世界人類展開史の最後の謎である「最初のアメリカ人」問題は、これ迄の「氷河期に海水面が低下したベーリング地峡からマンモスを追ってシベリアからアメリカ新大陸にやって来た」という旧説から、「北太平洋沿岸から昆布ハイウェイを舟でやって来た」という新定説が注目を集め、前回報告のように活発な議論が起きています。しかし、欧米では、日本側の発信が無い弱い誤っているためか、図のように、根拠のないルートが描かれ、1万件を超える遺跡で裏付けられた日本列島ルートが無視され、或いは鎌倉時代頃からのアイヌが、政治介入の「先住」が付されたために、万年の先人の祖先であるかのように扱われている例すら見られます。

原因の一つは、日本列島史始まり「日本祖代」の祖先である「日本祖人」の用語が教科書に無いことでしょう。

世界に合わせ追いつこうと、旧石器時代 ・後期の人々 などと分り難い事を説明せざるを得ないことが一因でしょう。どんなグローバル大企業でも、小さな商店であった創業の時代を全社員は見つめます。日本史は、余りに創業時代を軽視していますので、世界の誤解のみならず、子供達にもしっかり継承されていません。「吾輩は猫である、名前は未だ無い」って、大事な日本史祖先に対し、何をやっているのかと漱石先生が怒っています。 スペシャル番組も無く、チコちゃんにも叱られます。

米オレゴン州立大が、アイダホ州西部遺跡で発見した石器や炭、動物の骨などは15,000~16,000年前で、北米氷床を考慮すれば、最初のアメリカ人は、太平洋沿岸から舟でやって来たのであり、また、この時代の北海道・遠軽白滝の石器に類似していると発表し、Gigazineニュースが伝えています。ワシントン大グレイソン教授は、石器の類似性に関して慎重であるべきと言い、サンディエゴ大のブライエ教授非常に興味深いつながりとコメントしています

いずれにしろ、日本祖代研究会がお伝えし続けてきた、北海道先住「日本祖人」Nihon Sojinのアメリカ新大陸移住が、米国のみならず世界の重要課題として論議される事でしょう。オレゴン大からは、石器の類似性に関して遠軽白滝の名が出ましたが、当然、発地である十勝帯広から北方領土・千島列島ルートが浮かび上がります。お伝えした「伊豆海峡」の漕舟行き来の金メダルに次いで、

「日本祖代」Nihon Sodaiに渡った北海道から最初にアメリカに行っていれば、2個目の特大の世界先史金メダルが期待されます。なお、アメリカ先住民Native Indianを、祖先故郷のオリピックに招待する話にもなるでしょう。なお、2代目の縄文Jomon人は当時まだ生まれておらず、鎌倉時代からのアイヌは全く対象外ですので、世界の誤解を解きましょう。(科学誌サイエンス8月30日号参照)

皆さん、宿題は終わりましたか? 実は、38,000年前の大昔(海水面が数十mは下がっていた時代)から、「伊豆海峡」を舟で越えて「東京諸島」の神津・恩馳島に黒耀石を採取するため、舟で行き来していた事が、沼津で見つかった物を蛍光X線分析して確認され、年代測定から世界最古の舟による現生人類祖先の生活としての操舟として認定され、金メダルなのです。

神子元から恩馳が直線で50数㎞、城ケ崎から大島が約20km、幸いにして一番問題の方向維持は、太陽(御神火も?)と北極星がありました。どう行き来したのかは未だ定説が有りません。行き来では、黒潮分岐流の流れにムリなく乗る事が大事、伊豆諸島側ではかなりの距離、浜を舟を引いて歩いて行く事も出来ました(直接渡ったと「日本祖人」に叱られるかも)。オジさんの答えはと訊かれれば、有名な河津・見高段間の縄文黒耀石工房遺跡―今井浜は、縄文なんかじゃない、その前の「日本祖代」からの、交換であちこちから人々が集う中心地であったと思います。北極星・黒潮分岐流乗り・太陽(御神火も?)がぴったりですし。因みに伊豆は、良質船材で応神天皇の時代から有名で、枯野は軽野で「カヌー」の語源と言う説があり、しかも米大陸にやって来たコロンブスに教えたという説もあります。

約4万年前に「曙海」を渡って来て始まり、3万年前には列島中に拡がっていた「日本祖人」は、長い海岸線での海辺の暮らしと1万件を超える遺跡の石器や活動・居住などの痕跡から分かる、狩猟採集の暮らしをしていました。

