ミリタリーの世界では、夜間にあるモノを見たいとき、そのモノを見ずに周りを見よ、さすれば見えて来るという「周辺視」の教えがあります。

4万年の始まりである日本祖代の追っかけって、その浮世離れは何なんだと言う家族の声があります。

ということから倭人伝を周辺視であるSundaland, 環太平洋人類史観の視点で、あの歴史学上の大問題、やまとの女王国に迫って見ました。

対馬まで千余里、唐津―福岡五百里、女王国から海を渡って千余里また倭種、倭の地は絶在1周五千里、侏儒国四千里、身の丈三、四尺、船行1年、など距離感と方向は一応納得できるものです。

(倭人伝は、全く信用できないという意見もありますが)

 

特に、あまり注目されない侏儒国、裸国・黒歯国を周辺視しますと、日本列島人類史の特色である北と南端の類似性やコロボックル話などがよく附合しています。

裸国は、ネグリト族のフィリッピンにしろこの地域では有ったでしょう。

そして黒歯国についても、マレーやインドネシアの檳榔樹から取れるビンローが噛みタバコのような物としてよく見られ、歯が赤黒くなり珍しいものとして魏の人などには認識されていたでしょう。

マレーのペナン島の名の由来にもなっていますし、台湾では今でも見られ、我が国でも女性が歯を黒く染めていたことはよく知られている環太平洋この地域の風習です。

文選によれば、漁師が、南の東の極みの黒歯の所へ行ってますので正にぴったりでしょう。

「至るべし」とありますので、単なる物語や噂話ではなく行き来があったものと思います。

因みに紀元前にフェニキア人が、金などの貴重品を得るため船行3年と言う遠洋航海行動(1年以上現地滞在?)が歴史的にありましたので、紀元後の1年は驚きに当たりませんし、何よりも祖先の地、Sundaland地域から北上して来た人たちですから。

船行1年ということで、この裸国や黒歯国を南米に比定する意見もありますが、文選にある極みはマレー・インドネシア、黒潮の果てでしょうし、流石に当時の漁師が南米まで行き来するのはムリでしたでしょう。

この「極み」は意味深長でして、倭人がニューギニアから比東側の正に黒潮沿いを行き来していたのではと思わせます。

結局、女王国はどこなのか?

倭人伝等からの周辺視では、ぼんやりと九州か四国あたりに見えます。

どうして、やまとの女王国、皆と違う表現にしてる?

はい、当時の列島に住む人たちが自分たちを蔑称で呼んでいたとするのは史的間違いだからです。

語をもってまだ自分たちを呼んでいなかったにしろ、呼んでいたが今は分からないにしろ、学者さん達がこうしようというのを待っているためです。

いつまで他国が付けた蔑称を間違いなのに使っているのでしょう?

(了)

 

4万年前の始まりの日本祖人を探るのは容易では有りませんが、日本人は虫の声が聞けることから人類史の不思議に迫れ、そのことがまた、日本祖人の理解と確認に繋がります。

世界でコオロギや鈴虫などの虫の声を、雑音ではなく声として右耳から受け止め左脳で言葉のように聞いてる、聞けてるのは、実に不思議な事に世界で日本人とポリネシア人だけなのだそうです。(東京医科歯科大学の名誉教授・角田忠信先生)

チンチロ チンチロ チンチロリン あれ 鈴虫も鳴き出した ああ おもしろい 虫の声 -こんな変な事を言うのは日本人くらいで、他所では気にも留めない、どうかすると殺虫剤でも持ってこようかという対象です。

さて問題は、何故、ポリネシアなのかなのです。

現生人類は、出アフリカの後、東進してSundaland、そしてその方向でオーストラリアへと北上して日本へと、展開を続けました。

このSundalandが、アジア史における「補助線」でして、大半島陸地が2万年前頃から温暖化の海水面の上昇で沈み始め、1万年前頃には過半が沈み、インドネシアの現在のようなバラバラの島々になりました。

第1図

その東方を含めたSundaland地域は、①出アフリカ後の重要地域で今も痕跡が残っており、②特に5千年前頃、中国南部から大きな人の南下移動があり、はっきり混血が進みましたので分かりにくくなっていますが、百万年前のジャワ原人以来の恵まれたと言っていい地域なのです。

さてポリネシアは、よく古い人類の移動に関する問題で話題となります、例えば米西海岸ワシントン州で発見された9千年前頃のケネウィック人を復元した際に、誰に似てるかでポリネシア人も名が上がりました。

しかし、上の図のように②で南下した人たちがSundaland地域に至り、ポリネシアへの展開して行ったはせいぜい3千年前頃からの新しいもので、端のハワイやあのモアイ像のイースター島は、紀元後7~900年前頃という最近のことなんです。

ここで、

1.南下した人たちは、中国南部・台湾からと言われてますが、彼らは欧米人などと

同じく虫の声を聞けてません。同じく南下を受けたインドネシア人も聞けてませ

ん。

2.何よりも途中通ったミクロネシア、メラネシアにもはっきり見つからない。

それでは何故?となりますが、先ず、補助線のSundalandに鍵があるでしょう。

出アフリカ後の①の人たちが、Sundalandを経て北上し、日本を通過して行ったわけです。

日本にも2万年前頃には、大陸から狩猟族の人たちが入って来て元の祖人と合わせて縄紋人となっていきますが、虫の声が聞けてるのは、それ以前の始まりの日本祖人の影響が大きな影響、即ち基層が残っているからだとなります。

そこで、虫の声を聞けていたのは①の時代だったのだろうとなります。

ポリネシア人の祖先は、その後の5千年前頃には南下して来てSundaland地域で混じって、更にミクロネシア、メラネシアの一部を経ていますが、上図の①移動時代のSundalandの痕跡をひとり今も残していると言う訳です。

これらは何故か?

