興味あるテーマのNHK放送(人類誕生~日本にやって来た)が、ありました。
日本列島や近隣国で発見されている遺物・遺跡や人骨の状況、何よりもテレビが伝えた東南アジアSundalandの意義などから、既にこれまで報告しています標題(下図①②③)となります。

勿論、「曙海」を家族で舟(筏)で越えて来た現生人類による日本列島史始まりのこの原型が出来上った後もいろいろな事はありました。
しかし、「日本祖代」の「日本祖人」たちは、始まりの2万数千年間に列島文化の基層を作ったと言えます。
(了)
興味あるテーマのNHK放送(人類誕生~日本にやって来た)が、ありました。
日本列島や近隣国で発見されている遺物・遺跡や人骨の状況、何よりもテレビが伝えた東南アジアSundalandの意義などから、既にこれまで報告しています標題(下図①②③)となります。

勿論、「曙海」を家族で舟(筏)で越えて来た現生人類による日本列島史始まりのこの原型が出来上った後もいろいろな事はありました。
しかし、「日本祖代」の「日本祖人」たちは、始まりの2万数千年間に列島文化の基層を作ったと言えます。
(了)
現生人類は、アフリカを出て東進し東南アジアSundalandへ、北上して台湾に5万年前以前に至り、九州に4万年前、北海道に3万年前そして更に北上を続けた歩みでした。
いずれにしても台湾を経由(長濱文化遺跡の古さ)しており、曙海を越えて来ています。
ここで注目すべきは、台湾5―九州4―北海道3と各区間1万年という大変長い時間を要しています。

考えてみれば、アフリカを出て赤道地域を行動してきた人たちですから、基本的には緯度を北上しての気温の低下や正に北海道の降雪寒冷に適応して暮らす事が大変だったことを示しているのでしょう(津軽海峡越えは短くたいしたことありません)。
もしかしたら曙海の数十kmの外洋を家族で舟(筏)に乗って越えられるようになるのにも足踏み長期間を要したのかもしれませんね。
上図の石垣人より色黒だったかもしれませんが、背は高くない似たような人たちだったろうと考えています。

そして最寒期である2万年前頃、日本列島の北と西から大陸の狩猟族が入って来て、やがて縄文時代と呼ばれることになって行きます。
日本文化の基層となった日本祖代2万数千年間は、海の民が列島中の海辺に、高原の川辺にまで上がり、遅れて入って来た異質な大陸の狩猟族と混じり合い、正に「日本祖人」として原型が形作られた時代です。
その後も混じり合い(近隣含む)は続いて変化しつつ、縄文人から現代に至ります。
(了)
祖先である現生人類の日本列島史は、曙海を越えて家族で渡って来た事から始まります。その状況の謎に迫る実験航海プロジェクトが動き出しています。初めて縄文時代を越えて私たちの祖先の歴史(日本祖代)が明らかにされていく試みを応援します。
(了)

ぜひ私たちの仲間になって、一緒に3万年前の大冒険に出ましょう!
主催:国立科学博物館 共催:国立台湾史前文化博物館
協力:与那国町 沖縄県立博物館・美術館 NPO法人国境地域研究センター 石垣市 竹富町 竹富町教育委員会
後援:沖縄県 沖縄県教育委員会 日本台湾交流協会
誰もが参加できるプロジェクト 新たな「クルー会員」を募集します!
私たちは実際に古代舟をつくり、実際に海へ出て、失敗もしながら、祖先たちが航海に成功した謎を探っています。どなたでもプロジェクトの経過を見ることができますが、「クルー会員」になって頂いた皆様には、最新情報を定期的に配信し、時に直接・間接の交流の場でご意見も頂き、プロジェクトにもっと深く関与して頂いています。そんなクルー会員をこの【完結編】で新たに募集しています。
航海プロジェクトのご支援(クラウドファンディング)については
こちらをご覧ください。
対馬暖流の無かった当時の北部九州海域は、時計回りの渡海の流れの方向がよく、浅く、幸いにして北東ア平野から北部九州へは、その後の時代もずっといい風が押してくれました。

行く手の緑の対馬が見えて、手招きしていました。曙海の畔の人々のうち、当然にして処女地である九州を偵察する人が現れ、豊かな地であることを確認しました。
その後の北海道に至るまでの拡がりを考えれば、少なくとも大人男女千人といった数の人たちの渡海が必要でしたでしょう。
さて、縄文ヴィーナスを見て思うのは、重要なのはノウハウがあり無事成功させる「お産婆さん」と一緒の事でしょう。

