2.3万年前の北米足跡発見の衝撃で静かな中、最新のアメリカ先住民史IHNの動画は、①米国Davis・Madsen 両博士の沿岸ルート、北海道東(ゲートウェイ)発進説を可能性が高いとして採り上げ(従来のベリンジア地峡のハンター通過説を否定はせず)ています。

特に赤枠で囲った地域に注目(注:PSHKのS樺太は異質)し、1.北海道祖人Sojinが道東を発進とし、アリューシャン列島東端(「米臨海」を抜けた本土入り口?)迄の図の青線が4,600kmと紹介しています。また沿岸ルートであることから北海道~カリフォルニア、南米西岸にもある食豊かな「昆布ハイウェイ」と共に、2.日本の海民性に着目し、3.8万年前に黒耀石を求めて伊豆の海を神津島へ生業航海した事や沖縄の3.6万年前の実証人骨と釣り針を指摘しています。北海道については、当時海水面の数十m低下で陸奥湾が河川を有する広大な平地であり、太平洋側と大雪が降らずに暮らせた日本海側から北上した東西の祖人Sojinが合流し賑わいの状況があっただろうことは、発掘された祖代遺跡はもとより、水没後の次代一日にしてならずの縄文世界遺産(土器が北海道へ)の親であり納得です。始まり時代は背後の本州文化に支えられて大間・竜飛から渡道した北海道の基盤であったことに思いを致すべきです。2.の海民性も、そもそも始まりの北部九州への約4万年前の40-30kmの家族渡海をした造舟・操舟の能力は、欧州の洞窟で絵を描くより凄くないですか。伊豆の航海も次の縄文では工房が出来ていますし、近くの同時代の愛鷹石器群、人骨実証の浜松、長野高地には多様な石器群があり、原産地なのに神津島産が発見されている驚きの交易など、広域の厚い実証の基礎に支えられておりもっと世界に状況が発信されるべきです。

この点で②、巷間本や博物館に「日本人は何処から」で3方向渡来図が見られますが、時代の異なる方向で肝心の沿岸ルートは無く誤解を与えます。始まりの移住は、北部九州から北海道への北上と沖縄への南下です。何より、3方向渡来図は日本から出ないため、①両博士の説が出て来ない大問題です。③IHNは、Y-DNAの世界拡散図を紹介していますが、環太平洋移住(MPOR)説(日本祖代研究会)を支持する日本列島通過ルートも含まれているのです。日本始まりの北上・南下図とし、世界には「道東ゲートウェイ」発進説が出ていると教室で教えるべきです。国際共同研究を主導し、日本の特筆事項の世界への発信も。

図左、世界には区別ない人は沢山いる、良し悪しでは全くない。

「RとL聞き分けられぬ耳で良し日本語をまずおまえに贈る」(俵万智)

その耳でよし、虫の音を川のせせらぎを楽しみなさい。そして、現生人類史の謎、アメリカ新大陸の先住民問題と日本の関わりにも目を開かせよう。

図右、Y-DNAの拡散で東南ア・スンダランド地域から北上し、日本列島ルートを通過する動画が登場。23-21,000年前の北米ニューメキシコにおける足跡発見で、「最初のアメリカ人」定説が揺らぐ中、日本祖代研究会(RGaJP)が長く提唱して来た日本を含む環太平洋ルートの現生人類初期における環太平洋の沿岸地域の移住(MPOR)説と軌を一にしており、説にも光が。これにより、当ブログでかねてから累次説明してきました北海道・「道東ゲートウェイ」(帯広で昨年、1.5万年前の黒耀石がザクザク)から千島・樺太への北上継続による世界人類の拡散史における関わり可能性の重要性が認識され、祖代史の研究と更なる発掘に日本の責務ありです。

日本史は巷間に誤解が多く、①マンモス・ハンターも騎馬民族も来ず、先の大戦でも敗れて占領軍が来ましたが大量混血は無く、大陸のような民族的な入れ替わりが歴史上無かった事は特色です。

