豪Griffith大チームが、過半が沈んだ東南アジアのSundalandのボルネオ島東部で、4万年前頃の洞窟・野牛絵と5.2万年前となりうる洞窟・人の手型絵を確認(下図左上)しました。

前々回、スラウェシ島の手型絵を報告したばかりでしたが、マカッサル海峡を挟んだ近傍反対側であり、世界最古の具象の動物絵です。

Sundaland地域は、豪州への現生人類の渡海移住、今回と同じボルネオ島の西部にあるニア洞窟の現生人類遺跡などと共に日本に関わるアジア現生人類史の古郷です。

私たちの祖先がこの地域から北上したと考える「南方起源説」を今回更に補強したという訳です。

さて、サルなどと決定的に異なる現生人類の知能進化は、いつ、どんな、が話題になります。

アフリカ南部海岸の赤色オーカー塗料の使用や貝ビーズの装身具などが発見され、一歩一歩10万年前位からということのようですが、特に4万年前頃からの欧州の洞窟絵が目立って採り上げられて来ました。

新しくなりますがスペイン・仏のものは、もう現代人顔負けの素晴らしいもの(下図左下)で、長く欧州人のプライドでした。

今回発表の事は、東南アジアが正に双極をなすものであったことを示しています。

欧州の方は、中東から洞窟にやって来た時に既に画くことが出来た人(クロマニヨン人)たちであった、即ち描くルーツは移住ルートの途中、あるいは中東などとみられています。

ホントに本当にひょっとしたらアジア・Sundalandからかも知れませんね。

ところで、4万年前頃と言えば、初めて日本列島(九州)に現生人類がやって来た頃(縄文時代前の「日本祖代」の前期)のことです。

歴史学をリードする欧米は、そんな例が無いためか余り注目しませんが、舟と櫂を造り、多くの家族が40kmもの外洋を渡航した人たち(下図右)のと洞窟の中で動物の絵を描いた人たちと、どっちの知能進化が凄い、サルから遠い事でしょうか。

少なくとも甲乙つけ難しではないでしょうか、日本の教科書がこの渡航という「日本祖人」の偉業を特筆しないのが不思議です。

3.7万年前頃にははっきり、伊豆・神津恩馳島に20km以上の黒潮分岐流を越えて黒耀石の採取に行き来し、しかも既に交換の文化もあった事が、黒耀石原産地分析でその傍証としてはっきりしているのにです。

ピューリタンが、1620年にメイフラワー号でアメリカ新大陸に渡ったのなどと比較にならない始まりの偉業ですよね。(日本学会は、欧米か?!—漫才タカアンドトシ)

(了)

最初の日本人、誰もが関心をいだくテーマで、学界では4万年前頃に九州へというのが定説です。

3.8万年前に伊豆の海を行き来していたことが、原産地黒耀石の遺物分析から分かりますので。

しかし、不思議な資料(下図左)が出回っています。

なんと標題は同じくし、意義不明な3万年前を採りあげ、かつ3ルートからとしています。

3万年前は、「日本祖代」(縄文時代の前・先代・列島史初代)の前期の終りで、此の後、鹿児島姶良大噴火が起きました。

さて、おそらくこの「3ルート」を言いたいために全てが誤解を生みやすいモノとなっています。

最初の日本人は、九州から1ルートの「日本祖人」たちなのに、誤解を生む説明となっています。

矢印が変な対馬ルートとある(左図白字)は、その人たちは元々何処からどういうルートで来たの?

沖縄ルートは、最初は九州から南下して来たのでしょう!

北海道ルートは、最初は狭くなった津軽海峡を越えて本州から来たんですよ!

と、列島に残された遺物からは誤解を生むような、普通に考えてツッコミ所が満載なのです。

何故、こんな変な資料が出て来るのか、ホントに不思議です。

(了)

人類の本格的な知的進化の始まりとして欧州の洞窟絵が挙げられますが、アジアでも発見されて(第1図)欧州のプライドは修正されました。

私も洞窟に住む人が、動物はもとより舟を描いているのを見て感銘を受けました。

そして、豪にともかく渡海している(第2図)ことが、世界史の特筆事項です。

世界人類の4万年前と言えば、洞窟に絵を描いていることが挙げられますが、第3図の舟(筏)を造り、家族で外洋を渡海する事は、勝るとも劣らぬ偉業で、五島・(対馬)壱岐・出雲が陸続きで拡がって行きました。

