現生人類が20万年前頃アフリカで誕生し、出北東アフリカにより紅海~アラビア半島南端~ホルムズ地域からユーラシアに達しました(10万年前頃?)。

その後、下図のように寒冷乾燥化の氷河期であったため海水面が数十m低下して陸地が拡がった沿岸地域をゆっくり(7.4万年前頃のスマトラ島トバの大噴火で人口激減、回復しつつ)生活の場と人口を拡大しながら進み、4万年前頃、日本の九州に達したとみられています。

当時拡がっていた東アジア平野までは沿岸ルートと内陸ルートがあります。アフリカ出身の人たちの気候への適応、移動及び食料安定獲得の容易性、安全性などから沿岸ルートの可能性が高いとみられています。

東アジア平野から日本へは、海浜地域での生活に慣れ操舟力と海に関する知見に優れた部族が舟で海を渡って来ました。平野北部から北部九州への渡海ルートと平野南部から南西諸島を北上して南九州に達したルートが考えられます。

当時の東アジア平野沿岸部の暮らしを考えますと、北部と南部で暮らしぶりに大きな差があったとは考えられませんので、九州のいずれの地域であっても渡来してその後北上して行った始まりの人々(日本祖人)は一様性あるものでしたでしょう。

沿岸ルートでは、パンカル半島Sundalandが、その広さ、長い海岸線と多い河川、今より気温が3-5℃くらい低い過ごし易さと豊かな動植物食料などから多くの人々の文化が育まれたでしょうし、更に豪にまで進出していったことからも注目されます。

そこの遺跡・遺物については、前回お伝えしたとおりです。

広大な地域を生活の場としており、いわゆる石器人の狩猟採集の暮らしというよりは水産物の比重が高く、外洋魚も含まれてますので操舟力はもとより網・釣り針を使うに至っていたとも考えられ、また、洞窟絵や素朴な土偶作りなどから精神的な成熟も見られます。

人類は既に言語によるコミュニケーション力が高まっていましたし、竹・木及び石器等による道具の製作などが行われ、Sundalandから豪Sahur Landにまで渡っていますが、下図の点線のように動植物様相を異にする地域に適応しつつ、時に数十kmを舟で渡っています。

これらの状況を見ますと、かなり進んだ海の民が海浜地域を北上して東アジア平野に達していたことが窺がわれます。

なお、その後、3万数千年を経た三国志・日巫子の時代にあっても当時やって来た海の民の子孫が、内陸系の魏呉蜀の激しい争いの外側で、狭められた半島や沿岸地域、島々で暮らしを続けていた様子が窺がえます。

他方、4万年前頃に九州に渡来した日本祖人が、下図のとおり伊豆の南海上の神津島に黒曜石を取りに舟で渡っていて研究者を驚かせていますが、パンカル地域の遺跡や豪への進出などを考えますと無理なく理解できます。

(神津島への渡海)

そしてこの黒曜石が、関東及び伊豆地方など広域で交易されていたことから、日本祖人の進んだ社会性も窺がえるものとなっています。

それでは、九州に渡来してからはどうかと見ますと、太平洋岸地域と日本海側に残った旧石器時代の当該時期の遺跡の状況は下図のとおりです。

誠に残念ながら、姶良大噴火の影響から見え難いところがありますが、両正面とも同じような速度で沿岸を北に進出して行っている状況が分かります。

そして、太平洋岸沿いは北海道にまで達し、また、関東から日本海側などや中国山地など、沿岸のみならず高地川傍にまで広域に進出している適応・活動力が窺がえます。

このように、東南アジアのパンカル地域から日本列島の北海道にまで沿岸地域を、また、川傍の内陸高地にまで着実に現生人類が進出している状況が分かります。

そして、この長い進出展開に特に黒潮が大きな影響を及ぼしていることと思われます。無ければあるいは逆流であれば歩みの速度が変わり、内陸の人々の流入による混合なども違ったものとなったでしょうし、その後の国柄にも影響したかもしれません。

そして、この後にいろいろな人たちが西、南、北から入ってきて中で混じり合い日本人が形成されますが、ある時期に大量の人たちが短期に入って来て日本人の組成に大影響を与えたという部族の痕跡はないそうで、長い間の部族ごとの違いがあるサラダボールのやがて坩堝ということでしょう。

さて、こういう状況から我が国に先住民族と言える人びとはいたでしょうか? 後に樺太の方から南下してきた人たちの子孫であれば先住ではないですし、北上していった人たちの中のグループの一つであれば、そういう中の争いであって先住民族問題ではないでしょう。

長~い歴史ある島国とはそういう性格のものでしょう。

ところで、

当時からは海水面が数十m上昇しているため、海浜の遺跡・遺物は海中ですし、万年の時は鉄をも融かすと言われていますので生活痕跡を知り得る多くの物の発見は困難です。

しかし、見つかっている遺物などから、旧石器人に分類される日本祖人は、これまで考えられていたよりも進んでいたであろうことが窺がわれ、特に、東南アジアのパンカル地域、北上途上の他の地域と関連付け乍ら研究する重要性に思い至ります。

更に、東南アジアのパンカル地域が日本祖人の、いや、我々の遠~い父祖の地であることを感じます。

(了)

 

 

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パンカル地域と日本の関わりにつきまして、巡り来る暑い夏ですので現代史に飛びましてスカルノ碑を紹介します。

今回、インドネシアの若いジャーナリストWenri Wanhar(ジャカルタのスカルノ大卒、雑誌「歴史」記者)が、碑に光を当てインドネシアの独立における日本人の活躍と寄与を掘り起こし出版しました。標題は、日本の情報活動の軌跡というものです。

本の話の中心は、大東亜戦争でインドネシアに進駐した日本軍の海軍武官府の活動であり、インドネシア独立宣言に至る関連と独立闘争の物心両面の支援です。

彼は、スカルノ碑から話をはじめていますが、それは東京の真ん中、江戸市中を見下ろせる、曲垣平九郎が見事馬で石段を駆け上がって全国にその名を轟かせたという逸話があり、愛宕神社、NHK記念館のある愛宕山の上り口で青松寺に接する植垣の中にひっそりとあります。

(以下、写真はJejak Intel Jepang、wikipediaから)

 

碑は、諸般の事情からスカルノ(これで姓名)とだけ書かれ肩書がありません。碑文の拙訳は、市来龍夫君と吉住留五郎君へ(あなた方が寄与したインドネシアの)独立は一(インドネシア)民族の(ための)ものならず、全人類のものなり(なんですよ!)1958年2月15日東京にてスカルノ というものです。

肩書の無いことが、かえって人間から人間に贈られた心の碑文と感じます。人類20万年史の十大ニュースに入る戦後のアジア・アフリカの植民地解放・独立。長く困難な独立達成における日本人・軍の物心両面の寄与を身に染みて知り、バンドンでのAA会議を主導したスカルノ大統領ならではの表白碑文です。

スカルノ大統領によって手書きされた碑文は、国章の入ったインドネシア大統領の用箋に書かれ、碑の樹立に奔走した西嶋重忠氏に渡されたもので、同じく手書きの独立宣言と違って全く修正のないものです。

なお、碑文の裏面には、インドネシア勤務歴ある作家の富沢有為男氏(冨澤元陸幕長の父)が両名の在イ歴等について記しています。

市来、吉住両名とも海外雄飛で戦前にインドネシアに渡航して職に就き言葉を身に付け、共に商業新聞で勤務して日本の国策、現地の民族主義運動等を理解し、嘱託として日本軍に関わっていきました。

