南岸のブロンボス洞窟の顔料石に描かれた格子目の線刻画(写真下左)が有名です。

ところが人類史百貨店の当地では、遥かに古い50万年前の旧人による東ジャワの貝殻に描かれた線刻(写真上)が知られています。

そして驚くべきは、貝に描かれたその連続したジグザグ線刻が、時代も場所も全く遠く離れた南アフリカのものと似ていることです!どういう事なんでしょう?!

貝線刻の発見場所は、ジャワ原人などが見つかっている東ジャワ州です。

また、鉄などの無い時代ですので、堅い鮫の歯などで描かれたのかも知れないということですが、やはり主体であった海の民は、その知的認識・芸術力において旧人でさえも私たちの想像を超えていたのかも知れません。

こうしてみますと、4万年前、日本列島に海を越えてやってきた人たちは、十分に知的能力があったようです。

それにしても、世界にはぎざぎざがいろいろあります。

同好の士が教えてくれましたが、福島の中田横穴は完ぺきなものです。正に黒潮の海岸傍なのもいいですね。

ところで私は、日本列島にやって来て4-3万年前頃に九州から北海道東部にまで拡がったその海の民・日本祖人が、当然にして北方領土で留まることなく、食料豊かな処女地として前方に見える千島列島を北上し、ベリンジア沿岸からアメリカ新大陸に拡がって行ったと考えています。

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

現生人類による4万年前頃の我が国始まりの時代は、今より気温も海水面も低く、私たちとは異なる旧人(デニソワ人系)がまだ存在(鬼の記憶?)していたようです。

日本祖人を考える場合、現生人類の出アフリカ後の歩みとこの時代の日本列島に残る遺跡の状況を考えれば、基本的に南から北に北上して拡がったものであり、何よりまず揺籃の地である「北東ア地中海」が注目されます。

南方から台湾山地地域に北上して来た海の民が、九州北部(八重山にも?)に至りました。九州に達した時代には、同種の人々がこの地中海ほとりの海辺や島々に住んでいたことでしょう。

台湾山地以降(海水面低下を考慮)は、八重山へは家族で容易ではない75km幅くらいの黒潮の強い流れの深い海を渡って行く必要があり、一方の九州北部へは、北東ア平野沿岸の長距離を気温の低さ(現在-4度C)に適応しつつ北上し、対馬へは、よく見えていたものの数十km幅の浅い海を越える必要がありました。

北東ア地中海の西岸地域から海を越えて日本祖人になるのに、現時点の判断では約2万年(!)をも要したことになります。

この事は、①台湾からの長距離北上の気候適応と②家族集団での渡海に至ることが容易ではなかったということです。

また、宮古島―沖縄本島間の離隔(約170km)の大きさを考えますと、私は沖縄本島への当時の定着は、北の南九州・奄美大島から南下したのかもと考えています。

つまり、日本の始まりは、先ず当時の「北東ア地中海」の畔での暮らしぶりに想いを馳せることが極めて重要です。

そして日本祖人は、新たな人々の渡来を得つつ列島を北上して降雪寒冷の厳しい北海道にまで拡がって原風景を作り、島国独特の文化を長い間に熟成させる基盤となりました。

その後の画期としては、特に西日本が大きな被害を受けた鹿児島・姶良大噴火(AT、2.9万年前頃)があり、その時期以降は祖代後期となります。

次いで最後の氷河期が終わっていく状況の中、土器出現(1.65万年前)をもって縄文時代・縄文人と呼ばれることになりますが連続したものです。

また、この日本祖代には、ベーリング地峡沿岸から昆布ハイウェイを、人類として初めてアメリカ新大陸に進入して行ったイベントが含まれているものと考えています。

3万年前に北海道東部に達した日本祖人が、食料豊かな地への北上をプーチンもいないのに続けなかったとは思えませんので。1.6万年前頃には、アメリカ北西部オレゴン州の太平洋沿岸や他の内陸でさえ海沿いから既に人間は達していましたし。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

この間に、西・南と北から、種々の人たちが入って坩堝の中で日本人が出来上がっていますが、基本的には2種類と考えています。

アフリカを出た頃の面影を留めながら沿岸を移動した海の民A系か、内陸での厳しい気候に適応し大型動物を狩猟したDNA変化のB系かです。

現在は、長い万年の歴史からは最近ですが、闘いに強い内陸狩猟民族B系の影響が強いようです。

地球の温暖化、汚染、自然破壊などを見ますと、現代の私たちは色々な意味において、基底にある海の民系の自然と調和した質実の暮らしぶりに注目する必要があると考えています。

(了)

成人T細胞白血病(ALT)をご存知でしょうか?