そして、黒耀石を求めて伊豆の海を行き来していた(第4図)ことも正に世界史に特筆されます。

さて第3図の始まりについては、A-1ルートが横断ながら最短距離(約40km)でしたが、流れに乗れたA-2ルート(百数十km)も有り得ます。

黒潮横断のBルート(約80km)は、慶良間海峡の横断が厳しかったですので九州まではどうでしたか。地域の発見遺跡も九州よりも比較的新しいです。

いずれにしても「日本祖人」の列島史始まり時代は、世界史上、特筆されるものでした。子供たちに教えて欲しいものです。

(了)

発売されていない「日本国記」が出版不況の中、25万部初版でamazon第1位を走ってます。

日本では、既に1万件を超える旧石器遺跡が発掘されていますが、教科書に「始まり」イメージが描かれていませんので、焦点を当てて遺物から語ります。

1.始まりは、4万年前頃である。西、北、東に痕跡が発見されていないので、人類展開史の流れから南方発であり、北東ア平野の沿岸を北上したのでしょう。

2.曙海を多数の家族が舟(筏)で九州に渡って来て、その起点から始まり時代前期の約1万年間で北上しおそらく南下して行ったのであろう。また、日本海側に大雪が降らなかったので、均一性をもって北上して行きました。

3.渡海の始まりと、伊豆神津・恩馳島への黒耀石採取の行き来から、暮らしぶりと信仰は「海の民」性を有しており、その後も根深く受け継がれています。

4.酸性土壌で人骨例が少ないが、始まりは2.7万年前の復元石垣人イメージとそれ程違ってはいなかったでしょう。

5.①沿岸地域(水平拡がり)のみならず、②高地(垂直拡がり)、③降雪寒冷地(環境拡がり)の暮らしがあり、外洋操舟などの知力と多様性が初期からみられ、花開く2代目縄文時代の基礎と言えます。

6.外洋操舟力と降雪寒冷地への適応力があったことから、話題の沿岸・昆布ハイウェイを通って、最初にアメリカ大陸に入って行った可能性が有ります。

(了)

今、百田尚樹さんの「日本国記」が、未だ発売もされていないのにamazon1位を走っているそうです。

その副題は、私たちは何者かとなっています。

最近の研究で、「弥生人」はいなかったという研究者が出てきています。

即ち、お米にしろ鉄器にしろ渡来して大きく社会が変わって行きましたが、別に大量の人々が入ってきた訳ではなく北九州の当時のお墓など見ても縄文人が沢山いるという訳です。

考えれば納得で、よく「明治人」と言いますが、英人、仏人、米人などが大量に入って来た訳でなく、チョンマゲこそすっかり減りましたが、「江戸人」とどれだけ違うのかを考えれば分ります。

それならば、教科書も大書し話題の縄文人ですが、4万年前~縄文時代までの2万数千年の「日本祖代」の人々とどこが違うのかと言えば、縄文人と言う程の事は有りません。

日本史を見ると、2万年前頃の氷河期が終わって温暖化して行く大変化の時代に、シベリアなど内陸の文化が北から西から入って来たインパクトこそ明らかに特筆すべきで、旧石器遺跡にもよく表れています。

人も入って来たでしょう、その流入の変化を吸収した「日本祖人」の流れが縄文時代人であり、「江戸人」と呼ぶのが奇妙なように「縄文人」と呼ぶのは実は奇妙なことです。

縄文時代に大量の人々が渡来して来た痕跡は見当たりません。

むしろ、海水面が80m近くも上昇して始まった、切り離された江戸時代的な熟成の時代であったようです。

百田本の副題が問う、私たちは何者か。

それは、南方Sundalandから北上し、曙海を渡って来て北海道にまで拡がった初代「日本祖人」の子孫であり「伊豆海峡」を行き来したことで世界的に実証されています。

長い歴史であり、「先住民」などと言える人も居ません。

(学界の現状では、書けないのでしょうが)

(了)

アフリカを出た現生人類が世界に拡がったという通説に異論も一部でてきているようですが、南方Sundaland地域から4万年前の九州、3万年前の北海道、そして「昆布ハイウェイ」をアメリカ沿岸にという環太平洋移住MPOR説(下写真左)が注目されてきています。

この環太平洋は火山の連なりで、地震津波の苦難が背中合わせであり、最近もインドネシア・スラウェシ島、熊本、北海道、ペルー、エクアドル・・・が被災しています。

その苦しみを石像にすがるように優しいスラウェシ像が有名ですが、お地蔵様や今回ローマ法王に文大統領が贈ったマリア様の造形が類似です。

どういう造形に佳さを感じ尊ぶかは、宗教名の区分に拘らず、歴史を共有する心の深い所での共通性が感じられるものです。

(了)

「日本国記」は凄いらしい!