市来龍夫は、熊本人吉出身、日本進駐後に創設された郷土防衛軍PETAで歩兵操典を翻訳しつつ訓練生を指導し、戦後はアブドゥル・ラフマン名で闘争の現場に身を投じて敵の銃弾により戦死した英雄戦士です。

他方、吉住留五郎は、山形鶴岡出身、海軍武官府嘱託でジャカルタ本部員として活躍したことから本でかなりの頁が割かれています。

渡航間にスパイ容疑で蘭軍に逮捕され拷問を受けた豪刑務所での収監病歴、闘争闘士への車両通信機等の物的な支援、憲兵隊に目を付けられているスカルノ等の闘士たちを守りながら草案の起草及び宣言の実施へと進めた支援、進駐する連合軍に渡すべき日本軍の武器等を基地隊長と闘争勢力の間に立って引き渡しのお膳立ての交渉に尽力するなど裏面史での活躍がよく描かれています。

その後、アリフ名でインドネシア独立軍に参加、東部ジャワの山中で病死しました。

 

吉住留五郎                     市来龍夫

戦後のインドネシアの独立闘争には、約千名にのぼる日本軍人等が身を賭して関わったと言われていますので、碑に記された両名はその代表と言ってよいでしょう。

戦後のアジア・アフリカの植民地からの解放と独立は、人類史に特筆される出来事ですが、中でもアジア・アフリカ会議を主導したインドネシアの血を流した困難な独立闘争と達成は際立っており、それに対する日本人の寄与は高く評価されてよいものです。

本件、欧米には愉快な事でなく現下の日本には重要な協調相手ですし、インドネシアにとっては自らの活躍による達成であることから、注目されない事情は理解できますが、静かに小さくとも日本人は語り伝えるべき事です。

碑は、愛宕山のNHK記念館の足元にある日本、アジア、世界史の正に第1級の歴史資料で灯台下暗しです。スペシャルやクローズアップ現代してほしいですし、池上 彰の子供解説もしてもらいたいものです。

他方、インドネシアの独立は、終戦2年前に日本軍によって創設され教育訓練された郷土防衛軍PETAの要員の活躍が中核でした。歩兵操典・軍人勅諭をもとに日本軍人教官に育てられた幹部が終戦時には3万数千人の勢力にまで発展させていました。

PETAと地域の若者、インドネシア名に変えて戦いに身を投じたいわゆる残留日本軍人たちが、戻って来て再び植民地を復活させようとした蘭正規軍に対し立ち上がって闘争しました。独立宣言後、4年5ヶ月にわたる戦争で80万人と言われる犠牲によって困難な独立が達成されました。

 

この独立からスカルノ大統領は、その後のアジア・アフリカ会議(1955年)を主導し、バンドン精神・平和十原則が高らかに謳い上げられました。尤も、現在の南・東シナ海での緊張のように、まさか平和宣言した仲間が大きな問題になるなど当時は全く想像もできなかった時の流れですが。

スカルノ碑は、ジュウグンイアンフ、ロウムシャをテーマとする日本の教授が採り上げることも教科書に載ることもなく、不都合な真実であるかのように佇んでいます。戦後、いまだ終わらずです。

 (了)

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東ジャワの州都スラバヤでAndi遺跡文化保護局長さんからお聞きし、スラバヤ西南モジョケルトからプナングンガン山麓へ上がって訪れたジョロツンドJolotundo遺跡ですが、出かけたのは訳がありますと前回お伝えしました。

Jolotundo遺跡の基本構造は、プナングンガン山麓を切り開いて造られており、背後の山岩壁の前に階段を上がると本殿・奥の祠が見えます。階段を上がった所は、広い水平の池で平面テラスとなっています。

東ジャワには、かって多くの古い山麓神社があり、その様式はPunden berundak崇められている雛壇式墓場、古代廟、村人が誓いを立てる所などと呼ばれるものです。地域の人々の語り伝えをJohn Miksicが図にしたものが下図であり、高校の歴史教科書にも載っています。

私が気づく特徴は、例えば番号を振ったようなものです。

今回訪れたJolotundo遺跡は、この東ジャワ伝統の古い山麓神社の基本的な構造を踏襲してヒンドゥー教様式で造られているとみられます。

 

人類の百貨店の当地では、古い聖地に新たに何度も宗教的な施設が造られている例は多々あります。また、今回は東ジャワを見ましたが、かっては西ジャワ、いやスマトラ島などにも在ったかも知れません。

さて、

エジプトの先史建造物は世界に誇るピラミッド群ですが、そこに最初で最後の女性のファラオ、ハトシェプストの造った葬祭殿があります。

ハトシェプストの数奇な運命は、治世が終わるとその栄光の事績を描いた数々のものが削り取られ抹消されるという正にドラマでした。

そのミイラは発見されず、彼女のナースであったミイラの傍らにボロ雑巾のようになって転がっているミイラ、専門のエジプト学者たちも全く気付かなったそれが女王なのではないのかという話があるくらいです。

 「ハトシェプスト」の画像検索結果

(wikipedia)                                                           (ameblo)

他の男性ファラオたちとは異なり、女性なるがゆえにピラミッドは造れず代わりに後世の人々をして豪壮比類なきといわしめる葬祭殿を、ルクソール西岸の断崖を背に造りました。

(nabe-scm.com)

問題は、そのハトシェプストの葬祭殿と東ジャワのJolotundo遺跡に至る古い山麓神社の基本的な構造が類似ではないかというものです。単なる歴シニアの私の意見です。番号を振った所などが同様と思います。

先生方に聞けば、ハトシェプストのは紀元前15世紀半ば、Jolotundo遺跡は紀元997年で、古い山麓神社は、紀元前後だろうかはっきりしないということになります。そもそも似てないと言われる先生もいるでしょう。

私が注目しますのは、①東ジャワの村人たちがハトシェプストの葬祭殿を知り、かつ、真似をしたとは思えないこと。②一部のエジプト専門家が、ハトシェプストの比類なき葬祭殿は、エジプトの風土から生まれたとはとても思えない、他所から導入したものではないかと言っていること。にあります。

エジプトのファラオたちが大航海によって、神の地・宝物の地のPuntから金、香辛料、木、動物など沢山の貴重な宝物を得ていたことはヒエログリフの壁画に描かれ史実として認識されていますが、Puntの場所については東部エチオピアなど諸説あり不明です。

そして、ハトシェプスト女王が、このPunt大遠征により神に捧げる沢山の貴重な品々を得たことは、今も詳しく壁画等に残っています。

私は、その得た品物の種類・特色と海の民フェニキアの研究を経て、PuntはパンカルPangkal地域と考えています(本サイト―フェニキア項)ので、ハトシェプスト女王が葬祭殿の元になるデザインをも得ていたとしても驚きません。

むしろ、一部のエジプト専門家が、葬祭殿のデザインは何処か外からもたらされたと言うならば、それはパンカル地域しかないだろうと考えています。

 

実にロマン溢れる驚きの大ミステリーであり、引き続き追っかけて参ります。

(了)

 

 

 

 

 

 

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前回お伝えした東ジャワの州都スラバヤ西南モジョケルトからプナングンガン山麓へ上がったジョロツンドJolotundo遺跡ですが、出かけたのは訳があります。

