始まり当時の環境変化の大きな一つは、世界人類史の補助線である 過半が沈んだ Sundalandスンダランドです。ここから西太平洋沿岸族・語族の重要性が理解されます。原図は日本の先生が日本部分を正しく認識しないために、日本部分がダメで、世界に誤解を与えているのです。

標題と異なり、日本旧石器遺跡1万件以上の結果が理解されていません。「日本祖代」は、北部九州から北海道への北上、沖縄への南下を遺跡・遺物が示しているのです。今や世界人類史の中で、北部九州約4万年前、北海道概ね拡がり約3万年前はとても重要です。信頼できる大陸内陸のバイカル湖畔のマリタ遺跡は2.4万年前なのです。北海道は、今世界注目の「最初のアメリカ人」問題に関わるのですから。その他、世界人類史の基本的な事項を赤で修正しましたが、まだまだ世界の予選会にも参加できないレベルです。

何故か学校では教えませんが、今の自宅学習が世界を、世界の中の日本を理解するチャンスです。


日本の始まり時代は、1万件以上の旧石器遺跡によって北上であることが実証され、出アフリカ後の南方からの西太平洋沿岸族の北上と、その継続による渡米の可能性に結び付く世界人類史の流れの中の区間です(青矢印)。対馬暖流が日本海に流れ込んでいなかったので、日本海側に大雪の無かった事は重要で、列島の概ね斉一な拡がりを可能にしました。

赤矢印は、最も移住容易な沿岸ルートを無視し、時代の異なるものを合成した誤りで、出アフリカ後の道筋も妥当な 複数の 遺跡で辿れず、沿岸の河川から遡上したことも無視した歪んだイメージを与えるものです。また、北海道「日本祖人」の「最初のアメリカ人」の可能性を塞ぐものでもあります。現在、種々の書籍のみならず博物館の展示にも用いられており大きな問題です。当ブログで、これまでの「曙海」時計回りの始まり、 列島 北上の拡がりと定着などを参照してください。


最後の謎と言われる「最初のアメリカ人」(第2図)は、定説が覆り沿岸を舟で17,000年前以前にです。問題はシベリア人か北海道「日本祖人」の絡みは無いのかで、ホントにシベリアのマンモスハンターが、舟を造り家族が北の海を漕いで行ったのか?

豪州人(第3図)は、若い女性研究者が、環境分析から、定説の南ではなく北ルートだとし、いつ来たかが問題です。さて日本(第1図)は、西太平洋沿岸族が曙海を越えて約4万年前に北部九州へであり、対馬か浅い海を越えた近回りの五島は?です。更に、先島へは台湾からの黒潮越えか慶良間ギャップ越えか、です。奄美を越えた時計回り、沖縄の厳しい海の民・糸満ウミンチュに祖人の痕跡を感じます。 教授、当時の環境の理論環境の分析をしましょうよ。 先生、子供達にこういう問題を出しましょうよ。なお、それぞれについは、既に当ブログで報告しています。


鹿児島指宿高校の先生であった小野重朗氏の書籍(1977年)で、原郷も基層の語も正に南西部日本の民俗を長い間研究されて、民俗学者として辿り着かれたものと感じられます。先島から五島まで、東南アジアを北上した古い古い文化だと指摘されており、その認識は「曙海史観」そのものです。

70年代のことですから、南の先島から北の五島にまで至ったと言う認識も理解でき、曙海西岸が海中なのですから時計回りで南下した可能性を求めるのは酷です。その後の考古学界の実証で、九州から沖縄へ文化が南下したという認識となり忘れられていますが、小野先生が、最深部を掘り当てたと考えられた内容自体は間違いでは有りません。驚きの先人の研究努力に敬意を表します。実は、西岸の民である呉・越との深い関わり、長崎の人が元寇の侵攻で、捕まえた大陸内陸の北の民と異なり南の沿岸の民を誅さなかったことなど、曙海東・西・北沿岸の西太平洋沿岸族の古く長い関わりを学ぶことなしに、日本史の理解はできないと考えています。 

それにしても関連書籍の書評で、未だ下図✖が記述されるお粗末には驚き呆れます。

蛇足ですが、カンプン・ナガ(竜の村)は、インドネシアのパジャジャラン大学外国人語学研修生の西ジャワにおける修学旅行地で、長い急な階段を下り上がりしたことを想い出しています。