基本的に五月雨の渡来ですが、時代を経て戦いに強い富者のDNAの影響が島国に拡がったものです。明治の文明開化で列島史始まりの実証的な研究において、東京帝大の坪井教授は遺跡遺物の調査から「本邦の石器時代人民は一種類(コロボックル)であった」と明言しています。教室は扱っていませんが、コロボックルをおとぎ話と片付けるのは誤解であり学術用語をめぐる正しい内容とおとぎ話を加えた教え方とせねばなりません。そもそも②、出アフリカの新人類黒人が亜熱帯を越えて「北インマレイド」に変化し、約4万年前にフネで家族が北部九州に渡海して長く重要な基層の「祖代」が始まり(縄文を加えて「基盤」)ましたが、欧米先生が「古モンゴロイド」と呼んだのが誤解の元で、寒冷・降雪・寒風に適応して身体変化したモンゴロイド化人種の登場はずっと後の事〔2.5-1万年前から、(米)Harvard大 Dr. Howells〕です。テレビ番組などでDNA分析を紹介し誤解させる弥生人なんていません。江戸人と明治人も外見が大きく変わったものの、中は替わっていないことは皆承知の事です。五月雨渡来の人々を過度に強調するのは誤解の元です。それよりも、最新の研究で神武東征における最初の内陸進入の試みにおける日本書紀の記述と河内潟の古地形分析の状況が一致していること(「日本の誕生」、長浜浩明)が分かり、文献学の進展もあって(仏)レヴィ・ストロースが正に「日本は神話から歴史が滑らか」と説くようなことから、年表を新しく理解すべきでしょう。

また、人々の歴史において重要な言語面の研究においても、欧州諸国は成り立ちの歴史が分かっていますが、孤立語の日本語は、祖語が古すぎて辿れません。南北に長く当然に表現も相当に多様ですが、新旧や地域変化の違いであって日本語であることははっきりしています。学者先生はことさらに地域文化の違いやDNA特性の地域における違いを言挙げしますが、世界から見れば皆、日本人なのです。誤解を正し研究の新動向について教室に世界に。

温故知新。①隣国は4千年の歴史を誇りますが、それって明治人が日本史とした期間であり、今ではDNAやウラン系列分析法などで約4万年前と1桁遡っています。

E.モースが扉を開き、東京帝大の坪井教授が制約の中、アイヌ伝承のコロボックルの語で探究の熱い人類学論議をし、弟子の鳥居龍蔵が明治32年の現地調査で北千島の遊動海民(*留頓ルートンRouton)はコロボックルではないと広まった誤解を、大正6年にコロボックルであると正しましたが今も誤解は続き教室でコロボックルが語られることが無いのは問題です。何よりも始まり時代と人の名称が多様かつ問題があり、結論的に、日本語で簡潔な祖代Sodai・祖人Sojinの用語で説明と活発な議論がなされるべきで、鎌倉時代からのアイヌについての内外の誤解は正されねばなりません。②日本史が「大陸・半島から来た」人々で始まったと言う誤解も、伸縮していた曙海の畔から家族がフネで30-40kmを越えて北部九州に来て始まり、沖縄へ北海道へと列島中に拡がったものです。そして当時未だモンゴロイドは登場しておらず、南方系の北インマレイド(仮称)が亜寒帯を越えておそらく身体も出アフリカ黒人からかなり変化し渡海したものです。海水面が当時より数十m上昇して沿岸の痕跡を消し、九州最古は内陸の熊本遺跡群に残されています。③列島中央部は、不思議に発見が日本最古の物が多く、また、当時の宝物である黒耀石が東京神津島や箱根、長野にあったことや関東大平野などのためもあり賑わいが見られ、世界最古の生業航海、陥し穴猟、環状キャンプ、磨製石器、最新の長野高地石器群、野尻湖キルサイト、至宝の神子柴石器など充実の痕跡が残されています。道東の石器が北陸と似ていると言う研究者もおり興味深い事です。本州島の土質では人骨が残り難いですが、静岡・浜松に祖代と縄文人骨が同地域で発掘されており繋がりを示す重要なものです。➃南西諸島は、鹿児島から海を越えて行った痕跡が見られ、先般も馬毛島で祖代石器がザクザク発見されています。何と言ってもサンゴ礁のアルカリ性土質のために、充実の人骨が発見されており、また沖縄では石器より竹や骨が工具として使用されたと考えられ、最古の釣り針も発見されています。

⑤北では、当時の仙台に海獣がいましたので北海道暮らしの予行ができたでしょうし、陸奥湾は平野で太平洋と日本海両側の合流の賑わいがあったでしょう。津軽海峡は狭かったので、大間・竜飛から容易に北海道に進出でき3.5万年前後に拡がりました。道内最古遺跡の帯広では昨年、1.5万年前の黒耀石がザクザク発見されています。遠軽町白滝石器群の国宝指定で、道内の祖代・縄文遺跡の更なる発掘が期待されます。鳥居龍蔵が調査した北千島の遊動海民・留頓ルートンですが、世界人類史の昆布ハイウェイとして千島列島は注目されており、その占守島で6千年前の縄文遺跡が発掘され、更に留頓はカムチャッカ南南部が主体であったことが明らかにされていますので、カムチャッカに至れば世界人類史のアメリカ沿岸先住南下の要地ベリンジアは指呼の間です。日本史の60%を占める祖代は基層であり、痕跡が南と北に色濃く残っている事は興味深く、今や縄文文明と言われますが1日で成るものでなく、日系4世がハンバーグ好きで英語しか話せねばアメリカ人であるように、五月雨で列島に入って来た人々が日本島民語を話すことに秘密があり、祖語が由来の分からないくらいに古く孤立的であることは注目すべき重要な事で、隣国の影響を過大に言い募ることは誤りです。教室に世界に。

