東大TVの世界現生人類移住史ルート図は、①日本列島に入った祖先が九州で止まっている(下図左上)のが、大問題です。

1万件の旧石器遺跡は、北海道に列島を北上し、九州から沖縄に南下したことをはっきり示しています。南北米の太平洋岸の最新の沿岸ルート説が折角認識されているのに、世界が注目する北・西太平洋の花綵(かさい、はなづな)列島ルートが無いのでは困ります。

今や、北海道からも千島列島へ北上した可能性(下図右上、前回説明)がありますので猶更です。

次に、日本(列島)史を論ずる際に、世界の人はもとより日本人もJomon、縄文と2代目からばかり論ずるのが大問題で、どんな会社でも初代創業から社史を記述します。中には、縄文人は何処から?と問う先生もいますが、2代目は日本列島に決まっています。また、江戸人と明治人も、世の中は大きく変わっていますが、人の中身はそんなに変わっていませんよね。世界の多くの国は4~1.65万年前頃のことなどそんなには分かっていませんが、幸いに島国日本は建設・発掘が多くそれが出来ているのです。書かないのはよく分かっていないからと言い訳されますが、豊富な旧石器遺跡は全く世界に類例なく、九州への渡海、石垣島人骨と屈葬、伊豆の海の行き来、磨製石器、環状キャンプ、陥し穴猟、釣り針などは先史考古学の金メダル級であり、縄文時代以前の日本始まり時代の事は、大昔としてはよく分かっている方なのです。つまり、説明できず議論しないのは、実は単に祖人Proro-Japanese、祖代という道具となる用語が無い だけ (明確な言語概念の無い者は、他に教えられず命令できない―欧州将軍名言)のことなのです(それとも隣国に遠慮しているのか?)。「後期旧石器時代人」なんて英語で見たことありませんし、世界は時代認識も多少異なっていますので、説明が大変です。そして、日本史は、祖代・縄文時代が93%の長い期間を占める基層ですから、人、文化・習俗・信仰など影響は大きく重要です。さあ、オリンピック、英語で始まり時代を説明し、世界の議論に参加して貢献を。子供に教え、日本が共同研究を主導し貢献を。

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マンモスに米国で見られるような人工の傷跡も付近に石器などの人工物も見当たらず、北海道の現生人類を対象に考えられる時代とも違い (10万年前など) ます。多くの北海道歴史記述本は、誤解の元で訂正が必要です。

これにより、石器の分析などから導かれる青森から津軽海峡を越えて3.5万年前頃には北海道に入って居た南方系の「祖人」Proto-Japaneseが、はっきりイメージできます。そして、②「最初のアメリカ人」問題で史界注目の「北部千島人」と関わります。明治時代に調査に当たった東京帝大助手の鳥居龍蔵を驚かせた祖代・旧石器時代後期のような‟遊動海民‟の暮らしぶりの「北部千島人」は、実は北海道大学の見立てとは全く逆で、オホーツク人とは最も遠い存在の祖・縄文人直系なので北から来たわけではないのです。千島の調査に当たったロシア人学者を驚かせたようにアイヌが住みついていた訳ではないのです。

更に③祖・縄文人系の北部千島人が、カムチャッカ半島の南端にも居住していたことは重要で、カムチャッカ中部のウシュキ遺跡(13,000年前)の墓の副葬品が北海道南の知内町遺跡(2万年前)と似ており、北部千島人が進出していてその後に大陸系種族・カムチャダールなどに半島南端まで追い込まれたとも考えられます。そうであるなら、北部千島祖人がベーリング地峡に行くのはもうすぐそこの事なのです。無論、鎌倉時代に北から入って来たアイヌ やそれ以前の モヨロ人 、オホーツク人、など北から入って来た種族は、 このような北海道先住民である祖人の太平洋沿岸北上の歴史には全く無縁で、④樺太から入って来たアムール川系集団のアイヌが、縄文人の単純な子孫でない(北大 天野教授)ことも認識する必要があり、地図でみるアイヌの歴史―縄文から現代までの1万年史 平山 裕人 (著) というタイトルは誤りと言っていい誤解の元です。子供に教え、世界に発信を。

右図沿岸をフネで17,000年以前アメリカ新大陸に入ったという新説です。北の海ではフネが水漏れして、あるいは操舟ミスで転覆して30分も冷海水に浸かれば死の厳しさで、シベリア狩猟族が造舟・操舟するのは容易な事ではありませんので、やはり太平洋岸種族が注目です。

