下図の通り、7万年前から5万年前が4℃の低下で、5万年前から3万年前が12℃の上昇であり、九州渡来や渡米など、日本人が注目すべき数々の大きなドラマがありました。

第1図

そして、ヤンガー・ドリアス(YD)期の寒戻りを過ぎて更新世から完新世への大転換となり、私は、日本祖代から縄紋本格(早期)へと変っていったものと認識しています。

東南アジアSundaland地域から日本への北上が遅れたのは、寒さと共に緯度を北上するのが難しかったからでしょう。

5万年前頃、一番寒かったからか、あるいは温暖化していく変化のときに人の認知能力の大きな発展(ビッグ・バンと呼ぶ学者あり)があったのかもです。

そして、台湾山地から曙海西側を北上し、九州に渡来して日本列島の東西を北上して3~4℃の気温上昇の中、北海道にまで至りました。

第2図

引き続き千島列島(あるいはオホーツク沿岸)、ベーリング地峡沿岸通過、アメリカ・アラスカ通過まで、一貫した気温上昇と比較的な温暖期であったことが、日本祖人を生み、かつ、発展できて渡米し得たラッキーなことでした。

第3図

なお世界史において、7~5万年前の期の4℃低下の寒冷期は、よく認識する必要があります。

現生人類の発展における出アフリカ後の東進、水平拡散の豪州は分かりますが、北上の九州渡来には時間を要しました。

従って、高緯度寒冷地へ北上していく拡散となる出アフリカ後のシベリア・中国内陸への北上進出については、私は眉唾の認識です。

現生人類・新人は、むしろ太平洋岸から河川を遡行する内陸への拡散であったのではと考えています。

内陸では、原人・旧人の遺跡と新人の遺跡をしっかり区分することが重要です。

いずれ我が国でも旧人遺跡(もしかしたら原人も)が、発見されたり認定される時が来るかも知れませんので。

(了)

下の図は、我が国の始まりである4~1万年前頃の海水面の変動です。

海水面の上昇は温暖化を示しています、日本祖人はラッキーでした。

現生人類は、東南アジアから6.5万年前頃には豪州に渡る一方、北上して上図のように温暖化する中、遂に曙海を越えて4万年前頃、九州に渡来しました。

そして、緯度が上がる状況を温暖化と共に日本祖人は列島東西を北上できたラッキーな状況で、何と雪と寒気の北海道に入る頃は3~4℃の急上昇でした。

更に3万年前頃、北の暮らしを身に付けた祖人は、そのまま千島列島から約8千年間続いた比較的温暖な時期にベーリング地峡Beringiaを抜け、アラスカを最寒冷期LGMの到来の前に通過し得たのです。

渡り鳥でも行くてを知り得た処女地の自由と食料を求めた百数十人の家族の群れが居たのです!

Youは何しにアメリカへ? いやいや、そうとは気づかずになんです!(一番乗りでしたので、そんな質問をする人もいませんでしたが)

無論、その後も続く人達がいたことでしょう。

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

徳川幕府誕生の昔頃から活字にも残っている小人話は、北海道でアイヌによって千島に追われ、千島列島から北海道に土器を作る土を取りに来ては脅かされて隠れた背の小さい人たちについてのものです。

遠州灘から北海へ漂流してしまった者のアイヌから聞いた話は、何よりもデタラメを言う理由もないリアルな口上書(奉行所提出)に書かれたものです。

私たちは今や現生人類の出アフリカから、4万年前に日本列島に渡来して北上した歴史の流れを知り、また、プロトマレー人、フィリピンのネグリト、南九州・南西諸島の背の高くない人たちがいる状況などを知ってますので、先人の話は大変興味を惹かれます。

現在この話が注目されていない理由は、江戸時代の話から約240年経った明治半ば過ぎに、高名な研究者が北千島に行って見たがそういう小人は居なかった、皆、千島アイヌだったと報告したことが影響しています。

しかしその240年間には、北海道アイヌの千島進出に加えてカムチャッカ半島からのクリル族などの南下が考えられますので、ひっそりと逃げ回るように暮らしていた人たちが見つからなくなっていたのは十分あり得ることです。

またその時代は、貪欲なロシア人、インドネシアのバタビアから北上航海して樺太や得撫島に行ったオランダ人などがいましたので、それらの記録に何かあれば大ヒットなんですが。

