前回、Harvard医科大が昨年行った南米の3古部族のDNA調査において、同じ南米や北米、更にシベリアなどにも見つからず、古さの残る豪アボリジニやパプア、アンダマン諸島等の人に近く、かつ、直路南米に至ることが考古学的に考えられないので、日本を経由する環太平洋ルートで南米アマゾンにまで子孫が達したと考えられることを紹介しました。

以下説明していきますが、結論的に言いますと、現生人類は出アフリカ後の東進、北上後の4万年前(BP)頃に九州に至り、北上して3万年前頃に北海道太平洋岸に達し、北方冬季の気候・生活環境を経験しました。

渡米が成功し発展したグループは、寒さが緩和した2.5万年前頃に、ルート上の最寒冷のベーリング海域を経てアラスカ南部に達し、最も寒かった最終氷期最寒冷期LGM2万年前頃の前には氷河のない米西太平洋岸に至っていたものと考えられます。

その後は、特に問題なく南下して南米最古の遺跡の形成以前にアマゾン流域に達したと考えられます。

まず、ルート上で一番問題となるベーリング海域を通過する点については、前回、最新の研究からカナダ、北米への進出は大平洋沿岸ルートであることを紹介しました。

時期については、Harvard医科大の発表前の通説である最寒冷期LGM後の温暖化時期ではなく、LGM以前に通過したと考えます。そうでないと、最寒冷期のベーリング海域通過はあまりに条件が厳しいですし、また、南米最古のチリ南部のモンテ・ベルデ遺跡(1.4万年前頃)よりずっと原始的で古いと思われるアマゾン古部族の存在が説明できません。

こう考えてくれば、南米アマゾンの南方型DNAを残す人たちは、寒冷降雪の北方適応型DNAの闘いに強い多くの人たちの2万年前頃の進出以前の寒冷緩和期にベーリング海域を越えて米新大陸沿岸に進入したとみられます。

その後の婚姻による人類の発展を考えれば200人以上の人々が、丸木舟で海流に乗って直路北太平洋を渡ったとは思われず、着実に歩を進めるベーリング海域ルートでしたでしょう。

当時の氷河・気候の状況をみますと、北海道太平洋岸に居た頃は下図の3万年前頃のアフトーニアン寒冷期であり、その後緩和期に千島列島からカムチャッカ半島、ベーリング海域を通過し、カナダ氷床を通過してLGM期には氷床の無い北米に達していれば進入発展の成功確率が高いでしょう。

さて次に、下図の細部のルートですが、前述のαルートの他に沿海州の方を回るオホーツク海ルートβもあり得ますが、寒冷の沿海州・樺太方向から北海道への多くの人の進入が2万年前頃ですので、αルートの可能性が高いでしょう。南方型人が初期にこの氷期を緯度を上げて北へ行くのは時間を要したのでは。

次に、ベーリング地峡南部海岸沿いAとアリューシャン列島沿いBのルートが考えられますが、B上のアッツ島とカムチャッカ東方のコマンドル諸島の間が400kmくらいあり、潮の流れも複雑で強いことから当時の舟では厳しく、寒いですがAの可能性が高いでしょう。

この地域のエスキモーの人たちは大変慎重なことで知られ、ここは波があり霧がたちこめることもあるため、岸からあまり離れずに航行するそうです。何しろ、転覆などして冷たい水に浸かればそのまま死を意味しますので。

他方、考古学的にも(9千年前頃のアリューシャン遺跡ながら)、アッツ島へはアラスカ半島の方から島伝いに西進して達したものと考えられております。

米大陸への進入は、比較的寒さが緩和された時期にルート上を着実な歩みで最寒期LGM前に氷床の無い北米に進入したとすれば最も好条件であったとみられます。いずれにしても、多く進入を試みた人々の中の数十%の成功した人たちが創った歴史とみられる厳しいものです。

以上の事から、当初、結論的にお示しした行程が一応の妥当性があり、人々の進入・南下に最も好条件なものとなります。

さて次回は、それでは日本祖人がそのルートを進むのはどうであったかです。

寒くなっていきます時期に正に寒い地域の話で恐縮です。

あまり注目されない寂しい地域で、かつ、万年の古さの日本祖人のアラスカ渡米の歩みがどうだったんだろうかについて、南方ボケ者が探って参ります(一応、出発地である北海道の雪深い道南の倶知安とオホーツクに近い道北で約10年間の勤務経験者です)。丁度、プーチンも来るようですし。

(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨年、ハーバードHarvard医科大チームにより、南米アマゾン3部族Suku AmazonのDNAは古いもので、しかも近隣南米はおろか北米やシベリアにも見当たらず、豪アボリジニAborigine、パプアニューギニアPapua、アンダマンAndaman諸島の人々と近いという驚きの発表がなされました。

どうして?と記者に問われた先生は、太平洋を渡って植民地化colonizeしたんだろうか?とニガ笑いです。そして、今や途中の経路上の人々は消滅してしまっているのだろうと答えています。

さて、赤道地域を直進して南米に至る”colonize”化は、アフリカで誕生した我々の祖先である現生人類の出アフリカ後の足取りを知る人類学・考古学者等からすれば、人類が太平洋に漕ぎ出したのはせいぜいのところ3-4千年前であり、ゼロが一つ違う全く新しいことで認められないです。

後ほど細部説明しますが、私は、まず最初に東南アジア・パンカル地域を北上した色黒の南方型の子孫が日本列島経由の環太平洋ルートで米新大陸沿岸部に達して入り、北・南米大陸の太平洋岸を南下して南米に至ったものとみます。

そして、大型哺乳動物を狩猟し、寒冷降雪地への適応を果たしたDNAの狩りと闘いに強い北方適応型が、遅れて(もしかしたら前後あるいは混在)シベリアからアラスカへと入って来て沿岸部に先着していた南方型は攻められて散りじりに消えていき、その沿岸の生活の痕跡も海面上昇で消えたものと考えています。僅かに、広大な南米アマゾンの人里離れた所に逃げ隠れ生き残っていたという訳です。

リオ北で発見されたパンカル地域やアフリカ人に近いと言われる1.3万年前頃の南方型の女性人骨「ルシア」、チリの14000年前頃のモンテ・ヴェルデ遺跡では、北米とは異なる様式の古い石器類、海藻を食し炉もある生活痕が発見されていることなどや岩絵を描き主に淡水魚を食したアマゾン川域遺跡など、南米に点在する幾つかの痕跡が繋がって線になってきて元々が海の民の太平洋岸南下を示しています。