右図まずは数十m以上の海水面の低下で、南方のスンダランドが出現し、日本に影響が大きい「北東ア平野」と「曙海」という状況、そして、北にベーリング地峡が出現して北極海の冷水がStopされて入り込まない「米臨海」は、正にハワイに繋がる海となり、親潮などに影響が。当時は氷河期だったので、シベリアには更に厳しく、太平洋正面は冷水stopで相殺であったか。沿岸の移住では、左図飛び石小島の千島列島Kuril Islandsが一番の問題でしょう。祖代には、①最大島間約77km、次いで60kmの海峡をフネで越えて北上し得たかですが、人類としては、オーストラリア行きに約90kmを越えていますし、そもそも祖人は、北部九州へ30~40kmを渡海して来ており、伊豆の海を行き来し、狭かったとはいえ津軽海峡を越えている海の民性がありました。何よりも次々に島が見えていたことは重要です。

さて、②北部千島を見ると、明治時代に調査に行った鳥居龍蔵が驚いた祖代・旧石器時代のような遊動する海人の暮らしぶりです。食料の得られる時期・場所にフネを操って島々を移動して暮らす人々は、北海道から北上した人々と考えられています。③遺跡としては、国後及び択捉島までの祖代・旧石器痕跡ですが、日本人研究者は不明ながら北部千島・占守島の2ケ所の遺跡について話があると報告していますので重要です。千島列島の考古遺跡の研究で調査に当たったロシア学者を驚かせたのは、④左図左上アイヌ(鎌倉時代頃、樺太から北海道へ進入)は千島列島に定住することはなく、交易品を獲りに来ただけであることから、アイヌではない千島列島人がいるという、別の種族の存在という問題です(別途報告)。

いずれにしても沿岸で暮らした人々の生活痕跡は、その後の海水面上昇で今は海面下ですが、右図米臨海の東・南のアリューシャン列島の⑤アレウト族の家は当時を窺わせますし、衣服や生業ももっと素朴でしたでしょうが、似たようなものでしたでしょう。そこの考古遺跡としては、1万年を越えず、また、東から西へ新しくなっており、何より西のカムチャッカの方からは420kmの海峡越えはムリでしたでしょうから、ベーリング地峡南部の東進ルートでしたでしょう。時代を経てロシア人が、アッツ島西の「コ」マンドル諸島に侵入し占領しましたが、アレウト族の暮らし振りに適応できず、全滅していることは注目です。大昔の人の方が、むしろ適応力があったのです。

寒さが吹雪が霧が激流が噴火が津波がと現代人は厳しい環境を指摘しますが、占守島から色丹に移住させられた北部千島人は、占守の暮らしの方が(遊動で)簡単に獲れる食料は豊富で、(病気もなく)よっぽど暮らしは楽だ、返してくれと言っています。今でも結構なロシア人が島暮らしを止めて大陸へ行っており、大昔の方が、むしろ北上し進入して暮らした可能性があったとすら言えるかもしれないことに留意すべきです。これらのことから左図右下、⑥4万年前から日本祖人が列島を北上し、北海道祖人がベリンジアに向かい、縄文人にバトンが受け渡された主たる流れ(青)に、鎌倉時代頃にアイヌが樺太の方の脇から入って来て(赤)アイヌ伝承のように先住の”コロボックル”が千島の方に逃げて行ったのが北の歴史なのでしょう。子供に教え、世界に発信です。

1図日本始まり時代の旧石器遺跡は全国に拡がり(小黒点)、全く他国とは桁違いの豊富な発掘状況であり、当時の様子はよく分かっている方です。残念ながら酸性土壌のため、人骨については、石垣島祖人で想像するしかありませんが。

2図アメリカのテキサスA&M大学が、世界人類史の謎「最初のアメリカ人・先住民」Nativesについて、センターを設けて研究しており、関連遺跡を図に展開し、太平洋岸から入って来たとの最新の認識を示しています。問題は、東部シベリアに比し、北海道いや日本の遺跡が山下町洞窟1ケ所だけなのです。狭い図にはっきりした日本最古人骨遺跡をということかもしれませんが、2006年の資料ですら初期81ケ所が十分該当します。シベリアの方ではヤナRHS遺跡は一時的とみられ、バイカル湖地区のマリタ遺跡は2.4万年前くらいのことです。