今と一番違うのは、何度も機会の有る重要な出産が大ごとであったことです。
出産・育児・治療・食物採集などで頼りになる婆さん爺さんが尊重され大事にされ一緒に渡海したことです。
従って、外洋を婆さん爺さんと、冒険ではなく安全に静かに渡るため、潮の流れに乗り待ってでも風に乗ることです。
当時は寒暖の差が激しい時代でした。短くても暖かい時代には樹木が得られた事と思います。
貴重な舟(筏)が出来た時期が、日本祖代の始まりの時期だったのでしょう。
現在まで見つかっている縄文の舟は丸木舟ですが、南方ノウハウのアウトリガーや双胴は有ったのではないでしょうか。帆柱の痕跡は無いようですが。
いずれにしても、安定的に北部九州に渡海することが出来るようになった時期が始まりでしたでしょう。
その後は曙海の日本列島側、そして緯度を北上する寒さに適応しながら北海道にまで拡がって行きました。

(了)
下図の列島史始まりの4万年前頃(氷河期)、海水面が数十m低かったため、北東ア平野が出現していて日本列島南西部との間に「曙海」が形成されていました。
南方から北上して来た人たちの中から、渡海して九州にやって来た人たちが現れ、異質の種族の大きな流入も無く(石器の痕跡から)同様の人たちが北海道にまで拡がりました。

下図左の「曙海」は、列島史がどのように始まったにしろ、その畔が重要な海であり、此処から舟で家族が九州にやって来て始まりました。
一方、下図右の北のベーリング海峡は陸地で閉ざされ、北極海の冷水が流れ込まない、正にハワイに繋がる海でした。
そして、陸地南岸は、「昆布kelpハイウェイ」と呼ばれる海産物が、海獣・鳥が豊かな地域が、オホーツク海~北海道~カムチャッカ半島~アラスカ湾岸~米西海岸と続いていました。

3万年前頃に北海道の降雪寒冷の暮らしに慣れた日本祖人は、そこに留まる訳もなく、次々に見える食料豊かな処女地の千島列島に舟出して行ったことでしょう。
一番遠い島間でも九州に渡って来た時より短いくらいでしたから。

さて、世界の学界は、最初に人類がアメリカ大陸に来たのは、昆布kelpハイウェイからのようだが、時期は最寒冷期LGM(2万年前頃)をすっかり過ぎて暖かくなってからとしています。
しかしその名のとおり、そのLGM後が暖かいだけでなく、その前も比較すれば暖かかった訳で条件はあまり変わらない事です。
欧米学者にとっては、単に遺跡が無いだけでなく、とてもそんな時期にシベリアから人が来たと思えない状況にあるからです。
しかし、北海道にまで日本祖人が来ていた事、千島列島を越えられたこと、何よりも「米臨海」が比較的温かく周辺の沿岸環境も悪くなかったことなどを考えれば、理論的にはLGM前に日本祖人が渡米し得た事を否定するものは無いと考えます。
有り得たか否かの理論考古先史学の推論上、当時の「米臨海」及び周辺の環境分析(動植物含む)が待たれます。(なされてきていない事が、不思議です)
近年のDNA分析による研究では、日本列島通過遺伝子が沿岸を渡米しています。

(了)
日本列島史は下図右、南方のSundaland地域から北上し、台湾山地を経て舟で曙海を渡って九州に至り北上して行ったものです。

その後の歴史を見るに当たり注目したいのは、上図左の三国志の時代に、主に大陸内部発の魏・呉・蜀と異なる海の民性ある種族が、沿岸に依然として存在していたとみられる痕跡(黄色)です。
同種族の「倭」は、入れ墨して海に潜って魚を獲る変なヤツとして魏志倭人伝で扱われています。
氷河期後の温暖化の万年の間に曙海が拡がって(年間約50m)行き、北東ア平野は消えました。
かつて曙海の畔で暮らした人たちは、上図左の痕跡から海岸線の後退に合わせながら沿岸の暮らしを続けたことが窺がわれます。
①沿岸地域の種族と②大陸内部の種族というこの2面性は、その後も大陸内部種族の伸張が続いたものの、今に続く東部アジア地域の特色と考えています。
次に列島史始まりの下図右ですが、この日本祖代には対馬暖流(8千年前頃から)が有りませんでしたので、南から黒潮流が北上して流れ込み、時計回りで曙海から出て北上して行ったのでしょう。