ま、いずれにしましても人類史の流れを考えますと、見つからないから無かった、ではダメでしょうと思うのです。

(了)

来年は明治維新150年ですが、坂本龍馬も吉田松陰も教科書に登場しないらしいという問題が指摘されています。

子供たちに伝える日本史は、そんなの一杯入れて勉強させればいいだけの事と思います。

さて、日本には四方から人々が入って来て(下図、赤桃色線)出来上がったとよく紹介されますが、誤解です。

基本的には4万年前、曙海を越えて家族で九州に現生人類の人々が来てから日本祖代が始まり、北海道にまで日本祖人が拡がって後に(上図、青色線)、時代を異にして多方から様々に入って来たものです。

最初は厳しい上図の慶良間ギャップでない、曙海を時計回りで南下し、また、むしろ列島からの日本祖人の拡がりでしたでしょう。

現在の遺跡、遺物はそう示しています。

此の点で、2008年6月の国会におけるアイヌ先住民決議は、歴史の裏付けのない驚くべきもので、名称をアイヌの人権を尊重する決議とでも替えるべきです。

九州の人たちですら、自分は4万年前の先住民子孫などとはっきり言える人はいないでしょう。

正に、それが他国と異なる長い歴史を有するお国の特徴で、来年のアイヌ決議10周年には修正せねばなりません。

アイヌの人が九州に居たという史実は無く、むしろ樺太の方から、しかももっと時代を経てから来たのだろうと否定する考えの学者さんが多いとみています。

国連UN絡みのウソや誤解の多い歴史戦の様相を呈している時代でもありますし、しっかりと正して子供たちに伝えましょう。

(了)

最初の渡米ルートが、ベーリング海岸沿いに北米大陸北西岸にということが多数説になってきましたが、数十mという海水面の上昇により直接の証拠の発見は大変困難です。

そこで沿岸・内陸に痕跡を探しますが、下図の通り南米アンデス高地に痕跡があるようです。

それは、成人T細胞白血病を発症させるHTLV-1ウィルスのキャリアに関してです。

このウィルスの世界分布から、現生人類がアフリカを出る頃から保有していたとみられますが、遠隔のアンデス高地人の保有が見つかりました。

これは正に、人類の東進と環太平洋移住移動の流れでムリなく理解できます。

現在の日本でも九州、北海道、四国、離島などや人里離れたところで見つかるようで、縄文痕跡(日本祖代とも?)と符合していると言われています。

1500年前のアンデスのミイラのウィルスの塩基配列から日本人との類縁が明らかになってますので、少なくとも近現代の日本人の移住による訳では有りません。

彼らがB・シベリアタイプでなく、A・日本人と類縁であることは注目されます。

南米では、既に米Harvard医科大がアマゾンで古いDNAを発見しています。

また、ブラジルで2万年を越えるという遺跡が見つかったという情報から環太平洋移住移動MPOR説の意を強くしていますが、南米はまだまだ人里離れた所にお宝がありそうな期待が持たれます。

日本祖人の初渡米:https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

かっては、シベリア・アジア人がベーリング地峡を大型哺乳動物を追って越えてカナダ大氷床の隙間通路である無氷回廊を南下したルートからが定説でした。

現在では、既に多くの学者がそのルートがベーリング地峡南岸-北米大陸大平洋岸の昆布kelpハイウェイ沿いからだと考えるに至っています。

そこで焦点は、A:北海道からの日本祖人か、それともb:シベリア狩猟族のいずれかということになる筈のものですが、まだ、明確にそこを打ち出して論じたものはありません。

依然として、現在の先住民の大多数のDNAがシベリア・アジア人系であることから、ルートは変わっても人については何となくそのままというのが実情だと思います。

近年、ブラジルで発見されている古い遺跡(約23,000年前)の問題があり、最寒冷期を過ぎて(1万数千年以降)でないと南下できない、という大方の常識ではこの遺跡を解釈できません。

また、東南アジア・豪州の先住民とDNAが近い(驚くことに北米やシベリアでない)アマゾン古部族について、議論がありあるいは頭抱えているということなのでしょうか。

アマゾン古部族については、直路の太平洋横断が歴史的に全く実証材料がありませんので、ハーバード医科大の折角の貴重なDNA調査研究の分析結果が浮いているようです。

 

かねて当サイトが提唱しております環太平洋移動移住MPOR説で、A:北海道からと考えれば、ルートも時期も悩まず説明できると思うのですが。(ま、その種の最新の発見を踏まえて説の方が作られている訳ですが)

あの100年越しのアインシュタインの「重力波」の方は、やっと証明されて来ているようですね。

(了)

Many think that the route is along Kelp Highway now, but by A-original Japanese, Nihon Sojin, or by b-Siberian hunters?

