明けましておめでとうございます

いよいよAI時代の幕開けですので、AIやサルとヒトの違いを考えています。

最古の現生人類は、独研究チームがモロッコで発見した人骨(多少の議論有り)で、場所は海岸から40km位東方に離れた洞窟(標高約600m)です。

その海岸サフィが随一の貿易港というジブラルタル海峡の南の地域であり、南ア海岸洞窟と共に私は注目してしまいます。

実は日本のご先祖様を考えますと、海辺の知的進化・出アフリカ―豊かなSundaland―早い時期の豪州渡海―北上して九州渡海―伊豆・神津恩馳島への渡海の行き来―北海道への渡海進入と海絡みが注目されるのです。

海に入る、海産物を食す、海辺で暮らす、舟(筏)で海を渡る、などは森のサルと決定的に違う歩み出しと思うのです。

つまり、家族で九州に海を渡って来た段階で、既に進取の気性ある相当の知的レベルにあったのです。

このことが、日本文化・文明の始まりの基層であり、日本祖代から次の2代目の縄文時代以降にも確実に継がっていると考えています。

引き続きマイペースで研究に前進して参ります。

AI時代の温故知新のご参考まで。

(了)

日本人の英語能力は、世界の49位、5段階評価の下から2番目の「2」だそうです(通信簿で見た事ない)。

日本人が悪く言われた始まりの文書は、「魏志」倭人伝でしょう、下図の左右上のとおりです。

つまり、ユーラシア内陸発の人たちから見ると、はっきりヘンな奴でした。

しかし注目したいのは、第2図の赤丸のとおり、ヘンなのは和だけじゃなかったんです。

4万年前頃の日本祖代・祖人の曙海のほとりの暮らしの頃ではない、「魏志」の時代でさえ、ユーラシア東端に残る人々、台湾や海南島の人々も同類でした。

第2図のとおり大雑把に言って、内陸と沿岸・島々という、2種類の人たちが居ました。

実は、日本語は仲間の見つかり難い変わった言語ですが、島国のために古い痕跡が残ったと言うべきなんです。(仲間は、「環太平洋言語圏」)

そして第3図のように、150年前頃に撮影された人のような入れ墨は、私も子供の頃にこの目で見たことがあり、食べ物に至っては今も大好きなモノなんです。(誰だ、トロの味を教えちまったのは!)

アジアの海辺の仲間も万年のうちにすっかり内陸の人たちの影響が及び英語もうまいのかも知れません。

ま、オリンピックも近いし、勉強しましょう。

(英語?海草?それがどうした、古い民族の痕跡なんだよ!)

(了)

豪Griffith大チームが、過半が沈んだ東南アジアのSundalandのボルネオ島東部で、4万年前頃の洞窟・野牛絵と5.2万年前となりうる洞窟・人の手型絵を確認(下図左上)しました。

前々回、スラウェシ島の手型絵を報告したばかりでしたが、マカッサル海峡を挟んだ近傍反対側であり、世界最古の具象の動物絵です。

Sundaland地域は、豪州への現生人類の渡海移住、今回と同じボルネオ島の西部にあるニア洞窟の現生人類遺跡などと共に日本に関わるアジア現生人類史の古郷です。

私たちの祖先がこの地域から北上したと考える「南方起源説」を今回更に補強したという訳です。

さて、サルなどと決定的に異なる現生人類の知能進化は、いつ、どんな、が話題になります。

アフリカ南部海岸の赤色オーカー塗料の使用や貝ビーズの装身具などが発見され、一歩一歩10万年前位からということのようですが、特に4万年前頃からの欧州の洞窟絵が目立って採り上げられて来ました。

新しくなりますがスペイン・仏のものは、もう現代人顔負けの素晴らしいもの(下図左下)で、長く欧州人のプライドでした。

今回発表の事は、東南アジアが正に双極をなすものであったことを示しています。

欧州の方は、中東から洞窟にやって来た時に既に画くことが出来た人(クロマニヨン人)たちであった、即ち描くルーツは移住ルートの途中、あるいは中東などとみられています。