北海道白滝石器群の国宝指定で注目の日本史始まり時代は左図、多様な用語がありますが、結論的に始まりは約4万年前からの祖代Sodai・祖人Sojinの用語が適切で、2代目の縄文Jomonに繋がります。

明治時代の文明開化で、お雇い外国人学者の(米)エドワード・モース(日本考古学の祖)が紹介したダーウィンの進化論は、「猿から人へ」の受け止めで学界に衝撃を与えました。大森貝塚の発見や北海道の竪穴住居はプレ(前)・アイヌと主張し、科学的な人類・歴史考古の学の扉を開き、この刺激で図下、東京帝大の坪井教授(日本人類学の祖)は、プレ・アイヌについてアイヌ伝承のコロボックル(蕗・ふきの下の人の意)を学術用語とし、当時の学界は日本史は4千年くらいと考えていましたが、真実探求の活発な議論と学会を興したのです。弟子の鳥居龍蔵による北千島の現地調査(明治32年)報告から、彼の地の人々はコロボックルではないと世に広まり、その後コロボックルは可愛い蕗の下の小人としておとぎ話になって大正時代に巷間の人気になりました。鳥居自身は、その後の研究も踏まえ大正6年に北千島の人々(6千年前の縄文痕跡も確認され、留頓・ルートン・Routonと仮称)はコロボックルであるとはっきり師の坪井説を認め訂正しましたが、最初に広まった巷間の誤解は今も続いていて学術的に採り挙げられていません。図右上、祖代の期間は日本史の60%(教室で語られぬ宇宙のダークマターのよう)で、人と文化の基層として、「縄文文明」と言われるようになった今、重要です。最古の痕跡は、伊豆・神津島(当時は海水面低下で恩馳も含む)から生業航海で採取した黒耀石が3.8万年前、長野高地石器3.7万年前、沖縄人骨3.6万年前、熊本石器3.5万年前などから、沿岸民の家族が対馬海峡を渡海した日本史の始まりは約4万年前からの列島拡がりというのが学界認識で、北海道は3.5万年前後です。

他方、日本には無いとされていた旧石器が戦後、相沢忠洋によって群馬・岩宿で発見されて国際意識の幕が開き各地で続々と発見され、時代と人の名称・用語に使用されるようになりました。しかし実は、英語にすれば世界と期間は違って誤解を与え、後期旧石器としてもそもそも日本固有の歴史なので新石器時代が縄文に含まれて合わず使われず、当然にして縄文、鎌倉、江戸などの他の時代用語と合わない違和感であり、また、用語が長すぎて教室での説明・議論にも不適で低調な一因となっています。相沢忠洋ゆかりの「岩宿」も学術名称にすれば、沖縄人骨や白滝石器を岩宿人で語る混乱となることから、沖縄祖人、白滝祖人が適切です。伊豆の海で世界最古の生業航海をし、大規模な陥し穴猟や環状キャンプで世界より万年早い磨製石器を製作していた祖人は、海民性・製作技術力・社会性を示し、毛皮のパンツに槍を持ったひげもじゃイメージの「原始人」ではアリマセン。今、祖人は北海道から北上を継続して、人類史注目の「最初のアメリカ新大陸移住」に関わった可能性が挙げられるに至っていることなど、世界を視野に誤解無い固有の確立と説明が国際的であるとして定めるべきです。これらのことを教室に、世界に。

図左、先般、国宝に指定された白滝石器もさること乍ら、「動物を狩る道具を越えている」と言われる神子柴石器(正に石器の神の子、マラドーナ、メッシ)はその仕上がりと共に始まり祖代と次の縄文の端境期に出現していて繋げる地位にあることが重要です。