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未だ出版もされていない、私たちに中味も分からない日本史の本が、amazonの驚きのトップを走っているらしいです。

アフリカを出た現生人類が、南方から北上して来て、4万年前頃に多くの家族が舟で曙海を渡って九州に来て、その「日本祖人」が3万年前頃には北海道にまで拡がっていました。

今や優れた文化が有った事で何かと話題になる縄文人の先代、私たちの祖先です。

日本祖人は、海水面が低下して陸地が増していた伊豆諸島へ黒耀石を採りに舟で37,000年前頃から行き来していて、世界の考古学会を驚かせています。

今、高校生が、いや大学生が、黒潮分岐流の流れる20~50kmの「伊豆海峡」を手作り舟で、帰りには黒耀石をたっぷり積んで行き来できるでしょうか?鹿の通り道に陥とし穴を何個もちゃんと上手く作って、家族に食べさせられるでしょうか?

始まり祖先の知的・体力的な能力にも目を向けましよう。

当時の赤ん坊を今、東京に連れて来て育てて、林修先生に教えてもらったら、大学に合格しちゃうでしょう。

あ、それとその後のいろいろな混じり合いで、僕は私は「先住民」だぞなんて言える人はまずいませんね、長い歴史ですから。

(了)

日本列島史は、アフリカを出た現生人類が、南方Sundalandを経て北上して台湾山地に至り、下写真の「北東ア平野」沿岸を更に北上して、「曙海」を舟で家族が渡って4万年前頃、九州に来て始まりました。

その「日本祖人」(縄文人の先代)は、当時対馬暖流が未だ無く、日本海側に大雪が降らない状況であったので、太平洋側と日本海側の両方から3万年前頃には北海道にまで拡がっていました。

この間、関東・甲信越は連接され、また、海水面の数十mの低下で陸地が増していた伊豆諸島の神津・恩馳島に、37,000年前頃から貴重な黒耀石を採取するため、舟で黒潮分岐流の「伊豆海峡」を渡り伊豆半島との間を行き来していた事が、世界の考古学会を驚かせています。

列島に拡がった約1万件の旧石器遺跡を元に、4万年前頃の始まりから自国の歴史が描けることは、正に特筆すべき事でしょう。

仮にそれ以前の人類の痕跡が発見されることが出て来ても、旧人や原人であって直接の祖先では有りません。

勿論、こんな永い歴史を有する人々とその子孫の集合体ですから、自分は「先住民」などと言える人はいません。

(了)

Youtube の標題について、2017年11月投稿の中に千島列島からベーリング地峡南岸を経て「昆布ハイウェイ」Kelp highwayを行った線が、初めて紹介されて描かれているのを見つけ、それは「日本祖人」(縄文人の先代)によるものとの下記の自説(MPOR説 2016年)を投稿しました。

A Japanese aged private historian, Nara Akira, has already proposed MPOR(Migration along Pacific Ocean Rim, from Sundaland~Japanese archipelago~Beringia~ seashore of North, South American continents) Theory since 2016, after studying theoretical examining the route of the “Kelp highway” from Hokkaido , Chishima(Kuril) archipelago , seashore of Beringia to Alaska.

The environment around the sea of Bering was much different at that era, because ice cold water of North Pole was stopped to flaw in Bering sea by Beringia.

So It was directly connected with the warm sea of Hawaii. Chishima archipelago could be seen from Hokkaido to Kamcatka, one by one.

Original Japanese, Nihon Sojin, before Jomon had reached Hokkaido by 30,000 BP and got accustomed to the similar life style to that of Queen Charlotte islands.

The history of Homo Sapience Sapience in Japanese Archipelago was originated in 40,000 BP, recognized by 10,000 Paleolithic sites in all over Japan.

It was also proved that Nihon Sojin crossed sea to Izu islands for collecting obsidian back to main land from 37,000 BP.