日本もポリネシアも行き止まりの端の国々だから、①移動時代のものが残ったのだろうとなります。

世界でわずか2つの端の地域で虫の声が聞けるという事から、人類の移動、日本祖代の事、日本祖人と縄紋人・現代人など様々な事に思い至ります。

2万年前頃、大陸の狩猟族が北から、西から入っても、始まりの日本祖人の文化が失われず基層として、縄紋を経たその後も稲作族などが渡来してこようとも残ってきたことが重要です。

ところで此の虫の声が雑音ではなく聞けるという、この残った感性は何なのでしょうか?

それは自然を尊び、木々にまで神が宿るといった心性に繋がる大切な事で、生活、芸術、発明、仕事など万般の日本人らしさに及び、世界にとっても独特の意味ある事でしょう。

あ~、う~母音の、虫がチンチロリン、雨がしとしと、と教えてくれるお母さんに抱かれた母国語が決め手であって、DNAではないことが重要です。

お母さんは、わずかなGNPの押し上げなど比較にならない極めて重要な人です。

(了)

 

 

 

列島史始まりの日本祖人は、結論的にやはり「西郷どん」系です。

隼人に関しては、日本人類学の大家である金関博士が既に比フィリピンのネグリトとの関連を推論しています(学者先生の金関博士は、証拠がはっきりしないとして、この説を断定的に言ってはいませんが)。

ポイントは、比・ネグリト、隼人、そして、各地に拡がっている海人族の関連です。

比ネグリトは、アフリカのピグミーなどと似ていますが、DNAは全く違ってあくまでモンゴロイドが日差しの強い島の環境でああいうようになったものです。

名前もいろいろに言われていますが、イタムとはインドネシア・マレー語のヒタムhitamで、「黒い」を意味します。

中国・宋の書物には、このネグリトは小柄で肌の黒い海胆ハイタン人として書かれていますが、ハイタン―hitamは繋がりが分かります。

そして、黒、このハイタン、日本のハヤト・ハヤヒト・ハイタン隼人は、無理なく繋がる訳で、ネグリトの特徴を一般に表現したものと、金関博士が薩摩で見た隼人の特徴もよく附合しています(上図右下)。

更には九州北部の筑紫地域は、「あた守る筑紫」と言われていますが、この「あた」とは、隼人を示し隼人から防衛する筑紫と解すべきものと博士は言っています。

他方、「あた」隼人は海人族で、上図のように茨城常陸や日本海側の沿岸にまで拡がり、何と岡山美作、長野信濃という内陸高地にまで拡がっています。

前回、インド洋から北海道に至るまで、人類史の流れを踏まえながら人の類似性を指摘しましたが、金関博士の説は十分納得し得るものです。

曙海の畔から始まった列島史から、比、台湾、五島や薩摩、沖縄の人たちが類似なのは当然です。

そして、北上して3万年前までに北海道にまで拡がっていますが、正に始まりの先住の人々と言って良いでしょう。

特徴は、海を越えて渡って来た海の民であって、隼人だけでなく微妙に呼び方を換えてますが、今もその痕跡の名が各地に残っていると博士は言っています。

曙海の畔からの始まりが「西郷どん」系であったというだけでなく、列島中に拡がっていた事、そしてその後に、暮らし振りの違うユーラシア内陸の狩猟族や稲作渡来族に込めやられた歴史も窺がえます。

ともかく、ユーラシア東部沿岸(今のベトナムなど)や比・ルソン島、曙海の畔の人々、皆同じような種族でしたでしょう。

繰り返しますが、金関博士は残った言葉などから想像も交え推論したとして、学者としては、慎重に断定を避けてます。(ご謙遜です)

しかし、「歴しニア」的には人類史の流れ、日本人とは、日本史の始まり、日本祖代と縄紋・弥生時代などを明きらかにしうる納得のビンゴ!です(はい、我田引水と言われるでしょうが)。

やはり、「西郷どん」系が、始まりのご先祖様なんです!(アイヌに追われたコロボックルにも光を)

明治維新150年、いや「西郷どん」が怒ります、ち・が・う・だ・ろ~、4万年前に想いを致せと!

(了)

 

 

4万年前頃、海を越えて日本列島に渡って来て北上し、3万年前には北海道東部にまで拡がったご先祖様である日本祖人は、どんな人だったのか?

結論的に言いますと、いよいよ始まる「西郷どん」に痕跡が残されていると思うのです。

下の写真の左下、アンダマン諸島の古い先住民ジャラワ族の人をご覧ください。

フィリッピンのアエタ族の子、台湾の高砂族の兵士、なども同類だと感じます。

始まり当時は曙海と北東ア平野という地域の状況であり、台湾と八重山の間は黒潮が走り距離も数十kmありましたので、遺跡からも北上して先に五島や北部九州に渡ったと考えています。

