現代では、現生人類のアフリカ発祥が知られていますので、発見されている遺跡・遺物、DNA分析などから、移住の流れが導かれます。

曙海のことや日本列島の旧石器遺跡の状況から下左図のように流れが分かり、近代科学は、2.7万年前の石垣島人骨の顔を復元しますので、まあ大きくは変わらないであろうと列島史が作図されます。

ところが大正末期に、下右図のように、清野博士などが、大森貝塚の人骨情報や北海道の竪穴住居跡の状況、諸人骨の分析などから、アイヌ以前に石器人・日本原人が居た、しかも現代人に繋がっていて日本には「先住民」はいないと、約100年前に正に基本を言い当てています。

残念ながら、同じく立派な鳥居東大助教授が、アイヌ伝承にある北千島に逃げたという小人は現場を確認したが居ないと報告し、その後これら原人・小人話は埋もれ、何と「アイヌ先住民国会決議」(平成20年)という歴史の裏付けの無い誤りの「先住民」決議がなされています(アイヌの人権を尊重する決議に名称を修正すべき)。

見つからなかった事は必ずしも過去に無かった事ではないのに、伝承はなまじの文書より信頼できるのに残念なことでした。

さて、流石の明治先達ですが、時期の視野は3千年前くらいだったようで、今から見ればゼロが一つ違いました。

また、世界にはジャワ原人、北京原人がいますので、日本原人は誤解されないように、現生人類「日本祖人」が良いでしょう。

(了)

下図の通り、列島史始まりの頃のこの地域には、①伊豆の黒潮分岐流を舟で渡って神津・恩馳島の黒耀石の採取に行き来していた、③釣針で魚を獲っていた、④土器で魚特に鮭を調理・貯蔵していたという世界で発見されたうちでは最古のモノ事が知られています。

今回、韓国東北内陸の江原道・旌善の洞窟で見つかっていた漁網の錘の石が、2.9万年前という最古の物であることが分ったとの延世大学博物館の発表を仏AFPが伝えました。

日本の陥し穴による鹿猟(3万年前)に比すべき古さと技術の生業の方法です。

問題は、これらの人々は明らかに海の民あるいは川を遡って行って派生した暮らしぶりの人々です。

漁撈・採集はもとより後々には交易専業であったり広大な太平洋の島々に暮らすこととした人々、家船暮らしをしたり海賊になったり大航海に乗り出した者、そして近代の海運を担った人たちなどの始まりと認識すべきでしょう。

「狩猟採集民」で括る事は妥当でなく、主に海・川・湖沼などの場で、やがて多様に暮らしていくことになる「水辺の民」とでも称すべきでしょう。

特にアジアでは注目すべきであり、我が国においてすら歴史の傍らに扱われがちですが、始まり時代は主流であったことを強調したいです。(脱「欧米か?」)

(了)

再び鎮魂の暑い夏がやってきます。

もしこの日本・花綵(はなづな)列島が、もっともっと大陸に近ければ台湾・韓国のようになっていたでしょう。

もっともっと遠く離れていれば、聖徳太子は現れず大東亜戦争も無く今は欧米どこかの国の植民地だったでしょう。

4万年前の始まり時代から、此の絶妙な距離の故をもって「日本祖代」からの熟成の歴史が、「日本祖人」、縄文人、・・・と列島に育くまれ、今や世界史の中に「日本文明」と言われる独特な社会が生まれるに至っています。

日本史は、○○時代から知れば十分とまで言うのは傲慢です。魏志倭人伝では有りません、百年前にこんな日本人も居ました。

此の大陸との距離によっては、クレオパトラの鼻高よりもっと世界史を変えていた事でしょう。

(了)

教授~~、それ違いますよ!

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高名な歴史教授が、列島史の始まりについて、下図のように*2「大陸から」と言われますが、図1のように南方からです。