I think that they probably reached American continent through ”Kelp highway” before Last Glacial Maximum.
ブログ:新風アジアの楽園
Facebook :Nara Akira

最新の無人ドローン対潜水艦船が、下図左下のように初お目見えしましたが、そのデザインの水すましアウトリガーは大昔からあり、今も南方で使用されているもので波を行く安定性抜群の機能です。

上図右上のように日本列島史は4万年前頃、九州に舟に乗って多くの家族が渡って来て、3万年前には北海道にまで拡がりました。

そして上図右下のように、その「日本祖代」に道具となる宝物石器の黒耀石を手に入れるため、伊豆半島から伊豆諸島南部の神津・恩馳島に黒潮分岐流を越えて37,000年前から行き来していたことが、黒耀石原産地の蛍光X線分析によって明らかとなり、世界の考古学会を驚かせています。

それが伊豆半島のみならず、交換によって関東、いや長野でも発見されているのです。

最短でも20kmは漕がねばなりませんので大変なことでした。恐らく距離はもっと長く、潮流と風を利用したでしょうが。

残念ながら、国内最古の物は千葉・市川市の7,500年前の丸木舟で、2代目の縄文人の物です。

全長約7.6メートル、幅約50センチ、厚みは船底部の端で約8センチで、長さは、今のプレジャ-ボート並です。櫂は、全長約2メートルでした。

低湿地にあり、住んでいた所でない、海の近くで作業を行う番屋のような所で見つかっています。

舟は木・皮・葦製にしろ、「日本祖人」がどういう舟で恩馳島まで行き来していたのかは朽ちて分かりません。

浜辺の海水面は、当時より数十mも上昇していますので痕跡はあっても海中という謎です。しかし正に海で活躍していた前述の縄文舟は、当時の技術が緩やかに進んでいたことを考えれば、大いに参考になるのではと思うのです。

アウトリガーは見つかっていませんが、舟が壊れてもアウトリガーは他で使われた、あるいは他の用途に転用されたことも有り得ることですので、何とも言えません。

九州に渡る際は、男成人だけで渡った訳ではなく、奥さんやノウハウを有し指図する爺さん、お産などに欠かせない婆さんや・子供も乗っていたことでしょう。

なお、津軽海峡はいまよりずっと距離が短かかったので、舟で渡るのが大変だったのではなく、降雪寒冷の地に適応するのが大変だったのです。

最新鋭のドローン対潜船同様に、当時、舟を造ること、天文・海象・気象の外洋を家族で渡ることが大変なノウハウを要し、高い知的レベルにあったことは容易に想像されます。

今、2代目の縄文人に多くの人たちが関心を示していますが、そもそも先代の「日本祖人」が、外洋を操舟し渡った第1級の知識人・技術者であったことにも思いを馳せましょう。

(了)

近年、世界の人類史では新たな発見が伝えられています。

アフリカ北西部で定説を10万年も遡る30万年前の人骨発見、あるいは東南アジアの人たちは定説より古く複雑な成り立ちであったことやアマゾンで全く近代文明と接触していない古部族が発見されたり、豪州の始まりもずっと古いようです。

万年を遥かに超える前の事に関しては、100mを越える海水面の上昇から特に沿岸の地形変化は大きく、消えてしまったモノもあり、また数字も当然にしてaboutな幅があります。

そういう中で、4万年前頃に九州に渡海して来て、「日本祖人」(縄文人の先代)が3万年前頃には北海道にまで拡がっていたことが、1万箇所以上の列島旧石器遺跡の分析から確認されていることは、世界人類史上で尺度と言える大変重要なことです。

また、九州に渡海しただけでなく、37,000年前頃、伊豆半島と伊豆諸島を、黒耀石を採るために黒潮分岐流を越えて舟で行き来していたことは、世界が驚く確定事象として有名です。

他方、最初のアメリカ人についても、かつての定説は見直されてベーリング海の北岸地域の「昆布ハイウェー」を舟で渡って来たと考えられるようになっています。

但し欧米の学者さんは依然として、シベリア種族が来たものと何となく考えているようですが、マンモスハンター狩猟族が、簡単に操舟の海民になったとはとても思えません。

大変なノウハウの継承が必要ですし、海藻を食べると腹を壊す欧米人もいますから。

従って、操舟力ある日本祖人による北海道・千島ルートが注目されてきています。

ところで何故、日本祖人が降雪寒冷の地に入って行ったのか、それは「北の漁場」があったからでした。

「襟裳岬」は、正にリッチな昆布ハイウェー傍(魚介・海獣・鳥など含む)にあるのです。

春夏秋冬、何もない襟裳岬だったら、誰も苦労して住み着きません。

被災の北海道が、今、世界人類史において注目されています。

(了)

