初代・日本祖人(4万年前~)が、伊豆諸島の神津・恩馳島に黒耀石を採取するために、黒潮分岐流を越えて37,000年前頃に舟で行き来していたことは、世界の学界の驚きです。

しかし、あまり知られていませんが、2代目の縄文人が、7千年前頃から黒潮本流を越えて八丈島に渡り、家族で住んで生活し遺物も残しています。

オリンピックに古い離島行動種目があれば、金メダルの快挙なのです!

操舟行動・自活力を発揮して、絶海の島に、そんなに古い時代に、家族の住居はもとより土器や装飾品など驚きの文化を遺しています。

人体が男・女・女と実証的に発見され、猪を積んで行ったことも驚きの学問的成果です。近世になってすら、鳥も通わぬ島抜け絶望的と言われた所にです。

世界のライバルでは、モアイ像のイースター島(新し過ぎ)、宮殿のクレタ島(小島伝いに行ける)、旧石器があるアフリカ西部・カナリア諸島(途中も周囲も多くの島々)などが思い浮かびますが、負けないでしょう。むしろ、国内にいるかも知れません。

伊豆大島、神津島など快挙の裾野もしっかりで、一発屋ではありません。

では、何故そこ迄に?

黒耀石や貝などの宝物を求めてと考えがちですが、もしかしたら、遠い海の彼方と思われていた「神の御許に」という事だったかも知れません!

日本祖人・縄文人と言えば、髪ボーボーひげもじゃで毛皮のパンツに槍・弓矢を持ってのイメージは、修正をお願いします。飾っていた女性たちとも合いませんし。

(了)

土器と言えば始まりの祖代土器ではなく、世界的に2代目の縄文Jomonが超有名で、特に火焔土器などは岡本太郎さんも絶賛の逸品です。

しかし、青森・大平山元(おおだいやまもと)遺跡の世界最古級(16,500年前)の祖代Sodai土器の発明(粘土選び、練りねかせ、成形、焼き等複雑)は、特筆すべき物で平らで角張った底の土器です。

紋様こそありませんが。

多数の破片が発掘され、付着物の有機物分析で魚、特にサケが主でしたので、ドングリなどのアク抜きが原因ではとのそれまでの土器登場の説を覆しました。

当時の青森は、今の北海道東北部くらいの寒さで植物採取も乏しかったことが、魚に頼り煮たと言われますが、海水面上昇からは最寒期を脱し温暖化が始まっていました。

多量に来るサケの調理・貯蔵処理などで、しっかり保管したい、それまでと違って「臭くなった」、からなのでと考えています。

問題は、何処かから伝わったのかです。

確かに、シベリア方面から狩猟族など(出て行った子孫含む)が、北海道へ入ってきた後の事でしたが、この時代の北海道の土器はこれより新しい内地発の物です。

また、ここは最古級の祖代土器の一発屋では有りません。最古級石鏃も発見されています。

しかもこの地域は下図の通り、三内丸山は、縄文認識を一変させた遺跡であり、亀ヶ岡は、江戸の昔から有名な洗練された逸品揃いで、県内遺跡が広域に長い間の歴史を刻む裾野があります。

では、何故ここに最古級が?

日本海側、太平洋側、そして北海道の三方向から情報と物と人が来て、活発に混じり合って文化を生み出したからだと考えます。

日本列島そのものが長く多様で、新規受け入れ混じり合い、変容・発明・熟成等の歴史でした。

(了)

歴史における海人(漁撈・採集・交易・海賊・狩猟耕作等)は、書き物を残さず寡黙なため妥当に扱われていないと感じています。

舟ノウハウは体得ですし、一人山に入るキノコ取りのように人に教えず秘密体質で、何より板子一枚下は地獄と言われる厳しい生業なので饒舌にはなれないのでしょう。

曙海も温暖化の時代を経てゆっくり海面が拡がり、採りあげる3~2千年前頃には、今のようになっていました。

問題は縄文時代末期以降、中国長江から、朝鮮半島から稲作や鉄が入ってと学校で教わりますが、入って来た水稲は朝鮮半島には無い米種です。

それはインド南部・タミル海人を、いや北九州の宗像・住吉海人等を忘れてもらっては困るという事で、北九州の海人地域で採用した稲作から始まった事が、象徴的に重要です。

祖代・縄文時代に曙海の畔には、海人のネットワークが出来ていたでしょう。

上図の右下に、貝紫の染めを書きましたが、世界の海人フェニキアが、3,600年前頃に技術を有した貴重な帝王・特権階級紫をアッキガイ科巻貝汁から作りだすもので、吉野ヶ里(交易拠点)で発見され、作家有吉佐和子さんはフェニキア人が来たと言ったそうです。

