「先生、ずっと大昔は北京あたりと中ジャワにしか
  人は住んでいなかったんですか?」

「人と言うより、正しくは類人猿、話は原人についてだね。
  そりゃ、ベトナムやタイやあっちこっちにもいただろうね~。
  西ジャワにもね。

  当時は、今の南シナ海、まあ南シナ湖を囲んで正にASEAN諸国
  や台湾などの地域が、みんな陸続きだったからね。」

「じゃ、どうして教科書にそう書いてないの?
  なのに、先生はどうして分かるの?」

「他のとこは証拠が見つかってないんで、書けないのさ。
  証拠が見つかるってのは大変なことなんだよ。
  先生が言ったのは、ま、大人のジョーシキってやつだね。」

注;当時は(今も)、10万年くらいの周期で寒冷乾燥と温暖湿潤を繰り返していました。寒くなれば広域に氷河が形成されて海水面が低下し陸地が現れ、逆に暖かくなれば氷河が融け雨も多く降り、大量の真水が海水面を上昇させ時に大洪水を起こし、これらは地震や火山噴火にも影響したとみられます。

楽園数十万年 南シナ湖 時代

sundaland asean地域

現生人類アジアの楽園・スンダランド時代

一般的には、寒くなれば北から動物も人も大量に南下し、暖かくなれば北上することを繰り返していたことでしょう。いつの時も環境に恵まれていた(災害を除き)アジアの楽園は、混じり合いと動きの賑やかなことであったでしょう。現在は、南シナ湖あたりが騒々しいようです。

「ふ~ん。ところで、向こうの建物の教室の前に白髪のひげの
  おじいさんがアッカンベーしてるポスターが貼ってあったけど、
  あれ何ですか?」

「あれか。もともとあっちの建物は、風呂入ったら湯がこぼれ
  ちゃたとか、リンゴが丁度落ちるとこを見たとか、たわいもない
  ことで大騒ぎしてきてるんだ。

  一寸前は、光が曲がる~なんてわけのわかんないことを言い出す
  やつがいて救急車を呼ぼうかってなったが、その必要はなさそう
  だとなり、むしろ今は見直され落ち着いてるらしい。それだろう。」

「なんか、大昔好き人間でジャワへ行った人が洞窟が無い、洞窟が
  無いって騒いで連絡してきてるらしいですよ。」

「ああ、聞いた。家の人たちは大丈夫です、心配要りませんって
  言ってるらしい。
  いろんなのが居るからね。宇宙は爆発だ!なんて岡本太郎みたい
  のもいて、学部が崩れると職員会議で話が出てた。

  あっちは、ま、玉石コンコウってとこか、中にはほんとに
  オカシなのもいるかもだからね。あまり近づかない方がいい。

  君もぼんやり空なんか見てないで、早く宿題やっておカアさん
  をイラつかせない方がいいよ。」

「はい、分かりました。」

(写真図表は、ジャワ原人博物館から)

当地の大多数であるイスラム教徒の大きな年中行事のラマダン(日の出から日の入りまで断食)月が始まる前日17日に出発し、始まった翌日に帰る長距離バスの旅をしました。

リュックを背負い肩に力が入って西ジャワを回った1年前とは異なり、今はほぼ通学の格好・荷物です~と出かけました。

距離の長さで途中の町の様子を、そしてラマダンの始まりの時期であるのでその様子をということです。

バンドゥンから東南に向かう中部ジャワ州、ジョグジャ(-カルタ)へのバス旅は、市内の東部から発着する分かり易いものです。

途中の大休憩を入れて往きはジョグジャまで13時間、帰りはその奥のソロSoloから15時間でした。それでも、上窓からの自然な風、2人用席を一人で、道が舗装され渋滞もなく、景色を観たり帰省の女子大生さんなどと話をしたりで苦にはなりませんでした。ともかく何でも初体験ですし。