注目すべきは、縄紋語を残していたとみられる五島の人は、顔が(薩摩)隼人に似てると古い風土記に驚きを込めて記されています。

ところで、魏志倭人伝の邪馬台国は大いに研究されてますが、末尾に記されている侏儒(小柄な人)国、裸国については、注目も無く議論されてません。

南米だと言う人もいますが、最近、侏儒国は奄美大島だという説が出ています。

まあそれらが、南西諸島、小笠原・マリアナ、比、インドネシアにしろ、とも角、全く空想の意味無い話ではないことが大変重要です。

人類史の展開ルートで、我が国の周辺に小柄な人、裸で暮らす人がおり交流があったことが史実として信じ得るものだからです。

敢えて言えば、同族の古い遠い親族です。

此の点で、明治期に議論になった小柄なコロボックルは、改めて光が当てられるべきでしょう。

コロボックルがアイヌに追われて逃げて行ったという千島を、明治期に学者が訪れたがアイヌしかおらなかったと言うことで簡単に否定されてしまいました。

当時は万年に及ぶアフリカからの人類の移動・移住の展開などは想像すらできませんでした。

江戸期の話を明治期には消えて確認できなくなっていたことなど十分有り得ることで、居なかったからかって存在したことは無いとすることは不適当です。

更に北へ逃げて行ったか、滅亡してしまったのか、いろいろあり得ます。

伝承や資料もありますから、小柄な海の民という先住民が居たのだろうと考えて、有り得ることですし矛盾はありません。

これらの事から、肌の色は薄まった茶褐色で小柄な目元涼しい海の民の人たちに大陸から進入した狩猟族が加わりました。

縄紋時代と呼ばれるまでの2万数千年間、日本史の約7割くらいの期間、閉ざされがちな島々での熟成された暮らしぶりが、列島文化の始まりです。

この日本祖代の長い期間の原点に思いを致すことなく、日本史を語る事は出来ないと考えています。

そして既に述べました通り、3万年前からも北上は続き、やがてアメリカ新大陸に至ったものと考えています。

日本祖代・祖人は、世界史上も重要なのだと「歴しニア」は考えているのです。

4万年の、今に繋がる受け継がれた歴史を科学的に語れるのは、世界でも日本人くらいではないでしょうか。 誇るべき〇千年の歴史?可愛いもんです。

(了)

これまで4万年前に曙海の畔を九州に渡って来た日本列島人の始まりの頃、即ち日本祖代とその人々である祖人について探ってきました。

そして、九州から北上した祖人は、3万年前頃には北海道に達し、止まることなく北上を続けてアメリカ新大陸に沿岸から入って行ったであろう初渡米についてお伝えしました。

さて、記録に残っていることや分析した当時の時代史を重ねてみますと、始まりの祖人たちが話していた日本祖語の痕跡があるように思われます。

「初めに言葉ありき」、あの聖書Bibleに書かれたことですが、実は聖書の生まれる遥か昔の日本祖代語を考えますと大変深い意味があります。

下写真のインド南部カルナタカ州のアラプール村の自宅近くでハヌマンラングールの群れに餌を与える2歳のサマルト・バンガリ君が日頃、野生のサルと遊ぶ様子が評判になっているそうです。

2歳男児とサルの群れの友情が話題、毎日欠かさず遊びに インド 2歳男児とサルの群れの友情が話題、毎日欠かさず遊びに インド

サルと遊ぶ2歳の子(写真:AFP通信から)

私には、これは興味深~い意味がありますね。

まだ、言葉をしゃべれないサマルト君は、動作発声コミュニケーションのレベルの人猿交流というべきことで遊んでいます。

米MIT大学のチョムスキー教授によれば、実は言葉は、コミュニケーションのためよりも頭の中の思考のために発達したそうです。

そして、未熟な2歳の子と同じく言葉・思考の無い動物達と、人は4-5歳になるともはや完全に違くなってるそうです。

南洋のパプアニューギニア部族は石器時代のような暮らしと言われますが、その赤ちゃんもロンドンに連れてきて育てれば、やがて普通に学校に行って英人になる素質があるんだそうです。

他方、DNAが人間と極めて近しいチンパンジーは、言葉を理解し、操り、思考することが全くムリな事が幾多の実験で明らかになっています。

正に人と動物の違いは、初めに言葉・思考ありきの分野です。

(成長していく赤ちゃんともう1回3年間くらい暮らしてみたいですね、どのように言葉と思考が育っていくのかという事を観たいものです。)

生まれた赤子は、1年以内に母親の音声システムの抑揚で泣くそうで、フランスやドイツの子と日本の子は微妙に泣き声が違うそうですよ。

これまで地球に500億種の生物が誕生しているそうですが、人のみが言語を話し思考するという奇跡だと言われていますが、AI時代でもあり解明が進んでいってるようです。

さて、人が現在の脳容量になったのは10万年前頃で、8万年前頃には造形美術や身体を装飾することなどが南ア・ブロンボス洞窟で見られ、それらは他から学ぼうとする事で進歩した、言葉の脳力と関係深いと考えられています。

ところで、人は言葉を獲得し今まで何百種もの違った言葉がありますが、700万年という人類史では最近の事です。

従って、他の星の宇宙人(いれば)からすると、地球人は皆同種の言葉をしゃべっていると感ずるだろうと考えられています。

言葉能力を獲得して出アフリカを果たし、インドネシア、スマトラ島で発見されていた歯が7.3万~6.3万年前ということで、北上して日本列島にやって来た事になります。

爆発的にか徐々にか意見が分かれてますが、言語力や認知思考力が5万年前頃までには素質として今のような高いレベルに達していたようです。

この能力によって、Sundaland地域からかなりの家族が舟か筏で数十kmの海を渡って豪州に達していたと考えられており、北上して日本列島に達し、米新大陸にまで移動・移住していっています(MPOR説)。