北部九州へは数十kmながら①流れに乗れた②良い風に押されたでしょうが、南西諸島の沖縄・慶良間ギャップ越えは、海水面低下を考えても約200kmあり、多くの家族の渡洋はこの時代にはムリだったと考えます。
因みに伊豆諸島の神津・恩馳島への黒耀石採取の行き来は、伊豆半島から伊豆諸島の見える所へ、流れに乗って行くことが出来ました(30km程度)。

従って、台湾山地以降は北東ア平野の東海岸沿いの拡がりの方が、ムリなく早かった事でしょう。
そして、五島列島~九州西岸~トカラ列島~沖縄ルートが、南への日本祖人の拡がりだったろうと考えます。
現在発見されている遺物・遺跡からは、九州4万年前、沖縄本島3.2万年前、八重山2.7万年前であり、また、台湾東部遺跡で5万年前の物があり、一応当サイトの仮説に矛盾は有りません。
因みに、大陸内部のシベリア・バイカル湖地域は2.4万年前で、大陸内部狩猟族の北と西からの渡来は、最寒期の2万年前頃でしょう。
八重山へは、西の台湾山地から(黒潮越え80km、漕舟力と直角の黒潮流速がほぼ同じで厳しい)か、東の方からか、興味深いことです。
なお、八重山の人骨遺跡では、他のように石器が見つからないとして話題になります。
竹や木、骨や貝器が、暮らしに多く使われていたものと考えますが、大陸内部の人たちと違う、日本祖代の列島沿岸の海の民の暮らしの一つの特徴でしたでしょう。

(了)
前回の時代区分の「日本祖代」について、主要な事象を年代で書き込み期区分すると下図のようになります。

①前期は、曙海を渡って舟で北部九州に来て、沖縄や北海道にまで拡がり原型の基盤が出来ました。
注目したいのは、舟で黒耀石を採集に黒潮分岐流を渡って行き来したこと、27基のワナ猟の穴という世界クラスの知力がはっきり残されていることです。
祖人について、その認知思考力、言語力、生活環境整備などが窺がわれ、「原始人」イメージは修正が必要です。
②中期は、姶良大噴火が特に西日本にもたらした大きな被害のインパクトと復興の期間です(それほどでもなかったと言う先生もいますが)。

東北、関東は充実進歩を続けたのでしょう。
そして、異質な大陸内部の狩猟族の人たちの進入のインパクトです。
また、この期間に初渡米していると思っています。
なお、世界クラスの釣り針発見(沖縄)があり、「海の民」性は、はっきりです。
③後期は、前述の進入してきた人たちとその異質な文化の影響が、列島中央にまで及び各地域で違いがはっきり出て来たことが特徴です。

北の青森で世界クラスの土器が生まれ、次の縄文時代への助走が始まりました。
やはり、南から北の降雪寒冷までの環境の多様性と季節変化に適応したこと、そもそも舟を造り海を渡って来たかなりのレベルの人たちに狩猟族が加わった混じり合いなどが、世界クラスの考古痕跡を生み出した理由なのではと考えます。
祖先の頃から地震や津波も有りましたので、激動の時代でした。
(了)
横須賀・船久保遺跡で発見された27基の穴が鹿猟の陥し穴とすると、下図右①上に掲げた標題のことが分かります。
そしてこの事は、下図左②舟を含めて縄文時代の現物が発見されている事は、実は多くの事は既に先代の日本祖代にあったのだろうと考えられます。

例えば、北海道縄文人は、アザラシ、オットセイを食べていた。本州では、魚、貝などの海産物や植物、沖縄では、サンゴ礁に棲む小さな魚、貝を食べていたと分析結果が出ています。
この事も、縄文人を日本祖人と言い換えて何の違和感もありません。時間が緩やかに流れていた時代です。
も一つ注目すべきは、下図のAのように世界最古の陥し穴は、鹿を魚のように獲っていたことです。
明らかに欧州や大陸内部のBの槍や弓矢で狩るのと違う生き方があったことを窺がわせることです。
曙海の畔から九州に海を越えて至るまでの生き方が、既にB系とは違っていた「海の民系」と言えるものでしょう。

最近の様々な発見から、最初のアメリカ人は下図2において、B系ではなくA系だろうということになってきています。その後のB系の影響力の強さで見えにくくなっていますが。

