(余話3)海浜・川辺の民―Bangsa ”laut”

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前回は、ヒトと水の深い関連について考えました。

アフリカでヒトは、気候変動で森の食料が減ったためそこを出て重要な水が得られる所でそこの食物にも対応していった、また、天敵であるヒョウやライオンなどのネコ科動物は水が苦手なので、水中は逃げ場所にもなり水辺は安心できる棲み処であったのではないか、などがヒトの体にも進化をもたらしたものと考えます。

火、簡単な道具と言葉コミュニケーションを獲得したヒトは、それらをもって水、食、安全が得やすく確保される生活が当時の基本です。そして、湖・川の水辺からやがて海水域へ適応していくのはそう難しいことではないでしょう。

この水辺という食べる食品と棲み処の幅の広さの適応性(当初は寒冷降雪地を除く。)が、氷河・乾燥期の海水面が低下し移動しやすい安全な海浜が拡がった地域において人口を増やしながら、海浜のマングローブという生き物が豊富な地形の特色へ適応しつつ、まずは東南方世界に早く進出して行けた理由でしょう。

 

従って、人類史初期の営みは海浜・川辺にあったと考えていますが、当時からは海水面が130mも上昇していますので痕跡の発見が極めて困難で、石以外の木、竹といった重要な生活の遺物は万年の時の長さに堪えません。

陸上で発見された遺跡・遺物を主にした現在の歴史記述となっていることは理解できますが、その偏重には疑念があります。

当地に住んで訪問した土地や種々の資料から、人類史初期の営みが海浜・川辺にあったことを私は「歴シニア」として確信しています。

今回、南スラウェシ・マカッサル、東ジャワ・スラバヤ地域を行動しましたが、スラバヤの独立闘争記念塔博物館の壁画で此処の人たちが普通にイメージする伝統の暮らしの基本が正に海浜・川辺にあることに感じ入りました。

万年前から続いたマカッサル北のマロス洞窟では、洞窟暮らしであっても魚介類や舟と密接な海の民の暮らしでした。

勿論、マカッサル地域で発見される石器は動物を狩猟し食していたことも示していますが、マロスの当時の海浜(現遺跡公園)、海岸崖の地形、貝塚群は明らかに魚介類が主たる食であったことを示しています。

 

パンカル半島から、ユーラシア大陸東岸地域、比・台湾・日本などの石器人の暮らしを欧州のように”狩猟・採集”と表現するのは誤解を招くと考えています。私は、水産物(川を含む)を得ることを漁撈というのであれば、漁撈及び狩猟採集の暮らしとすべきと考えます。

このことは、その後の歴史を考える上でも重要であり、この漁撈を主に暮らした人々とユーラシア内陸で狩猟を主に暮らした人々とではその後大きく違った発展の道筋をたどり、両者を対比して捉えることが歴史理解をより適切にし、また、寒冷降雪地への適応を遂げたかどうかの区分も重要な尺度であると考えています。

その後の歴史は、狩猟を主に寒冷降雪地への適応を遂げた戦いに強い、広域での行動力のある種族がリードするところとなりました。(農耕と牧畜という区分も重要です。)

そして、現代の繁栄をもたらしたと言えますが、地球環境の悪化、争いや貧富の差などの諸問題も副産物としてあります。従って今の時代、人類初期の(結果として)自然と調和し漁撈を主にした海浜・川辺の暮らし方に参考とすべき点があり、まずは概念としてしっかり認識する必要があると考えています。

それは、4万年前頃、列島に移り住んできた日本祖人から縄文期の人たちの暮らし、私たち日本人の原点を考える上で重要なことであるからです。

2万年前頃には、特に北方から狩猟を主とし寒冷降雪地への適応を果たした人たちが多数入ってきていますが、先住者の海浜・川辺での暮らしぶりの影響を受けたと思われますし。

また、1万年前頃の新宿、市ヶ谷で暮らした縄文人は、成人男性が狩猟を行った食の主体は海浜・川辺の暮らしぶりのようにみられます。

この老若男女の役割の違いを踏まえた時代ごとの食の主体、暮らしのイメージ化も重要で、今や先史研究において単なる狩猟採集とするのでは表現が荒いでしょう。

(了)

 

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