日本列島九州への渡来が4万年前頃とSundaland時代からかなりの時間が経っていますのは、緯度を北上した寒さに慣れる必要があったからではと考えます。

そして、九州渡来後に注目されますのは、約1万年間で同じような言葉を話す祖人が水平拡散で北海道にまで、垂直拡散で高原の長野野尻湖にまで拡がっていたとみられる事が遺跡遺物から考えられ、注目すべき大きな特色です。

その後も列島には北から西から人が入ってきていますが、大陸の人はもとより、同じ言葉を話す出て行った人たちが再び入って来たという側面があることも考慮する必要があります。

そして、次の大きな人の渡来流入まで更に1万年間にわたり熟成しましたが、この事は土台として注目され、私はこの始まりの約2年間の祖人語が、祖層・第1層と考えています。

次いで氷河期最寒冷期となり、2万年前頃に北から西から大陸の狩猟民族の人々が入って来て新しい文化と言葉も持ち込まれ、大きな変化がありました。

それまでの祖層に交じって混淆あるいは混在のまだら模様の状況で、言葉の第2層と言うべきものになっていったと考えます。

この異質な言葉が混じった第2層がいわば縄紋語であり、地域性があったと考えられますが、そしてこの2層に人類がアフリカを出た頃の古い基層言語が残っていることが極めて重要です。

即ち、海の民系の言語に内陸狩猟族系の言語が流入しましたが、出アフリカ古層A型がしっかり残っていました。

古代のアイヌの言葉と北西九州の言葉に共通した語が幾つか痕跡として発見されていますが、アイヌが九州に居たということでなく、それらの語は、かって古い時代に列島各地で幅広く共通に話されていたものであると考えられています。

その後、万年続いた縄紋時代が終わって弥生稲作系と言われる人々と文化が西から入って(3,000年前頃)大きな変化が列島に生じました。

この変化の第3層は、列島の南北端に第2層・縄紋語を話す人々を残し混合された、その後もずっとこの基本的な構造を留めた、言わば日本語の基層だと考えています。

(注:赤い点線矢印が、2万年前頃の北、西からの新たな渡来です)

①九州から広まった祖人によって列島中で話された第1祖層・祖語、②北と西からの新たな狩猟族流入による変化の第2層・縄紋語、③大陸から渡来した弥生稲作系を主に形作られた第3層・基層語、という変化を我が国の始まりの頃の言葉の歴史として考えています。

そして、基層(第3層)に残された我が国の南・北端の古代の言葉の痕跡からその変化の流れについて、古い日本祖語にまで思いを馳せられることが何と言っても特徴でしょう。

そして、それが人類史の古い出アフリカ古層A型の類型であることが特筆されます。

日本語が、簡単にぴったりあの言葉系であると言えない事こそが、大変古い混じり合いの言葉、そしてご先祖様だということになります。

最新の研究により、米大陸太平洋沿岸を含めて、環太平洋語族と括られて認識されるようになったことが、何よりも現生人類の環太平洋時計回りの移動移住MPOR説を裏付けるものと考えています。

今年は犬年で、日本でワンワン、アメリカでバウワウ、ロシヤでガフガフ、インドネシアでゴンゴン、・・・ですが、聴く人の耳の差でしょう。

でも、2度繰り返す畳語であるのは共通です。

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(了)

 

歴史の本棚の表示を見ますと、近・現代史、中世史、古代史、その先は古墳・弥生・縄文時代、先史、旧石器時代などの語が見える本が納められています。

4万年前頃、日本列島にはおそらく今の私たちに基本的には繋がらない(数%以下のDNA)旧人が居たと思いますが、海を越えて初めて祖先の現生人類が九州(八重山も?)にやってきました。

そして、列島を北上して3万年前頃には北海道にまで拡がりヒトが住んでいましたが、この始まりの人たち、その時代の名はまだ教科書に有りません。

島国であるために、世界でも珍しいと言っていい極めて古い始まりの時代の事がかなり見えている歴史を有する国であるのにです。

歴しニアの把握したもので、加除修正を要するかもしれません(縄紋時代は、更新・完新世の転換期に修正)が。

時の経過が長過ぎて、自分たちは「先住民」の子孫などと人前ではっきり言える人は、今や九州にすら居ないでしょう。

この点で2008年のアイヌ国会決議は、歴史の裏付けのない、歴史に対する政治的な表現であり、先住民の語を外しアイヌの人権を尊重するといったような表現の訂正が必要です。

4万年前頃からの始まりのその時代を「日本祖代」、祖先を「日本祖人」、と名前を付けましょうという提案で、このサイトではずっと綴ってきました。

古代史の前は先史(弥生・縄文)、その前は始まりの「祖代史」でどうでしょうか。

ともかく名前が無いのは、酷いと思うのです。

現在まで名が無い大きな理由は、始まりの祖代の遺跡・遺物ははっきり見つかっている(豊富に)が、始まりの祖人の人骨は列島が酸性地のため全く見つかっていないことに有るのでしょう。

始まりの祖人の人骨は見つかっていない、でも確実にヒトの手が入っている石器などは見つかっているので名前を付けましょうということです。

即ち、遺物などのはっきりした証拠から推定して歴史を描く新分野(理論考古歴史学?)の提案です。

重力波、空間は曲がっている、・・・確実な事を基礎にとんでもない真理を追究している学問分野は他に有りますので。

ところで、

勿論、その時代の同種の人々は、上図の「曙海」(九州・南西諸島・北東ア平野に囲まれた祖代の海域)の畔や樺太・千島など、今の国境を越えた共通の拡がりがあったでしょう。