ALTは、腫瘍ウイルスであるHTLV-1感染を原因とする白血病、もしくは悪性リンパ腫であり、HTLV-1キャリアは日本全国で100万以上いるとされています。

このALTは、日本、特に沖縄県と南九州、太平洋沿岸に多く、九州五島列島や北海道アイヌの人たちにもよく見られます。

海外では、カリブ海沿岸諸国、中央アフリカ、南米、ニューギニアやアメリカNativeインディアンなどに感染者がみられます。

日本で発見、命名されたこの病について調べた日沼頼夫医学博士は、特にこのウイルスの日本におけるキャリア好発地域は、縄文系の人々が高密度で残存している所であることを示していると結論付けました。

日沼博士の結論は、現生人類の移動史を併せて考察するときに、その持つ意味は大きいです。

即ちこのALT調査は、正に、アフリカ—東南アジア—日本列島—アメリカ新大陸へのわれわれ現生人類の最古の移動史と符合することをも示すものとなっているのです。

前回、縄文時代の前、我が国の始まりである日本祖代に関して東亜地中海—九州—北上して津軽海峡を越えて北海道(3万年前頃)という約1万年の拡がりの我が国の原風景を報告しました。

そして、この拡がりは、更に1万年強の人々の渡来を含み文化を積み重ねて、縄文時代(1.65万年前~)と呼ばれるものに成って行きます。

このALT調査結果は、世界史の流れの中で、我が国初期の日本祖人—縄文人に関する渡米などの推定を裏付けるとも言える興味深いものです。

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

 (了)

 

夏休みです。この列島における私たちに繋がる日本人の最初の歴史、その始まりと世界史的な意義を有する渡米に関して大胆に思いを馳せてみます。

現在の私たちに直結する現生人類が暮らした4万年前頃の我が国始まりの時代は、今より気温も海水面も低く、私たちとは異なる少なくとも何十万年前からこの地域に居た原人の子孫や旧人(デニソワ人系)がまだ存在(鬼の記憶?)していました。

私は始まりの「日本祖人」、「日本祖代」と言ってますが、歴史考古学的には「旧石器」時代・人でして、4~3万年前頃の日本列島の始まりの人々とその来着の様子に焦点が当てて語られている学界資料は有りません。(私には驚きです)

欧州では、旧人ネアンデルタールと新人の関係が大いに注目されていますが、こちらでは考古資料発掘が厳しいこともあって研究はなかなかです。

日本列島の日本祖人を考える場合、現生人類の出アフリカ後の歩みを考えれば、何よりまず台湾山地と揺籃の地である東亜地中海(台湾 凌教授の命名)が注目されます。

始まりの日本祖人は、海を越えて九州北部(八重山にも?)に至りましたが、西から(到達に遅れ)というよりも、南から台湾山地地域に北上して来た海の民の人々であり、日本祖人が九州に達した頃からは、同種の人々が同地中海ほとりの海辺や島々に住んでいたこととなりました。

台湾山地以降(海水面低下を考慮)は、八重山へは家族で容易ではない75km幅くらいの黒潮の強い流れの海を渡って行く必要があり、一方の九州北部へは、東アジア平野沿岸の長距離を北上して気温の低さに適応しつつ、渡海はよく見えていた同様の幅の対馬に浅い海を越える必要がありました。

フィリピンの遺跡などから、新人類は6万年前頃には台湾山地沿岸に至っていた(東南アジアは約7万年前以前)と考えます。

このことから、長距離北上の気候適応と家族集団の渡海のために、東亜地中海西岸地域から日本祖人になるのに約2万年(!)をも要したことになりますが、更に知恵ある新人の到着待ちだったのかも知れません?

