日本人は何処から? 下図1のように、時代を異にする事を一緒に書くのは誤解の元で✖です。②、③は後々の話です。

中には縄文人は何処から?という本もありますが、2代目なのですから日本列島に決まっています。

さて上図の①として、当時は台湾山地の後、右図2のように北東ア平野があり、「曙海」となっており、対馬暖流が無くといった地形の違いと気温も4℃程度低かったようです。

台湾での痕跡が図1の長濱5万年前とすれば、図2のように九州まで1万年かかっているのは気温のせいでしょう。

更に1万年を要して北海道に拡がっているのも降雪寒冷への対応のためで、南方ルーツの人たちの北上の故と考えています。

私は図1で、当時は南西諸島の慶良間ギャップの北上越えは余りに遠距離でムリ、家族での八重山への激しい黒潮横断すらも、今論じている始まりの頃は難しかっただろうと考えています。

あの神津・恩馳島への黒耀石採取の舟は、言わばベテランによる黒潮分岐流に乗った、実質20km程度の見えている島伝いのものだったろうと考えています。

従って普通に、北東ア平野の東沿岸を北上して流れに乗って北部九州へという事だったでしょう。

注目すべきは、いずれにしろ此の「曙海」の周辺の人たちは、上図左写真の男に似たような”海の民“性を有した人たちであった事です。

他国ではその後の歴史でかなり変わってしまって分りにくくなっています。

しかし日本では、極東にあり大陸と距離を置いた島国であった事などから、4万年を経た今も大陸と異なるその習俗などが列島に残っていると感じられる事です。

最近では、ベーリング海を越えた米大陸太平洋沿岸にも、こちらとの繋がりを窺がわせるものが発見され出していて、「環太平洋」という先史視点が注目されます。

(了)

横須賀・船久保遺跡で発見された27基の穴が鹿猟の陥し穴とすると、下図右①上に掲げた標題のことが分かります。

そしてこの事は、下図左②舟を含めて縄文時代の現物が発見されている事は、実は多くの事は既に先代の日本祖代にあったのだろうと考えられます。

例えば、北海道縄文人は、アザラシ、オットセイを食べていた。本州では、魚、貝などの海産物や植物、沖縄では、サンゴ礁に棲む小さな魚、貝を食べていたと分析結果が出ています。

この事も、縄文人を日本祖人と言い換えて何の違和感もありません。時間が緩やかに流れていた時代です。

も一つ注目すべきは、下図のAのように世界最古の陥し穴は、鹿を魚のように獲っていたことです。

明らかに欧州や大陸内部のBの槍や弓矢で狩るのと違う生き方があったことを窺がわせることです。

曙海の畔から九州に海を越えて至るまでの生き方が、既にB系とは違っていた「海の民系」と言えるものでしょう。

最近の様々な発見から、最初のアメリカ人は下図2において、B系ではなくA系だろうということになってきています。その後のB系の影響力の強さで見えにくくなっていますが。

しかしこの事も、それではA系だとしても北米痕跡が1.7万年前であれば、もはや縄文人ではなく日本祖人だったのではないのかとなる訳です。

それもこれも、2代目縄文人に名前があって、先代の日本祖人という名が使われていないから分らなくなっているのです。

何故、約4万年前からの日本列島史の始まりを表現する日本祖代、日本祖人という名称がなかったのか、今もってないのか、誠に不思議なことです。

以下、ご参考まで。

(了)

 

日本祖人(日本列島史の始まり時代で、縄文人以前の人々)が、下図①黒潮分岐流の伊豆海峡を越えて舟で神津恩馳島の黒耀石を採取に行き来していたことは世界を驚かせています。

今回発見された②船久保の3万年前頃の27基の穴遺構にも驚かされることでしょう。

日本祖代(前期)におけるこの海の傍の2例は、日本祖人の相当の知的レベルを窺がわせるものです。

穴遺構は、先生方の言われる動物捕獲のためのものだとすれば、2mに及ぶ深さと一見必要ない最下部の最も大変な作業を丁寧に削り取っている匠の技が不思議です。

舟を造り家族で曙海の数十kmを越えて初めて九州に渡って来て列島中に拡がって行った祖先の人たちですので、これらの海の傍の活動は、まあ驚くほどではないのかも知れません。

