金沢大などの国際研究チームが、愛知県の伊川津(いかわづ)貝塚から発掘された約2500年前の縄文?人は、東南アジアの狩猟採集民族にルーツを持つ可能性があることがわかったと発表し、論文は米科学誌「サイエンス」に掲載されたそうです。

此の縄文?人骨が、ラオスの遺跡(約8000年前)から発掘された狩猟採集民族やマレーシアの遺跡(約4000年前)から見つかった人骨のゲノムとよく似ていたということです。

先ず、縄文人は2代目で日本祖人の子孫です。

下図のように、日本祖人は南方系と考えられ、今回、ラオスやマレーシアと似てるからと言って何の驚きもありません。

問題は縄文時代に、ラオスやマレーシアから日本列島に人がやって来たと受け取られるように世界の一流科学誌に書かれているのかどうかです。

そうではなく、4万年前の日本祖代にそれらの南方遺伝子を持った人々が曙海を渡って来て初代・日本祖人として北上し、その子孫の在愛知の縄文?人に受け継がれていた。

即ち2500年前頃にラオスやマレーシアから人が来た訳ではないという可能性が、しっかりと世界に伝わっているかどうかです。

世界の誤解を生む全ての問題は、2代目の縄文時代、縄文人からしか語れない学界の用語の現状にあります。

(了)

よく日本列島には、北から、西から、南から人がやって来て「日本」が出来たというような記述がありますが、誤解の元です。

石器が示すのは、4万年前頃に曙海を越えて家族で渡って来た南方系の人たちが北上し列島中に拡がった、海・川辺の生活が始まりの歴史です。

2.9万年前頃の鹿児島・姶良カルデラ大噴火は、九州と西日本そして東北にまで火山灰(AT)を降らせる影響を及ぼしたと考えられる画期です。

その後の祖代中期の特色は、既に使われていた切れ味鋭いナイフ型石器の分布に今に通ずるような地域差が生じていることです。

北海道には余り見つかりませんので、引き続きそれまでの暮らしぶりをしていたのでしょう。

このことから、西から影響が及んでいると考えられ、人も入って来て大噴火の傷跡も修復されたのでしょう。

最後の祖代後期(2万年前頃の最寒期~縄文)は、大陸のバイカル湖地域発と考えられる細石刃の異なる技法が北から、西から、入って来ています。

よく縄文人は何処からという質問を立てる人が居ますが、2代目ですので当然、日本列島からですが、この日本祖代における北と西からの人の影響変化を受けているのは特色でしょう。

入って来た人の数や影響の度合いは更なる分析が必要です。なお、北海道から出て行った親族が戻って来たことも考慮が必要でしょう。

そして、図のような概ね東西2分性は、現代にまで繋がる日本の一つの特色です。

ともかく日本史は、祖代から見て縄文時代を理解し、その後を考えて行かなくては、ホントの理解はできません!

それは、最初の厚い文化の基層の上に新しいモノを取捨選択、変形して積み重ねていった独特の一島一文明だからです。

今もって日本語が環太平洋系ながら隣国と異なり、どのようなものかよく分からない長い時を経た積み重ねですから。

(了)

現生人類は、アフリカを出て東進し東南アジアSundalandを経て、4万年前頃、爺さん婆さんと家族が舟で緑の九州に渡って来て、日本史が始まりました。

列島を北上して北海道に、南下して沖縄にまで拡がりました。

その後、特に最寒冷期LGMに新たに入って来た狩猟族を交えて日本祖代に列島文化の基層が出来上がり、次には縄文人と呼ばれる人々にバトンタッチされました。

幸いにして現代科学は当時の人の顔の一例を近い形で復元していますが、初代の日本祖人と2代目の縄文人ではもう既にちょっと違ってきています。

縄文時代の前の2万数千年間の日本祖代は、正に列島文化の基層となっています。

大昔からの長い歴史を、全国の遺跡の旧石器の足取りなどを踏まえてこんな風に記述できるのは、世界に例の無い驚異でしょう。

子供たちは、いや大人も知るべきことです。

そして、日本の大昔と言えばJomonしか知らない世界の人にも、知らせてあげたいものです。

(了)

