これまで出アフリカ後の現生人類の展開、古さを誇るタミル文化と先史時代のアジアの言語について考えてきました。

人類の展開言語11.16peg

A. 日本語は、地理的に遠いタミル語が近しいし、アルタイ語の影響もあると言われながら、隣の中国語と異なるのは何故か?

B. 男性ミトコンドリアDNAが、地理的に遠いチベットやインド洋のアンダマン島の人たちと近しいのは何故か?

これらのことを考える参考図が下図です。人類の進出展開から考えて行けば、ABそしてC-Fまで太古の東部ユーラシアは共通性ある言葉でしたでしょう。

言語図アジアpeg11.23

その後、強い内陸族の言語が拡がってE,Dなどでは痕跡が失われたのでしょう。

人の古いタイプのDNAや基層と言われる言語の痕跡は、タミルと島々(日本など)や陸の孤島的な地域(チベット、雲南など)に残ったということでしょう。

3500年前頃に、台湾-比とタイ-マレーの両ルートから大陸人の大きな南下移動(図の青線)があり、楽園の祖先・祖語Aは大きく変容しましたa’。

丁度、縄文人の暮らしている所に新たに大陸や朝鮮半島から弥生人や渡来人がどんどん入ってきたようなものです。

従って、単に現在の状況を見ただけではよくわかりません。その基層に注目する必要があります。

よく日本とポリネシアの近さが言われますが、ポリネシアは、たかだか3千年前くらいに楽園地域のラピタ人が進出展開していったものです。

黒潮流が両者の関係のロマンを生みますが、日本にはポリネシア人よりずっと前の3万数千年前から現生人類が、1万数千年前には土器を持つ縄文人が暮らしています。

従って、Aから進出していったポリネシアAPからというよりも、長い間にA,C,Eから沖縄諸島や朝鮮半島経由で日本列島へと伝わった影響が大きいと考えるべきでしょう。

日本、ポリネシアという島々に共通の痕跡がある事情は、先に述べたとおりです。

即ち、双方の基層となった「南方語」と言われる楽園Sundalandの言葉を認識する必要があります。

木、石、果物など生活の基本的な言葉の起源がA,Cであり、アルタイや朝鮮語にはなく、魚、酒なども同様で、古語で箱・bakoは竹で編んだ篭のことで朝鮮含め起源はAだそうです。(村山七郎 日本民族文化誌)

今私が使ってる辞書でも、篭はbakul、そして行商のオバさんもbakulなのは納得させられます。

問題は、単に「南方語」と表現されるためイメージがはっきりせず、軽視されていることです。

我らの万年の祖先や祖語であるアジアの楽園Sundalandの人々や言葉に固有名詞が無いからです。

実は、西ジャワにスンダ人がいますので、蘭学者によるSundalandの命名も適切でなかったです。ジャワ人たちはもとより、マレーシアなども納得しないでしょう。

同様に、インドのネシア(島々)という附属的な国名もひどいものです。これら植民地支配者によるネーミングを変えることが、正しい認識に至る第1歩と考えます。

Indonesia, artinya nesia India, nama negari itu harus diubah.

無論、固有名詞が無いのは陸地過半が沈んで今は無く、また、先に述べた2ルートからの現在に及ぶ民族南下の影響が強かったこともあるでしょう。

しかし、このアジアの楽園Sundalandを祖先・祖語Aと認識することは重要で、アジアの先史理解の言わば「補助線」です。

言語図アジアpeg11.23

この補助線Aを認識すれば、これまで採り挙げた日本と台湾、比、江南、チベット、雲南、インドネシア、タミル、アンダマン、ポリネシアなど、例え遠隔地との関係であっても歴史の流れの中で理解できます。

次回は、活字資料に登場する昔の日本、倭について、楽園地域などとの興味深い関係を紹介し、考えます。

これまで現生人類が出アフリカからユーラシア海浜を東進し、タミル、アジアの楽園Sundaland、そして北上して行った海浜ルートrute pantai lautを見てきました。 この北上により、日本には3万数千年前頃から進出し始めて全土に拡がり、2万年前頃には樺太方面から北海道へ進出してきた部族もおりました。 人類の展開湖南15.10peg 近年、中国南部湖南省で発見された人骨が、伝えられるように8万年前以前とすれば、約7万年前の楽園内トバToba(インドネシア・スマトラ島)の大噴火が注目されます。 特に、楽園西部やインド亜大陸方面に大きな被害をもたらしたことと思います。5万年前頃に新人類は言語など大きな進化を遂げたと言われていますが、大噴火災害の困難が食料の獲得や精神的、心理的な影響を与えたのかもしれません。 さて、この現生人類のアジアにおける進出展開は、インド亜大陸、東南アジア、極東地域において、アジア人の基層となる海浜・河岸ルートの万年の言語と文化をもたらしました。 他方、ユーラシアの内陸には、大型哺乳動物を狩猟しつつ寒冷地への適応を遂げて遊牧を行うなど、海浜ルートで水産物をしっかり食する人々とは異なる人々がいます。 内陸で大型動物を仕留めて食し寒冷に耐え、体格が大きく戦いにも強い集団の生活文化・言語の影響dampak kehidupan pedalamanがユーラシア東・南沿辺に及ぶようになってきました。 楽園の過半が海没(約7千年前)した後、内陸アーリア人は北西からインド亜大陸へ、中国の中・西部、北部の内陸人や内陸タイ人はユーラシア東部沿岸地域にまで拡って行きました。 インドネシアにもタイ・マレーシア方向とフィリッピン方向から、3,500年前頃に人々の大きな移動流入がありました。 人類の展開言語11.16peg そして、新たに拡がった内陸言語・文化の強い影響から、基層となっていた万年の生活文化・言語は、インド亜大陸南部、ヒマラヤ及び中国南部等の山岳地域、ユーラシア東・南の日本、インドネシアなどの島々(太平洋含む)に残ったものと考えます。 その①基層の海浜・河岸的なるものと②その後の新たな内陸的なるものと③それらの混合・中間的なるものを特徴とする人々の違いが生じました。 それらは今に残り感じられるもので、現在、世界発展の焦点となってきたアジアの地域認識、人々の区分認識の基礎になるものと考えます。    

http://www.suda-wind.net

前回、出アフリカ後の人類の展開を考慮した言語系統樹を考えましたが、更に以下2点について考えを進めます。

A. アジアの楽園Sundalandとは、どのような状況の地域であったか?

B. 当時の日本との関係ではどうなのか?

出アフリカ後の人類の東進は、海浜をタミルからアジアの楽園Sundaland(下図の青丸)へ展開し、ユーラシア東岸地域を北上してシベリア南のアルタイにまで至りました。

