11月7日、英国ロンドンのクィーン・メリー大学において万年前の先史巨石文明等について、一般公開のOrigins会議が行われます。

当地グヌン・パダン遺跡については、調査リーダーのDanny Hilman 博士がskype参加する予定です。

話題としては以下のようなものです。

Gunung Padang, Gobekli Tepe, Stonehenge, the Great Sphinx, and even the newly discovered stone circle located beneath the waters of Lake Michigan.

 

origin会議

大石に乗った人に目が行ったと思われる下の写真ですが、私が注目しましたのは、大石運びです。

ニアスの葬送

(SEJARAH UNTUK SMA kelas Ⅹから)

万年前の(トルコ)ギョベクリ・テペGobekli Tepeも(英国)ストーン・ヘンジStone Henge も、弔い、祖霊信仰の巨石遺跡の造築のため、大石を運んでいます。

上の写真の説明では、亡くなった人のために建立するものですが、祖霊を呼び集め、石が今後亡くなる人の身代わりでもあるため、大きければ大きいほど戦いや疫病で亡くなる人が少なくなると信じられた極めて重要な葬送式です。

写真で分かりますが、目的地での建立だけでなく、大石を運んでいくプロセスそのものも重要です。運び手も集まっている人々も共に精神的に高揚していきます。

我々の身近にも目的は違うように思われますが、願いを込めて引き観客がいる移動のプロセスも重要な行事はいろいろあります。そして、上に人が乗っているのも重要なことです。

京都市観光協会神田明神千代田区観光課

祇園祭り(京都市観光協会から)   神田明神祭り(千代田区観光課から)

岸和田市観光課ニアスの葬送

だんじり祭り(岸和田市観光課から)

こうしたことから、弔い・祖霊信仰のギョベクリ・テペやストーン・ヘンジが長距離を大石を運んで造築したことも理解できます。

できるだけ大きな、立派な石が良いことも、人々が大変な労力と時に事故死亡の危険を甘受して建立したことも理解できます。

時代は下りますがエジプトのピラミッドは、農閑期の失業対策事業だったという説が最近出され、定説化しているようですが、私は違うと思います。

前述の例を見ても分かりますが、基本的には精神的なものでしょう。現人神ファラオの造築に関わり貢献し精神が高揚し、来世が約束されるなどのご利益のある行事活動です。

活動後に酒肴が振る舞われ、何がしかの物がいただけたとしてもそれが主因ではないでしょう。そして、ファラオが神ではないと思われ始めて壮大なピラミッドは造られなくなります。財力の衰えも一因ではありましょうが。

スマホとバイクの行きわたる生活は、万年のアジアの楽園を急速に変えて行っています。貴重な写真や物も消えていきます。

それでもまだ、竹筒に砥石を入れて鎌を研ぎ、バナナの幹を管理し雑草を刈ってあたりをきれいにすることは行われています。

と石と竹

万年前にも有ったでしょう。但し、竹は融け、時の長さは砥石をも変形させ、矢じりでも斧でもないので誰にも注目されることもなく、ということかもしれませんが。

さて、話は変わりますが、現代のファラオたる民主制は、その行事たる選挙に若い人たちがまともに関わらなくなったとすれば、見放されかねない危ういことと大いに気になります。

神輿を担いでくれず、綱を引いてくれねば成り立ちませんので、なだそうそうの事態です。

前々回、一緒に考えましょうと言ったのが下の写真です。これは、1920年に撮られたインドネシア・ジャワ島の北西の北スマトラ州(最近、Medanに飛行機の墜落事故でニュースに)の西に位置するニアスNias島の一コマです。

なお、メダンMedanでは、13,000年前ころの石器が見つかっています。

ニアス島はスマトラ沖地震被害で世界に知られ、また、サーファーの聖地でもあります。愛媛県くらいの大きさで、ニアス族は60万人くらいです。

ニアスの葬送

(SEJARAH UNTUK SMA kelas Ⅹから)