我々はこの4~6万年前に注目しますが、丁度5万年前頃、ビッグ・バンのように言語力の発達を軸に新人の脳力・心が画期的に開花した(こちらにも伝播)という説もあります。

八重山方面ですが、台湾―与那国島間及び宮古島―沖縄本島間(約170km)を考えますと、私は沖縄本島への定着は、南九州・奄美大島から南下したのかもと考えています。

特に西日本が大きな被害を受けた鹿児島・姶良大噴火(AT、2.9万年前頃)があり、その時期以降は祖代後期となります。

次いで最後の氷河期が終わっていく状況の中、土器出現(1.65万年前)をもって縄文時代・縄文人と呼ばれることになりますが連続したものです。

ここで縄文初期の人々・日本祖人が周辺国に見られない独特の顔を作り上げていたことは重要で、日本祖代間に列島の中で混じり合い熟成されたものです。

さて、3万年前頃には北海道に渡り降雪寒冷地に定着した日本祖人のその後です。

米テキサス州Gault考古学研の長年の発掘調査で、オースティン近郊遺跡は16,000年前という報告がありました。90個の石器、動物の骨、若い女性の歯などが分析されています。

米大陸最古のものですが、無氷回廊が開いたのが12,500年前ですので、最初の新人類が「昆布ハイウェイ」からやって来た事がはっきりした点に大きな意義があります。

すると、A:海の民の日本祖人か、B:降雪寒冷地に適応したDNAの内陸人(現在の米大陸の主体人)かということになります。

さて、南米アマゾンの古い3部族のDNAが、印アンダマン諸島人~豪アボリジニのA型に近いという驚きのHarvard医科大の分析結果があります。

従って、環太平洋ルート(POR)で北海道東部から3万年前以降、日本祖人が昆布ハイウェイで渡米し、子孫はアマゾンにまで至っていたものと考える訳です。

何故、渡って行ったのか?高尚な説を唱える学者さんもいます。

まあ、前人未到の処女地に、幸いにも鏡面対称的に昆布・貝、エビ・鮭等、海獣鳥・卵、陸上植物などの食料がしっかり得られたためと思います。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

人類の環太平洋移住MPORは、カリフォルニア沖のチャネル諸島に注目!

米Oregon大学とSmithsonian研究所合同チームが、Channel Islandsで、1.22~1.14万年前頃の極薄く精巧な〝海上用″と言うべき匠Takumiの技で、内陸の物とは全く異なる石器を魚介、鳥や海獣の骨と共に多く発見しました(2011年)。

発見学者達の驚きは、石器自体の技巧の素晴らしさとその古さです。(Smithsonian insider 2011.3から)

米考古学会の大御所が、最初のアメリカ人という話の中で「日本からとも言われるチャネル諸島の海の民の・・・」として言及しています。

最初の渡米は、シベリアからだけでないとはっきり意識した見方に言及しており、今後十数年間は、「First American」テーマで重要な発見が期待できる非常に注目される分野と述べています。

学者さんは、なかなかはっきり「日本から」「日本祖人子孫が」とは言ってくれませんが、当時、海面は50-60m低く、前回述べましたように、正に島で海の民の痕跡が発見されています。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

米Harvard医科大学院大学が、南米アマゾンの古い3部族のDNAを分析したところ、印アンダマン、豪アボリジニやニューギニアの人たちが近く(図赤色系)、他に類似が無い(白色)という驚きの結果を発表しました。

直路太平洋横断や大西洋横断があり得ない()ことから考古学者も頭を抱えて終わっています。

しかし、欧米の学者さんがよく理解していないと思われるのは、前回報告したパンカル半島などの状況、比の古人骨遺跡や日本の4-3万年前の豊かな遺跡群を良く知れば理解できると考えます。

無論、日本祖人が北海道暮らしを経験している事、そして既に伊豆の神津島の往復に外洋を渡航している操舟力があった事などや何しろ手つかずの豊かな食料が北方にあったことなどもです。