展開言語図日syuku10.3

その後、中国内陸語やタイ語の拡がり、北方からの日本語への強い影響などがありました。

言語系統図peg1112

そして、東進北上ルートでは、長期間(約2万-1万年前)・広域の半島大陸地が恵まれた条件にありました。

そのアジアの楽園Sundalandの言葉(EU語的ながら)が、アジアの言語の基層をなしていたであろうことを認識しました。

それでは、その地域はどんな状況であったかをDhani Irwanto氏のスンダランド水系図から、私が推測した地域の区分の1例が下図です。

言わば万年の昔の世界の中心Pusat dunia地域の区分図で、白矢印は、交易や人の移動です。

私は、インド洋と南シナ海の交易の連接を考えて、現スンダ海峡Selat Sundaからの白線水路を描きました。

区分図peg縮

線で囲まれたそれぞれの特色を有する地域において、基本的には川・海のそばで様々な多数の部族が狩猟・採集・漁撈、貝・鉱物等の交易をして暮らしていたことでしょう。

ここは当時の気候・植生等の環境条件から最高の人口密度であったと考えられ、正に世界の中心pusat duniaであったでしょう。

石器時代ではありますが、灌漑農耕や交易などにより進んでいた地域は、巨石遺跡を考えれば既にヒエラルキーのある人間の社会でしたでしょう。

神事・冠婚葬祭、建設などの規模の大きい集団行動をしていたものと考えられ、類人猿集団と全く異なる新人類文明の曙というべきでしょう。

なお一部に、図の右下部ジャワ海地域が最も進んでいたという推論が出されていますが、図のどの地域が最も進んでいたか興味深い議論が始まっています。Kota Sundaland, di mana?

そしていずれかの地域の部族が、時に急に海没していく状況もあった中で地域を離れて北上し、途中の地域での居住を経てその子孫たちが日本に到達したことでしょう。

時代も、時に部族系統も異にしますが、前述の基本的な海浜ルート生活の習俗を携えてです。Warga keturunan Sundaland tersebar ke utara dan tiba di Okinawa, Amami, Kyusyu selatan Jepang dengan gaya kehidupan sebelah sungai atau laut.

 最近の研究により、広くない奄美群島の島でもその当時の植生の状況等から、狩猟・採集・漁撈により十分な食物を得て居住することが可能であったとの見方に修正されています。

 

奄美peg

海水面が100mは下がり島の砂浜が拡がっていた時代(2-1万年前)、舟での行動にも長けていた海人たちは、南方から、沖縄-奄美-南九州というルートで日本へ進出することは十分有り得ました。

但し、屋久島北の喜界カルデラの大噴火(約7千年前)で先進の九州が壊滅的な被害を受け、また千葉に至る黒潮沿岸地域が大きな被害を受けましたことは誠に残念な日本先史です。

 

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引き続き基層を探りますが、スンダランド会仲間が、世界の言葉の系統樹をアップしましたので今回は言葉に注目します。

出アフリカ後の人類の展開を考えますと、南方系言語として中国東沿岸・台湾の祖語が、既に内陸部系のシナ・コーカシアンに押されて痕跡が見えませんがあったでしょう。

1図 言語系統図

言語樹peg

上図左部の中国、福建、タイ及び右上部の印欧系ヒンディー、ベンガルの言葉は、いずれも大陸の内陸発の新しい強い勢力により広められた言語ですね。

我がホームページで注目してきましたタミル語は、同じ国のヒンディーとは根を異にしており、お伝えしましたようにアルタイ系と同根です。

従いまして、日本語が似てるのはタミルだ、いやアルタイだという日本の議論はなんだかなあです。

そして日本語、また、韓国語も特異な扱いになっています。

そこでもう一度、いつもの人類の展開を再確認します。

2図 人類の進出図

人類の展開湖南15.10peg

当然、アジアの楽園Sundaland地域で暮らしていた人々は、前述の言語樹のマレー・ジャワ・比フィリッピン系の言葉を話していたことでしょう。

アジアの楽園Sundaland地域は、今のヨーロッパ共同体EUのようなものですので、北と南、東と西では言葉も相当違ったことでしょう。

但し、万年前の複雑でないコミュニケーションでしたので今のEUの国々よりは通じていたことでしょう。

さて1図について、地図の東西南北を反映し、当然人々が話していたアジアの楽園Sundaland語を記述しますと以下のようになります。

 

 

言語系統図peg1112

南の海辺-北上ルートはかなりイメージできますが、北の中国内陸語、日本や欧州に影響を与えたシベリア南部の言語については今後の研究です。

人々は、長い歴史において東西南北移動し、影響し合っていましたので確たることは分かりません。

しかし、基本的な成り立ちや相互の関係hubunganは上図のようなものと考えられ、生活文化の特徴とも符合する納得のいくものとなっています。

何より万年前の当時存在し、その後の陸地の海没に伴い一部は残り、消滅や離散した言葉も考えられる”スンダランド語”Bahasa Sundalandをまずはしっかり認識する必要があると考えます。

 

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前回、日本縄文人Jomonの人類史上古い男性DNA要素が、はるか遠いチベットTibetやミャンマー南方海上のアンダマンAndaman諸島で共通に見られる不思議さについてお伝えしました。