また、*4打製石器で狩りをする人でしたと言われますが、主たる人々をそう表現するのは、「見つからないモノは、無かった」史観で、戒めが必要です。

沖縄の八重山遺跡(2.7万年前)などでは、不思議に石器が見つかっていませんよ。

図1左、曙海の畔から九州に渡って来た人々は、その後、渡海の難しさと海水面の上昇で大陸と切り離される形で文化を育み熟成しました。

図2のように、黒耀石が沿海州で見つかるのも、先生方お手上げの裸国・黒歯国と関係があったのも「日本祖代」を見つめればこそ分ります。

近現代史も、本質は大陸と違う絶妙な距離の日本・花綵(はなづな)列島の特性からもたらされた歴史のifに注目すべきです。

図2左上 列島の人は、神様に獣肉をお供えしない特色を持ち続けています。今や世界で「日本文明」と言われる一つの所以でしょう。

この日本列島が歴史のifとして重要な事は、図2のように大陸に近すぎても遠すぎても大東亜戦争は起きず、クレオパトラの鼻高以上に世界史を変えたことが分かるでしょう。

英国と欧州大陸との関係とこちらアジアのアナロジー、ペリー来航のみならず、米国、日本と大陸・満州の関係など、4万年前からに目を向けねば真に理解はできないでしょう。

更に*3は、世界の旧石器時代の始まりが200万年前ですし、ナウマン象や石器が発見されている日本にも前・中期旧石器時代人があったのではと未だ論争中です。

従って、列島史の始まりは「日本祖代・祖人」と用語をはっきりすべきです。

また、教授の*1も伊豆の神津・恩馳島に黒耀石を採りに舟で行き来していたのが、3.7(研究者によっては3.8)万年前ですから九州に渡って来た記念すべき創業の時期は、「4万年前頃」として世界に報告すべきでしょう。

最後に、

この国では異論で指摘するとケンカを売る気かと言われます。浅学者が、全く失礼・非礼する気もございませんので、ご寛恕ください。

(了)

都会のマンション暮らしとスマホいじりですっかりひ弱になってしまった現代人。アウトドアの生活を知らない子供たち。

最近、「我は海の子」が教室で歌われていないらしいと聞いて、驚き「浜っ子」としても大変がっかりしています。

歌詞の言葉が古いのは、先生が意味を教えることで逆に教育効果があると思いますが。

何よりも重要な、世界の歴史理解と我が国の伝統の継承に繋がることですので。

まあ、海、山に(モンスターペアレントの)子供たちを引率される先生方のご苦労は察するにあまりありますが。

考えてみますと、上図のような暮らしは、考古学的には何も残らないかも知れませんし、ン万年前に比し海水面が100mも上昇してしまっては海中です。

でも、「見つからないモノは無かった」史観はいけないことを子供たちに教える良い教材です。

魏志倭人伝のみならず、ちょっと前まで日本人は、生の魚と海の雑草を喰う変なヤツと言われていました。

(誰だ?トロの味を大陸人に教えちまったのは!)

島国日本の、いやアジア太平洋の歴史的な海の暮らしを先ず子供たちが理解し、2020東京五輪でもアピールして欲しいなと思います。

(了)

現生人類による日本列島史の始まりが4万年前頃であることは、学界異論のない認識です。

にも拘らず、最近の大新聞の説明図でも北、西、南の3方向から人々が列島に入って来て日本が形成されて行ったというような世界に誤解を招くモノになっています。

これは例えば、明治、江戸、平安時代に起こった事を一つの図にして説明しているようなものです。

始まりはあくまで南から北への一方向性で、南方系の先人が緯度を北上して適応して行った容易ではなかった1万年を要した拡がりなのです。

そして、最寒期の2万年前頃に北から西から大陸の狩猟族とかつて北へ向かった者達の子孫が入って来るまでに定着していた日本列島文化が、先ずは基層である事が重要です。

さて、4万年前当時は、対馬暖流(8千年前から)が日本海に流れ込んでいませんでしたので、大雪は降りませんでしたから東西併行して北上して行ったことでしょう。

長野に豊富な黒耀石があり、関東と甲信越が早い段階で結ばれていることも注目されます。

津軽海峡越えは、日本祖人にとっては大きな問題では無かったですから北海道の降雪寒冷地の生活に適応するのに期間を要したものと考えられます。

更に、始まりの南を子細に見ますと、4万年前頃に多くの家族が慶良間ギャップを越えるのは困難だったろうと思われます。

当時の海水面低下で現れていた北東ア平野の沿岸を行く方が容易で、かつ、潮の流れ風の向きと距離から対馬や五島から北部九州に渡海する曙海時計回りルートが自然だったろうと考えられます。

つまり、大新聞が堂々と描いている3方向がいずれも間違って世界に発信されていると、歴しニアは歯ぎしりしているのです。(入れ歯かどうかは、聞かないで下さい)

いずれにしても、日本祖代、日本祖人をしっかり認識していないことが問題なのでしょう。

(了)

 

金沢大などの国際研究チームが、愛知県の伊川津(いかわづ)貝塚から発掘された約2500年前の縄文?人は、東南アジアの狩猟採集民族にルーツを持つ可能性があることがわかったと発表し、論文は米科学誌「サイエンス」に掲載されたそうです。

此の縄文?人骨が、ラオスの遺跡(約8000年前)から発掘された狩猟採集民族やマレーシアの遺跡(約4000年前)から見つかった人骨のゲノムとよく似ていたということです。