そして前述の考えに私が至った記者が気づかない注目すべき第2の点は、アフリカを出て東進した南方型の子孫がそのまま南米にまで行っているということで、北米のNativeのような北方適応型(アジア北方内陸部が原型)ではない人たちというものです。

Nativeアメリカンの北米と南米、シベリアや今の東アジア人との関係、そして北・南米大陸の各地で発見されている遺跡の分析において、このDNAの南方型と北方適応型を意識しないことが発見遺跡の分析や議論の混迷の元にあると私は考えています。

さて翻って、パンカル地域の人々が太平洋を赤道沿いに直進して南米に渡って行ったのではないとなれば、北回りか南回りのルートとなりますが南回りの南極の方は全く取り付く島もなく何の遺跡上の裏付けもありませんから北回りとなり、俄かに日本列島が注目されます。

このサイトで既に述べましたとおり、確かに日本列島には4万年前頃から、南方型の子孫が西・南から進出して北上し拡がっていきました。

2万年前頃、マンモスを追って北方適応型の人たちが北・西から入って来る前に北海道太平洋岸にまで至っていますので、3万年前頃の北海道太平洋岸からその後も南方型のまま新大陸に入っていればぴったり辻褄は合いますが、問題は、米新大陸に渡り得たのか?です。調べ得る痕跡は無いに等しいですが。

Nativeインディアンは、2~1.5万年前頃にシベリアから当時の氷河期の海水面低下により現れていたベーリング地峡を越え、下図のカナダ内陸の氷床の隙間の無氷回廊ルートを南下して北米に入ったという従来の定説が、実は最近のアメリカにおける研究で否定されました。

2つの湖の氷の層の環境分析から、約1500kmの無氷回廊を人びとが通過し得たのは、温暖化した12600年前頃以降のことでそれ以前は痕跡も無く無理であるという結果です。

他方、このことによって既に北米で発見されている14000年前頃の遺跡を説明できなくなり、舟も利用する西側の太平洋岸ルートであろうということになって、俄かに注目されることとなりました。

それまで相手にされなかった太平洋岸ルートということになりますと、米国に至れば南下して南米に至ることは大きな問題はありませんし、学者を驚かしたいいスピードで南端にまで至っていることも、沿岸を舟を使えばよく理解できますので、焦点は当時の北太平洋、ベーリング海地域を人々が渡れたのかということになります。

そして下図の地域を見ますと、北海道以降のルートで2万年前頃の最終氷期最寒冷LGM期以前の渡米進入路として、ベーリング海北側の地峡沿いA、アリューシャン列島沿いB、北太平洋の海流に乗って直接渡るCというルートが一応考えられます。

先ごろ、東北大震災で八戸の神社鳥居の笠木が米オレゴン州の西海岸に流れ着いた(Cルート)と話題になりましたが、無人の野のアメリカ大陸で人が増えて定着するには、事故や病気で人が失われる、また、婚姻と正常な遺伝による部族の発展を考えると少なくとも200人くらいの母数が必要と見られています。

Cルートは、渡海が実行可能と言われ、かつ、最も暖かいルートですが、1舟2舟はともかく前述の母数を考えますと丸木舟の時代に多数の人々が見通しをもって計画的に漕ぎ出して行ったという可能性は低いと言わざるを得ないでしょう。

仮にあったとすれば、姶良大噴火(2.9万年前)後、シャーマンに率いられた難を逃れる多数の人々が日が昇る海の彼方の神の地を目指して漕ぎ出し、その生き残りの人々が到達したとでもいうことでしょうか。

さて、今から直前の氷河期は7-1万年前頃のことで、寒い中でも寒暖の波はあり、最も寒かった2万年前頃の最寒冷LGM期における状況は下図の通りで、広範囲の沿岸・島嶼部(白部)では、寒冷なステップツンドラの草原でマンモス、ステップバイソンなどがいる状況だったとみられています。

最初に南方型が新大陸に進出して南下し始めた注目の時期であるLGMの前の2.5万年前頃は、少し寒さが緩和されていたために海水面も図より3-40mは上昇していました。

カムチャッカ半島~ベーリング海北側沿岸ルートAは、最も寒かったでしょう。カムチャッカ半島~アリューシャン列島ルートBは総じて曇りがちで霧が深いと言われ、現在の米露国境のアッツ島とコマンドル諸島間は潮流が激しく、その離隔も数百kmあります。

いずれのルートにしてもよく見ますと、南下して行くアラスカ湾の一部(赤丸地域)は氷床が海辺にまで来ています。とても人は行動できなかったのでしょうか?

アラスカ湾赤丸地域を地図で見ますと下図の通りです。米国アラスカとカナダが国境を接しており、カナダのブリティッシュコロンビア州地域とアラスカ湾の間にも米国アラスカ州の領土が細長く伸びています。

当時の海水面は下地図よりも約90m位低く、入り組んだ海岸線地域の陸地部を氷床が覆っていたことでしょう。アラスカと言えば寒いイメージですが、旅行書によるとアンカレッジの夏は思いのほか暑く、半袖でいいそうです。

そして、この地域で生活するイヌイット(生肉を食べる人の意ではエスキモー)の人たちは、氷壁の前でも漁をする人たちのようで、特にアリュート族(アリューシャン列島人)は、舟造りや操舟、漁に長け長距離の輸送航海に慣れた正に優れ者の北の海の民だそうです。

次回は、当時の千島・カムチャッカ・ベーリング海域・アラスカの人々の存在に関して思いを巡らせ探ります(近代になって毛皮を求めに来た露人に海の民アリュート族がほぼ壊滅されましたので、安倍首相が、露プーチンさんに騙されませんようにと祈りつつ)。

(了)

 

 

 

 

 

私たち現生人類”新人”の出アフリカ後のアジアへの移動、進出について、既にお伝えしているイメージに合った図がネットに出てきました。当時のパンカル半島Sundalandの意義を押さえていないと思いますが。

私は、この半島地域を「アジアの楽園」と表現しています。当時の遺跡にも見られますが、温暖で動植物に恵まれた広大な地域でしたので、基本的な素質では現代人にあまり遜色無い多くの人々が出入りし混じり合って文化が生まれていた楽園と考えています。

各地に拡がり、豪には数十kmの海を舟か筏で数百人が渡り根付いていますし、地域の洞窟には人手型や動物絵など当時の精神性あるものが残されています。

残念ながら、北東アジア、日本に関してはラフですので東アジア平野、東亜地中海、そして日本国内を2ルートでの北上としました。

日本列島へは、東アジア平野沿岸地域で暮らす海の民が、東亜地中海の北部と南部から舟で入ってきました。

当時の人の骨は本土地域が酸性土壌のこともあり、発見は容易でないですが、石器などが残された遺跡を見ますと、1万年くらいの間にほぼ日本列島の沿岸部(水平拡散)や一部の高原地域(垂直拡散)に拡がっていたようです。