しかし、身近なところでアイヌの人たちは直系のように思われますので、先住民族としてもっと尊重され、その文化や歴史が更に研究され保存されてよいと思います。

小さなことですが、私にはアイヌの人たちの鉢巻Ikat kepalaも興味深いのです。

「アイヌ 抗議」の画像検索結果

(logsoku.comから)

と言いますのは、

アジアの楽園Sundalandの研究を始めて最初に参加したシンポジウムで、さっきまで普通にお茶飲んで話していた先生がいざ登壇となると鉢巻をしましたのでびっくりしました。

私たちも運動会など気合を入れるべき状況では鉢巻をしてきましたので。(選挙の先生方もそうですし。)

鉢巻syuku

その後、スンダSunda文化では大切なときに鉢巻をすることは重要なことだと分かりました。

更に、写真の老人を見てもらいますと分かりますが、何となくアイヌの人に似ているように感じられます。

CFDスンダ会縮

もうすっかり時は移り、大昔を見出すことは大変難しいですが、こんな小さな類似性も関係を感じさせてくれます。

この点で、近年アメリカにおける先住民族インディアンの先史時代を含む発見、研究は素晴らしいです。

メイフラワーMayflower号でピューリタンがアメリカに渡って(1620年)次々に入植が続き、独立宣言に至ってから約240年を経て、ようやく先住民族を至当に見つめ、土地のルーツを考える成熟に至ったものと感じています。

人類展開海浜ルートのドラヴィダ・タミル人からスンダランド人、縄文人、アイヌ人・・・そして南北アメリカ・インディアン、インディオの人たちまで切れ目のない相互の関連研究が進みますことを期待しています。

人類の展開湖南15.10peg

タミルインディアン縮

何といっても私たちの基層を探る道ですので。

 

 

前回まで、アジアの楽園Sundaland西方のタミルを見てきましたが、最近の日本人のDNA調査から日本人についての新たな見方が出てきています。Recent survey of Japanese men’s DNA reveals amasing results and leads to a new hypothesis.

A.日本人男性のDNAは、近い中国大陸、朝鮮半島の人たちとかなりはっきり異なる不思議さがあります。Men’s DNA of Japanese’re, mysteriously, quite different from those of mainland Chinese and K0reans.

B.日本人は、基層としての古い時代の縄文人(1万数千年前~)の要素約32%とその後の弥生人(約3千前~)の要素約54%から成ります。Men’s DNA of Japanese’re consisted of those in Jomon era 32% as a base layer and in Yayoi era 54%.

(NHKオンラインから)

この縄文人のDNA要素は、近隣の中国大陸や朝鮮半島では見られません。This Jomon DNA aren’t found in mainland Chinese and Koreans.

C.ところが、この日本縄文人のDNA要素は、はるか遠いチベットやミャンマー南方海上のアンダマン諸島(300の島々、35万人)で見られる不思議さです。(This same old Jomon DNA are found in Tibet and Andaman Islands.)

また、既にお伝えしましたように、言語ははるか遠い南方のタミル語です。 language is similar to none other than Tamil’s.

日本類似DNA言語116peg

特にアンダマン諸島との類似性は、はっきり海のルートを示すものであり、興味深いものです。

d.  一見不思議に見えるこれら遠隔地の類似性も、その間のアジアの楽園Sundalandという「補助線」を引いて考えれば不思議でもないです。These aren’t so mysterious by paying attention to the ancient landmass Sundaland ”auxiliary line” existed between those areas.

幸いにして島や陸の孤島に残っていたこの痕跡に注目する必要があります。

今や、遠い仲間をしっかり認識し、アジアの楽園Sundalandという補助線の導入により古い先史時代の認識を換える必要があります。View of ancient Asian prehistory needs to be revised now by drawing this auxiliary line.

海のルートで繋がった広域の共通性ある基層の人種・言語が、その後、内陸の強い勢力の南下により追いやられ、分断され、消えていった様子が窺えるものです。

 

ここのところ、アジアの楽園Sundaland西方の南インドのタミルTamilについて、追ってきました。

A.南インドのチェンナイChennai遺跡地区のアッティラムパッカムAttirampakkamで、インドとフランス合同チームが150万-100万年前(*前期旧石器時代)の石器を確認しました。

タミルjPeg11.4

*前期旧石器時代:ハンドアックスがひろく用いられた時代。この時代の人類はホモ・ハビリスおよびホモ・エレクトスが主流であった。

発見された石器等には、中石器時代の物もあり、12万年前頃まで継続的に類人猿が暮らしていたとみられます。

B. このことから、南インドには、ジャワ原人や北京原人より古いとみられる原人の時代から、新人の現生人類がアフリカを出てユーラシアに渡り海浜を東進した時代まで、概ね痕跡を辿りうる驚きの継続性が確認されたことになります。

この確認により、インド先史特に南インド先史は、見直されるべき世界人類史的な意義を有するものです。

1.遺跡の調査

1863年、チェンナイ北西で英人Robert Bruce Footeらにより旧石器時代の遺跡が発見されました。

近年、インド、フランス隊により12年にわたる困難な発掘調査が続けられ、3,528点の遺物が収集されました。

それら遺物がアフリカや西アジアで出土したものとの類似性が認められ、遺跡最古の年代が確認されるとともに12万年前ころまでの極めて長期にわたる継続的な痕跡が確認されました。

(Attirampakkam: Sharma Center for Heritage Educationから)

確認された石器等は、下図のとおりです。

(Ithihaasaから)

2.発見の意義

60万年前頃の遺跡が発見されている欧州はもとより、ジャワ原人や北京原人よりも古い原人の生活の痕跡が発見されたことになります。

欧米では、文化、文明は西からアジア、東南アジアに伝わったという見方が依然牢固としてあります。

しかし、英中部Sheffield大の上級考古学者Robin Dennelは、4年前の時点で既に石器製造文化は欧州よりもインドの方が早いという認識の見直しを主張しています。

