Beginning of Japanese History

カテゴリー: 最新情報

現生人類は、アフリカを出て東進し東南アジアSundalandを経て、4万年前頃、爺さん婆さんと家族が舟で緑の九州に渡って来て、日本史が始まりました。

列島を北上して北海道に、南下して沖縄にまで拡がりました。

その後、特に最寒冷期LGMに新たに入って来た狩猟族を交えて日本祖代に列島文化の基層が出来上がり、次には縄文人と呼ばれる人々にバトンタッチされました。

幸いにして現代科学は当時の人の顔の一例を近い形で復元していますが、初代の日本祖人と2代目の縄文人ではもう既にちょっと違ってきています。

縄文時代の前の2万数千年間の日本祖代は、正に列島文化の基層となっています。

大昔からの長い歴史を、全国の遺跡の旧石器の足取りなどを踏まえてこんな風に記述できるのは、世界に例の無い驚異でしょう。

子供たちは、いや大人も知るべきことです。

そして、日本の大昔と言えばJomonしか知らない世界の人にも、知らせてあげたいものです。

(了)

英国York大学の生物考古学チーム(日・瑞・蘭協力)は、世界最古の日本の土器の始まりは、魚特に鮭の調理・貯蔵のためであったことを3年間の研究の結果として明らかにしました。

800個の土器に残った脂質の分析などからの結論で、それまではドングリのアク抜きなどの諸説がありましたが、始まりは明らかではありませんでした。

氷河期が終わって温暖化し始めた時代に、日本祖人は、魚が臭くなることに耐えられず発明したもの(筆者所見)でしょう。

海の民ならではのものと考えています。

因みに土器の始まりは16,500年前で日本祖人NihonSojinの時代の発明であり、2代目の縄文人(13,000年前頃)に伝えられ、日本全土に拡がって定着した日々の生活の日用品です。

その後は幅広い用途で使われ、縄文期の芸術品と呼ぶべき造形の物も出現しています。

日本祖人は、毛皮パンツに槍を持って狩りする原始人のイメージですが、各地の遺跡・遺物の示すところは水産物依存比率の多さです。

https://www.youtube.com/watch?v=6AjALI9FDO0

(了)

興味あるテーマのNHK放送(人類誕生~日本にやって来た)が、ありました。

日本列島や近隣国で発見されている遺物・遺跡や人骨の状況、何よりもテレビが伝えた東南アジアSundalandの意義などから、既にこれまで報告しています標題(下図①②③)となります。

勿論、「曙海」を家族で舟(筏)で越えて来た現生人類による日本列島史始まりのこの原型が出来上った後もいろいろな事はありました。

しかし、「日本祖代」の「日本祖人」たちは、始まりの2万数千年間に列島文化の基層を作ったと言えます。

(了)

現生人類は、アフリカを出て東進し東南アジアSundalandへ、北上して台湾に5万年前以前に至り、九州に4万年前、北海道に3万年前そして更に北上を続けた歩みでした。

いずれにしても台湾を経由(長濱文化遺跡の古さ)しており、曙海を越えて来ています。

ここで注目すべきは、台湾5―九州4―北海道3と各区間1万年という大変長い時間を要しています。

考えてみれば、アフリカを出て赤道地域を行動してきた人たちですから、基本的には緯度を北上しての気温の低下や正に北海道の降雪寒冷に適応して暮らす事が大変だったことを示しているのでしょう(津軽海峡越えは短くたいしたことありません)。

もしかしたら曙海の数十kmの外洋を家族で舟(筏)に乗って越えられるようになるのにも足踏み長期間を要したのかもしれませんね。

上図の石垣人より色黒だったかもしれませんが、背は高くない似たような人たちだったろうと考えています。

そして最寒期である2万年前頃、日本列島の北と西から大陸の狩猟族が入って来て、やがて縄文時代と呼ばれることになって行きます。

日本文化の基層となった日本祖代2万数千年間は、海の民が列島中の海辺に、高原の川辺にまで上がり、遅れて入って来た異質な大陸の狩猟族と混じり合い、正に「日本祖人」として原型が形作られた時代です。

その後も混じり合い(近隣含む)は続いて変化しつつ、縄文人から現代に至ります。

(了)

祖先である現生人類の日本列島史は、曙海を越えて家族で渡って来た事から始まります。その状況の謎に迫る実験航海プロジェクトが動き出しています。初めて縄文時代を越えて私たちの祖先の歴史(日本祖代)が明らかにされていく試みを応援します。

(了)

 

ぜひ私たちの仲間になって、一緒に3万年前の大冒険に出ましょう!