それは、東ジャワに昔あったという神社について、人々の言い伝えをもとに描かれた図があります。今は無いにしてもそこを一度この目で見てみたいというものです。

Andi歴史文化保護局長さんに会ってその話をしたところ、東ジャワには同様の遺跡が多くあり、スラバヤからの近さ、行き易さからジョロツンドがいいだろうというアドヴァイスをいただき出かけました。バス、ミニバスを乗り継ぎ最後は、バイクタクシーで上っていきました。

正面の左右から階段で上ることができ、上がった裏側に祠があり、お参りする人もいることは既にお伝えしたとおりです。

問題は、遺跡の場所の選定と全体の造りであるその基本構造ですが、この遺跡は①山麓斜面を切り開いたもので、②遺跡の背後は壁のようであり自然の立派な大岩が数個あり、③前面に開けた本殿施設があります。

大岩の大切さは、バリからの一行の老師が、足の弱さにも拘わらず惹かれて皆が行かない所に上がっていっていることがそれをよく示しています。

そして、正面の堂々とした本殿前には広い池が平面テラスのように、また、中央と側方の階段も特徴です。正面右手の大木は、明らかに日本ならご神木です(ここでは、お参りのご一行が特に関心を示す様子は見られませんでしたが)。

そして、私が強く惹かれ見に行きたいものだと考えた図は下のようなもので、巨石構造物の1種であるPunden berundak(崇められている雛壇式墓場、古代廟)としてインドネシアの伝統遺産紹介本、高校歴史教科書にも掲載されています。

個々の単語の意味は、辞書では次の通りです。

Punden・・・始祖の墳墓、聖なる場所、村民が誓いを立てる場所

berundak・・・階段状の、広い段々になった  sawah(田) berundak・・・棚田

山麓斜面を切り開き、広い平坦なテラスとそこに至る中央及び側方の階段を有し、背後に屏風のように感じられる壁とテラス上の施設に加え奥にも小さな施設があります。

さて、最初に紹介した東ジャワ各地に同種の施設があるジョロツンド遺跡とこの古代廟をあらためて比べてじっくりご覧ください。このページですと小さくなって分かりにくいのが残念ですが。

 

私には、場所の選定、造りの基本が同じように見えます。時代は、左のJolotundo遺跡が千年前頃、右は、2-3千年前頃と考えられていますがよく分かりません。

そして、その時代よりもずっと前にこの図の更に元となる原始的な施設が在ったかもしれないと思わせるところが此処、人類の百貨店です。

此処、人類の百貨店では、古代のアニミズムから仏教・ヒンドゥー教、そしてイスラム教(キリスト教も)が時代を異にして入ってきていますが、昔からの聖地が生かされて新たな施設がそこに造られている例は多いです。

そして、これらの場所、基本構造が類似なものであると認識しますと、実は驚きの大変不思議なことに導かれていきます。次回をお楽しみに。

(了)

 

号外

カテゴリー: 前線ルポ,最新情報,遺跡

日本を語り前へ進める力ある候補を、良識の府へ!!

4万年前頃、列島に入り拡がった「海の民」日本祖人、そして縄文人・弥生人へ、始まりの祖先の地であるパンカル半島の遺跡や環太平洋の古くからの人の繫がりの史的研究への支援・協力を力強く前へ進める、世界を視野のCool Japan 候補に1票を!!(史的な語彙・見解は、筆者責。)

(了)

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東ジャワには、古くからの聖地にその後ヒンドゥー教の施設があちこちに建設されており、興味深いものがあるため、独立闘争の聖地である大都市スラバヤの見学と併せてそれ程遠くない所を訪ねてみようということで出かけました。

スラバヤ西南の1-2時間で行ける町モジョケルト、そこに高名を聞いていたAndi Soid文化保護局長さんがおられるのでコンタクトし、アルジュン山と並ぶプナングンガン山麓などにもある遺跡についてアドヴァイスを求めるべく連絡しました。

丁度スラバヤ市街に業務で出てこられていたAndi局長さんとお会いでき、プナングンガン山麓のJolotundo遺跡が近いし適当で良いとのアドヴァイスをいただきました。

バス1.5時間、乗り合いミニバス1時間を乗り継いで最後はバイクタクシー・オジェに乗って遺跡に向かいました約30分。途中アルジュン山・プナングンガン山がよく見え、御殿場から須走口に向かうような景色を楽しみながら行きました。

Jolotundo遺跡の入口                         Andi文化保護局BPCB長

遺跡の前には休憩・土産店もあり、聖なる地とみているイスラム教徒訪問者の祈りの場所ムショーラもあります。入口を入って進んで90度左に向きを換えると遺跡に正対します。正面の階段を上がって本殿遺跡になります。

日本でも人気の隣のバリ島から、白装束の人たちがこの聖地にお参りに来ています。時々皆さんでバスを仕立てて来ているとのことです。千年前(AD997)に建てられた山麓の丈の高い木々に囲まれた静かな寺院です。

此処は水が豊富であり、イスラム教徒を見慣れた私には馴染みがないですが、若さ維持の効能の聖水を有難く思う人たちにとっては素晴らしい所で水を浴びています(世界第3位とか)。

昔は水口が52あったとかで、大池と別に今も左右に沐浴できる小施設があります。男性はかなりの程度脱衣していますし、女性も衣服の濡れを全く気にしていません。(皆さんお参りの後、着替えています。)

ここで祈りの一夜を過ごす人もいるそうです。

そして私には印象深いのですが、この背景に実に立派な天然の岩が自然のまま沢山あります。ここが選ばれた一つの理由と考えています。

下の写真で若い人が無心にお祈りしていますが、上方を見てください、白装束の一行のリーダーがお歳で足も少し不自由なのにわざわざ背景の岩群に惹かれて登って行き鎮座しています。

若い人たちは行きませんが、明らかに(私と同じように)この岩群をも有難いものとして意識しています。日本の磐座に通ずるものがあると感じます。

そして正面からは見えませんが、本殿中央の上の裏奥に小さな祠のようないわば奥の院があります。

こちらは多くの人が正面横の階段を上がって行って見ており、お参りする人もいてお花や供物などが見られます。

当国はイスラム教の国と思われていますが、遺跡だけでなくこのように現在も種々の信仰、伝統文化がそれぞれを尊重しながら生きています、多様性の中の統一。

左手から登っていける山頂の方にはお墓も多いそうで、此処は明らかに当国各地で見られる万年の古い山岳信仰が受け継がれてきています。

(了)

 

 

 

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私がそういう目で見てしまうことも一因ですが、パンカル地域では万年の伝統を感じることが多いです。

休日朝に子供たちが清掃活動をしていることを見ますが、ちょっとした道路や橋の修復など公共のために助け合う、gotong -royongの精神が強調されています。

歴史教科書の先史大昔の項の記述でも、人々は既に助け合っていたとの記述になっていますが、学術的にも現生人類の類人猿との大きな違いはコミュニケーションとこの助け合いにあったことが裏付けられています。(下写真の格好はちょっと現代的なハイカラですが)

更によく見ますと、先取りした今の男女共同参画にもなっています。

旅しましたスラウェシ島のマカッサルの港町の像ですが、どこかの国のように空しいエライさんの像ではなく、伝統衣装を纏った父母、男女ペアの像で女性が前の、日本にまで共通する天照大神、日巫子の昔の伝統の母系社会を感じます。

