最初のアメリカ人First Americans

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トランプさんがアメリカファーストであちこちを震撼させて名を馳せてますが、逆にした標題も歴史考古の世界では熱い話題となっています。

報じた英国BBC放送が、はっきり北海道ルートを入れて問題について伝えました。

今では、ベーリング地峡から無氷回廊を渡って米本土に進入した定説のルートBではなく、同地峡の南沿から昆布(kelp)ハイウェイという北太平洋沿岸ルートが新定説と言えます。

それは、AからとBからがありますが、どうも欧米の此の関連の話題は依然シベリアB発の認識のようです。

ベーリング地峡ルートの分が悪くなったのは、無氷回廊ルートが溶けて開いたのが北米や南米で見つかっている古い遺跡よりも遅かったことによります。

また、言語学的な分析に基づく大きくは2回という進入定説も、古い人骨や石器同士に関連が無い発見などから、もっと多くの人の進入の複雑な波があったのではと揺らいでいます。

この点で作成しました上図のように、シベリアBから沿岸に移る流れB’も考えられ、進入は複雑だったのではということを裏付けます。

そしてこれまで説明してきましたように、発見されている遺跡の諸報告から、B-B’ルートよりも北海道発Aルートの日本祖人の方が早かったという見方を表明してますのは当サイトですが、如何でしょうか?

当時の海水面はずっと下がっていました(数十m)ので、今、この問題を検証しうる米大陸西沿岸の海底遺跡に関心が高まってきています。

ところで、Aスタートの北海道、いや日本の学者さんで此の世界史的な大問題に迫っている方はいないようですが、こっちの方が不思議です。

(了)

日本人、基層の共通有り

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万年の大昔から、体に化粧ペインティングし、腕輪をしたりするのは人類に共通で、各地の先住民は今もたくさんの飾りを付けていますし、月に人が行く時代になっても女性たちは依然として同様にお化粧を続けています。

日本史を見ますと人を飾る南海産の貝は貴重品として欲しがられ、驚きですが北海道にまで至っています。

即ち、この長距離の地域で安全かつコミュニケーションが可能であったわけで、価値観も共通性があったことでしょう。

この他に万年の大昔でも各地の黒耀石や糸魚川の翡翠なども広範囲で交易され、注目されています。

やはり海上の島国としてのまとまりが感じられます。

神津島の黒耀石は、3.7万年前という古さ、舟で行き来したこと、南関東から伊豆地方で交易が行われていた事など注目されます。

考えて見ますと、始まりの曙海の畔の暮らしの時代から南海の貝を知った人と子孫が北上して行きましたので、暮らしに地域性があると言ってもこの共通性は驚きには当たりません。

この点で、4万年前からの日本史の始まりとは、曙海から渡った九州・沖縄発である事と北上した列島中への拡がりが特色と言えそうです。

後に北から新たな種族が入って来る、時代が下って大陸からや欧州から人が来た、戦後は進駐軍が来たと言いましても、らしさは維持されています。

何を美しい、美味しい、良い、好ましいと感ずるかの共通性は高いように思います。

虫の音を雑音ではなく音色として聞き分ける民ともいわれてますし、洗い水が豊かですので神州清潔の民と言った人もいました。

大事に子供たちに伝えていくと共に、これまで同様に外からの多様なものを取捨選択して取り込んでいけばいいのでしょう。

電車でお化粧する人や禊などと口先ばかりの清潔でない政治屋を正しつつ。

(了)

日本人とは、「日本人とは何か」と問う、世界に珍しい人たちだそうです。

この問題については、埴原和郎先生が「二重構造モデル」を提唱され、それまでの①人種1~2回交代説、②土着集団と後の渡来人たちの混血説、③小進化の連続移行説 に一応の決着を付けられてます。

それは、日本列島にいる人々が日本人という事で、前述3説は北海道や南西諸島などを含む地域性を考慮していないことが問題であり、要は縄文時代人の系統がどのくらい今に至るまで残っているとみるかで分かれているとされました。。