既に、伊豆沖の神津島に黒曜石を求めて舟で渡っていますし、その貴重な黒曜石が広域で交易されており、また、冬の寒さの北海道の大平洋岸に進出していたことなどが注目されます。

容易でない船路を渡って来た海の民の家族の群れが、今よりも海水面が数十m低下していた黒潮沿いや瀬戸内盆地などの海浜・河川沿いに北上し、主に水産物や植物を食べ狩の獲物を加えて、自殺する人もいない案外と結構な暮らしをしていたのではないでしょうか。

日本列島地域の魚介・海藻類の豊かさや雨と多様な地質のもたらす植物の豊かさも特筆すべきでしょう。主に海辺、一部は川辺の暮らしであったでしょう。

その後、2万年前頃、大陸から大型哺乳類を狩猟する寒冷降雪地に適応した人たち(北方適応型)が入って来てますし、今日に至るまで途切れることなく人は入ってきています。

しかし、日本史は後から来た多数の人が前から居た人を排除して入れ替わるというようなことではなかった(攻防はありましたが)と見られていますので、地震津波、火山の噴火もある列島地域のこの頃の万年の海の民の暮らしと精神性は、基層としてわずかですが今でも残っているように感じます。

下図のように、ずっと下った紀元後の古代でも「海部」という名が広域の沿岸地域に、一部の高原にも残っていますし、また、薨去された三笠宮様は、「お舟入り」(我々の納棺)されます。

日本の祭りには、相当古い伝統なのではと感じさせるものもありますし。

そして今、そんな4-3万年、2万数千年前の海の民である日本祖人が注目されるには実は訳があります。

近年、アメリカ人は、自分たちの住む大陸に最初に人が来たのはいつ頃、どうやってということに大きな関心をやっと持つに至り、精力的に研究が進んでおり、新たな発見が出てきています。

その一つは、下図のように海水面が低かった万年の大昔にマンモスなどを追ってシベリアとカナダの間のベーリング地峡を越えて新大陸アラスカに入り込み、従来は米大陸氷床の空き間の回廊ルートから南下してきたと見られてきました。

ところが最近の研究により、1500kmになろうかという回廊ルートは、動ける夏・秋の間でそういう状況になったのは暖かくなった12600年前頃以降であり、回廊にはそれ以前の古い痕跡も全く発見されていないという状況です。

従って、既に北米で発見されている14000年前頃の遺跡状況を説明できず、その後の海水面上昇で痕跡は海中だが太平洋岸ルートだろうとなってきました。

現生人類が世界に拡がったグレートジャーニーにおいて、北米、南米で14000年前級の遺跡が発見されてますが、下図のベリンギア地峡ルートでないとなりますと太平洋岸ルートをよく見なければということになります。

すると、ベリンギア地峡南側のルートA、アリューシャン列島沿いB、そして海流に乗る北大平洋ルートC が一応考えられますが、この新大陸行き問題を日本の先生は誰もまともに相手していませんので仮説も無い状況です。

更に昨年、ハーヴァード医科大のチームが、アマゾン3部族のDNAを調べたところ、大変古いとみられるとともに、南米はもとより北米のネイティブインディアンにもシベリアにも近いものが見つからず、パンカル地域の豪アボリジニやアンダマン諸島の人のものが近いという驚きの結果を発表しました。

チームは、途中に居た人たちは既に痕跡も無く消えている種族であり、そもそもそんな古い時代にどうやって南米・アマゾンに来たのか何とも言えないとし、冗談に太平洋でも渡って植民したんだろうと言って笑うしかない状況です。

人類が大平洋ポリネシアのイースター島やハワイにたどり着いたのはゼロが2つも違うかという新しさですので頭を抱えます。

ともかく、当時の人たちの痕跡が残っていたとしても数十mの海面下ですのでどうしようもありません。しかし、出発点と終着点は明らかになっていると考えられる正に、日本の歴史学にはない「理論先史学」の分野です。

出アフリカの現生人類が、パンカル地域から寒冷降雪地適応のDNA変化を生ずることなく南方の海の民の子孫として南米に至るのは、日本列島経由でしょう。

日本祖人は、ベリンギア地峡南方・北太平洋沿いを米新大陸に渡り南米にまで沿岸を南下したという、日本の歴史考古学の先生方が誰も相手にしないことに思い至ることになります。

次回、更に深掘りに挑戦します。

(了)

現生人類が、数万年前に出アフリカを果たしてインドを経て東進し、サフルランド(豪オーストラリア)には5-4万年前頃に数十kmの海を越えて移動進出、また、パンカル半島地域から北上して日本には、大陸沿岸Xルート・比Yルートを経て4万年前頃に同じように海を越えて入ってきました。

日本人のDNAが、遠く離れたアンダマン諸島の人と近いことや日本語がインドのタミル語と近いという話を聞いても、私は驚きません。

当時は海水面が数十m低かったために、北の朝鮮山地と南の台湾高地の間に広大な東アジア平野が形成されており、今よりずっと近づいた日本列島との間に台湾の凌教授が命名した東亜地中海がありました。

パンカル半島地域のスラウェシやパプアなどに残された古い洞窟絵には舟を描いた(帆があるのは驚き)ものがあり、発掘された貝塚遺跡からは、外洋を含む水産物を食した海の民の暮らしぶりが広範囲で確認されていますので、東亜地中海のほとりは、舟を操り水産物を主に食する人たちで満ちていたことでしょう。

それは、木、竹、石器、骨器を使って様々な物を作りだし、葬送、祭祀、信仰、素朴な芸術のある文化を有するはっきり新人になった、類人猿・旧人とは全く異なることが窺える暮らしぶりです。(日本祖人は、もしかしたら東北の金取遺跡などの旧人と遭遇していたことでしょう。「なまはげ」などはその遠い記憶かも知れませんね。)

 

この海の民は、内陸で主に大型動物を狩猟して暮らしている人たちとは明らかに違う習俗で、寒冷降雪地に適応した色白になり大型の人たちと風貌もすでに違っていました。

パンカル地域では、今も大竹を使用する筏が普通に使われており、山中であっても伝統様式の家々は舟を模るもので海の民の末裔であることを誇りにしています。

 