ここで重要な事は、今回話題となっているDNAの人たちは、北米や南米先住民の主体であるシベリア系寒冷積雪地への適応を果たしたDNA変化Bの人たちではないという事です。

直路の太平洋、大西洋からの渡航が無ければ、このことは、アフリカを出た人たちが、東南アジアから北上して日本列島、ベーリング地峡を経て南米まで南下した環太平洋の海浜の移住を示し、日本祖人Aの渡米をも示す重要なものと考えます。

温暖化による数十~百mの海面上昇により海没している何かを、海底から出して見せないとだめなのでしょうか?https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

 

日本列島史の始まりの時代

我が日本列島史が、4万年前頃に九州で始まり(おそらく八重山もその頃?石垣島で最古の2.7万年前の人骨確認)、3万年前頃には北海道太平洋岸にまで拡がっていました。

 

この地域で、4-3万年と国の南から北までほぼ全域を遺跡のしっかりした裏付けによって、はっきり歴史を描けるのは我が国くらいで、「人類史の基準」と言えるのです。

そして、東亜地中海(台湾 凌教授の命名)の周りの人々、パンカル海(当サイト仮称)の周りの人々は、国境などの無い同様な海の民でした。

なお、5万年前頃には、約80kmくらいの海を多数が家族で越えて豪州に渡っています。

この重要な始まりの時代を、温暖化の海面上昇で陸地が沈んでしまっているからと学校で教わらないのはどういう事でしょう? まさか未だに植民地史観が残っているという事はありませんよね?

(了)

米国テネシー州Vandervilt大学チームが、南米ペルー沿岸の遺跡で7,800年前頃とされていた約30mのマウンドの内下部に動物の骨と共にイグサ科植物で編まれていた物(15,000年前)を発見したとScience(By Lizzie Wade May. 24, 2017)が報じました。

米大陸への人類の移動については、基本的に、A:漁撈系とB:狩猟系が考えられ、これまでは石器などはっきり痕跡の残るB狩猟系が主に考えられてきました。

しかし、南米などで次々に発見される遺跡は、今回の編み物の発見を含め、知見と操舟の能力を有するA海の民の環太平洋移住(MPOR)を示すものと考えられます。

日本列島にはっきり残る遺跡群から、4~3万年前の1万年間で拡がった日本祖人の日本列島史とその後の北上は、世界先史の中で注目されます。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

Sundaland地域は、既に海の民として多数の遺跡・遺物が発見されています。

このルートの注目点は、

①千島列島を越えていけたであろうか?

②極寒のベーリング地峡南岸を通過して東進南下して行けただろうか?

③そもそも地峡を越えて渡米した時期はいつだったのだろうか?

④狩猟族Bから漁撈族Aに替わって行った部族はないのか?

①、②は、既に検討し当サイトで可能性を報告いたしました。

③についても、北海道太平洋岸が30,000年前であること、最終氷期最寒冷期LGM(2.2~1.9万年前)には既に通過していたと考えれば、2.5万年前頃の最も気温が高かった時期、例えば毎年の春から夏に素早く抜けた部族たちが考えられます。

この毎年の春から夏といいましても、2~3,000年にわたる話ですので結構な数の部族が渡米し南下して行った事になります。

④も考えられます。Bは闘いに強かった人たちだと思いますので、沿岸に乗り出してきただろうと思われますが、やはり海辺の暮らしは独特ですので棲み分けたのであろうと考えています。

現在の太平洋岸の先住民の部族数の多さは、それぞれが習俗と言葉を大切に守り伝えていることを示す一方、結婚は他の部族とという事情があります。

A系とというよりも先ずは、日本列島に入って来る時から多数の小B系が通婚しつつ次々に渡って来たというイメージです。それが渡米後も続いたと言う事でしょう。

そして闘いに強いA系がやがて大陸で支配的になり、通婚も進んだという事ではないだろうかと考えています。更に時代はずっと下ってから、欧州人が黒人も連れて入って来たと言う事でしょう。

(了)

 