先ず下図左下、東南アジアの原アジア人から日本祖人3代を経て縄紋時代人へと移行しました。

東南アジアの古人骨、フィリピンの古部族である黒い皮膚で小柄なネグリト、八重山の石垣島古人骨、縄文人骨に近縁性のある事が現生人類の沿岸北上の流れを窺がわせます。

日本祖代分の特筆すべき2つ事象である①姶良大噴火と②狩猟族の進入を加え、A、B、Cの3区分が考えられるとしたものが、当サイトの考えで後で説明します。

ここで、特に北海道にまで拡がった時代に引き続き樺太や千島列島に拡がって行った事が自然だと思います。

従って、約2万年前の最寒冷期に北海道へ大陸の内陸から人々の流入がありますが、出て行った人が戻ればDNA変化は少なくなります。

出来上がりの縄紋人移行時には、基本的に、①4タイプに分かれる、②本州・九州・四国等から成る地域が概ね中央のフォッサマグナ線地域で東と西に違いが見られ2分されるというように認識されます。

当サイトでは、更に日本海側と太平洋側という小違いの区分もあるものと考えています。

埴原二重構造モデルでは、方言・風俗習慣などの日本の東と西2分性と4つのタイプがいずれも皆一緒の日本人であることも指摘し、アイヌは日本人とは別というそれまでの考えを否定しました。

日本人の成り立ちは、4万年前の九州渡来から北海道に至るまでの拡がりが始まりですので、アイヌを先住民とするのは誤りです。

この点で、アイヌを先住民とした国会決議は歴史の裏付けのない不適当なもので、アイヌの人権を尊重する決議といったように名称を変更する必要があります。

先住民などと他と区別して言える人はいない歴史の古さこそが、米国やオーストラリアなどと全く異なる日本の特徴です。

他方、この埴原二重モデルは、日本犬や野生の二十日鼠、更にはATLV(成人T細胞白血病ウィルス)の保有者の分布という、其々独立して行われた性格の異なる調査研究がその二重性という内容に合致して支持していることも指摘され、大変注目されます。

さて当時はっきりと認識されていなかった縄紋前の日本祖代を追加する訳ですが、先ずは4万年前、下図の曙海から人々が海を越えて九州に至り、南下して沖縄や北上して北海道にまで拡がって日本祖人Aとなりました。

その後、実は現在分かっていることで特筆すべき点が少なくとも2つあります。

それは、B、Cの区分をもたらす元になった2.9万年前頃の姶良大噴火と約2万年前の最寒冷期のユーラシア東部内陸からの狩猟族の北と西からの進入です。

姶良大噴火は、九州大被害、西日本全域に相当の被害、火山灰は東北にまでと言われていますので、西日本の人口の減少・北への移動、そしておさまってからの人の流入となったことでしょう。

当時は海の民の暮らしが主体であったと考えますので、土地に縛られる農耕時代よりは噴火の影響が少なかったかもしれません。

注目される東と西の違いも、始まりはこの姶良大噴火の西へのインパクトであったのであろうと考えます。(その後も縄文時代の九州の喜界島噴火があります)

そして次に、氷河期最寒冷期LGM中の約2万年前の北と西からの狩猟族の進入です。北からの進入は日本海側に、西からの進入は太平洋側に大きな影響を与えたことが石器の伝播による暮らしの変化の様子で分かります。

実際に進入した人数は、与えた影響程では無かったであろうと思いますし、既に居た部族との結婚の進んだ具合は今後の更なる研究でしょう。

この段階で、関東甲信越を横断する繋がりと人の多い広大な関東平野での暮らしの中心性が生まれており、今に繋がる原型とも言えるでしょう。

このような大きな事象を受け止めながら暮らしの文化を熟成させ、やがて温暖化が進む中、全国での土器の使用の一般化、竪穴住居での定住と進化、画期的な弓矢の使用などの生活諸変化が見られた縄紋人と呼ばれることになっていきます。

祖先である日本祖人は、時に大変困難な激動の時代を生き抜きながら日本列島の暮らしの特色ある原風景を生み出し、後の時代にバトンを繋いでいます。

日本史は、〇〇時代から知れば十分と言う不遜不敬な問題点をご理解いただけましたでしょうか。

(了)

 

 

 

 

4万年の日本史の始まりを探る者として、近年のDNA分析法はどういう体つき系統の人たちだったのかという分類が分かり大変参考にますが、万能ではないです。

分かるならばどういう心根、信仰、暮らしの習俗だったのかなどが重要です。

例えば、アメリカにいる日系5世は、米語しかしゃべれず、キリスト教徒で、ハンバーガー大好きで生魚や海藻はムリとなれば、DNAが似てるだけでは何ともなりませんね。

そういう点で、暮らしの言葉がどうであったかは極めて重要です。

ところが、出アフリカの黒い肌が環境で白い肌に変わるのが一説に8千年くらい、言葉の近縁性は5~6千年で失われると言われてますから、万年前を探ることは、一部は消えていき新旧は重なり合い、全く容易ではないです。