ホントに本当にひょっとしたらアジア・Sundalandからかも知れませんね。

ところで、4万年前頃と言えば、初めて日本列島(九州)に現生人類がやって来た頃(縄文時代前の「日本祖代」の前期)のことです。

歴史学をリードする欧米は、そんな例が無いためか余り注目しませんが、舟と櫂を造り、多くの家族が40kmもの外洋を渡航した人たち(下図右)のと洞窟の中で動物の絵を描いた人たちと、どっちの知能進化が凄い、サルから遠い事でしょうか。

少なくとも甲乙つけ難しではないでしょうか、日本の教科書がこの渡航という「日本祖人」の偉業を特筆しないのが不思議です。

3.7万年前頃にははっきり、伊豆・神津恩馳島に20km以上の黒潮分岐流を越えて黒耀石の採取に行き来し、しかも既に交換の文化もあった事が、黒耀石原産地分析でその傍証としてはっきりしているのにです。

ピューリタンが、1620年にメイフラワー号でアメリカ新大陸に渡ったのなどと比較にならない始まりの偉業ですよね。(日本学会は、欧米か?!—漫才タカアンドトシ)

(了)

最初の日本人、誰もが関心をいだくテーマで、学界では4万年前頃に九州へというのが定説です。

3.8万年前に伊豆の海を行き来していたことが、原産地黒耀石の遺物分析から分かりますので。

しかし、不思議な資料(下図左)が出回っています。

なんと標題は同じくし、意義不明な3万年前を採りあげ、かつ3ルートからとしています。

3万年前は、「日本祖代」(縄文時代の前・先代・列島史初代)の前期の終りで、此の後、鹿児島姶良大噴火が起きました。

さて、おそらくこの「3ルート」を言いたいために全てが誤解を生みやすいモノとなっています。

最初の日本人は、九州から1ルートの「日本祖人」たちなのに、誤解を生む説明となっています。

矢印が変な対馬ルートとある(左図白字)は、その人たちは元々何処からどういうルートで来たの?

沖縄ルートは、最初は九州から南下して来たのでしょう!

北海道ルートは、最初は狭くなった津軽海峡を越えて本州から来たんですよ!

と、列島に残された遺物からは誤解を生むような、普通に考えてツッコミ所が満載なのです。

何故、こんな変な資料が出て来るのか、ホントに不思議です。

(了)

今、百田尚樹さんの「日本国記」が、未だ発売もされていないのにamazon1位を走っているそうです。

その副題は、私たちは何者かとなっています。

最近の研究で、「弥生人」はいなかったという研究者が出てきています。

即ち、お米にしろ鉄器にしろ渡来して大きく社会が変わって行きましたが、別に大量の人々が入ってきた訳ではなく北九州の当時のお墓など見ても縄文人が沢山いるという訳です。

考えれば納得で、よく「明治人」と言いますが、英人、仏人、米人などが大量に入って来た訳でなく、チョンマゲこそすっかり減りましたが、「江戸人」とどれだけ違うのかを考えれば分ります。

それならば、教科書も大書し話題の縄文人ですが、4万年前~縄文時代までの2万数千年の「日本祖代」の人々とどこが違うのかと言えば、縄文人と言う程の事は有りません。

日本史を見ると、2万年前頃の氷河期が終わって温暖化して行く大変化の時代に、シベリアなど内陸の文化が北から西から入って来たインパクトこそ明らかに特筆すべきで、旧石器遺跡にもよく表れています。

人も入って来たでしょう、その流入の変化を吸収した「日本祖人」の流れが縄文時代人であり、「江戸人」と呼ぶのが奇妙なように「縄文人」と呼ぶのは実は奇妙なことです。

縄文時代に大量の人々が渡来して来た痕跡は見当たりません。

むしろ、海水面が80m近くも上昇して始まった、切り離された江戸時代的な熟成の時代であったようです。

百田本の副題が問う、私たちは何者か。

それは、南方Sundalandから北上し、曙海を渡って来て北海道にまで拡がった初代「日本祖人」の子孫であり「伊豆海峡」を行き来したことで世界的に実証されています。