先ず、縄文人は2代目で日本祖人の子孫です。

下図のように、日本祖人は南方系と考えられ、今回、ラオスやマレーシアと似てるからと言って何の驚きもありません。

問題は縄文時代に、ラオスやマレーシアから日本列島に人がやって来たと受け取られるように世界の一流科学誌に書かれているのかどうかです。

そうではなく、4万年前の日本祖代にそれらの南方遺伝子を持った人々が曙海を渡って来て初代・日本祖人として北上し、その子孫の在愛知の縄文?人に受け継がれていた。

即ち2500年前頃にラオスやマレーシアから人が来た訳ではないという可能性が、しっかりと世界に伝わっているかどうかです。

世界の誤解を生む全ての問題は、2代目の縄文時代、縄文人からしか語れない学界の用語の現状にあります。

(了)

よく日本列島には、北から、西から、南から人がやって来て「日本」が出来たというような記述がありますが、誤解の元です。

石器が示すのは、4万年前頃に曙海を越えて家族で渡って来た南方系の人たちが北上し列島中に拡がった、海・川辺の生活が始まりの歴史です。

2.9万年前頃の鹿児島・姶良カルデラ大噴火は、九州と西日本そして東北にまで火山灰(AT)を降らせる影響を及ぼしたと考えられる画期です。

その後の祖代中期の特色は、既に使われていた切れ味鋭いナイフ型石器の分布に今に通ずるような地域差が生じていることです。

北海道には余り見つかりませんので、引き続きそれまでの暮らしぶりをしていたのでしょう。

このことから、西から影響が及んでいると考えられ、人も入って来て大噴火の傷跡も修復されたのでしょう。

最後の祖代後期(2万年前頃の最寒期~縄文)は、大陸のバイカル湖地域発と考えられる細石刃の異なる技法が北から、西から、入って来ています。

よく縄文人は何処からという質問を立てる人が居ますが、2代目ですので当然、日本列島からですが、この日本祖代における北と西からの人の影響変化を受けているのは特色でしょう。

入って来た人の数や影響の度合いは更なる分析が必要です。なお、北海道から出て行った親族が戻って来たことも考慮が必要でしょう。

そして、図のような概ね東西2分性は、現代にまで繋がる日本の一つの特色です。

ともかく日本史は、祖代から見て縄文時代を理解し、その後を考えて行かなくては、ホントの理解はできません!

それは、最初の厚い文化の基層の上に新しいモノを取捨選択、変形して積み重ねていった独特の一島一文明だからです。

今もって日本語が環太平洋系ながら隣国と異なり、どのようなものかよく分からない長い時を経た積み重ねですから。

(了)

曙海を九州に渡って来て、北上・南下して列島中に拡がり完成しました。

当時はプーチンが居ませんでしたし北海道で止まることも無く、北上を続けて初のアメリカ新大陸に進入です。

そして、太平洋沿岸を南米にまで南下して行った(環太平洋移動・移住MPOR説)ことでしょう。

九州4万年前、北海道3万年前が豊富な旧石器遺跡等で裏付けられる、世界の人類展開リレーにおける時期ハッキリの重要区間であることがあまり認識されていないようです。

欧米の学者さん、こんな大昔に樺太や沿海州で北海道の黒耀石が見つかって「交易」かなんて驚くことは有りませんよ、曾爺さんの所に素晴らしいガラス石がある事は知ってましたから。

それよりも、最初のアメリカ人は、北海道で降雪寒冷に適応して海獣などを食し、昆布Kelpハイウェイを行った海の民系の「日本祖人」でしたよ、理論的には。

(了)

欧米の学者さんが頭を抱えている始まりは①南米チリ遺跡でした。

それまで標題の件は、シベリア~アラスカ~無氷回廊そして、急行で南米南端までが定説でしたが、覆りました。

②無氷回廊が開く前に南米に人類が来ていたのです。

従って今は、③昆布Kelpハイウェイで来たと考えられていますが、最近、④冒険家が体験から導いたものとして、米国北西岸シアトルからチリ遺跡迄、陸上は猛獣がいますし沿岸を舟で移住すると2千年以上はかかるだろうという見積りです。

シベリアにも⑤古い遺跡がありますが、東部で発見されているのは温暖化以後の15,000年前レベルですので、チリ遺跡と合いません。

そもそも氷河期と言わず、上図のようにシベリアでは現在でも冬の寒さで死者が出ていますので、2万年以前の寒冷期に広大な大陸を西から東に家族が移住できたとは思えません。