考古学界は、人骨が発見されねば記述しませんが、「理論先史学」では、火星人は来ず、熊や北キツネが石器を作ることは有り得ないので、「北海道祖人」を少なくとも3万年前から認識し、また、伊豆の鹿や猪が38,000年前にフネで海を渡って神津・恩馳島の黒耀石を取って来たことは有り得ないので「伊豆祖人」を認識し、伊豆に天から降臨することもあり得ず、当時の状況分析から「約4万年前」に北部九州に渡海して列島史が始まったと認識しています。学者によっては始まりを38,000年前と言う者が居ますが、その数字はコレで、祖人が短期に伊豆迄移住するとは考えられず、むしろ「約4万年」前が科学的でしょう。

2図の最初のアメリカ人が太平洋沿岸ルートの認識となれば、既に当ブログで累次説明の花綵(かさい・はなづな)列島ルートが注目されますので、子供に世界にしっかり日本の祖代の暮らしの状況を、特に北海道の遺跡・遺物の状況を認識してもらうことが重要です。さあ、オリンピックです、学界は急ぎ2006年データを最新にし、英語で発信しましょう。

オリンピックに来る世界の人々は実はみ~~んな親戚、その祖先の重要な始まり時代のことは、万年の時が経ち、特に海水面の上昇で今は海面下ですが、得られた実証データから分析し仮説を導く「理論先史学」による当時のイメージ10大項目は以下の通りで、①は南アのブロンボス海岸遺跡などです。

10万年以上前に海産物を食し、おそらく体に着色し、骨に傷付け何かを画いていた状況が決定的にサル、いや原人・旧人とも認知力が格段に異なる「新人」の歩み出しであり、注目はアフリカ北部で「海を渡って出アフリカ」を果たした人々と関りがあったと考えられていることです。その後、「特急」と称せられる東進で豪州に至りますが、②今は過半が沈んでいるスンダランド地域を通過しました。ジャワ原人、フロレス人から現生人類も西の印アンダマン諸島からインドネシア・マレー、そしてニューギニア、豪アボリジニと歴史は豊かで、何よりもここから北上したことが「揺り籠cradle」として注目され、数学で言えば解に導く重要な”補助線“なのです。

③90kmくらいの海を越えて最初に豪にまで至ったのは、分析により通説を覆して「北ルート」となっています。スンダランド北の”パンカル海“を北上した人類は、④花綵(かさい・はなづな)列島を、約4万年前に北部九州に渡海、東進し北上で北海道、南下で沖縄まで、3万年前には列島中に拡がりました。さて、世界人類史では長い間、Bシベリア・ハンターが当時は陸峡であったベーリングからマンモスなどを追って入り、北米の氷床が融けて出来た「無氷回廊」を通って速いスピードで南米にまで拡がったというものでした。ところが⑥南米チリのモンテ・ヴェルデ遺跡が無氷回廊開通より早いか同じ頃という発表に騒然、多くの学者が招かれ参加し、結局、確定されて回廊通過説が崩れ出し、北米でも更に1万年は古い遺跡遺物が発見され出して覆りました。そして、北米最古とみられ、欧州石器と似ている特色あるクローヴィス石器とはっきり異なる古い石器がアラスカなどで発見され、「クローヴィス最初」説も崩れました。

これにより光を浴びて浮上してきたのが、北海道・オホーツクからアメリカ新大陸の太平洋沿岸に拡がる豊かな食材の⑦昆布ハイウェイ・ルート説です。アラスカはもとよりカナダ北西岸、米本土西岸のカリフォルニア・チャネル諸島の遺跡発掘やワシントン・オレゴン両州境のコロンビア川奥などの地域の古い遺跡・糞石の発見で裏付けられ、ライバルの大西洋ルートのソルトレーン説がDNA的にも否定(先住民Nativesはアジア系)されて、今では太平洋沿岸ルートが 関係
7割の学者に 支持されています。⑧コロンビア分岐点Jctで初めて南下組と内陸進入組の分岐が生じたと注目です。そして、⑨日本言語学会の元会長である松本克己博士の環太平洋は共通の言語特性(例 RとLの区別なしなど)を有するという広範な調査分析に基づく説も環太平洋移住を裏付けます。更に、⑩世界9ケ所の海峡の歴史などを分析したアメリカ・イタリア3ケ大学チームによるベーリング地峡の分析で、南岸は小島が連なる「一時的な列島Transitory Archipelagoのような状況」で、そこをフネで渡りながら入って行ったと発表しています。「どんなフネだったのか?」が注目されています。