何と言っても、祖先を知る上で静岡の浜北祖人、浜松・蜆(しじみ)塚縄文人も同地域で繋がっており、発掘が豊富な沖縄では多くの祖人と縄文人の発見が歴史を繋げ、顔の復元で南方系のイメージが得られていることも重要です。そして図右、約4万年前からの始まり時代を語るために、時代と人の名称が英語にしても誤解無く、正しく分かり易く議論しやすい言い易さが重要です。制約の中で近代科学の歩みを始めた明治の開花時代にコロボックルの語を案出し、真実追求に熱い議論を戦わせた先人の尽力に思いを馳せましょう。国際語の旧石器Paleolithicは誤解を招き、時代・人を表す日本語ではなく、縄文Jomon(特別に文明・時代・人)、江戸Edoなどと合わないです。フネを造って家族で対馬海峡を、黒耀石を求めて伊豆の海を生業渡海し、大規模な陥し穴猟をしていた祖先は、原始人ではアリマセン。話題のアイヌは、13世紀からで縄文直系ではないですから、内外に誤解のない説明が必要です。教室で教え、世界に発信です。

縄文Jomonの前、祖代Sodaiからの遺跡の遺物である北海道遠軽の白滝石器群が国宝に指定答申される遥か前から、北米最古級のクーパーズ・フェリー先住遺跡の石器が極めて似ているとの学術研究が既に発表されていました。

実は、伊豆からフネで世界最古の生業航海により求めた最古の黒耀石(3.8万年前~)で知られる東京・神津(恩馳)島の物と長野(最古級の香坂山高地遺跡3.7万年前を最近発掘)の和田峠の物が、遠く離れたさいたまに届いており、その中の尖頭器と白滝モノは似ています。白滝の方では、現生人類・祖人が北上を継続した基盤である「道東ゲートウエイ」遺跡の中心ともいうべき帯広で、今も黒耀石(昨年、1.5万年前の物)がザクザク発掘されて話題となっており、他方、長野には何と言っても祖代の至宝、驚きの神子柴石器などがあります。さいたま(伊豆・東京・長野)―白滝・道東―クーパーズ・フェリーは友達の輪?!という不思議発見(もう、ダサイなんて言わせない)です。今や文明と呼ばれる縄文Jomonは一日にして成らず、なのです。教室に、世界に。

前回報告の「(夢の)日本の始まり大企画展」に図左、ミトコンドリアmtDNA(母系)の注目すべき状況の出品です。

それは現生人類の拡散において、北米ニューメキシコで2.3万年前の足跡が発見されて最後の謎ともいうべきアメリカ新大陸移住問題の定説が崩れ、種々の事が新たな光で検討されています。そういう中で、アメリカ大陸太平洋沿岸部(西岸)に残されたmtDNAハプロ-最古Dが、北米始まり時代の大氷床の直ぐ南であるコロンビア川流域に、また、南米南端部パタゴニア地域に図のように残されていますが、なんと関東縄文人はDが最も多く、これらと類縁なのです。従って北太平洋・昆布ハイウェイ(Kelp Highway)を、ず~とフネで北上して移住して行った可能性があるという事です。無論、大陸の種族が関東縄文人に、アメリカ西岸先住民に影響した可能性もありますが、何しろ祖人Sojin(縄文の前)は北部九州への家族渡海が始まりで、沖縄へのトカラ越えや伊豆の海での生業航海の海民ですから、マンモス・大型哺乳動物狩猟族とは明らかに違い、沿岸ルートに光が当たる時代は注目されます。そういうこともあってか、図右、アメリカ新大陸移住問題において日本の教室とは全く違って、日本がさらに具体的になって北海道の関わり可能性があるとして登場している動画が近年、続々なのです。①は最新で人気が高く、コロンビア川域遡上の米先住民Nativesの古い言い伝えをインタビュー紹介してクーパーズ・フェリー遺跡が重要と着目し、北海道と石器が極めて似ているとするオレゴン州大Dr. Loren Davis の研究を紹介しています。②は近年のDNA分析成果と考古学発掘成果を総合的に検討し、アジアからのmtDNA-ハプロDは最古第1波(ハプロA,B,C,Xは後)で重要であり、また、アボリジニや日本人が5万、3(4)万年前にフネで渡っている事を挙げ、カリフォルニア沖チャネル諸島の 人骨・遺物が内陸のクローヴィス文化とは違う、南米最古のモンテ・ヴェルデ遺跡で20種の海藻が見つかっているなどの海民性からも、Dr. Edwin Barnhart 個人的には沿岸進入ルートだろうとししています。

