図中➀特紀すべき事項は、皇室伝統の大嘗祭、初代神武天皇の登場、一部にヒミコとする纏向遺跡は、垂仁・景行天皇の都宮であることが記紀に明記されています。仏人史家レヴィ・ストロースの言は、客観的で意義深いです。史学界が軽視している誤りは、日高見国・神社、太平洋側のユダヤ・徐福などの渡来文化伝説、魏よりむしろ歴史意義ある水田稲作の起源と考えられる呉・越国関係などが有ります。シナ地理書・山海経が示す燕及びその後の公孫氏と倭の関係は、「曙海」の海岸線変化を考えれば注目すべきです。

マンモス・ハンター、騎馬民族、大量の弥生人は来ず、ヒミコが光武帝から授かったとされる親魏倭王金印は江戸時代に製作されたという偽物説(美術品大家)があります。

②ユーラシア東部アジアの始まり人類史は南方人の北上で、暮し振りは「アジア地中海」系が基層です。その後、北のモンゴロイドの拡散という2重構造を認識して東アジア史をみることが重要です。

③日本祖史の列島中央部における3.8万年前からの祖代・縄文時代の長い期間の基盤を認識することが重要で、中央部はその遊動活動の広域性、黒耀石・翡翠など貴重物の交易で賑わっていた痕跡から、日本語の祖語も想定し得るものです。その後、状況は消えることも無く後代史の考察の傍証であり、無視する畿内史観の歪みに注意すべきです。

天皇陛下登場の日本古代史・祖史を教室に、世界に。ー日本祖代研究会(RGaJP) 

 

左図 ディノザウルスがアフリカから南米へ陸地が連接していた12億年前の時代に入って行ったことが、足跡考古学で実証されました。

右図 現生人類は出アフリカ(10万年前頃)後、驚きのスンダ・サフルランド民と南米アマゾン古部族のDNAが類縁ですが、太平・大西洋を横断はできませんでしたでしょう。ユーラシアを拡散し北回りで大陸地ベリンジアにマンモスを追って行って知らずに入り、そしてアメリカ新大陸に拡がったという定説は北米が大氷床に覆われていて足止めされたために崩れ、今では右図のように米大陸西沿岸の昆布ハイウェイを、条件の良い時期(2.6万年前頃)に南下して行って南米南端にまで拡がったという説が有力になっています。
従って約4万年前に北部九州に渡海し列島に拡がった始まり初代の祖人(縄文の前、先代)は、当時の青森・陸奥平野から昆布ハイウェイを北海道に進出し、道東から北上を継続したYルートで、論議の決勝進出!で注目なのです。

今や始まり南方のA,B,Cも論議中、教室に―日本祖代研究会(RGaPJ) 

1. 曙海

➀水田稲作の伝搬は海水面上昇の西岸ルートであり、呉越系難民のみならず縄文海民による漁農の可能性もあります。②長崎の人々は、元寇捕虜への対応において朝鮮半島北部民には苛烈でしたが曙海西岸民には寛大だった、歴史的な沿海親近性に注目です。③「五島列島の海士は容姿が隼人に似ており、騎射を好み、言葉も俗人と異なっている」(肥前国風土記)古さの沿岸南下ルートを示しています。➃沖縄の貝交易は、トカラ~九州西岸の曙海東岸の逆北上ルートを示しています。

2.パンカル海

⑤西岸では広域万年前の旧石器・根菜農耕のホアビン文化、東岸では数万年前の古い洞窟遺跡群があり、そして東北の比台地区の原住民は酷似しており、台湾東方小島のタロ族は祖先が丸木舟で海峡越えて来たという伝承(第1級のフィールド・ワーカー 東京帝大 鳥居龍蔵調査)を有する黒潮ルートに注目です。

出よ、アジアのFernand Braudelー日本祖代研究会(RGaPJ)  

「最初のアメリカ人」は沿岸ルート説(最適南下時期は2.6万年前)で、従来のマンモスを追って進入南下説は崩れ、「誰?」があらためて問題。

大きくXかYか、そして日本に関わるAかBかCか。

誰?は、アジア海民、内陸狩猟族、それらの混合か。

―日本祖代研究会(RGaPJ) https://www.sunda-wind.net/?p=12367

First American People seem to have migrated along coastal route to Patagonia by new theory.
Who? Mysterious focus points are in Patagonia and in X, Y, A, B, C. The old paradigm has changed now. Orang Laut-sea of Western Pacific Ocean or Spear hunter in East Eurasia or admixture?