インド南部の東沿岸のチェンナイ(マドラス)という海浜の地域で発見されましたことは、私にはこれまでの人類の進出展開の認識、タミルの重要性を裏付けるものと考えられます。

人類の展開湖南15.10peg

そして、このような発見と日本での新たなまた別の発見をともに並べて考察します時、日本人にとって意義深い重要なことが事が見えてきます。

次回、考察を進めます。

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A. 万年の人類史における新たな発見(人の歯)から、長かったその時代は正にアジアが世界の中心だったことを認識する必要があります。

B. 日本では、南方の島での地道な調査から、当時は住めなかっただろうと思われていた所でも人が住んでいたという新たな研究発表がありました。

人類史における海辺の道、海の民という側面をしっかり認識する必要があります。

黒潮柳田ppeg

(柳田國男Kunio Yanagida  海上の道から)

1.世界人類史におけるアジア

前回、少なくともアジアの人々の祖先Nenek moyangが、8万年以上前にアフリカを出てアジアの楽園Sundalandを通過し、北上して行ったことを示す人歯発見Gigi ditemukanのニュースをお伝えしました。

人類の展開湖南15.10peg

(1)寒さと乾燥

8万年、5万年(画期的な人類進化)、4万年、3万年も前という、現生人類の各地への展開の歩みTersebarは、基本的にはユーラシア大陸北側が寒く北アフリカ・中東は乾燥した氷期の時代(比較的暖かい時期10%含む)のことでした。

その氷期時代の最終氷期LGMである2.1万年前頃のイメージは下図のようなものです。

欧州や教科書で教わった文明の地域は、厳しい寒さあるいは乾燥の状況にありました。

寒かった北緯40-50度地域の人たちは、滅びるか南下して生き延びたことでしょう。(LGM期までには、現生人類以外の近縁人は皆、滅びています。人体への影響のほか、食糧獲得が問題です)

LGMの世界peg15.10

(Stephen Oppenheimer資料から作成)

(2)北方人類の南下移動Bangsa utara dingin menurun ke arah selatan

寒い、乾燥している時期には、人や類人猿の南下移動があったとみられることはDNAから分かります。

豪州先住民アボリジニAboriginには、ユーラシア北側地域にいた現生人類ではない近縁のデニソワ人(シベリア・欧州)ネアンデルタール人(欧州・中央アジア)のDNA痕跡が、7-8%残っています。

アジアの楽園Sundalandで交雑し、豪州へ渡った人がいると考えられています。

また、短い比較的温暖な時代には北へ向かった人々もいたことでしょう。何回かこのような南北の移動が行われたものと思います。

いずれにしましても、当時数万年にわたり続いた現生人類の世界の中心地域は、暖かく植物が茂り多くの動物がいるアジアであり、人々が集まり混じり文化pradaban kunoが生まれたものと考えます。

2.人類史における海辺の道、展開した海の民

前回、出アフリカの現生新人類は、他の猛獣やサル・類人猿と決定的に異なり、水を厭わず水産物をも食する点を指摘しました。

この新人は、熱帯雨林そのもので暮らすのはなかなか大変ですが、広大な暖かい海浜・河岸、森林・灌木地などの地域は、楽園(比較の問題ですが)でしたでしょう。

日本のそんな暖かい南方の奄美・沖縄の状況について、鹿児島大国際島嶼(とうしょ)教育研究センターによる新たな発表がありました。

アジアの楽園Sundalandからの北上ルート上で、先史時代には人は住めなかっただろうとこれまで考えられていた日本南方の島々pulau-pulau selatan でも、(幸せに)人々が住んでいたada manusia prasejarahという研究調査結果です。

 

遺跡から見つかった種子を説明する鹿児島大の高宮広土教授=28日、鹿児島県奄美市

(2015/10/29付 西日本新聞朝刊から)

次回、このことを考えてみます。

 

 

 

 

 

 

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出アフリカ後の現生人類の東進・北上ルート上の中国南部で発見された現生人類の多数の歯Gigi kuno ditemukanは、欧米ではアジアと欧州の比較という波紋を生じています。

Pemunculan soal perbandingan tentang dua rute yang awal manusia modern menyebar, yaitu ke Asia dan ke Eropa.

下の図において、中国南部で8万年前以上となりますと、欧州は何故4万年もアジアより遅れたのだろうかという点に関心が向かっています。(8万年となれば、私の認識では5万年くらい遅れたこととなります)

人類の展開湖南15.10peg

今回発表した人たちも、調査後の帰りの飛行機内で虫の羽音のように騒がしく次のようなことを言い合ったと述懐しています。(Nature誌)

A.欧州人たちは、先行アジア人の末裔なのか?

B.欧州の展開が遅かったのは、

a 既にいたネアンデルタールNeanderthal人(との争い)のせいか?彼らが寒さのためいなくなっていったので、ようやく展開しえたのか?

文化的、生物的に劣っていたというネアンデルタール人に対するイメージを変える必要があるのではないか?

b   熱帯的な現生人類が、欧州の寒さへの適応に時間を要したからなのか?

これから、いろいろ議論が続いていくことになると思います。(ホントに8万年以上前なのか、という疑問を持つ人も出て来るでしょう。)

そういう新たな視点でこれまでの資料が検討され、また、更に新たな資料が発見されることを期待しています。

他方、

アジアの楽園SundalandやタミルTamilという、出アフリカ後の東進・北上ルートを追っています私は、彼らの議論に加え少し違う見 方を持っています。

1.そもそも出アフリカを果たした部族は、水産物をも食する、水を厭わない新種の人たちBangsa laut baru pada masa perbaだったと思います。

虎やライオンはもとより、近縁のチンパンジー、類人猿とも決定的に違う現生人類のこの生き方の特徴(水中適応の身体痕跡)が、何故、いつ頃、獲得されたかということに人類史研究はもっと目を向ける必要があると思います。

(キッズアドベンチャーから)

当時は海水面が130mくらい下がってましたので、アジア正面では遠浅の海浜とマングローブが拡がり、河川も多い地域で魚や貝など水産物は豊か、移動も容易でしたし、トラも海の中までは追いかけてきません。