興味あるテーマのNHK放送(人類誕生~日本にやって来た)が、ありました。

日本列島や近隣国で発見されている遺物・遺跡や人骨の状況、何よりもテレビが伝えた東南アジアSundalandの意義などから、既にこれまで報告しています標題(下図①②③)となります。

勿論、「曙海」を家族で舟(筏)で越えて来た現生人類による日本列島史始まりのこの原型が出来上った後もいろいろな事はありました。

しかし、「日本祖代」の「日本祖人」たちは、始まりの2万数千年間に列島文化の基層を作ったと言えます。

(了)

現生人類は、アフリカを出て東進し東南アジアSundalandへ、北上して台湾に5万年前以前に至り、九州に4万年前、北海道に3万年前そして更に北上を続けた歩みでした。

いずれにしても台湾を経由(長濱文化遺跡の古さ)しており、曙海を越えて来ています。

ここで注目すべきは、台湾5―九州4―北海道3と各区間1万年という大変長い時間を要しています。

考えてみれば、アフリカを出て赤道地域を行動してきた人たちですから、基本的には緯度を北上しての気温の低下や正に北海道の降雪寒冷に適応して暮らす事が大変だったことを示しているのでしょう(津軽海峡越えは短くたいしたことありません)。

もしかしたら曙海の数十kmの外洋を家族で舟(筏)に乗って越えられるようになるのにも足踏み長期間を要したのかもしれませんね。

上図の石垣人より色黒だったかもしれませんが、背は高くない似たような人たちだったろうと考えています。

そして最寒期である2万年前頃、日本列島の北と西から大陸の狩猟族が入って来て、やがて縄文時代と呼ばれることになって行きます。

日本文化の基層となった日本祖代2万数千年間は、海の民が列島中の海辺に、高原の川辺にまで上がり、遅れて入って来た異質な大陸の狩猟族と混じり合い、正に「日本祖人」として原型が形作られた時代です。

その後も混じり合い(近隣含む)は続いて変化しつつ、縄文人から現代に至ります。

(了)

祖先である現生人類の日本列島史は、曙海を越えて家族で渡って来た事から始まります。その状況の謎に迫る実験航海プロジェクトが動き出しています。初めて縄文時代を越えて私たちの祖先の歴史(日本祖代)が明らかにされていく試みを応援します。

(了)

 

ぜひ私たちの仲間になって、一緒に3万年前の大冒険に出ましょう!

主催:国立科学博物館  共催:国立台湾史前文化博物館
協力:与那国町 沖縄県立博物館・美術館 NPO法人国境地域研究センター 石垣市 竹富町 竹富町教育委員会
後援:沖縄県 沖縄県教育委員会 日本台湾交流協会

誰もが参加できるプロジェクト 新たな「クルー会員」を募集します!

私たちは実際に古代舟をつくり、実際に海へ出て、失敗もしながら、祖先たちが航海に成功した謎を探っています。どなたでもプロジェクトの経過を見ることができますが、「クルー会員」になって頂いた皆様には、最新情報を定期的に配信し、時に直接・間接の交流の場でご意見も頂き、プロジェクトにもっと深く関与して頂いています。そんなクルー会員をこの【完結編】で新たに募集しています。

航海プロジェクトのご支援(クラウドファンディング)については
こちらをご覧ください。

 

対馬暖流の無かった当時の北部九州海域は、時計回りの渡海の流れの方向がよく、浅く、幸いにして北東ア平野から北部九州へは、その後の時代もずっといい風が押してくれました。