さて日本語は、ウラル・アルタイ系、いやタミルと近いなどの説が出ていましたがどうも違うようで、百年間探ってもともかくぴったりこれというものが見当たらない孤立系だそうです。

しかしそこで、従来の言語分析法でない、人称代名詞の共通性など幾つかの言語学上のファクターに基づく近縁性のチェックと現生人類の進出・移動・移住のDNA分析などで、万年の昔を総合的に検討していく方法論の転換があります。

これによりますと、下図のように、ユーラシアは大きな2区分A、Bとなり、日本語は括りとしてはA環太平洋だという新説(松本克己先生)が出ています。

因みに我がサイトは、環太平洋移動・移住MPOR説ですので、素人の勝手な理解ですが納得です(区分の細部の線をどう引くかは少し差異がありそうですが)。

そして、環太平洋言語圏のアメリカ太平洋語群は、先ず最寒冷期LGM前にa環日本海諸語系が入って来て、後に温暖化してから影響力の強いa’bシベリア東部の系が入って来たのだろうというのが、移動・移住の流れからの我が理解となります。

逆に、言語面からの多様な分析でそれに関することが導かれれば、逆に移動・移住の時期やルートなどを探る更に確たる手掛かりが得られるかもしれません。

そもそも、最初の出アフリカ部族は、1回、せいぜい千人内外とも言われていますので最初は皆、似たような言葉だったのでしょう。

その後、5万年前頃ともいわれていますが、飛躍的に現生人類の脳力がアップし、洞窟絵を描き、小像を作りといった画期的な生活文化の向上があったようです。

バベルの塔などという神をも畏れぬ歯向いのため、相互の言葉をバラバラにされたという寓話は興味深いです。ユーラシアで、2,000以上も言葉があるようです。

(了)

日本祖人が初めてアメリカ新大陸に渡ったのだろう! ということです。

最初のアメリカ人研究センターCenter for the Study of the First Americans (CSFA)の皆さん、日本のrichな考古学成果を採り入れてください!

九州から北海道に至る豊かな日本の旧石器遺跡の状況は、意外に世界の学界で知られていない様です。

古く極めて重要な神津島への黒耀石採取(37,000年前)の行き来も含めて。

(了)

南米大陸中央部のブラジルのサンタエリナ遺跡は、アメリカ史いや日本史を変える?! というショッキングなタイトルとします。

以前、米Harvard医科大が、南米アマゾンの3古部族のDNAの調査分析をしました。

結果は、付近の南米先住民、北米のNativeインディアンやシベリア・エスキモーなどと違い、現東南アジアの沈んだSundaland地域・同周辺の人々に近いという驚きのものでよく説明がつかず、学者さんはアタマを抱え疑いの目を向けました。

こんな古い時代に直路、太平洋を横断して南米入りするなんて遺跡上、全くあり得ませんので。

更に、そのアマゾン古部族DNAは、降雪寒冷地適応のDNA変化が無いことから世界の定説のシベリアからの者でないことになりますから。

そういう状況で、今回、23,000年を越える古い時代に南米中央にまで人類が進出していたという発見ですが、相変わらずアタマを抱えているのか世界の反応は余りありません。

使用した石器や絶滅した動物の骨などが、2千年前、万年前の地層序のしっかりした中で発見されて扱われ、ウラン・トリウム法など3種の年代測定法で分析が行われました。

その時代は氷河期で、シベリア人が-60度Cにもなる極寒の内陸やベーリング地域を越えて行ったとする学界主流説では、説明が難しいでしょうから頭抱えますね。

Sundalandから4万年前に九州に渡来して北上、30,000年前、北海道を出た日本祖人が居ました。

下図のA日本祖人が、北太平洋沿岸の昆布ハイウェイを、当時は北極海の冷水が入ってきていなかった暖かめのベーリング海沿岸ルートで渡米して南米にまで達していたんだろう、という当サイトの環太平洋移動・移住MigrationPOR説は如何でしょうか?