南アの海岸の考古学的に有名なブロンボス洞窟で、下写真左のように、赤色“クレヨン”で石に線が描かれているのが発見(ノルウェー・南アの大学による)され、7.3万年前で世界最古のモノだと英BBCが報じました。

最近の発見(北西アフリカ)では、最古の現生人類が31.5万年前と大幅に古く記録を塗り替え(20万年前から)ました。

この線描発見の意義は、現生人類がはっきりと抽象的な認知力を有して意図的に描いた最古のモノと言う事です。芸術とまでは言えないのでしょうが。

更に、この人々が海岸で水産物を食していたことに私は注目します。サルともライオンともはっきり異なる暮らしです。

おそらく浅い海を越えてアラビア半島南端沿いに出アフリカを果たした種族の子孫が、数十kmの海を舟・筏で渡って6.5~5万年前には豪州に進出しています。

緯度が同様の暖かい(当時は氷河期)地域への展開は早いですが、北上して行くのは適応に期間を要します。

そして、4万年前頃に九州に舟・筏で渡って来て、「日本祖人」(注:縄文人の先代)は、3万年前頃には雪と寒さの北海道にまで拡がりました。

注目すべきは、この4~3万年前がおそらくまず動かない歴史的な意義なのです。

仮に万が一、アフリカのようにもっと古い痕跡が発見されたとしても、それは旧人であって直接の祖先ではないですし、新人の物だとしてもせいぜい当時の冒険者のギネス的な意味に留まるものでしょう。

これまで発見された列島の1万件を超える旧石器遺跡の状況からそう考えます。

問題は、上写真右のように世界でも極めて貴重な、異論のないこの4~3万年前という意義ある日本史始まりの内容を、子供たちに教えていない事です。

(了)

4万年前に海を越えて九州に渡り、3万年前頃には北海道にまで拡がった日本列島史始まりの日本祖代は、正に激動でした。

図1

当時の古環境の推定、見つかった旧石器遺跡(約1万箇所)の分布・位置(中小河川・湖沼の傍)・様子や遺跡数の急増減、遺物(石器)の石材や種別(叩く突く切る掻く)・型式・持ち物の組み合わせ、その変化などから大昔の暮らしが推定出来ます。

注目すべきは祖代の中期及び後期の共に初めであり、①鹿児島の姶良大噴火の影響、②北から西からの人と文化が流入という正に激動であって下写真の通りです。

図2

特に、列島に拡がった日本祖人の所に、北から西から、始まりと同様の南からも新しい人と文化が及びました。

残された石器を見ると、違う形式の石器群を使う北と西から入って来た部族には境界が出来ていたようです。(安蒜政雄 日本旧石器時代の起源と系譜 から文責筆者)

それでも宝物の黒耀石が列島中央部にあったためか、関東と甲信越が早くから連接していました。

東京湾が陸地だった広大な関東平野は、北側と西側からの行き着いた接点として混在し、人も多かったのです。

対馬暖流が未だ北上しないこの時代は、日本海側に大雪が降らなかった事が、まだストーブの無かったこの時代には大変ラッキーでした。

出雲と遠く離れた東北の言葉に共通性があったり、関東は混み合い、また、列島中央部を境に東と西で今もお雑煮の餅などや色々な物が違う原型が万年前からでは思わせる類似です。

そして他の点では、ゆっくり拡がった曙海の事です。

温暖化の海水面上昇で、対岸がどんどん遠くなって行きましたが、もとはと言えば畔の遠い親族ですので、その後の五島、対馬を通ずる関係は納得です。

先史必読の「魏」志倭人伝では変なヤツ扱いですが、曙海の畔の人々である呉・越、江南の海の民とは近いです。

広島の呉・呉服・越前カニ・越中褌・越後屋さん、江南市・(平塚)江南高校・・・半島含めてみんな曙海繋がりです。

そして内陸発の「蜀」はもとより、倭人伝の「魏」も日本では見当たりませんね、不思議ですが、内陸狩猟の民との違いなのです。

私たちのDNA分析では、江南と共に山東半島の名前も出ますが、曙海の意義をよく示しています。

遥かに時代を経たその後も遣隋・唐使などの関係が続きました。

行くのは大変だったですが、向こうからはそれほどでもなく、兎も角も対岸の人たちが戦乱を逃れるなどして幾度となく渡来しました。

かつて、縄文人のルーツが探されましたが、結局、何処にも見つかりませんでした。

そりゃそうです、南方Sundaland発の日本祖人にこのような激動の混じり方をした独特な「日本列島ブランド」ですから。

図1再掲

ところで上の図2のように、北の何も無いと言われた襟裳岬の前は豊かな昆布ハイウェイでしたが、これに関しては別の機会に。

(了)