主催:国立科学博物館  共催:国立台湾史前文化博物館
協力:与那国町 沖縄県立博物館・美術館 NPO法人国境地域研究センター 石垣市 竹富町 竹富町教育委員会
後援:沖縄県 沖縄県教育委員会 日本台湾交流協会

誰もが参加できるプロジェクト 新たな「クルー会員」を募集します!

私たちは実際に古代舟をつくり、実際に海へ出て、失敗もしながら、祖先たちが航海に成功した謎を探っています。どなたでもプロジェクトの経過を見ることができますが、「クルー会員」になって頂いた皆様には、最新情報を定期的に配信し、時に直接・間接の交流の場でご意見も頂き、プロジェクトにもっと深く関与して頂いています。そんなクルー会員をこの【完結編】で新たに募集しています。

航海プロジェクトのご支援(クラウドファンディング)については
こちらをご覧ください。

 

対馬暖流の無かった当時の北部九州海域は、時計回りの渡海の流れの方向がよく、浅く、幸いにして北東ア平野から北部九州へは、その後の時代もずっといい風が押してくれました。

行く手の緑の対馬が見えて、手招きしていました。曙海の畔の人々のうち、当然にして処女地である九州を偵察する人が現れ、豊かな地であることを確認しました。

その後の北海道に至るまでの拡がりを考えれば、少なくとも大人男女千人といった数の人たちの渡海が必要でしたでしょう。

さて、縄文ヴィーナスを見て思うのは、重要なのはノウハウがあり無事成功させる「お産婆さん」と一緒の事でしょう。

今と一番違うのは、何度も機会の有る重要な出産が大ごとであったことです。

出産・育児・治療・食物採集などで頼りになる婆さん爺さんが尊重され大事にされ一緒に渡海したことです。

従って、外洋を婆さん爺さんと、冒険ではなく安全に静かに渡るため、潮の流れに乗り待ってでも風に乗ることです。

当時は寒暖の差が激しい時代でした。短くても暖かい時代には樹木が得られた事と思います。

貴重な舟(筏)が出来た時期が、日本祖代の始まりの時期だったのでしょう。

現在まで見つかっている縄文の舟は丸木舟ですが、南方ノウハウのアウトリガーや双胴は有ったのではないでしょうか。帆柱の痕跡は無いようですが。

いずれにしても、安定的に北部九州に渡海することが出来るようになった時期が始まりでしたでしょう。

その後は曙海の日本列島側、そして緯度を北上する寒さに適応しながら北海道にまで拡がって行きました。

(了)

北京周口店の田園洞人に思う

カテゴリー: 最新情報

4万年前の日本祖人と同じく、かつて北京原人(50万年前頃)が発見された所(北京市街南西50km)の近くで(6km)、田園洞人(下顎骨、四肢骨の一部)がその時代に居たことが発表されました(2013年)。

漢民族の祖先だそうです。

ネアンデルタールやデニソワ旧人のDNAは僅かしか持たず、欧州人祖先(コーカソイド)と違うアジア人で、アメリカ先住民とも密接な血縁だそうです。

DNAの型が分かりませんので何とも言えません。

写真の誇らしげに観ている石器は、我が方のナイフ形(杉久保型)のように見えます。

日本のその時代は、ナイフ型の前の粗削り素朴な物のナイフ型の時代(4~3.5万年前)でした。

下図のミトコンドリアDNAのM9例が示すように、現生人類の出アフリカ後の流れの東進はSundalandに至り豪州へと、北上して日本列島などへとなります。

その後の大陸内部の強い影響力(黄色)で、痕跡は島や奥地、深い山中などに残る分かり易いものとなっています。

いずれにしてもこの田園洞人は、家族が舟を造って数十kmの外洋を越えて九州に渡って来た曙海の畔の「海辺の民」とは暮らしぶりの違う人たちだったようです。

その使用石器から、恐らく狩猟が専らだった西から来た人たちだったのではと考えます。

(了)