欧州内陸は道なき道か開闊地で、危険な猛獣や毒蛇・虫なども多く、大変だったでしょう。

2.同緯度の展開が容易です。

やはり初期の人類の展開は、同緯度の発展が容易でしたでしょう。そして、海浜と気候に適した広大なアジアの楽園(インド大陸の2倍)が在ったことは幸いしました。

出アフリカ後の人類が、言語等の画期的な進化があったとみられる5万年前頃以降は、特に舟・筏も使って海浜から河川にも発展し大いに人口も増大していったことでしょう。

さて、

欧米の人たちは、ネアンデルタール人に目を向けるのもいいですが、現生人類の祖先を育んだ海辺の道やアジアの楽園Sundalandが人類史に持つ意義にもっと目を向ける必要があると思います。

(海浜や楽園陸地の過半がその後に海没し、また、海辺や熱帯地域では遺物等が残ることが難しいことは認めますが)

次は、現生人類の発展に幸いしたこのアジアの楽園Sundalandについて考えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アジアの楽園Sundalandからの人類展開の北上ルート上で、これまでの認識より2-3万年は古い現生人類の歯が発見され、その細部の状況が確認されたという驚きのニュースです。

47 Gigi yang hampir awal manusia modern masa Pleistosen, lebih kuno daripada 80,000 tahun lalu, ditemukan di Daoxian Hunan, Cina selatan.

Majalah Nature memuat berita itu dan Prasejarah manusia modern direvisi. Letusan Toba kuno muncul sebagai tema sangat penting.

A.どんな人類考古学上の発見?

中国南部の湖南省の洞窟内で、8万年以上前とみられる現生人類の歯が多数発見されたと科学誌Nature(14 October 2015)が報じました。

B.発見の意味合いは?

これまで、人類の出アフリカ後の展開時期の見方は6万年前頃というものだったので、8万年以上前であれば種々の面で発見の意義は大きいです。

a 出アフリカ定説の時期、態様の見直し検討が必要となる。

b アジア内の展開状況の見直し、新たな意味づけがなされる。

c     アジアと欧州正面の比較、現生人類とネアンデルタール人の関係などの新たな意味合いが考えられる。

などいろいろな面で興味深い検討がなされていくこととなります。

1.発見について

中国主に英米(ロンドン大、ミネソタ大)スペイン等の研究者10数名が、湖南Hunan省Fuyan洞窟内で発見されていた初期の現生人類の歯を47個、ハイエナなどの哺乳動物の物とともに確認し、年代推定しました。

2.意味合いについて

これまでの私の認識に、発見場所の湖南省Fuyanをプロットすると下図のようになります。

人類の展開湖南15.10peg

発見された地層、歯などの状況から、現生人類であり8万年以上前となりますと、

まず、①出アフリカはもっと早かったのか? あるいは、②ユーラシアに渡ってからの遠浅海浜沿いの東進・北上ルートでの展開が極めて速かったのか?

何より、7万3千年前頃とみられる人類史に残るトバToba(インドネシア・スマトラ島中西部)の大噴火の前にアジアの楽園を通過して、中国南部に達していることになります。

従って、その時代に特にアジアの楽園及びインド亜大陸で暮らしていた多くの人は大変な被害を受けたことになります。

これまでの定説では、噴火後の6万年前頃に展開、到着したので、影響はそれほどのものではなかったろうという見方ですので、大きく覆します。

アジアの楽園は、7万年前頃の大噴火と1万年前頃の大水の2度にわたり人類史に残る大災害に見舞われたことになります。

恵まれた楽園で生活していた中で大噴火を経験して生き延びた(進んでいたであろう少数の)人たちと、全く知らずにおさまってから遠い所から楽園に来た人たちとでは、生活文化や精神意識に大きな差が生じていたものと思います。

また、海を越えて渡るサフルランドへの到着が、これまでの見方よりも4万年くらいは遅れることになります。

5万年前くらいに人類は言語面など画期的な進化があったとみられていますので、それまではやはり長距離の海を越えるのは難しかったのかなということになります。

そして、現生人類の展開の時期が、アジア方面と欧州方面ではこれまでの認識よりも更に大きな差が出ます。

欧米で関心がもたれるこの点に関しては、次回考えたいと思います。

 

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出アフリカを果たしました現生人類の東方への展開におけるアジアの楽園のSundalandに至る前、前回お伝えしましたようにインド亜大陸地域の文明が明らかになってきました。

図1

人類の進出展開10.23peg

それは、ドラヴィダ族の万年に遡る広域かつ石器から青銅金属器にまで至る長期にわたる文明であり、かつて教わったインダス(川)文明と言う狭い呼称におさまらないものです。

高いヒマラヤ山脈を発しアラビア海にまで至ることをもって、文明を担った人々が聖なる川と認識し、何度も最古の聖典リグ・ヴェーダに登場するサラスヴァタ川流域(現在は干上がった土漠)の新たな遺跡を含む文明です。

ヒマラヤ山脈南西の諸河川流域及び海岸部と現在の海中をも含めた広域にわたる注目すべきドラヴィダ族の古い先史文明です。

図2

ヒマラヤ南西文明peg10.23

 

サラスヴァタ川沿いの約2,600遺跡の2/3が、近年になって発見されています。流域の文明は、4,200年前頃、300年にわたる長期干ばつにより衰退したものとみられています。

(川である水の女神サラスヴァタは、仏教に伴い日本に入ってくると弁天 様となっています。)