フェニキアは秘密主義でしたが、北欧、アフリカ喜望峰回り、豪州などまで動き回ったようです。一航海3年というのもあり、現地で農業生産までしていたと言われています。

何しろ彼らのフェニキア文字がアルファベットになった事、また、相手が真に欲しがる貴重品を何処かで手に入れて交易する、と言われた事がよくその活躍を示しています。

さて、アジアのタミル海人(後の日本呼び”マドロス”街あり)は、この頃ベトナム迄はっきり痕跡があり注目です。

言語学泰斗の大野先生は、稲作用語にも日・タミル語の多くの類似性があるのに長江の民とは無い、また、正に来ていた時代に埋葬の甕棺が酷似しているなど諸点を挙げてタミル海人が来て文化を伝えたと主張しています。

船着き場地域―後背地―川上地の繋がりエリアが、曙海畔のみならず縄文時代の他の地域、いや、かなり後の時代まで続く特色あるあり方です。

稲作・金属の拡がりと大幅な人口増を経て、中国を知って採用された碁盤の目のような〇〇京時代とは違う、海人ネット社会という在り方でした。

何故、タミル人が来た?

大野先生は、中東・欧州で珍重された日本真珠を挙げてますが、翡翠、オオツタノハ貝、宝貝なども有りました。

(了)

何と言いましても図1のように、右肩上がりの海水面の上昇(温暖化による極等の氷融け)が原因です。

正に途中で時代の名称が、「日本祖代」から2代目の縄文時代に替わります。

日本祖代の末期の最寒冷期(LGM)から温暖化の時期に、シベリア東部地域の狩猟族が南下しました。

寒過ぎて、その後、温暖化で寒冷草原のマンモスが絶滅していき、ハンターが動きました。

かつて列島から北上して行った子孫が戻って来た事もあったでしょう、特に北と西で遺跡数が激増しています。

土器が定着して縄文となりますが、海水面上昇が土地を減らし、海岸線と暮らしの地形を大きく変え、温暖化の人口増の「水辺の民」の暮らしぶりも変わっていきました。

(海岸線の長さは、アメリカの2倍、中国の25倍です)

図2のように、温暖化ピーク頃に三内丸山が縄文の華を見せ、寒冷が来て関東の遺跡増になります。

既にクリ・ひょうたんなどの植物・犬猪を飼育する知識のあった縄文人の一部が、増えた西部北九州の低湿地に、拡大した曙海の向こうの民から水稲を移入しました。

大陸は周の時代で麦作であり、人も暮らしも違います。

稲作はやがて拡がりましたが、社会へのインパクトは少し遅れの金属器の導入であったようで、渡来人も加わった稲・金属時代になっていきます。

祖代・縄文時代(日本史の92%期間)の世界が注目する「精神性」は、日本祖代から受け継がれ縄文で熟成し確認される様々な物コトであり、現代でも痕跡が窺がわれます。一例は、以下の通りです。

世界の学者が、「日本文明」として区分する重要要因の一つが、この時代にあると考えます。

なお、日本祖人リーダーは、天文・気象・海象・動植物・造舟・外洋操舟等の知見のある、当時の世界の第一級の知識人でした。

(了)

現代では、現生人類のアフリカ発祥が知られていますので、発見されている遺跡・遺物、DNA分析などから、移住の流れが導かれます。

曙海のことや日本列島の旧石器遺跡の状況から下左図のように流れが分かり、近代科学は、2.7万年前の石垣島人骨の顔を復元しますので、まあ大きくは変わらないであろうと列島史が作図されます。

ところが大正末期に、下右図のように、清野博士などが、大森貝塚の人骨情報や北海道の竪穴住居跡の状況、諸人骨の分析などから、アイヌ以前に石器人・日本原人が居た、しかも現代人に繋がっていて日本には「先住民」はいないと、約100年前に正に基本を言い当てています。

残念ながら、同じく立派な鳥居東大助教授が、アイヌ伝承にある北千島に逃げたという小人は現場を確認したが居ないと報告し、その後これら原人・小人話は埋もれ、何と「アイヌ先住民国会決議」(平成20年)という歴史の裏付けの無い誤りの「先住民」決議がなされています(アイヌの人権を尊重する決議に名称を修正すべき)。

