(東京・札幌五輪) 世界人類移住史の謎、1903年先進驚きの坪井教授説に光を!

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世界人類移住史の最後の謎、「最初のアメリカ人」については、右図の「米臨海」沿岸からフネで1.7万年以前にという事で、青森~アンカレジの「昆布ハイウェイ」沿いが注目されてきており、特に図中央、北部千島の海の民”祖・縄文人”系の痕跡に、その探求課題が浮上して来ています。

ところがなんと、100年以上も前の考古人類学の始まり時代に、日本人類学の祖、東大の坪井正五郎教授が、図左千島列島人に注目すべし、①アイヌとの関連、②石器時代人(祖代、縄文時代は分かってはいなかった)との関係、そしてアジアとともに、③北米の人々の由来を考え究めるうえで必要と指摘し、正に現代を驚きの先取りしている先進性です。では、千島列島の調査研究はその後もなされてはいるのに何故、今日まで教授の先進の認識が生かされていないのかは、A.折角、当時も現地研究がなされたが、当時のレベルの判断で坪井教授の認識を否定してしまい、また、教授が亡くなられて反論の機会もなく立ち消えてしまった。B.特に、世界的にも③アメリカとの関係では、シベリア・マンモス狩猟族がベーリング地峡を越えて入ったとする移住の旧定説が根強く、注目されなかった。C.学界が千島アイヌ、あるいは北千島アイヌと呼んでしまい、鎌倉時代から北海道に入って来たアイヌと同一視する矮小化の問題を生じてしまった。ことなどにより休眠してしまいました。

坪井教授は、当時得られた聞き取りや現地研究、文献諸資料から、「アイヌとは違う」人々という今では重要な問題意識を有して注目しましたが、結局その後の研究においては、(北)千島アイヌとして矮小化され、アメリカとの関連に着目する研究は無い状況になってしまっています。実は明治の千島・樺太交換条約で、日本政府は国境の外国密猟者による襲撃の危険もある”北部千島人”を説得し、明治17年(1884年)に南の色丹に移住させ生活基盤を与えましたが、結果として病人が発生したり大きな生活変化に適応できず、97人の過半が亡くなり、生まれた子供を加えて62人に減少、その後混血もあり道民の中などに融け、昭和16年には今から思えば学術的に重要な北からの移住者がいなくなってしまいました(千島列島を巡る日本とロシア:秋月俊幸)。

色丹で生まれた子も年月が経ち、今では亡くなっていることでしょう(DNA調査を追ってほしい!)。残念ですが、この新たな光が当たる千島列島人、特に海の民「祖・縄文人」系の「北部千島人」は、これまで行われた種々の研究をそういう目で見直し、隣国史と比較検討することが求められています。世界が求める課題の重要研究に、近頃の膨大なアイヌ予算から世界課題の国際協同研究 に充当しましよう。子供に教え世界に発信し、誤解も正しましょう。

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