(了)

始まりの曙海、時計回り伝播

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当サイトが従来のいわゆる黒潮北上文化論と異なり、時計回り論を提唱する理由は、当時の台湾山地からの黒潮越え及び宮古島-沖縄本島間の家族移動の難しさにあります。

また、北東ア平野は植生豊かな沿岸の暮らしができたと考えられますので、沿岸伝いに家族で移動し発展して行った方が理解し易いです。

また、台湾側からみて危険を冒すだけの八重山の食料などの魅力があっただろうかという問題もあります。

他方、九州に渡ってからの意外に早い伊豆の神津島への操舟行き来が目を引きます。世界史的にも注目される史実です。

九州北部の五島・対馬は海が浅く島が見えます。その後の歴史を見ても、行き来は緊密で朝鮮南部は、その後の倭に含まれていました。

また、南西諸島のトカラ列島は、黒潮が西から東へ流れるのを越えますが、島間の距離は広くなくよく見える飛び石的な難しさですので、先島の方よりは行き来し易いでしょう。

台湾山地-与那国島間は、約80kmの距離もあり海流も激しく、また、宮古島から沖縄本島間は、当時でも約200kmで家族にとって渡海は厳しいでしたでしょう。

トカラ列島越えは、それまでに曙海の九州西側沿岸で暮らしてきた経験も生かされます。

現在までに発見されている上図の南西諸島の遺跡年代の状況に注目しますと、無論たまたま発見されているだけとも言えますが、沖縄本島の方が八重山・石垣島遺跡よりも古そうです。

従って、少なくとも沖縄本島までは時計回りの方が、発展の広がりを全く自然に無理なく理解できます。

時代が遥かに下った遣唐使の時代ですが、五島から沖縄本島までの連携がよく窺がわれます。

日本側から大陸へは、A:朝鮮半島北上沿い B:直接、東シナ海を渡海 C:九州西側沿岸を南下して沖縄本島から北西方向に上海の方に渡海 といったルートが有りました。

(了)

英国Cambridgeケンブリジ大学考古学誌(8月8日付)が、Franceフランス・パリ国立自然歴史博物館によるブラジルSanta Elina岩窟(下右図)遺跡の石器や動物の骨などの遺物について、研究成果を掲載しました。

1万年前、2千年前の遺物の有る厚い地層の深い層の上記遺物の発掘と分析から驚きの23,120年前のモノであるというものです。

これまでの古い南米遺跡は、14,000年前頃のチリ南部のモンテベルデ(Monte Verde)の住居跡遺跡でしたから驚きの古さのものです。

最寒冷前期(Last Glacial Maximum)という早い時期に南米のしかも内陸中央に達しています。

ともかくベーリング地峡を渡り、アラスカ-カナダ―北米-中米-南米の太平洋岸から内陸に達していることになります。

当サイトでは、現生人類のアメリカ進入については、A、Bの2種族の移動・移住を考えています。この発見で、下図のAは、23,000BP(LGM)以前に北米進入に修正です。

Bの場合、此の氷河期の冬の気温が-60~50度Cに低下したであろう極寒のシベリア内陸から上図チュコト地区に至った、とは考え難いです。

また、内陸の大型哺乳動物の狩猟族Hunterが、海辺で行動する熟練と海洋についての多くの知見を必要とする全く異なった沿海暮らしを家族ですることも容易な事では無かったでしょう。

操舟を必要とする海辺の食物獲得と喫食による長距離の進入・南下は、考え難いです。

現に、エスキモーの人たちは、殆ど沿岸から離れずに陸地主の暮らしをしています。

さてこう考えますと、此のブラジルでの発見は、既に報告しています下図A種族系の進入を示しています。

魚介・海藻を食し操舟に熟練した日本祖人による北海道からの最寒冷LGM期(約2万年前時代)前の沿岸沿いの昆布ハイウェイでの渡米及び南下である環太平洋移動・移住MPOR説を、正に支持するものです。

無論、東南アジアから直路で太平洋を南米に横断したということは、南太平洋の遺跡の状況から全く考えられないゼロが2つ違う時代の話ですので。

いずれにしろ南米では、米ハーヴァード医科大Harvard Medical Schoolが、アマゾン3古部族のDNAが北米インディアンやシベリア人ではなく、東南アジアSundalandや豪サフルランド地域の人たちに近いという驚きの分析結果を既に発表しています。

この2例目が加わったことで、再び共に注目されるでしょう。

(了)