Niasの地図

(Atlas Sejarah Indonesiaから)

住んでる家も写真のようなものから、舟を並べたような密集住宅など特色があります。人は北の大陸から来た人たちですっかり大昔とは変わっています。

いかに北の大陸から多くの人々が楽園に南下し、住みついているかがよくわかります。

石器時代の遺跡などがあり、その歴史習俗もユニークでした。また、濃い密林地域はよく分かっていない所もあるようです

nias海傍の家niasの人

(Nias, Dari Masa Lalu Ke Masa Depanから)

さて、

皆さんの目についたのは、大石に乗っている人でしょうか。陣羽織、裃のようなものを着ています。ニアスでは、このような格好で長い槍を手にした大勢の雑兵戦士たちが、戦いを表現する踊りを踊っている古い写真もあります。

日本をよく知っている当地の人は、日本のサムライものを見るとあれはニアスだねと言います。

・今日は「裃」を脱いで無礼講でまあ一杯

・あいつは「肩」いからせて街を闊歩してる

現代の日本でも裃、肩の入った表現は沢山ありますが、肩張ったニアスとのこの類似性は不思議です。

北東の行き詰まりの日本と南の行き詰まりの小島ニアスに見られるわけですが、その離隔は相当なものです。両者の途中には、この裃、張った肩の痕跡はないようですし。

私は、ニアスが江戸城の真似をしたとは思いませんし、双方独立的にこのデザインを考えたとも思いません。歴史においては遠く離れた両端に同種が残ることはよく見られますので。

どこか大陸に源があって双方に伝わったが、源の方は痕跡が残っていないのではと思います。あるいはひょっとして、楽園からサムライに伝わったのかも知れません。

と言いますのは、ニアスにとってこの格好は古くからの行事に関係し、かつ、非常に重要なものだからです。その点を次回、お伝えします。

朝、いつものように出かけてアンコッ乗合ミニバスの助手席に乗ってましたら後ろでゴトンゴトンと音がしますので、何かと思ったら沢山の椰子の実を積んでます。

ミニバスの椰子

結局、後ろに一人婦人が乗っただけで出発し、3-4百m進んでUターン。あれれと思ってますと、反対車線で停車です。すると初めに積んでたおじさんがバイクで先行していて、降ろしにかかってます。全て終わって50円(5,000ルピア)札を払ってました。

子供のころは、高価でバナナでもなかなか食べれませんでしたので、椰子の実なんて「名も知らぬ遠き島より流れ寄る~」と歌うぐらいの物でした。

ここでは、バナナや椰子は、犬・猫もまたごうかというくらい(ま、当然ですが)の状況です。現在は、日中の断食後にまず口にするものとして使うため出回っています。

椰子

楽園の人たちは、おそらく身近に餓死,凍死を見聞きせず万年を暮らしてきたのだろうと思います。穏やかで取っ組み合いを見ることもなく、暑さもあって歩きも東京よりゆっくりです。

用事を済ませて別のところへ行くため、再びアンコッに乗りました。断食の日中だからか私一人です。ムスリムのジルバブ被ったおばちゃんが3人乗ってきて、一寸したら一人が、

「その時計いくら?」と聞いてきました。

「はあ?(車内初対面ですよ!?)いやいや、安物ですよ。」

「ふ~~ん。(もう一人が小声で日本人じゃないの?と教えてます。)」

「(あんたら、オオサカか!?)・・・」(大阪さん、失礼)

ついでに撮ったことない車内写真を撮りました。話題主は、写ってる婦人ではないです。

おばちゃん

変わった1日だったなあと帰宅して、濡れスリッパで階段下りて(油断)、滑って転び、打ち身です。元は木と竹の民です。イスラム教とアラブ風が入ったせいで風呂場、階段、床がタイル張りで危険です。当地に来られる方は、このことはご留意ください。