そして、万年の遺物が残らないため注目されませんが、おそらくいろいろ活用されていたであろうと思われますのが、木と竹製品です。

隣の市のGarutの湖には、日本同様に足で漕ぐおもちゃ舟がありますが、ここでは万年の筏舟もあるところが正に人類史の百貨店です。

そして、日本に至るまで竹製品を佳しと感じ、生活のための素晴らしい芸術作品が生まれているところも正に伝統継承の技とらしさです。

実はこれらは、内陸で石器・金属を多用し寒冷降雪の地で大型哺乳動物を狩猟して切り裂き食していた人たちとの大きな違いの一つでしょう。

生活ぶりや気性も含め、現代があらためて注目すべき木や竹を多用した寒さのない地で魚介獲りする海・舟の民の特質をよく示すものであると考えています。私たちが忘れてしまった多様な魚獲りの木・竹製品も沢山あります。

(了)

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従来から下図のパンカル地域東端の豪アボリジニやパプアの人たちとインドの南部やアンダマン諸島の人たちのDNAが近い古いものであることは知られています。

現生人類が、アフリカを出て10万年前頃からユーラシア東南端を移り住みながらパンカル地域に至ったと考えられていますので、その時代の地域の人々は同類であったことはよく理解できます。

定説では、その後北上し2万年前頃には北端のベーリング地峡を越えて北米大陸に入り、南米に入ってからは千年くらいという短さで南端まで至り拡がったと考えられていました。

それに対し、パンカル地域を発し、2万年前よりももっと古い時代から環太平洋を海浜を歩き舟を使用し、アメリカ大陸に渡り南米に達したという現生人類の展開の様相を唱えるのがRLPP自説です。

(第1図)

ハーヴァード医科大が、南米アマゾンの3部族の示すDNAは、北米大陸には見つからずパンカル地域に残っている豪アボリジニ等と近い古いものであると発表しました。

直路の太平洋横断の移住が全く新しいせいぜい4-3千年前以降のことですので、これまで等閑に付されてきたアメリカ大陸での諸事象を総合して考察し北回りのRLPPルート説が出る訳です。

そして重要なことは、ベーリング地峡を越えて北米大陸に入って行った人とは異なり、寒冷降雪地に適応したDNAの変化をしていない言わば元のままの人たちが南米に至っているという不思議な、驚くべき内容であることです。

さて今回、インドネシア南スラウェシのマカッサル地域を旅し、有名なマロス洞窟で手型・動物絵を見ましたが、その約30km北のパンケッPangkep洞窟で下の写真のような素朴な舟も見ました。

洞窟に住み毛皮をまとい、石器を使用して動物を狩猟する石器人のイメージと舟の取り合わせはやはり珍しいものです。

しかし、人と舟の取り合わせは舟が万年の遺物として残らないだけに歴史上等閑に付されてきたのだと思います。そして、洞窟で生活していた石器人であっても食の主体は貝であったということも確認しました。

やはり海辺、川辺が初期人類の生活の地であったことを実感します。更に、下の写真のように洞窟に暮らしながら複数人が乗って艪で漕いでいる舟には帆があります。これまで考えられているよりも舟との関わりは深く、かつ、造舟、行動力は進んでいたのでしょう。

今でも見られる当地の家は、山間に居住する種族でありながら明らかに舟との強い結びつきのある暮らしをした伝統を伝える人たちであることを窺がわせます。

パンカル地域から北上した人類の展開を考えますと、海浜を、舟も使用して移住、行動していたことを思わせますが、3世紀半ばの「やまたい国」の日巫子の時代であってもその痕跡は残っていたことが分かります。

内陸で寒冷降雪地への適応を遂げていたであろう魏・呉・蜀の人たちの争う三国志の時代にあって異質な人々が沿岸部に赤円のように残っていますが、パンカル地域から初期に北上した人たちの末裔であろうと考えられます。

倭の国も、魏志倭人伝では入れ墨し海に潜る者として明らかに異質な者たちとしての存在が記されていて、パンカル地域から北上した人たちの末裔の存在を窺がわせます。

そもそも3万2千年前頃という古い時代に、伊豆半島南方の神津島に渡航して黒曜石を発見し、繰り返し渡って交易に活用されていたことも明らかになっています。

その黒曜石の交易は、離島を含め私たちが考える以上に広域で活発な行動力があったことを示しており、北海道白滝の物は、沿海州にまで及んでいます。

これらのことから、3万数千年という古い時代に遡っても当時の人たちは海を恒常的に越えて活動しうる舟を造り操れる行動力のあったことが分かります。正に、基本的には海の民であったのです。

そして、最近の調査で北米大陸西岸で発見された9千年前のケネウィック人骨が、ベーリング地峡越えの人たちと違うアリューシャン列島の方のルートで渡米した者とみられるという調査結果が発表されました。

今や、南米に至ったか否かが問題ではなく、アリューシャン列島の島々を伝って北米に達したのか(今後の石器遺物の発見に期待)、それとも渡り鳥を見ていて陸地の存在を予想し短期間に海流に乗って渡洋して北米に達したのかが注目されます。

これまで全く学界がまともに相手してきていない時計回り馬蹄型の環太平洋ルートは、人類展開史上の重要問題として総合的な地域研究が期待されます。

(了)

 

 

 

 

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前回は、ヒトと水の深い関連について考えました。

アフリカでヒトは、気候変動で森の食料が減ったためそこを出て重要な水が得られる所でそこの食物にも対応していった、また、天敵であるヒョウやライオンなどのネコ科動物は水が苦手なので、水中は逃げ場所にもなり水辺は安心できる棲み処であったのではないか、などがヒトの体にも進化をもたらしたものと考えます。

火、簡単な道具と言葉コミュニケーションを獲得したヒトは、それらをもって水、食、安全が得やすく確保される生活が当時の基本です。そして、湖・川の水辺からやがて海水域へ適応していくのはそう難しいことではないでしょう。

この水辺という食べる食品と棲み処の幅の広さの適応性(当初は寒冷降雪地を除く。)が、氷河・乾燥期の海水面が低下し移動しやすい安全な海浜が拡がった地域において人口を増やしながら、海浜のマングローブという生き物が豊富な地形の特色へ適応しつつ、まずは東南方世界に早く進出して行けた理由でしょう。

 

従って、人類史初期の営みは海浜・川辺にあったと考えていますが、当時からは海水面が130mも上昇していますので痕跡の発見が極めて困難で、石以外の木、竹といった重要な生活の遺物は万年の時の長さに堪えません。

陸上で発見された遺跡・遺物を主にした現在の歴史記述となっていることは理解できますが、その偏重には疑念があります。

当地に住んで訪問した土地や種々の資料から、人類史初期の営みが海浜・川辺にあったことを私は「歴シニア」として確信しています。

今回、南スラウェシ・マカッサル、東ジャワ・スラバヤ地域を行動しましたが、スラバヤの独立闘争記念塔博物館の壁画で此処の人たちが普通にイメージする伝統の暮らしの基本が正に海浜・川辺にあることに感じ入りました。

万年前から続いたマカッサル北のマロス洞窟では、洞窟暮らしであっても魚介類や舟と密接な海の民の暮らしでした。

勿論、マカッサル地域で発見される石器は動物を狩猟し食していたことも示していますが、マロスの当時の海浜(現遺跡公園)、海岸崖の地形、貝塚群は明らかに魚介類が主たる食であったことを示しています。

 