Interesting new findings in Brazil, one is especially about old site of its era is 23,000 BP.

This indicates that Asians must passed the Beringia before Last Glacial Maximum for peopling to American continent.

The other is about Old DNA tribes who were also found in Amazon by Harvard Medical School.

Surprisingly, those types aren’t similar to those in North America and Siberia, but to Aboriginal people in the area of Southeast Asia, Andaman islands and Australia, center was Sundalandia.

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

最初のアメリカ人は、下図のA:海の民系か、B:内陸狩猟族系か、となりますがまだまだ世界のイメージはBのようで、かつ、時期はやはり極寒の地が温暖化して氷床も大きく縮小する1.5万年前頃というものです。

ここで、Aである3万年前の北海道の日本祖人の状況、北極海の冷水の流入が無かったベーリング海の状況、沿岸の水産食料源の昆布(kelp)ハイウェイなど当時の状況を考えてみます。

そうすればA:日本祖人は、3万年前から引き続き千島列島(少なくともオホーツク沿岸)を北上して、ルート上の最も寒いベーリング地峡地域を最寒冷期LGM前(2.5万年前以前)に通過できた可能性があります。

この事は最新の南米の2万年を越える古い遺跡の発見情報を考えますと大変重要となります。

さて、仮にBが通説よりも早く内陸から進出し沿岸の舟ルートに切り替え得たとしても、アラスカ湾の海岸氷床は厳しい大変な難所です。

浮氷に衝突して転覆などとなれば命に係わる事態です。

まして家族の移動ですのではっきり軍配は、Aに上がるでしょう。

米本土から南米までを視野に考えますと、北海道日本祖人の子孫の米沿岸の初進入による環太平洋移動・移住MPOR説を提唱する所以です。

(了)

よく言われる日本列島に北から西から南から人々が来て始まり、は時代差を踏まえない誤解です。

実際は、先ず南方から九州に来て北上して一方向性でほぼ列島中に拡がった事が重要な特徴で1万年、次の更に1万年後に、北から西から狩猟族が入って来た日本祖代人の始まりの二重構造性です。

この最初の海の民系の渡来と列島中への拡がり及び定着の2万年は、列島史時間の半分を占めるものです。

水と緑と動植物の豊かな恵まれた地ですが、火山噴火や地震津波もある特色ある孤立的な島々での暮らしの基礎と言うべきものです。

そして、雪と寒冷の北海道から引き続き食料豊かな無人の地に北上して行ったと考えるべきで、最初のアメリカ人論に繋がっていきます。

古い時代の列島中に拡がっていた、既に舟で神津島などに行き来し広域の物々交換をしていた、日本祖人の暮らしの分厚い基礎があった訳です。

ところで、この日本祖代と縄文時代の後、稲作を携えた渡来人やその後の古墳時代渡来人などの流入により積み重ねられた第2の二重、三重構造時代と言うべきことになっていきます。

また、この最初の二重構造性の日本祖代と縄文時代の基層(日本史時間の93%)によって、その後入って来たものを取捨選択、変形して取り込み熟成させながら、日本文明、日本教と呼ばれる独特なものが形づくられたのだと考えます。

今でもユニークな日本の古い祭りもありますね。

(了)

最初のアメリカ人については、シベリアからベーリング地峡を経てという定説から、今では地峡南部の沿岸を昆布(kelp)ハイウェイで米大陸西海岸沿いにということになっています。

それでも、時期は、地峡地域の寒さから最寒冷期LGM(24~19,000年前)を過ぎてから、また、人は、現在の米大陸の先住民のDNAなどからシベリア・アジア人というイメージのようです。