このように沿岸に注意が向けば当然に、千島列島・北海道の状況が重要で、北部千島の「遊動海民」Aは、Bシベリア・ハンターと共に注目です。特に、DNA学者が、米大陸先住民は、シベリアとも日本とも違う変化したDNAで、おそらく早い段階(数千年前)でベーリング地峡に進出し、寒冷で地峡に閉じ込められるように滞留しDNAの変化を生じ、温暖化に伴って入って来たと言ってますが、考古学者は裏付ける痕跡の遺物が発見されていないとして未だ認めておらず論議中です。更に、最近、メキシコで3万年前の洞窟遺跡を発見したとの報告があり、最後の謎、「最初のアメリカ人」、アメリカ新大陸人に関しては、ホットな論議が続いていますが、千島・北海道資料を有する日本の参加は、残念ながら低調ですので、オリンピックを機に日本が共同研究を提唱すべきです。子供に教え世界に発信を。

図①約4万年前の日本列島史の始まりは何処から?で、理論的には海水面が低下していた当時の「北東ア平野」東沿岸・「曙海」西岸域の時計回りルート(渡海含み)説(日本祖代研究会)があります。

近年、②豪州始まりは定説と異なり北ルートがよいと、日本人研究者の先行研究があるテーマに、豪女性研究者が詳細な分析(渡海含み)を発表し、③米・伊3大学チームが、「最初のアメリカ人・先住民」はベーリング地峡南岸の“一時的列島”Transitory Archipelago、いわば甲-2ルートをフネで入って行ったと発表しています。この沿岸進入となれば注目されるのが、④千島列島です。残念ながら日本にさえその研究は有りませんが、図右下a.次々に島が見えており、鳥が通う火山の煙もあり得た状況で、b.”米臨海“は、地峡で北極海の冷水がstopされ、正にハワイに繋がる海だった、c.列島内の最大離隔は77km、豪州行き90kmを考えればムリではない(祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoは、伊豆の海を行き来していた先人の子孫)。

その北千島の調査では、何と言っても鳥居龍蔵を驚かせた(旧石器時代的な)”遊動海民”の暮らし振りであり、現代の瀬川拓郎などが明治の鳥居報告から受けとめた、道内各地のアイヌ伝承のコロボックル話の小柄な先住種族が「居た」と考えられることです。北部千島は、寒さ、吹雪、霧、荒れる海、…聞く私達には大変厳しい所ですが、実は適応し暮らした事のある人々は一様に、食の宝庫で暮らしやすいと述懐していることも考えねばなりません。樺太千島交換条約で、日本政府はそこが密漁勢力が来る危険な所でもあり、住民を色丹島に移住させ定着させるべく住宅から生業の生活支援を整えていきましたが、その認識とは異なり、北部千島は適応した人々の述懐では暮らしやすい所だったのです。

なお、図の乙の千島列島からカムチャッカ半島、そして甲と甲-2の2つのルートが考えられますが、甲はコマンドル諸島からアリューシャン列島アッツ島への420km越えはムリだったでしょう。人類史の大きな謎、「最初のアメリカ人」は誰が、何処から、どのようにという課題に関し、日本学界は「理論先史学」によるルート分析の発表が、今、世界から求められているのです。ともかく問題の所在を子供に教え、世界に発信を。

1図現生人類のアメリカ新大陸への移住は、当時は海水面が低下(時代により異なる、数十m~120m)していたためベーリング「地峡」となっていましたが、米・伊3大学チームの研究により、南沿岸には小島が連なって“一時的な列島”transitory archipelagoの状況にあり、フネで入って行ったのであろうと発表されました。

花綵(かさい)・花綱列島と称されるアリューシャン甲に比し甲-2(北部九州へは北東ア平野東岸・曙海西岸地域も同様の丁-2)のルートをフネで入って来たのが、「最初のアメリカ人・先住民」という訳です。他方、この進入と移住についての考古学的エヴィデンスの発見は、現在は海面下で困難ですが、2図、米南北新大陸のDNA調査から、太平洋岸の人々の当時の古い痕跡と現在の状況から赤丸のように、母系ミトコンドリアDNA―D4h3aグループのきわめて特異な発見があり、第一人者の篠田博士も注目しています。これは沿岸進入のみならず、「かなり早いスピードで南下した」と学界で言われるフネによる沿岸移住として注目されます。