明治10年、米人E.モースが大森貝塚を発見しアイヌ以前の人によるものであると言い、坪井東大教授は北海道に同じくアイヌ以前に居た先住のコロボックル説を唱え、日本の人類・考古学の扉が開かれました。残念ながら、北千島に逃げて行ったとアイヌの伝承にあるコロボックルは、現地にいないし話も無いとして否定され立ち消えました。石器時代人の話を明治になって出かけて居ないからと否定する方が科学的でなかったのです。

ところが、大正時代になって、冒険空想小説と紹介されている「三千年前」が、実は専門家ではないものの十分に歴史考古学を勉強した江見水蔭(えみ・すいいん)(小説家翻案作家雑誌発行者冒険家)によって書かれました。それは、①三千年前(奇しくも縄文人)も②アイヌより先住の石器人も③関東多摩川(大森貝塚の影響)を代表させ広範囲に居たと言う認識も④北に逃げて行かなかったと言う記述も、全て当時の最先端のもので、かつ、現代人の誤解などより遥かに現代的な驚くべき内容です。厳しい皇国史観の縛りの中で、小説の形をとっていわば「日本祖人」を追求した在野の歴史考古学家の挑戦の論文です。いわば縄文人に勇者スマンベと初めて名前を付けたことも空前絶後のものです。坪井権威が説を唱え、弟子が現地研究でそれ否定し、それをまた在野研究家がやはり坪井初説が妥当と小説の形で否定した、今も学ぶべきものがある素晴らしい先人の歩みです。アイヌ「先住」国会決議という歴史の誤りを犯した国会議員先生方に、武漢コロナの自宅学習で学んでほしいものです。


姶良噴火と日本前期旧石器遺跡という先生の英語論文記述内容は部分事実です。しかし、赤青で補備したようにトータル表現しなければ日本の始まり時代が、世界で、子供達に、誤解されたままです。修正第1番は、北海道・北東北と沖縄の遺跡・痕跡の描画です。こんな描画なしの認識で、北海道・北東北の縄文世界遺産登録が進むなら空恐ろしいことです。

まず、①日本列島へは南方から北上し、渡海して九州に至り3万年前には北海道及び沖縄にまで拡がり、更に北上して行った可能性を描画、そのため、②海面低下、北東ア平野、曙海、朝鮮山地、日本海側に大雪なし、など当時の環境を描画記述、③北の遺跡、東京諸島、沖縄の遺跡・痕跡を描画記述です。東海道五十三次の無い時代の関東のこの充実は、④途中の水没海中遺跡、を示すのも子供達にはよいでしょう。いずれにしても、先生の描画は、北海道と沖縄を別扱いしたがる国内外の歪んだ一部の政治勢力に利用されるのが、一番の問題かもしれません。 特に、今、「最初のアメリカ人」で北海道に注目です。

モノは考えようです。満員電車に文句言っていたアナタ、父権喪失をお嘆きのおトウさん、チャンスですよ、月にロケットが飛ぶ時代は、登城しないんですよ、家で裃を着て仕事をしさっと着替えて子供と遊ぶ、お母さんを手伝う時代です。頭を切り替えて、次のAIの新しい世に備えましょう。体第1、跳び箱を。

  

子供が家にいて厄介?いやいや蘊蓄を語りましょう。今、南米アマゾンが熱い(暑いでなく)のです。ハーバード医科大が、アマゾン古部族のDNAが、他に見られない(北米ですら)Sundaland(東南アジア)地域タイプだと発表し難問を突き付けました。そして、またまた同じエリアの南西アマゾンで子供が大好きなタピオカなどは世界最古級1万年前の農耕を示すものとのNature報道です。

当然にして問題は、それは誰だ?となります。日本列島人は、3方向から渡来して始まったという博物館などの図は、時代を異にするものを一緒にした誤解を招く誤りで、ホントは約4万年前に、対馬~五島に多くの家族が舟(筏)でやって来て始まった北上史なのです(1万件を超える旧石器遺跡の分析から)。世界人類史の最後の謎である南北アメリカ新大陸は、誰がどこから来たのか、A:北海道「日本祖人」か、B:シベリア狩猟族か、A・Bの混合か?子供たちに教えましょう。調べればネタはタップリで、夏休みの宿題準備も終わります。