長い歴史であり、「先住民」などと言える人も居ません。

(学界の現状では、書けないのでしょうが)

(了)

最新の無人ドローン対潜水艦船が、下図左下のように初お目見えしましたが、そのデザインの水すましアウトリガーは大昔からあり、今も南方で使用されているもので波を行く安定性抜群の機能です。

上図右上のように日本列島史は4万年前頃、九州に舟に乗って多くの家族が渡って来て、3万年前には北海道にまで拡がりました。

そして上図右下のように、その「日本祖代」に道具となる宝物石器の黒耀石を手に入れるため、伊豆半島から伊豆諸島南部の神津・恩馳島に黒潮分岐流を越えて37,000年前から行き来していたことが、黒耀石原産地の蛍光X線分析によって明らかとなり、世界の考古学会を驚かせています。

それが伊豆半島のみならず、交換によって関東、いや長野でも発見されているのです。

最短でも20kmは漕がねばなりませんので大変なことでした。恐らく距離はもっと長く、潮流と風を利用したでしょうが。

残念ながら、国内最古の物は千葉・市川市の7,500年前の丸木舟で、2代目の縄文人の物です。

全長約7.6メートル、幅約50センチ、厚みは船底部の端で約8センチで、長さは、今のプレジャ-ボート並です。櫂は、全長約2メートルでした。

低湿地にあり、住んでいた所でない、海の近くで作業を行う番屋のような所で見つかっています。

舟は木・皮・葦製にしろ、「日本祖人」がどういう舟で恩馳島まで行き来していたのかは朽ちて分かりません。

浜辺の海水面は、当時より数十mも上昇していますので痕跡はあっても海中という謎です。しかし正に海で活躍していた前述の縄文舟は、当時の技術が緩やかに進んでいたことを考えれば、大いに参考になるのではと思うのです。

アウトリガーは見つかっていませんが、舟が壊れてもアウトリガーは他で使われた、あるいは他の用途に転用されたことも有り得ることですので、何とも言えません。

九州に渡る際は、男成人だけで渡った訳ではなく、奥さんやノウハウを有し指図する爺さん、お産などに欠かせない婆さんや・子供も乗っていたことでしょう。

なお、津軽海峡はいまよりずっと距離が短かかったので、舟で渡るのが大変だったのではなく、降雪寒冷の地に適応するのが大変だったのです。

最新鋭のドローン対潜船同様に、当時、舟を造ること、天文・海象・気象の外洋を家族で渡ることが大変なノウハウを要し、高い知的レベルにあったことは容易に想像されます。

今、2代目の縄文人に多くの人たちが関心を示していますが、そもそも先代の「日本祖人」が、外洋を操舟し渡った第1級の知識人・技術者であったことにも思いを馳せましょう。

(了)

近年、世界の人類史では新たな発見が伝えられています。

アフリカ北西部で定説を10万年も遡る30万年前の人骨発見、あるいは東南アジアの人たちは定説より古く複雑な成り立ちであったことやアマゾンで全く近代文明と接触していない古部族が発見されたり、豪州の始まりもずっと古いようです。

万年を遥かに超える前の事に関しては、100mを越える海水面の上昇から特に沿岸の地形変化は大きく、消えてしまったモノもあり、また数字も当然にしてaboutな幅があります。

そういう中で、4万年前頃に九州に渡海して来て、「日本祖人」(縄文人の先代)が3万年前頃には北海道にまで拡がっていたことが、1万箇所以上の列島旧石器遺跡の分析から確認されていることは、世界人類史上で尺度と言える大変重要なことです。

また、九州に渡海しただけでなく、37,000年前頃、伊豆半島と伊豆諸島を、黒耀石を採るために黒潮分岐流を越えて舟で行き来していたことは、世界が驚く確定事象として有名です。