河口のドゥヴァラカ海底遺跡では、海面下23mの海中に砦壁、波止場などの興味深いものが発見されています。

この文明の中核を担ったタミルの人々は、クマリ・カンダムKumari(女王名)Kandam(大地)の話を長くしっかりと語り継いでいます。

大昔に印亜大陸の南にあった、父祖の進んだ王国の大地が(破滅的に)海に奪われたというものです。

15世紀になって、その陸地の広さ、内部の地域区分が記述されているようですが確としたものではありません。

図2で分かりますように、万年前頃の昔は大陸とスリランカ地域が陸地として繋がっていましたので、そこではないかという説があります。

あるいはもしかしたら、南の解釈によっては、同じく図2の海底遺跡地域のことかもしれません。

他方、近代になってから、アフリカ東方マダガスカル島と東南アジアの生物の不思議な類似性が注目されました。

島にキツネザル(レムール)が生息しており、この仲間は世界中でここからしか知られていない。しかし化石種インドから発見されており、また近縁の原猿類はこの島を挟んでアフリカ中部と東南アジアマレー半島インドネシアにのみ生息する。このようにインド洋を隔てた両地域には近縁な生物が見られる(隔離分布)。(ウィキペディア)

このことから、キツネ猿・レムールが住んでいたレムリ アLemuria大陸がかってあったのではという説が登場し、タミルのクマリ・カンダム話と結びつきました。

Kumari Kandam map.png

(wikipediaから)

ところが、この大陸の仮説は現代の地質学によって完全に否定されています。

でも見てください、仮説レムリア大陸の東方横には海によって大地を奪われたアジアの楽園Sundalandがあります!!

マダガスカル島には、現在も遠く離れたマレー・インドネシア系の子孫が生活しており、同じ言葉を話している不思議さがあります。

キツネザルが教えてくれるマダガスカルMadagascar島―アフリカ中部Mid Africa-インドIndia-アジアの楽園Sundalandの関連性はもっと注目されてよいと思います。

そして、タミルの語り継ぐクマリ・カンダムKumari Kandam話は海に沈んだアジアの楽園Sundalandのことかもしれない、と私は考えます。

そうしますと、図1のように出アフリカ後の人類の東進・北上ルートはその後も往来が続く訳ですので、海の民でもあるタミルと日本の古い時代の関わり、言葉の類似性は驚くほどのことではないでしょう。

そして、大家の柳田国男先生が晩年の昭和36年、日本人の起源について、もっと海上の道に目を向ける必要があるのではないかと言われたことにも思い至ります。

名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月・・・

(柳田先生の話をもとに島崎藤村)

イネ島やしpeg

(インドネシア・ブリトゥン島の椰子の実)

丁度、先生の生誕140年を記念する展示会が、横浜の港が見える丘公園の神奈川近代文学館で11月23日(月・祝)まで開催されています。

小学校の遠足でこの港に行き、沢山の外国の貨物船を見ました。そして大人になってから、遠足で感じた気持ちを「海外雄飛」と表現することを知りました。

貿易立国、日本の若い人たちがこの気持ちを忘れないで欲しいと思う歳になりました、余談です。

 

 

 

 

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前回お伝えしましたように、インド亜大陸地域では、近年驚くべき古さ、数の遺跡が発見されています。

まず注目されるのは、アフガニスタン国境に近い古いメーガルMehgaruh遺跡と衛星写真分析に連携したサラスヴァタ川(現在は干上がっている)流域の多数の遺跡群です。

印遺跡群jpeg10.20

メーガル遺跡は、フランスチームが、9,000年前から3,000年前ころまでのものと報告しています。当時は今と違って、森林と水が豊かな地域だったようです。

現在と変わらぬような泥土の家での定住、初期農耕・家畜、新石器のほかに人骨、装身具、小立像などが発掘されています。

歯が西方ではなく東方(アジアの楽園Sundaland系)の人たちと類似であることが注目されます。

有名なインダス遺跡モヘンジョ・ダロMohenjo-daro(4,500-3,800年前、約4万人)からアフガニスタン南部のカンダハルに至る経路沿い地域でもあります。

そして何よりも、パキスタンにあって今もドラヴィダ族語が話されている地域の近傍です。

ドラヴィダ・タミル言語遺跡peg

サラスヴァタ川沿いは、かねてハラッパ遺跡として知られていましたが、リグ・ヴェーダの記述を裏付ける広域にわたる驚きの数の遺跡群です。

更に、海岸地域でも海中を含め遺跡が発見されてきています。

そして、万年前は大陸と陸続きだったスリランカの中央山地に残るドラヴィダ語族の状況から、万年前のインド亜大陸地域は、ドラヴィダ系語族に占められていたことが窺われます。

近年の研究により、上図の北西のカイバル峠方向からのアーリア族が侵入した(3,500年前頃から)ことによる大きな変化というこれまでの見方は修正され、もっと緩やかな自然な変化であったようです。

丁度、我が国における縄文人と新たに入って来た弥生人の緩やかな移り変わりという近年の新たな歴史認識への変化のようです。

違いは、言わば縄文タミルが今もインド亜大陸南部と一部、スリランカ、ネパールなどにしっかり残っていることです。

理由の一つは、語り伝え守ってきたタミルの古く高い精神性、長く活躍してきた優れた海洋交易、造船の民という特性によるものでしょう。

インド中央・北部のサンスクリット語と南部のタミル語を比較した場合、遙かに多くのタミル語がサンスクリット語に採り入れられていることからもその事情がよく窺われます。

ドラヴィダ・タミルは、地域西部のメーガル遺跡の方から東部へ移って行き、また、北部から南部へと縮小して行ったとみられています。

但し、上図ようにインド西部沿岸で数千年前の海底遺跡が発見され、更にドゥワルカ遺跡はもっと沖にも海底遺跡があるのではないかとみられていますので、タミル人は東漸してデカン高原南部に来たと言えるだろうかという状況です。

今やインダス文明と言って片づけている状況ではないでしょう。

メーガルや海底遺跡の古さや近年新たに発掘が進んだサラスヴァタ川沿いの遺跡の豊富さとそれらの遺跡の拡がりの広域さから、ヒマラヤ南西流域文明とでも呼ぶべき状況と考えます。