そのような文化の流れと同様な暮らしが、氷河期の寒さが少し緩んだ東亜地中海のほとりでは一般的でしたでしょう。

そして、多くの男女家族が舟で海を渡って来るということが決して容易ではない時代に、海についての知識、造舟及び操舟のノウ・ハウを有する海に馴染んだ人たちであり、十分に実際の経験を積んだ潮の香りのする人たちであって内陸の山野狩猟人とははっきり異なります。

このことが、日本祖人始まりのイメージにとって大変重要な事で、黒潮に沿う形で沿岸を北上してやがて北海道にまで至りますが、2万年は続いた日本人の基層、原風景です。

貝塚、海人、西日本の広い範囲の沿岸から長野などに残る海部の人名、山中であるのに舟・船の名の地名など、遠い昔からの深い結びつきを窺がわせます。

さて今では、4万年の時が流れて地形も変わり、海水面も上昇しており生活の痕跡を見出すことは困難ですが、米国に残る海辺のネイティブ・アメリカンの暮らしのようなものであったでしょう。漁撈、採集を主に狩猟や植物の栽培も並行的にあり得たものと考えます。

何しろ、パンカル地域の豊かな文化の海の民の子孫が、北上して東亜地中海を男女家族のグループが舟で渡って来て定着したのですから。

それではどんな人たちだったのでしょう。

まず第1に、海の民であったのでその後の状況から一部の地域では現在まで続く、入れ墨・文身で描き飾っていたものと思います。海中で活動する場合、サメなどに襲われないため入れ墨が効果的で一般的だったと言われていますし、他部族もいる社会生活で意味を持っていたものと思います。

 

も一つは、現在も首都ジャカルタの高層ビル街から200kmくらい南西の山中で全く独自の伝統文化を守り、世間と隔絶して暮らしているバドュイ族の人たちに見られる首飾り、腕輪などの装身具をしていただろうということです。

これは、パプアなど原始的な暮らしを残す世界の各地で、今も一般的によく見られます。東亜地中海では、貝がよく使われたことでしょう。

さてでは、どんな風貌の人たちだったのでしょう?

これは全く難しい質問ですが、強いて答えれば、大陸沿岸の江南に見られる海の民の絵の人と、比の先住民の人たちの混ざり合った人のようであったのではと思います。

いずれにしても大事なことは、当時の東亜地中海のほとりの人々が概ね同様で、日本列島に東アジア平野の北部から入って来ても南部から上がって入って来ても似たような人たち、暮らしぶりの人たちであったろうということです。

アフリカを出た黒い肌の人たちは、その後、約8千年くらいで今の欧州人のように肌が白くなったそうですが、4万年前頃の東亜地中海のほとりにおいては、前述の案のようでしたでしょう。日本祖人の始まりの風貌です(何方か絵にしてください)。

その後時代が過ぎて、地形もそして大陸の内陸から多くの人たちの進出で沿岸の人たちも大きく変わりましたが、現在の私たちはこの東亜地中海に思いを致し、も少しお互いが仲良くしてもよいだろうと思います。

(了)

 

 

 

 

前回、人類史上の現生人類の移動進出の流れから、日本列島へは東南アジア方向から沿岸を北上し(仮に内陸からであったとしても)、数十mの海水面の低下で現れていた広大な東アジア平野に至り、舟で海を越えて来たことをお伝えしました。

同平野北部のAルートか、それとも南部の南西諸島沿いのBルートからCルートにより、九州南北のいずれに先に達したのだろうかは大いに興味のあるところです。

南部に先に達しているでしょうが、B—Cルートは、長距離で一部地域では生活は厳しかったのではと言われる島伝いです。しかし、どちらが先に達していたとしても、台湾の凌 教授が名づけられた東亜地中海の周りの出来事だということに思い至ります。

4万年前頃、女性をなどを含む家族で日本列島へ渡ることは、舟で来たことを思えば決して容易ではなく、、水産物・植物を多く食す明らかによく海に馴染んだ海の民で、内陸で大型動物を狩猟して暮らす人たちとは違います。

石器偏重史観は、狩猟にウエイトを置いた先史の見方をしますが、日本の始まりは海の民であっただろうと認識することは重要です。勿論、今は海水面が上昇したため当時の沿岸の人、いや生活の痕跡すら見つけることが困難で実証できませんが。

実証できないことは相手にしないということでは当時の事は考えられませんが、至当に考えればこうだろうということは言え、物理など他学問同様にこの「理論先史学」をもっと一つの分野として確立する必要があります。

ゼッタイと思われたニュートン力学も、アインシュタイン以降、大いに見直され発展を続けています。新たに人骨・遺物などが見つかり、必要になれば理論・定説を修正していけばいいだけのことです。

洞窟絵に舟が描かれていますし、時代はずっと新しくなりますが、入れ墨に鯨面の人(もっと色黒?)が倭人として魏志倭人伝にも書かれており、縄文時代の丸木舟や埴輪の舟なども見つかっています。

いずれにしても現代よりもゆっくり歴史が動いていた時代、意外に万年前の人たちは進んでいたというギョベクリ・テペ遺跡や洞窟絵など、近年の発見を踏まえた旧石器人のイメージはカエル必要があるでしょう。

4万年前当時の赤子を今、東京に誕生させるなら、あまり今の子と遜色なく成人するだろうと言われていますので。そして、東南アジアのパンカル半島(Sundaland)地域を北上してきた子孫は、その海辺での暮らし・操舟のknowhowは相当なものでしたでしょうから。

3.2万年前頃には、黒曜石の採取で伊豆半島と神津島の少なくとも10数kmは舟で大いに行き来していましたし。

一部に、大陸内陸の人のDNAと縄文人などが近いのでと言う人がいますが、日本祖人については、この地中海のほとりで海に馴染んだ民であるということを踏まえていない論です。それくらい内陸の民と海の民は、長い長い間に受け継いできた暮らしぶりが違います。

大陸の陸地がもっとずっと日本に近かった東亜の地中海のほとりの人々について思いを巡らし、舟で海を渡ることが容易でなかった時代に日本列島に至ることを考えますと、何といっても先ずは黒潮流があります。逆流していたとすれば、我々にはクレオパトラの鼻どころではないでしょう。

従って、東アジア平野南部の台湾高地地域へは、ベトナムなどの沿岸から北上したXルートにしろ、フィリッピンを北上するYのルートも無視できない興味あるものです。

当時の遺跡は、むしろYルート上のボルネオや比・フィリッピンの方で発見されていますし、比では、アフリカを出た頃とあまり変わっていない肌の黒いネグリト族もいますので。(従って、東亜地中海人は色黒?としました)