日本人何処から? 曙海に北上して来た南方の海民、その痕跡の古さと知力に注目です。
右上➀大槍持ちの狩猟族ではない、海の人(Orang Laut)の太古の沿岸における海峡越えの分岐分進、早かったパプアや豪への90km越えての筏による渡海東進 は熱帯雨林を含む環境での沿岸移住です。

右下②欧州より万年以上遥かに早く洞窟絵を描き、豪へ90km筏渡海による到達と日本同様の「切る文化」磨製石斧などが示す知力・熱帯雨林含む沿岸における生活適応力は、欧州などでの狩猟生活と大きく異なる暮らしぶりで習俗・信仰に反映しています。

左③注目は上記能力の新人類子孫が曙海沿岸に北上して来て、 対馬海峡やトカラを越え沖縄へ(3.6万年以前)。伊豆で黒耀石を求めて行き来した最古の生業航海、種子島での魚追い込みのような最古の陥し穴猟の知力と社会性を示し、当時現出していた陸奥平野で太平洋側と日本海側の東西が合一して更に寒冷の北海道に進出、留まる理由もなく千島渡り等、南方の始まりの知力と適応力を見れば何も不思議ではアリマセン。

 日本の始まり状況を教室に世界に―日本祖代研究会(RGaPJ)

(Right) First Americans, along West Coast

(Middle) It had started in south coast of ancient Asian land mass Sundaland and migrated up along Wallace line, not along the steppe grassland, then turned toward east beyond strait. People not spear hunter should be paid more attention. https://www.sunda-wind.net/?p=12347

右図➀現生人類はスンダランドから東進し、豪・パプアに5.5-5万年以前に南北いずれにしろ沿岸ルートを、時に90km以上を筏で越えて渡海していったことをパプアの動物や樹脂などの遺物で英国大学等が実証(前回報告)しています。

②上記に至る過程は、欧州の方の大槍持って狩猟するイメージの危険性の多いステップ草原を進んで移住したのではなく、インド洋に面した長いスンダランド南岸(熱帯雨林を含む)を東進し、生物分離線の沿岸を北上して海の人(オランラウト)が進み、重要な3つの分岐点で別れつつ新人類は拡散したとみるべきでしょう。

左図 日本史の始まり祖代を考える場合、南方を経た「アジア地中海」を北上し「曙海」沿岸から対馬海峡を越えて先ず北部九州に渡海、海の人(オランラウト)系の祖人は沿岸を沖縄へ南下、太平洋・日本海の両沿岸を進み河川を遡上して山中に拡散し、当時の陸奥平野で合一して寒冷の北海道に適応していった万年の暮らしぶりの歴史を基本に考えるべきでしょう。

沿岸ルートを千島へ―祖代研究会(RGaPJ)

➀大学ご指摘事項 現生人類・新人が、海産物のみならず小島の熱帯雨林を利用(最古、一般に雨林内部で行動し生活資源として活用するのは容易でないと考えられてきた)し、樹脂固化品を活用するなど“原始人ではない”知力を示しています。

②既研究の実証性を提示 詳細な理論的研究で既に北ルート・90km・筏渡海(豪からの北上でない)が報告されていますが、今回は5.5-5万年以前という時期を実証し、かつ沿岸ルートを移住して来て、Wallace 生物分離線を北上(祖代研)して分岐し、東進曲折して小島を渡海して行ったとみられることも意義深いです。

③上2記の海洋行動(知)力からの推定 前述の➀②から、100km渡海力をもって新たに太平洋岸の「黒潮ルート」を列挙し得る可能性は、台湾更には日本行きに影響する重要性があります。祖先は、タイ、ボルネオ・カリマンタンに加えてニューギニアとの関連の可能性も考えられます。

教室に南方で続く新発見を、世界に日本の祖代・祖人の状況を―日本祖代研究会(RGaPJ) 

