図右①右下、2.3万年前の米ニューメキシコの足跡ショックの「最初のアメリカ人」論議は、北太平洋沿岸からの進入説が強まり、依然として北海道ルートに光が当たっています。

約4万年前に九州に家族で渡海し、伊豆の海で黒耀石を求めて行き来していた経緯を踏まえ、寒冷当時は冬に南下した流氷を歩いて渡ったかもしれない千島列島越えを、フネで越えた場合を検討して可能性があった事は、難所を含めて次々に島が見えたことなどから導きました。

そこで問題は、フネの場合、具体的に如何にHowです。3万年前頃の実証はできませんが、候補として②A木の舟か、海獣の革舟ウミアック(腐らない寒冷限定)が挙がります。

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Aは、その後の温暖化した縄文人の太い丸木舟(161発掘実証例)系統の木舟で、明治期までの海民ルートンが使用していたものが写真の流木利用のものです。英人スノーが貧弱な工作道具、材料に比し「巧妙」に造られている独特のモノと褒めています。板と板を隙間なく繋げ、当て木を付け、鯨の腱や骨繊維で縛り、その孔は木釘で塞ぎ、内側合わせ目はコケを詰め込んでいます(千島列島黎明記、明治初年)。Bは革張り舟で、同じく流木で骨組を作り、アザラシなど海獣の皮をなめして覆い、同様に腱等で縫い縛ったモノで、孔は獣脂で塞ぎます。皮が腐らない寒冷で水温の低い所に限られます。5~20人用が造れ家財道具を積んだ移住に適しています。

実は1976年、中世から語り伝えられている聖ブレンダンが60名余りを連れて約束の地に革舟で赴いた伝説の聖ブレンダンの実験航海(アイルランドから北廻りでグリーンランドを経て北米カナダの東岸ニューファウンドランドの沿岸航海)が行われました。

人々がバカにした予想に反し、あのタイタニック号が沈没した海域通過でしたが、舟は柔軟で高波の衝撃を吸収し浅い喫水は暗礁地域の航海に強く、冷水で防水用の獣脂が固まって耐航性能が向上し、難しい航海を無事果たしています。また、日本においては、3.8万年前の伊豆の海における行き来は氷河期であり、目的の神津恩馳島にいたアシカの革が使われたのではという見解(明治大 池谷信之)が出されています。仙台にまでオットセイなどの海獣がいた時代でした。

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3万年前頃の事ですから、A、Bタイプの素朴な型でしたでしょうが、いずれも当時の千島列島北上(難所80km越え)の諸条件に適応します。ルートンは木舟、北の米臨海アレウト族は革舟というように、南から北へ上がっていく状況で、腐らないモノに型式を替えていったのかもしれません。が、ともかく可能でした。

最後に③「誰が」は巷間に誤解が多いので付け足します。先ず、北から南下移住をイメージさせるマンモス・ハンターは北海道にうかがわせる痕跡なく、しかも最近の米国における実験考古学では、マンモスの毛と皮膚・肉が厚く、北米や北海道で発見されている程度の石器の槍で、数人が襲い掛かってハントすることはムリだと否定されています。せいぜい群れから離れた、病気やワナにかかった、あるいは子供などの狩り程度の話です。千歳や帯広などの道内の最古遺跡と台形様石器の本州品との類似性などから、北海道の先住民は青森から狭くなっていた津軽海峡を越えて適応した北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoであり、3万年以前は確実、3.5万年前後の可能性が高いと考えられ(東京大 佐藤宏之、南山大 出穂雅実)ています。ずっと後の2万年前頃、細石刃文化が沿海州・樺太から伝わったとみられていますが、万年の時代違いで誤解の元です。ましてアイヌに至っては、せいぜい鎌倉時代(実証人骨は室町時代?)からで全く別の話であり、世界の学者にもある誤解を正す必要があります。子供に世界に、国際共同研究による本件解明の深化を、と訴えます。

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始まりの人類史は、あたかも今、宇宙ではその過半を占めるとされるブラックマターが注目されているように、100m級の 海水面の上昇によって海底に埋もれてしまっている見つからない海民の暮らしの歴史こそが、主体であって重要なのです。

図左上、①世界最初の現生人類の渡海とされる理論歴史考古学上の問題に、遺跡なども発見され定説となっている南ルートではなく、環境などの諸条件の比較分析から、北ルートが容易で可能性が高いと発表(nature2019)がなされています。西パプアでの政争などで、考古学的な研究は従来なされていませんが。

