(余話 1)海浜・川辺の民―Bangsa ”laut”

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海の民フェニキアFhoeniciaをずっと追ってきましたが、史上あまり採り上げられないのは遺跡・遺物が陸上主体にならざるを得ないこと、フェニキアがギリシャ、ローマに敗れたことで、歴史の研究・記述をリードしている欧米の人たちの関心が今一つであったのはないかと感じていることが根底にあります。

一時は東西の交易の中心として栄華を誇ったエジプト・アレキサンドリアAlexandria、その知の宝庫であった図書館にはフェニキアに関する記述が豊富にあったと言われていますが、失われているのは誠に残念です。

そして、そもそも人類史初期の営みは海浜・川岸にあったと考えていますが、当時からは海水面が130mも上昇していますので発見が極めて困難なため、陸上遺跡・遺物を主にした歴史の偏重に対する疑念があります。

(現在、仮に海水面が130m上昇しますと世界の主要な都市は殆ど海没し、日本でも主要な都市は長野、甲府、山形などに残る程度になります。)

また、石以外の木、竹といった重要な生活の遺物はそもそも鉄をも溶かすと言われる万年の時の長さに堪えませんので、実証という点で現状がやむを得ないという理解はできますが。

更にもう1点、歴史の記述が発見され実証されたことだけで記述することが本当に真実に迫っているのかという全く別の疑念があります。

その疑念は、当地に来て有名なジャワ原人Jawa manに会いに行き、益々強まりました。

見てください、彼らは所在なげに裸で立っています。実証される物が有りませんのでこうなります。但し、重要な実証は彼らが洞窟ではなく川岸の平地で生活していたことです。

虎なども居た地で百万年前に遡ろうかという原人でさえ、川岸の平地で暮らしていました。当時は分かりませんが、私が訪れた中ジャワ・ソロの夜は涼しい快適なものでしたが、所在なげに立っているような暮らしでなかっただろうことは想像できます。

つまり、発見された物を主に歴史を描くことは着実、真実そうでその実、真実を描いてはいないということです。人里離れた洞窟に遺物が残り実証できるのは理解できますが、数に限りある洞窟暮らしkehidupan dalam goaは、現生人類初期の暮らしを考える場合、その主体ではなかったであろうということです。

従って、人類史の主体を描く場合、実証に依拠するに努めつつももっと緩やかに想像力を働かせて”筈だろう”という諸説を展開すべきであると考えます。実証を積み重ねた定説がしばしば大きく覆るのが人類史ですから。

つまり、実験物理学と理論物理学の例でいえば、もっと理論(歴史考古)学とでも呼ぶべき分野がおおらかに充実してよいと思うのです。

さて、十万年前頃にアフリカを出てkeluar dari Afrikaユーラシアに達した現生人類の部族は、火と石器を扱い協力のコミュニケーション力もあったことから、ここへきて感じますがもっと赤子、幼児を加え年寄りもいたでしょう。学術的には「バンド」と呼ばれる小部族として。

 wikipedia紅海イエメン側

現在、出アフリカの成功バンドは、海水面が数十mは低下していた状況で、アフリカ東北―紅海―イエメン―アラビア半島南側―ペルシア湾―ユーラシア到達と考えられています。

それは、環境に適応し得た運の良いバンドが拡大していったことでもあります。スエズ運河正面のように出アフリカし得てもやがて消えたバンドも無数にあったであろう上でのことです。

この成功バンドは、狭まっていたとはいえともかく紅海を渡り越えてイエメンYemenに達しています。ここで私のアフリカ勤務体験に基づく歴シニアの実感なんですが、この紅海越えは、注目してよい大変重要なことと思います。

それは、700万年前頃に最後の枝分かれをしたサル・チンパンジーと決定的に違う特性だからです。アフリカ西部アンゴラの浜辺の食堂で食事をしていたとき、広い海辺で2人の少年が竿を持って海の中で遊んでいるのを見て人とサルの違いを強く感じました。

紅海越えのバンドは、その後の数的な拡大を考えれば、何かに追われ迫られ海に逃げ込んでいったわけでは有りません。

筏を使ったにしてもこの海に乗り出していくという行動は画期的ですが、考えたいのはその行動の前に助走、即ちバンドの皆が海の水を厭わない慣れがあったことです。

さて、下の人類の進化図evolusiを見ました時に、200,000年前頃、火を自在に扱えるmengunakan apiようになってから今の我々に継がります現生人類asal manusia modernがアフリカで誕生し、100,000年前頃には海を越えユーラシアに渡りmenyebarang ke Eurasia、そして、50,000BP年前頃のコミュニケーション力、40,000BP年前頃からの芸術的創造性の進化が特筆されます。

しかし、この進化図には有りませんが、海を越えてユーラシアへ渡った人たちは、ライオンやトラなどはもとより、森のチンパンジーと全く違う、水を厭わず水産物をも食するという火の使用に匹敵する意義ある優れた水辺適応 の進化素地を上図のどこかで遂げていたのでは考えます。

こんな様子は、チンパンジーには考えられません。森や草原で生きる縛りから完全に解き放たれています。

この適応進化を遂げたのは、いつ頃、(アフリカの)何処で、何故か、は人類史の重要な問題と感じています。(そして、もう一つがその後の展開過程での寒冷降雪地適応 です。)

我々に繋がる人類史の始まりは海に乗り出したバンドから始まりますが、考えようによってはむしろ水産物をも食し海の出アフリカを果たせる進化を遂げた種族の出現を待っていたかのようです。そしてこのことが現生人類史の原点なのではないかと。

(了)

 

 

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