下図の列島史始まりの4万年前頃(氷河期)、海水面が数十m低かったため、北東ア平野が出現していて日本列島南西部との間に「曙海」が形成されていました。

南方から北上して来た人たちの中から、渡海して九州にやって来た人たちが現れ、異質の種族の大きな流入も無く(石器の痕跡から)同様の人たちが北海道にまで拡がりました。

下図左の「曙海」は、列島史がどのように始まったにしろ、その畔が重要な海であり、此処から舟で家族が九州にやって来て始まりました。

一方、下図右の北のベーリング海峡は陸地で閉ざされ、北極海の冷水が流れ込まない、正にハワイに繋がる海でした。

そして、陸地南岸は、「昆布kelpハイウェイ」と呼ばれる海産物が、海獣・鳥が豊かな地域が、オホーツク海~北海道~カムチャッカ半島~アラスカ湾岸~米西海岸と続いていました。

3万年前頃に北海道の降雪寒冷の暮らしに慣れた日本祖人は、そこに留まる訳もなく、次々に見える食料豊かな処女地の千島列島に舟出して行ったことでしょう。

一番遠い島間でも九州に渡って来た時より短いくらいでしたから。

さて、世界の学界は、最初に人類がアメリカ大陸に来たのは、昆布kelpハイウェイからのようだが、時期は最寒冷期LGM(2万年前頃)をすっかり過ぎて暖かくなってからとしています。

しかしその名のとおり、そのLGM後が暖かいだけでなく、その前も比較すれば暖かかった訳で条件はあまり変わらない事です。

欧米学者にとっては、単に遺跡が無いだけでなく、とてもそんな時期にシベリアから人が来たと思えない状況にあるからです。

しかし、北海道にまで日本祖人が来ていた事、千島列島を越えられたこと、何よりも「米臨海」が比較的温かく周辺の沿岸環境も悪くなかったことなどを考えれば、理論的にはLGM前に日本祖人が渡米し得た事を否定するものは無いと考えます。

有り得たか否かの理論考古先史学の推論上、当時の「米臨海」及び周辺の環境分析(動植物含む)が待たれます。(なされてきていない事が、不思議です)

近年のDNA分析による研究では、日本列島通過遺伝子が沿岸を渡米しています。

(了)

今に繫がる氷河期の現生人類・新人が、海を越えて出アフリカしたことは注目されるべきです。

そして、早い時期に豪州に舟(筏)で渡っている事は、①知力があった、②寒さは苦手であったことを示しています。

遺跡の痕跡を簡単に陸地で移動したかのように道なき内陸に線を引きますが、猛獣・毒蛇などと夜の冷え込みを考えるべきです。

先ずは、マングローブの食物もある移動しやすいルートでしたでしょう。猛獣は、水辺には追いかけて来ないでしたでしょうし。

九州に渡って来て北海道にまで拡がりましたが、止まる筈が無かった(プーチンはいなかった!)ことも留意すべきです。

こんな大昔に遠軽白滝の黒耀石が沿海州で見つかって、「交易」かと欧米学者は驚きますが、爺様の所に宝の石があったくらい知っている事です。

海水面が数十m低かった海浜は移動しやすい事でしたし、何より「海の民」性は今に残る列島人の特徴です。生魚と海の雑草を食べる変なヤツと言われてきました。

その日本祖人が、昆布kelp・sea tangleハイウェイをアメリカ新大陸に入って行ったことも驚きでは有りません。

また、舟で伊豆諸島の神津・恩馳島に黒耀石を採りに行き来していて世界を驚かせていますが、これも舟を造り曙海を越えて来た祖先ですから驚くには当たりません。

但し、こんな大昔に大陸内部から来た人が、簡単に舟を造り、外洋を操舟出来たろうと考えるのは間違いでしょう。

例えば、アリューシャンの人々は、親から子へ厳しい鍛錬による積み重ねて来た操舟・漁ノウハウの継承がありますし、半年かけて女性陣が皮の舟カバーを丁寧に縫い込みます。

出アフリカ後の新人の拡がりと当時の環境を考えれば、日本祖人の始まりが見えてきます。

(了)