いやはや、全くなんという日(日本時間は昨日6日)だったろう。歳なんで明日が痛くなりそうです。明日は、あの2人が会う佳き日、当地は乾季でハレに決まっています。

ニュースを見て、ここのところ気になっている歴史における類似性の問題について考えることとなっています。

ことは、Googleのコンピューター用フォトアプリで、写真を識別する機能が不十分なため、写ってる人をゴリラと識別したことで謝罪する事態になっています。

元々数万年前にアフリカを出た千人内外の人たちから、その後、今の全世界の黒髪の人、金髪の人、褐色の肌の人、青い目の人、いろいろ違うように見える現生人類への拡がりが生じてきています。

わずかな元があって今の多様に至っている訳です。

似ている、似ていないは、主観の問題ですが、運よく物証がいろいろ得られれば悩みは出ないです。

実はこの問題は、最近、当地の賑やかな所のラーメン屋さんで食べながら気になりだしたものです。

「それは、何の服? スンダ(民族)の?」

「いえ、キモノです。」

「どうして、今日は着てるの?」

「販売促進です。」

「ああ、帯だね。」

後ろへ回ってみると面ファスナーでベリベリと簡単に解けるものです。まあキモノでしょうが、仮に、何千年かして下の写真が見つかってこれは何だ?となったときに着物かどうか議論になるなあと思いました。

キモノ

この場合は、看板に字もあってラーメンと書いてますので、物証多数で確定するでしょうが。

但し、仮にその将来の研究室の議論で着物とは言えないという意見が多数を占めた場合、今はいない遙か昔の着ている本人の主観が逆に着物である場合はどう考えたらいいのだろう、などと思いました。

真似ようと思って作ったのか、使っているのか、主観は2面性があり難しいことです。ラーメンの方は、かなり近いです。

ラーメン

彼女の健闘もあり、店は増築され流行っています。

さて、

アジアの楽園の下の写真については、皆さんはどこに目が行き、何を感じられるでしょうか。次回、一緒に考えたいと思います。

ニアス

SEJARAH UNTUK SMA kelas Ⅹ から

シェアハウス(バンドゥン・ジャパン・ハウスBJH)の私たちは、バンドゥン市長の信任篤い釜我BJH長を筆頭に、それぞれができることで努めています。

BJH日本支部(!?)の宮下さんは、当地で(難しい)日本語を勉強している膨大な数の人々の明日に向かう参考資料(日本居住の人、学校、企業人事部門などのインタビュー分析とアドヴァイス)を当国の大学数十校に送ります。

私はできるところで、本日、それを西ジャワ州の教育局に手交しました。 Abur課長さんは、日本留学経験(3年、名古屋)があるので真剣に読まれ、「素晴らしい。」との評価で局の協力を約して下さいました。

課長

課長読み

すかSUKI hp

私はといえば、アフリカを出た現生人類が主に東方沿岸を展開して拡がり、その後南北の人々の坩堝の中で今日の原点が生まれたと考える1-2万年前のアジアの楽園Sundalandの研究です。

そして、それを実証しうるグヌン・パダン先史巨石遺跡等に日本のハイテク技術が投入されることを目指し、先人の石斧ならぬ蟷螂斧を振り回しています。

お伝えした(英)ストーンーヘンジ、(トルコ)ギョベクリ・テペ、(当国)グヌン・パダンの万年越えの三羽烏が、明日へと導く八咫烏になりそうです。

断食月ラマダンの点描

カテゴリー: 最新情報,こぼれ話

朝、日が昇るとイスラム教徒は、日没まで食べ物を口にしません。他国でですが、私はかつて現地服を着て、カミさんの買い物待ちに外で座って煙草を吸っていて、敬虔な老人に怒られたことがあります(仏教徒とは言えずに)。

日の出

早朝の状況は以前お伝えしましたが、日中もお店などなかなか賑わっています。というのは、既に断食明けのお祝いルバランに向けて商戦が、佳境に入っているためです。

そして、女性が抑圧されているとよくその槍玉に挙がる服装のヒジャーブ・ジルバブ・クルドゥン(呼び名多様)ですが、私には日本と同じくやはり元気な山の神と感じられます。