行く手の緑の対馬が見えて、手招きしていました。曙海の畔の人々のうち、当然にして処女地である九州を偵察する人が現れ、豊かな地であることを確認しました。

その後の北海道に至るまでの拡がりを考えれば、少なくとも大人男女千人といった数の人たちの渡海が必要でしたでしょう。

さて、縄文ヴィーナスを見て思うのは、重要なのはノウハウがあり無事成功させる「お産婆さん」と一緒の事でしょう。

今と一番違うのは、何度も機会の有る重要な出産が大ごとであったことです。

出産・育児・治療・食物採集などで頼りになる婆さん爺さんが尊重され大事にされ一緒に渡海したことです。

従って、外洋を婆さん爺さんと、冒険ではなく安全に静かに渡るため、潮の流れに乗り待ってでも風に乗ることです。

当時は寒暖の差が激しい時代でした。短くても暖かい時代には樹木が得られた事と思います。

貴重な舟(筏)が出来た時期が、日本祖代の始まりの時期だったのでしょう。

現在まで見つかっている縄文の舟は丸木舟ですが、南方ノウハウのアウトリガーや双胴は有ったのではないでしょうか。帆柱の痕跡は無いようですが。

いずれにしても、安定的に北部九州に渡海することが出来るようになった時期が始まりでしたでしょう。

その後は曙海の日本列島側、そして緯度を北上する寒さに適応しながら北海道にまで拡がって行きました。

(了)

下図の列島史始まりの4万年前頃(氷河期)、海水面が数十m低かったため、北東ア平野が出現していて日本列島南西部との間に「曙海」が形成されていました。

南方から北上して来た人たちの中から、渡海して九州にやって来た人たちが現れ、異質の種族の大きな流入も無く(石器の痕跡から)同様の人たちが北海道にまで拡がりました。

下図左の「曙海」は、列島史がどのように始まったにしろ、その畔が重要な海であり、此処から舟で家族が九州にやって来て始まりました。

一方、下図右の北のベーリング海峡は陸地で閉ざされ、北極海の冷水が流れ込まない、正にハワイに繋がる海でした。

そして、陸地南岸は、「昆布kelpハイウェイ」と呼ばれる海産物が、海獣・鳥が豊かな地域が、オホーツク海~北海道~カムチャッカ半島~アラスカ湾岸~米西海岸と続いていました。

3万年前頃に北海道の降雪寒冷の暮らしに慣れた日本祖人は、そこに留まる訳もなく、次々に見える食料豊かな処女地の千島列島に舟出して行ったことでしょう。

一番遠い島間でも九州に渡って来た時より短いくらいでしたから。

さて、世界の学界は、最初に人類がアメリカ大陸に来たのは、昆布kelpハイウェイからのようだが、時期は最寒冷期LGM(2万年前頃)をすっかり過ぎて暖かくなってからとしています。

しかしその名のとおり、そのLGM後が暖かいだけでなく、その前も比較すれば暖かかった訳で条件はあまり変わらない事です。

欧米学者にとっては、単に遺跡が無いだけでなく、とてもそんな時期にシベリアから人が来たと思えない状況にあるからです。

しかし、北海道にまで日本祖人が来ていた事、千島列島を越えられたこと、何よりも「米臨海」が比較的温かく周辺の沿岸環境も悪くなかったことなどを考えれば、理論的にはLGM前に日本祖人が渡米し得た事を否定するものは無いと考えます。

有り得たか否かの理論考古先史学の推論上、当時の「米臨海」及び周辺の環境分析(動植物含む)が待たれます。(なされてきていない事が、不思議です)

近年のDNA分析による研究では、日本列島通過遺伝子が沿岸を渡米しています。

(了)

日本列島史は下図右、南方のSundaland地域から北上し、台湾山地を経て舟で曙海を渡って九州に至り北上して行ったものです。

その後の歴史を見るに当たり注目したいのは、上図左の三国志の時代に、主に大陸内部発の魏・呉・蜀と異なる海の民性ある種族が、沿岸に依然として存在していたとみられる痕跡(黄色)です。