Nature、Scienceeが報ずる最新の南米南西アマゾンのマウンド(小山)の分析から、それまでの認識を覆す驚くべき古さのタピオカ、カボチャなどが発見され、一躍、世界農耕金メダル(11,000年前)候補に躍り出ています。

南米チリのモンテ・ヴェルデ遺跡が、定説のシベリア人がマンモスを追ってベーリング地峡を越え、「無氷回廊が融け」て通路が出来てから入って来て本土・南米アメリカ人になったと言うのを覆し、歴史学界に衝撃を与えました。地域は、山々の沿岸側にはマチュピチュやクスコがあり、この農耕発見は素晴らしく 再びの南米からの歴史界への衝撃です。さて、問題は、北太平洋沿岸を17,000年前以前に「昆布ハイウェイ」沿いから舟で入って来た「最初のアメリカ人」について、多くの欧米学者は依然として何となくシベリア狩猟族のイメージでいます。ホントに舟で入って行ったのは彼らでしょうか、日本学界は、人類移住のルートAの日本列島発地人である「日本祖人」北海道の少なくとも寄与貢献の可能性を、世界に発信すべきです。


コロナ自宅学習は、真実を勉強する好機です。米ハーバード医科大が、アマゾン古部族のDNAがSundaland地域にしか発見できないものであると発表していますが、難問です。この結果が正しいとして、一応の説はA、B、C、Dがありますが、日本の博物館が示し学校で教える日本の始まり3方向渡来図は議論に参加しない論外という、世界に出て行けないことが問題です。

そもそも1万件を超える日本の旧石器遺跡は、始まりのこの3方向図を否定しています。さて、図で明瞭なようにベーリング地峡越えのAが17,000年前以前なのに、Cの太平洋のイースター島へ人類が達したのは紀元後の話なのです。Bのシベリア狩猟族とこのアマゾン族はどうにも結びつきませんし、Dの欧州族もとても考えられません。世界にとって重要な日本の始まりについて、時代の違うものを混在させた3方向渡来図が、世界に誤解を与え問題解決のブレーキとなっているのです。環太平洋移住説(Migration along Pacific Ocean Rim)に光を当て、「最初のアメリカ人」議論にも参加しましょう。


コロナ自習で、真の歴史を学ぼう。約4万年前からの我が国の歴史は、始りの長い時の共通性と渡来した人たちの融け込み吸収が特徴です。いつの世も争いごとはありますが、和をもって貴しと為すで現在に至っています。多くの家族が海を越えて入って来て、文化を育んで花開いているもので、古~い我が国に「先住民族」などという語の無いことが特徴なのです。今や九州にだってなかなか見つかりません。全ての人の人権を尊重し、歴史は真実を語りましょう。「欧米化」を真似する必要は全くないのです。一部に引きずられた誤解の「国会アイヌ先住決議」を正して、歴史の真実でアイヌに幸せを。(資料:的場光昭)

武漢コロナで自宅学習が多いピンチは、チャンスです。先生が教えてくれない日本史を学ぼう。日本始まりの私たちの祖先・「日本祖人」は、2.9万年前頃の姶良大噴火と2万年前頃のLast Glacial Maximum 最終氷期最寒期を乗り越えて、バトンを次の縄文人に繋ぎました。南方から渡って来て、島国でこの長い期間に育まれ熟成された私たちの信仰・習俗、文化の基層が、私たちの特徴の元です。月にロケットが飛んでも、人がそんなに大昔と変わらないのは、武漢コロナの騒ぎを見てるとよく分かりますよね。


武漢ウィルスは、いろいろな事情で地域によって発症を異にしています。我が国の始まり「日本祖代」の痕跡を探る一つに、母から子に遺伝する南方型のHB抗原が知られていますが、第1図、2図を比べてみると不思議な類似がみられます。何なんでしょうね。

4万年前に家族が「曙海」を渡って北部九州に来ました。3万年前には、北海道から沖縄まで「日本祖人」が拡がり、約2万数千年で2代目の縄文人と呼ばれるようになりました。そんな古い祖先のDNA、生き方を色濃く残していることが、HB抗原からうかがえるのです。