洋装点 クルドゥン3

クルドゥン クルドゥン1

デザイン、色も多種です。薄地で軽く暑くなく、何より全体型柔軟対応、小顔化の優れものです。 抑圧!?どころじゃないでしょう。

やがて、夕暮れ時になると普段は見られない臨時のお店も通りにでき、果物が主のフルーツポンチのような胃に優しそうな甘い食べ物が、売られます。日没後の特に土・日は、レストランも盛況です。持ち帰りも多いですし。

ポンチ ラマダン夕食

一寸、私のこれまでのラマダンのイメージが変わりました。

暗くなって、モスクのスピーカーから流れる音量の大きい、神への祈りとともに宗教心を高めた各家庭は夕餉をいただいていることでしょう(音を伝えられませんが)。

dagoの夜景

四国伊予の巨石遺跡(参照:人類最古の文明「アジアの楽園」探訪記)と当地のほほえましいストーンヘンジについて既にレポートしましたが、Danny Hilman博士がFacebookで本場英国のストーンヘンジに関し、英BBC放送の驚きの情報を紹介しハイテク調査の必要を訴えています。

最近の調査(現在も続行中)で、地中に人工のずっと大きな構造物があることが発見されている。造られ始めたのは、11,000年前(!)で、調査チーム(バーミンガム大学等)は、この地中円環構造物を「スーパーヘンジ」と命名した。

私(奈良)は、これはギョベクリ・テペ、グヌン・パダンなど万年を超える石器時代人による高度な構造物の例に加わる新たな大きな発見だと考えます。

そして、超古代石器人のイメージを変換し、超古代研究の重要性を示すものと考えます。

新たなあるいは現在の遺跡の地中あるいは内部に、更に古い遺跡を発見するなどの新調査法の科学の時代の本格化です。

アジアの楽園、人類の百貨店には多くの遺跡がありますが、グヌン・パダンのみならず、古い聖地にその後、更に建造した可能性のある所はあると思いますので、今後が楽しみになってきました。

Recent and ongoing geophysical subsurface imaging on and around STONEHENGE revealed that this exposed structures is only a small circle on top of much larger manmade structures that has been buried beneath the ground! And the constructions might have been started since 11,000 years ago!! They name the hidden, burried ‘circle’ structures as “SUPERHENGE”.

ボロブドゥールも現場へ行ってこそ感ずるということがありました。

場所は、独立時代に臨時首都になったジャワ伝統のジョグジャカルタ特別州(中ジャワ)から北西へ少し外れた所です。バスで向かう途中にムラピ活火山が煙をはいていますが、わずかな間だけ右側に宝来山を控えた富士山そっくりに見え驚かされます。

寺院は、きれいに整備された公園地域の奥にあります。

「Can you speak English?」ジルバブ被った女子の珍しい質問です。

聞けば、先生からともかく英語を話す人に同行してレポートを出すように言われているノート片手の女子中学生さんで、一緒に回りました。(孫たちよ、頑張れ!)

全景hp女no学生

504体の仏像を有するボロ(寺)ブドゥール(丘の上)は、煩悩から解脱に至る3界を象徴的に表し、第1の基壇は煩悩の俗界、次いで未だ形にとらわれている5層のピラミッド、最後に解脱した3層の同心円壇ということだそうです。

上空から見た曼荼羅模様と、その多様な造形、数々のレリーフは、素晴らしいの一語です。

多様な造形hpレリーフhp

さて、ボロブドゥールは我がギョウ界ではピラミッドです(下図左下)。

pyramids[1]

www.IndoCropCircles.wordpress.comから)

グヌン・パダンなどと同様に雨や地震にも強い棚田式で、もとからあった小山に多い所で8mの土を盛った(Dunny Hilman博士より)上にあの見事な仏像、レリーフ等を作ったものです。