同種族の「倭」は、入れ墨して海に潜って魚を獲る変なヤツとして魏志倭人伝で扱われています。

氷河期後の温暖化の万年の間に曙海が拡がって(年間約50m)行き、北東ア平野は消えました。

かつて曙海の畔で暮らした人たちは、上図左の痕跡から海岸線の後退に合わせながら沿岸の暮らしを続けたことが窺がわれます。

①沿岸地域の種族と②大陸内部の種族というこの2面性は、その後も大陸内部種族の伸張が続いたものの、今に続く東部アジア地域の特色と考えています。

次に列島史始まりの下図右ですが、この日本祖代には対馬暖流(8千年前頃から)が有りませんでしたので、南から黒潮流が北上して流れ込み、時計回りで曙海から出て北上して行ったのでしょう。

北部九州へは数十kmながら①流れに乗れた②良い風に押されたでしょうが、南西諸島の沖縄・慶良間ギャップ越えは、海水面低下を考えても約200kmあり、多くの家族の渡洋はこの時代にはムリだったと考えます。

因みに伊豆諸島の神津・恩馳島への黒耀石採取の行き来は、伊豆半島から伊豆諸島の見える所へ、流れに乗って行くことが出来ました(30km程度)。

従って、台湾山地以降は北東ア平野の東海岸沿いの拡がりの方が、ムリなく早かった事でしょう。

そして、五島列島~九州西岸~トカラ列島~沖縄ルートが、南への日本祖人の拡がりだったろうと考えます。

現在発見されている遺物・遺跡からは、九州4万年前、沖縄本島3.2万年前、八重山2.7万年前であり、また、台湾東部遺跡で5万年前の物があり、一応当サイトの仮説に矛盾は有りません。

因みに、大陸内部のシベリア・バイカル湖地域は2.4万年前で、大陸内部狩猟族の北と西からの渡来は、最寒期の2万年前頃でしょう。

八重山へは、西の台湾山地から(黒潮越え80km、漕舟力と直角の黒潮流速がほぼ同じで厳しい)か、東の方からか、興味深いことです。

なお、八重山の人骨遺跡では、他のように石器が見つからないとして話題になります。

竹や木、骨や貝器が、暮らしに多く使われていたものと考えますが、大陸内部の人たちと違う、日本祖代の列島沿岸の海の民の暮らしの一つの特徴でしたでしょう。

(了)

前回の時代区分の「日本祖代」について、主要な事象を年代で書き込み期区分すると下図のようになります。

①前期は、曙海を渡って舟で北部九州に来て、沖縄や北海道にまで拡がり原型の基盤が出来ました。

注目したいのは、舟で黒耀石を採集に黒潮分岐流を渡って行き来したこと、27基のワナ猟の穴という世界クラスの知力がはっきり残されていることです。

祖人について、その認知思考力、言語力、生活環境整備などが窺がわれ、「原始人」イメージは修正が必要です。

②中期は、姶良大噴火が特に西日本にもたらした大きな被害のインパクトと復興の期間です(それほどでもなかったと言う先生もいますが)。

東北、関東は充実進歩を続けたのでしょう。

そして、異質な大陸内部の狩猟族の人たちの進入のインパクトです。

また、この期間に初渡米していると思っています。

なお、世界クラスの釣り針発見(沖縄)があり、「海の民」性は、はっきりです。

③後期は、前述の進入してきた人たちとその異質な文化の影響が、列島中央にまで及び各地域で違いがはっきり出て来たことが特徴です。

北の青森で世界クラスの土器が生まれ、次の縄文時代への助走が始まりました。

やはり、南から北の降雪寒冷までの環境の多様性と季節変化に適応したこと、そもそも舟を造り海を渡って来たかなりのレベルの人たちに狩猟族が加わった混じり合いなどが、世界クラスの考古痕跡を生み出した理由なのではと考えます。

祖先の頃から地震や津波も有りましたので、激動の時代でした。

(了)