そして、比のルソンから台湾高地、南西諸島を経て南九州までうまく島々が点在していることが、舟で海を越えた移動進出を裏付けるものとして第2の要素と考えさせられます。沖縄では、日本で唯一、3.5万年前の人骨が発見されていますし。

東南アジア直系ではと思わせる風貌の南九州の隼人族、以南の人たちは、日本史において古い独特の文化を保ってきたと感じさせます。

 

さて、列島に拡がった日本始まりの日本祖人は、下図のAルート北部九州なのか、B・Cルート南九州だったのかが次の問題です。

当時は氷河期でしたので、台湾高地から朝鮮山地への展開は緯度を大きく変える気温の低下(3℃前後?)があり、南西諸島沿いは、石垣島—沖縄本島間の長距離渡海やトカラ列島の小資源、黒潮流越えという問題もありました。

東亜地中海人は、日本列島を丁度黒潮の流れるように北上して北海道にまで拡がって行って日本祖人となったわけです。

祖人は主に、北からの人か南からの人かは、無論、解明は容易でないです。

しかし、例えばその後の生活に大きな影響を及ぼした貴重な石器となる下図の黒曜石の交易の拡がり(産地のお蔭でもあり)を見ると、また、既にお伝えした瀬戸盆地・日本海の遺跡などの状況から、日本祖人の原動力は北説であったのではとなります。

  

実は2.9万年前頃、南九州・錦江湾の姶良カルデラ大噴火が、大変な被害を九州に齎しました(西日本、更に火山灰は東北まで)ので、肝心のCルートの分がよく分かりません。

もしかしたら、北から進出して来たまだそれ程違いの無い人たちが被害の鎮まった後、逆に南下して沖縄の方に行ったのかも知れません。

いずれにしろ日本の始まりは4万年前頃、この東亜地中海のほとりの海の民の人たちですが、台湾の凌 教授のこの命名が今は顧みられず教科書にも出てこないのが全く不思議な事だと歴シニアは思います。

そして最近の沖縄での人骨発見やDNAの研究の進展などを見てますと、始まりの頃の東亜地中海のほとりの人たちのイメージは遠からず生まれるものと期待しています。

(了)

現生人類は、出アフリカを果たして緯度にあまり差がない印度南部から東方の海浜沿いにパンカル半島Sundalandを経て、4.5~5万年前頃には数十kmの海を越えて豪に達しています。

他方、遺跡などから4万年前頃には、日本列島に達していると考えられています。まずはベトナム方向からとフィリッピン方向から北上したことが考えられ、内陸方向からもあり得ますが、内陸は起伏激しい道なき道で猛獣や毒蛇などもおり、寒暖の差も大きいです。

DNAを調べますと、日本人は近くの中国や朝鮮半島の人たちでなく、なんとパンカル半島に近い西のあまり人が行かないアンダマン諸島及び内陸奥のチベットの人たちが近い、古い痕跡が残っているということでということですので、始まりの4万年前頃は、この地域が広い範囲で同様の人たちであったことが分かります。

いずれにしても日本へは、東アジア平野に至り東部沿岸から舟で海を越えることになります。海で舟を操って目的地に達するためには多くのknowhowを必要としますので、九州へは、沿岸ルートを北上してきた海辺の民であったろうと考えます。

日本へ渡来する1万年前の約5万年前頃に、現生人類は、画期的な進化を遂げたとみられています。それは神経系の進化による言語コミュニケーションの大きな進化と複雑な自然や自分たちの社会を把握理解し、それへの対応を組み立てる脳力だと言われています。

日本へ来る前のパンカル半島地域では、洞窟において岩絵が描かれており、豪へは舟か筏か、数十kmの海を越えて渡り住んでいます。また、貝塚などから水産物をよく食していたことが知られています。

これらのことから、日本祖人は、はっきり原人・旧人と異なり、現代人への一歩を踏み出した状況で舟で海を渡って日本列島にやってきたことに思いを致す必要があります。

今では数十mの海面上昇により遺跡の発見は困難ですが、石器のほかに木や竹を使った種々の道具などがあったものと考えます。

当時は海水面が低かったため、東アジア平野が日本列島に迫っており、地域は陸地で取り巻かれた東亜地中海(台湾 凌教授)と呼ばれる状況で同様のものでしたので、日本の始まりが、下図のAからか、Bからかは、それ程大きな問題ではないでしょう。

日本祖人は、色の浅黒いあるいは茶褐色で眼のクリッとした小柄でがっしり、体に入れ墨や彩色を施して舟を操り、水産物を多く食する採集狩猟の海辺・川辺の民で、まとまった地域間の交流のある暮らしぶりでしたでしょう。

 

瀬戸内海や東京湾などが陸地であった日本列島を、まずは九州から列島の海浜地域(瀬戸内盆地を含む)を北上し進出(水平拡散)していったでしょう。気温が今よりも2-3℃は低かったものの、遺跡の状況から、3万年前くらいには本州及び北海道東部にまで進出していたようです。

また、当然のことながら後からも同族が渡って来たことでしょうから、海辺から河川を内陸に上がって(垂直拡散)海辺とは違った山間丘陵の川辺の暮らしに適応していった人たちもいました。日本の始まり約1万年間の始原時代は、このようなものであったでしょう。

ところが、2万9千年前頃に南九州錦江湾で姶良大噴火が発生し、火山灰は東北にまで至り、寒冷化した(千年くらいともいわれる)と考えられ、九州は壊滅的な被害を、西日本も大きな被害を被り、日本祖人が列島に定着を果たした始原時代は終わったものと考えます。

明らかに人口急減の西日本と残った東日本という変わり果てた日本祖人の状況で、大噴火の影響がおさまるにつれて同族、一部新たな部族が東アジア平野から進入し、一方、東日本から西日本に移り住む人たちとで被害も回復し再興していく時代が約1万年、そして土器出現により命名されている縄文時代となっていきます。

日本は、いろいろな点で西日本と東日本に違いがありますが、太平洋側と日本海側の違いをも含めて最初のこの姶良大噴火の影響が契機なのではと考えています。

さて、再興時代の後半には、質的に新たな寒冷降雪環境への北方適応を遂げた人たちが、新たな生活文化を携えて北部東アジア平野のみならず樺太方向からもマンモスを追い多くの人が入ってきました。

正に、狩猟中心の内陸勢力の東進南下の進入です。

そして、東方ユーラシア先史の基軸となります、2万年前頃の本格的な内陸勢力の東進南下の渡来進入が、その後も気候などの環境要因により、あるいは戦乱を逃れるなどで断続的に古代まで繰り返されることになります。