それでは誰が、いつ、となりますが、1図右下このハプログループの大元Mそして下位のDは出アフリカ後のインド洋沿岸、直結のD4h3は、タイのバンコック西方約80km赤丸(40,900~36,600年前に発現)で見つかっており、北上してベーリング地峡南岸域”列島”を通過していることになります。1図右下のように内陸ルートだけでなく、近親のD4h4が発見されている日本列島(他にチベット、ウイグル)の沿岸ルートをも挙げるべきでしょう。未だ見つかっていないか既に消えてしまっているのかも知れませんが。なぜなら日本列島の“祖人“は、約4万年前に①北部九州にフネで海峡を渡海し、②38,000年前にはフネで伊豆の海を行き来し、③津軽海峡を越えて雪と寒気の昆布ハイウェイ沿いの北海道に3万年前には拡がっており、④昆布ハイウェイ沿いの食が豊かで次々に島が見えていた千島列島を、舟で越えて行ったであろう海の民性があったからなのです。

いずれにしてもDNA分析から、米新大陸への初期の移住はアジアに由来し複数回、かなり早いスピードで南下しており、異なる独自の遺伝的な構成(新大陸太平洋沿岸のD4h3-a諸タイプなど)を獲得したとみられています。祝世界遺産勧告の縄文人の両親である「祖人」の特性、D4h3の日本列島・沿岸ルートの可能性を含め、子供に教え世界に発信を。

国連広報センターや辞書の言う先住民族である最初の住民、「先住者」は、1万件を超える遺跡の分析から、「日本祖人」Proto-Japaneseです。

もう、「分からないから」は止めましょう。3万年前だからって、熊や北キツネが磨製石器や石刃を作る訳は有りませんし、マンモスハンターの痕跡もありません。人骨は見つからなくとも、石器の発掘場所・新旧で、現生人類が九州から北上し青森から津軽海峡を越えて行った事も分かります。仮に全く新たなパラダイムの遺物が発掘されたら、修正すればよいのです。図右の通り、約4万年前の北部九州への渡海で始まり拡がった日本祖人は、豪アボリジニやアメリカ新大陸の先住民との関係が今、世界人類移住史で徐々に解明されて行っています。そして、日本列島で生まれたその子供の縄文人であることを教科書ではっきりさせていないことが、内外に無用の誤解を生むことにもなり問題です。

豪アボリジや米先住民は、「固有」と「先住」の2重性を有していますが、日本の事情は違います。Indigenous「固有・特有の」種族の文化・習俗を尊重することに、歴史を曲げて「先住」の語を冠した国会決議の明らかな誤りが、今ではこのような指摘をする正論を、Facebookがスパム扱いする逆様の異常をもたらしてしまっています。問題も多い原始・野生性の「固有」の保存の適否、歴史における種族の共存・混血、学校教育における歴史の年表の作成・見方など種々の異論のある問題を、拙速に決めた国会は大問題でしたが、「固有」と「先住」の違いに、異論を唱えた学者が一人もいなかった事が、実は「学問の自由」の何よりも一番の問題なのです。この事も子供に教える必要があります。

左上、世界に大きな誤解を与え、選良の国会議員が誤解している恥ずかしい「先住」国会決議(平成20年)のドサクサの誤りは、速やかに訂正が必要です。今やこの詳細説明が告げ口によって非公開にされる酷いSNS状況にまで固まってしまっています。

そして左下、この誤解、無理解の一つが、先生でさえよく分かっていない「縄文人は何処から?」という問いで、入試にでも出たら大問題なのです。日本史教育が日本列島史は島国のお陰で分かっているにも拘らず、始まりを大切にしないことが問題です。「祖人」(仮称)Proto-Japanese概念が明確に出されないため、誤解・無理解が生じています。縄文人は、初代「祖人」の子供ですから、日本列島からに決まっている愚問なのです。もし訊くならば、「祖人は何処から?」でなければなりません。

因みに右図、現生人類の出アフリカ後の「特急」と学者に言われる東方のスンダランド、東進してオーストラリア・豪に至った早い、海をも超えた移住で、北や西へ向かった人々と共に世界は皆、この始まりからの親戚であることも生徒によく知られていません。その後右図、スンダランドから北上したことが考古学とDNA分析上、有力です。海水面の低下で陸地が拡がり海の形が変わっていた、「パンカル海」(仮称)の沿岸、「曙海」(仮称)の西岸の”一時的”列島(沿岸の島々の連なり丁-2、米・伊の協同3大学の学者がベーリング地峡南岸の当時の状況を”一時的”列島transitory archipelagoと命名。甲-2と仮称)を北上し、北部九州に家族がフネで渡海して約4万年前に「祖代」(仮称)が始まりました。