このルートは、世界的に有名な海民のいるスラウェシ島を通るモノで実に納得です。いずれにしても、オーストラリア行きは5万年以前、約90km越えの意図的なものであった(2-3日を竹筏で)と学界では認識されています。②日本祖史の始まりはスラウェシから北上して来たのでしょうか、対馬海峡西水道40km越えはあまり注目されていませんが、約4万年前に家族渡海の造舟・操舟の知力は原始人ではないです。③魚もさばける切れ味の黒耀石を求めた3.8万年前からの伊豆の海の「行き来」は、世界の金メダルです。分析すれば謎ではないです(既報)。そして、これらの事から、青森の竜飛岬と下北からの津軽海峡越えの渡道は問題ではなく、北方4島、道北から北上継続となります。➃千島列島は、3万年前頃の海水面低下でも北を除き今とほぼ同様ですが、砂浜はもっと拡がっていた事でしょう。最大の難所の北得撫・ウルップ水道越え難所が問題で、アイヌは越えていません。出発の知理保以島はラッコ猟、海岸のトドの群れで知られ鯨も来ていました。何よりも新知岳がよく見え、偵察すればヒナゲシ、雲馬草が咲き乱れる、海獣・鳥・卵・海藻などの「昆布ハイウェイ」の食が豊かで、役立つ流木も豊富な処女地。何よりも獲物たちは、人間を全く知りません。

島の広さ230km²は東京ドーム4,900個分で、長い海岸線です。北部湾にはロシア潜水艦隊の基地があったほどです。水道の80km幅(wikipediaでは65km)も既に祖先はオーストラリアへ越えていますし、筏でなく漕いで概ね日中行程。朝早く出て夕遅くに、男たちが整えた拠点に家族で入れたでしょう。この島に行かなかった理由はアリマセン。ともかく千島列島ルートは、次々に島が見えていた食の豊かな所でした。海流は北から南でしたが、島から島へはむしろ横流に考慮することが必要でした。得撫島が新知島へ出て行く基盤となったように、新知島が更に北上する基盤となり得たのです。次の島見えたことや適度に基盤となる大きな島のあったことは幸運でした。最北の北千島を調査した鳥居龍蔵が「アイヌよりよほど古い」と評した北千島のルートン(コロボックル石器人子孫的)・第1アイヌは、旧石器時代人のような「遊動暮らし」の海民で、カムチャッカ南部から南千島迄、縦横に移動して暮らしていて祖人子孫の痕跡をうかがわせ、旧石器遺跡も発見されています。明治期に良かれとなされた色丹島移住でしたが、彼らには霧と寒風吹雪の北千島での遊動暮らしの方が良く、島に返してくれと主張し続けました。ロシア人、欧米・日本学者が、「とんでもない所」(英国のHJスノー:寒い憂鬱で不毛な荒涼、ラッコがいなければ来ない)、と考える地域ですが、昔からの遊動海民の好む食が今よりはるかに充実して得られた「トンデモない所」ではないことは重要です。

露ワシーリー・ゴロウニンは島の人々を、「いろいろな物を食う・1種増殖に励まない怠け者、択捉、松前と全然違う。」、と評したことに表れているように、1種(天候気象悪化の不作で飢餓)に偏らず季節・場所で得られるものを食す縄文人的な優れた生き方に理解がなければ、単に困難とルート認識も間違えます。因みにルートンは、「色丹良くない、ウシシル島(千島の絶景キンバイ草の絨毯に湖のような入り江と中小島)が良い。トド・ラッコ・オットセイが沢山」と言っていました。さて、カムチャッカの後は「米臨海」西沿岸をベリンジア迄(他方、稚内から樺太~オホーツク北岸も)は陸続きで、ベーリング海峡の渡海(途中に島があり40km程度)も全く問題なしです。宿題結論は、「3.5-3万年前からの北海道祖人は北上を継続し、標題の『最初のアメリカ人』に関わったであろう」、です。世界に発信を、国際共同の学術研究を 。

昨年9月末のニューメキシコにおける2.3万年前の足跡発見の「誰?」という問題は衝撃で、そろそろ1年になろうかというのに、説が一つも動画に出て来ない異例。もともと日本学界がこの問題を論議していないのは、北海道から出て行った説が全く無い不思議な周回遅れ。