但し、日本の場合は、進入勢力が大きくてそれまでの人々を排除して入れ替わってしまうということはいつの時代も無かったようです。弥生時代のように、渡来勢力が数は多くなくとも人口増加率が大きいなど、その影響力が大きかった時代もありますが。

ユーラシア東部のアジアでは、内陸でのこの北方適応を果たした勢力による東進南下の各地への進入が、歴史の大きな基本的特徴でしょう。

さて、この4万年にわたる長い時代を有する日本には、当時を全く想像すらできなかった明治のお抱え外国人学者が欧米史をもとに唱えた「先住民」という概念は適切でなく、強い者が他を攻撃する、抑圧する、差別するといった勢力争いや人権問題はありますが、いわゆる先住民問題は無いと考えます。

アイヌの人たちの語り伝えでも、先住していた人たちを北千島の方へ追い払ってしまったような話があります。4万年前頃の日本祖人の進入・定着からこの太平洋に面する行き止まりの島々にいろいろな人が入って来ました。

坩堝のようになって熟成されたこの国には、現在も人権問題はあるのだろうと思いますが、はっきり先に来て住んで居たと言える人たちの先住民問題と呼ぶべき状況ではないでしょう。

どちらが先かは容易にはわからず、先に来て住んでいた先住民の子孫勢力が、後から新たな方向から来た人たちを抑圧している場合もあると考えられますので、明らかに米・豪のケースや後からの漢族が先住少数民族を抑圧している中国の状況などとは異なります。

長い歴史を有する日本の場合は、あくまで先住民という表現を冠すべきでない人権改善問題であり、誤解を与えないように国連での取り扱いなどを是正する必要があると考えます。

(了)

沖縄南部の南城市カンガラーの谷のサキタリ洞窟遺跡で大きな発見があったとの沖縄博物館の報告が此のたびありました。

沖縄博物館によれば、2009年から発掘調査が進められており、2万3千~2万年前の人骨や貝器、1万4千年前の石英製石器と人骨、9千年前の土器などがこれまで発見されてきています。

今回発表されたところによれば、2万3千年前頃の巻き貝製の釣り針2点が発見されましたが、世界最古になります。岩で研いだとみられる痕跡のあるもので人の技術が窺がわれるものです。

また、大量のモクズガニの爪や河川の巻貝、大ウナギ、青魚のイラブチャーなどが発見され、豊かな水産物食料の生活が窺がわれます。

出典www.tokyo-np.co.jp

モクズガニ、巻貝や焼けた鹿の化石は、約3万5千年以上前の物とみられ、少なくとも沖縄本島にまで人が進出し、1万4千年前頃の石器が発見されてることから2万年間くらいは継続して生活が営まれていたことが分かります。

琉球列島は、動物や石材に乏しいので長期間にわたって居住はしていなかったのではという仮説を覆しました。

そして、本サイトでは、東南アジア方向から北上した海の民の人たちが4万年前頃既に、東アジア平野に達し北部から北・北西九州に渡海して暮らし始め日本列島に広まり日本祖人になったと考えていましたが、案外早い時期に東アジア平野の南部から南西諸島ルートでトカラ列島をも越えて南九州に達していたかもしれません。

 

日本祖人は、水産物を主に食する海川辺の民の人たちと考えてきましたので、今回の発見で更にそれが裏付けられ驚きではありません。

そもそも東南アジアで発見されている当該時期の古い遺跡では、よく水産物を食していたこと、外洋魚をも食す操舟力、時期は新しいですが、貝製釣り針を有していたことが知られていました。

沖縄、東アジア平野の人々は、東南アジアに共通する海川辺の民の生活であったことが、今回のサキタリ遺跡における発見においても裏付けられたものと考えています。

旧石器人は狩猟の民というイメージは、欧州やもっと新しい時代の事でしょう。

このように、日本での発見を東南アジアでの発見に照らし合わせて考えると、出アフリカの現生人類の移動進出、生活ぶりが流れとして日本列島に至り、日本の始まりの日本祖人を形成していったことが理解できます。

そして、日本歴史界の石器・狩猟偏重の史観を、木・竹などの植物や動物の骨器を活用した海川辺の民の早い持期の定住的な暮らしのイメージに修正する必要があると考えています。

それが列島本土では、舟の活用と広域の人びとの交易へと結びついていくと考えますが、そもそも東南アジアを出た時から相当程度進んでいたのではと思います。

植物・骨などの南方での遺物の発見は容易でなく、全て日本列島に来てから獲得され作られたものとも思えませんので。

(了)

ヒトは複数の人の間で人間となる社会的な動物と言われています。

人類史をみますと、血の繫がった家族を核に小血縁集団(バンド)を形成し、その複数が共通の祖先を意識する氏族を、更にはその幾つかのまとまりで部族社会として統合され階層も生まれます。

そして、やがて地域としてのまとまりは、ムラやクニ、日本の藩や王国、整った近代的な官僚制を備えた国家社会が成立し、EUや国連もできています。

一部の人は余程、国家というものが気に召さないのでしょう、国家は国連のような地球社会と各地の地域社会に発展解消するべきと唱えています。

確かに世界地図を見ますと、明らかに不自然な直線で部族社会を分かち国境としていますので、争いの元ともなり大きな問題ですが、仮に引き直すとすればとてつもない争いの問題に発展するでしょう。

我々のこの北東アジア地域において、見通しうる将来に国家という組織形態、即ち国パスポートが無くなるとはとても思えません。難民問題の難しさを見るにつけ、国パスポートを無くす方向が良いのだとも一概には言えないでしょう。

いずれにしても、現在、そのパスポート、国籍を踏まえて人々の帰属集団が明らかになり、税を納める一方で生活保護を受けたり種々の利益・便宜を享受していることを想起する必要があります。

今回、政党のリーダーを決める国会議員の代表選挙を契機に二重国籍問題が浮かび上りました。

標題としていますリンカーンの言葉は、教室では人民の、人民による、人民のための政治と訳されていますが、憲法を踏まえれば、日本国民の、日本国民による、日本国民及び日本国のための政治と意訳すべきです。(人民が好きな人はお隣に行って下さい。)

今回、まずこの日本国民、「日本人」とはという問題で法的な論議があり、更に議員、政党のリーダーになる資格はという資質を問う問題に拡がっています。

このことは、かっての民主党政権時代に今回の代表選候補の前原さんでなく、蓮舫さんが外務大臣をしていたらと考えるだけで問題の意味合いは明らかでしょう。

(日テレNEWS24)