注目すべきは、現在の都道府県の区分の暮らしぶりの違いが、始まりの先史時代から既に窺われる驚きですが、それが長い時間をかけて島国でゆっくり熟成されたモノなのです。

そして、始まり時代に対馬暖流が流れ込んでいなかったので大雪が降らなかった事、長野山梨八ヶ岳や伊豆神津島における貴重な“黒耀石”の採集と交換により、中央部の連接と発展が正に現在を思わせるようです。その後、2.9万年前頃の南九州姶良大噴火による被害のため、相対的に東日本が充実し、最寒期を過ぎて列島中に弓矢や土器という生活文化の普及向上が見られ縄文時代となりました。温暖化による列島全域の人口増加とその後の寒冷化による減少や南下を経て、曙海の西から稲作と金属器の大きな文化の伝わりによる変化がゆっくり北上(図の橙色線)して行きました。

「日本祖代」と縄文時代という日本史の93%の期間を占める時代の暮らしの影響は、これまで無視されがちでした(日本史は室町時代からで十分という暴言)。しかしその期間に、何が良い・悪い、好き・嫌い、きれい・汚い、など生き方の基本が出来上がったように思われます。その後に渡来人が増え、稲作や金属、律令制や仏教やキリスト教が入って来ても、先史時代に熟成された島国の“日本教”に照らして取捨選択、換骨堕胎の和風化をして来たため、最近では、「日本文明」と言われるようになりました。92.5%の厚みなしにはとてもそうならかったと考えます。霊を山を敬い、水と緑の樹木を大切にし、生魚・海藻を好み、セミや虫の音が雑音でなく風流に聞こえる事などは、夏に感じる子供たちに伝えたい日本文化の特色でしょう。

万年の昔にシベリアからマンモスを追って、ベーリング海峡が陸続きの時にアメリカ新大陸に入って来た、無氷回廊を通って各地に拡がった、クロービスの尖頭器石器も発見され古人骨も見つかって来て、定説となりました。

ところが、入って来た無氷回廊がまだ閉まっている時期の古い遺跡があちこち、特に南米でも発見されて騒ぎが始まりました。一番古く確かそうなのが、カナダ五大湖そば米北東部のペンシルバニア州メドウクロフト遺跡で16,000年前の石刃石器などが確認され、どうも早ければ19,000年前から岩陰が使用されていたようだとみられるという報告です。付近に他の同様の遺跡が有ります。学者さんの世界も時に投票があり、この報告などから「良い古い」と認めるのが38%となっていますが、未だ確定定説とは言えないのでしょう。やはりベーリング海峡地域に1.6万年以前の皆が認めるはっきりした遺跡の無い事が、判断を迷わせる大きな要因でもあるのでしょう。

さてここでミステリーなら、“犯人”は、②昆布ハイウェイから、③太平洋を横断して、④実はコロンブスよりずっと早く大西洋を横断して、いや⑤ご先祖様は初めから此処で生まれた、という状況です。北海道に3万年前に「日本祖人」が暮らしていたことは十分認識されていないようです。世界の学界でも本件に関連した遺物や人骨に関して縄文Jomon(祖人に次ぐ2代目)、アイヌAinu(鎌倉時代以降)と話が出ますが、1.6万年前には全く彼らは登場していないのです、日本側学者の状況説明が不足のまま誤解が放置されているのです。子供たちにもそんなことは勿論、北海道先史が今、世界人類史の大問題だとも教えられていないのです。

おめでとうございます!「北海道・北東北の縄文遺跡群」が、世界文化遺産への推薦候補に選ばれました。未だに学者さんでも「縄文人は何処から?」と質問して答えていますが、2代目の縄文人は、日本列島からに決まっている愚問です。つまりこの国の学界は、はっきりしない点もあるからと言い訳して、縄文人を論じてもそのお父さんお母さんに思いを致さない不思議な状況なのです。1万件を超える遺跡で、約4万年前頃、現生人類が北部九州に海を越えて来て、その「日本祖人」は、3万年前には沖縄~北海道にまで拡がって居た事に異論は無いのにです。

その後、2.5万年という長い暮らしの歴史を島国で積み重ねて、1.5万年前頃からは、土器や弓矢などを使う定住性ある暮らしの大きな変化で、縄文人と呼ばれますが、勿論繋がっています。

問題は、この日本祖人が、「1.6万年以前に、北太平洋の『米臨海』沿岸の昆布ハイウェイを舟でやって来た」最初のアメリカ人ではないのかと世界の学界が注目する状況になって来ていることです。