さて、①発見は、足跡が残る土の層と足跡周辺の植物の年代測定などの分析で確かのようです。普通なら出て来る「おかしい」の声が聞こえません。すると、これまでの「最初のアメリカ人」認識を数千年(!)遡ります。②足跡は最寒期LGM真っ只中の時代で、ベリンジア通過はず~と前の3万~2万数千年前の頃か。いずれにしても氷河期です。③内陸の無氷回廊は、km級の厚さの氷床が仮に融けたとしても、寒風厳しく生物が殆どいない所を行けるようになるには、更に数千年を要すると考えられています(現時点、1.4万年前頃とみられています)。➃沿岸ルートは、やや寒冷緩和期に海岸付近の小島はもとより岸辺も移住できたかもしれません。そうなると、Bシベリア狩猟族が、もっと早くにベリンジアに出て来て北の海でフネに乗り換えたのか?冬の海では、落ちたらオワリ。Aか、Cか、はたまたベリンジアでA、B、C、入り混じりか、ともかく欧米先生の説が出て来ないようなので、皆さんの一案を宿題の作業として出しちゃいましょう。

東京都神津・恩馳島の3.8万年前の黒耀石採取の海の行き来は、最初は国際学会での発表を欧州学者に笑われた(最古はエーゲ海1万年前と思われていた―小田静夫氏)。

その後も①新聞が、伊豆半島の遥か彼方で55kmもあり、丸木舟を造る石器も発見されておらず、北上する黒潮に押されればどうやってたどり着けるのか?古さといい難しさといい、ロマンある「謎」として紹介しました。ともかく、この渡っただけではない「行き来」は金メダルなのですが。それは、②日本祖史が、約4万年前の始まり「祖代」に、南方から北上した「祖人」Proto-Japaneseが家族で30~40kmの対馬海峡西水道を、フネ(または筏)で渡ったことが世間によく認識されていないことも一因(金メダルは、6-5万年前のインドネシアから豪行き約90km)です。そして③海水面の低下で神子元島は小山であり、伊豆の海には高瀬島と鵜渡根(うどね)出し島が現れて渡海の距離は20数km、A海浜は徒歩でフネを曳行できましたし、実は黒潮は四国沖で太平洋に去っていて、むしろ押してくれる親潮分岐流があったかもしれない上に、対馬・西水道越えと違って海の男による東水道越え程度の事だったのです。出発地は、甲が容易ですが、乙は何といっても縄文時代の黒耀石の工房の見高段間遺跡がありましたし先代の行き来を受け継いだ可能性あり、丙眼前に迫る大島は最初に誰かが渡った所。また、おそらく祖人が最初に渡った丙・大島行き(帰路は厳しい)も考えられます。ガラスのようで「紙切り石」と言われる良質な宝物の黒耀石は、今と違い陸上に露出していて陽に耀いて手招きしており、問題の海の行き来も、往きは太陽で、帰りは伊豆の山々(と北極星)により目標もはっきりで、重い宝物を積んでの帰路は、うどね出し島~神子元山のルートが良かったでしょう。

新聞が驚いた3.8万年前も、沼津の井出丸山遺跡の出土品が池谷信之氏など内外の科学計測のお墨付きです。最近では、長野の高山の遺跡が3.7万年前で相互に年代を支え合っています。フネは、恩馳島のアシカなどの動物皮舟・カヤックか、丸竹の束ね筏か諸説ですが、丸木舟も、伊豆の山は後の船材の名産地で、ベーリング海のアレウト族は半年かけて皮舟造りしますので、祖人も磨製石斧・台形様石器で神に祈りつつ納期もなく時間をかけて木工すればできたのではと、一応仲間に入れたいと思います。いずれにしろ以上の事から「謎」ではなく、3.8万年前の事ですから、この位分かっていれば仮説学問として十分でしょう。全国の教室で説明すべきで、更なる深堀りを将来の学者である学生・生徒に委ねるべきです。さて、何しろ東京都の神津・恩馳島の「金メダル話」ですから、折角の東京オリンピックの機会に、日本祖代研究会は、国や都を初め各方面にSNSで訴えましたものの、発信されることは有りませんでしたが、絶好の機会を失し大変残念です。それでもビッグサイト前で資料を配布し、一部の海外メディア関係者は手にしてくれました。

そして、この先人の偉業が何故重要かと言えば、今、アメリカ・ニューメキシコにおける2.3万年前の足跡発見で、太平洋北西海岸をフネで入って来たと言う沿岸進入説が益々補強されており、東ユーラシアの海民として、北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoに係る伊豆の海の行き来は改めて重要性を増しているからなのです。ともかく子供に教え世界に発信し、更なる国際共同研究を推進すべきものです。

古いことでよく分からないからと、何故か教えない重要なこの国の始まり。祖代に祖人が列島に拡がって行ったその始まり時代が分からねば、その後の歴史をまともにプロットできません。静岡・三ケ日祖人骨は、はっきり切れ目なく縄文人への繋がりを示しています。世界現生人類史の議論に周回遅れであり、今注目される日本列島ルートの状況提供にピッタリ貢献していない現状なのです。