38.000前からは、黒耀石を求めて伊豆の海を東京諸島に行き来し、東海・関東・信越で交易が行われていました。そして、豪先住民のアボリジニ、日本「祖人」、アメリカ 南北 新大陸の先住民が万年前からの関わりあるとみられる先住の親戚で、鎌倉時代頃に樺太から入って来たアイヌではなく、国内、世界に誤解を与えています。北海道新聞が、アイヌより先住者の700ケ所に及ぶ最近の遺跡調査を報じています。

子供に教え、世界に発信を。

左上、「曙海」西岸の北東ア平野 “一時的 ” 沿岸列島(NAPTA)丁―2を北上し、約4万年前に、北部九州にフネで家族が30~40kmを渡海して列島史が始まりました。

左下、東進した38,000年(!)前から「伊豆祖人」が、東京諸島南部の神津・恩馳島の黒耀石を求めてフネで行き来し東海・関東で交易していたことは世界先史上の金メダルです。眼前の大島に行きやがて南部に至って発見したのでしょう。実は東京諸島の方は海水面低下で陸地が増えており、海浜はフネを引いて歩き、往路は当時の北からの海流を利用すれば実質は約20kmの往復で、そもそもの始まりの九州渡海を考えれば謎でも何でもないのです。図中、北上して狭くなっていた津軽海峡を問題なく渡海し、3万年前には昆布ハイウェイ沿いの雪と寒気の北海道暮らしに適応しました。

右上、縄文時代には礼文島に渡って暮らしています。右下の北部千島人は、カムチャッカ半島南端にも居て、明治時代に調査に行った東京帝大の鳥居龍蔵を驚かせた旧石器時代のような“遊動”海民の暮らしぶりであり、石器・土器を使い竪穴住居でした。カムチャッカ半島中部の遺跡(1.3万年前)の墓の副葬品が道南知内町遺跡(2万年前)に類似という事を考えれば、明らかに縄文時代以前からと思われ、実はアイヌ(鎌倉時代から)と呼ぶのは誤解を招くので疑問です。北上を続けて、今、「沿岸からフネで入って来た最初のアメリカ人」新説との関りが注目で、既にアメリカの学者には昆布ハイウェイ暮らしの共通性や石器の類似性から、祖人・北海道(Proto-Japanese Hokkaido)を指摘する発表やyoutube動画も出ているのです。

残念ながら、樺太千島交換条約〔 明治8年(1875年)5月7日〕に基づく政策によって、日本政府によって整えられたとは言え、 彼らがルートンと呼んだ占守島地域での長い伝統の暮らしから 全く異なる環境での慣れない色丹島に移住し、カムチャッカ南端の者も露政府によって欧州ベラルーシなどに移住させられ、今、痕跡の追求は困難ですが、DNA研究の価値は大いにあります。さて、この頃は余り歌われない「我は海の子」は、伝統継承の上で重要であり、魏志倭人伝に書かれた海に潜る特性を示す4番まで、子供しっかり教え、海民特性を世界に発信を。

我は海の子白浪(しらなみ)の
さわぐいそべの松原に、
煙(けむり)たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家(すみか)なれ。

生れてしおに浴(ゆあみ)して
浪(なみ)を子守の歌と聞き、
千里(せんり)寄せくる海の気(き)を
吸(す)いてわらべとなりにけり。

高く鼻つくいその香(か)に
不断(ふだん)の花のかおりあり。
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽(がく)と我は聞く。

(今の教科書では、以下は載せていません)

丈余(じょうよ)のろかい操(あやつ)りて
行手(ゆくて)定めぬ浪まくら、
百尋(ももひろ)千尋(ちひろ)の海の底
遊びなれたる庭広し。



1図、始まりの曙海東岸地域は、痕跡がうかがわれます。祖代・縄文(日本史の92.5%)は、当然にしてその後の歴史に大きな影響を与えていますが、家族が30km以上の海洋を渡海して始まった重要性が忘れられ勝ちで、海洋操舟と造舟の知見、技能はもはや原始人ではないです。

2図、既報告の重要な花綵・ベーリング地峡南部の”一時的“沿岸列島(甲―2)(米・伊3大学の協同研究)に似て、「曙海」西岸の北東ア平野“一時的”沿岸列島(Northeast Asian Plain Transitory Archipelago)丁―2があり、この沿岸北上と時計回り移住が始まりですので、当時の事実(現在は海面下)の発見はムリとしても、理論的にどういうものか解明が期待されています。