長距離バス途中休憩

現代の街道沿いでしたので、店、イスラム教会、学校、官公庁、田畑、川と橋、山々、曲がりくねる山道、など西ジャワ州とそれ程の大きな違いはありません。

西ジャワの川は非常に深い谷が結構ありますが、中部ジャワの川は深くないです。

私にとって一番の違いは、屋根がトンガリ2段なのは類似ですが、千木を見ませんでした。

伊勢神宮・出雲大社などから、ラオス、タイ、西ジャワで見る建物上部の千木は、山道の州境を越えて中部ジャワに入ると見なくなりました。

そこの部分にアクセントがあるものがみられ、最早、千木ではないですが、この変化もまた興味深いです。

トンガリ屋根

そして、この州境はスンダ人とジャワ人の分け目でもあるところが、意味がありそうです。

さて、ラマダンが始まり、日中は屋台が閉店または開店休業してますのではっきり分かります。(それでも開いていて異教徒が食べる所はあります。)

早朝の暗い中、帰りを歓迎されていると錯覚するような灯りが通りに煌々とつき人々で賑わっていました。各地で同様の特売(日中は高い。)だそうで、夜明け後も我がバス停の上では続いてました。私には、師走の晦日あたりの感じです。

ラマダン店2夜明け特売

そして、今回、世界遺産ボロブドゥール、百万年前と言われるジャワ原人のいたサンギラン、何故か中米マヤのピラミッドと酷似していると言われている不思議なスクー寺院(修復中)と、人類の百貨店の主要階を観ました。

ボロブドゥール ボロブドゥール

ジャワ原人博物館 サンギラン

スクー寺院 スクー寺院

私にとっては、やはりバスを乗り継ぎバイクタクシーに乗り田舎の奥に行ってみて初めて分かり、感ずる大きな発見!が、それぞれにありました。次回から報告いたします。

先日、バンドゥン北方の行楽地で西ジャワ州教育局が主催するスンダの言葉や芸術の振興を図る催しに招ばれて観る機会がありました。

伝統の踊りや新たな装いの歌が披露され、州内各地の生徒たちのチームによる歌合戦もありました。

会場は満員で、地域の人々は廊下も埋め尽くして観ていました。若い生徒さんたちが多かったので、踊りの男女の絡みの場面では大歓声に包まれました。

踊り 歌

参加チーム 男女踊り

会場入り口では、分厚いスンダ語の辞書や人類の百貨店らしい多さを誇る民話が沢山並んで売られていましたのも印象的でした。(英)オックスフォードのOppenheimer教授が、大洪水話など世界に拡がった当地の神話・民話も一つの要因として、アジアの楽園を始源の意味を込めて「東のエデン」と表現したのもうなづけます。

民話

このように、国の統一をしっかり強調し施策している一方、失われていっている地域の言葉や文化を大切にして何とか伝えようと努力されていることに感心します。お国も町興しが課題のようですが、まずは伝統を見つめることからと思います。

そして、私は動き回れば、あ、ピラミッド山だ、バンチェンでも見た2段屋根だ、となります。タイ東北のバンチェンとバンドゥンの言わば郡部の一部の家の伝統的な造形の類似性に、旅したアジアの楽園内の距離の遠さを思うと不思議な気がしています。

ピラミッド 2段屋根

 タイ東北のバンチェン遺跡は、1967年のテストサンプルの測定で7,000-5,000年前と出ました。その後、定住し始めた人々は、5,600~1,800年前頃まで文化の華を咲かせていたとされています。

最初の発見は、1957年に自宅建設中のお医者さんが彩色された土器壺を見つけて学校に贈り、その後も見つかった古い土器は学校に展示されました。

66年に米ハーバード大の学生が人々の生活の調査に来て多くの土器片を地上で見つけてタイ美術館長に届け、館長はタイで見たことのない先史時代の遺物と判断し、テストサンプルを米ペンシルベニア大に送り、前述の測定結果となりました。

バンチェン遺跡と言えば、ユニークなデザインと鮮やかな彩色の土器類です。

陶器

ところが、82年からのペンシルベニア大とスミソニアン博物館による米国巡回展示のタイトルは、「バンチェン-失われていた青銅時代の発見」でした。

青銅

青銅文化は、5,000年前頃中東で始まり、2,500年くらい遅れて東南アジアに伝わったという定説の大変更を迫る発見の衝撃でした。バンチェンの物は、この遙かな遠隔の地で5-4,000年前頃からのものです。