棚田田植hpボロブ構造hp

密林の中に約1000年眠っていた寺院を今のように修復された長い間の努力には、全く頭が下がります。

雨、地震に加え火山灰の降る地でもあります。凄いと感じたのは、中の小山の土の崩れから抜本的に修復されたということで、現在使われていない石も裏に保存されています。

修復hp石保存hp

ボロブドゥールは、小山に土を盛った基盤のあんこと仏像レリーフの表層の厚い1枚皮の言わば大福もち構造です。グヌン・パダンの場合は、その皮が時代を異にして少なくとも3枚重なってますので、修復も解明も容易ではないです。無論、大福もちの大きさも違いますし。

koridortimur.com

(koridortimur.comから)

注目点は、いくつもありますが、お釈迦様にどう結び付くのかという船のレリーフ(10枚)があるのをPhilip Bealeが見つけました。

香辛料シナモンの貿易でシナからアフリカまで活躍した甲板に小屋のあるその帆船を復活させ博物館にしています。アジアの楽園、万年前から世界の中心・中継の海の民のここの人らしいところです。

philiphp船小屋hp

ここに来て感じましたのは、万年の昔からグヌン・パダンの人々がゲデ山に対するように、此処の人々はムラピ山に対してきたことです。

マラッカ海峡もスンダ海峡も陸地だった正にアジア楽園時代は、共にインド洋に面する世界に開けた賑わいのマチの奥ノ院にあります。

そして、古来の精神性の代表である「山岳信仰」は違う、正しくは荒ぶる天、神に祈る「活火山信仰」だと感じました。

それは、厳しい火山被害罰と水の恵みの両方を有する祈りの対象です。大昔の人は、休火山も死火山も分からず、やがて区別なく山岳が祈りの対象に成っていったのでしょう。

火山灰hp

最後に、アジアの楽園の人たちは聖地の上に時代を異にして築造します。聖地の言い伝えだけは語り継がれるからでしょう。

パンフレットには、ボロブドゥールの内部には何もないと書かれていますが、その立地、周囲の状況から基盤となった小山は聖地だった可能性があり、何かがまだ内部の奥に眠っているのではと思いながら帰りました。

建物全景hp

下記のニュースを見て、四国の伊予とアジアの楽園ジャワにある巨石遺跡、ストーンヘンジを想い出しました。

英ストーンヘンジで夏至の祭り、神秘の現象に2万3000人
2015年06月22日 発信地:ウィルトシャー州/英国(AFP BBNewsより)
(2015年6月21日撮影) (c)AFP/NIKLAS HALLE’N
英国の古代遺跡「ストーンヘンジ」で行われた夏至の祭典で日の出を見る人々(2015年6月21日撮影) (c)AFP/NIKLAS HALLE'N

集まった人たちの賑やかな祭りと、太陽光と巨石の関係の写真を見て、eブックランドの横山熱血社長を想い出しました。地元の新聞にも採りあげられた伊予の巨石遺跡の意義の認識に対する広がり具合に歯ぎしりされてましたので。

eブックランドでは6年前に瀬戸内海の巨石遺跡は古代の人工的な建造物ではないかと書いた「伊予のストーンヘンジ」(篠澤邦彦著)を電子と紙で出版しているが、広がりはもう一つだ。

ところが、皆さん、そこは人類の百貨店、アジアの楽園ジャワの倉庫にもほほえましいストーンヘンジ(Batu Solor 東ジャワ) があります。レバッ・チベドゥ遺跡(ジャワ島西部バンテン州)には、ピラミッド後方にストーン・サークルがあります。

当地や日本にも多くある太陽の運行と関わりがあるとみられる巨石建造物は、観測のほか、お墓という見方も出ています。あのトルコのギョベクリ・テペ遺跡もお仲間でしょう。

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アジアの楽園 探訪記

20万年前頃アフリカで誕生し海産物も食す現生人類の部族は、海水面の低下(約130m)した紅海及びホルムズ海峡を越え、8-6万年前頃、インド亜大陸西部地域に達したとみられています。