他方、最初のアメリカ人についても、かつての定説は見直されてベーリング海の北岸地域の「昆布ハイウェー」を舟で渡って来たと考えられるようになっています。

但し欧米の学者さんは依然として、シベリア種族が来たものと何となく考えているようですが、マンモスハンター狩猟族が、簡単に操舟の海民になったとはとても思えません。

大変なノウハウの継承が必要ですし、海藻を食べると腹を壊す欧米人もいますから。

従って、操舟力ある日本祖人による北海道・千島ルートが注目されてきています。

ところで何故、日本祖人が降雪寒冷の地に入って行ったのか、それは「北の漁場」があったからでした。

「襟裳岬」は、正にリッチな昆布ハイウェー傍(魚介・海獣・鳥など含む)にあるのです。

春夏秋冬、何もない襟裳岬だったら、誰も苦労して住み着きません。

被災の北海道が、今、世界人類史において注目されています。

(了)

4万年前に海を越えて九州に渡り、3万年前頃には北海道にまで拡がった日本列島史始まりの日本祖代は、正に激動でした。

図1

当時の古環境の推定、見つかった旧石器遺跡(約1万箇所)の分布・位置(中小河川・湖沼の傍)・様子や遺跡数の急増減、遺物(石器)の石材や種別(叩く突く切る掻く)・型式・持ち物の組み合わせ、その変化などから大昔の暮らしが推定出来ます。

注目すべきは祖代の中期及び後期の共に初めであり、①鹿児島の姶良大噴火の影響、②北から西からの人と文化が流入という正に激動であって下写真の通りです。

図2

特に、列島に拡がった日本祖人の所に、北から西から、始まりと同様の南からも新しい人と文化が及びました。

残された石器を見ると、違う形式の石器群を使う北と西から入って来た部族には境界が出来ていたようです。(安蒜政雄 日本旧石器時代の起源と系譜 から文責筆者)

それでも宝物の黒耀石が列島中央部にあったためか、関東と甲信越が早くから連接していました。

東京湾が陸地だった広大な関東平野は、北側と西側からの行き着いた接点として混在し、人も多かったのです。

対馬暖流が未だ北上しないこの時代は、日本海側に大雪が降らなかった事が、まだストーブの無かったこの時代には大変ラッキーでした。

出雲と遠く離れた東北の言葉に共通性があったり、関東は混み合い、また、列島中央部を境に東と西で今もお雑煮の餅などや色々な物が違う原型が万年前からでは思わせる類似です。

そして他の点では、ゆっくり拡がった曙海の事です。

温暖化の海水面上昇で、対岸がどんどん遠くなって行きましたが、もとはと言えば畔の遠い親族ですので、その後の五島、対馬を通ずる関係は納得です。

先史必読の「魏」志倭人伝では変なヤツ扱いですが、曙海の畔の人々である呉・越、江南の海の民とは近いです。

広島の呉・呉服・越前カニ・越中褌・越後屋さん、江南市・(平塚)江南高校・・・半島含めてみんな曙海繋がりです。

そして内陸発の「蜀」はもとより、倭人伝の「魏」も日本では見当たりませんね、不思議ですが、内陸狩猟の民との違いなのです。

私たちのDNA分析では、江南と共に山東半島の名前も出ますが、曙海の意義をよく示しています。

遥かに時代を経たその後も遣隋・唐使などの関係が続きました。

行くのは大変だったですが、向こうからはそれほどでもなく、兎も角も対岸の人たちが戦乱を逃れるなどして幾度となく渡来しました。

かつて、縄文人のルーツが探されましたが、結局、何処にも見つかりませんでした。

そりゃそうです、南方Sundaland発の日本祖人にこのような激動の混じり方をした独特な「日本列島ブランド」ですから。

図1再掲

ところで上の図2のように、北の何も無いと言われた襟裳岬の前は豊かな昆布ハイウェイでしたが、これに関しては別の機会に。

(了)