これらから、3万年前の北海道の日本祖人が浮かび上がってきます。海獣などを食し、降雪寒冷に適応していました。

丁度、昆布ハイウェイも道南・道東・千島列島を通って北上していました。

千島は次々に見えてしかも遠くなく、米臨海は冷水が流れ込んでませんでしたので、可能性ありです。

実は昆布ハイウェイのルートになったので、北の海における濡れれば死に直結する、大変なことである操舟と造舟に思いを巡らすべきです。

大陸狩猟族には、容易でないでしょう。

DNA分析などから、主たる米国先住民はシベリア系かも知れませんが、温暖化した後から入った人たちであり、最初のアメリカ人は沿岸からの日本祖人であると考えます。

(了)

Beginning of Japanese History

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現生人類は、アフリカを出て東進し東南アジアSundalandを経て、4万年前頃、爺さん婆さんと家族が舟で緑の九州に渡って来て、日本史が始まりました。

列島を北上して北海道に、南下して沖縄にまで拡がりました。

その後、特に最寒冷期LGMに新たに入って来た狩猟族を交えて日本祖代に列島文化の基層が出来上がり、次には縄文人と呼ばれる人々にバトンタッチされました。

幸いにして現代科学は当時の人の顔の一例を近い形で復元していますが、初代の日本祖人と2代目の縄文人ではもう既にちょっと違ってきています。

縄文時代の前の2万数千年間の日本祖代は、正に列島文化の基層となっています。

大昔からの長い歴史を、全国の遺跡の旧石器の足取りなどを踏まえてこんな風に記述できるのは、世界に例の無い驚異でしょう。

子供たちは、いや大人も知るべきことです。

そして、日本の大昔と言えばJomonしか知らない世界の人にも、知らせてあげたいものです。

(了)

英国York大学の生物考古学チーム(日・瑞・蘭協力)は、世界最古の日本の土器の始まりは、魚特に鮭の調理・貯蔵のためであったことを3年間の研究の結果として明らかにしました。

800個の土器に残った脂質の分析などからの結論で、それまではドングリのアク抜きなどの諸説がありましたが、始まりは明らかではありませんでした。

氷河期が終わって温暖化し始めた時代に、日本祖人は、魚が臭くなることに耐えられず発明したもの(筆者所見)でしょう。

海の民ならではのものと考えています。

因みに土器の始まりは16,500年前で日本祖人NihonSojinの時代の発明であり、2代目の縄文人(13,000年前頃)に伝えられ、日本全土に拡がって定着した日々の生活の日用品です。

その後は幅広い用途で使われ、縄文期の芸術品と呼ぶべき造形の物も出現しています。

日本祖人は、毛皮パンツに槍を持って狩りする原始人のイメージですが、各地の遺跡・遺物の示すところは水産物依存比率の多さです。

https://www.youtube.com/watch?v=6AjALI9FDO0

(了)

興味あるテーマのNHK放送(人類誕生~日本にやって来た)が、ありました。

日本列島や近隣国で発見されている遺物・遺跡や人骨の状況、何よりもテレビが伝えた東南アジアSundalandの意義などから、既にこれまで報告しています標題(下図①②③)となります。

勿論、「曙海」を家族で舟(筏)で越えて来た現生人類による日本列島史始まりのこの原型が出来上った後もいろいろな事はありました。

しかし、「日本祖代」の「日本祖人」たちは、始まりの2万数千年間に列島文化の基層を作ったと言えます。

(了)

現生人類は、アフリカを出て東進し東南アジアSundalandへ、北上して台湾に5万年前以前に至り、九州に4万年前、北海道に3万年前そして更に北上を続けた歩みでした。

いずれにしても台湾を経由(長濱文化遺跡の古さ)しており、曙海を越えて来ています。

ここで注目すべきは、台湾5―九州4―北海道3と各区間1万年という大変長い時間を要しています。

考えてみれば、アフリカを出て赤道地域を行動してきた人たちですから、基本的には緯度を北上しての気温の低下や正に北海道の降雪寒冷に適応して暮らす事が大変だったことを示しているのでしょう(津軽海峡越えは短くたいしたことありません)。

もしかしたら曙海の数十kmの外洋を家族で舟(筏)に乗って越えられるようになるのにも足踏み長期間を要したのかもしれませんね。

上図の石垣人より色黒だったかもしれませんが、背は高くない似たような人たちだったろうと考えています。

そして最寒期である2万年前頃、日本列島の北と西から大陸の狩猟族が入って来て、やがて縄文時代と呼ばれることになって行きます。

日本文化の基層となった日本祖代2万数千年間は、海の民が列島中の海辺に、高原の川辺にまで上がり、遅れて入って来た異質な大陸の狩猟族と混じり合い、正に「日本祖人」として原型が形作られた時代です。

その後も混じり合い(近隣含む)は続いて変化しつつ、縄文人から現代に至ります。

(了)

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