また、見つかった所の地名が「船」久保であることも大いに納得するものです。

日本祖人は、毛皮のパンツに槍を持った荒っぽい人というイメージは修正しましょう。も少しスマートで目先がきいて几帳面な人たちだったのでしょう。

(了)

アフリカ発の我らが祖先である現生人類が、どのように世界に拡がったのかについて、日本列島は、今の①Wikipediaのようにこれまで長らく無視されてきました。

私はここ2年くらい当ブログで「日本祖人」を発信してきましたが、なんと上図のように②National Geographic誌が、日本列島のみならず(日本祖人の)渡米まで入れるようになりました。

③、④もそれぞれミトコンドリアDNAや人体などから赤丸のようなことで入り始めました。そして、環太平洋ルートから大陸の方へという拡がり方の表現も注目されます。

これらの②から④まで、どのようなことの結果から図に描かれているのかは不明ですが。

因みに私は、南米チリ遺跡やアマゾン古DNA,ブラジルの遺跡等から日本祖人子孫が太平洋沿岸を南下し、南米にまで拡がったと考える自説の環太平洋移動・移住MPOR(Migration along Pacific Ocean Rim)を提唱しています。

日本列島へは、4万年前頃に現生人類がやってきたという事で学界に異論はありません。

しかし、ここに掲載した図と異なり、列島史始まり期に大陸内部から日本列島に渡来したという、私には考えられない異説もあるようです。

更に、4万年前からの日本祖代間に九州から北上して北海道にまで拡がったにも拘わらず、時代を曖昧にして大陸から(あっても旧人)や北方からも来た(2万年前頃)という紛らわしい、下図と異なる図説もあるようです。

やっと祖先始まりの日本列島史が世界の議論の俎上に上がって来たことを喜びつつ、誤解を生まない図説に基づく議論の深まりを期待するものです。

なお、Yハプログループはどうかという意見があり、ネットチェックしたところ、Sundaland, 渡米、そして南米までが画れており環太平洋移動・移住MPOR自説を支持していることが分かりました。

いずれにしろ、私たちの始まりの祖先について、少なくとも大要を義務教育教科書に記述する時期が来たと考えています。

(了)

先ず下図1南方から来た人々が台湾山地から黒潮流を越えて直路で八重山に来るのは、日本祖代の始めの頃は大変だったでしょう。また、慶良間ギャップも遠い事です。

対馬暖流が無く黒潮が時計回り性の流れだったので、北東ア平野の東海岸を北上して九州北部に来たと普通に考えます。

そして、列島を北上して行き、沖縄本島へと南下して行ったのでしょう。

いずれにしろ当時の曙海の畔の東西南北の人々は、下写真に似たような人たちだったことでしょう。

その後、八重山に台湾山地から来たのか、沖縄本島から南下して来たのか興味深い事ですが、東南アジアとの強い類似性がみられます。

北海道の遠軽・白滝の黒耀石が、樺太や沿海州で見つかったと騒ぎますが、曾爺さんの所に佳い宝の石がある事は知ってました。もしかしたら形見を持って拡がったのかもですので、驚きではないです。

次に渡米ですが最初の上図2、ポイントは北極海の冷水が流れ込まないベーリング海(米臨海)は当時、正にハワイに繋がる海でした。

そして、北太平洋沿岸には下図緑の食料豊かな「昆布Kelpハイウェイ」が北海道から米西海岸へと繋がっていました。

世界の学界は何となくシベリアBのイメージのようですが、米臨海・昆布ハイウェイを考えれば普通に日本祖人Aだったでしょう。

日本列島は、世界の人類展開史に重要な地位を占めているのです。

更に、南米で新たに発見されてきている遺跡やDNAから、Sundaland~日本列島~ベリンジア南岸~米西海岸~南米太平洋沿岸へと、これも普通に環太平洋移動移住(MPOR)論が導かれます。

(了)

日本祖人の初渡米に関して

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4万年前頃、日本列島に千を超す家族が舟で渡って来て、3万年前頃には北海道にまで拡がった日本祖人は、降雪寒冷に慣れて下図1のように引き続き北上したことでしょう(食料豊かでプーチンも誰も居ませんでしたので)。