見つからなかった事は必ずしも過去に無かった事ではないのに、伝承はなまじの文書より信頼できるのに残念なことでした。

さて、流石の明治先達ですが、時期の視野は3千年前くらいだったようで、今から見ればゼロが一つ違いました。

また、世界にはジャワ原人、北京原人がいますので、日本原人は誤解されないように、現生人類「日本祖人」が良いでしょう。

(了)

下図の通り、列島史始まりの頃のこの地域には、①伊豆の黒潮分岐流を舟で渡って神津・恩馳島の黒耀石の採取に行き来していた、③釣針で魚を獲っていた、④土器で魚特に鮭を調理・貯蔵していたという世界で発見されたうちでは最古のモノ事が知られています。

今回、韓国東北内陸の江原道・旌善の洞窟で見つかっていた漁網の錘の石が、2.9万年前という最古の物であることが分ったとの延世大学博物館の発表を仏AFPが伝えました。

日本の陥し穴による鹿猟(3万年前)に比すべき古さと技術の生業の方法です。

問題は、これらの人々は明らかに海の民あるいは川を遡って行って派生した暮らしぶりの人々です。

漁撈・採集はもとより後々には交易専業であったり広大な太平洋の島々に暮らすこととした人々、家船暮らしをしたり海賊になったり大航海に乗り出した者、そして近代の海運を担った人たちなどの始まりと認識すべきでしょう。

「狩猟採集民」で括る事は妥当でなく、主に海・川・湖沼などの場で、やがて多様に暮らしていくことになる「水辺の民」とでも称すべきでしょう。

特にアジアでは注目すべきであり、我が国においてすら歴史の傍らに扱われがちですが、始まり時代は主流であったことを強調したいです。(脱「欧米か?」)

(了)

再び鎮魂の暑い夏がやってきます。

もしこの日本・花綵(はなづな)列島が、もっともっと大陸に近ければ台湾・韓国のようになっていたでしょう。

もっともっと遠く離れていれば、聖徳太子は現れず大東亜戦争も無く今は欧米どこかの国の植民地だったでしょう。

4万年前の始まり時代から、此の絶妙な距離の故をもって「日本祖代」からの熟成の歴史が、「日本祖人」、縄文人、・・・と列島に育くまれ、今や世界史の中に「日本文明」と言われる独特な社会が生まれるに至っています。

日本史は、○○時代から知れば十分とまで言うのは傲慢です。魏志倭人伝では有りません、百年前にこんな日本人も居ました。

此の大陸との距離によっては、クレオパトラの鼻高よりもっと世界史を変えていた事でしょう。

(了)

高名な歴史教授が、列島史の始まりについて、下図のように*2「大陸から」と言われますが、図1のように南方からです。

また、*4打製石器で狩りをする人でしたと言われますが、主たる人々をそう表現するのは、「見つからないモノは、無かった」史観で、戒めが必要です。

沖縄の八重山遺跡(2.7万年前)などでは、不思議に石器が見つかっていませんよ。

図1左、曙海の畔から九州に渡って来た人々は、その後、渡海の難しさと海水面の上昇で大陸と切り離される形で文化を育み熟成しました。

図2のように、黒耀石が沿海州で見つかるのも、先生方お手上げの裸国・黒歯国と関係があったのも「日本祖代」を見つめればこそ分ります。

近現代史も、本質は大陸と違う絶妙な距離の日本・花綵(はなづな)列島の特性からもたらされた歴史のifに注目すべきです。

図2左上 列島の人は、神様に獣肉をお供えしない特色を持ち続けています。今や世界で「日本文明」と言われる一つの所以でしょう。

この日本列島が歴史のifとして重要な事は、図2のように大陸に近すぎても遠すぎても大東亜戦争は起きず、クレオパトラの鼻高以上に世界史を変えたことが分かるでしょう。

英国と欧州大陸との関係とこちらアジアのアナロジー、ペリー来航のみならず、米国、日本と大陸・満州の関係など、4万年前からに目を向けねば真に理解はできないでしょう。

更に*3は、世界の旧石器時代の始まりが200万年前ですし、ナウマン象や石器が発見されている日本にも前・中期旧石器時代人があったのではと未だ論争中です。

従って、列島史の始まりは「日本祖代・祖人」と用語をはっきりすべきです。

また、教授の*1も伊豆の神津・恩馳島に黒耀石を採りに舟で行き来していたのが、3.7(研究者によっては3.8)万年前ですから九州に渡って来た記念すべき創業の時期は、「4万年前頃」として世界に報告すべきでしょう。