③では、北米氷河期の無氷回廊の開く13,000年以前の北米にメドウクロフト遺跡19,000、南米のモンテ・ヴェルデ遺跡14,800年前など複数あり、人類は4万年以前に豪にボート(カヌー)で渡っており、 カムチャッカから 沿岸ルートで海産物と陸性動植物を得ながら、新大陸へは2.5~2万年前に入って沿岸を南下して行っているとしていますから、日本は北海道は出発地(「道東ゲートウェイ」)候補です。いずれにしても、日本の教室は、この問題を全く扱っておらず、扱うための祖代の祖人Sojin(縄文人の前)などの用語もないのが問題です。また、関東縄文人やアメリカ先住民にミトコンドリアmtハプロ-Yは見られませんが、アムール河口地域人はそれが60%を超え、アイヌは20%ですから異質であって縄文直系ではない学術内容も教えず誤解を放置しています。生徒・学生に教えて周回遅れを取り戻し、世界に日本の大企画展の状況を発信です。

始まりは約4万年前、曙海の畔から北部九州への家族渡海ですが、数十mの海水面の上昇で沿岸遺跡は今や海面下で、 ① 始原の遺物は数ケ所の熊本遺跡群からです。

②九州西岸~鹿児島からトカラを渡海し3.6万年前に沖縄の山下町洞窟に達しており、石垣島・港川そしてうるまの縄文人へと時代的な繋がりが見られます。北南からのいずれにしろ、大昔の南方系である曙海畔の人々(北インマレイド)と考えられ同様で、海民の世界発見最古の釣り針(2.3万年前)も出品です。③北部九州から東進した東海地方では、最古3.8万年前の伊豆から神津島への生業の航海や愛鷹山麓の遺物、祖人のレベルの高さを示す陥し穴猟の跡、浜松祖人・縄文人骨の時代的な繋がり遺跡群が人の面の実証で支え、隣の愛知・伊川津縄文人が南方系という納得の示唆をDNA分析で与えています。初めて日本列島祖代の人類痕跡を世に知らしめた群馬・岩宿、アメリカ先住民インディアンのような栃木・佐野の環状キャンプなど多様豊富な関東出品があります。➃当時は数度気温が低かったので仙台に海獣がいて北海道の暮らしの予行が出来た東北、太平洋側と大雪の降らなかった日本海側から北上した祖人が、陸奥平野の賑わいの青森に物見台と丸山などの祖代遺跡を残し、大間、竜飛の両方から狭かった海峡を越えて北海道へ行ったのでしょう。最古土器や芸術品の土偶など、北海道の千歳・道南への拡がりと世界遺産の充実の縄文へと繋がり続いていきました。⑤ 祖代からの 道内最古遺跡の帯広は、最近も縄文草創の黒耀石がザクザク発見され、「ゲートウェイ道東」から北の1.国宝指定の遠軽白滝と留まる理由もなく昆布ハイウェイの2.千島列島へと北上を継続したのでしょう。

北千島は6千年前の痕跡を有し、明治時代の先達である東京帝大の坪井教授、鳥居助教授(大正6年に見解修正)がコロボックルであるとした遊動海民の留頓(ルートン)は、カムチャッカ南南部が居住の主体だった事が研究(北大 高瀬克範)で明らかとなっており、かつての陸峡ベリンジアはまあ指呼の間で、最初のアメリカ新大陸移住問題が賑やかな現在、昆布ハイウェイ上にあって注目されます。何と言っても馬場・鳥居コレクションや大学の所蔵品、幕末の外国品を含めてあまり知られていない重要な多くの遺物が、世界に本格初公開となります。なお、13世紀からのアイヌは内外に誤解がありますが、本件祖史の論外です。そして、⑥特別出展は、今、関わり可能性が注目される南北新大陸の重要遺物で、沿岸から河川を遡上した北米最古級のクーパーズ・フェリー遺跡及び南米最古モンテ・ヴェルデ遺跡から20種の海藻含む遺物が、南米最古ブラジルのルチア人骨も顔面復元像と共に登場です。

学生・生徒は入場無料の授業としての見学としましょう。

何故、①日本史は、実証的には列島の中央から始まるのか?静岡東部の石器等の遺物、伊豆の海の世界最古の生業航海や長野高地からなのか?