即ち、世界遺産の北の縄文遺跡群を作った人たちのいわば「お父さんお母さん」は、また、アメリカ先住民インディアンの「お父さんお母さん」であったかも知れないという世界的な大問題なのです。①3万年前の北海道、道東に、伊豆の海を舟で行き来していた「日本祖人」は居ました、②津軽海峡・襟裳岬から米国西海岸まで食豊かな「昆布ハイウェイ」は繋がってました、③プーチンの居ない処女地の千島列島は次々に島が見えていました、④「米臨海」は、北極海の冷水がベーリング地峡で止められたハワイに繋がる海でした、⑤シベリア東部の遺跡では、1.5万年前程度のモノしか見つかっていません。 縄文人のお父さんお母さんが「最初のアメリカ人」であった可能性 は十分です、 北海道 縄文人の「お父さんお母さん」である「日本祖人」を世界に伝えましょう。勿論、ホントの北海道「先住」民です。

約4万年前に曙海を舟で越えて北部九州に現生人類がやって来て、始まりの「日本祖人」は、3万年前には沖縄から北海道にまで拡がり、1.5万年前から2代目の縄文人と呼ばれています。未だに縄文人は何処から?と愚問を発する人が居ますが、2代目ですので日本列島に決まっています。

ところで、曙海の畔は、図のように海岸線が大きく動きましたが、沿岸の人たちはその後も想像以上に関係は深いものでした。一人一人にとっては、生きている間に海岸線は動くことなく一つで、十代以上を記憶できる皆が遠い親族のようなものでした。

さて、魏志倭人伝が有名なため、古代史は魏との関係に光が当たりがちですが、注意が必要です。内陸の魏は、呉・越や倭人を生活風俗上で変なヤツと認識して記述していますが、4万年の歴史の重みで違っているのです。南越―越―呉—燕・公孫氏—百済—倭の繋がりが重要です。倭国は燕に属すとされてましたが、曙海沿岸国であり突飛ではなく理解し得るもので、 百済との関係もしかりです 。基本的に、人もお米も金属も何も、我が国の始まりは曙海の畔こそ注目すべきなのです。五島と薩摩は、付近と違うのに離れたこの2地域に共通の古い言葉が残っているのは畔の歴史の痕跡です。

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シナから恵まれた我が国に大挙して向かったと記述されている人の何波もの歴史もあります。倭寇は、地域を荒らしまわった海賊ですが、日本人だけではない地域の海の民たちです。「曙海史観」を認識せずして、日本史の始まりは語れません。

世界人類史の標題の謎は、南北米遺跡や無氷回廊の閉鎖状況から、「米臨海」沿岸の昆布ハイウェイを舟で16,000年前以前に来たというのが新定説です。そして欧米学界は、来たのはBシベリアから(Yana遺跡あり)で、ベーリング地峡で足踏みの「滞留」をして、暖かくなり氷床が融けてから来たという考えのようです。

A北海道は、はっきり名も挙がらずよく認識されていないようです。カナダのBluefish(ムツ)2つの洞窟遺跡から、36,000個のトナカイ・野牛・鹿などの動物骨が発見されています。その骨に人工の傷や石器の使用痕とみられるものなどが見つかり、最古の痕跡は24,000年前であり、そこは居住したというよりも一時的に使用されたのではと考えられています。そのような古いものが他に見つかっていないのと、極寒のシベリア遺跡の状況とも整合性がとれず、正直言ってこの遺跡遺物の扱いに困っている感じです。

「日本祖人」が良質の黒耀石を求めて、38,000年前から伊豆七島を舟を漕いで行き来していた先史漕舟の金メダリストであった事、そして何よりも北海道広域に3万年前から多数の遺跡が残っている事が認識されれば、ムツ遺跡を十分に理解しうるにも拘らずです。北海道「先住」の「日本祖人」がしっかり世界に発信されていないためでしょう。まさか、鎌倉時代から(北大DNA分析)のアイヌ「政治先住」を世界に言っている1国2制度のために、学者先生が北海道「日本祖人」を世界に積極的には言わない、という事では有りませんよね。

先日、台湾から与那国島への3万年前の航海が成功したとの知らせがありました。これは当時の曙海ほとりの「日本祖人」の親族が敢行したことになります。他方、此の頃の北の海では、昆布ハイウェイの何でもある襟裳岬を北上して来た道東「日本祖人」が、うるさいプーチンが居ませんでしたので、引き続き島々が次々に見える千島列島への北上を続けていました。