それは、その後の鉄器時代をも経た連綿と続いた文化であって、東南アジアに対する見方、認識を大きく変えるものでした。

銅は周辺の地域から、錫は、ラオスの古都ルアンパバーンや現首都ビエンチャン地域からのものとみられ、タイ-ミヤンマー国境地域からのものも考えられるという広域にわたる交易状況も明らかになっています。

そして、これらメコン川流域のラオス大都市の何千年前からの由来も想像させます。

中東から伝わったのだろうか、楽園発だろうか、タイ東北の楽園の一隅だけのことだろうか、楽園の他の地域や沈んでしまった楽園中央はどうだったのだろうか、考させられます。そして、昨年末の期末試験後に飛んだ錫の名産地、ジャワ海のブリトゥン島が想い出されます。

来年、日本で開かれるサミットの開催場所は、日本の美しい自然と豊かな文化、伝統を感じていただける場所として伊勢志摩に決定されたというニュースを見ました。 既にわがe-ブックを読まれた方はお気づきのとおり、私は伊勢神宮などの千木が、アジアの楽園内では普通に見られる点に注目しています。

「人類最古の文明『アジアの楽園』探訪記」(広報配信中)こちらをご覧ください。

images[5]

皇大神宮(ja.wikipedia.orgから)屋根の前後の千木

e-ブックで紹介しましたほかにも、例えば西ジャワのスカブミの古いオランダ洋館でさえ伝統様式として千木が見え、タイ・バンチェンの例もお伝えしたとおりです。

スカブミ洋館 格物館前タイ土産店

西ジャワ・スカブミの郷土資料から    タイ・バンチェン博物館前の土産物店

因みにスンダ゙のある人は、これに関する我が質問に対し、スンダ語で木が二股になっているのをチゲというそうです。私は関係あると思っています。

この類似性について、研究された資料は無いのではと思っていますが、この点を是非踏まえた上で誇るべきお国の施設に各国の首脳をご案内していただきたいと赤道を越えた島から気にしております。

いよいよ本題に入ります。まず、最初に感じましたのは、副題のとおりです。プミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ9世王) (1946年6月即位)は、考古学や博物にもご関心を持たれて各地をご訪問されていますが、1972年3月、妃殿下とともにバンチェン遺跡の発掘現場をご視察されました。

「それらの貝は、淡水からか海水からか分かっているのか?」

「遺物は発掘現場で見たいと思っているが、何故、これほど多くの遺骨や彩色土器が出てるのか? ここは墓か?」

「赤く彩色された土器は、焼いた後で彩色したものだな?」

「遺骨の年代測定は、できてるのか?」「バンチェン遺跡は、国際的な関心事であり、年代測定には、皆の協力と参加が期待できるし、より信頼度が増すだろう。」

「この遺骨が第1、第2ピット(穴)よりも古いというのは、深いところにあったからということか?」

「ここに居た古代の人々と200年前にここに移住してきた人たちに何か関係はあるのか?」

国王と妃殿下のご視察は、遺跡が特筆すべき国家的な考古学遺跡であると関係者に認識させ、それらの協力、バンチェン遺跡の永続的な保存と発展を呼び起こすこととなった。                                      (バンチェン国立博物館ガイドから)

国王と妃殿下のご視察は、74年米ペンシルベニア大学との共同調査、75年国立博物館開館、80年ニュージーランドの大学の調査参加、ハワイ大学の遺骨調査、82年から4年間の米国巡回展示、次いでシンガポール展示、83年ケネディ財団の博物館への資金支援と国際化し、92年、遂に世界遺産に登録されました。

2006年に博物館はリニューアルしていますが、現場の考古学調査の状況も展示されています。現時点、東南アジア最古の遺跡の世界遺産です。

BT舘入口 博物館敷地 展示 人骨現場展示 見学奈良青銅器 土器など

なお、敷地にたなびくタイの国旗が、インドネシアの紅白国旗を2つ上下に置き中央に幅のある青い帯を入れたものだと気づきました。日本は白地に赤丸で、3者が類似の親戚ものだとあらためて感じました。

