人類史の百貨店地域と日本との関わり(2)-スカルノ碑とPETA

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パンカル地域と日本の関わりにつきまして、巡り来る暑い夏ですので現代史に飛びましてスカルノ碑を紹介します。

今回、インドネシアの若いジャーナリストWenri Wanhar(ジャカルタのスカルノ大卒、雑誌「歴史」記者)が、碑に光を当てインドネシアの独立における日本人の活躍と寄与を掘り起こし出版しました。標題は、日本の情報活動の軌跡というものです。

本の話の中心は、大東亜戦争でインドネシアに進駐した日本軍の海軍武官府の活動であり、インドネシア独立宣言に至る関連と独立闘争の物心両面の支援です。

彼は、スカルノ碑から話をはじめていますが、それは東京の真ん中、江戸市中を見下ろせる、曲垣平九郎が見事馬で石段を駆け上がって全国にその名を轟かせたという逸話があり、愛宕神社、NHK記念館のある愛宕山の上り口で青松寺に接する植垣の中にひっそりとあります。

(以下、写真はJejak Intel Jepang、wikipediaから)

 

碑は、諸般の事情からスカルノ(これで姓名)とだけ書かれ肩書がありません。碑文の拙訳は、市来龍夫君と吉住留五郎君へ(あなた方が寄与したインドネシアの)独立は一(インドネシア)民族の(ための)ものならず、全人類のものなり(なんですよ!)1958年2月15日東京にてスカルノ というものです。

肩書の無いことが、かえって人間から人間に贈られた心の碑文と感じます。人類20万年史の十大ニュースに入る戦後のアジア・アフリカの植民地解放・独立。長く困難な独立達成における日本人・軍の物心両面の寄与を身に染みて知り、バンドンでのAA会議を主導したスカルノ大統領ならではの表白碑文です。

スカルノ大統領によって手書きされた碑文は、国章の入ったインドネシア大統領の用箋に書かれ、碑の樹立に奔走した西嶋重忠氏に渡されたもので、同じく手書きの独立宣言と違って全く修正のないものです。

なお、碑文の裏面には、インドネシア勤務歴ある作家の富沢有為男氏(冨澤元陸幕長の父)が両名の在イ歴等について記しています。

市来、吉住両名とも海外雄飛で戦前にインドネシアに渡航して職に就き言葉を身に付け、共に商業新聞で勤務して日本の国策、現地の民族主義運動等を理解し、嘱託として日本軍に関わっていきました。

市来龍夫は、熊本人吉出身、日本進駐後に創設された郷土防衛軍PETAで歩兵操典を翻訳しつつ訓練生を指導し、戦後はアブドゥル・ラフマン名で闘争の現場に身を投じて敵の銃弾により戦死した英雄戦士です。

他方、吉住留五郎は、山形鶴岡出身、海軍武官府嘱託でジャカルタ本部員として活躍したことから本でかなりの頁が割かれています。

渡航間にスパイ容疑で蘭軍に逮捕され拷問を受けた豪刑務所での収監病歴、闘争闘士への車両通信機等の物的な支援、憲兵隊に目を付けられているスカルノ等の闘士たちを守りながら草案の起草及び宣言の実施へと進めた支援、進駐する連合軍に渡すべき日本軍の武器等を基地隊長と闘争勢力の間に立って引き渡しのお膳立ての交渉に尽力するなど裏面史での活躍がよく描かれています。

その後、アリフ名でインドネシア独立軍に参加、東部ジャワの山中で病死しました。

 

吉住留五郎                     市来龍夫

戦後のインドネシアの独立闘争には、約千名にのぼる日本軍人等が身を賭して関わったと言われていますので、碑に記された両名はその代表と言ってよいでしょう。

戦後のアジア・アフリカの植民地からの解放と独立は、人類史に特筆される出来事ですが、中でもアジア・アフリカ会議を主導したインドネシアの血を流した困難な独立闘争と達成は際立っており、それに対する日本人の寄与は高く評価されてよいものです。

本件、欧米には愉快な事でなく現下の日本には重要な協調相手ですし、インドネシアにとっては自らの活躍による達成であることから、注目されない事情は理解できますが、静かに小さくとも日本人は語り伝えるべき事です。

碑は、愛宕山のNHK記念館の足元にある日本、アジア、世界史の正に第1級の歴史資料で灯台下暗しです。スペシャルやクローズアップ現代してほしいですし、池上 彰の子供解説もしてもらいたいものです。

他方、インドネシアの独立は、終戦2年前に日本軍によって創設され教育訓練された郷土防衛軍PETAの要員の活躍が中核でした。歩兵操典・軍人勅諭をもとに日本軍人教官に育てられた幹部が終戦時には3万数千人の勢力にまで発展させていました。

PETAと地域の若者、インドネシア名に変えて戦いに身を投じたいわゆる残留日本軍人たちが、戻って来て再び植民地を復活させようとした蘭正規軍に対し立ち上がって闘争しました。独立宣言後、4年5ヶ月にわたる戦争で80万人と言われる犠牲によって困難な独立が達成されました。

 

この独立からスカルノ大統領は、その後のアジア・アフリカ会議(1955年)を主導し、バンドン精神・平和十原則が高らかに謳い上げられました。尤も、現在の南・東シナ海での緊張のように、まさか平和宣言した仲間が大きな問題になるなど当時は全く想像もできなかった時の流れですが。

スカルノ碑は、ジュウグンイアンフ、ロウムシャをテーマとする日本の教授が採り上げることも教科書に載ることもなく、不都合な真実であるかのように佇んでいます。戦後、いまだ終わらずです。

 (了)

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