縄文土器は、素晴らしい!これはもう世界に誇るべき芸術です。

しかし、下写真は縄文土器を紹介した最近のある資料ですが、旧石器時代欄は空白です。

それはいいとしても、縄文時代欄に土器が作られると書かれていて、それ以前には無かったかのようです。

無紋であったりして、「縄文」ではないからという事なのかもしれませんが、いずれにしろどんな会社の社史でも、先ず初代・創業を見つめます。

華々しい2代目の縄文土器も先代・創業の「日本祖人」による「祖代土器」の土台があってのことでしょう。

現に、世界最古級の青森の土器のみならず、北海道から種子島まで広く先行土器が作られていました。

問題は、旧石器時代という適切でない呼称にあります。

文化の上で重要な土器が、広く日本列島で作られているにも拘らずです。

それに世界では、旧石器時代・人と言えば、200万年前位から言いますので、我が国の4万年前から2万数千年の間を表現するには全く不適切なまま放置されているのです。

創業のご先祖様を見つめましょう。

外洋を越えて舟で離島を行き来し、鹿を陥とし穴で獲り、釣り針で魚を釣り、環状に家を作って暮らしたり、世界に注目されるような当時の高い文化を有していました。

吾輩は始まりの日本祖人、教科書に名前はまだない、はひど過ぎます!

縄文人をひがんでいる訳じゃないのです。

(了)

土器と言えば始まりの祖代土器ではなく、世界的に2代目の縄文Jomonが超有名で、特に火焔土器などは岡本太郎さんも絶賛の逸品です。

しかし、青森・大平山元(おおだいやまもと)遺跡の世界最古級(16,500年前)の祖代Sodai土器の発明(粘土選び、練りねかせ、成形、焼き等複雑)は、特筆すべき物で平らで角張った底の土器です。

紋様こそありませんが。

多数の破片が発掘され、付着物の有機物分析で魚、特にサケが主でしたので、ドングリなどのアク抜きが原因ではとのそれまでの土器登場の説を覆しました。

当時の青森は、今の北海道東北部くらいの寒さで植物採取も乏しかったことが、魚に頼り煮たと言われますが、海水面上昇からは最寒期を脱し温暖化が始まっていました。

多量に来るサケの調理・貯蔵処理などで、しっかり保管したい、それまでと違って「臭くなった」、からなのでと考えています。

問題は、何処かから伝わったのかです。

確かに、シベリア方面から狩猟族など(出て行った子孫含む)が、北海道へ入ってきた後の事でしたが、この時代の北海道の土器はこれより新しい内地発の物です。

また、ここは最古級の祖代土器の一発屋では有りません。最古級石鏃も発見されています。

しかもこの地域は下図の通り、三内丸山は、縄文認識を一変させた遺跡であり、亀ヶ岡は、江戸の昔から有名な洗練された逸品揃いで、県内遺跡が広域に長い間の歴史を刻む裾野があります。

では、何故ここに最古級が?

日本海側、太平洋側、そして北海道の三方向から情報と物と人が来て、活発に混じり合って文化を生み出したからだと考えます。

日本列島そのものが長く多様で、新規受け入れ混じり合い、変容・発明・熟成等の歴史でした。

(了)

歴史における海人(漁撈・採集・交易・海賊・狩猟耕作等)は、書き物を残さず寡黙なため妥当に扱われていないと感じています。

舟ノウハウは体得ですし、一人山に入るキノコ取りのように人に教えず秘密体質で、何より板子一枚下は地獄と言われる厳しい生業なので饒舌にはなれないのでしょう。

曙海も温暖化の時代を経てゆっくり海面が拡がり、採りあげる3~2千年前頃には、今のようになっていました。

問題は縄文時代末期以降、中国長江から、朝鮮半島から稲作や鉄が入ってと学校で教わりますが、入って来た水稲は朝鮮半島には無い米種です。

それはインド南部・タミル海人を、いや北九州の宗像・住吉海人等を忘れてもらっては困るという事で、北九州の海人地域で採用した稲作から始まった事が、象徴的に重要です。

祖代・縄文時代に曙海の畔には、海人のネットワークが出来ていたでしょう。

上図の右下に、貝紫の染めを書きましたが、世界の海人フェニキアが、3,600年前頃に技術を有した貴重な帝王・特権階級紫をアッキガイ科巻貝汁から作りだすもので、吉野ヶ里(交易拠点)で発見され、作家有吉佐和子さんはフェニキア人が来たと言ったそうです。