縄文土器は、素晴らしい!これはもう世界に誇るべき芸術です。

しかし、下写真は縄文土器を紹介した最近のある資料ですが、旧石器時代欄は空白です。

それはいいとしても、縄文時代欄に土器が作られると書かれていて、それ以前には無かったかのようです。

無紋であったりして、「縄文」ではないからという事なのかもしれませんが、いずれにしろどんな会社の社史でも、先ず初代・創業を見つめます。

華々しい2代目の縄文土器も先代・創業の「日本祖人」による「祖代土器」の土台があってのことでしょう。

現に、世界最古級の青森の土器のみならず、北海道から種子島まで広く先行土器が作られていました。

問題は、旧石器時代という適切でない呼称にあります。

文化の上で重要な土器が、広く日本列島で作られているにも拘らずです。

それに世界では、旧石器時代・人と言えば、200万年前位から言いますので、我が国の4万年前から2万数千年の間を表現するには全く不適切なまま放置されているのです。

創業のご先祖様を見つめましょう。

外洋を越えて舟で離島を行き来し、鹿を陥とし穴で獲り、釣り針で魚を釣り、環状に家を作って暮らしたり、世界に注目されるような当時の高い文化を有していました。

吾輩は始まりの日本祖人、教科書に名前はまだない、はひど過ぎます!

縄文人をひがんでいる訳じゃないのです。

(了)

(メキシコ・イブに関する事実関係は、mailonlineを参考にしました。文責は、当サイトです。)

問題は、Harvard医科大が、南米アマゾンの古い3つの部族のDNAを分析した際の驚きから始まりました。

それらが、南米はもとより北米先住民、シベリアの民族とも似ておらず、豪・アボリジニ、ニューギニア、印・アンダマン諸島人などのSundaland(東南アジア)周辺地域の古い歴史のある人々と似ていると発表しました。

何処から来たのかと記者に聞かれ、苦笑いするばかり(東南アジアの者が植民地にしてたんじゃないの、www)でした。

というのは、南太平洋絶海のイースター島に人類が達したのが800年前程度のことで、ゼロが2つも違おうかというものですから、歴史的に南米なんて話のほかです。

東南アジアには、直路の太平洋横断説を主張する人もいますが、それも最終氷期の終わった後の寒戻りヤンガードゥリアス期後で完新世11,500年前頃を対象とする時期ですから、話が違います。

その後現生人類のアメリカ新大陸への進入は、定説のベーリング地峡から動物を追ってと言う事ではなく、北太平洋沿岸(ベーリング地峡部を含む)の「昆布ハイウェイ」沿いを舟で来たという認識になっています。

今回、なんと人骨が発掘されて実証されたメキシコのイブ(人骨発掘は80%)は、ユカタン半島の海面下380mくらいの水中洞窟で発見され、数年にわたり分析されていた素晴らしい標本です。

若い女性で20~25歳、身長140cmくらいだそうです。

ブラジル研究所の3D成形技術で顔像が作られました。

そして研究チームが、この13,600年前の人骨は、シベリア系ではなく東南アジア系だと言ったことが大変重要です。

つまり、イブと祖先は、①日本列島経由か、②東南アジアから直路で太平洋横断かとなりますが、此処でも頭を抱えてこの点に触れていません。

そんな時代に直路横断して来たと言えば頭が触れていると言われますし、おそらく日本列島~昆布ハイウェイのルートは、あまり意識に無いのかもしれません。

それともシベリア分類に含まれているのか?

いずれにしろ、これまで累次の当サイト諸報告の通り、これらは日本祖人の初渡米話、環太平洋の人類移動・移住MPOR説の一環であって、頭を抱える問題ではないのになあと思っています。

人類展開史ルートのリレーにおける重要な日本列島~アラスカ区間タイムについて、担任する日本学界の公式見解の早い発表が待たれます。

でないと、これらの重要な発見が否定あるいは無視されてしまいますから。

さて上の写真の3人、どう思われますか?

(了)

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