パンカル半島から、ユーラシア大陸東岸地域、比・台湾・日本などの石器人の暮らしを欧州のように”狩猟・採集”と表現するのは誤解を招くと考えています。私は、水産物(川を含む)を得ることを漁撈というのであれば、漁撈及び狩猟採集の暮らしとすべきと考えます。

このことは、その後の歴史を考える上でも重要であり、この漁撈を主に暮らした人々とユーラシア内陸で狩猟を主に暮らした人々とではその後大きく違った発展の道筋をたどり、両者を対比して捉えることが歴史理解をより適切にし、また、寒冷降雪地への適応を遂げたかどうかの区分も重要な尺度であると考えています。

その後の歴史は、狩猟を主に寒冷降雪地への適応を遂げた戦いに強い、広域での行動力のある種族がリードするところとなりました。(農耕と牧畜という区分も重要です。)

そして、現代の繁栄をもたらしたと言えますが、地球環境の悪化、争いや貧富の差などの諸問題も副産物としてあります。従って今の時代、人類初期の(結果として)自然と調和し漁撈を主にした海浜・川辺の暮らし方に参考とすべき点があり、まずは概念としてしっかり認識する必要があると考えています。

それは、4万年前頃、列島に移り住んできた日本祖人から縄文期の人たちの暮らし、私たち日本人の原点を考える上で重要なことであるからです。

2万年前頃には、特に北方から狩猟を主とし寒冷降雪地への適応を果たした人たちが多数入ってきていますが、先住者の海浜・川辺での暮らしぶりの影響を受けたと思われますし。

また、1万年前頃の新宿、市ヶ谷で暮らした縄文人は、成人男性が狩猟を行った食の主体は海浜・川辺の暮らしぶりのようにみられます。

この老若男女の役割の違いを踏まえた時代ごとの食の主体、暮らしのイメージ化も重要で、今や先史研究において単なる狩猟採集とするのでは表現が荒いでしょう。

(了)

 

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海の民フェニキアFhoeniciaをずっと追ってきましたが、史上あまり採り上げられないのは遺跡・遺物が陸上主体にならざるを得ないこと、フェニキアがギリシャ、ローマに敗れたことで、歴史の研究・記述をリードしている欧米の人たちの関心が今一つであったのはないかと感じていることが根底にあります。

一時は東西の交易の中心として栄華を誇ったエジプト・アレキサンドリアAlexandria、その知の宝庫であった図書館にはフェニキアに関する記述が豊富にあったと言われていますが、失われているのは誠に残念です。

そして、そもそも人類史初期の営みは海浜・川岸にあったと考えていますが、当時からは海水面が130mも上昇していますので発見が極めて困難なため、陸上遺跡・遺物を主にした歴史の偏重に対する疑念があります。

(現在、仮に海水面が130m上昇しますと世界の主要な都市は殆ど海没し、日本でも主要な都市は長野、甲府、山形などに残る程度になります。)

また、石以外の木、竹といった重要な生活の遺物はそもそも鉄をも溶かすと言われる万年の時の長さに堪えませんので、実証という点で現状がやむを得ないという理解はできますが。

更にもう1点、歴史の記述が発見され実証されたことだけで記述することが本当に真実に迫っているのかという全く別の疑念があります。

その疑念は、当地に来て有名なジャワ原人Jawa manに会いに行き、益々強まりました。

見てください、彼らは所在なげに裸で立っています。実証される物が有りませんのでこうなります。但し、重要な実証は彼らが洞窟ではなく川岸の平地で生活していたことです。

虎なども居た地で百万年前に遡ろうかという原人でさえ、川岸の平地で暮らしていました。当時は分かりませんが、私が訪れた中ジャワ・ソロの夜は涼しい快適なものでしたが、所在なげに立っているような暮らしでなかっただろうことは想像できます。

つまり、発見された物を主に歴史を描くことは着実、真実そうでその実、真実を描いてはいないということです。人里離れた洞窟に遺物が残り実証できるのは理解できますが、数に限りある洞窟暮らしkehidupan dalam goaは、現生人類初期の暮らしを考える場合、その主体ではなかったであろうということです。

従って、人類史の主体を描く場合、実証に依拠するに努めつつももっと緩やかに想像力を働かせて”筈だろう”という諸説を展開すべきであると考えます。実証を積み重ねた定説がしばしば大きく覆るのが人類史ですから。

つまり、実験物理学と理論物理学の例でいえば、もっと理論(歴史考古)学とでも呼ぶべき分野がおおらかに充実してよいと思うのです。

さて、十万年前頃にアフリカを出てkeluar dari Afrikaユーラシアに達した現生人類の部族は、火と石器を扱い協力のコミュニケーション力もあったことから、ここへきて感じますがもっと赤子、幼児を加え年寄りもいたでしょう。学術的には「バンド」と呼ばれる小部族として。

 wikipedia紅海イエメン側

現在、出アフリカの成功バンドは、海水面が数十mは低下していた状況で、アフリカ東北―紅海―イエメン―アラビア半島南側―ペルシア湾―ユーラシア到達と考えられています。

それは、環境に適応し得た運の良いバンドが拡大していったことでもあります。スエズ運河正面のように出アフリカし得てもやがて消えたバンドも無数にあったであろう上でのことです。

この成功バンドは、狭まっていたとはいえともかく紅海を渡り越えてイエメンYemenに達しています。ここで私のアフリカ勤務体験に基づく歴シニアの実感なんですが、この紅海越えは、注目してよい大変重要なことと思います。

それは、700万年前頃に最後の枝分かれをしたサル・チンパンジーと決定的に違う特性だからです。アフリカ西部アンゴラの浜辺の食堂で食事をしていたとき、広い海辺で2人の少年が竿を持って海の中で遊んでいるのを見て人とサルの違いを強く感じました。

紅海越えのバンドは、その後の数的な拡大を考えれば、何かに追われ迫られ海に逃げ込んでいったわけでは有りません。

筏を使ったにしてもこの海に乗り出していくという行動は画期的ですが、考えたいのはその行動の前に助走、即ちバンドの皆が海の水を厭わない慣れがあったことです。

さて、下の人類の進化図evolusiを見ました時に、200,000年前頃、火を自在に扱えるmengunakan apiようになってから今の我々に継がります現生人類asal manusia modernがアフリカで誕生し、100,000年前頃には海を越えユーラシアに渡りmenyebarang ke Eurasia、そして、50,000BP年前頃のコミュニケーション力、40,000BP年前頃からの芸術的創造性の進化が特筆されます。

しかし、この進化図には有りませんが、海を越えてユーラシアへ渡った人たちは、ライオンやトラなどはもとより、森のチンパンジーと全く違う、水を厭わず水産物をも食するという火の使用に匹敵する意義ある優れた水辺適応 の進化素地を上図のどこかで遂げていたのでは考えます。

こんな様子は、チンパンジーには考えられません。森や草原で生きる縛りから完全に解き放たれています。

この適応進化を遂げたのは、いつ頃、(アフリカの)何処で、何故か、は人類史の重要な問題と感じています。(そして、もう一つがその後の展開過程での寒冷降雪地適応 です。)

我々に繋がる人類史の始まりは海に乗り出したバンドから始まりますが、考えようによってはむしろ水産物をも食し海の出アフリカを果たせる進化を遂げた種族の出現を待っていたかのようです。そしてこのことが現生人類史の原点なのではないかと。

(了)

 

 