そのくせに一方では、原始時代・人だの、この国は東部ユーラシア外れの行き止まりの吹き溜まりだのと誤解を招いているのを放置している酷さです。先ず重要な事は、当時の環境認識であり、考古学界が認識する始まりである約4万年前は氷河期、①気温が数度低かったために海水面が約80m低下していました。②図がボケていますが相応しく、気温と海水面も今と違って揺れ動いていましたので幅があったのです。それでも、北東亜平野、山地、曙海の多島の沿岸、日本海側に大雪は降らず、沖縄には慶良間ギャップがあり、黒潮は今と違って四国沖で太平洋に抜けていました。注目は北京近郊の「田園洞人」で、この時代の古人骨で、西ユーラシア人とは全く違う東方人、更に狩猟族ではない淡水魚食の海民子孫だったのです。曙海沿岸から内陸へ河川を遡行して行ったのでしょう(人類史で内陸移動図があるが、河川遡行で上流の内陸に遺跡を残した可能性を考慮すべき。それらを連ねた内陸移住ルートは誤り)。朝鮮半島から来た、大陸西方の内陸から来たというのは誤りで、海民であったことが大変重要です。実は現生人類は、南方で90kmの海を越えて豪州に移住していると理解されているのです。③日本史の始まりは、1万件超えの旧石器遺跡が示す北上史(沖縄へは南下)であり、巷間本の3方向渡来図は、異なる時代を重ねた全くの誤りと言っていい内外に誤解を与えるものです。明治先達・坪井正五郎のアイヌ以前の列島先住コロボックル石器人観の方が、よほどましなのです。

この巷間本の誤解が長い間続いていましたが、➃アメリカ先住民のDNA分析と、考古学的なフネによる北米北西岸進入説ではっきり人類史の日本列島ルートが注目されています。そして、重要な事は⑤家族が西水道の約40km、最終氷河期の最も短い場合でも16kmをフネ(筏)で渡海したことが極めて重要です。鉄器の無い時代にフネを造るのは知力を要し、何より今より大切にされた知識経験豊富でお産に重要な祖父祖母を伴ったと思われますから、外洋の気象海象をよく理解し1日がかりで渡海する知力は原始人ではないそれなりでした。望見された対馬はもとより、その先の壱岐から五島・出雲に拡がる長大な陸地は魅力でしたでしょう。無論、祖人の発言も記録もフネも残っていませんが、九州の祖代遺跡、実はこの後の沖縄や伊豆諸島・神津島への海越えの痕跡で、十分に海民祖人の仮説足り得るものなのです。そして、それらが北海道発の千島列島、樺太への北上継続を後押しするのです。ともかくこの状況を子供や世界に発信し、貢献を。更なる研究を促すべきです。

標題は、図右、昨年の 米国ニューメキシコにおける 2.3万年前の足跡発見で、今や、世界人類史「最初のアメリカ人・先住民」問題における「フネ移住仮説」が注目される中、あらためて「どこから、誰が」に係る重要なコトです。しかし、大学ですら講義に全く出て来ない「周回遅れ」の異常で、特に前回説明の北海道は重要です。

本格的には明治時代から長い間、日本人は、縄文人は、どこから?を問うてきていますが、世界史界では登場している「どこへ?」が全く無い不思議なのです。先ず、巷間本の「縄文人はどこから?」は、問いが間違っている異常です。実は縄文人は2代目ですから、何処からも何も「此処」日本列島に決まっていますこの点で、静岡・三ケ日祖人骨は重要で、縄文人と差が無い連続性が示されています。何故「どこへ?」が無いのかと言えば、一つには、殆どの考古学者が同意している約4万年前からの先代の初代人に、適切な名前が無いため議論されにくいことが問題なのです。世界の議論において必須で参加する前提とも言うべきものなのにです。かつては縄文時代の前ということで、①先土器・無土器時代と言われましたが、始まりが青天井で不適な上に、土器を基準にするのもヘンですし、「人」を言っていません。今の、②原始時代・人は、始まり終わりが曖昧で暮らしぶりも、始まりからして家族が海上渡来の認知力や発掘諸成果から原始的は疑問で、毛皮パンツに槍を持った原始人イメージは誤解の元です。③「旧石器時代」は世界に出れば約250万年前からで通用せず、「後期」旧石器時代としても、世界的には約3万年前からの地域もあり、1.1万年前の新石器時代への移行が日本の歴史とは違って紛らわしい上に、祖先の「人」を軽視しています。かつての➃「日本原人」も、旧人より新しいのに、世界では旧人の前に使われる語である原人ですからダメで、⑤一部の先生が言う「ヤポネシア」は、縄文人の親祖先ですから、連続している縄文人の親らしく日本語とすべきです。