日本列島史は下図右、南方のSundaland地域から北上し、台湾山地を経て舟で曙海を渡って九州に至り北上して行ったものです。

その後の歴史を見るに当たり注目したいのは、上図左の三国志の時代に、主に大陸内部発の魏・呉・蜀と異なる海の民性ある種族が、沿岸に依然として存在していたとみられる痕跡(黄色)です。

同種族の「倭」は、入れ墨して海に潜って魚を獲る変なヤツとして魏志倭人伝で扱われています。

氷河期後の温暖化の万年の間に曙海が拡がって(年間約50m)行き、北東ア平野は消えました。

かつて曙海の畔で暮らした人たちは、上図左の痕跡から海岸線の後退に合わせながら沿岸の暮らしを続けたことが窺がわれます。

①沿岸地域の種族と②大陸内部の種族というこの2面性は、その後も大陸内部種族の伸張が続いたものの、今に続く東部アジア地域の特色と考えています。

次に列島史始まりの下図右ですが、この日本祖代には対馬暖流(8千年前頃から)が有りませんでしたので、南から黒潮流が北上して流れ込み、時計回りで曙海から出て北上して行ったのでしょう。

北部九州へは数十kmながら①流れに乗れた②良い風に押されたでしょうが、南西諸島の沖縄・慶良間ギャップ越えは、海水面低下を考えても約200kmあり、多くの家族の渡洋はこの時代にはムリだったと考えます。

因みに伊豆諸島の神津・恩馳島への黒耀石採取の行き来は、伊豆半島から伊豆諸島の見える所へ、流れに乗って行くことが出来ました(30km程度)。

従って、台湾山地以降は北東ア平野の東海岸沿いの拡がりの方が、ムリなく早かった事でしょう。

そして、五島列島~九州西岸~トカラ列島~沖縄ルートが、南への日本祖人の拡がりだったろうと考えます。

現在発見されている遺物・遺跡からは、九州4万年前、沖縄本島3.2万年前、八重山2.7万年前であり、また、台湾東部遺跡で5万年前の物があり、一応当サイトの仮説に矛盾は有りません。

因みに、大陸内部のシベリア・バイカル湖地域は2.4万年前で、大陸内部狩猟族の北と西からの渡来は、最寒期の2万年前頃でしょう。

八重山へは、西の台湾山地から(黒潮越え80km、漕舟力と直角の黒潮流速がほぼ同じで厳しい)か、東の方からか、興味深いことです。

なお、八重山の人骨遺跡では、他のように石器が見つからないとして話題になります。

竹や木、骨や貝器が、暮らしに多く使われていたものと考えますが、大陸内部の人たちと違う、日本祖代の列島沿岸の海の民の暮らしの一つの特徴でしたでしょう。

(了)

実は日本について考える時に、大陸に近い島々であった事から、4万年という大昔に遡って自分たちの歴史を概ね理解できるという驚くべきことが特色なのです。

そして、残された石器・遺跡の年代と拡がりから、その始まりが下図のようなものであった事です。

即ち、曙海の畔に至った人々のうち、舟を造り、渡海力のある人々が家族で北部九州に渡って来て北上・南下して行った歴史と考えられる事なのです。

海水面の上昇のために、多くの真の痕跡はあっても海中ですが。

注目すべきは、ほぼ1万年間で北海道にまで拡がりましたが、サンゴ礁の地から降雪寒冷の地にまで、そして四季に適応して主に水産物を食し暮らした人々は、似たような人だったことが重要です。

私たちは少し前まで、生魚を、海の雑草を好む変なヤツと世界では言われていました。

この最初の1万年間で基礎が作られ、その後は大陸の狩猟族の人々も交え、稲作も始まり、列島史が熟成していったように思います。

日本人、何と言っても、飛騨の山の中の人も生魚刺身と海藻は好んで食べますから、海辺・川辺が列島史始まりの基礎なのです。

(了)