しかしこの事も、それではA系だとしても北米痕跡が1.7万年前であれば、もはや縄文人ではなく日本祖人だったのではないのかとなる訳です。
それもこれも、2代目縄文人に名前があって、先代の日本祖人という名が使われていないから分らなくなっているのです。
何故、約4万年前からの日本列島史の始まりを表現する日本祖代、日本祖人という名称がなかったのか、今もってないのか、誠に不思議なことです。
以下、ご参考まで。
(了)
日本祖人(日本列島史の始まり時代で、縄文人以前の人々)が、下図①黒潮分岐流の伊豆海峡を越えて舟で神津恩馳島の黒耀石を採取に行き来していたことは世界を驚かせています。
今回発見された②船久保の3万年前頃の27基の穴遺構にも驚かされることでしょう。
日本祖代(前期)におけるこの海の傍の2例は、日本祖人の相当の知的レベルを窺がわせるものです。

穴遺構は、先生方の言われる動物捕獲のためのものだとすれば、2mに及ぶ深さと一見必要ない最下部の最も大変な作業を丁寧に削り取っている匠の技が不思議です。
舟を造り家族で曙海の数十kmを越えて初めて九州に渡って来て列島中に拡がって行った祖先の人たちですので、これらの海の傍の活動は、まあ驚くほどではないのかも知れません。

また、見つかった所の地名が「船」久保であることも大いに納得するものです。
日本祖人は、毛皮のパンツに槍を持った荒っぽい人というイメージは修正しましょう。も少しスマートで目先がきいて几帳面な人たちだったのでしょう。
(了)
アフリカ発の我らが祖先である現生人類が、どのように世界に拡がったのかについて、日本列島は、今の①Wikipediaのようにこれまで長らく無視されてきました。

私はここ2年くらい当ブログで「日本祖人」を発信してきましたが、なんと上図のように②National Geographic誌が、日本列島のみならず(日本祖人の)渡米まで入れるようになりました。
③、④もそれぞれミトコンドリアDNAや人体などから赤丸のようなことで入り始めました。そして、環太平洋ルートから大陸の方へという拡がり方の表現も注目されます。
これらの②から④まで、どのようなことの結果から図に描かれているのかは不明ですが。
因みに私は、南米チリ遺跡やアマゾン古DNA,ブラジルの遺跡等から日本祖人子孫が太平洋沿岸を南下し、南米にまで拡がったと考える自説の環太平洋移動・移住MPOR(Migration along Pacific Ocean Rim)を提唱しています。
日本列島へは、4万年前頃に現生人類がやってきたという事で学界に異論はありません。
しかし、ここに掲載した図と異なり、列島史始まり期に大陸内部から日本列島に渡来したという、私には考えられない異説もあるようです。
更に、4万年前からの日本祖代間に九州から北上して北海道にまで拡がったにも拘わらず、時代を曖昧にして大陸から(あっても旧人)や北方からも来た(2万年前頃)という紛らわしい、下図と異なる図説もあるようです。

やっと祖先始まりの日本列島史が世界の議論の俎上に上がって来たことを喜びつつ、誤解を生まない図説に基づく議論の深まりを期待するものです。
なお、Yハプログループはどうかという意見があり、ネットチェックしたところ、Sundaland, 渡米、そして南米までが画れており環太平洋移動・移住MPOR自説を支持していることが分かりました。

いずれにしろ、私たちの始まりの祖先について、少なくとも大要を義務教育教科書に記述する時期が来たと考えています。
(了)
先ず下図1南方から来た人々が台湾山地から黒潮流を越えて直路で八重山に来るのは、日本祖代の始めの頃は大変だったでしょう。また、慶良間ギャップも遠い事です。
対馬暖流が無く黒潮が時計回り性の流れだったので、北東ア平野の東海岸を北上して九州北部に来たと普通に考えます。
そして、列島を北上して行き、沖縄本島へと南下して行ったのでしょう。


いずれにしろ当時の曙海の畔の東西南北の人々は、下写真に似たような人たちだったことでしょう。
その後、八重山に台湾山地から来たのか、沖縄本島から南下して来たのか興味深い事ですが、東南アジアとの強い類似性がみられます。

北海道の遠軽・白滝の黒耀石が、樺太や沿海州で見つかったと騒ぎますが、曾爺さんの所に佳い宝の石がある事は知ってました。もしかしたら形見を持って拡がったのかもですので、驚きではないです。
次に渡米ですが最初の上図2、ポイントは北極海の冷水が流れ込まないベーリング海(米臨海)は当時、正にハワイに繋がる海でした。
そして、北太平洋沿岸には下図緑の食料豊かな「昆布Kelpハイウェイ」が北海道から米西海岸へと繋がっていました。