本題の世界遺産バンチェン国立博物館の話に入る前に、軽い話題を一つ入れます。今回、楽園南から北まで動きましたので旅に関し、ルポを送ります。

1.治安

インドネシアのバンドゥン-ジャカルタの空港、タイのバンコク-東北田舎のバンチェンを動きましたが、バンコクの昼間、バス路線上は途中の休憩地点、深夜含めて治安上の不安は全くありませんでした。

2.バス移動

インドネシアの上記移動は、金・土は渋滞します。帰りのジャカルタ-バンドゥン間のバス移動は4時間の予定が5.5時間でした。タイは渋滞が有名ですが、今回の旅程では全くありませんでした。バスは安く、いずれもまあ日本同様で問題ないです。

バンチェン遺跡博物館は、ウドンからの長距離バスを降りて、3kmくらいのトゥクトゥク3輪車で60バーツです。帰りのバス停がないですが、ウドン方向への幹線道で手を挙げれば乗れます。

バンコク市内は、旅ガイドによると空港から街中へはタクシーを勧めてますが、大スーツケースを持たなければ、Informationで聞き、メモをもらいバスで移動するのが断然安いです。

私は、駅から市内移動でしたが、インドネシアのアンコッ乗合バスも負ける安さと走行距離です。

3.鉄道移動

実は神奈川県出身なため帰省経験がありませんので、寝台車に乗りたくてウドン-バンコク市内間を乗りました(19:20-翌朝06:00着)。

驚きは駅に改札がなく(その位置横に売店)誰でもホームまで行けます。(乗車チェックがしっかりですので、結局、用の無い人はホームに居ません。嚙みつかない犬が2匹入り込んでましたが)

ウドンの駅の構えは立派で、切符売り場も親切です。値段は、安宿代プラス安バス代というところで妥当です。

ウドンターニー駅

寝台車は、ベッド幅が十分で車掌さんがベッドメイクしてくれます。何故かインドネシアでないのにアルコールの販売・飲用禁止です。

ベッドメイク  アルコール禁止

実は寝ている間の盗難をおそれ、バッグは枕の下に、靴もビニールに入れて枕元奥におくという、北海道の雪穴就寝を想い出す作業をしました(雪穴では防寒靴は枕の代わりに、手袋は懐にです。起きた時に凍っていないように)

客は酒を飲まず、屈強なセキュリティと車掌体制で、更に早朝、トイレに起きて分かったんですが、他の車両に行けませんので泥棒は朝捕まります。(ので、大荷物は通路に置かれています。)

日本と違い、終着の1時間くらい前に市内に入るとベッドは撤収されて(そのまま寝てても可のようですが)、数は多くないですが通勤客が乗ってきます。

オバさんがモーニングコーヒーを販売にきますので、荷物を確認しhot一息の一杯です。何故か10バーツおまけしてくれました。

朝コーヒー

終着駅前で、線路に追い詰められたような産業廃棄物と最下層の暮らしを見ましたが、タイの表のモダンな顔とあまりに違うので、早く改善したらと感じました。小流とバナナで助けになっているのかもしれません。車窓から火炎樹が見えますが、インドネシアと同じ楽園の風景です。

線路脇のバナナ バナナは救い

4.宿

空港近くで安い所は離れており、タクシー移動にならざるを得ず、渋滞するので飛行出発までの十分な余裕が必要です。

5.必需品 両国とも通常品は何でも買えると考えてよいです。

6.バンコク市内

翌日に北空港からの飛行出発があるので、予定を変更し夕刻には空港付近の宿に入るべく、市内の駅に着く朝から午後4時ころと決めて新設の歴史博物館見学とバックパッカー聖地での古洋書・和書探しに絞りました。聖地も大分整理された感があるのは昼間だったからかもしれません。

パッカーの聖地

博物館は、230年前以降ということで、数千年、万年前を求める私には合いませんでしたし、歴史古洋書は見つかりませんでした。

結局、厚さ4cmの安いインドネシアガイドと中西輝政さん、ドラッカー経営本和書という結果でした。バスで市内を動きましたので、思いのほか中華系店が広域に存在していることを感じました。