左図 教室・博物館に見る日本史始まりの誤解は、①時代が違い意義が異なる3つの進入を同列扱いの誤り、②最も可能性が高い沿岸ルート(青)が無く、③列島生まれの2代目縄文人が、当時はなかった朝鮮半島から渡って来たと生徒に誤解させるもので問題です。

長く不適切な用語の「旧石器時代」は、教室での説明だけでなく活発な論議の為にも「祖代(祖人)」に替えるべきであり、始まり時代の人を語れていないことも大きな問題です。

右図 (下)NHKが、南方に縄文人とDNA類縁の種族(マレー半島タイ領のマニ族)の確認等を報じましたが、始まり時代の日本列島への進入は3方向ではなく北部九州から北上(沖縄へは南下)の1方向性であり、(上)近年における研究で米国ニューメキシコ州での2.3万年前の足跡発見など「最初のアメリカ人」の米西海岸進入説の高まりや最新のDNA研究によるシベリア狩猟族の進入が新しいなどの事から、環太平洋移住(MPOR)説の伊豆航海や祖人の千島ルート渡米可能性に世界の注目が集まってきています。

教室に正しい史実を、世界に日本祖史の発信を―日本祖代研究会(RGaPJ)

➀100万年前の原人でさえもロンボク海峡を越えた驚きの海民性は、スンダランド南岸の東進移住で培われたものでしょう。

アンダマン~日本のDNAの類縁、生物分離ウオーレス線沿いの古遺跡の充実、対馬海峡を越え約4万年前に北部九州へ渡海の始まり、沖縄への南下、日本列島北上の遺跡などは、 “アジア地中海”沿岸の北上移住を示し、伊豆で3.8万年前に黒耀石を求めた世界最古の生業航海はそれ以前とそれ以後の沿岸移住を実証で示す重要な事象なのです。

他方(図右下)、豪沿岸先住民の暮らし振りは、海亀・魚貝などの海産食も道具も欧州・シベリアの大槍持ちヒゲもじゃ原始人ハンターと全くイメージ大違いのものであり、かつ、沿岸北上説を支持します。

図右② 最初のアメリカ人問題は、内陸回廊が凍結・未通で西海岸の“昆布ハイウェイ”南下説が近年ますます有力になっており、ニューメキシコで発見された驚きの2.3万年前の足跡、最初の南米沿岸モンテ・ヴェルデ遺跡人などのアジアの祖先は何処の誰なのか?が問われています。 従来のシベリア狩猟族説は、最新のDNA分析で新しい米本土進入とも言われており、また狩猟族が大槍を捨てフネを造り北の沿岸を南下したのか、“最初の”南米沿岸人のアジアの祖先はあらためて解明待ちの状況なのです。

始まり時代を教室に、日本の祖史状況を世界に―日本祖代研究会(RGaPJ)


A. インドネシア・フローレス島で発見された人骨は、百万年前の人類が小人化したフローレス原人(小人族ホビットではない)と確認されました。しかし問題は、特に島が繋がっていなかったロンボク海峡②を家族で越えた世界最古の事象であり、コレがニュースでしょう。

BC. これに関し祖代研は、気温・海水準の揺れや原人・旧人の認知レベル等から、「筏・フネを製作しての多くの家族の計画的な渡海」ではなく簡易に海を越えた事象と考えますが、そのスマトラ・ジャワ(スンダランド)南岸以来育まれた沿岸知・活動力は従来の原人認識を変えるものでしょう。更なる人類史の研究を待ちます。
日本祖代研究会(RGaPJ)

以前に紹介しました東部アジア人(インマレイ系)の揺り籠スンダランド隣接フローレス島洞窟における発掘分析のニュースです。

1m身長の大人の小人骨といえば、(図右)先のアワ族が似てる北千島のまたコロボックルの類縁かと思う人もいるかもですが、今回は約70万年前の島の暮らしに適応し形成された、旧人の更に前の「原人」ということで別種です。
そもそも東京帝大助教授・第1級のフィールドワーカーの鳥居龍蔵が、明治・大正の北千島現地研究に基づく検討によりアイヌなどの伝承と遺跡・遺物・暮らし振りから史実だと認めた北千島民のコロボックル論は、残念ながら今も学界で至当に扱われておりませんが、そのような小人でもなく誤解です。