世界の学界は何となくシベリアBのイメージのようですが、米臨海・昆布ハイウェイを考えれば普通に日本祖人Aだったでしょう。

日本列島は、世界の人類展開史に重要な地位を占めているのです。
更に、南米で新たに発見されてきている遺跡やDNAから、Sundaland~日本列島~ベリンジア南岸~米西海岸~南米太平洋沿岸へと、これも普通に環太平洋移動移住(MPOR)論が導かれます。

(了)
4万年前頃の九州から、緯度を北上して北海道にまで拡がるのに1万年も要した南方発のご先祖は、①列島に来た時から既に知力・言語による食料獲得・操舟等の生活力はかなりのレベルでした。
注目は、②早い段階からの関東と新潟・北陸の連接です。対馬暖流が無く③日本海側に大雪が降らなかった、④中央山地の八ヶ岳地域で宝物の黒耀石が豊富に採れた、⑤東京湾は無く大関東陸地・河川が在り、⑥操舟行動力があったことなどによるものです。

因みにその後の「西部・近畿史観」で、此の列島中央部が軽視されていますが、東北と共に日本文化の厚みを担っており、江戸・東京も地勢とこの万年の連綿たる歴史があってこそです。
最後に北は、⑦降雪寒冷地に適応するために長期間を要しましたが、食料が得られたのが幸いでした。
この適応が、幸いにも昆布ハイウェイがあったことから、人類初の米大陸進入となったものでしょう。
日本祖人は、⑧2.9万年前の鹿児島姶良噴火の「広域大大」災害を乗り越え、⑨2万年前頃の大陸からの狩猟族(出て行った子孫含む)の北及び西からの進入・帰来を加えて混じり合ってはっきり地域差が生まれていき、土器と弓矢などでステップアップした縄文時代へとバトンが継がれて行きます。

4万年日本史の約6割の期間を占める「日本祖代」の大半は、⑩列島中の言葉の違いが少なく、かつ重要なことは、⑪何が、正しい・好ましい・許されない・信ずる・大切、といったことに共通性のある文化・心情の厚みが出来たことでしょう。
その後の激動を乗り切り、世界で「日本文明」と言われ出していますが、大花綏国の長かった始まり祖代の意義は大きく、子供たちに伝えねばと思うのです。
(了)
今回、カリフォルニア大学(Berkeley)研究者が、米先住民のシャベル型門歯は、2万年前の最寒冷期にベーリング地峡を越えて渡米するのに、お母さんの乳から脂肪やビタミンDを摂取するための突然変異だったとサイエンス誌に発表しました。
現在、人類の最初の渡米は、ベーリング地峡南岸の昆布ハイウェイだったろうと言われています。
他方、欧米学者は、シベリアから来た下図のBタイプのイメージを持っています。

しかし、今でもシベリア内陸の真冬はー60℃で人の死亡がニュースになっており、ムリです。
2万年前の渡米となれば、3万年前の北海道からのAタイプを、そして言語を含めた環太平洋の近似性に注目して欲しいものです。
さて、日本人は何処からについてはよく縄紋時代から論じられてますが、Sundalandを考え、日本列島史の大半を占める上図の日本祖代・祖人を注目する必要があります。
末期には既に大陸から狩猟族が入って来ていますし、縄紋末期にも大きな移動がありました。
基本と言って良い形としては、①南西諸島・九州一部の「南部」、②東北過半・北海道の「北部」、そして③「本州」という3区分が、認識されると考えます。
そして、日本祖人は九州に渡海して来て北上し、北海道にまで拡がった一方向性の認識が重要です。

その期間の長さ、その後の推移を考えても、「日本祖代」は少なくとも文化的には列島史の基層ですからご注目を。
(了)
日本祖人、日本祖代?聖徳太子も龍馬も松陰も信玄も・・・で、もうムリという人、何がゆとり教育だ、亡命しなさい!
世界史から見た日本史の1番の特色は、 37,000年前に黒潮分岐流を越えて伊豆大島へ渡り神津島の黒耀石を取りに舟で行き来し、かなりの日本語を話し、広域の物々交換をしていた痕跡が見つかる驚異的なことです。