アジアの楽園の西の雄タイは、できれば専門の先生を訪問したく、再度、行きたいと考えています。

今回の遺跡見学でエッ!?と思ったことはいくつもありますが、博物館前の土産物店の千木(伊勢神宮、出雲大社などに見られる)には、びっくりしました。

土産物店は、現代風に改築されていますが、明らかに屋根と彫りのある千木は古いまま大小3つ(ギザのピラミッドのようでもあり、また、この数も意味あり?)大事に残されていますところに、心を見た感じです。

土産者店千木

学校の憩いの場でしょうか、スンダ2段屋根のみならず上部に千木もあったことです(写真は見えにくいですが)。また、幹線道沿いの旧バス停を集めたんでしょうか、わらぶき小屋にも千木があるものが車窓から見えました(写真に撮れず)。

学校2段屋根千木  古いバス停

そして、私には不思議な手間をかけている町の普通の新築の民家と出雲大社(wikipedia mery.jpから)の一部が、その重なりにおいて似ているように見えました。

バンチェン民家  imagesI8S3QO2F

また、町の工房土産店のライオン、2段屋根の千木ではないが機能が同じ装飾(ジャワのバドゥイ族の場合は丸輪)もジャワ島・スンダを思い起こさせます。

工房千木工房

タイやラオス、カンボジアの寺院で普通に見られる建物構造は、2段屋根、屋根の重なり、千木機能などにおいてジャワや日本のものとその一部ではあっても共通性があるということが、強く感じられました。

タイ寺院

本でも書きましたが、日本では大変精神性の高い高貴な建造物にのみ見られる様式が、広いアジアの楽園では普通に多くあるということが、私が万年の文化を有する楽園の地を本家と考える所以です。

そして、日本の学界にこのことを学問的に研究した資料の無いことが不思議であり、私を動き回らせるエネルギーになっています。

期(学年)末試験を終え、早速、遺跡見学にアジアの楽園北部、タイ東北にある東南アジア最古という世界遺産バンチェン遺跡(7-5,000年前頃~1,800年前頃まで)を見学に行って来ました。旅行社で格安バンコク行きを買い、試験前なので遺跡の概要と行き方とバンコクでの見物をチェックしたくらいで出かけました。

ところが、ジャカルタの空港で便予定を確認したところ、時間、便名はいいのですが、行き先はこれまで何回かトランジットしたことがある市街東部の空港ではなく、北部の空港であることが分かりました。確かにバンコクの国際空港だそうですが、いやはやです。

バンコクなので、お寿司は控えるにしても旨いうどんにはありつけるだろうというささやかな期待はしぼみました。それはさておき、言葉も字も全く分からないタイ東北ウドンターニー(以下、ウドン)の田舎に行くプランは変更を余儀なくされました。大体、東京から青森に行く感じです。

今は海の上、かってはアジアの楽園だった上空を飛びますと生き残った島々が見えます。それにしても楽園は広かったなあ、多分何か痕跡はあるのだろうなと思いつつ。4時間で正午前に北部空港に着きましたが、駐機の飛行機も少なく記憶にあるあのバンコク空港での各国機の賑わいはなく、港内の店数も比較になりません。

うどんは全く無理と諦めました。Informationで行き方を聞きましたところ、お嬢さんが私の行きたい所をあの難しいタイ字で書いてくれ、外のバス乗り場〇番で〇〇行きに乗り運転手、車掌に見せなさいと言ってくれました(私にとっては通行手形)。

空港からの町のバス停と東北行き長距離バス乗り場は離れていますが、我々を町で降ろした後、空港へ戻るバスが、あんたはそのまま乗っていなさいと言い、途中、近い所で降ろしてくれる親切でした。

あとは、近くの店、バス乗り場、窓口、・・手形を見せて少しづつ進み、昼パンを買って便数の少ない出発10分前の東北行バスに乗れました。(実際の出発は、予定の20分後)

バスの予定では、到着は正に真夜中ですが何とかなるだろうです。実際、バスが着けば3輪トゥクトゥクの運ちゃん達が来て、値段を交渉して近くの適当な宿まで連れて行ってくれました。