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さて、フェニキアに関連するギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobane – Taprobanaの話でしたが、インド洋を越えたパンカル半島の玄関口スマトラ島に至れば、あとはジャワ、ボルネオ、スラウェシ等の域内の宝物の入手は困難なことではありません。

スマトラ島北部の町バンダ・アチェは、暑い、敬虔なイスラム教徒の地、夕日が最後に沈む美しさなどで知られています。2004年の大津波で世界に知られる所となりました。

降り立った空港の建物がモスク風なことが、何処よりも最初にイスラム化した誇りを良く示しています。

問題は、そんなイスラム教徒の町の空港名に何故堂々とイスカンダル、ギリシャ・アレキサンダー大王の名が掲げられているかという不思議さです。

町では、市長選挙の立候補者の大看板を見てもIskandarという名の人で、実はこのアチェのみならず、スマトラ島に多くアレキサンダーとの関係が今も残っています。西ジャワのスンダ人の間にもあるそうですので広域に亘っています。

そして、どうしてそうなのかについていろいろな人に聞いても説明が返ってきません。いつ頃からのことなのかも分かりません。

歴史的には、アレキサンダー大王には息子はいなかったようなので、3番目の息子が東南アジアを任されて統治したという言い伝えは否定されています。

アレキサンダー大王に征服された貿易の民フェニキア人が、ギリシャ人と共に当地に来たのではないかという私案は結構賛同されますし、逆に当地からギリシャ等に行き結婚して系統に入ったことかもしれないという案も出ました。

フェニキア人が南印まで来たことは言及がありますが、パンカル地域となるとはっきりしません。金の岬、金の島スマトラに関する話を考えれば来ていた筈ですが。

そして、東スマトラのJambiなどではギリシャの大王宮のレプリカとしてのKandis王朝のDhamna王宮遺跡があり、近年の調査で境界塔柱や宮殿入口の洞窟などが発見されていますので、この関係は半端なものでは有りません。

他方、フェニキアがユダヤ・ソロモンSolomon王との関連で当地域に来たと思われるのが宝の地Ophirであり、マレーシアにはその名の山があり、西スマトラのTalamau山も以前はOphir山と言われていたそうです。

最近、豪で発見されたSarana遺跡、正にその名のSolomon諸島やスペイン人はフィリッピンかもしれないとして期待を持って足を伸ばしていますが、フェニキアが広域にわたる貿易等を展開していたとみられていることが窺がわれます。

その貿易活動の広域さから、アルファベットを生み出し広めたことも理解できます。

それでは彼らがどういう人たちかですが、近年のDNA調査により12,000年前頃以来、地中海東端で海に馴染んで生きてきた人たちのようです。

但し、イラク・シュメール語やエチオピア・ケーズ語とともに他の多数派アラブ・セム語とは異なったものがあるようです。この点で史家ヘロドトスが、フェニキア人は元々はエリトリアに居て移ってきた者たちといった話は興味深いです。

エリトリア地域であれば、紅海、エリトリア海、インド洋に親しんでおり、更にその前は東方から移ってきた民族であることも窺がわせますので、その後の歴史において東方における独壇場とも言える特異な活躍も理解できます。

フェニキアは、アルファベットを生み出したことに留まらない、先史における海路の東西交流の鍵を握る存在と思われ、「ずる賢い。」と評されたことが何よりもよくそのことを示している先史上の”補助線”集団だと思います。

フェニキアの東方における活動がさらに解明されれば、パンカル地域の様子ももっと明きらかになるだろうと期待されます。

(了)

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さて、フェニキアに関連するギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobane – Taprobanaの話です。

古来、地中海から紅海に抜ける海路があったとみられており、現在でもスエズ運河はパナマ運河とは異なり地中海と紅海の水位差のない海路です。今は、大型船が通れるように川幅、水深も拡張され船団が離合できるように施設も整っています。

アレキサンダー大王のころの以前から地域では、東方に宝の島があると言われ、金、銀、宝石や香り高く、『スパイスの王様』と呼ばれるシナモン、籐などがもたらされ、そこには多様な動物がおり、象も知られていました。

これらが、エジプト最盛期以来の紅海を経る航海貿易を独占していたフェニキア主導で行われていたものと考えられます。

昔の世界観は、大洋に囲まれて欧州、アジア、アフリカという3大陸地が存在しているというものでしたので、アレキサンダー大王は陸から東進しインドに進攻して、コロンブスは西へ航海して、いずれも「遠いインドの東」を目指しました。

地中海

 

ギリシアにおける遠い東の宝の島Taprobane―Taprobanaなどという名は、アレキサンダー大王の東方遠征におけるインドからの話であり、それはドラヴィダ族が伝えていた祖先の地あるいは地域の川の名とも言われています。

作成された下図は、プトレミーが聞いた話から中世になって描かれたものですが、多くの都市、川、部族、港など詳細にわたり、当初はそれはセイロン(スリランカ)だろうといわれてました。が、スリランカの周りにはプトレミーの描く沢山の小島は有りません。

昔からずっと話題にはなっていますが、それぞれが聞いた伝聞話なため、島の大きさについても全く異なっていて大きさはイギリスと同じくらいとも言われましたので、スリランカでは小さすぎます。その後、16世紀初頭のポルトガルが進出するころには、マラッカ海峡の南の現インドネシアのスマトラ島がそれとして描かれているといった具合です。

そういう中でスマトラで注目されるのが独自の伝統社会(母系、牛神聖視、出稼ぎ活躍等)を守っているミナンカボーと呼ばれる人たちと島最初(起元前)と言われるカンディス王国の宮殿遺跡です。

いずれも考古学的にはマレー半島から5-4,000年前頃にスマトラ半島に来た人たちで西側(中心はパダン)にミナンカボー、東側(中心はジャムビ)にカンディス王国、境界にはケリンチ山(3,805m)が聳えるという訳です。

谷一つ越えると風俗習慣が違うといわれるこの地に在って、マラッカ海峡を挟む両側の人々の今に残る共通性はマレー王がスマトラに王宮を設けた時代があったことを考慮しても驚くべきことです。

海峡が陸地であった万年にわたるパンカル半島の長い歴史の積み重ねを感じさせます。

両者が注目されるのは、アケドニア・ギリシアのアレキサンダー大王から東南アジアを託された3男Diraja王の末裔だと称し、特にカンディス王国の宮殿Dhamnaは、大王のいやアトランティスのレプリカだと言われている(Ahmad Samantho)ことです。

下図の硬貨のアレキサンダー大王の耳をご覧ください。ミナンカボーの人々が大切にするシンボルの神聖な牛になっています。

アレクサンドロス大王のコイン

アレクサンドロスの帝国(ネット 世界史講義録から)

歴史的に大王には息子たちはいなかったし唐突な話ということで注目されていませんが、ミナンカボーは、独立のNo.2ハッタ副大統領等の要人を今も輩出しています。

伝えられている話ではジャムビのDhamna宮殿は中国遠征軍(Sintong王)に滅ぼされましたが、近年の発掘(予算の関係で不十分)により、外堀・垣・入口・境界塔柱石などと思われる痕跡が確認されています。

私がこれらの言い伝えや遺跡に注目しますのは、アレキサンダー大王の支配下に入ったフェニキア(BC330年頃)が、エジプトと共にPunt遠征をした金、宝石、木材、香辛料等の宝の島スマトラに、大王子孫を語るギリシア勢力の者たちとも共に来て途切れることなく貿易を行っていた痕跡、証左と考えるからです。