よく、日本史は○○時代以降を知れば十分と言う人がいますが、何と浅はかな事かと思います。

列島4万年史を知って言っているのだろうかです。

その大半である概ね4分の3に当たる日本祖代は、南方から北上して来た知的レベルのある現生人類が、曙海を越えて渡来して日本祖人となって本州における急速な拡大と雪と寒冷の北海道への進出を果たした事が始まりです。

その後、鹿児島姶良大噴火の災害によって九州地域はもとより、西日本が大きな被害を受け、そのAT火山灰は東北にまで及びました。

主に海辺、川辺の植物採集や漁撈の暮らしでしたので、土地に大きく依存する農耕よりは回復が図り易かったでしょう。

内部の人と渡来してくる人々によってその回復がありました。約9,000年間でした。

更に、最初の渡来に次ぐ2度目の大きなそして異質な大陸狩猟族の進入と拡がるその文化との混じり合いの地域化、変容などの多彩なドラマの経験が約8,500年間でした。

元々の海の民系の人々と新しく入って来た大陸の狩猟系の人々は、婚姻し合うというよりは混在するということだったでしょう。

しかし、狩猟系文化の影響は大きく、新旧の接触の刺激は、大きかったと思います。此の後も我が国では弥生時代にも新たな人々と稲作技術の進入が大きな影響を与えてますね。

この祖代末期に世界に誇る土器が東北で生まれました。知恵の進展、新たな異質な進入者の刺激やまだら気候の温暖化の故であったのかも知れません。

時代は、氷河の更新世から温暖化した完新世に世界史的にも大きく移り変わりました。

縄紋土器(土器には文でなく紋が入りました)が広く使われ、その後の鉄砲に比すべき画期的な弓矢が使用され、竪穴に定住して暮らすような時代へと替わっていきます。

そして、中央の関東地域にウエイトがあり、かつ、太平洋側と日本海側、南北に長い事の両面から地域性ある今に繋がる暮らしの特性が育まれました。

その習俗や精神の基層は、その後大陸や西洋から文化の大波があっても取捨選択と変形をして採り込み、日本文明と呼ばれる独特の文化の熟成が果たされています。

他方、現生人類が、出アフリカから南北アメリカ新大陸に進出していく途上の重要な世界史上の位置を占めていることも注目すべき点です。

幸いにしてこの時代の万点にのぼる遺跡が全国に有りますし、当サイトでは既報告の通り、日本祖人こそが定説より早い時期に、アメリカに初めて渡って行ったとも考えていますので。

(了)

米国複数機関の人類学者チームが、11月3日付サイトPhys.org(下記)で、人類の米大陸への初渡米について、当サイトの既報告と同様内容の発表を行いました。

誰が、何処からかは書いてありませんが。そのポイントは以下の通りです。

①定説の14,000年前頃の北米クロービス文化人がベーリング地峡から来たというのは間違い。南米含めて古い遺跡が発見されてきている。

②歩いて来たんじゃない、舟で食が豊かな当時の北太平洋沿岸の「昆布kelpハイウェイ」から来た。

③海水面の上昇で今は海面下である彼らの暮らしから、沖合offshoreの研究が必要だ。

その通りですが、私は、北極海の冷水がベーリング地峡で止まりベーリング海に流れ込まなかった時代の地域の状況を考察する諸学協同の環境シミュレーション(気温、動植物食料等)が重要だと思います。

いずれにしろ、既諸報告のとおり、日本祖人が北海道から30,000年前以降も島々沿岸の北上を続け、初渡米したものと考えています。

記事では、日本の遺跡について、写真の中で -16000~13000としてます、日本の事のPR不足ですね!

日本列島史は40,000年前からで、37,000年前には伊豆・神津島に舟で黒耀石を採りに行き来していますから。世界の学界には知られてないんですね~。

Anthropologist group suggests first humans to the Americas arrived via the kelp highway

November 3, 2017 by Bob Yirka report

Recent archaeological finds show that pre-Clovis people arrived in the Americas before 13,500 years ago, likely via a coastal route along the Pacific Coast. Higher sea levels make finding direct evidence difficult. Credit: (c) J. YOU AND N. …more

(Phys.org)—A team of anthropologists from several institutions in the U.S. has offered a Perspective piece in the journal Science outlining current theories regarding the first humans to populate the Americas. In their paper, they scrap the conventional view that Clovis people making their way across a Bering land bridge were the first to arrive in the Americas—more recent evidence suggests others arrived far earlier, likely using boats to travel just offshore.