最後に、

この国では異論で指摘するとケンカを売る気かと言われます。浅学者が、全く失礼・非礼する気もございませんので、ご寛恕ください。

(了)

都会のマンション暮らしとスマホいじりですっかりひ弱になってしまった現代人。アウトドアの生活を知らない子供たち。

最近、「我は海の子」が教室で歌われていないらしいと聞いて、驚き「浜っ子」としても大変がっかりしています。

歌詞の言葉が古いのは、先生が意味を教えることで逆に教育効果があると思いますが。

何よりも重要な、世界の歴史理解と我が国の伝統の継承に繋がることですので。

まあ、海、山に(モンスターペアレントの)子供たちを引率される先生方のご苦労は察するにあまりありますが。

考えてみますと、上図のような暮らしは、考古学的には何も残らないかも知れませんし、ン万年前に比し海水面が100mも上昇してしまっては海中です。

でも、「見つからないモノは無かった」史観はいけないことを子供たちに教える良い教材です。

魏志倭人伝のみならず、ちょっと前まで日本人は、生の魚と海の雑草を喰う変なヤツと言われていました。

(誰だ?トロの味を大陸人に教えちまったのは!)

島国日本の、いやアジア太平洋の歴史的な海の暮らしを先ず子供たちが理解し、2020東京五輪でもアピールして欲しいなと思います。

(了)

現生人類による日本列島史の始まりが4万年前頃であることは、学界異論のない認識です。

にも拘らず、最近の大新聞の説明図でも北、西、南の3方向から人々が列島に入って来て日本が形成されて行ったというような世界に誤解を招くモノになっています。

これは例えば、明治、江戸、平安時代に起こった事を一つの図にして説明しているようなものです。

始まりはあくまで南から北への一方向性で、南方系の先人が緯度を北上して適応して行った容易ではなかった1万年を要した拡がりなのです。

そして、最寒期の2万年前頃に北から西から大陸の狩猟族とかつて北へ向かった者達の子孫が入って来るまでに定着していた日本列島文化が、先ずは基層である事が重要です。

さて、4万年前当時は、対馬暖流(8千年前から)が日本海に流れ込んでいませんでしたので、大雪は降りませんでしたから東西併行して北上して行ったことでしょう。

長野に豊富な黒耀石があり、関東と甲信越が早い段階で結ばれていることも注目されます。

津軽海峡越えは、日本祖人にとっては大きな問題では無かったですから北海道の降雪寒冷地の生活に適応するのに期間を要したものと考えられます。

更に、始まりの南を子細に見ますと、4万年前頃に多くの家族が慶良間ギャップを越えるのは困難だったろうと思われます。

当時の海水面低下で現れていた北東ア平野の沿岸を行く方が容易で、かつ、潮の流れ風の向きと距離から対馬や五島から北部九州に渡海する曙海時計回りルートが自然だったろうと考えられます。

つまり、大新聞が堂々と描いている3方向がいずれも間違って世界に発信されていると、歴しニアは歯ぎしりしているのです。(入れ歯かどうかは、聞かないで下さい)

いずれにしても、日本祖代、日本祖人をしっかり認識していないことが問題なのでしょう。

(了)

 

金沢大などの国際研究チームが、愛知県の伊川津(いかわづ)貝塚から発掘された約2500年前の縄文?人は、東南アジアの狩猟採集民族にルーツを持つ可能性があることがわかったと発表し、論文は米科学誌「サイエンス」に掲載されたそうです。

此の縄文?人骨が、ラオスの遺跡(約8000年前)から発掘された狩猟採集民族やマレーシアの遺跡(約4000年前)から見つかった人骨のゲノムとよく似ていたということです。

先ず、縄文人は2代目で日本祖人の子孫です。

下図のように、日本祖人は南方系と考えられ、今回、ラオスやマレーシアと似てるからと言って何の驚きもありません。

問題は縄文時代に、ラオスやマレーシアから日本列島に人がやって来たと受け取られるように世界の一流科学誌に書かれているのかどうかです。

そうではなく、4万年前の日本祖代にそれらの南方遺伝子を持った人々が曙海を渡って来て初代・日本祖人として北上し、その子孫の在愛知の縄文?人に受け継がれていた。

即ち2500年前頃にラオスやマレーシアから人が来た訳ではないという可能性が、しっかりと世界に伝わっているかどうかです。

世界の誤解を生む全ての問題は、2代目の縄文時代、縄文人からしか語れない学界の用語の現状にあります。

(了)