現生人類が、4万年前に東亜地中海から海を越えて日本列島に進入し、縄文時代と呼ばれるようになるまでの我が国始まりの日本祖人が過ごした日本祖代(4万年前~16,500年前)の時期の区分は次の3つの特色で区分されます。

  • 前期は、列島に進入し、八重山から北海道まで、また、高地の野尻湖や島々などにまで生活の場が発展し、日本文化の基層が形成され、原風景となりました。また、伊豆諸島の神津島に黒曜石を採りに十数km以上の外洋を行き来し、関東南部や伊豆で交易が行われていたことは、世界史的にも注目されます。
  • 中期は、姶良大噴火が起き、この特筆すべき残念な大災害からの復興、再生が主でした。当時先進の九州は大被害で、西日本は大きな影響を受け、火山灰は東北にまで及びました。火山灰のみならず寒冷化したことも考えられる厳しい状況から復興を果たしたことになります。この文字通りの天変地異が人々の精神性に及ぼしたことも重要な事と考えます。その後の農耕の民に比して、漁撈の民であったことが復興にとってはよかったのではないでしょうか?
  • 後期は、大陸の寒冷降雪地に適応した形質・DNAの変化を生じた狩猟民族の流入でした。その後も列島には人の流入の波が何波かありましたが、この流入は、戦いをも持ち込んだものであったとみられます。そして、現代に至る私たちのDNAにも大きな影響を与えたものと考えます。但し、それ以前の約2万年の間に列島で形作られた海の民としての漁撈採集を主とする暮らしの文化がありましたので、坩堝の中に混ぜられていったのでしょう。穏やかなのに時には激しく闘う日本人の2面性は、こんな歴史のなせる事とも考えられます。

勿論、人々も文化も断絶することなく、土器の出現に着目した縄文時代と呼ばれることになって行く、長く熟成された歴史です。

やはり、東は太平洋の大海原という行き詰まりの島々であったこと、北と南の2方向から人々が入ってきたことが、独特の文化を醸成したものと考えています。

このくらいの事は、子供たちに教えて良いのではないかと思います。

(了)

 

日本祖代の状況について

沖縄石垣島で発見されていた古人骨の年代は、27,000年前と発表されました。

4万年前頃、東亜地中海の海を越えて、家族で日本列島に渡って来た海の民、日本祖人による列島史の初期の人骨が確認されました。大災害である姶良大噴火後のものですが。以前から居た人たちか、新たに渡ってきたのか興味深いです。

既に、生活の場と葬る墓域が分かたれる精神性を有していて、風葬であったとみられています。

石器は、おそらくあまり発見されないでしょう。竹、木、草、海藻、骨、貝、サンゴなどの道具で生活し得た海の民であったことを示しているものと考えます。

そして、3万年前頃には、水平適応では北海道から八重山迄、垂直適応では高地の野尻湖などにまで、日本祖人は概ね列島に拡がり、我が国の文化の基層、原風景が形作られていました。

この間、少なくとも十数kmの外洋に漕ぎ出し、伊豆の神津島に貴重な黒曜石を採りに行っていた、そして、それが南関東や伊豆で広く交易されていたことは世界史的にも特筆されることです。

なお、沖縄本島へは、宮古島との距離(約300km)と当時の操舟力を考えれば、南九州からトカラ列島を越えて南下してきたのでしょう。

 

姶良大噴火は、当時先進の地域に起きた誠に残念な大災害で、北北東方向に火山灰は東北にまで拡がりましたが、祖先はそれを乗り越えて発展してきたものです。

日本の始まり(4万年前)-概ね列島全域への拡がり(3万年前)・姶良大噴火(2.9万年前)―大陸狩猟民族の流入(2万年前頃)ー縄文時代の始まり(1.65万年前)となります。

因みに、アイヌの人たちの祖先が北から渡って来たのは、2万年前頃以降と考えています。国会の先住民決議は、史実の裏付けが有りません。

推進した人たちが、日本神話に裏付けがないと言うのは遥かに笑止の沙汰です。

アイヌの人たちの人権は尊重され、習俗は守られ、差別があるならば是正されねばなりませんが、長い歴史を有する我が国に先住民問題なるものは有りません。

(了)

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