東方へは、海水面の低下により出現した広大な海岸地域を移動し、7-5万年前頃にスンダランド、4万年前頃には海を越えてオーストラリアに達し、また、北方の沿海州にまで進出しています。

東方への進出は、西の欧州よりも速度が速かったようです。

人類no展開

東ジャワの現生人類ワジャック人は、4万から1万1千年前頃の間、また、マレーシアのサラワクのニア人も4万年前頃とみられています。

ワジャックとは、山、盆地のある場所の名称で、あのジャワ原人のいたソロ、サンギランの南東に当たり、ワジャック人は最初、山の斜面で発見されました。その後も他の場所で新しいものが洞窟などで発見されています。

wajakの山

この時代の現生人類は、熱帯地域の保存がきわめて難しい状況の中、タイ西部からパプアに至る広域で発見されています。従って、スンダランド全域に存在していたと考えられます。

新人no発見

ワジャック人について言えば、彼らは混血で中国人やオーストラリアのアボリジニの特質も示しています。長期間存在し、日本にもその形質の影響が及んでいます。

Paul Stormは、ワジャック人の頭骨はがっしりした中石器時代のもので、その後の世界的な人類の小型化に合わせつつ、現在のジャワに住む人たちに繋がる祖先と考えています。

ワジャックno頭骨

重要なことは、ワジャック人が4万年前頃現れているので、人類の展開のかなり早い段階から北方の人種と南の人種がスンダランドで混合していたということです。

それはまた、スンダランドへ南下した人の波がおそらく1度や2度のものでなく、人の数も相当の数であったことが、混血の影響から窺われます。

特に、2万年前頃の最終氷期最寒冷期や1万3千年前頃のヤンガー・ドリアス寒期の北方の寒冷の影響は大きかったでしょう。

彼らは、暖かく食糧豊富なアジアの楽園スンダランドに来ざるを得なかったでしょう。そして、北方が暖かくなれば、また、北上した者も多かったでしょう。

この北と南の全く生活様式の異なる人々の南での融合は、生活技術の融合をもたらし、人種の坩堝スンダランドでの文化を発展させていったことでしょう。

私は、ワジャック人が3万年にわたり長期存在したことや日本にまで影響が及び、また、現在に繋がっていることなどから、楽園で大きな存在だったろうと考えています。

但し、スンダランドの人々の「サラダボール」の具体的なイメージは、将来更に実証成果を得て形作られることになります。

これらのことから、メソポタミアに始まる人類文明史の前の段階におけるスンダランドの重要性に着目すべきと考えています。

It is said that Homo sapience get out from Africa to Eurasia in 80,000-60,000 years ago and probably reached Sundaland in 70,000-50,000. The sea level was lower 130m than that of nowadays.

They proceeded along vast seashore toward East. Then they crossed eastern straits upto Australia by 40,000 years ago and also went upward to north.

It was faster to East than West Europe even though it needed to cross straits.

人類no展開

Homo sapience Wajak Man, in East Java, is thought to be existed from 40,000 to 11,000 years ago and Niah Man, in Sarawak Malaysia also from 40,000.

Wajak is mountain and basin place name and Wajak Man was inicially found in slope. It’s in the southeast of Sangiran, Solo.

wajakの山

Homo sapience of this age were found in many places in spite of difficulties for finding in this tropical region.  Those are from in west Thailand to Papua in the east. So, it seems they had spread over Sundaland.

新人no発見

As for Wajak Man, they were of mixed parentage and show both characteristics of Chinese and Aborigine in Australia, too. They had long existed and spreaded even to Japan.

Paul Storm insists that the most likely interpretation is to consider the Wajak skulls as Mesolithic robust representatives of the present inhabitants of Java after with worldwide decrease in size of the human body.