法務省は15日、民進党の蓮舫新代表のいわゆる“二重国籍”問題に関連して、一般論として日本国籍取得後も台湾籍を残していた場合、二重国籍状態が生じ、国籍法違反に当たる可能性があるとの見解を明らかにした。

つまり、立法に当たる人の違法性が問題になっている深刻な事態です。

また、法務省は、台湾出身の人に中国の法律を適用していないとして一部のマスコミの誤報をたしなめていますが、驚くべきメディアの偏向した体質です。

実は今回浮上した1件の別の大きな問題は、日本国籍を正当に有しない、百歩譲って疑惑状態だとしても、そういう人が大臣にさえなってしまうのだから、他にも沢山いることが考えられ資格の疑わしい人が投票所に行っているということです。

地域ごとの1票の格差が違憲状態として長く国会の問題になって対応を協議していますが、日本国民かどうかはっきりしていない多くの人が投票しているだろうという疑惑は、憲政の根幹を揺るがすものです。

服装の乱れは生活の乱れ、生活の乱れは人格の乱れになります。法の乱れは犯罪に対しマヒさせ国の乱れになりますから。

そしても一つの問題は、法の筋ということよりも党利党略という点です。

他党が、自分のところにも問題はあるから、あるいは傷を抱えた他党のリーダーの方がやり易いということで曖昧にするなら、政治不信につながる大きな問題です。被選挙人は、当然、選挙する多くの投票者よりも重要ですから。

権力である与野党の政治家同士は資格などを追及しない永田町体質、マスメディア同士は不祥事などをお互いに報じないということは既に問題として指摘されてますが、特に、公共の放送が野党に甘い、野党を露骨に支援するというサヨク問題があります。

それらが何故問題なのかは、国民に不信をもたらし国民が作り上げている社会を蝕み弱体化することです。外敵に壊されることもさることながら、内部が崩れていくのは深刻です。

多くの文明社会や帝国は、外敵に滅ぼされたと書かれていますが、実は内部が立ち枯れのように腐っていたというのは人類史に多く見られることです。

議員、法及びその解釈という民主制にとって重要なものの乱れは、そういう意味で屋台骨を揺るがすものであり、21世紀を迎えた今、政治とメディアの体質の近代化が求められていると考えます。

蓮舫さんは、第2の小池さんを気取る積りですが、資格を欠く点において決定的に異なり、日本政治のクリーン化による近代化に向かっている状況で、スネに傷があって政治ゴロと同様なため、彼らを排除して”ステーツマン(パースン)による政治”の実現に力を発揮できない、いやむしろ邪魔なのです。

ステーツマンがリードする、国民の、国民による、国民と日本のための政治を行う議場にスネキズ蓮舫さんの居場所は有りません。

(了)

 

 

今、民進党の代表選挙の候補者による議論が行われていますが、蓮舫議員の二重国籍問題に関して、歴シニアとして問題があると感じてます。Facebookで投稿していますので捕足しご紹介いたします。

1.問題のポイント

私は、まずお国でのやりとりが江戸時代に立て札とか高札と言われたお達しを巡って集まった人々が、ガヤガヤしているイメージが湧きましたのでそこから話を始めました。

私が理解するお達しは、基礎となる国籍について、選択をきちんとはっきりさせなさい、日本国籍を取得する人は1ケ月以内に別の国籍は解約して一つにしなさい。

そこから諸権利、義務が発生します。ちゃんとしないと、日本国籍をはく奪されますよ、二重国籍はこの国では重婚のように許されないんですよというものです。

歴シニアとして、生物史の動物に例えれば、陸に住むのか、水中に住むのかはっきりしなさい、両棲類の二股カエルは認めない、と疑義なく明確に趣意が立て札に書いてあるでしょ、と軽視、無視してる人たち、メディアに言いたいです。

日本種族は、自分たちでルールを決め、渡る世の中が物騒ですし紛れないよう柵をしっかり設置して皆で例えて言えば陸で暮らしていこうと決めているグループの者たちです。

従って、はっきり生き方のルールの違う水中の魚やイルカは勿論ですが、時に水中で時に陸でチョロチョロ動き回るカエルも仲間の中に入れず、日本国籍者とは認めません。

暮らしを守る柵の警備員、学校の先生、お役人から議会集会場のメンバー・オサまで皆が「日本国民」でお国を公に運営しています。

正しく日本国籍を持ってる国民の、国民による、国民のための政治という訳であり、しごく真っ当なものと考えています。

水中の魚やイルカはもとより、生き方を時に陸で時に水中とする両棲のカエルは日本国民ではなく、従って、政治参加資格は無いです。選ばれる権利どころか生き方の在り方を左右する1票を投ずる資格すら無い訳です。

そして、日本に存在する日本国籍者でない人たちは、旅人としての節度を守る限り、お・も・て・な・し、します。

最近、外国から来て違法な政治活動をしかも時に暴力的に繰り広げている輩がいます。日本の優しさ寛容さも堪忍袋の緒が切れることを知らしめる必要もあります。

この国籍に対する考えがいい加減で、投票資格のない人、はっきりしない人が投票所へ行っているのは、1票の格差どころじゃない憲法違反状態です。ということで、つい啖呵を切りました。

立て札の意味が分からない? アホか、カエレ。赤字ではっきり書いて? 小学生か。あの立て札は田舎者のルールで酸っぱいわ? 脳が固まって不自由なアンタに分かった風に言われたくないわ。オジさん、どうだっていいじゃんサア? 分かった、パスポートを直ぐ返せ。もう海外ロケには行かせない。今、片方の除籍”離婚届”出してきたからいいでしょ? ばか、バレたら出すんじゃお巡りさんは要らないってなる。片方除籍に努めるってだけでしょ? そんな精神なら税をいただく公職に就くな。結局、私を差別してるんだ? またか、差別と区別を勉強してから言え。・・・

そもそも普段、金切り声で叫ぶ憲法変えるなグループの人たちは、以下の条文をきちんと読んでるのだろうか。

第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。第四十四条  両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。第五十五条 両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。

裁判所でない議院が裁判するという重みを何と心得ているのでしょうか。

法の趣旨を踏まえれば、日本国民の要件を備えた人たちでお国が運営され、資格を備えた人たちのために執行されますので、全ての議員、知事・市区町村長には、二重国籍者はいませんね。自衛隊・海保は大丈夫ですね。裁判官、外務省員、法務・警察・治安職員、先生いや全体の奉仕者たる全ての公務員は大丈夫ですね。公共の放送者も、生活保護を受けている人もはっきり日本人ですね?となります。