今回、上図2のように、Science Advances 誌 が、氷河期の北米西岸の氷床が最寒期LGM直後のT2:17,000年前頃から人類の移動、食料等の点で行動が可能であったという発表をしました。

米大陸進入については、「昆布ハイウェイ」の沿岸ルートが新たな定説ですが、A:北海道ルート、B:シベリアルートについては、何となく世界ではBと思われているようです。

さて、氷床が最寒期LGM直後のT2に行動可能であるなら、そのLGM前のT1:2.5万年前頃も北米西岸に行動可能性が有ります。

ここで、カナダのユーコン川上流のムツ洞窟遺跡で24,800年前頃という遺物が出ていて注目されます。

3万年前に北海道に達していた日本祖人が、T1の氷床の状況からも北米西岸を一応行動可能であったことが、世界では未だ全く理解されていないようです。

Bルートのシベリア内陸は、今でも真冬はー60℃、亡くなる人が出ています。

一方、当時のベーリング海は今と違って、北極海の冷水が流れ込まない、正にハワイに繋がる海でした。

(了)

 

学校で教えてもらえなかった日本列島・現生人類の始まり時代、遥かな大昔の私たちの祖先の事。

これまでの諸報告を考え方を含めて要約いたしました。

日本列島人は、どこから、いつ、どのように始まって、そして、どのように進んで行ったのか。渡米まで含めての要約です。

その独特の歩みと文化の熟成は、近年、「日本文明」と言われていますが、その訳の一端もご理解されるでしょう。日本史は、○○時代を知ればとは何とも傲慢です。

流せば50秒ですが、適宜スライドを止めて、ゆっくりマイペースでご覧ください。

東京湾岸・市ヶ谷の縄文人が魚介好きだったはいいとして、福井の鳥浜遺跡人もそうだった、そして今回、内陸である福島・喜多方の1500年前の豪族もそうだった、DNAは縄文人と大きく異なるのにと学者先生を驚かせています。

そもそも、先祖の「日本祖人」である原始人は、ひげもじゃで槍を持った裸に毛皮のパンツ的な格好で獣を獲るのイメージのようですが、実は我が国の発見された人骨は意外に魚介類好きです。

日本史に詳しい欧米人は、アジアで急速に近代化した日本の不思議を感じ、言語・慣習・信仰などがどうも大陸・半島と違うそのFar Eastの外辺・孤立に原因があるようだと考えています。

そこには、4万年前から熟成されたモノがあることがよく理解されていないようです。

舟を造り九州へ家族で千を超える数が渡海した始まりと3万年前には列島に拡がり、西からはその後も舟で来れる人が来ていたのです。

歴史は海で暮らす人が陸の暮らしになって行くが、逆は攻撃でもされないと殆どないです。

DNAは兎も角、魚介好きは私たちの大事な特色で、魏志倭人伝の昔は入れ墨して海に潜る、少し前までは生魚・海の雑草を喰う変な奴と言われていました。

因みに南米の太平洋岸の高山に海藻を大事にし、好む不思議な人たちがいます。

誰だ、他所者にトロ、刺身の旨さを、海藻サラダのヘルシーを教えちまったのは!

(了)

 

日本人は何処から?という質問をする人が日本人と言われています。

世界が納得する話を繋げると自然に見えてきます。

DNAから、石器から、そして歪曲の排除です。

猿や旧人と認知・思考力が格段に違う現生人類・日本祖人が、我々の祖先です(旧人が僅か入ってますが)。

基軸は、アフリカ発、豪州への渡海到達です。

人類の広がりは、①渡海と②緯度の北上という問題があります。

これらを認識し、標題となります。列島史が4万年前は学界共通認識で、3万年前以前の石器は、北海道北部や樺太、で発見されていません。

北の樺太から北海道に入ったのは、2万年前頃以降と考えられています。

3.7万年前に、伊豆諸島に先祖の日本祖人は舟で行き来して黒耀石を採集し、世界を驚かせていますが、列島史の流れを考える上でも重要な実証史実です。

そして、古い石器の分布が日本祖人の北上を示しています。

(了)

 