結局、世界に出るので、既に世界的によく知られているJomonのように、英語のProto-Japaneseをどう訳すかと逆に考えて(日本)祖代Sodai・祖人Sojinと命名すべきです。注目の北海道を論ずるなら「北海道祖人」ですし、人骨の発見最古は「石垣島祖人」です。世界の学者が論文でも記述しているAinuは、鎌倉時代・13世紀からですので、万年前の本件議論から、積極的かつ早急に誤解を正さねばなりません。 さて、授業にも巷間本にも全く出て来ない「どこへ?」ですが、この問題は、次回、説明します。

世界人類史、図左欧米動画で出アフリカ後のDNAの拡散・移住は、日本列島を通過し、別れて大陸へも拡がっています。

1図、昨年、ニューメキシコにおける衝撃の2.3万年前足跡の発見・発表は、これまでのDNA/考古学の総合的な検討による北米北西岸の青・昆布ハイウェイ・沿岸ルート定説化に対し、途切れている「どこから?誰?」に益々世界的な関心を集めています。しかしそこには、シベリアに比し日本・北海道が記述されていない考古学記述の白紙の問題があります。日本の世界に対する本件の発信が弱い事もありますが、出発地候補である北海道の最古遺跡の年代、特に道東・白滝などの旧石器遺跡に関する科学的な「年代」がしっかり世界に公表されていないのです。そのためには、もちろん科学調査分析の予算を要しますが、アイヌ・ウポポイ館200億円に比べれば全くわずかな金額でよいのです。その学問上の重要性・意義は全く比較にもなりません。2図南方から曙海沿岸を北上して約4万年前に北部九州に家族がフネで渡来し、賑わいの関東・東海・甲信越から北上して津軽海峡を越え、北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoが全道に残した遺跡(701)は、世界的にも優れて充分なものです。千島列島越えも当時の数十mの海水面低下を考えれば、北部九州に来た、伊豆の海を黒耀石を求めて行き来したレベルのものですから、食の豊かさを考えればベーリング海峡に達した可能性は高く、渡海もまた可能(45km以下)です。

この万年を議論するテーマに対し、欧米学者の論文に鎌倉時代13世紀からのAinuが登場する誤解の放置は酷いものです。世界は、いや日本の子供は待っています、北海道の最古遺跡・遺物の科学的な年代測定を、Ainuでなく北海道祖人の暮らしぶりの解明を。

内陸の回廊ルートが川沿いに開かれた時期があっても、厳寒強風で生物乏しい荒野が1000km越えて続くので、完全温暖化の1.4万年前頃迄は人類の移住はムリ だったと考えられる 。

他方、食豊かな昆布ハイウェイ・沿岸ルートは、ハワイからの北上暖流で条件は比較して良い。シベリア・ハンターが厳寒の地を東進しベーリング海峡に出て来て、北の海で造舟・操舟の海民に成れたか?東端のチュコト半島では、逆に、海岸の海民が陸に上がってトナカイ民になっている。やはり「北海道祖人Proto-Japanese Hokkaido」(縄文人の前・初代)が注目です。問題はこの用語が無いために、ハワイ人より新しいAinu(13世紀~、北海道大学DNA分析)が、本件で欧米学者の論文に登場し、それを放置して日本学界が訂正しない異常です。子供に教え、世界に発信を。

昨年ニューメキシコで発見された衝撃の2.3万年前足跡の発見は、単にアメリカ祖史を数千年遡らせるだけでなく、根本的な再検討を必要としています。それは、シベリア・ハンターが、「いつ」マンモスを追ってアラスカへ入って行けたのか、ベリンジア地峡は形成されていたのかという本末転倒の議論を基礎にしていましたので。