ワジャックno頭骨

Important thing is, mixture of Homo sapience in North and those south locals occured in Sundaland in fairly early stage of human’s spreading deployment as Wajak Man appeared in 40,000 years ago.

It also means that wave and numbers of Homo sapience in North coming down to Sundaland were big enough to make such influence. It was not once, but many times in tens of thousand years because of very cold climate in North.

Thay can’t help coming down to warm environment of Paradise in Asia. And when it became rather warm in North, some went upto it.

Mixture of Homo sapience of quite different each way of living must have mingled technique and developed culture in melting pot-Sundaland.

I think Wajak Man were a big player in Paradise in Asia-Sundaland because of its long existence, spreading even to Japan and ancestor of modern Java people.

But, a bit concrete salad bowl image of Sundaland people should be formed with more evidences in future.

We should pay more attention to Sundaland as a fore stage of Mesopotamia Civilization.

Sangiran is located in the center of Java Island, Indonesia. There is the World Heritage of Homo erectus Java Man.

4舘看板3人hp

I moved around there by biketaxi and visited modern museums.

Here and there, houses of local villagers are seen. After a while, biketaxi stopped and I saw the path is destroyed by intense flow of stream. No way, we took a rest.

洪水破壊mizuと

I talked with my driver and a young shop owner for coffee. I asked them, ” Are there any caverns ?”, then replied ” No, not at all.” Surely, Java Man couldn’t have even made them in this region because of the soil, I noticed.

村人Dr土質hp

Textbook in school gives us image that Homo erectus and even Homo sapience in stone age had lived in caverns.

But, there are no caverns at all for many Java Man lived nearby river stream. That’s why they seem to be existed just as standing or sitting though I know they were hunter-gatherers among many kind of large animals.

川そばhp7人hp動物hp

Museum can’t show their real life to us because of no evidence. But, it can’t help showing wrong image widely.

No clear evidence doesn’t mean no existance, as discussion on dark matter in universe.

Museum kindly show us only French example, with humble cottage and fire of Homo erectus’ life.

仏家hp

It seems to me natural that even in other countries’ case, numbers of suitable caverns nearby river stream doesn’t fit to those estimated of Homo species. Anyway, most of them must have lived outside caverns.

Now,we have to change image of their life in cooperation of all fields of science. And it’s not a minor difference between life in cavern and that of humble cottage even if they were moving around place to place by the age of settling down.

Analogy is as like difference of life in a bit isolated fort on a hill to that in social environment of plain. The latter could be shifted smoothly to next step of life in settling down.

Then, I think that the amasing megalithic culture of Gobekli Tepe in Turkey, 11,500 years ago, won’t be so surprising to us. Situs Megalitik Gunung Padang in West Java, too.

What should we image about their life in plain ?

考える人hp

It’s not their responsibility, but our’s.

Next, I won’t touch upon Florencians, but on mysterious Homo Sapience Wajak Man・・・. The place is in East Java not so far from Sangiran.

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断食ラマダン

カテゴリー: 当地事情,こぼれ話

18日から1ケ月間、当地で実際に見聞するイスラム教徒のラマダンが始まりました。特にコーランを意識し読み、日の出から入りまで飲食、喫煙などを慎しみ神の恵みに感謝します。その前後である、早朝、夜間には若干食べています。

早朝特売はルポしましたが、日中の通りの屋台は、休業状態です。それでも洋風レストラン、目立たない立地の店などで異教徒が食べるところはあります。

この時期は、関心が神に向いているためと食べてないという大義名分もあるのか、仕事はスローになりますので、日本人の管理者は、やきもきするでしょう。我々の許可申請などもその影響を受けます。

日没後、街に夕食に出たら断食後の食として普段は見ない日本でいえば白玉とバナナを甘く似たものが売り出され供されていました。胃にやさしく栄養もいいのでしょう、やはり、万年のバナナの登場です。