As the authors note, for most of the last century, the accepted theory of humans’ first arrival was via the land bridge in what is now the Bering Strait—at the time, sea levels would have been much lower. Those early settlers, named the Clovis people, were theorized to have traveled down a central ice-free corridor into what is now the U.S. approximately 13,500 years ago. But, as the authors also note, evidence since the late 1980s has shown that there were people living in parts of the Americas long before the time of the Clovis migration. Archaeological evidence of people living on islands off of Asia and on the North and South American coasts (some as far south as Chile) has been found going as far back as 14,000 to 18,000 years ago. Evidence has also been found of people living in the North American interior as far back as 16,000 years ago.

All this new evidence, the authors report, has caused most experts in the field to abandon the idea of the Clovis people as the first to arrive. Most now believe that the first people to arrive did so by boat rather than walking, and they did it by following the coasts, not through the interior. This would have been possible, the authors note, because of what has come to be known as the kelp highway—kelp forests growing just offshore. All that kelp, it has been noted, would have provided a rich habitat for sea creatures upon which hearty travelers could feast.

The authors conclude by noting that too little research has been done offshore—the early travelers would have been residing mostly on land that is now covered by the sea due to higher worldwide ocean levels. If the scientific community truly wants to learn more about human migration to the Americas, they suggest, more work needs to be done offshore.

Explore further: New evidence — Clovis people not first to populate North America

More information: Todd J. Braje et al. Finding the first Americans, Science (2017). DOI: 10.1126/science.aao5473

Summary
For much of the 20th century, most archaeologists believed humans first colonized the Americas ∼13,500 years ago via an overland route that crossed Beringia and followed a long and narrow, mostly ice-free corridor to the vast plains of central North America. There, Clovis people and their descendants hunted large game and spread rapidly through the New World. Twentieth-century discoveries of distinctive Clovis artifacts throughout North America, some associated with mammoth or mastodon kill sites, supported this “Clovis-first” model. North America’s coastlines and their rich marine, estuarine, riverine, and terrestrial ecosystems were peripheral to the story of how and when the Americas were first settled by humans. Recent work along the Pacific coastlines of North and South America has revealed that these environments were settled early and continuously provided a rich diversity of subsistence options and technological resources for New World hunter-gatherers.

Journal reference: Science

Read more at: https://phys.org/news/2017-11-anthropologist-group-humans-americas-kelp.html#jCp

(了)

First indigenous American from Eurasia.

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Original Japanese ancestor came to Kyusyu,  southern Japan by crossing sea in around 40,000 BP and prevailed up north to Hokkaido by 30,000BP.

Many Paleolithic sites all over Japan indicates it. Then they probably continued to go up north and stepped in American continent along coastal route before Last Glacial Maximum.

カナダ・モントリオール大学チームUniversity Montréalが、米加国境近くで既に発見されているBlueFishムツ洞窟遺跡で掘り出されたの動物の骨を再精査しました。

遺物はいろいろ出ていますが、中に見られた馬やカリブー(北米産トナカイ)の骨についている下写真の傷は、人の手によるモノで約25,000年前頃という判断をし、今年1月に発表しました。

28,000年前頃のマンモスの骨も既に発見されています。

しかし此の発表も、シベリア・アラスカ・カナダのベーリング地域や北米で発見されている遺跡遺物がせいぜい14,000年前程度以後のモノで、このムツ洞窟遺物の桁違いに孤立した古さから、どうも学界ではっきり認められていないようなのです。

無論こんな場合はいつも、傷が人の手によるものか、年代測定は妥当なのかはしばしば問題になりますが。

さて、人類の渡米については下図で、環太平洋沿いA赤、シベリアからB黄がありますが、欧米学界は長らくBイメージでしたが、近年はB-沿岸のように変わってきているようです。

シベリアBからは、一般にC緑をイメージしますから、そんな大昔に、真冬はマイナス50~40度Cになる内陸極寒における石器時代人の家族移動・生活は、困難なので発見の遺物の古さは信じがたいとの思いが強いようです。

(実は彼らが学校で教わった地図では、一番右と左に遠く離れて分かれていました。くっついていてかつ昆布ハイウェイが走っていることなどもイメージし難いかもです)