カムチャッカからアッツ島へ漕いで渡ったかはよく分かりませんが、距離が数百キロありますので、昆布ハイウェイ陸地沿岸を北上して行った事でしょう。そして。①「日本祖人」族が単独で、又は、②シベリア狩猟族と結婚し混じり合って、「米臨海」の沿岸を入って行って、1.6万年以前と言われる「最初のアメリカ人」になったものと考えられ、ある意味で世界人類移住史の最後の謎として、今、歴史界で注目されています。2代目の縄文人(1.5万年前から)は間に合わず、まして政治先住のアイヌは鎌倉時代から(北海道大学DNA分析結果)ですので問題外です。

段々事情が分かってきた世界は、「先に住んで居た」人が日本には2種類居る語義矛盾の1国2制度に、豪アボリジニや米インディアンと共に首を傾げています。来年の祝オリンピック先住民親族会をどうするのかと。五輪や歴史には、政治を絡めないのが原則ですので。

Popular Archaeologyが、現生人類の移住史について新たな図を出しました。日本側からの発信が誤っているため、何処からそこへ来たのかが不明な、 時代が新しい後の 移住である、?マークを付した×印の北から、西から図になっていますので標題のように訂正です。

当時の地形であった「北東ア平野」や「曙海」がよく認識されておらず、何よりも我が国の1万件を超える旧石器考古遺跡で、九州に約4万年前、北海道に3万年前という現生人類史の基準杭である「日本祖人」史が認識されていません。Sundalandに7万、豪に北ルートの数10kmの海を越えて6.5万年前という事から、寒いヒマラヤ地域を裸体の出アフリカ人が行動しなくても、普通に太平洋沿岸からの日本への北上が認識され、インド洋及び太平洋岸の河川からの上流への遡上も認識できます。そしてその流れで、現生人類移住史の最後の謎であるKelp Highway( 昆布ハイウェイ)から沿岸をアメリカ新大陸に入って行った「最初のアメリカ人」は、何処から誰だったのかが本来は表示されねばなりません。

既報告のとおり、3万年前に道東・十勝帯広から北上を続けて行った「日本祖人」の可能性が十分あるのですから、日本が世界にしっかり発信せねばならないのに残念な事です。まさか、鎌倉時代からの「政治先住」のアイヌ話と全く合わないので黙っているということは無いですよね。世界人類史への冒涜になります。

海の日記念(番外)

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これまでに標題関連の多くの本が出版されていますが、最新の(まとめ)をご参考とします。現生人類は、出アフリカ後に東南アジア・Sundaland地域に至って北上及び東進し、図の曙海畔から約4万年前に対馬~五島に渡海、3万年前にはほぼ列島中に拡がりました。

多くの本の説明が、日本列島には南から、西から、北から人々がという時代の違いを踏まえない3方向から渡来という記述となってますが、大きな誤解を招くものです。始まりから一貫して北上であり、列島内も北上を続け、おそらくアメリカ新大陸へも北上して行ったこの一方向性がその特色であり、極めて重要な点です。

この点を理解している筈なのに、何故、3方向からと言うのかむしろ不思議で、余りに「単一民族説」の否定に 過ぎ、 傾く歪曲です。何しろこの一方向性の南方海人(太平洋沿岸)系の拡がりと定着した文化は、2万年以上の積み重ねとなっているからです。

さて、「日本祖代」末期の最高寒期最寒冷期(LGM)前後に、西から北から大陸系の人々の渡来がありましたが、更に縄文時代1万年以上にわたり基本的には文化が継続されたものと考えられ、近年、「日本文明」と言われるようになった重要な要因でしょう。そしてこの国柄の古い基層の延長上で、南九州勢力の東遷(近年実証)によって大和王権が樹立されて「芯」が出来ました。

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他国と違って昨日今日のものでない、誰かが頭で考えた理屈の人工のものではない、長い間に島国で熟成された南方海人系の島国独特の民俗を背景に生まれた、多数の支持を得た「芯」を有する政体となっていきました。その後、大陸・半島系の人と文化の渡来を混ぜ乍ら曲折を経つつ 継承されて来 て、現代の「令和」の時代に至っています。まとめとしては、①出アフリカ後、南方から北上して 来て渡海し、引き続き北上(一部南下)した 一方向性 の拡がり とこの文化の列島中での定着、②万年を超えて積み重ねられた南方海人系の島国における文化基層の形成及び熟成、③その基層上の多数に支えられた王権社会の樹立とその後の継承、が標題の主な答えとなります、ご参考まで。

東南アから北上し曙海のほとりで始まった約4万年前からの列島史、その後の約1万年間で沖縄~北海道まで、列島中に拡がった「日本祖人」の北海道の者は、おそらく昆布ハイウェイを舟でアメリカに向かい北上して行き、 2万年前頃には大陸の狩猟民族の西、北からの渡来を吸収し、 そして1.5万年前頃から、列島中で2代目の縄文人と呼ばれることになります。その末期にやはり南方の呉越系からの稲作・金属の伝播があり、それまでの長い間に熟成された独特孤立した南方海人系の我が国の基層文化を形成し、大和王権を樹立して「令和」の今日に至っています。