そして、ミトコンドリアでなく、最初の日本列島「人男」(偵察)がいたことです。
しかし、祖先(現生人類・新人)である日本祖人は、4万年前頃に北部九州へ曙海を渡海して来て歴史が始まっていますので、この大業も理解できます。

次の特色は、そういう早い段階で、関東に最も人が多く、かつ関東・甲信越が連接していた事、即ち太平洋側と日本海側が併行し、南西諸島へも発展していました。
時間は1万年かかりましたが、北海道にまで生活圏を拡げて「この国のかたち」が出来上がり、更に北上して行ったことです(おそらく、昆布ハイウェイを通ってアメリカ大陸一番乗り)。
そして、その歴史の痕跡である旧石器の進化と分布を考えると、北海道、東北、中日本、西日本、南西諸島といった違いのある今の特徴が、万年の昔に原型が概ね出来上がっていたのです。
その理由は、万年前の人々の列島への進入の時期、暮らしぶりの違いによるもので、最初の南方海の民系の所に大陸の狩猟族の人たちが、その後水稲を作る人たちが入って来た混じり合いの織りなした模様なのです。
列島中に拡がった最初の1万年間から、縄文時代の前の日本祖代という2万数千年の間に東北大震災など比較にならない西日本の大災害を乗り越え、東は太平洋という行き止まりの地で今や「日本文明」と世界で呼ばれる熟成がなされました。

日本祖代の基礎の上に、土器が生まれお米が仏教が律令制が鉄砲が入り、黒船が来て、海外進出し、進駐軍が、旅行者等が来て、今があります。
何故、大陸・半島の人たちとちょっと違うと世界で評されるのでしょうか、忘れられがちな始まりの日本祖代の物心の暮らし振りにもっと注目すべきと考えます。
日本史は○○時代から知れば十分という人、傲慢ですよ、来年の入試には落ちますよ。
(了)
昨年末、縄紋人の祖先たち(即ち日本祖人)という当ブログと同様の問題意識のリードタイトルの本が出ました。
しかし先ず第1に、下図(以下、赤字はNara)の北ルートは、約2万年の大きな差があり、同列に扱うべきではないです。
既にお伝えしています様に、日本列島史の始まりは下図です。

此のことの重要性は、アイヌ先住民問題に関わります。
アイヌの人たちが迫害差別を受けその人権が尊重されねばならないとしても、著者も明瞭に九州から北海道にまで一方向で拡がったとしており、「先住民」を冠した国会決議が史的学問からは立証できない誤りであり、訂正されるべき事を示しています。
即ち、アイヌの人たちが北部九州に存在していたことを立証できるのかと言う事ですが、むしろ大方は、時代を下ってから樺太を南下してきたと考えていることでしょう。
実は問題は、学問的におかしいと思っている人はいたと思いますが、最高機関である国会の史的裏付けのない決議に明確に反対を唱えた歴史学者の居なかった事です。
戦前の皇国史観の時代でも異論を唱える学者は居ましたが、今回のこの史観に学問上、異を唱える学者が居なったことは、いずれ歴史学界の汚点として記録されるでしょう。
因みに以前報告のコロボックルは、アイヌの先住でアイヌに追われたとアイヌ自身が伝承していたのです。

著者も私も北部九州が始まりと考えていますので、勿論、沖縄も列島の「先住民」ではありません。
米国、豪などと異なり、4万年の歴史の我が国には「先住民」と言い得る人はいないことが一つの特徴なのです。

次に、著者は特に論拠を示すことなく、始まりを降雪寒冷の内陸狩猟族Bルートとしていますが、反対です。
約80㎞の海峡を家族が舟で越える必要があったことは容易な事ではないです。
舟造り、天文、気象・海象、操舟、様々なノウハウを必要としますので、一朝一夕には無理です。
出アフリカ後の豪への渡海時期の早さや日本祖人が降雪寒冷の北上に1万年も要した事、人体・DNA・言葉などの他との比較から、海の民系Aルートでしょう。
何よりも学界や類書が、最も可能性が高いと考えられるA-1ルートを認識していないこと、また、やっと「縄紋人の祖先」まで来ましたが、旧石器の語しか無く、「日本祖人・祖代」、「曙海」や「北東ア平野」、台湾山地、朝鮮山地などのキーワードの名すら依然として無い現状は驚くべきことです。
真正面から列島史の始まり~縄紋時代に取り組んだ専門家の祖代研究の登場を待つのみです。
創業者は2代目の先代としてだけで、2代目から書かれた社史では困ります。
(了)