さて1図、曙海東岸地域の意義は、まず古代にまで痕跡が残っていた五島と薩摩の類似性であり、 既報告の北部千島の旧石器時代的な暮らしぶりの“遊動”海民に体躯も似ており注目です。 沖縄からやがては北海道にまで大ツタノハ貝が発見される「貝の道」の交易で、腰岳の黒耀石が南下し、新潟富山県境の硬玉が種子島で見つかる驚きの広域の緊密さです。 そして、戦後教育がややもすれば朝鮮半島からの人と文物の流入を過大視し、一時は騎馬民族の渡来征服までが言われましたが、学問的に否定され、むしろ半島南部での前方後円墳や腰岳黒耀石の発見に加え、対馬への稲作は九州本土からという事で曙海周りの歴史の見直しがみられます。交易ルート上の要点である野間岬や薩摩・日向の海民性なども日本史の核心と関わる重要なものです。南部の先島地域を含め、この曙海周辺の先史~古代における重要性を、始まりが北部九州への渡海であったことから、 唱歌「我は海の子」を復活し、渡海海民史を 子供に教え世界に発信を。

1図、重要な我々の日本列島史の始まりのこの図は、不思議に議論されず見ないでしょう。

2図、前回紹介の東大TVで、出アフリカから沿岸を東進した現生人類が、スンダランド地域で①東進を続けて豪に向かい、海を渡ってアボリジニになったグループと②沿岸を北上したグループになり、それはやがて当時は海水面が低下して形成されていた「北東ア平野」に至ります。因みに、対馬暖流が流れ込んでおらず日本海側に大雪は降らない状況で、北海道に北上し、沖縄に南下しました。さて、1図の「北東ア平野」(朝鮮山地の南端部含む)と「曙海」という現在とは違った海水面上昇の当時の状況をまず認識することが必要です。しかし沿岸部は海面下で、地域における考古遺物の発見は無く、そのため記述できない、教えないというのが学界の事情という訳です。

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にも拘らず、多くの博物館や巷間本では東大TVと違って、2図の動きを無視し、上図のように、樺太から、朝鮮半島から、南西諸島からの3方向から人々が来て日本人が形成されたような、時代を全く異にする、可能性の高い沿岸北上ルートを挙げない、列島史の始まり状況ではない「誤り」を堂々と記述しています。

2図、豪の場合は、国立民博の堀江・小山チームの優れた研究(1991年)で、また、近年の豪研究者によって、最も可能性が高い移住ルートは実は「北ルート」だと報告されています。無論、渡海が容易で諸状況を考えて最も可能性が高いルートが事実だったのかは、実は分からず実証もされ得ませんが、この研究の意義は大きいです。それなのに、なぜ、我が国にとって重要な、容易で可能性が高い北東ア平野沿岸の曙海西岸の北上ルートが、全く無視されて研究もされていないのは極めて学問的に異常です。台湾から与那国島への航海実験が行われましたが、求められているのは世界的にもこの沿岸北上の北部九州への渡海の理論研究なのです。北東ア平野の沿岸北上が有力な1例として教科書で紹介されたとき、大きな前進と言え、将来の歴史考古学の発展も期待できるのです。

プーチンもおらず北海道で止まらずに北上を続けたであろうという、前回の可能性の指摘も全く同様で、歴史考古学の世界も仮説、理論的研究及び実地の検証の学問態度を更に進めるべきで、子供に教え世界に発信を。

東大TVでさえも、問題です。

①現生人類移住方向が真逆です。2図に加え、西シベリアからのルートも、②当時(約4万年前頃)は、海水面が数十m低下し、北東ア平野(仮称)が広がって沿岸(仮称―曙海)には島々も多くあり、南方から北上(赤矢印)して北部九州に渡海して来ました。③北海道にまで日本祖人Proto-Japaneseが拡がって、そこで何故止まるのかです。プーチンはおらず、世界で有名な食豊かな昆布ハイウェイがアメリカ新大陸へと続いています。日本学界が北上の可能性を言わないために、アメリカ学者の一部が指摘するにとどまっており大きな問題です。尤も、1図では沿岸進入ルートが載っており、2図では博物館や巷間本が誤りの下図の3方向(北・西・南)渡来図でなく、北海道へ北上、沖縄へ南下と改善されている点は評価できます。