人類史を俯瞰すれば、南方の考古遺跡とDNA分析から出アフリカ後の南方インマレイドの北上と分かり、②沿岸系の方が対馬へ渡るルートとして可能性が高く、海民家族の北部九州への渡海です(「大陸、半島からやって来た」は誤解で、曙海の畔からです)。にも拘わらず、1万件を超える祖代遺跡が発掘されているのに、4万年前頃の遺跡が何故九州で見つからないのか、最古熊本遺跡も発見年代は南下して行った遥か先の沖縄と同じという遅れです。それはその後の数十mもの海水面の上昇の為で、今は海面下の沿岸の海民の暮らしぶりだったからと理解できます。この事は、アメリカ先住民が示していた沿岸の暮らしが、海水面を上昇させ万年の時を経過させればどうなるかを考えれば分かります。つまり見つからないから教室で扱わないというのは誤りで、海民の沿岸の暮らしぶりだっただろうと教えるべきなのです。見つからないことが、別な重要な事を示していると教えるべきです。他方、見つけた事では、南米最古遺跡で20種の海藻が発見されている暮らしぶりなので総合すればよく理解できるのです。では③北はどうでしょう。九州と同じように痕跡が発見されていませんが、こちらは、俯瞰した北ルートのアムール河口・樺太の始まり時代痕跡が無い状況は、来なかったからなのだろうと推定されます。巷間本では北からを匂わせ或るいは南北を曖昧にしているのも見られてきましたから、来なかったのだろうと教えるべきなのです。始まりの白滝への道は、列島中央部から東西合一の青森・陸奥平野の賑わい~道内発見最古の帯広遺跡~道東端~白滝における黒耀石の利用状況分析から道東沿岸地域を北上し湧別川の河口に至り、そこでの十勝石(黒耀石)発見から遡上して行ったのだろう、不定形・簡単加工の石器が重要なのだと教えるべきです。

この日本史の始まり時代の特色のキーワードは渡海です。フネを作り、 海で 25~40kmを操作し活動しうることは原始人ではアリマセン。毛皮のパンツにヒゲもじゃで槍持って野山で動物ハントする教室でのイメージを変えましょう。植物、魚介を食し女性が大きな働きをしていたイメージも加えましょう。この渡海民イメージ・フネ人(伊豆の生業航海は世界最古)を、発信しましょう。「われは海の子」を必修とし努めて独唱のレベルへ。

石のみならず 歴史的に意義深い①人骨、②活動に光を!

図左下、愛知・伊川津縄文人が「日本人どこから」の起源(場所的)の方向性を示しており、1万件超の遺跡が示す北部九州からの北上(沖縄南下)史にあって日本列島中央部の浜松において始まりの祖代、縄文・・と時代的に連続性を示している根堅・蜆塚の古人骨があります。また図右、伊豆の海における世界最古の生業の往復航海及び山麓では最古石器や100を超える陥し穴の設定による猟など知力・技能・社会性の古さを示す活動が見られ、それらの意義は大きい(原始人は誤解)です。この地域で集中的に発見されており、日本先史の認識及び現生人類初期のアメリカ新大陸移住問題への関り可能性からも意義深く、世界遺産登録に相応しいものです。歴史を科学する、日本考古学の祖であるエドワード・モースが、北上した北海道の遺跡について「プレ・アイヌ」と断じ、 また、制約の中で熱意をもって日本先史の探求に尽力された東京帝大の坪井教授などの先達に光をです。 13世紀からのAinuとは異なるので内外の誤解は正すべきです。教室に、世界に。

  

当然、石(器)より人(骨)です。また、残らぬ竹・木・骨器にも思いを馳せましょう。

①浜北・根堅遺跡で発見された祖人Sojin・縄文人骨ペアは、極めて重要なのです。隣の愛知・伊川津縄文人骨はDNA分析でアンダマンやラオスなど南方インマレイド系と類縁であることが示されました。それが隣の浜北縄文人骨と類縁と考えられますので、同地の下層に繋がる祖人もと推定されます。そもそも約4万年前に「曙海」の畔から南方系人が、九州西側から沖縄へ南西諸島を南下し、東進して静岡へ至ったものと(かつては北方からの可能性で白紙にしている巷間本もありました)考えられます。また、浜北東隣では、伊豆の海を3.8万年前から黒耀石を求めて伊豆祖人が舟で行き来していたことが原産地分析で分かっており、3.7万年前の長野高地における祖人の活動も発掘されていますから、「いつ頃、何処から」は見えています。列島中央の祖人の渡海・陥し穴猟の知的レベルも各地適応で注目すべき重要な事で、地域の環境に応じ適応の工夫ができたことでしょう。②近年のDNA分析や考古学分析の進展で「出アフリカ」後の人類の歩みが明らかになってきました。そして南ルートAと北ルートBが考えられ、今では日本列島へは南方における始まりから沿岸系A-1と考えられますから、渡海の北部九州、沖縄、伊川津、浜北、海行き来の伊豆の祖・縄文人は納得です。また、知的なレベルから長野高地へも活動範囲を広げ、多様な石器を生み出したことも分かります。