更に、古い海底遺跡と海洋での国際交易活動が注目されます。

種々の言語との基本的な語彙の共通性などから言葉の面でもタミル語こそ母なる言語と言われるようになってきています。

ところで、インドネシアは、正に多様な人々の島々から成る国であり、それだけに多様な中の「統一」という標語を掲げ建国以来、大変な努力をしてきています。

問題の多い現在の国際連合UNが、範として研究すべき国と私は思っています。

国は一つの言葉インドネシア語ですが、例えば西ジャワ州では地方の言葉を大事に守っており、州庁教育局に地方の言語文化振興の部課があります。

 

JB教育局peg

アルファベットの下に見えるのが、この地域のスンダ語のスンダ文字です。そして、近隣のタイなどのどこよりもタミル文字に似ています。

このようなタミルは、古い時代に彼らの父祖の進んだ王国Kumari Kandamが(破滅的に)海に没したという語り継いできた神話を有しています。

また、古い時代から場所を換えても守ってきた文芸アカデミーSangamに咲いた文学も評価されています。

更に次回も、タミルを追って探究を続けます。

 

http://www.sunda-wind.net 現生人類の出アフリカ後、アジアの楽園のSundalandに至る前にインド亜大陸地域の海浜を経て来ています。 そこの万年の歴史を探って行きますと、実証という観点ではドラヴィダ・タミルの人たちに行き当たります。

南インドIndia selatanを中心に、長きにわたり自分たちの文化を持ち続けてきた人たちですが、何しろ日本語に一番近い言葉として真っ先に挙げられる言葉が話されています。

展開言語図日10.13縮

シンガポールへ行きましたときに、公用語としてしっかりタミル語が示されており、インド人街となってますが、実態はタミル街があります。

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タミル塔縮

イギリスがゴム園などでの労働者として、植民地から多くのタミルの人たちを連れてきたと言われており、現在も道路工事、建設現場などで多く見られます。

マレーシア・クワラルンプルの空港でもレストランや空港の清掃などで働いていますし、バンドゥンでは数は少ないですが、親子2代でお店を持って反物を売ったりしています。

タミル嬢syuku 

タミル人男縮

3高のイケメン君は、自分は多数派のタミルオリジナルではない港町マドラス系だと言っていました。親とはタミル語、店ではスンダ語、インドネシア語、英語で頑張っており、ここでやっていくということです。

インドネシアでは植民地としていたオランダ人に連れて来られ、北スマトラの大都市メダンMedan、リアウRiau、首都ジャカルタを主に数万人とみられる人たちが、多い所では自分たちの学校や病院などを持ってしっかり根づいています。

さて、インドと言えば聖典Rig Vedaリグ・ヴェーダです。 古代以来長らく口承され、のちに文字の発達と共に編纂・文書化された数多くあるヴェーダ聖典群のうちのひとつで、最も古いと言われています。

祭祀、呪法、生活、神、性愛、宇宙などの内容の全10巻で、1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)です。

 

リグ・原本

(ウィキペディア)

神話扱いされてきた古いリグ・ヴェーダですが、その中で独りきわだち勝る大河と記述されている聖なる、ヒマラヤからアラビア海に至るサラスヴァタ川沿いを主に地域で約2,600の遺跡が発掘されています。

これまでは神話として片づけられてきましたが、記述と遺跡発掘の附合から見方を変えていかねばならないでしょう。

下図左の上のメーガル遺跡は、フランスチームTim Prancisによって約9,000年前という驚きの古さが報告されています。

また、学校で教わったインダス川モヘンジョ・ダロ、印パにまたがるハラッパ遺跡などに加え、衛星写真分析から干上がった聖なるサラスヴァタ川沿いの状況が明らかになり、発掘によって無数の遺跡が発見されてきています。

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いわゆるインダス文明、そして聖典リグ・ベーダの内容の年代・記述の歴史性、更にはインド先史とそれを担ったドラヴィダ・タミル史が全く見直される状況になってきているのです。

Kini prasejarah India, Dravida Tamil sedang terevisi secara drastis.

日本語の源流議論もそういう状況を踏まえてなされるべきだと思います。

さて、世界史的Sejarah duniaに実に大きな意義sangat pentingを有するタミルDravida Tmilについて、更に探って行きます。

 

未だ問題の多い現代の人間社会のあるべき方向、その将来を考える上で温故知新、人類の大規模な文明社会の始まり、原点の様子を探ることは重要でしょう。

近年、DNAの分析などにより祖先である現生人類の足取りがかなり分かって来たのは大きな成果です。

アフリカを出て海浜沿いに東進、アジアの楽園のスンダランドで北上し、南から、西から日本に到達して日本を覆った後、北からも進入してきています。

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しかし遺骨などから分析しうる肉体は、人間を人間たらしめる行動を司る最も重要な精神や心理を内部におさめて運搬する、いわば容器に過ぎません。

この点で、現生人類は出アフリカ後、5万年前頃には容器内のコンテンツとして言葉の画期的な進化を果たし、4万年前頃には洞窟絵を描く精神性を示しています。

そこで、他の動物群とはっきり異なる、人間らしい大規模な集団社会の生活状況となりますと、集団の言葉が精神性や生活文化と直結しますだけにその分析が重要です。

日本では、4万年―2万年前頃に南・西、北から入って来た頃から既に生活に重要な道具として黒曜石の使用が各地で認められています。

それを探して船出し、その使用痕跡の分布から、遙かな遠隔地と人々が交易する知能、コミュニケーション力と海上移動技能を有し、日本全域で生活していたことが分かります。

黒曜石図jpeg

縄文人が1万数千年前には、確認しうる世界最古の土器を作り、狩猟採集その後の初期稲作、交易などに必要なかなりの言語力を有して生活していたことは確かでしょう。

弥生人が3千年前頃に南・西から進入するまでに1万年以上の期間があります。

その間の縄文人による言語の使用、生活文化、信仰などは、地域で差があったとしても日本全土を覆い、その後の基層をなし現代に続く重要なものと考えていいでしょう。

この点で7,000年前頃、南九州鬼界島の火山の大噴火で当時の先進地域の九州はほぼ壊滅したと言われています。

西日本も大きな被害を受け関東、東北にまで灰が及んだ大災害による後退は、誠に残念なことです。

日本語の言わば親語はどれだろうということで、100年以上も言語学的な分析が行われてきていますが、どうも誰もが納得する決め手はまだないユニークな孤立的な言語と言われています。