そもそも南北アメリカ新大陸史は、問題は「誰が」「いつ」「どこから・どのように」、本土米国mainland U.S.に入ったのかが、中南米への拡がりを踏まえて根本(大氷床時代の新大陸のアラスカに最初に入った事の意義は限定的)なのです。そこから問題は、実は浅く・広くもないベリンジア地峡ではなく、現在主流化している昆布ハイウェイ・沿岸ルートの難所であるA.「海岸通り」と内陸ルートのB.無氷回廊の状況がどうだったのかとなります。内陸の氷床は融けただけでなく、そこに動植物が存在するようになって人が移住できるようになったのは「いつ」からか、それは「誰」だったのかという事になります。そこで前回の4万年の気温変化から導かれた温暖期である2.8万年前のA.「海岸通り」通過をプロットし俯瞰しました。図左下⑤南方から北上した現生人類が、約4万年前に北部九州へ、3.8万年前には黒耀石を求め伊豆の海を行き来し、3.7万年前には長野の高地に充実の痕跡を残し、大雪の無かった日本海側と太平洋側から北上、仙台にまでオットセイなどがいましたので北海道での暮らしの予行練習となりました。狭くなっていた津軽海峡を祖人Proto-Japanese は越え、⑥3.5-3万年前には北海道の暮らしに慣れて拡がって(旧石器遺跡数701)いました。ここで、外国の多くの学者は依然としてAinuを記述しますが、鎌倉時代から(北海道大学のDNA分析)の2桁新しいという誤りですが、日本学者がシッカリ訂正してあげないのが問題です。さて、北海道祖人が留まる理由は何も無く、千島・樺太に北上し昆布ハイウェイからアラスカに至ったでしょう。明治時代に、カムチャッカ南部にまで痕跡を残した北千島ルートン・コロボックル石器人やシベリア東端チュコト半島の海岸族石器人の痕跡が確認されています。 なお、アリューシャン方向への移住の図を示す動画もありますが、カムチャッカ側からは350kmもある航行の家族での渡海移住はムリでしたでしょう。遺跡からも逆にアラスカ本土からの西進がうかがわれます。

⑦ベーリング海峡は、中央にダイオミード2島や南にセントローレンス大島などがあり、浅く渡海は45km以下で、海民にとってはいつの時代も問題ありませんでした。東部シベリア・アラスカ地域に2.8万年どころか1.5万年を超える遺跡が全く見つかっていませんが、ユーコン川を遡上したBF遺跡があり、発見当時は古すぎるという事で(?)が付いていますが今は注目です。近年、本件は⑧内陸の無氷回廊が開いていない時代の遺跡が南方で見つかり、沿岸ルートが注目され、前回説明のアラスカ南部海岸の難所が2.8万年前頃の温暖期に越えられたと考えられ、ニューメキシコの足跡が、コロンビア分岐点からの内陸南下ルートか、南のカルフォルニアからの東進かは別にして、南米遺跡との中間位置にあり騒ぐ必要のない、時代的に納得しうるものです。このようにあらためて俯瞰すれば、北部九州から南米チリ(実は、アンデス高地や南端)まで納得しうるもので、浅いベーリング海峡がいつ地峡になったのかなどは重要性がありません。海民である北海道祖人が北上し、昆布ハイウェイ沿岸の進入南下に関わったと考えられます。なお、東京オリンピックは、世界に海越えの考古学金メダル神津恩馳島を紹介し、アイヌの誤解を解く絶好の機会として訴えましたが、政治・行政に全く意義の認識なく残念でした。

他方、シベリア・ハンターが、いつ東部シベリアに進入(ヤナRHS遺跡やデュクタイ文化)したか、海民に成れたのか、どのように本件に関わったのかはあらためて検討することとなります(プーチン側の発表は、時に眉に水分付けが必要)。なお、内陸の回廊は、氷が融けた後の何千年間は、動植物が定着できる環境になかったと見られています。いずれにしても、アメリカ始まり史は見直し再検討となっており、子供に教え、日本の状況を世界に発信し、新たな国際共同研究に日本も参加すべきで

シベリア・ハンターがマンモスを追ってベリンジア(地峡)を越え拡がったという長い間の定説は崩れました。さて、主流化した「昆布ハイウェイ」を沿岸ルートで南下して行った説も、海民にとってベーリング海峡の渡海は問題ではないですが、深堀りすると他に問題がない訳ではありません。

実は1図、①正に「取り付く島の無い」アラスカ南部の長距離区間(Yakatanga-Yakutat, YY区間)の海岸にまで、一般に考えられているように氷床が迫っていたらどうだったのか。②東京から名古屋位の距離が写真のようであれば、フネで4日・雪上を歩いて9日くらいの行程を、旅ではなく初めて家族が少しづつ移住進出していく訳です。草木無く、まあ動物もいない氷床荒野ですから厳しいです。ところが、3図4万年の気温変化を見ますと、最終氷期最寒期LGM-Last Glacial Maximum の前、2.8万年前頃に2回著しい温暖化の時代がありました。この事から➃ハワイに繋がる海の波に洗われ、海岸処々(1図の岬や湾など)の氷床が融けて陸地が現れていたのではと考えられる所では、動植物が存在した可能性が十分あり南下できたものと思われます。この事は2.3万年前のニューメキシコの足跡とも時代的に整合するのです。この温暖化は、内陸のkm級の厚さの氷床を融かし動植物を存在させて内陸ルートを開いたのか。ことは重要で、足跡論議の古さが先ずは理解されるだけでなく、「最初のアメリカ(本土)人」は、誰が、いつ、どのように入って来たのかという問題の根本に迫るモノでもあるのです。先ずは沿岸ルートを更に次回に検討します。