出発してしばらく窓外を見てましたら、1時間ほどするとアレッ!?ラオスかな?カンボジアかな?という景色になってきました。

そして、ホントにびっくりしました。幹線道沿いに点々とあるローカルバス停らしき小屋があのバンドゥン・スンダの2段式屋根なんです。そして、看板で地名を確認すると(右下)ウドンにもバンドゥンがあります。

考えてみれば、バン コクなんですから、行きたい遺跡バン チェンがあり、バン ドゥンがあって不思議はない訳です。何せ楽園内のことですので!!。違う国、遠い遠い違う所というこれまでのイメージが、現場で変わりました。旅程は長かったですが。

2段屋根  タイのバンドゥン

2段式屋根、地名について、どっちからどっちに伝わったのかですが、アジアの楽園が沈んだ(7,000年前)後、3,500年前頃以降、学界では台湾-フィリッピン経由でアジアの楽園南部に人の大きな移動があったと考えられていますので、これもそのある時期ウドンターニー方面の方から南下し、ジャワ島スンダに伝わったのではないかと考えられます。

かって万年の昔、北上して行った人たちの子孫が、気候風土の違いから肌の色や容貌もすっかり変わり新たな経験を携え、長い年月の里帰り移動南下したのでしょう。そして、タイ東北のバンチェン遺跡などが川沿いにありますので、家財具・動物を積んだ船が活躍したと思います。

タイ東北遺跡 川沿い遺跡

タイ東北のバンチェン遺跡など  同遺跡は、川沿い(バンチェン国立博物館から)

棚田式の基本構造とは別に、そもそも多くのピラミッドは、選ばれた少数の者が俗世を脱するように階段を上って高みの頂上部に至り、崇める天・神とのコミュニケーションの中で祈りを捧げて宗教的行事や天文活動を行うものです。この点でも強力ファラオのギザの角錐ピラミッドは、内部に意義がある少数派です。この流れで外形が同じものとしては、中国(青い目のミイラも多数あり)西安地区のものや、論議のあるボスニアなどのものがあります。その古さと内部がどうなのかは、これからの課題です。

images[1] 中国のピラミッド

news.ameda.jpから

グヌン・パダン聖地ピラミッドは、そこに人の居住の無かったことが確認されています。しかし、マチュピチュは、他と違って選ばれた神官などだけでなくいわば一族郎党がその高みに上がり居住したという点においてユニークです。

また、階段を上がって俗世を脱し、高みの施設で同種の活動をした本質に着目しますと、古代の出雲大社を最古最大の木造ピラミッドと私が称していますこともご理解いただけると思います。

Izumo-taisha_scale_model_121281969_6127ff6b17_o[1] 古代の出雲大社

Wikipediaから

そして、縄文の三内丸山も、高みにおいて八甲田山に向かい同種活動をしたと考えられ広義の小ピラミッドでしょう。広島の葦獄山は、階段ではなく俗世を脱する長い山道を登ってその頂上で同種活動を行った山ピラミッドでしょう。これらは、人類にとって重要な精神性において超古代から、その造形に通底するものを感じさせます。

そして、人類の百貨店であるアジアの楽園には、これらとは違った造形の注目すべき重要な建造物がジャワ島にあり、調査後報告します。

ピラミッドと聞くとあのエジプトのギザのものが思い浮かべられます。世界的に有名な正に傑作の金字塔ですが、実はピラミッド仲間では少数派です。それは、当地で普通にどこにでも見られるような、崇める天、神の造った火山として安定した造形の数多の山々と類似しています。それだけに人間が造る場合は大変です。

ピラミッド山1 ピラミッド山2

我がシェアハウス丘上から見える     ブリトゥン島のピラミッド山

ピラミッド山

しかし、学界では最古とされるエジプトの最初のものは、4,650年前頃のサッカラのジェゼル王のピラミッドで、階段ピラミッドと呼ばれています。

120px-DjoserPyramid[1] サッカルのピラミッド Wikipediaから

当地のグヌン・パダン、レバッ・チベドゥなどや中南米のものと類似の造形です。当地では、半年以上の雨季には、正に天、神が怒っていると感じるような雷が轟き、1-2時間の強く激しい雨が降ります。それはピラミッド角柱の角を丸くするほどのものです。そして当地は地震があり、これを恐れればかなり平たい構造のものすら当地にはあります。