ここで、南米の古い遺跡発見の報もあり、最寒冷期よりも前の状況を確認しますと、人の候補は、①本州から北上して来た北海道の日本祖人、

②バイカル湖域から北上したヤナYana遺跡のシベリア・アジア人、になります。

北海道遺跡が常続して生活しているのに比し、ヤナ遺跡は寒さが厳しくなって南下したのではとも言われています。

そして、地峡や内陸の厳しい寒さに比し、ベーリング海域は、当時は北極海の冷水が流入しなかった比較的温かい状況でしたので、沿岸生活は可能であったろうと考えられます。

千島列島の島伝いも前方の島が見えましたし、日本祖人は伊豆・神津島に行き来する操舟力を有していました。

従って(プーチンもいない時代でしたし)、更に北上を続けたであろう十勝平野3万年の人類に関する遺跡は、もっと世界の学界で注目されて良いと思うのです。
http://www.octv.ne.jp/~hyakunen/hakkutusareta-tokati.html
https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

最初のアメリカ人については、長かったベーリング地峡Beringia越え定説Bの時代が終わり、北太平洋沿岸の昆布kelpハイウェイルートA説が主流になっています。

しかし、欧米学界では、未だシベリアB人が来たというイメージが強いようです。

第1図

その大きな理由は、現在のNativeインディアンの80%がシベリアB系であるということと、も一つは、万年前の昔の今との大きな5つの違いについての認識が不十分なせいだと思います。

それは、シベリア狩猟族とは心根や暮らしぶりの違う、忘れられがちな環太平洋の海の民に想いを馳せる事です。

近年発見されている北米や南米の遺跡、人々のDNA分析などを考慮すれば、極寒のシベリアを越えたのは、最寒冷期後とみられますが、南米の古い遺跡と合いません。

第2図

この点で第1図のAルートは、ベーリング海が現在よりも温かかったとみられる差異があります。

やはり先に沿岸を入って行ったA系と従来の地峡及び無氷回廊及び沿岸も行ったであろう影響力の強いB系という、かねて当サイト提唱の二重構造で考える必要があるでしょう。

kelpハイウェイに目が向いてきたのも心強いですが、こういう視点で下図全域の特に沿岸遺跡や関連DNA資料などを見直すことも必要な事と思います。

当時の気温や海水面・温度、食料となる動植物など諸学協同の分析が期待されます。

そして、証拠が見つからないという事は、事実が無かったという証拠ではないと思いつつ。Absence of evidence is not evidence of absence.

(了)

最初のアメリカ人First Americans

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トランプさんがアメリカファーストであちこちを震撼させて名を馳せてますが、逆にした標題も歴史考古の世界では熱い話題となっています。

報じた英国BBC放送が、はっきり北海道ルートを入れて問題について伝えました。

今では、ベーリング地峡から無氷回廊を渡って米本土に進入した定説のルートBではなく、同地峡の南沿から昆布(kelp)ハイウェイという北太平洋沿岸ルートが新定説と言えます。

それは、AからとBからがありますが、どうも欧米の此の関連の話題は依然シベリアB発の認識のようです。

ベーリング地峡ルートの分が悪くなったのは、無氷回廊ルートが溶けて開いたのが北米や南米で見つかっている古い遺跡よりも遅かったことによります。

また、言語学的な分析に基づく大きくは2回という進入定説も、古い人骨や石器同士に関連が無い発見などから、もっと多くの人の進入の複雑な波があったのではと揺らいでいます。

この点で作成しました上図のように、シベリアBから沿岸に移る流れB’も考えられ、進入は複雑だったのではということを裏付けます。

そしてこれまで説明してきましたように、発見されている遺跡の諸報告から、B-B’ルートよりも北海道発Aルートの日本祖人の方が早かったという見方を表明してますのは当サイトですが、如何でしょうか?

当時の海水面はずっと下がっていました(数十m)ので、今、この問題を検証しうる米大陸西沿岸の海底遺跡に関心が高まってきています。

ところで、Aスタートの北海道、いや日本の学者さんで此の世界史的な大問題に迫っている方はいないようですが、こっちの方が不思議です。

(了)

日本人、基層の共通有り

カテゴリー: 最新情報

万年の大昔から、体に化粧ペインティングし、腕輪をしたりするのは人類に共通で、各地の先住民は今もたくさんの飾りを付けていますし、月に人が行く時代になっても女性たちは依然として同様にお化粧を続けています。