さて、巷間に見られる北ルート説ですが、現生人類・新人の4~3万年というレベルでアムール河口・樺太地域と北海道にマンモスハンターが来た痕跡は無く、また、モンゴロイド化も「未だ」でした。③北海道史は、青森・陸奥平野を基盤に海峡を越えて適応した3.5万年前後からの拡がりであり、道内発見最古の帯広地域から道北へ千島へと北上を継続したことでしょう。礼文縄文人も北海道犬も南方系の北上であることを示しています。そして、列島の1万年件を超える遺跡が総合的に九州からの北上・南下史を支持し、列島中央部の浜北人骨ペアは実証基礎として重要です。そして今、最初のアメリカ移住との関わり可能性で6千年前縄文痕跡のある北千島、遊動海民の留頓ルートンRouton・コロボックルCorobocleが北上史の延長痕跡として注目されるのです。因みに、13世紀からのAinuアイヌは時代的に全く対象外であり、内外に誤解がありますので正されねばなりません。浜北人骨ペアを国宝に、周回遅れの教室にこれらの事を、そして世界に発信です。

巷間本に左上小図、南米に至るまで移住ルートの矢印が示され、日本列島ルートも候補と言えるもので祖代研究会(RoPJ)と同様の説となっており、支持できる内容です。

ベリンジアへのルートも崩れたこれまでの定説Bの「シベリア方向」とせず空けてあり学術的で、DNA分析から時期はベリンジアに2.4万年前頃、進入規模は5千人という数字が、米ニューメキシコ足跡発見衝撃の時代に大変有意義な尺度を与えます。進入後の南下も「無氷回廊」説と「沿岸南下」説の後者を示唆と指摘し納得できるものです。そこで拡大図で祖代研究会(RoPJ)が細部コメントすれば、第1にルートは大区分でAとBであり、A-1、A-2、B、混合を含めて4説の黒枠コメント内容となり、ここで言語学的にはA-1、A-2と説を唱えられた松本博士の慧眼は、当時B説主流であった世に埋もれていましたが光が当たっています。留意すべきこととして、アフリカを出たのは黒人であり、東進後の時間経過と新環境適応で「インマレイドInmalaid」(仮称)に変化したと考えられます。そして緯度を北上により亜熱帯を越えたことは大きな状況変化と適応と認識すべきで、未だモンゴロイド化(2.5-1万年前、米ハーヴァード大Dr. Howells)はしていなかった時代の変化(DNA分析でも分岐が多く発生)した「北インマレイド」のA-1、A-2であったという事です。なお問題は、図中の赤枠「縄文人は最初の東アジア集団の子孫」説明は大げさな奇異です。2代目ですから先代・初代の祖人Sojinの子供であり、何処から来たのでもない日本列島で生まれたものです。

そこで教科書の後期旧石器時代の「後期旧石器人」とでもすれば、世界語であって国によって時代が異なり、縄文・平安・江戸などと合わない違和感となる不適切です。また、日本史の始まりが「大陸・半島から来た」は誤解で、「曙海の畔・北東亜平野東岸」から「家族が渡海」した事実は近隣食の成り立ちと異なりその後に影響ある大変重要なことです。右図、内外でこれまで説明の無いA-1北海道ルートについては、当時の青森・陸奥平野の賑わいを基盤に、3.5万年前後には北海道に適応しました。道東ゲートウェイから北上、白滝遺跡の黒耀石は国宝指定答申、礼文島縄文人と犬は南方系の痕跡、最大約75kmの海を越えて行った北千島は少なくとも6千年前からの痕跡で十勝石(黒耀石)の利用や有柄・有茎石器が見られ、そこの「余程古い、コロボックルである」(東京帝大 坪井正五郎、鳥居龍蔵)遊動海民の自称であった「留頓・ルートン・Routon」(仮称)は、カムチャッカ半島南南部にまで進出していて、むしろ向こうが主体であったことが明らかになっています。更に北に進出していてベリンジアは指呼の間、新来のシベリア勢力に押されて後退して来たとも考えられる重要な参考痕跡です。

実は日本の教室が、1万件超の遺跡に支えられて太古にしてはよく分かっている祖代の内容を採り挙げず、世界の人類史論議に周回遅れなのは、説明と議論ができる用語が無い事(祖代Sodai、祖人Sojin、曙海、北東亜平野、留頓、最初のアメリカ人など)が大きな原因で、それを「よく分かっていないから」と逃げていると言える惨状です。他方、Ainuが彼らの伝承で美しいと入れ墨を真似た北千島の留頓コロボックルとは違う対象外の13世紀からのことであるのに内外において登場してしまっている誤解は改善すべき問題なのです。教室で説明と議論を、世界に発信を。 