横須賀・船久保遺跡で発見された27基の穴が鹿猟の陥し穴とすると、下図右①上に掲げた標題のことが分かります。

そしてこの事は、下図左②舟を含めて縄文時代の現物が発見されている事は、実は多くの事は既に先代の日本祖代にあったのだろうと考えられます。

例えば、北海道縄文人は、アザラシ、オットセイを食べていた。本州では、魚、貝などの海産物や植物、沖縄では、サンゴ礁に棲む小さな魚、貝を食べていたと分析結果が出ています。

この事も、縄文人を日本祖人と言い換えて何の違和感もありません。時間が緩やかに流れていた時代です。

も一つ注目すべきは、下図のAのように世界最古の陥し穴は、鹿を魚のように獲っていたことです。

明らかに欧州や大陸内部のBの槍や弓矢で狩るのと違う生き方があったことを窺がわせることです。

曙海の畔から九州に海を越えて至るまでの生き方が、既にB系とは違っていた「海の民系」と言えるものでしょう。

最近の様々な発見から、最初のアメリカ人は下図2において、B系ではなくA系だろうということになってきています。その後のB系の影響力の強さで見えにくくなっていますが。

しかしこの事も、それではA系だとしても北米痕跡が1.7万年前であれば、もはや縄文人ではなく日本祖人だったのではないのかとなる訳です。

それもこれも、2代目縄文人に名前があって、先代の日本祖人という名が使われていないから分らなくなっているのです。

何故、約4万年前からの日本列島史の始まりを表現する日本祖代、日本祖人という名称がなかったのか、今もってないのか、誠に不思議なことです。

以下、ご参考まで。

(了)

 

日本祖人(日本列島史の始まり時代で、縄文人以前の人々)が、下図①黒潮分岐流の伊豆海峡を越えて舟で神津恩馳島の黒耀石を採取に行き来していたことは世界を驚かせています。

今回発見された②船久保の3万年前頃の27基の穴遺構にも驚かされることでしょう。

日本祖代(前期)におけるこの海の傍の2例は、日本祖人の相当の知的レベルを窺がわせるものです。

穴遺構は、先生方の言われる動物捕獲のためのものだとすれば、2mに及ぶ深さと一見必要ない最下部の最も大変な作業を丁寧に削り取っている匠の技が不思議です。

舟を造り家族で曙海の数十kmを越えて初めて九州に渡って来て列島中に拡がって行った祖先の人たちですので、これらの海の傍の活動は、まあ驚くほどではないのかも知れません。

また、見つかった所の地名が「船」久保であることも大いに納得するものです。

日本祖人は、毛皮のパンツに槍を持った荒っぽい人というイメージは修正しましょう。も少しスマートで目先がきいて几帳面な人たちだったのでしょう。

(了)

アフリカ発の我らが祖先である現生人類が、どのように世界に拡がったのかについて、日本列島は、今の①Wikipediaのようにこれまで長らく無視されてきました。

私はここ2年くらい当ブログで「日本祖人」を発信してきましたが、なんと上図のように②National Geographic誌が、日本列島のみならず(日本祖人の)渡米まで入れるようになりました。

③、④もそれぞれミトコンドリアDNAや人体などから赤丸のようなことで入り始めました。そして、環太平洋ルートから大陸の方へという拡がり方の表現も注目されます。

これらの②から④まで、どのようなことの結果から図に描かれているのかは不明ですが。

因みに私は、南米チリ遺跡やアマゾン古DNA,ブラジルの遺跡等から日本祖人子孫が太平洋沿岸を南下し、南米にまで拡がったと考える自説の環太平洋移動・移住MPOR(Migration along Pacific Ocean Rim)を提唱しています。

日本列島へは、4万年前頃に現生人類がやってきたという事で学界に異論はありません。

しかし、ここに掲載した図と異なり、列島史始まり期に大陸内部から日本列島に渡来したという、私には考えられない異説もあるようです。

更に、4万年前からの日本祖代間に九州から北上して北海道にまで拡がったにも拘わらず、時代を曖昧にして大陸から(あっても旧人)や北方からも来た(2万年前頃)という紛らわしい、下図と異なる図説もあるようです。