スペイン・バルセロナ大のZilhao教授が、ポルトガルの大西洋岸洞窟でネアンデルタール旧人が食した大量の魚介類の痕跡(8~6.5万年前)を発見しました。これまでは少し食べ散らかした痕跡は見つかっていましたが、此処では、魚、カニ、貝をむしゃむしゃと食べていたという事だそうです。

他所では氷床の下で壊れたり海水面の上昇で水没したりで保存されていませんが、此処では土地の隆起があり保存されたもので、他でも見られた事だろうと語っています。海岸から2km足らずの所ですが、痕跡は豊富な石器、炒めた植物、馬や鹿にウナギ、鮫、アザラシ、かに、水鳥など実に多様な食文化なのです。注目は、370kg/m3の量なので袋か籠を持っていたであろうこと、時節によっては貝が有毒な事を知っていたであろうことです。そして、何よりもこれまでは現生人類・新人と旧人の違いとして組織的な海産物の利用による脂肪酸の摂取が、脳の認知力の違いを生み出したと考えられてきましたが、旧人はそのテストをパスしていたという驚きです。確かに岩絵も描きました(6.5万年前)し、仲間の埋葬に花を添えてもいます。

翻ってアジアでの初期新人の拡がりと暮らしは、Sundaland/インドネシア、第2図フィリピン、台湾、第3図伊豆の海辺などに示されているように沿岸地域と河川の遡行からです。今回の発見は、実は洋の東西を問わず遥かに大昔から普通に沿岸地域が使われていて、漁労採集と狩猟を共に生業とする暮らしが行われていたことを窺わせるものです。そしてその後は、漁労採集と農耕が共に沿岸地域で生業になる訳です。沿岸は痕跡の発見が困難ですが、欧米学者の目が沿岸にも向くことは大変よいことで、狩猟族に偏っていたものが正しい人類像に近づいたと評価しています。

世界史上の金メダルである「38,000年前の伊豆の海の行き来」を今もって学校ではしっかり教えていません。「日本祖人」が、東京都神津・恩馳島の黒耀石を求めて伊豆の海を行き来した事は、関東・東海で発見された石の原産地特定と年代測定により驚きをもって確認されました。その余りの古さと距離(石廊崎~恩馳島、約55km)から、かつて朝日新聞が「謎」として発見の事実を報じたこともあってか、この偉業はしっかり教えられていません。

第1図、当時は海岸線が100m近くも下がっていて島がかなり拡大(大島を除く)しており、流れは今と逆に北から親潮分岐流があったと考えられ、最適の行き来は図のように、河津~恩馳島から徒歩えい航~大島~河津の三角形進路が考えられる(最短直路は10数km)のです。行きは太陽、帰りは伊豆の山並みで方向も維持しやすく、伊豆の山は造舟の木材で有名な地ですし、何しろ九州へ家族で海峡を渡って来たことがはっきりしてきた海の民の子孫ですから、昨年の「3万年の航海」の苦労に比べればず~~と容易でした。問題は、更に1万年も古い大昔ということに、九州渡来も伊豆の行き来も大きな声で言うことをためらわせたのかもしれません。
ところが、第2図、英ケンブリッジ大などのチームが、フィリッピン・ルソン島Callao洞窟の発掘で67,000年前と出た石器群を発見しました。

そして、その古さの石器群は、これまでの認識を改めねばならないだろうという祖先の製作の知力が窺えるのだそうです。他方、私たちが注目すべきは、①Sundalandからルソン島へは2~3度の渡海を要すること、②そうであるなら、ルソン~台湾間250kmには3個群の島々が見えて有り、③東側は黒潮流が押してくれますので、渡って来れたことです。即ち、「日本祖人」の知力と経験が、今や実証的に得る分かるのです。九州渡来や伊豆の行き来は、「謎」や不思議ではなく十分考えられるのです。そして、狭くなっていた津軽海峡を鼻歌で越え、暮らしに適応しつつ択捉島まで北上して行ったら、その後の千島は食豊かな処女地が次々に見えていました。先生、不思議ではない可能性を教えましょう、フィリピンからアメリカまで。


次のページ

前のページ

↑トップへ