この雨と地震の揺れのもたらす土石の緩みによる斜面の地滑り崩れは大きな問題です。グヌン・パダンではこの対策として、当地の人なら普通に思いつく棚田式にし、垂直と水平の石積みを工夫しています。

棚田 西ジャワの棚田 3層石 雨などで丸くなった角柱と水平積み

グヌン・パダンは、近年の調査により斜面のすそ野まで棚田式になっていることが明らかになりました。また、南米の世界遺産マチュピチュも農耕生活の必要もあり、棚田式になっています。

GP棚田 グヌン・パダンの棚田式斜面(アリ・アクバル教授「遺跡グヌン・パダン」から)

220px-80_-_Machu_Picchu_-_Juin_2009_-_edit[1] マチュピチュ Wikipediaから

そこで問題は、当時、エジプトのナイル河畔は雨の少ない、地震もたいしたことない地域であるのに何故、棚田風にしたかです。グヌン・パダンの造形を採り入れたのでは?と考えさせられます。案の定その時代後には失敗もありましたが、強大な権力のクフ王は、天・神の造形をめざし、あの角錐金字塔の造形を完成させています。

グヌン・パダンは、表面の第1層は裾野まで棚田式ですが、内部の2層、3層もやはり棚田式であったのかという問題があります。これらの建造時代と造形の重要さからグヌン・パダン内部の形態の解明が注目されます。

1週間の期(学年)末試験が終わりました。やはり試験はそれなりに集中しますし、教室を出て2-3分で、あ!?間違えたと気づくことはしっかり覚えるでしょう。また、研究に向かえるウキウキ感もあります。さて、

インドネシアは、香港、オランダ、タイなどに次ぐ錦鯉の輸入国だそうで、アジアの楽園地区の伸びは大きいそうです。当地でも洋風ホテルのロビーとレストランの間に見つけて、へ~と思いました。水の流れは滝風で、そしてやはり船があるのが此処らしい。それらを佳しと感ずるところが楽園らしく、また、我が国の心情に通ずるものと感じます。

鯉 船鯉

同じく、やはり目貫通りのレストラン喫茶は、ゴルフ用品販売などと併設された当地ではこじゃれた店です。そのインテリアは、壁にはアート写真、そして日本では考えられない万年前からのくり抜きの舟と農作業の笠・竹籠です。外では、子供のおもちゃですが、竹のバネを利用したスタビライザー付きのよくできた物運び(写真では小石)で、大型の実物は、グヌン・パダン遺跡造りにも使われたんだろうなと思わせられます。

農漁舟 竹橇

Frame-work of theory

カテゴリー: 最新情報,前線ルポ,English

Frame-work

Manusia-Modern

大学入学式

カテゴリー: こぼれ話

此処の入学式は、かなり晴れやかで業者による記念撮影場が準備され、花ゲートを入ると背景は蔵書に囲まれた書斎セットになっています。家族総出の人も多く、今日ばかりは、私の撮影もどうぞとなりますので、女性の服装などご覧ください。バンドゥンに集まる娘さんのレベルが高い、という世評も確かに事実です。

撮影場 入学1

入学2 入学

母の日

カテゴリー: こぼれ話

当地では、大抵のお母さんはクルドゥンを着用して外に出ますので控え目に見え、欧米人には女性が抑圧されていると見えるようです。家事育児をこなし、息子、孫の大学入学式ともなれば結婚とともに一世一代のハレの日で、長い間の苦労も報われましたねと傍目にも見えます。が、バス通り裏の決して豊かな暮らしではない長屋地区で伸び伸びとママさんバレーに興じ、楽しそうに応援しているお母さんたちの光景を目にしたとき、やはりアジアのお母さんは山の神だと感じ(私だけではないと思います)ました。お母さん、お疲れ様です、ありがとうございます。

 

入学母 ママバレー

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