大谷選手の大活躍の蔭で、①世界人類史・日本史界では、米ニューメキシコで発見された足跡(2.3-2.1万年前)が騒ぎです。

既に、DNA分析や考古学から「最初のアメリカ新大陸移住人」(PAC)がアジアからは定説ですが、「いつ?」が数千年遡っただけでなく、モンゴロイドではなかった事、もっともらしかった「バイカル湖の方からマンモスを追ってシベリアから入って行った」も、数人での槍持ちハントは実験考古学で否定されました。何しろ肝心のシベリア東端・アラスカに対応しうる痕跡が見つかっていないのですから正に謎なのです。そんな古い事は関係ないと教授ですら言いますが誤解です。殺し合いの未だ無かった時代の万年前のアメリンドの拡がりは、DNAが薄まっても消えても暮らしぶりや精神面で大切にしたこと、言葉などは底流に今も受け継がれていると考えるべきなのです。人間の脳は建て増し建て増しであって太古は残り、リセット型ではないのですから。足跡発見で、北米遺跡は全てがずっと新しいことになり、舟で行き着いたと考えられている南米が注目され、信頼性が高いモンテ・ヴェルデ遺跡(チリ)で20種の海藻が生活に生かされていたことが分かり、あらためてKelp昆布ハイウェイ(えんじ色)が注目されていますが、日本列島はすっぽり入っているのです。

その日本については②下、ラオスで8.6万年前の人骨が発見され、遺跡的にはインドネシア・スマトラ島(当時は大半島)、ラオス、フィリッピン・ルソン島とスンダランド・パンカル海の周りの南方が源境として、また、DNA的に南印アンダマン-ラオス-北京・田園洞人-愛知・伊川津縄文人の類縁性が言われていましたが、そのラオスに今回の古痕跡発見で強力に補強され、伊川津の隣の浜北は仲間の縄文人の前の祖人骨も発見されていますし、3.8万年前の伊豆の海・舟民や愛鷹、長野と石器がしっかり支えていますのでこれらが繋がります。北上した祖人Sojinは、仙台で北の暮らしの予行を行い、東西が合一した賑わいの青森・陸奥平野を基盤として3.5万年前後から道東に進出し(巷間のマンモスハンタは来たは誤解)、「道東ゲートウェイ」から樺太・千島へ北上を続けたことでしょう。沿海州アムール川畔でも発見されている白滝黒耀石が国宝に指定答申されています。さて③千島方面ですが、30数個の島々は次々に見え、最大島間離隔は約75kmですが舟で行けない距離ではなく冬は流氷を歩いて行けました。最北端の占守島で、少なくとも6千年前に海民の暮らしがあった事が発見され北海道大学から報告されています。問題はこの議論において内外でアイヌの名が出ますが、樺太の方から始まりのアイヌ文化は13世紀からの事で、6千年前の事や北千島の遊動海民の対象に名が出るのは対象外の誤解です。

中世から確認されている、「余程古い、コロボックルである」(東京帝大 坪井、鳥居)とされる自称「西の人」の留頓(ルートンRouton)は、かつてはカムチャッカ南南部に進出していてそちらが主体だった事が明らかにされており、おそらく更に北方に居たのが新来のイテリメン(カムチャダール)に押されて後退して来たとも考えられます。となればベリンジアは沿岸伝いの指呼の間ですから、痕跡発見の無いこの地域に関し候補となる重要な資格を有します。謎の地域の痕跡は簡単には分からないでしょうから、周辺から理論的に迫ることになり、地域的には南方から南米まで、分野ではDNA・考古学・古環境・古生物・・・テーマは大きく拡がっていますし、このような事を今の教室は扱っていませんので多様で斬新なのです。

科学誌Nature Communicationsが、ラオス・タンパリン洞窟における発見を今週号で掲載。

左図、地域ではこれまでインドネシア・スマトラ島、フィリピン・ルソン島での古い発見があったが、今回のラオスにおける頭骨・脛骨等の充実の発見と分析は「日本人は何処から」に関し、出アフリカ東進後のスンダランド・パンカル海の南方説を強く支持。これまでDNA分析でアンダマン諸島人―ラオス古人骨―北京・田園洞人―愛知・伊川津縄文人の類縁性が指摘されていたが、今回、中のラオスにおける地域最古の発見で強化され、伊川津隣接の静岡・浜北縄文人更に同地の祖人骨により列島史の始まり時代からの繋がりが想定され、右図、地域的にも沖縄から青森・陸奥平野から海峡を越えて北海道に進出し北上を続けたと考えられる事、2代目の縄文世界遺産まで納得しうる歴史の流れとして繋がった意義は大きい。 まずは教室に、日本の状況を世界に。

次のページ

前のページ

↑トップへ