子供に教え、オリンピックで世界に発信を。

第1図出発地Aの池谷さん、辿り着いたB南米チリのTomさんの学術貢献でこの2点は時も内容もはっきりです。

そして最新研究のベーリング地峡”一時的列島“説(米伊3大学チーム)で、皮フネで入って行った状況も明らかになってきました。それにより、かねて日米の石器の類似性で注目の北海道~北部千島が注目され、驚きのメキシコ3万年前遺跡の衝撃は保留の感ですが、第2図「昆布ハイウェイ」など北太平洋東西の地域の類似環境での暮らしぶりに着目した「登・下山」説で理解はできます。近年になって積極化している北太平洋北西沿岸(アラスカ~カナダ~米本土カリフォルニア沖小島)における発見と新たな探査・調査が続きますが、期待が高まっています。

このように1図中下Q1「最初のアメリカ人は如何に」の解明が続く状況で、あまり議論されないQ2、何故、古アマゾン3部族のDNAが途中の類似なく、東南アジア、かつて陸地だったスンダランド地域の人のモノとだけ類似なのかというハーバード医科大の分析に基づく謎に対する解明も進んでいることになります。

日本祖代研究会の環太平洋移住Migration along Pacific Ocean Rim―MPOR説(スンダランド ~日本列島~ベーリング地峡の「花綏」から北米・南米南端までの太平洋沿岸)は強化されています。本件については、日本の教科書はもとより博物館、巷間本、動画なども全く触れていないことは、もはや学問としての異常です。子供に教え世界に発信を。関係諸国の協同研究の強化を、オリンピック開催の日本が提唱すべきで、世界に貢献し祖先の暮らしも解明して温故知新です。

東京・札幌オリンピックの速報です。米カンサス大・伊ボローニャ大・ウルビーノの3大学チーム(主導のJerome Dobsonカ大教授は、最近、米国地理学協会金メダルを受賞)は、「最初のアメリカ人」に関し、現生人類の移住を世界9ケ所の地峡・海峡の重要性に着目して分析した成果から、ベーリング地峡南沿岸に 当時の海水面低下で900マイルにわたり島々が点在した状況を、Bering Transitory Archipelago(BTA,ベーリング一時的な列島:30,000~8,000年前存在)と名づけています。 これを新たな甲-2として、”新花綏列島”と筆者は理解します。

その新列島BTAからの新大陸移住について、 少人数チームによる小島渡りの東方移動進入「Stepping stone(飛び石)仮説」を提唱した(PopularArchaeology Fri, Apr 30, 2021)。 浅い海を島から島へ(900マイル)、豊かな海藻・魚・貝・鳥・陸動物の獲物に恵まれてのイメージ。これまで米先住民のDNAは、直接的にユーラシア東部に見られず、ベーリング地峡で一旦滞留(数千年~1.5万年間)し変化した後、新大陸に入って来たと分子生物学者は考えているが、考古学的物証は見つかっていない。この事に関し、一時的な列島からの「飛び石仮説」は、地峡に居住していて氷床の融解による海面上昇のために、滞留して暮らしていた所・島におれずに追われるようになり、アジアに戻るか、食豊かな処女地の東方に移動するかといった状況で、皮フネを漕いで(paddled skin boats)東方に入って行ったことが考えられるとし、DNA問題とも矛盾ないとしている。

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注目すべきは、「誰が」について、27,000年前、日本の北の島に存在したことが知られている海民を挙げ、単に島で暮らしていただけでなく、海民の文化・経済・航海性を有していただろう事であるとしています。これは具体的には、27,000年前の祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoに注目で、さらに言えば、当時の道東・北方領土~北部千島人(”コロボックル“)が、世界の議論の先頭に立ったことになると認識しています。

“They probably traveled in small groups,” he said, “either from Asia or islands off the coast of Asia. Some maritime people are known to have existed 27,000 years ago on northern Japanese islands. They probably were maritime people—not just living on islands, but actually practicing maritime culture, economy and travel.”

3大学チームは、いずれにしても今後、水中考古学などにより物証を求めていくことになるとしていますが、このベーリング一時的列島BTAを加えて、「最初のアメリカ人」の日本祖代研究会の 正に、「花綏海道」説は完成です。この重要問題に、日本学界が反応し、先史の北海道・日本列島人を知るためにも積極的に研究に参加し、推進する必要があります。子供に教え世界に発信を。

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