インド洋を越えたパンカル半島の玄関口スマトラに至れば、あとはジャワ、ボルネオ、スラウェシ等の域内の宝物の入手は困難なことではありません。

次回は、そのフェニキアが更に足を伸ばして広域の貿易等を展開した話といたします。(小旅行で少し間が開きますが。)

以上

 

 

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(雨でネットが不調でしたのと小旅していましたので間があきました。)

さて前回は、フェニキアの地中海での活躍と概史をお伝えしました。

それに比し東方での活動は十分には解明されていません。一つには、船、修船所、港、小租界といったものが、内陸勢力の強い影響の中で数千年という時を経て残り難いことがあり、また、万年では海水面の上昇による消滅もあります。

更に、やはり遺跡発掘とそれを基礎とする歴史認識を主導してきた欧州勢の関心が、地中海地域に向かっていたことは否めません。

しかし、フェニキアのエジプト・ファラオとの関係やユダヤ・Solomon王との関係などは、古い時代からの東方との外洋貿易をはっきり示していますので、まずは紅海、そしてインド洋西北のあまり馴染のないアラビア海が注目されます。

当然、紅海地域・アデン湾は最初にフェニキア貿易が行われましたが, やがてモンスーン(南西、北東の季節風)を利用するインド亜大陸への航海貿易に発展し、文化・文明を伴う貿易ということでは、ペルシャ湾のイラク・メソポタミア、北方からの人の流入で知られるイラン・ペルシャそしてインド亜大陸地域となります。

特に、インド亜大陸地域では、近年新たな遺跡の発掘(Mehrgarh、グジュラート地域など)による発見が多く行われ、いわゆるインダス川流域のモヘンジョ・ダロに代表されるインダス文明という認識ではおさまらない広域にわたる文明の存在が明らかになってきています。

(第1図)

(現代の国名図)

また、これまで紹介しましたエジプト・ファラオ及びユダヤ・Solomon王に加え、ギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobaneの話もあり、古くはこの地域のセイロン(現スリランカ)だろうとして盛り上がりました。

紅海・アデン湾から外洋に出て陸地沿いに航行した場合、まずはペルシャ帝国を築き上げたイラン地域となります。

氷河期の最終氷期LGMが終わった1万数千年前頃から人々が定着したとみられ、海浜交流と共に上図の3方向からの人の流入があり、遺跡発掘の成果から一貫して断絶なく着実な遺物の進化が見られます。

8千年前頃には、既にかなり高度な農耕(麦)社会が形成されて都市の原型(練土―煉瓦、漆喰、図柄ある彩文土器等)も見られます。

西のイラク・メソポタミアの影響ある遺跡や東部では近年、4千年前頃の都市文化遺跡も発見されており、独自色あるエラム人による文化(5千年前頃から)がこの地域にはありました。

しかし、産出する物品やペルシャ帝国においても陸上行動力、今に残る高原都市などの方が目立つことから、「宝物の地」と比定したり東方への外洋航海貿易を主導したとは考え難いです。

次に、これまでの歴史認識では、メソポタミアからインダスへ、エジプトへというものですが、近年の特にインド亜大陸地域での発掘により、検討を迫られているように思われます。

特にフェニキアに注目すますと、南西及び北東の季節風モンスーンを利用する航海の容易性を考えれば早い時期からインド亜大陸との貿易が始まり、パンカル地域へも発展したことが考えられます。

メールガルMehrgarh遺跡は、モヘンジョ・ダロよりずっと古い9千年前に遡るこの地域で生まれた文化を示していることが、多くの遺物を発掘したフランスチームによって明らかになりました。

更に、時を経たその青銅器時代の状況はずっと南の第1図のInamgaon地域の遺跡の方が直系であるという驚きの研究成果です。

そもそも9千年前にメールガル以外にもインド亜大陸の河川・沿岸部に広く同様の人たちが定住して居たと考えられ、やがて発展して青銅器時代を迎えたのか、それともInamgaon地域に青銅器時代以前の定住遺跡が無いというならば、古メールガルの人たちがこの遠距離を移住していたとなりやはり航海に馴染んでいた人たちでしょう。

また、インダス川の東のサラスヴァタ川沿いは、涸れ川跡の衛星写真分析から遺跡の存在が浮かび上がり発掘したところ大変多くの遺跡が確認され、あの古代インドの聖典である リグ・ヴェーダの見直しともなっています。

他方、その南方グジュラート地域では海に近いロータル遺跡(インダス文明最盛期4600年~3800年頃に機能していた城塞・市街地)に加え、数千年前とみられる海底遺跡が発見され海浜地域の発展を実証する点が注目されます。

(第2図)

 

ロータル – Wikipedia

これらは、インダス川沿いの文明として括られるものでは無く、南インドの貴重な黒胡椒、金などの交易を基礎とする文明を浮かび上がらせるものです。

インドと括ってしまうことも適切でなく、新しい現主流派の北インドとは異なるより古い先史時代の南インドのドラヴィダ族タミルの独自性、重要性を示しており、西方ペルシア湾のメソポタミアとの貿易はもとよりフェニキアとの貿易をも窺がわせるに十分な魅力と遺跡状況です。

更に、まだまだ沿海に海底遺跡があるとも言われていますが、南北インドの政治的な問題を克服して研究が進捗することを期待しています。ドラヴィダ・タミルは、世界最古の言語を話し近縁が見つからない日本語と最も近いとも言われておりその先史は特に我々にとって注目されます。

以上、従来は遺跡・文明に関しては発見容易な陸上勢力のものが主でその興亡が注目され史観が形成されてきましたが、今回述べましたように逐次発掘が進んで明らかになってきた河川沿いや沿海の航海貿易の勢力の動きにも注目する必要があるでしょう。

次に、フェニキアに関連するギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobane – Taprobanaの話ですが、次回、お伝えすることといたします。

因みに欧米では、それはセイロン(スリランカ)だろうといわれてますが、スリランカの周りにはプトレミーの描く沢山の小島は有りません!

 

 

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前回お伝えしましたように、フェニキアPhoenicia人の一般的なイメージは、地中海貿易で活躍し、その後の欧米文明の源とされるギリシャ(サラミス海戦 480BC)、ローマ(ポエニ戦役第1~3 最終146BC)に敗れた助演、いや敵役というところでしょう。

 しかし、その地には7千年前の宗教施設、居住跡等の遺跡が残り、DNA調査ではこの地で12,000年前に遡れる人たちだそうです。
十字路と言われる地で北には貿易ライバルのウガリットがおり、ヒクソス、ヒッタイトそしてエジプトなどに侵入したSea Peopleと呼ばれる盲動集団、更には東方のペルシア帝国などの攻防、興亡の地にあって、長期にわたるその遺跡に破壊された痕跡がないということが発掘した研究者を驚かせました。
ライバルのウガリットの地には破壊された痕跡(BC1182 陥落)があります。

興亡の中、常に地位を保って生き延びたことはフェニキアの特異な性格を示すものでり、その魅力、政治性や町の防護力などを示しています。

下図は、フェニキアの中心ビブロス(エジプトのパピルスの語源と言われる)周辺の興亡の地です。東方のシリア・パルミラは、最近ISISにより貴重な遺跡がかなり破壊さたことで有名です。シドン、タイアを含め3地の勢力が特に活躍しました。(wikipediaから作成)