私が問題にしたいのは違っています。

ところで欧米学者さん、4万年前に海を越えて九州に渡来し、3万年前には北海道にまで拡がっていた日本祖人が居た事を認識されているのでしょうか?という事です。

帯広の寒い雪の中の暮らしに慣れた人たちの遺跡遺物は豊富にあります。そこからの北上は、食料豊かな処女地で行く手の千島の島々は見えてました(樺太回りなら陸続き)。

そして重要な事は下図の通り、当時のベーリング海は北極海の冷水が入ってこないハワイに繋がる海でした。

海水温はもとより、気温、海流、食物となる動植物、何より移動・生活のし易さが違っていたでしょう。

温かめなので食料動植物が良かったとは一概に言えませんが、ともかく極寒の地での行動や生活が比較的し易かったことは重要です。

ということから、プーチンもいなかったのに(笑)、日本祖人が北海道を出て北上しなかったとは、それまでの現生人類の歩みから考えられません。

さて、日本祖人が北上したとすると、5,000年かけて最も寒くなった最高寒期LGM(約2万年前頃)になる前にアラスカのYukon川を遡行してムツ洞窟に行き、他方、南下して米本土西海岸に達している事は、それまでの人類の歩みから十分あり得る(そういう行程Aの海の民家族は成功確率が高かった)、理解しうるものです。

因みに、祖人子孫の縄文人は、土器が発見された16,500年前頃からそう呼ばれてますので本件に関り有りません、渡米はあくまで縄文人以前の「日本祖人の子孫」の偉業です。

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo
https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

 (了)

ハロウィンの時節となり、派手な入れ墨をする人もいます。

入れ墨のtatooや禁忌のタブーなどは、欧州人がポリネシア人と接して採り入れた言葉といわれてますから、これは数百年前の新しい事です。

世界には未だに万年前の石器時代のような暮らしをしている種族がおり、原色のボディペインティングをして装身具で飾っています。

このペインティングや切り傷つけ(創痕生成)などから体への入れ墨は生まれたのでしょう。

豊穣や戦いへの願い、魔除け・厄禍を防ぐ、仲間の識別、男女とも一人前・成人になった証に、漁撈の安全、獲物の祝い、など様々な理由と仕方の種類があったようです。

彫り込む紋様も、例えば「+」や「✖」などは魔除けの記号であり、トーテム信仰に基づくものであったようです。

顔料も使われ永久に消えない事が、来世へ持っていけて食物を得る、身元を確認するといったことがあったようです。

注目しますのは、南方から台湾、日本列島、ベーリング海地域でも見られ、北米、南米の先住民部族にも見られ、遠隔の地の類似性もあります。

魏志倭人伝(AD3世紀末)の時代になっても倭人は黥面文身して海に潜るヘンな奴たちという扱いでした。

近世でも入墨は残り、生魚や海藻を好んで食すことと共に欧米人に違いを強く意識させています。

今や和食がすっかり素晴らしいものとして世界で受け止められていますが、少し前までは全く考えられない事でした。

人類の起源のアフリカ、裸で過ごせる南方で始まった習俗が北上して拡がり、痛みを伴い入れ墨が今も各地に根強く残っていることは、それが信仰などと結びついた精神性の高いものであったことを窺がわせます。

江戸期の罪人への入れ墨、明治の入墨禁止令の影響は大きいもので、急速に廃れて行きましたが、元来、縄文時代の土偶にも入墨線刻が見られて歴史は古いものです。

4万年前に九州西側の当時の曙海を越えて、家族で列島にやって来て拡がった海の民である日本祖人に想いを馳せる時、おそらくボディペインティング、入れ墨をしていたのではと思います。

さて、DNA分析で日本人は何処から来たのかがよく論じられます。

しかし例えば、アメリカで日系の結婚を重ねた日系5世を考えた場合、DNA分析では日本人となるのでしょうが、言葉も出来ず、和食よりもハンバーガーやステーキの方を好むでしょう。

体と言う容れ物ではなく、遺物として残らない言葉や心や習俗といった脳の働きが重要です。

洞窟絵や土偶などといった物と同様に、消えゆく入墨習俗は重要な心の働きや種族の関係を窺がわせるものとしてもっと研究される必要があるでしょう。

シベリア、アラスカといった着ぶくれする所でも入れ墨の習俗はあるのですから驚きです。

DNA分析と共に、そこに着目すれば、ずっと古い時代に南方の海の民の人々が北上し、日本列島、ベーリング海地域を経て北・南アメリカへ進出して行ったことが、無理なく理解できると思います。