フェニキアは秘密主義でしたが、北欧、アフリカ喜望峰回り、豪州などまで動き回ったようです。一航海3年というのもあり、現地で農業生産までしていたと言われています。

何しろ彼らのフェニキア文字がアルファベットになった事、また、相手が真に欲しがる貴重品を何処かで手に入れて交易する、と言われた事がよくその活躍を示しています。

さて、アジアのタミル海人(後の日本呼び”マドロス”街あり)は、この頃ベトナム迄はっきり痕跡があり注目です。

言語学泰斗の大野先生は、稲作用語にも日・タミル語の多くの類似性があるのに長江の民とは無い、また、正に来ていた時代に埋葬の甕棺が酷似しているなど諸点を挙げてタミル海人が来て文化を伝えたと主張しています。

船着き場地域―後背地―川上地の繋がりエリアが、曙海畔のみならず縄文時代の他の地域、いや、かなり後の時代まで続く特色あるあり方です。

稲作・金属の拡がりと大幅な人口増を経て、中国を知って採用された碁盤の目のような〇〇京時代とは違う、海人ネット社会という在り方でした。

何故、タミル人が来た?

大野先生は、中東・欧州で珍重された日本真珠を挙げてますが、翡翠、オオツタノハ貝、宝貝なども有りました。

(了)

何と言いましても図1のように、右肩上がりの海水面の上昇(温暖化による極等の氷融け)が原因です。

正に途中で時代の名称が、「日本祖代」から2代目の縄文時代に替わります。

日本祖代の末期の最寒冷期(LGM)から温暖化の時期に、シベリア東部地域の狩猟族が南下しました。

寒過ぎて、その後、温暖化で寒冷草原のマンモスが絶滅していき、ハンターが動きました。

かつて列島から北上して行った子孫が戻って来た事もあったでしょう、特に北と西で遺跡数が激増しています。

土器が定着して縄文となりますが、海水面上昇が土地を減らし、海岸線と暮らしの地形を大きく変え、温暖化の人口増の「水辺の民」の暮らしぶりも変わっていきました。

(海岸線の長さは、アメリカの2倍、中国の25倍です)

図2のように、温暖化ピーク頃に三内丸山が縄文の華を見せ、寒冷が来て関東の遺跡増になります。

既にクリ・ひょうたんなどの植物・犬猪を飼育する知識のあった縄文人の一部が、増えた西部北九州の低湿地に、拡大した曙海の向こうの民から水稲を移入しました。

大陸は周の時代で麦作であり、人も暮らしも違います。

稲作はやがて拡がりましたが、社会へのインパクトは少し遅れの金属器の導入であったようで、渡来人も加わった稲・金属時代になっていきます。

祖代・縄文時代(日本史の92%期間)の世界が注目する「精神性」は、日本祖代から受け継がれ縄文で熟成し確認される様々な物コトであり、現代でも痕跡が窺がわれます。一例は、以下の通りです。

世界の学者が、「日本文明」として区分する重要要因の一つが、この時代にあると考えます。

なお、日本祖人リーダーは、天文・気象・海象・動植物・造舟・外洋操舟等の知見のある、当時の世界の第一級の知識人でした。

(了)

再び鎮魂の暑い夏がやってきます。

もしこの日本・花綵(はなづな)列島が、もっともっと大陸に近ければ台湾・韓国のようになっていたでしょう。

もっともっと遠く離れていれば、聖徳太子は現れず大東亜戦争も無く今は欧米どこかの国の植民地だったでしょう。

4万年前の始まり時代から、此の絶妙な距離の故をもって「日本祖代」からの熟成の歴史が、「日本祖人」、縄文人、・・・と列島に育くまれ、今や世界史の中に「日本文明」と言われる独特な社会が生まれるに至っています。

日本史は、○○時代から知れば十分とまで言うのは傲慢です。魏志倭人伝では有りません、百年前にこんな日本人も居ました。

此の大陸との距離によっては、クレオパトラの鼻高よりもっと世界史を変えていた事でしょう。

(了)