やっと祖先始まりの日本列島史が世界の議論の俎上に上がって来たことを喜びつつ、誤解を生まない図説に基づく議論の深まりを期待するものです。

なお、Yハプログループはどうかという意見があり、ネットチェックしたところ、Sundaland, 渡米、そして南米までが画れており環太平洋移動・移住MPOR自説を支持していることが分かりました。

いずれにしろ、私たちの始まりの祖先について、少なくとも大要を義務教育教科書に記述する時期が来たと考えています。

(了)

先ず下図1南方から来た人々が台湾山地から黒潮流を越えて直路で八重山に来るのは、日本祖代の始めの頃は大変だったでしょう。また、慶良間ギャップも遠い事です。

対馬暖流が無く黒潮が時計回り性の流れだったので、北東ア平野の東海岸を北上して九州北部に来たと普通に考えます。

そして、列島を北上して行き、沖縄本島へと南下して行ったのでしょう。

いずれにしろ当時の曙海の畔の東西南北の人々は、下写真に似たような人たちだったことでしょう。

その後、八重山に台湾山地から来たのか、沖縄本島から南下して来たのか興味深い事ですが、東南アジアとの強い類似性がみられます。

北海道の遠軽・白滝の黒耀石が、樺太や沿海州で見つかったと騒ぎますが、曾爺さんの所に佳い宝の石がある事は知ってました。もしかしたら形見を持って拡がったのかもですので、驚きではないです。

次に渡米ですが最初の上図2、ポイントは北極海の冷水が流れ込まないベーリング海(米臨海)は当時、正にハワイに繋がる海でした。

そして、北太平洋沿岸には下図緑の食料豊かな「昆布Kelpハイウェイ」が北海道から米西海岸へと繋がっていました。

世界の学界は何となくシベリアBのイメージのようですが、米臨海・昆布ハイウェイを考えれば普通に日本祖人Aだったでしょう。

日本列島は、世界の人類展開史に重要な地位を占めているのです。

更に、南米で新たに発見されてきている遺跡やDNAから、Sundaland~日本列島~ベリンジア南岸~米西海岸~南米太平洋沿岸へと、これも普通に環太平洋移動移住(MPOR)論が導かれます。

(了)

4万年前頃の九州から、緯度を北上して北海道にまで拡がるのに1万年も要した南方発のご先祖は、①列島に来た時から既に知力・言語による食料獲得・操舟等の生活力はかなりのレベルでした。

注目は、②早い段階からの関東と新潟・北陸の連接です。対馬暖流が無く③日本海側に大雪が降らなかった、④中央山地の八ヶ岳地域で宝物の黒耀石が豊富に採れた、⑤東京湾は無く大関東陸地・河川が在り、⑥操舟行動力があったことなどによるものです。

因みにその後の「西部・近畿史観」で、此の列島中央部が軽視されていますが、東北と共に日本文化の厚みを担っており、江戸・東京も地勢とこの万年の連綿たる歴史があってこそです。

最後に北は、⑦降雪寒冷地に適応するために長期間を要しましたが、食料が得られたのが幸いでした。

この適応が、幸いにも昆布ハイウェイがあったことから、人類初の米大陸進入となったものでしょう。

日本祖人は、⑧2.9万年前の鹿児島姶良噴火の「広域大大」災害を乗り越え、⑨2万年前頃の大陸からの狩猟族(出て行った子孫含む)の北及び西からの進入・帰来を加えて混じり合ってはっきり地域差が生まれていき、土器と弓矢などでステップアップした縄文時代へとバトンが継がれて行きます。

4万年日本史の約6割の期間を占める「日本祖代」の大半は、⑩列島中の言葉の違いが少なく、かつ重要なことは、⑪何が、正しい・好ましい・許されない・信ずる・大切、といったことに共通性のある文化・心情の厚みが出来たことでしょう。

その後の激動を乗り切り、世界で「日本文明」と言われ出していますが、大花綏国の長かった始まり祖代の意義は大きく、子供たちに伝えねばと思うのです。

(了)

 

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