First Americans

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Shock of footprints in White Sands. First Americans weren’t mammoth hunters, but sea tribe like Hokkaido Sojin, Proto-Japanese, not Ainu since 13th century. And important thing is that Ice sheet should be moderate along sea shore where no islands existed in southern Alaska area. Migration happened in relatively warmer era before Last Glacial Maximum. It means there wasn’t Beringia, but Bering strait was seen.  

 

シベリアのマンモスハンターが、氷河期に海水面低下で現れたベーリング地峡(ベリンジア)を越えて、マンモスを追ってアラスカに入って行った、というのが長い間の定説でしたが、完全に覆りました。

1図北米内陸の「無氷回廊」が通過できる(1.4万年前頃)ようになってからでは間に合わない遺跡が南米チリで発見されて「沿岸ルート」先行説が今や定説化し、そして、2図DNAの研究からもアジアから複雑な複数回のベリンジア越えの渡米が、温暖化による回廊開通を待っていたようなベリンジアにおける滞留暮らしも交えて語られ、1.7万年前頃からの温暖化した時代のシベリア~ベリンジアからの渡米であったと。ところが、昨年9月末の米国ニュー・メキシコでの2.3万年前の足跡の発見発表の衝撃で歴史が数千年遡り、「誰が、どのように」来たのかの謎は深まり、半年を越えましたが全く説明動画も出ていない沈黙の状況です。2.3万年前頃は、正に氷河・最寒期(LGM)で、無氷回廊は完全閉鎖(kmの氷の厚さ)、実は昆布ハイウェイの沿岸ルートも、3図氷河が島の無い海岸に長距離の区域で迫っていれば移住は困難で問題なのです。よく人類の移動をグレイトジャーニーと言いますが、誤解です。移動は旅行のようなものではなく、家族を伴う環境に適応した暮らしぶりの生活が少しづつ移動する「移住」です。先を男性陣が偵察するにしても、フネで家族が移住できねばなりません。ニュー・メキシコが2.3万年前頃ですから、ベリンジアは2.5万年以前と考えられ(Jennifer Raff:カンサス大学)ています。そこで、アメリカ本土メインランドへの南下では、アラスカ南部の細長い約350kmの島無し海岸区間(2昼夜3日航行)に、一般的には、「取り付く島もない」屹立氷床が迫っていない比較的温暖期(2.5万年以前には有りえた)に着実な移住が行われたことになります。

他方、そういう時代となるとベーリング地峡は海面上昇で4図のように「海峡化」しますが、A,B2か所は狭いです。時代の温暖化具合で海峡幅は変化しますが、明らかに海越えでとなり、ハンターは海民になるか運んでもらってアラスカへとなります。つまり、ベーリング海峡が地峡化するのを待たなくとも、北時代に海を越えて行けばいいのです。マンモスにとらわれ過ぎでした。最初に現生人類が、シベリア東部チュコト半島に移住して登場し対岸を見た状況では、マンモスやトナカイでなくアザラシ・オットセイや鮭のいる海岸での暮らしに、また、北の海での造舟・操舟の暮らしに適応することが必須です。冬場に舟に海水が入ったり、舟から海中に落ちれば、短時間で死する厳しさですから、アレウト族は父親が少年を叩いて厳しく鍛えるものです。つまり、アラスカ南部の島無し海岸地域の氷床状況が緩和し、移住を許した比較的温暖期の南下となり、海民の存在が無ければ米本土への移住は無かったと言えるでしょう。そのことは実はベーリング海峡が地峡でない海の時代であった可能性が高く、渡海40km以下ですので海民は越えられましたから海であって何の問題もありません。しかし、この事は重要です。アメリカ新大陸への移住は、ベーリング「海」峡・海越えのイメージになるのです。あの1万年前のケネウィックマンが海(獣)産物を食していて欧米学者を驚かせた痕跡を残しているとも言えるのです。そして、2.5万年以前の極東シベリア~日本の広い地域で、海民と言えば第1に北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoが挙がります。少なくとも「最初のアメリカ人」関り候補のNo.1なのです。子供に教え、世界に発信を、国際共同研究で更なる実証解明を。