近隣の研究成果も踏まえつつ、日本史分野ですから、とりあえず先ずは自由に調べられる今の国境で、子供たちに伝える歴史を一つ一つに名前を付して議論し描いていってみようという提案で、このサイトは歩み出している訳です。

因みに、既に縄紋時代にあの多彩な土器が、不思議にも対馬の目の前の朝鮮半島や台湾で見つかっていないという境目があったようです。

冬休みに子供たちがいい名前を思いつけば、それにしましょう。

そして、此のことを提案する大きな理由は、北海道の後も目の前に食料豊かな処女地が山から見え続けてましたので、北上を続けただろうと考えるからです。(あのプーチンも居ませんでしたし)

 

当時は、ベーリング海峡は地続きでBeringiaと呼ばれ、また、今と違ってその海には北極海の冷水は入らない、ハワイに繋がる海でした。

そして、今でもそこやアラスカ沿岸は、イメージと違って北海道北部とそれ程真冬の気温は変わらないのです、期間は長いですが。

導きは、昆布(kelp)ハイウェイと学界で呼ばれている水産物や海獣・鳥などの食の豊かさでした。

この事は、既に縷々お伝えしているアメリカ新大陸に入って行った世界史上の大問題に関わっている、自説のMPOR説であろうと考えているからなのです。

単に日本祖代・祖人で、話は終わらないのです。

世界人類の始まりの移動・移住の歴史の中における豊富な、かつ、かなりはっきりした遺跡を有する、史上の尺度となり得る区間である、花綵 はなづな日本列島史の重要さなのです!

(了)

下図の通り、7万年前から5万年前が4℃の低下で、5万年前から3万年前が12℃の上昇であり、九州渡来や渡米など、日本人が注目すべき数々の大きなドラマがありました。

第1図

そして、ヤンガー・ドリアス(YD)期の寒戻りを過ぎて更新世から完新世への大転換となり、私は、日本祖代から縄紋本格(早期)へと変っていったものと認識しています。

東南アジアSundaland地域から日本への北上が遅れたのは、寒さと共に緯度を北上するのが難しかったからでしょう。

5万年前頃、一番寒かったからか、あるいは温暖化していく変化のときに人の認知能力の大きな発展(ビッグ・バンと呼ぶ学者あり)があったのかもです。

そして、台湾山地から曙海西側を北上し、九州に渡来して日本列島の東西を北上して3~4℃の気温上昇の中、北海道にまで至りました。

第2図

引き続き千島列島(あるいはオホーツク沿岸)、ベーリング地峡沿岸通過、アメリカ・アラスカ通過まで、一貫した気温上昇と比較的な温暖期であったことが、日本祖人を生み、かつ、発展できて渡米し得たラッキーなことでした。

第3図

なお世界史において、7~5万年前の期の4℃低下の寒冷期は、よく認識する必要があります。

現生人類の発展における出アフリカ後の東進、水平拡散の豪州は分かりますが、北上の九州渡来には時間を要しました。

従って、高緯度寒冷地へ北上していく拡散となる出アフリカ後のシベリア・中国内陸への北上進出については、私は眉唾の認識です。

現生人類・新人は、むしろ太平洋岸から河川を遡行する内陸への拡散であったのではと考えています。

内陸では、原人・旧人の遺跡と新人の遺跡をしっかり区分することが重要です。

いずれ我が国でも旧人遺跡(もしかしたら原人も)が、発見されたり認定される時が来るかも知れませんので。

(了)

来年は明治維新150年ですが、坂本龍馬も吉田松陰も教科書に登場しないらしいという問題が指摘されています。

子供たちに伝える日本史は、そんなの一杯入れて勉強させればいいだけの事と思います。

さて、日本には四方から人々が入って来て(下図、赤桃色線)出来上がったとよく紹介されますが、誤解です。

基本的には4万年前、曙海を越えて家族で九州に現生人類の人々が来てから日本祖代が始まり、北海道にまで日本祖人が拡がって後に(上図、青色線)、時代を異にして多方から様々に入って来たものです。

最初は厳しい上図の慶良間ギャップでない、曙海を時計回りで南下し、また、むしろ列島からの日本祖人の拡がりでしたでしょう。

現在の遺跡、遺物はそう示しています。

此の点で、2008年6月の国会におけるアイヌ先住民決議は、歴史の裏付けのない驚くべきもので、名称をアイヌの人権を尊重する決議とでも替えるべきです。

九州の人たちですら、自分は4万年前の先住民子孫などとはっきり言える人はいないでしょう。

正に、それが他国と異なる長い歴史を有するお国の特徴で、来年のアイヌ決議10周年には修正せねばなりません。

アイヌの人が九州に居たという史実は無く、むしろ樺太の方から、しかももっと時代を経てから来たのだろうと否定する考えの学者さんが多いとみています。

国連UN絡みのウソや誤解の多い歴史戦の様相を呈している時代でもありますし、しっかりと正して子供たちに伝えましょう。

(了)