4万年前頃、曙海を越えて家族で九州に3万年前には北海道にまで拡がった日本祖人は、3.7万年前に神津・恩馳島の黒耀石を採取しに「伊豆海峡」を舟で渡って行き来していたことが、ホントかと言われる世界の驚きです。

当時は海水面が数十m低く、伊豆諸島は今より陸地が拡がっていましたので、この海を「伊豆海峡」と私は呼んでいますが、それにより世界の驚きはそれほど不思議ではないです。

そもそもが渡海の民で、海峡行き来も北極星と太陽を目印に舟を進めれば迷子にならずに出来ます。

特に、宝物黒耀石を積んだ帰りの重い舟を北極星に向けて進めれば帰れ、しかも縄文早期から確認される、黒耀石の集散根拠地(縄文中期)で目立つ丘陵の見高段間遺跡が、恩馳~北極星の正に線上にある事が重要です。

半島側から流れのある海峡を太陽を目印に対岸に渡り、今の諸島海岸の歩けるところは舟を曳き、要すれば海岸で一泊、目的地で日中に採集して、暗くなって北極星を目指して仲間の所に帰れば、変な所に上陸して襲われて宝物を奪われる事もありません。

世界の皆さん、日本祖人の海峡行き来は、ホントです。

蛍光X線分析装置などで、科学的にも実証されています。

(了)

前回、4万年前に九州に渡海して来た日本祖人の早い段階における日本の中央部の連接、即ち新潟・北陸と大関東の結びつきを、当時は前者に大雪が降らなかったことや中央山地の黒耀石を挙げるなどしてお伝えしました。

下図左で分かります様に1,500万年前(!)に観音開きが閉じるように日本列島が出来ました。

日本祖人の時代から今も中央部が特異な意味を有していることが関連付けられるのです。

次に、旧人のデニソワ人は、アジアのネアンデルタール人とも言え、古いSundaland地域系の人のDNAに4%くらい含まれる交雑が知られています。

そして現生人類が結局生き残ったのは、運動能力、何よりも記憶・言語を司る「小脳」による思考力の差だと言われていますが、それと共に「犬」のせい(パットシップマン本)とも言われています。

日本の発見最古の飼い犬は「夏島貝塚」で見つかっています。

現生人類が列島に来る前の大陸と陸続きであった昔に、デニソワ人が来ていた可能性は無いわけでは有りません。

そして前回は北海道に拡がるまで、降雪寒冷地に適応していくために1万年も要したとお伝えしましたが、もしかしたらデニソワ人と日本祖人が、いや祖人・犬のペアが、争って拡がるのに1万年を要したかもしれないというロマンを付け加えます。

いずれにしても、日本史は○○時代からで十分なんて傲慢です。観音開きが閉じる遥かな大昔から今に繫がる歩みが有ります。

子供たちに伝えていきましょう。

(了)

4万年前頃の九州から、緯度を北上して北海道にまで拡がるのに1万年も要した南方発のご先祖は、①列島に来た時から既に知力・言語による食料獲得・操舟等の生活力はかなりのレベルでした。

注目は、②早い段階からの関東と新潟・北陸の連接です。対馬暖流が無く③日本海側に大雪が降らなかった、④中央山地の八ヶ岳地域で宝物の黒耀石が豊富に採れた、⑤東京湾は無く大関東陸地・河川が在り、⑥操舟行動力があったことなどによるものです。

因みにその後の「西部・近畿史観」で、此の列島中央部が軽視されていますが、東北と共に日本文化の厚みを担っており、江戸・東京も地勢とこの万年の連綿たる歴史があってこそです。

最後に北は、⑦降雪寒冷地に適応するために長期間を要しましたが、食料が得られたのが幸いでした。

この適応が、幸いにも昆布ハイウェイがあったことから、人類初の米大陸進入となったものでしょう。

日本祖人は、⑧2.9万年前の鹿児島姶良噴火の「広域大大」災害を乗り越え、⑨2万年前頃の大陸からの狩猟族(出て行った子孫含む)の北及び西からの進入・帰来を加えて混じり合ってはっきり地域差が生まれていき、土器と弓矢などでステップアップした縄文時代へとバトンが継がれて行きます。