日本史を見ますと人を飾る南海産の貝は貴重品として欲しがられ、驚きですが北海道にまで至っています。

即ち、この長距離の地域で安全かつコミュニケーションが可能であったわけで、価値観も共通性があったことでしょう。

この他に万年の大昔でも各地の黒耀石や糸魚川の翡翠なども広範囲で交易され、注目されています。

やはり海上の島国としてのまとまりが感じられます。

神津島の黒耀石は、3.7万年前という古さ、舟で行き来したこと、南関東から伊豆地方で交易が行われていた事など注目されます。

考えて見ますと、始まりの曙海の畔の暮らしの時代から南海の貝を知った人と子孫が北上して行きましたので、暮らしに地域性があると言ってもこの共通性は驚きには当たりません。

この点で、4万年前からの日本史の始まりとは、曙海から渡った九州・沖縄発である事と北上した列島中への拡がりが特色と言えそうです。

後に北から新たな種族が入って来る、時代が下って大陸からや欧州から人が来た、戦後は進駐軍が来たと言いましても、らしさは維持されています。

何を美しい、美味しい、良い、好ましいと感ずるかの共通性は高いように思います。

虫の音を雑音ではなく音色として聞き分ける民ともいわれてますし、洗い水が豊かですので神州清潔の民と言った人もいました。

大事に子供たちに伝えていくと共に、これまで同様に外からの多様なものを取捨選択して取り込んでいけばいいのでしょう。

電車でお化粧する人や禊などと口先ばかりの清潔でない政治屋を正しつつ。

(了)

日本人とは、「日本人とは何か」と問う、世界に珍しい人たちだそうです。

この問題については、埴原和郎先生が「二重構造モデル」を提唱され、それまでの①人種1~2回交代説、②土着集団と後の渡来人たちの混血説、③小進化の連続移行説 に一応の決着を付けられてます。

それは、日本列島にいる人々が日本人という事で、前述3説は北海道や南西諸島などを含む地域性を考慮していないことが問題であり、要は縄文時代人の系統がどのくらい今に至るまで残っているとみるかで分かれているとされました。。

先ず下図左下、東南アジアの原アジア人から日本祖人3代を経て縄紋時代人へと移行しました。

東南アジアの古人骨、フィリピンの古部族である黒い皮膚で小柄なネグリト、八重山の石垣島古人骨、縄文人骨に近縁性のある事が現生人類の沿岸北上の流れを窺がわせます。

日本祖代分の特筆すべき2つ事象である①姶良大噴火と②狩猟族の進入を加え、A、B、Cの3区分が考えられるとしたものが、当サイトの考えで後で説明します。

ここで、特に北海道にまで拡がった時代に引き続き樺太や千島列島に拡がって行った事が自然だと思います。

従って、約2万年前の最寒冷期に北海道へ大陸の内陸から人々の流入がありますが、出て行った人が戻ればDNA変化は少なくなります。

出来上がりの縄紋人移行時には、基本的に、①4タイプに分かれる、②本州・九州・四国等から成る地域が概ね中央のフォッサマグナ線地域で東と西に違いが見られ2分されるというように認識されます。

当サイトでは、更に日本海側と太平洋側という小違いの区分もあるものと考えています。

埴原二重構造モデルでは、方言・風俗習慣などの日本の東と西2分性と4つのタイプがいずれも皆一緒の日本人であることも指摘し、アイヌは日本人とは別というそれまでの考えを否定しました。

日本人の成り立ちは、4万年前の九州渡来から北海道に至るまでの拡がりが始まりですので、アイヌを先住民とするのは誤りです。

この点で、アイヌを先住民とした国会決議は歴史の裏付けのない不適当なもので、アイヌの人権を尊重する決議といったように名称を変更する必要があります。

先住民などと他と区別して言える人はいない歴史の古さこそが、米国やオーストラリアなどと全く異なる日本の特徴です。

他方、この埴原二重モデルは、日本犬や野生の二十日鼠、更にはATLV(成人T細胞白血病ウィルス)の保有者の分布という、其々独立して行われた性格の異なる調査研究がその二重性という内容に合致して支持していることも指摘され、大変注目されます。

さて当時はっきりと認識されていなかった縄紋前の日本祖代を追加する訳ですが、先ずは4万年前、下図の曙海から人々が海を越えて九州に至り、南下して沖縄や北上して北海道にまで拡がって日本祖人Aとなりました。