最初の渡米ルートが、ベーリング海岸沿いに北米大陸北西岸にということが多数説になってきましたが、数十mという海水面の上昇により直接の証拠の発見は大変困難です。

そこで沿岸・内陸に痕跡を探しますが、下図の通り南米アンデス高地に痕跡があるようです。

それは、成人T細胞白血病を発症させるHTLV-1ウィルスのキャリアに関してです。

このウィルスの世界分布から、現生人類がアフリカを出る頃から保有していたとみられますが、遠隔のアンデス高地人の保有が見つかりました。

これは正に、人類の東進と環太平洋移住移動の流れでムリなく理解できます。

現在の日本でも九州、北海道、四国、離島などや人里離れたところで見つかるようで、縄文痕跡(日本祖代とも?)と符合していると言われています。

1500年前のアンデスのミイラのウィルスの塩基配列から日本人との類縁が明らかになってますので、少なくとも近現代の日本人の移住による訳では有りません。

彼らがB・シベリアタイプでなく、A・日本人と類縁であることは注目されます。

南米では、既に米Harvard医科大がアマゾンで古いDNAを発見しています。

また、ブラジルで2万年を越えるという遺跡が見つかったという情報から環太平洋移住移動MPOR説の意を強くしていますが、南米はまだまだ人里離れた所にお宝がありそうな期待が持たれます。

日本祖人の初渡米:https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

よく言われる日本列島に北から西から南から人々が来て始まり、は時代差を踏まえない誤解です。

実際は、先ず南方から九州に来て北上して一方向性でほぼ列島中に拡がった事が重要な特徴で1万年、次の更に1万年後に、北から西から狩猟族が入って来た日本祖代人の始まりの二重構造性です。

この最初の海の民系の渡来と列島中への拡がり及び定着の2万年は、列島史時間の半分を占めるものです。

水と緑と動植物の豊かな恵まれた地ですが、火山噴火や地震津波もある特色ある孤立的な島々での暮らしの基礎と言うべきものです。

そして、雪と寒冷の北海道から引き続き食料豊かな無人の地に北上して行ったと考えるべきで、最初のアメリカ人論に繋がっていきます。

古い時代の列島中に拡がっていた、既に舟で神津島などに行き来し広域の物々交換をしていた、日本祖人の暮らしの分厚い基礎があった訳です。

ところで、この日本祖代と縄文時代の後、稲作を携えた渡来人やその後の古墳時代渡来人などの流入により積み重ねられた第2の二重、三重構造時代と言うべきことになっていきます。

また、この最初の二重構造性の日本祖代と縄文時代の基層(日本史時間の93%)によって、その後入って来たものを取捨選択、変形して取り込み熟成させながら、日本文明、日本教と呼ばれる独特なものが形づくられたのだと考えます。

今でもユニークな日本の古い祭りもありますね。

(了)

日本人とは、「日本人とは何か」と問う、世界に珍しい人たちだそうです。

この問題については、埴原和郎先生が「二重構造モデル」を提唱され、それまでの①人種1~2回交代説、②土着集団と後の渡来人たちの混血説、③小進化の連続移行説 に一応の決着を付けられてます。

それは、日本列島にいる人々が日本人という事で、前述3説は北海道や南西諸島などを含む地域性を考慮していないことが問題であり、要は縄文時代人の系統がどのくらい今に至るまで残っているとみるかで分かれているとされました。。

先ず下図左下、東南アジアの原アジア人から日本祖人3代を経て縄紋時代人へと移行しました。

東南アジアの古人骨、フィリピンの古部族である黒い皮膚で小柄なネグリト、八重山の石垣島古人骨、縄文人骨に近縁性のある事が現生人類の沿岸北上の流れを窺がわせます。

日本祖代分の特筆すべき2つ事象である①姶良大噴火と②狩猟族の進入を加え、A、B、Cの3区分が考えられるとしたものが、当サイトの考えで後で説明します。

ここで、特に北海道にまで拡がった時代に引き続き樺太や千島列島に拡がって行った事が自然だと思います。

従って、約2万年前の最寒冷期に北海道へ大陸の内陸から人々の流入がありますが、出て行った人が戻ればDNA変化は少なくなります。

出来上がりの縄紋人移行時には、基本的に、①4タイプに分かれる、②本州・九州・四国等から成る地域が概ね中央のフォッサマグナ線地域で東と西に違いが見られ2分されるというように認識されます。

当サイトでは、更に日本海側と太平洋側という小違いの区分もあるものと考えています。

埴原二重構造モデルでは、方言・風俗習慣などの日本の東と西2分性と4つのタイプがいずれも皆一緒の日本人であることも指摘し、アイヌは日本人とは別というそれまでの考えを否定しました。

日本人の成り立ちは、4万年前の九州渡来から北海道に至るまでの拡がりが始まりですので、アイヌを先住民とするのは誤りです。

この点で、アイヌを先住民とした国会決議は歴史の裏付けのない不適当なもので、アイヌの人権を尊重する決議といったように名称を変更する必要があります。

先住民などと他と区別して言える人はいない歴史の古さこそが、米国やオーストラリアなどと全く異なる日本の特徴です。

他方、この埴原二重モデルは、日本犬や野生の二十日鼠、更にはATLV(成人T細胞白血病ウィルス)の保有者の分布という、其々独立して行われた性格の異なる調査研究がその二重性という内容に合致して支持していることも指摘され、大変注目されます。

さて当時はっきりと認識されていなかった縄紋前の日本祖代を追加する訳ですが、先ずは4万年前、下図の曙海から人々が海を越えて九州に至り、南下して沖縄や北上して北海道にまで拡がって日本祖人Aとなりました。