4万年日本史の約6割の期間を占める「日本祖代」の大半は、⑩列島中の言葉の違いが少なく、かつ重要なことは、⑪何が、正しい・好ましい・許されない・信ずる・大切、といったことに共通性のある文化・心情の厚みが出来たことでしょう。

その後の激動を乗り切り、世界で「日本文明」と言われ出していますが、大花綏国の長かった始まり祖代の意義は大きく、子供たちに伝えねばと思うのです。

(了)

 

世界に伍して存在していく時代は、列島史の始まりを先ず見つめる、子供たちに伝える事からでしょう。

例えば縄紋土器は、世界の注目・高い評価を得ていますし、更にずっと前の日本祖人の石器は匠の技の原点と言ってもいいでしょう。

祖先は、明らかに4万年前という大昔に曙海のほとりから舟で九州に渡海して来てます。

3万年前には沖縄から北海道まで列島中に拡がっていますが、途中の3.7万年前頃、伊豆の神津・恩馳島に舟で黒耀石を採取に行き来していて、世界をびっくりさせています。

原点を見つめ、子供たちに伝えましょう!

(了)

前回の内容から、下図の渡米Aタイプ論も掲題に関係し、図右の4つの「無い」が我が結論です。

先ず第1は、降雪寒冷地問題です。米Harvard医科大は、アマゾン古部族のDNAがSundaland・豪州地域の先住民に近いという驚きの発表をしました。

此の意義は重要で、降雪寒冷地適応をしていない古い人がアマゾン流域に今も居るという事です。

万年の昔に人類が太平洋を直路横断したと考えている学者はいません。

そして、Aタイプ渡米論を知ってない人はいても否定する学者はいません。

最後に、一部に縄文人が直路アメリカ大陸に渡ったと言う人が居ますが、渡った大陸で成立するだけの多数の家族が直路渡ったとは思えません。

これらから、実は日本人は何処から?は、海の昆布ハイウェイをボーリング調査しなくても、降雪寒冷地適応のDNA変化とは何か、いつ頃からか、また、アマゾンの古部族とはどういう人たちか、ということによっても人類史の流れの中で考えられます。

この4つの「無い」でなく、Aタイプが「有り得た」ことをサイトでは既に報告しています。

千島列島は、行くての次が見えていた食料豊かな処女地でした。

実はベーリング海沿岸は、真冬の気温に想いのほか差が有りません。また当時は、北極海の冷水が地峡で止められてベーリング海に流れ込まない、今と違って温かくもありました。

複数の考古学的な事象から人類史の課題に迫る「理論考古先史学」の仮説であるところのMPOR(Migration along Pacific Ocean Rim)説と日本祖人渡米説を、相互に関連するものとして提示している訳です。

(了)

 

今回、カリフォルニア大学(Berkeley)研究者が、米先住民のシャベル型門歯は、2万年前の最寒冷期にベーリング地峡を越えて渡米するのに、お母さんの乳から脂肪やビタミンDを摂取するための突然変異だったとサイエンス誌に発表しました。

現在、人類の最初の渡米は、ベーリング地峡南岸の昆布ハイウェイだったろうと言われています。

他方、欧米学者は、シベリアから来た下図のBタイプのイメージを持っています。

しかし、今でもシベリア内陸の真冬はー60℃で人の死亡がニュースになっており、ムリです。

2万年前の渡米となれば、3万年前の北海道からのAタイプを、そして言語を含めた環太平洋の近似性に注目して欲しいものです。

さて、日本人は何処からについてはよく縄紋時代から論じられてますが、Sundalandを考え、日本列島史の大半を占める上図の日本祖代・祖人を注目する必要があります。

末期には既に大陸から狩猟族が入って来ていますし、縄紋末期にも大きな移動がありました。

基本と言って良い形としては、①南西諸島・九州一部の「南部」、②東北過半・北海道の「北部」、そして③「本州」という3区分が、認識されると考えます。

そして、日本祖人は九州に渡海して来て北上し、北海道にまで拡がった一方向性の認識が重要です。

その期間の長さ、その後の推移を考えても、「日本祖代」は少なくとも文化的には列島史の基層ですからご注目を。

(了)

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