その間、シナの律令制等、仏教・伴天連宗教、幕末の黒船等の衝撃、焼け野原のマッカーサーの施策などを受け止め変形させて国柄を失わなかったのは、この基層の「原日本教」のお蔭でしょう。最新の研究で、神武東征の史実が紀元直前という事で実証され(長浜浩明)ましたが、南部九州の南方海人系であった意義は大きいです。最新の言語研究でも示されている、内陸狩猟系と南方海人(太平洋沿岸)系が対立した構図の東アジアのの始まりの国際情勢の大枠の中で、曙海畔の呉・越とそれまでの長い間のように、時には曙海畔が北上した所の公孫氏・燕を介し、人と文化の実質的な関係がありました。見たとおり、曙海は世界でも珍しいほどに大きく形を変えました。しかし、一人一人にとっては、生きている間は、曙海の姿に変わりは無く、大昔からの畔の人々の繋がりの話を言い伝えた事でしょう。

そしてそういう状況で、南西諸島、古本州島から北海道に至るまで、その基層が万年の昔からの共通の南方海人系の文化であった事は着目すべき点です。今、世界が「日本文明」と認識すべきと言う原点でしょう。これまでの古代史学は、北部内陸系の魏志倭人伝、邪馬台国などの偏重でした。徐福が日本に上陸した伝承があり、呉の孫権が九州とみられる地に万と言う兵を送ったと記述されており、痕跡はいろいろあります。子供たちのためにも、宇宙のダークマターのような南方系の「呉・越志倭人伝」を、何とかそれなりに諸学共同の科学の力で描いて欲しいものです。

7月9日午前11時48分、スギメがついに台湾から与那国島のナーマ浜に着きましたー!感動しました。という実験成功の第1報が伝えられています。実は、1万件を超える我が国の考古学遺跡が示しています事から、北海道「先住」・道東の「日本祖人」が、その頃に、昆布ハイウェイを北上して千島列島から「最初のアメリカ人」になるべくアメリカ新大陸に向かって進み始めていた可能性があり、今、世界の歴史学界の注目です。

尤も、こちらの方は、クジラの骨や流木による骨組みにオットセイの皮を張ったような舟だったかも知れませんが。いずれにしても、太平洋沿岸の「海の民」が原点です。学校で最近は歌われていないらしいですが、「我は海の子」を必修としましょう。我は海の子白浪の、騒ぐ磯辺の松原に、煙たなびく苫屋こそ、我がなつかしき住家なれ~。(漢字が難しいとか、ブツブツ言わせないで下さい)

日本史は約4万年前、南方から北上した現生人類が、北部九州に「曙海」を舟で渡って来て「日本祖代」が始まり、2代目縄文Jomonに続きます。

中国史は約4千年前、下図の長江から進んだ「夏」王朝を始祖とし、北西草原の民に滅ぼされて2代目「殷」王朝となります。いずれも始まりは南方発で、渡海しあるいは河川を遡行したものです。

さて、結論的にこれまでの地域史は北部偏重で、大陸の中原 洛陽 が、そこで陳寿が書いた魏志倭人伝・邪馬台国が論じられてきました。尤も、陳寿も「倭は会稽東冶の東の海中」という当時のみんなの常識に抗えずに里程を記述したために、その後の日本の邪馬台国論争を招くことまでは分かりませんでした。しかし、魏志でなく呉志・孫権が、「夏」王朝と呉・越・亶(タン)洲の関係が、九州中南部の天孫降臨や神武東征、亶(タン)洲 の話が、我が国の歴史を考える上で極めて重要であり、注目されてきています。何と言っても「曙海」周辺の関係の深さを示し、驚きなのは中国「夏周」王朝と呉・越の元になった3兄弟の父親が、亶洲人(九州中南部・種子島か?)だという話です。倭人は、太伯(呉国)の子孫という話もあります。

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学閥に捉われず古代の真実を追求したと言われた作家の松本清張氏が、「曙海」・北東ア平野沿岸を認識できなかったことはやむを得ないとしても、重要な呉志孫権・呉越・亶洲など と古代の我が国との関係に ついて殆ど触れていませんが、不思議なことです。まさか、北部九州・小倉出身だからではないですよね(失礼しました)。いや~歴史研究は、誠に難しいものです。

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