前回の時代区分の「日本祖代」について、主要な事象を年代で書き込み期区分すると下図のようになります。

①前期は、曙海を渡って舟で北部九州に来て、沖縄や北海道にまで拡がり原型の基盤が出来ました。

注目したいのは、舟で黒耀石を採集に黒潮分岐流を渡って行き来したこと、27基のワナ猟の穴という世界クラスの知力がはっきり残されていることです。

祖人について、その認知思考力、言語力、生活環境整備などが窺がわれ、「原始人」イメージは修正が必要です。

②中期は、姶良大噴火が特に西日本にもたらした大きな被害のインパクトと復興の期間です(それほどでもなかったと言う先生もいますが)。

東北、関東は充実進歩を続けたのでしょう。

そして、異質な大陸内部の狩猟族の人たちの進入のインパクトです。

また、この期間に初渡米していると思っています。

なお、世界クラスの釣り針発見(沖縄)があり、「海の民」性は、はっきりです。

③後期は、前述の進入してきた人たちとその異質な文化の影響が、列島中央にまで及び各地域で違いがはっきり出て来たことが特徴です。

北の青森で世界クラスの土器が生まれ、次の縄文時代への助走が始まりました。

やはり、南から北の降雪寒冷までの環境の多様性と季節変化に適応したこと、そもそも舟を造り海を渡って来たかなりのレベルの人たちに狩猟族が加わった混じり合いなどが、世界クラスの考古痕跡を生み出した理由なのではと考えます。

祖先の頃から地震や津波も有りましたので、激動の時代でした。

(了)

4万年前頃から遺物・遺跡が急増しますので、海を越えて新人家族が渡って来ただろうという事で大方の意見は一致しています。

気温は4℃くらい低く、海面は数十m低かったので、瀬戸内海、東京湾等は陸地でした。

南西諸島の慶良間ギャップ越えは距離的に難しかったでしょうが、津軽海峡地域は距離ではなく降雪寒冷が厳しい状況だったでしょう。

対馬暖流が無かったので日本海側に大雪が降ることも無く東西が同様に拡がり、特に関東と甲信越が、中央部で黒耀石が採れたためもあって早い段階で繋がっていたことが注目されます。

原型が出来上がりました。

北から狩猟族の人が入って来た(一部戻ってきた)のは、ずっと後の話(2万年前頃)です。同様に西からも入ってきましたが、これらの影響は大きかったようです。

また、数十万年前のジャワ原人や北京原人系の人類、十数万年前からのデニソワ旧人が来ていたのかは、今も調べられ特に後者の議論がなされていますが、祖先では有りません。

縄文時代の始まりと終わりは議論がありますが、まあ上図が主流でしょう。

最近、「弥生人」がやって来たという事については否定的な論が出ています。稲作という大きな生活変化はありましたが。

そして、実は世界の学界の一部で注目されているのは、日本列島人が、当時の昆布Kelpハイウェイを通ってベーリング地峡南岸から、初めてアメリカ新大陸に渡って行ったのではないかという事です。

「歴しニア」は、日本祖人とその子孫が、太平洋沿岸を北米に至り南米にまで拡がったと言う考えです。

少なくとも子供たちの副読本には、前述くらいの事は載せる段階に来ていると思います。

(参考動画)

(了)

戦前の歴史学問や教育を非難する人たちが放置した、早急に訂正されるべきデタラメ国会決議があります。

史実の裏付けのない事を、政治的な理由から「歴史」としてしまう酷さで、問題の根の深さは、投獄される恐れも無いのに誰も声を挙げない異常さです。

これは権力の弾圧よりも恐ろしく、時に科学の装いを施して世界人類史の流れに反したことを声高に主張し、他を沈黙させる恐ろしさです。

一人として先生方が、声を挙げない恐ろしさです。

因みに最近の先生方による地道な数万年前、十万年前に及ぶ石器などから、日本列島における旧人の存在を挙げる研究があります(学界論議中)が、それは別のことであり、旧人は先住民では有りません。

これも紛らわしい装いを施してデタラメの強化・補強に使われます。我々が問題とすべきは、最初の現生人類です!

仮に、何%かの影響が我々現生人類のDNAに及んでいるとしてもです。

日本列島史の始まりは北上史であり、その後の南下・西入も同族が含まれていることも考慮が必要です。

この列島で4万年(縄文時代以降プラス2万数千年)の長きにわたり受け継いできた大切な習俗に注目する必要がある事も、言うまでもありません。

(了)

次のページ

↑トップへ