パンカル半島は、あのプラトンの”Atlantis”か (4)

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アトランティスは、大陸と呼べるほどの大きさを持ったで、この記述は、一部に大半島であったのではという説(パンカル半島?)のもとになっています。そしてそこは、沢山の象もいる動植物、鉱物、豊かな環境に恵まれて繁栄した王国です。

この気候、豊かな動植物、鉱物などの環境に関する詳細な記述が、ここの小学生たちに世界のどこの国のことかと聞けば「此処!!」と答えるぴったりなものです。世界の学者もアトランティスが存在するなら、赤道付近ということで一致しています。

しかし、世界の学者がパンカル半島のことをよく知らないのでは、ということの他に世界地図認識の問題があります。西欧、アフリカ西部中心の地図を子供のころから見ている人は、日本やパンカル半島は遠い東の果てです。

そこでパンカル半島が繁栄したが沈んだ王国として話は分かるが、それだと変じゃないかとなります。

東の果てからどうやって地中海西部のジブラルタル海峡を通って攻め込めるのかという訳です。地中海付近の候補地は除外してみると候補地は大西洋西岸地域です。

あるいは、何故、紅海から来ないのかと。

紅海については、やはり植民地を大西洋岸から地中海のエジプト、イタリア西方等にまで保有していた態勢があります。また、当時、水深は60m位低く紅海の細く狭い一本水路を大艦隊が進入するのは両側からの攻撃に極めて脆弱です。

それならアフリカの喜望峰を回ったのかと。ここで、考古学的に裏付け得る確たるものは今のところありませんとなります。万年の古さの事象は、記録がないこともさることながら、水深が数十m上昇しているために沿岸の遺跡・遺物の発見は極めて困難です。

そこで、プラトンのAtlantis話は、進んだ豊かな王国がかってパンカル半島に存在し、かつ、沈んだことで世界各地の人々に様々に語り伝えられたが、王国の細部状況、海外植民地等は分からないとなり、話半分ということで一応決着になります。

陸上の問題と異なり、古い時代の航海については実証が困難で分からないことから軽視されがちです。辿り得る一つが、エジプトのヒエログリフに残り、世界の学者も実在を認めるファラオの”Punt”(豊かな宝物の地)への船団遠征交易です。

紀元前26世紀エジプト第4王朝クフ王の時代、プント国から黄金がもたらされたという記録がある。(wikipedia)

しかし、その後の遠征で得られた様々な貴重な物資の記述はあるものの、その場所がどこかということについては今もはっきりしません。

古文献に示されたプントへの道筋と、プント国の比定地(wikipediaから)

最近、Atlantis研究家のDhani IrwantoやChandek Lu-Shiangshe が、得られた種々の貴重品の在地分析、年に1-2回という限られた大航海である特性などの詳細な研究により、パンカル半島のスマトラ島であることを発表しています。

これは、時代も下り、かつ、パンカル半島側からではなく、エジプト側からの航海ですが古い時代の長距離航海例です。

(Chandek Lu-Shiangsheから)

それではもっと古いものとなりますと既に当HPでお伝えした伊豆半島と55km離れた神津島との頻繁な黒曜石取得の航海で、最短航海で島に行くとしても十数キロの外洋航海を要します。

遠距離ということでは、時代がはっきりしませんが、パンカル半島人がインド洋を越えたマダガスカルに植民しており今も同種人種がいます。ジンバブエは、独自発展説がありますが、あれだけの巨石建造に至る当初の建造は伝播の可能性があると思います。

そして、私が注目してますのは、パンカル半島からアフリカ中西部への伝播が確認されている根菜類についてです。何故か、東部で船を降り陸上を西進したように書かれます。

歴史上、喜望峰を回った最初の例(1500年頃)としてポルトガエルVasco da Gamaの名が挙げられますが、オマーン沖で船が発見されています。

彼の航路で感じますが、アフリカに船で渡った根菜類が、何も陸上を西進伝播しなくても彼の逆航路で喜望峰を回って中西部に至ってなんの問題があるかということです。

コロンブスのアメリカ発見のように、欧米人の描く歴史であって万年前に無名人が回っていたと思うのです。

(ヴァスコ・ダ・ガマ航路 – Wikipedia)
その理由は、渡り鳥です。ここで小鳥が非常に大切によく飼われているのに気づきましたが、
国章も鳥、そして、シュメール文明もエジプト文明も古い時代の鳥重視は注目されます。
鳥は巣を作るので行く手は土地の存在を示し、鳥が土地を持ってくる神話もあります。
風土に合った根菜類だけでなく、カナリア諸島、英国などの古い巨石建造物があるのも、
また、アトランティスだと言う各地などもこの沿岸の道で鳥に導かれ伝播したのではと考え
ます。

此処の輸送システムは、なかなかだと思います。町の中をオートバイ、自転車3輪車、ミニバスが、街から町へ、県外へはバスが、州外へは長距離バスが、人の都合と懐具合で選ばれて網の目を構成し、大小のターミナルが人の必要とする物とサービスを提供し支えています。

大昔の沿岸の海の道もこのようなものだったと思います。オウトリガーのカヌー舟から帆を幾つも持った大型の船までが時には風待ちし、賑わいのターミナルや租界に支えられ情報と物資を伝播していたのだろうと思います。

そうでなくては遠隔の類似の遺物が理解できない例が多くあります。コロンブスやガマのように一艦隊で全行程行くのではなく網の目で波のように伝わっていく状況だったのだろうと思います。

そしてその後の陸上の情勢や海面上昇でターミナルや租界、造船所などは消えたり、あるいは別の形で港町となったりし分からなくなっているのだろうと。船乗りは寡黙、knowhowは徒弟的な口伝ですし。

なお、アトランティス話は、最近、再び盛り上がりを見せ始めており、最有力候補のパンカル半島のここだったという所論も出ています。私は他の命題の傍らこの話も追ってますが、依然研究中という状況です。

以上

 

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