断食日没食

そして、1ケ月先のラマダン明けのお祝いに備えて、店の柱にペンキを塗って準備を始めたところもあります。

ジャワ原人の里(博物館の表現)は、ジャワ島の中央部ソロの北20kmの川と平野のサンギラン地域にあります。

バンドゥンからジョグジャ(独立時、蘭に抵抗する一時は臨時首都)、ソロへは長距離バス、ソロからサンギランは市内バス、そしてサンギランと書かれた門をくぐってからはバイクタクシーで動きます。

バイク運ちゃんに、まず発掘現場に向かい、次いで博物館へ行ってくれと言うと、遠いだろう、雨で土砂崩れが起きてるとか渋ってました。物価安のソロで破格の数字(1,000円)を巡るやりとりとなったので、剽軽さが戻り動き出しました。

運ちゃんは途中、マンモス象が外に飾られている新築博物館で聞き、細いコンクリート道を曲がりくねりながら灌木の林を進み、2つ目の新築博物館を過ぎて一寸行ってダメだとなりました。鉄砲水で道が壊されています。

やむなく小休憩のコーヒーにし(彼らはラマダン)、運ちゃんと店の村人に聞きました。

洪水破壊 村人

「この辺に洞窟はありますか?」

「ないね~。」

確かに子供のころの経験から、こんな所の土質で横穴洞窟を掘ったら雨が降らなくても落盤しちゃうなと思いました。

崖状況

それでは、どういう環境だったのだろうと言えば、博物館の展示では、今より植生は少なく、ライオン、トラ、サイ、ワニ、野牛など多くの動物がいたようです。

環境

ライオントラ サイワニなど

サンギランでは洞窟は描けず、何しろ証拠がないので、立ったり座ったり所在なさげです。もっと多くの老若男女がいたはずですが、皆、こうだったんでしょうか。コワイ動物もいますし、夜はくる、時に雨も降る、家財道具もあったでしょう。涼しい朝夕に動き回り、暑い日中の時間は休んでいたでしょう。

原人様子原人家族

展示に近づいて聞き耳たてれば、原人たちもバカにするなとブツブツ言っているようですし。

それではどうも変だということで、フランスでは、原人も木と石で粗末な小屋を作り、火を使っていたという例が紹介されています。

仏粗末な小屋

生活の場である遺跡は、既に報告したタイのバンチェン遺跡もここも川そばです。そもそも見つかっている遺跡から原人の数を推測すれば、洞窟のある他の地域でも、水が得られ食料を得やすい川そばの都合のいい洞窟の数及びスペースとは全く合わないでしょう。

遺跡の位置

狩猟採集、漁労では、あたかも休耕田するように川そば各地を転々としていたとしても、そこでは今に通ずる根拠のある暮らしをしていたでしょう。

狩猟と採集魚獲り

(上記の資料写真は、ジャワ原人博物館から)

火と道具を手にした数十万年前の原人はもとより、アフリカを出、複雑な言葉を身につけ更に進化していた数万年前の現生人類は、洞窟ではなく主に川そば平地に居たとイメージを修正すべきでしょう。洞窟に住む者もいたということです。

証拠が残り易い洞窟から、見つけ難い平地への生活イメージの転換は、例えれば防衛という軍事的な山城から、軍事に加え統治管理の社会性を有する平城に移るくらいの大きな意義の違いを時代の見方にもたらすと考えます。

大半が平地で生活していたとなれば、縄張りなど隣近所との様々な課題・問題を生じ、社会の階層、交易や冠婚葬祭、争いなどの相互の関係の処理をもたらし、文化・文明への助走です。家畜やバナナ栽培も始まっているでしょう。

驚くべき巨石構造物を造り、見事なレリーフを残した11,500年前頃のトルコ東南部の石器人によるギョベクリ・テペ巨石遺跡は、平地で暮らした彼らが、助走からいよいよジャンプしたかという様子を示しています。

3月末、当地科学院LIPIで開催されたグヌン・パダン及びギョベクリ・テペ合同実証セミナーで、そう実感しました。

ギョベクリ研究会

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