よく日本列島には、北から、西から、南から人がやって来て「日本」が出来たというような記述がありますが、誤解の元です。

石器が示すのは、4万年前頃に曙海を越えて家族で渡って来た南方系の人たちが北上し列島中に拡がった、海・川辺の生活が始まりの歴史です。

2.9万年前頃の鹿児島・姶良カルデラ大噴火は、九州と西日本そして東北にまで火山灰(AT)を降らせる影響を及ぼしたと考えられる画期です。

その後の祖代中期の特色は、既に使われていた切れ味鋭いナイフ型石器の分布に今に通ずるような地域差が生じていることです。

北海道には余り見つかりませんので、引き続きそれまでの暮らしぶりをしていたのでしょう。

このことから、西から影響が及んでいると考えられ、人も入って来て大噴火の傷跡も修復されたのでしょう。

最後の祖代後期(2万年前頃の最寒期~縄文)は、大陸のバイカル湖地域発と考えられる細石刃の異なる技法が北から、西から、入って来ています。

よく縄文人は何処からという質問を立てる人が居ますが、2代目ですので当然、日本列島からですが、この日本祖代における北と西からの人の影響変化を受けているのは特色でしょう。

入って来た人の数や影響の度合いは更なる分析が必要です。なお、北海道から出て行った親族が戻って来たことも考慮が必要でしょう。

そして、図のような概ね東西2分性は、現代にまで繋がる日本の一つの特色です。

ともかく日本史は、祖代から見て縄文時代を理解し、その後を考えて行かなくては、ホントの理解はできません!

それは、最初の厚い文化の基層の上に新しいモノを取捨選択、変形して積み重ねていった独特の一島一文明だからです。

今もって日本語が環太平洋系ながら隣国と異なり、どのようなものかよく分からない長い時を経た積み重ねですから。

(了)

曙海を九州に渡って来て、北上・南下して列島中に拡がり完成しました。

当時はプーチンが居ませんでしたし北海道で止まることも無く、北上を続けて初のアメリカ新大陸に進入です。

そして、太平洋沿岸を南米にまで南下して行った(環太平洋移動・移住MPOR説)ことでしょう。

九州4万年前、北海道3万年前が豊富な旧石器遺跡等で裏付けられる、世界の人類展開リレーにおける時期ハッキリの重要区間であることがあまり認識されていないようです。

欧米の学者さん、こんな大昔に樺太や沿海州で北海道の黒耀石が見つかって「交易」かなんて驚くことは有りませんよ、曾爺さんの所に素晴らしいガラス石がある事は知ってましたから。

それよりも、最初のアメリカ人は、北海道で降雪寒冷に適応して海獣などを食し、昆布Kelpハイウェイを行った海の民系の「日本祖人」でしたよ、理論的には。

(了)

欧米の学者さんが頭を抱えている始まりは①南米チリ遺跡でした。

それまで標題の件は、シベリア~アラスカ~無氷回廊そして、急行で南米南端までが定説でしたが、覆りました。

②無氷回廊が開く前に南米に人類が来ていたのです。

従って今は、③昆布Kelpハイウェイで来たと考えられていますが、最近、④冒険家が体験から導いたものとして、米国北西岸シアトルからチリ遺跡迄、陸上は猛獣がいますし沿岸を舟で移住すると2千年以上はかかるだろうという見積りです。

シベリアにも⑤古い遺跡がありますが、東部で発見されているのは温暖化以後の15,000年前レベルですので、チリ遺跡と合いません。

そもそも氷河期と言わず、上図のようにシベリアでは現在でも冬の寒さで死者が出ていますので、2万年以前の寒冷期に広大な大陸を西から東に家族が移住できたとは思えません。

これらから、3万年前の北海道の日本祖人が浮かび上がってきます。海獣などを食し、降雪寒冷に適応していました。

丁度、昆布ハイウェイも道南・道東・千島列島を通って北上していました。

千島は次々に見えてしかも遠くなく、米臨海は冷水が流れ込んでませんでしたので、可能性ありです。

実は昆布ハイウェイのルートになったので、北の海における濡れれば死に直結する、大変なことである操舟と造舟に思いを巡らすべきです。

大陸狩猟族には、容易でないでしょう。

DNA分析などから、主たる米国先住民はシベリア系かも知れませんが、温暖化した後から入った人たちであり、最初のアメリカ人は沿岸からの日本祖人であると考えます。

(了)

Beginning of Japanese History

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