何しろ、どう調べても太平洋を西から東の南米へ万年前に渡って行った痕跡が全く無いからです。

下の写真の遠いブラジル秘境のこの女性は、入れ墨が無ければ全く違和感なく日本で見られますよね。驚きです。

そして入れ墨者をヘンなヤツと思う大陸内部の狩猟族の人々(B)と、沿岸や島々の海の民の人々(A)との特色2区分、史的な違いが注目されます。

閑話休題。

ハロウィンの画像を用いた南方紹介です。

https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

(了)

カリフォルニア大学サンタクルーズ校の主導によるイースター島の古代人DNAの研究結果は「Current Biology」に掲載されていますが、南米との関係が全くないというものでした。

ということは、下図のように西方から航海して移住してきたことになります。

我がサイトでは、アマゾン古部族のDNAがSundaland地域の古部族に近い事や、環太平洋地域の遺跡遺物の状況から、既に幾度となくご説明していますが、現生人類の移動・移住を出アフリカ-Sundaland-日本列島-Beringia-北南アメリカという環太平洋沿岸時計回りの移動・移住(Migration along Pacific Ocean Rim)説を提唱しています。

そして、沿岸ルートが最古としておりますのは、北米の氷床通路が温暖化で開いたのが上図のように12,500年前でして、その時すでに沿岸ルートの南米チリ遺跡(14,000年前頃)にまで進出していたことが分かっています。

北海道を3万年前以降に通過した世界最古のルート。今回の加大の研究結果は、これをはっきり裏付けたものと考えています。

ハロウィンが近づいておりますね。

https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

(了)

人間の進化の歴史では、顎と脊椎が出来た4億年前頃の魚が原点だそうです。

その後、両生類として海辺で暮らし、やがて幾多の変化を経てサルになって、現生人類に進化していきました。

ここで、ヒトの体に残る海・水辺で暮らしたと思われる体験、泳ぎや潜水能力、イルカなどと共に知能に優れ音声コミュニケーション力に優れる点などの海に関わる点が注目され、進化の過程で水辺に馴染む暮らしをしていた種族なのではと思わせます。

4万年前頃、曙海の畔から両生類が陸上に上がるように現生人類が九州に上がり北上しましたが、太平洋側の早い段階での神津島への渡海による黒耀石採取が注目されます。

そして、当時からは海水面が数十mも上昇したために祖代の暮らしの痕跡は見つかりませんが、その近くの海沿い、万年前の三浦半島の夏島遺跡は、何とか祖人の暮らしを想像させます。

四季折々の海の幸や山の幸など今の日本の特色を思わせる多彩な物を食していたことが、貝塚で発見された物から分かります。

既に丸木舟で外洋魚を釣ったり漁網で魚を獲ったりしていたようです。

長く島だったので遺跡が運よく残っていたと言えます。

(遺跡説明)貝類以外に魚類も利用していたことが分かる。出土量が多いボラクロダイスズキハモコチなどは水面近くを回遊する習性を持つことから、やヤスによる突き漁、小型の骨製U字型釣り針が出土していることから釣り針を用いた釣り漁、漁網を用いた漁などが行われていたことが推測できる。またマグロカツオなど外洋性の魚類も見られ、丸木舟によってかなり沖合へ乗り出して漁労活動していたと考えられる。固い殻で覆われたドングリクルミなどの木の実をたたいて砕いたり、すり潰したりする石皿磨石などの石器の道具類が貝層の中から出土している。また、シカイノシシなどの動物の骨や釣り針なども出土している。

四面環海、長い海岸線と島に、そして川辺の高地にも日本祖人のこのような暮らしがあったことを想わせられます。

鹿児島―高知ー和歌山南ー東海南ー伊豆・三浦ー房総、4万年前からの「海の民」日本祖人の暮らしの微かな痕跡が感じられます。

日本祖人をさておいて、アイヌが先住民?腹筋崩壊です。国会決議は、先住民の語を外し、アイヌの人権を尊重する決議と名称変更すべし、日本歴史学の恥辱です。

さて、それでは、早めに渋谷ハロウィンをお楽しみください。

https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

(了)

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