教室にコロボックル(留頓ルトン)を、世界に北方史を―日本祖代研究会(RGaPJ)

右➀世界人類史の最初のアメリカ人問題は、北の昆布ハイウェイ沿いの北米西海岸ルート説が有力となり、ハイウェイ上の祖人(約4万年前~)にも近年になって注目が集まっています。最新のDNA研究でも、シベリアからの進入民は新しいと言う研究成果も出て来ていますので。

左②先般公表されたアマゾン先住民・アワ族(350名)の撮影像は、北千島のコロボックル・留頓(アイヌではない)によく似てる!?とみられ、同類なのではと興味深い事です。

教室にコロボックル・留頓ルトンを、世界に北方史を―日本祖代研究会(RGaPJ)

図左

➀平安・擦文時代の末期に、アイヌと整合しない・関わらない内耳土器・竪穴・遺物の実証痕跡が千島・樺太含む北方に広く(赤丸発掘)拡がっています。

②その拡がりは千島、樺太を含み、特に北千島民[コロボックル、留頓(ルトン)]のカムチャッカ南部(主に沿岸)への15世紀後半~17世紀の進出をも発掘で示していますが、カムチャッカ民が北千島以南に南下した史実は見られず(侵入を試み撃退された事はあり)、むしろ北海道東祖人の北上継続が有り得た事を示しているものとして重要なのです。

③土器・竪穴等の痕跡の時代とアイヌ自身を含む各地の伝承から、正にアイヌの樺太方向から道内への進入・南下及び十勝コロボックルの千島への去り伝承が史実を反映し、北千島民はコロボックルである事(第1級のフィールドワーカーである鳥居龍蔵の研究成果の認識、特に大正8年を含む)を示していると考えられます。

④「島の竪穴・遺物は誰でもない祖先以来のモノ」と主張する北千島民のカムチャ沿岸進出歴及び千島北端・占守島の古縄文痕跡から、縄文Jomon前の祖人Sojinの「昆布(Kelp)ハイウェイ」に沿った北上が有り得た事が世界人類史の「最初のアメリカ人」問題に重要な意義を有しているのです。

図右 前回報告

教室にコロボックル・留頓(ルトン)を、世界に北方史を―日本祖代研究会(RGaPJ)

 

世界史界が注目する北海道の祖人・縄文人が、何を食べていたのかの科学分析から巷間言われて来ているイメージと全く違った姿が明らかになっています。大陸からマンモス・ハンターが南下して来た、当初大型哺乳動物を、温暖化後には中小型を狩猟して暮らしていたと言うのは誤解です。

1.昆布(Kelp)ハイウェイ上

太平洋岸は相対的に厳しさが少し緩く、世界が注目の「昆布(Kelp)ハイウェイ」上の襟裳岬は演歌と違って年中何でもあって食は大きな魅力でしたでしょう。大型動物に比し獲得しやすい海獣(アザラシなど)は、革は衣に住まいに骨は道具に脂は火で暖かになるなどすべてが北の暮らしに有用です。

2. 津軽海峡は狭く、本州で暮らしの予行練習済

海民性の祖人は、対馬海峡・トカラ列島や「伊豆海峡」を越えて拡がり活動していました。北での暮らしについては既に、仙台・日本海側からの北上間に当時の気候環境から予行練習済みであり、当時の海水面低下で現れていた陸奥平野で、太平洋側と日本海側の祖人が合一して諸情報を交換していたと考えられ暮らしのknouhowは充実していたことでしょう。海峡はフネでも冬季の氷上徒歩でも容易に越えられました。北上し続けて来た祖人にとって、北海道で留まった理由は無く(プーチンはおらず)処女地の樺太千島へ北上を継続したと考えるべきです。この種問題は、実証が無いから無いモノとして無視するのではなく、否定できないから有り得るとして研究すべき性質の問題であることが学界で誤解されています。

3.最初のアメリカ人問題への関わり可能性

千島(占守島)には6千年前の縄文痕跡があり、ロシア学者は祖代の遺物にも言及しています。昆布ハイウェイ北上継続による関わり可能性及び明治期先達が論議した北千島コロボックルCorobocle(留頓ルートン)についても、教室で研究議論し世界に発信すべきなのです。

ー日本祖代研究会(RGaPJ) 

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