そしてよく知られる貿易網は下図のとおりで、ギリシャ、伊ローマを除き一集団としては傑出した広域性を示しており、ローマの制海権の中、ヴェニスにも拠点があったという資料もあります。

ギリシャとのサラミス海戦(紀元前480年)に敗れてカルタゴに重点を移し、結局ローマとの長期3戦役(ポエニ戦役 紀元前264年から紀元前241年)も一時は遠征した名将ハンニバルが仏からの「アルプス越え」で進入し、ローマの心胆を寒からしめましたが留守の本国がローマ軍に崩されて結局敗れました。

最後は地域も人も徹底的に破壊されて歴史の波の中に消えていきました。しかし、各地の貿易拠点など受け継がれたその文化はあった筈です。

 

アラブキャラバンなどとの陸上貿易もありますが、フェニキアと言えば以上のようなイメージです。

他方、それ以前のあまり知られていない東方での貿易・輸送は、紀元前26世紀エジプト第4王朝クフ王の時代、プント国”Punt”から黄金がもたらされたという記録があるということからそれ以前からの活動も推測されます。

全盛である紀元前15世紀  Hatsyepsut女性ファラオの時代にはヒエログリフに”Punt”の記録がかなり細部にわたりはっきりあり、また、3千年まえのユダヤ栄華のSolomon 王のほうも3年に一度”Ophir”からもたらされる金等に関し記録があります。

正にこれらの大スポンサーのAが望むものを見つけ、基本的には入手先のBが望む物をアレンジすることで大きな財を成しました。

有る物を届けるだけというよりもサイドビジネスの記述もあり、前回お伝えした近年のOphir情報では、更に現地開発事業というべき状況にも至っていたようです。(海外で活躍する日本商社のはしりのようです。)

そこで疑問は、地中海東岸の小国フェニキアが何故、東方でもいわば独占的に広域にわたる貿易を成し得たかです。

実は万年前のDNAから推測し得るそもそもの始まりから、舟を操り海に馴染む特性有る漁民として理解されています。(ここに至る以前も興味深いです。)

そしてフェニキアのレバノン杉と松が、アカシアや葦程度のエジプトなどにとって権威の源の宗教施設等の建設のための貴重品であり、かつ、フェニキアが伐り出して波のある外海を(カイロ河口まで)運び得たことが何処も成しえない決定的なことでした。

そして、Solomon 王には、東方において3年に一度という長期の大航海・滞在力という真似のできない行動力を発揮して金 、また、ヤハウェの神殿や王宮の欄干及び歌唄い達の竪琴や琴を造ったアルムグの木、その他各種の貴重品を届け財を成しました。

この「海の王子たち」と形容される傑出した操船航海、恵まれた木材による当時斬新な竜骨ある船体の造船、広域情報・交渉・海賊対策等の貿易力などに注目すれば、活躍の中から西洋文明の基礎となるアルファベットを生み出してそれが広域に拡ったのも不思議ではないです。

時代は下りますが、ペルシアアケメネス朝haxāmanišiya紀元前550年紀元前330年)とも折り合いをつけて生き延び活躍しています。

 

フェニキアは、当初はアラブキャラバンの運び込んだ香料、香辛料などでギリシアとの貿易も扱っていました。

が、ペルシア帝国下で地中海の貿易相手・拠点を競う同種の海運ギリシア、また、制海力を有し大帝国に発展していく異種ながらローマというこれらの眼前のライバルたちとは、結局折り合いはつかず、戦いに敗れ消え去った訳です。

基本が大帝国を指向しない・できない海の貿易大商人であったということでしょう。前述のファラオやSolomon王といった大スポンサーがいなくなった時代は、フェニキアが縦横に活躍する時代ではなくなったとも言えるのでしょう。

一つ注目したいのは、エジプトにとっての宝の島”Punt”、Solomon 王にとっての宝の地”Ophir” が今もって研究者を迷わせるその秘密保持、あるいは多少分かったとしても全く真似できない独占的な航海貿易力です。

フェニキアの長期にわたる東方航海貿易は、上図の紅海からアラビア海を経てのものですが、それではペルシアやインドの昔の状況はどうだったのか?その更に東方はどうか?については、次回、お伝えします。

以上

 

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プラトンPlatoのアトランティス話は、ギリシャの政治家・立法者ソロンがエジプトMusirの神官から聞いたとされる遠い昔(11,600年前頃)に繁栄したが、堕落し邪悪な意図で地中海に艦隊が攻め込みギリシャ連合に敗れて本国も海没した王国についてのものです。

何しろ万年前の遠い昔のことですので、遺物を見つける事も困難です。そこで筆者のプラトンの当時の認識についてですが、先生がソクラテスでありその前には最初の哲学者と言われるタレスの存在があり、タレスは前述のソロンと共にギリシャ七賢人の一人です。

 Thales – タレス – Wikipedia
エジプトはナイルNilの賜とは、豊かな産物をもたらしたということだけでなく貿易による幅広い知の獲得が含まれており、エジプト神官の知の源で、タレスが船乗り、商人であったこともそれを象徴しています。
プラトンのアトランティス話は、アトランティス側が大艦隊を地中海に送ったことでもわかりますが、このような当時の海洋活動と「知」を背景にしているということです。
そのエジプトの貿易、更には人々をしてあの壮大なピラミッドを造築しうる求心的な体制維持にも寄与したのが、フェニキア大航海人です。
フェニキアPhoenicia人の一般的なイメージは、地中海貿易で活躍し、その後の欧米文明の源とされるギリシャ(サラミス海戦 480BC)、ローマ(ポエニ戦役第1~3 最終146BC)に敗れた助演というところでしょう。
このことは、フェニキア人が地中海で活躍する以前の東方貿易で果たした重要な役割について確定的な史実の確認の難しさもあり、見え難くしています。
その第1は、エジプトHatsyepsut女性ファラオ時代の神の国・宝物の地”Punt”から大量の貴重な品々を得たとヒエログリフにはっきり詳しく刻まれている大航海(15世紀BC)です。サラミス海戦の千年も前のことです。
その場所は、依然謎とされていますが、大航海であること、得た品々、Puntの様子などから通説より遠いインド洋を越えたパンカルPangkal地域と考えられます。
フェニキア人なしにはこの大航海は考えられず、実は船もフェニキア人の物でありフェニキアの船がヒエログリフに刻まれていると言われています。
その第2は、古代イスラエルの最盛期を築いたソロモンSolomon王(紀元前1011年頃 – 紀元前931年頃 wikipedia)の神殿の建設木材はもとより、東方から貴重な品々を得て届けたのもフェニキア人です。

そこはOphirと呼ばれ3年ごとに金、銀、白檀材、真珠、象牙、孔雀などを得ていますが、やはりOphirの場所は謎です。これもパンカルPangkal地域であり、フェニキア人の長期にわたる大航海能力を示す比類ないものです。

そして、2003年に豪Sarinaで興味ある情報が研究者infomasi oleh peneritiから寄せられています。先住民に係る土地に絡んだ難しい問題があり、研究は進捗していないようですが、パンカル地域東端への航海事例として興味深いものです。

このように、フェニキア人の東方での航海能力は史上重要な興味深いもので、甲が正に望む権威に係る得難い物を遠隔であっても長期航海し乙から入手して届けました。

また、プラトン時代からほど遠からぬ昔のパンカル地域の豊かさも確認されます。

次回、更にフェニキア人を追ってみます。

以上

 

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