高名な歴史教授が、列島史の始まりについて、下図のように*2「大陸から」と言われますが、図1のように南方からです。

また、*4打製石器で狩りをする人でしたと言われますが、主たる人々をそう表現するのは、「見つからないモノは、無かった」史観で、戒めが必要です。

沖縄の八重山遺跡(2.7万年前)などでは、不思議に石器が見つかっていませんよ。

図1左、曙海の畔から九州に渡って来た人々は、その後、渡海の難しさと海水面の上昇で大陸と切り離される形で文化を育み熟成しました。

図2のように、黒耀石が沿海州で見つかるのも、先生方お手上げの裸国・黒歯国と関係があったのも「日本祖代」を見つめればこそ分ります。

近現代史も、本質は大陸と違う絶妙な距離の日本・花綵(はなづな)列島の特性からもたらされた歴史のifに注目すべきです。

図2左上 列島の人は、神様に獣肉をお供えしない特色を持ち続けています。今や世界で「日本文明」と言われる一つの所以でしょう。

この日本列島が歴史のifとして重要な事は、図2のように大陸に近すぎても遠すぎても大東亜戦争は起きず、クレオパトラの鼻高以上に世界史を変えたことが分かるでしょう。

英国と欧州大陸との関係とこちらアジアのアナロジー、ペリー来航のみならず、米国、日本と大陸・満州の関係など、4万年前からに目を向けねば真に理解はできないでしょう。

更に*3は、世界の旧石器時代の始まりが200万年前ですし、ナウマン象や石器が発見されている日本にも前・中期旧石器時代人があったのではと未だ論争中です。

従って、列島史の始まりは「日本祖代・祖人」と用語をはっきりすべきです。

また、教授の*1も伊豆の神津・恩馳島に黒耀石を採りに舟で行き来していたのが、3.7(研究者によっては3.8)万年前ですから九州に渡って来た記念すべき創業の時期は、「4万年前頃」として世界に報告すべきでしょう。

最後に、

この国では異論で指摘するとケンカを売る気かと言われます。浅学者が、全く失礼・非礼する気もございませんので、ご寛恕ください。

(了)

現生人類による日本列島史の始まりが4万年前頃であることは、学界異論のない認識です。

にも拘らず、最近の大新聞の説明図でも北、西、南の3方向から人々が列島に入って来て日本が形成されて行ったというような世界に誤解を招くモノになっています。

これは例えば、明治、江戸、平安時代に起こった事を一つの図にして説明しているようなものです。

始まりはあくまで南から北への一方向性で、南方系の先人が緯度を北上して適応して行った容易ではなかった1万年を要した拡がりなのです。

そして、最寒期の2万年前頃に北から西から大陸の狩猟族とかつて北へ向かった者達の子孫が入って来るまでに定着していた日本列島文化が、先ずは基層である事が重要です。

さて、4万年前当時は、対馬暖流(8千年前から)が日本海に流れ込んでいませんでしたので、大雪は降りませんでしたから東西併行して北上して行ったことでしょう。

長野に豊富な黒耀石があり、関東と甲信越が早い段階で結ばれていることも注目されます。

津軽海峡越えは、日本祖人にとっては大きな問題では無かったですから北海道の降雪寒冷地の生活に適応するのに期間を要したものと考えられます。

更に、始まりの南を子細に見ますと、4万年前頃に多くの家族が慶良間ギャップを越えるのは困難だったろうと思われます。

当時の海水面低下で現れていた北東ア平野の沿岸を行く方が容易で、かつ、潮の流れ風の向きと距離から対馬や五島から北部九州に渡海する曙海時計回りルートが自然だったろうと考えられます。

つまり、大新聞が堂々と描いている3方向がいずれも間違って世界に発信されていると、歴しニアは歯ぎしりしているのです。(入れ歯かどうかは、聞かないで下さい)

いずれにしても、日本祖代、日本祖人をしっかり認識していないことが問題なのでしょう。

(了)

 

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