その後、実は現在分かっていることで特筆すべき点が少なくとも2つあります。

それは、B、Cの区分をもたらす元になった2.9万年前頃の姶良大噴火と約2万年前の最寒冷期のユーラシア東部内陸からの狩猟族の北と西からの進入です。

姶良大噴火は、九州大被害、西日本全域に相当の被害、火山灰は東北にまでと言われていますので、西日本の人口の減少・北への移動、そしておさまってからの人の流入となったことでしょう。

当時は海の民の暮らしが主体であったと考えますので、土地に縛られる農耕時代よりは噴火の影響が少なかったかもしれません。

注目される東と西の違いも、始まりはこの姶良大噴火の西へのインパクトであったのであろうと考えます。(その後も縄文時代の九州の喜界島噴火があります)

そして次に、氷河期最寒冷期LGM中の約2万年前の北と西からの狩猟族の進入です。北からの進入は日本海側に、西からの進入は太平洋側に大きな影響を与えたことが石器の伝播による暮らしの変化の様子で分かります。

実際に進入した人数は、与えた影響程では無かったであろうと思いますし、既に居た部族との結婚の進んだ具合は今後の更なる研究でしょう。

この段階で、関東甲信越を横断する繋がりと人の多い広大な関東平野での暮らしの中心性が生まれており、今に繋がる原型とも言えるでしょう。

このような大きな事象を受け止めながら暮らしの文化を熟成させ、やがて温暖化が進む中、全国での土器の使用の一般化、竪穴住居での定住と進化、画期的な弓矢の使用などの生活諸変化が見られた縄紋人と呼ばれることになっていきます。

祖先である日本祖人は、時に大変困難な激動の時代を生き抜きながら日本列島の暮らしの特色ある原風景を生み出し、後の時代にバトンを繋いでいます。

日本史は、〇〇時代から知れば十分と言う不遜不敬な問題点をご理解いただけましたでしょうか。

(了)

 

 

 

 

4万年の日本史の始まりを探る者として、近年のDNA分析法はどういう体つき系統の人たちだったのかという分類が分かり大変参考にますが、万能ではないです。

分かるならばどういう心根、信仰、暮らしの習俗だったのかなどが重要です。

例えば、アメリカにいる日系5世は、米語しかしゃべれず、キリスト教徒で、ハンバーガー大好きで生魚や海藻はムリとなれば、DNAが似てるだけでは何ともなりませんね。

そういう点で、暮らしの言葉がどうであったかは極めて重要です。

ところが、出アフリカの黒い肌が環境で白い肌に変わるのが一説に8千年くらい、言葉の近縁性は5~6千年で失われると言われてますから、万年前を探ることは、一部は消えていき新旧は重なり合い、全く容易ではないです。

さて日本語は、ウラル・アルタイ系、いやタミルと近いなどの説が出ていましたがどうも違うようで、百年間探ってもともかくぴったりこれというものが見当たらない孤立系だそうです。

しかしそこで、従来の言語分析法でない、人称代名詞の共通性など幾つかの言語学上のファクターに基づく近縁性のチェックと現生人類の進出・移動・移住のDNA分析などで、万年の昔を総合的に検討していく方法論の転換があります。

これによりますと、下図のように、ユーラシアは大きな2区分A、Bとなり、日本語は括りとしてはA環太平洋だという新説(松本克己先生)が出ています。

因みに我がサイトは、環太平洋移動・移住MPOR説ですので、素人の勝手な理解ですが納得です(区分の細部の線をどう引くかは少し差異がありそうですが)。

そして、環太平洋言語圏のアメリカ太平洋語群は、先ず最寒冷期LGM前にa環日本海諸語系が入って来て、後に温暖化してから影響力の強いa’bシベリア東部の系が入って来たのだろうというのが、移動・移住の流れからの我が理解となります。

逆に、言語面からの多様な分析でそれに関することが導かれれば、逆に移動・移住の時期やルートなどを探る更に確たる手掛かりが得られるかもしれません。

そもそも、最初の出アフリカ部族は、1回、せいぜい千人内外とも言われていますので最初は皆、似たような言葉だったのでしょう。

その後、5万年前頃ともいわれていますが、飛躍的に現生人類の脳力がアップし、洞窟絵を描き、小像を作りといった画期的な生活文化の向上があったようです。

バベルの塔などという神をも畏れぬ歯向いのため、相互の言葉をバラバラにされたという寓話は興味深いです。ユーラシアで、2,000以上も言葉があるようです。

(了)

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