その中で名前が挙がっているのが、①南方(ポリネシア系)語、②インド亜大陸のタミル語と③シベリアの南のアルタイ語です。

近隣の大陸国と同系でないことは不思議です。

候補が遠隔の途上国の地であり、欧米を含めた言語、文化、歴史などの総合的な研究が容易でないことも解明に至らない理由の一つのように感じます。

因みに、ポリネシアは、せいぜい3千数百年前にアジアの楽園のSundaland 地域からラピタ人が漕ぎ出し入植したとみられていますので、南方地域語と言うべきでしょう。

そして、南方地域語と言えば、7千年前頃には平野部が海没してしまいましたが、基層語としてアジアの楽園Sundaland 地域のことがよく認識されていないのではと感じています。

人類が東アジアに達する前に既に東南アジアで話されていた言葉に思いを馳せる必要があります。

更に、次の候補のタミル語が人によっては、日本からあまりに遠隔地のため結びつかないようです。

しかし一方で、世界的には下図のアルタイ語も(ウラル語も)タミル語に類似と言われていますので、日本での議論はなんだかなあです。バイカル湖地域○Bの人々もCからよりもAルートから進出し北方適応したのでしょう。

展開言語図日10.13縮

その後、強い影響力を持った大陸語に追われた古いものは、離隔した島、陸の孤島と言うべき人里離れた所、山奥などに残ったのでしょう。

現存の言葉をみていきますと、その始源的な古さと広域にわたる影響力でドラヴィダ・タミル語に比肩しうる親語と言うべき言語は、おそらく世界には無いようです。

(南方地域語として、万年の昔のアジアの楽園Sundaland語は、既にそれぞれ類似なものが複数存在していたと思われますが、タミル語との関係を含め不明です。)

現在のイラクであのメソポタミア文明を興したシュメール人の粘土板文字から解明された言葉に接したタミルの学者は、「これは、タミル語だ!」と共通性を実感しています。

また例えば、時代は万年の議論に比べればずっと新しいものの、あのイエス・キリストが最後に発した7語があります。

十字架の上の苦しみの中で、 回りにいた人は誰も理解できなかったとも言われているその7語は、ドラヴィダ・タミル語では、「神よ、死をお与え下さい。」だったと解されている始源性があります。

そして、青年時代の状況が全く不明なイエス・キリストは、当時、各地にあったインド伝道所に接触していたのではという見方すらあります。

人類史におけるドラヴィダ・タミルの地理的な位置、古い文化、近年の発掘成果を踏まえたその先史をもっと認識する必要が有るように思われます。

タミルの影響が日本に及んでいることも、共通の単語や日本の地名に残っており間違いないでしょう。

では次に、そのドラヴィダ・タミルに光を当ててみたいと思います。

 

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ときどき街の食堂で、アジアの楽園のSundaland関連記事を探して古新聞を読みますが、この写真にはびっくりしました。

私のホームページ読者の皆さんなら、何度も目にされている人類の進出展開の北上ルートを想起させますので。

渡り鳥図syuku 

(10.1付 Pikiran Rakyat 紙から)

人類進出図和syuku10.5

これはハチクマ鳥の渡りであり、冬モンスーンの9月から3月は、アジア北から大陸ルートを暖かい豪へ、夏モンスーンの1月から8月は、大洋ルートを北上し日本へという、1,300万年前からとみられる渡り行動です。

ハチクマ鳥縮 渡り鳥図

(10.1付 Pikiran Rakyat 紙から)

日本では、ミツバチの巣の蜂蜜や幼虫を食し産卵もしますが、ミツバチは巣を壊されるとまた別の新たな巣を作りますので、鳥によって飼育されているようだと言われています。

雨が近づくこの時期は、渡りが当地では田植えを始める時節であることも告げるそうです。

私の住んでるバンドゥン東北のDago 地区は、渡り鳥が列をなす回廊コースだそうで、記事は環境観光の振興を提案しています。

私は、人間の到着の遙か昔から行われてきたこの万kmという長距離の鳥の渡りは、人間の新たな進出展開に大きな影響を与えたものと思います。

鳥が行って帰ってくるということは、未知の地への展開が保証さているようなものです。空中という天・神に近い所で行動し、人を導く天使のようなものと思われます。

此処では鳥籠の鳥がバスターミナルなどあちこちで売られ、大事にされていますし、国章のガルーダ(イスラム国ながらヒンドゥーの神鳥)はもとより、パレードにも堂々登場します。

パレード鳥syuku

既にお伝えした、例えば、スクー寺院の彫像に羽がついてるものがありますが、鳥人です。

人のようですが、羽を有し顔は鳥であり、足の指爪も鳥です。

鳥の万歳

Samanthoによれば、このような鳥人ものは、下の写真の左がスクー寺院、右上がマヤ、右下がユダヤ民族が過越祭の晩餐で読む有名な冊子にみられる鳥の頭を持つ人だそうです。

スクーの万歳

そして、鳥人はメソポタミアのシュメール(Samantho左)、バビロニア(同右)とも共通性があります。

長江文明も太陽と鳥、インダス文明の鳥土偶、そして日本のアイヌの鳥信仰は縄文人にもあっただろうと推測され、神武東征神話は、八咫烏です。

先史時代、鳥は遠く離れた地域でも人々にとって特別な動物であったようですので、人々の移動・交流は興味深いことです。

やはり人間も同じように、氷河期終期の寒冷期にはアジアの楽園に南下し、暖かくなれば北上して行くということが繰り返されたことでしょう。

そして人々のこの離合集散が、異質の触れ合いによる文化、文明を育んだものと考えています。

鳥は、渡りを行うことや船乗りなどの情報収集に重宝された天・神に近い、人を導く天使のようなものであったのだろうと思います。

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