その後、実は現在分かっていることで特筆すべき点が少なくとも2つあります。

それは、B、Cの区分をもたらす元になった2.9万年前頃の姶良大噴火と約2万年前の最寒冷期のユーラシア東部内陸からの狩猟族の北と西からの進入です。

姶良大噴火は、九州大被害、西日本全域に相当の被害、火山灰は東北にまでと言われていますので、西日本の人口の減少・北への移動、そしておさまってからの人の流入となったことでしょう。

当時は海の民の暮らしが主体であったと考えますので、土地に縛られる農耕時代よりは噴火の影響が少なかったかもしれません。

注目される東と西の違いも、始まりはこの姶良大噴火の西へのインパクトであったのであろうと考えます。(その後も縄文時代の九州の喜界島噴火があります)

そして次に、氷河期最寒冷期LGM中の約2万年前の北と西からの狩猟族の進入です。北からの進入は日本海側に、西からの進入は太平洋側に大きな影響を与えたことが石器の伝播による暮らしの変化の様子で分かります。

実際に進入した人数は、与えた影響程では無かったであろうと思いますし、既に居た部族との結婚の進んだ具合は今後の更なる研究でしょう。

この段階で、関東甲信越を横断する繋がりと人の多い広大な関東平野での暮らしの中心性が生まれており、今に繋がる原型とも言えるでしょう。

このような大きな事象を受け止めながら暮らしの文化を熟成させ、やがて温暖化が進む中、全国での土器の使用の一般化、竪穴住居での定住と進化、画期的な弓矢の使用などの生活諸変化が見られた縄紋人と呼ばれることになっていきます。

祖先である日本祖人は、時に大変困難な激動の時代を生き抜きながら日本列島の暮らしの特色ある原風景を生み出し、後の時代にバトンを繋いでいます。

日本史は、〇〇時代から知れば十分と言う不遜不敬な問題点をご理解いただけましたでしょうか。

(了)

 

 

 

 

よく、日本史は○○時代以降を知れば十分と言う人がいますが、何と浅はかな事かと思います。

列島4万年史を知って言っているのだろうかです。

その大半である概ね4分の3に当たる日本祖代は、南方から北上して来た知的レベルのある現生人類が、曙海を越えて渡来して日本祖人となって本州における急速な拡大と雪と寒冷の北海道への進出を果たした事が始まりです。

その後、鹿児島姶良大噴火の災害によって九州地域はもとより、西日本が大きな被害を受け、そのAT火山灰は東北にまで及びました。

主に海辺、川辺の植物採集や漁撈の暮らしでしたので、土地に大きく依存する農耕よりは回復が図り易かったでしょう。

内部の人と渡来してくる人々によってその回復がありました。約9,000年間でした。

更に、最初の渡来に次ぐ2度目の大きなそして異質な大陸狩猟族の進入と拡がるその文化との混じり合いの地域化、変容などの多彩なドラマの経験が約8,500年間でした。

元々の海の民系の人々と新しく入って来た大陸の狩猟系の人々は、婚姻し合うというよりは混在するということだったでしょう。

しかし、狩猟系文化の影響は大きく、新旧の接触の刺激は、大きかったと思います。此の後も我が国では弥生時代にも新たな人々と稲作技術の進入が大きな影響を与えてますね。

この祖代末期に世界に誇る土器が東北で生まれました。知恵の進展、新たな異質な進入者の刺激やまだら気候の温暖化の故であったのかも知れません。

時代は、氷河の更新世から温暖化した完新世に世界史的にも大きく移り変わりました。

縄紋土器(土器には文でなく紋が入りました)が広く使われ、その後の鉄砲に比すべき画期的な弓矢が使用され、竪穴に定住して暮らすような時代へと替わっていきます。

そして、中央の関東地域にウエイトがあり、かつ、太平洋側と日本海側、南北に長い事の両面から地域性ある今に繋がる暮らしの特性が育まれました。

その習俗や精神の基層は、その後大陸や西洋から文化の大波があっても取捨選択と変形をして採り込み、日本文明と呼ばれる独特の文化の熟成が果たされています。

他方、現生人類が、出アフリカから南北アメリカ新大陸に進出していく途上の重要な世界史上の位置を占めていることも注目すべき点です。

幸いにしてこの時代の万点にのぼる遺跡が全国に有りますし、当サイトでは既報告の通り、日本祖人こそが定説より早い時期に、アメリカに初めて渡って行ったとも考えていますので。

(了)

人間の進化の歴史では、顎と脊椎が出来た4億年前頃の魚が原点だそうです。

その後、両生類として海辺で暮らし、やがて幾多の変化を経てサルになって、現生人類に進化していきました。

ここで、ヒトの体に残る海・水辺で暮らしたと思われる体験、泳ぎや潜水能力、イルカなどと共に知能に優れ音声コミュニケーション力に優れる点などの海に関わる点が注目され、進化の過程で水辺に馴染む暮らしをしていた種族なのではと思わせます。

4万年前頃、曙海の畔から両生類が陸上に上がるように現生人類が九州に上がり北上しましたが、太平洋側の早い段階での神津島への渡海による黒耀石採取が注目されます。

そして、当時からは海水面が数十mも上昇したために祖代の暮らしの痕跡は見つかりませんが、その近くの海沿い、万年前の三浦半島の夏島遺跡は、何とか祖人の暮らしを想像させます。