実は学校でよく教えられていませんが、家族がフネ(筏)で、約4万年前に30km以上を越えて北部九州に来た認知力レベルが、既に当時としては高ったのです。

そのため、図のように世界先史の金メダル級の事象がたくさん見られます。驚きの古さの伊豆の海の行き来も始まりを考えれば謎でなく、今回の落とし穴猟も鉄器の無い時代に1m級の穴を多数作った作業力のみならず、動物の行動を認識し、計画しリードした社会性が、既に原始的でないです。環状キャンプは、既にアメリカNatives・インディアンのようであり、今、十勝祖人Proto-Japanese Tokachi子孫の最初のアメリカ 沿岸渡り 関わりが注目です。

米国内務省・ワシントン医科大は、①渡米第2波以降のケネウィックマン人骨分析から、ポリネシア及び祖・縄文人類縁性が76%と報告しています。当然にしてポリネシアン・ハワイ先住民(紀元AD300年頃)の渡米ではあり得ませんので、アジアからとなります。

他方、前々回のミトコンドリア(母系)DNA分析から、②③「最初のアメリカ人」」第1波(南米・アンデス高地痕跡)は、アジア最古グルーB系で、沿岸系(海獣産物食、アラスカ南下系))ケネウィックマンにも受け継がれていたのか同型であり、aシベリア、アラスカでは吸収されたのか、b海水面上昇で今は海底である沿岸だったためか、見つかっていない状況です。これらの事から、今注目の沿岸ルート系とみられる2.3万年前のニューメキシコの子供足跡は、北海道祖人系Proto-Japanese Hokkaido系(千島越え最長70数kmは、員類がニューギニア・豪州行きで実証。祖人Proto-Japanese は北部九州渡海始まりで伊豆の海を諸島に行き来歴。言語や神話伝承に環太平洋共通性)がと考えられるのです。ケネウィックマンは、a歯が南方的であることやb人骨が埋葬され赤顔料ウオーカーが施されていた事の函館知内町墳墓(2万年前)との類縁性も矛盾有りません。なお、モンゴロイド、アイヌの誤解は、引き続き訴えていきます。子供に教えず世界に発信しない周回遅れの日本学界は、ウポポイでなく、このような研究にこそ予算を投じ、国際共同研究を推進すべきです。

歴史・人類史学を主導した欧米学者は、過去にジンギスカンから手酷い目にあった強烈な記憶からか、東部アジア人を新・旧、東・西・南・北を問わず「モンゴロイド」と称した事が、歴史を誤解させ理解を難しくしています。

現生人類の祖先である出アフリカ黒人は、ホルムズ(海峡)北側地域から東進(一部は北進)、過半が今は没している東南アジア・スンダランド大半島陸地から、更に東進し海を越えて南下して豪州へと、緯度に大きな変わりがないため学者が驚くスピードで6-5万年前には拡がりました。この①海浜と草地・熱帯雨林のスンダランド地域の暮らしで黒人が「インマレイド」(仮称)に変化し北上(沿岸を、内陸河川を遡行)して拡がりました。そして、②モンゴル・シベリア南部地域で寒冷・寒風・降雪に適応し「モンゴロイド化」しました(1万年前頃か)。西方の中央アジアから東進した種族を加えた③そのモンゴロイドが、ジンギスカンよりず~と前に、今度は強い影響力を持って南下し拡がったのが東部アジア人類祖史の基本です。言わば、「ローラーが先ず南方から北上し、次いで南下」した訳です。戦後、特に近年の東南アジアにおけるモンゴロイド系の著しい伸張が目立ちます。従って、目は口ほどにモノを言いで、最初に北上したインマレイド系と身体特に寒風・降雪にさらされて変化した新モンゴロイドの顔面の違いが一見して写真のように分かります。注目は米ケネウィックマンで、当初西洋人系かと言われ騒ぎになりましたが、DNA分析でもはっきりアジア系で、北西海岸コロンビア分岐点で川を遡行したものであり、9千年前に明らかに南方系である痕跡を残しています。また他の影響が比較的少なかったと考えられるアンデス高地民も、その痕跡を依然として残しています。

考古学の 北西沿岸ルート・第1波、北海道・ベリンジア南岸の一時的列島ルート説と矛盾が無いです。近年、「日本人はどこから」で巷間のDNA調査による図表をもって、科学的と称して語られていますが、実は「標本コンシャス」つまり標本をどう選んだのかがしっかり説明なければ、意義が少ないです。標本を選んだ段階で、A北上インマレイドの南方系、B新モンゴロイド系、C混合系がある程度分かってしまうのです。やはり問題は、何を大切に思い、どういう暮らしぶりかという事こそ重要なのです。次回、細部説明します。

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