四季折々の海の幸や山の幸など今の日本の特色を思わせる多彩な物を食していたことが、貝塚で発見された物から分かります。

既に丸木舟で外洋魚を釣ったり漁網で魚を獲ったりしていたようです。

長く島だったので遺跡が運よく残っていたと言えます。

(遺跡説明)貝類以外に魚類も利用していたことが分かる。出土量が多いボラクロダイスズキハモコチなどは水面近くを回遊する習性を持つことから、やヤスによる突き漁、小型の骨製U字型釣り針が出土していることから釣り針を用いた釣り漁、漁網を用いた漁などが行われていたことが推測できる。またマグロカツオなど外洋性の魚類も見られ、丸木舟によってかなり沖合へ乗り出して漁労活動していたと考えられる。固い殻で覆われたドングリクルミなどの木の実をたたいて砕いたり、すり潰したりする石皿磨石などの石器の道具類が貝層の中から出土している。また、シカイノシシなどの動物の骨や釣り針なども出土している。

四面環海、長い海岸線と島に、そして川辺の高地にも日本祖人のこのような暮らしがあったことを想わせられます。

鹿児島―高知ー和歌山南ー東海南ー伊豆・三浦ー房総、4万年前からの「海の民」日本祖人の暮らしの微かな痕跡が感じられます。

日本祖人をさておいて、アイヌが先住民?腹筋崩壊です。国会決議は、先住民の語を外し、アイヌの人権を尊重する決議と名称変更すべし、日本歴史学の恥辱です。

さて、それでは、早めに渋谷ハロウィンをお楽しみください。

https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

(了)

現在、台湾と日本は1時間の時差がありますが、台湾の人たちの中にこの時差をなくして日本や韓国と同じ時間にしようという意見が出てきています。

現在の日本文化や日本統治時代の良い想い出があることも一因でしょう。

ところでそうなりますと、正に4万年前頃の日本列島史始まりの日本祖代に戻り、下図の曙海の畔が注目されます。

日本祖代の人たちは、どんな顔立ちだったのでしょう?後の時代の縄文人と出アフリカからSundaland(東南アジア)を北上してきた人たちの混じったような顔でしたでしょうか。

さて、よく縄文人は何処から来たのか?という問いが発せられますが、これは誤りです。

日本祖人が、3万年前頃、概ね列島全域に拡がった後、大陸からの新たな異質な狩猟族の進入を2万年前頃に受け、列島での暮らしを多様に熟成させた日本祖代の約2万3,500年という長い時を経て、土器が現れて縄文人と呼ばれていきます。

その頃の人は、当然、列島に継続して住んでいる祖代の人たちであって、ある日に皆が縄文人に変わった訳ではありません。

ところで、「江戸人」と言って1枚の絵を出せるでしょうか?

北の北海道から南の八重山迄生活している多様な人々を1枚でこういう人と言うのはムリでしょう、誤解の元です。

この始まりの日本祖代は、世界の行き止まりの列島で2万年を越える長い時代を過ごした海の民である日本祖人の列島における風俗習慣、文化が作られた時代です。

西・南と北・東の違いや地域ごとの人と暮らしぶりの違いも出てきていることが、残された石器などから分かります。

この日本祖代は、決して無視されるべきではない、ある時から縄文時代と呼ばれていく、未だ学術的な名前すら与えられていない、私たちの遠い祖先である日本祖人が暮らした始まりの時代です。

この国の原風景であり、近年、世界で認められている日本文明の始まりなのです。そして祖先である日本祖人は、おそらくは世界史上初めて北海道から環太平洋地域をアメリカ大陸に渡って行ったと考えられる人たちなのです。
https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

4万年前頃、南方のSundalandから北上した子孫たちが、曙海の畔での暮らしから家族で越えて九州にやって来て北上して行き、北海道にまで拡がった日本祖人の暮らしに迫ります。

下図のように、先ず、列島全域に拡がった「海の民」の暮らし振りの基層の上に、大陸からの第2層の人々が、北の樺太からと西の曙海越えの両方向から流入しました。

そのためその特徴は、西と東・北に別れ、人と文化の流れから太平洋側と日本海側に別れ、更にこの2つの流れの重なった中央部分に重心があった、重層そして熟成されたものと言えるでしょう。

(今に繋がる特徴と思いませんか?関ヶ原戦が話題ですし)

他国と違って、行き止まりと言われる日本列島における人々と文化の分かり易い特徴です。

因みに、祖代後に縄文時代を経て、弥生時代に西から米文化を持った第3層の人々が渡来して関西に重心が移り、徳川時代にまた実は大昔のように戻ったと言えるでしょう。

これが、長い旧石器時代と言われる後期の日本祖代における全国の遺跡・遺物(主に石器形式)から導かれる暮らし振りの「くにのかたち」です。

西からのA西型と北からのB北型という異なった石器形式に別れ、更に、黒曜石をみますと図のように、原産地を中心に円の広い地域の仲間で交換され、北海道の白滝産や北部九州の腰岳産は、域外にも出て行っていました。

更に、祖代から縄紋時代に移行していく頃には、細部の石器道具の作り方が地域ごとに違いを見せて来ていて暮らしぶりもグルーピングできそうな特色があったものと思わせます。

結構、道州制の議論とかみ合っていたり、今も見られる西と東・北の様々な違い(丸餅と角餅などなど)を思わせる驚きの附合と言えるものです。

日本祖代の時期的な区分は下記の前回投稿をご参照ください。

祖人分布10.5

さて、このように日本祖代を見てきますと、日本史は、近世以降を知れば十分という人もいますが、不遜でしょう。

海の民の暮らし、どんどん重なって行った4万年にわたる暮らしぶりは、精神面を含めていろいろ繋がっていることでしょう。

(了)

 

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