地方公務員には、帰化した自分と境遇が近しい人に生活保護を積極的に支給しているとの話もあり、ともかく全体の奉仕者の人選は適正にすべきです。

勿論、日本に存在する全ての人は、国籍の有無に関わりなく法とおもてなしの精神に沿って差別なく遇されるべきです。

さて、特に最重要の政治に携わる人については、メディアは、歴史認識などの質問をする前に、尖閣諸島、竹島、北方4島の帰属国及び有事の国外出国・亡命(いわば困難からの逃げ出し)について、この際、国に尽くす思いを明らかにすべく、全議員に質問して回答を公開するよう求めました。

尖閣諸島は、争いの余地ない固有の領土だと考えていない議員もいるようですので。

さて、国籍問題は、分かり易くはパスポートです。他所の人とグループを分かつ理解しやすいのはこれです。何しろ、外務大臣が、グループ員に対する必要な保護扶助を他国に公式に要請しています。

この意義をも一度よく考えてほしいです。

2.蓮舫候補について

まず、台湾がどうのこうのではありません。日本人が誇るべき長い歴史の中で大切にしてきたことを、真に共有してますかということです。

レンホウさん、誤解のないように、私は台湾に行ったこともありますし人々も大好きです。youtubeで「仰げば尊し」の台湾版を聴いた時は、言葉は分かりませんが感動で涙腺が緩みました。

今、言動される場から皇居が見えますよね。そういう特色ある国柄で、今後、大事な政治のリーダーがレンホウだ、シューだ、パクだという名前が許されるのは堪えられないという一般の感情が分からなかったら、「私は日本人」というのは止めてください。日出づる処の老人、書を日没する処の若きレンホウに致す。

大切なお札に描かれている聖徳太子のお言葉はそのひとつでしょう。

いずれにしても、言わば”重婚”であったのかないのかよく分からない・気にしてチェックしていない、言ってる事実関係が2転3転する、今から片方には除籍の”離婚届”を出すから(何事もなかったように)いいでしょ、などはとても立法政治のリーダー足り得ません。

事は詐称で投票に行き立候補までしている、酔っ払い無免許運転で公道を走り回っているような、しかも重大な憲法違反問題と考えますから一声挙げます。

レンホウさん、本当の問題は。
苦しい状況だからと父祖の地の国籍を弊履の如く簡単に捨てに走ったのはダメです。そういう人は、何かで日本が占領され苦境に陥った時、「私は日本人じゃない」と言って助かろうとしてしまう人です。彼の地の人たちが、「もめ事は起こさないで」の国際圧力の中、静かに前進を続けていることに対し、実は世界の人は、上手くやってと内心は応援しています。江戸時代、「治安を乱すな」の大方針の元でも浪士たちが静かに前進を続け、幕府も止められず、苦境に堪えて上手く本懐を遂げた講談の忠臣蔵話は、日本人の大いに好むところです。市井に戻られ、ひたすら台湾のため、日本のため、台湾と日本の関係深化のためにあなたが努められれば、皆さんは応援こそすれ、もう誰もあなたの国籍状態なぞ気にもしません。そういう生き方が出来るなら、それは子供さんたちがあなたを深く尊敬することになる本道でしょう。

 (了)

前回まで日本の始まりに係る下図のパンカル半島地域の状況と日本の状況を見てきました。

日本の遺跡状況をみますと、4~3万年前頃の現生人類の進出展開の状況は、明らかに南古北新です。樺太~北海道ルートでの進入は、ずっと後の2万年前頃とみられています。

そして、南西部日本に至るルートとしては、沿岸ルートと内陸ルートがありますが、当時の海水面が数十m低く海浜低地部が広大な東アジア平野となっていましたので、いずれのルートであってもこの平野沿岸から海を越えて九州に渡ってきたことになります。

次に、日本へは沖縄方面から南九州へと、東アジア平野の北部から北部九州へという2通りのルートがありますが、当時のこの平野の沿岸北部と南部の人たちの暮らしぶりを考えれば、沿岸地域内は北部(黄海地域)も南部(台湾地域)も似たような海浜に馴染んだ人々の似たような暮らしぶりでしたでしょう。

従って、最初に日本の最西端の与那国島に渡来したのか、北部九州に渡来したのかという問いはあり得ますが、知ることは難しく、また、東アジア平野の似たような人たちが渡来してますので、2方向のいずれが先かを論ずることはそれほど意味はないでしょう。

南の沖縄~南九州ルートの方が、長距離の島々を伝っていく必要があること、途中のトカラ列島地域での暮らしが容易ではなかったのではということ、そして、九州・沖縄における現在確認されている遺跡の状況などから最初に九州に入ってきたのは北部からであろうと考えられます。

そして、後続の人たちを含めて太平洋側と日本海側を北上展開していき、3万年前頃には北海道に達し(3.2万年前頃には台湾方向から沖縄へ)ほぼ日本列島に進出展開しました。この始まりの列島に暮らした人たちを日本祖人と仮称しています。(現在の学界では、名前を付されて認識されていませんが。)

日本祖人は、2.9万年前頃の姶良大噴火で九州・西日本地域の人たちが大打撃を受け、2万年前頃には、樺太~北海道へ、九州へも北から狩猟民族が入ってきて混在し、1.65万年前頃の青森で見つかった土器をもってその時期以降は縄文人と呼ばれることになります。

4~2万年頃まで日本に定着した日本祖人は、当時の遺跡からみるに沿岸・河川沿いに発展していった、基本的には”海辺の民”としての暮らしぶりであり、東アジア平野に至るまでの子孫変化と地域特性の差異はあるものの、下図のパンカル地域の遺跡に見られる暮らしぶりと共通性があったものと考えて良いでしょう。

始まりの日本人は直系祖先ですので当然、注目されますが、同様に近年、新大陸アメリカの始まりの時代の人々に関心が高まっています。(約250年、欧州などから来たアメリカ人も自分の土地の始まりに関心が向いた真のアメリカ人になったようです。)

さて通説は、下図のBのとおり、2万年前頃、シベリアからベーリング地峡を経て北米に入りクローヴィス文化を生み、南下して南米に至り拡がったという認識でした。

ところが近年、南米チリのモンテ・ヴェルデ遺跡では、クローヴィスと同様に古くかつ全く違った系統の石器が発見され、また、アマゾン流域の古い部族のDNAは、北米Native(インディアン)やシベリア系統とは全く異なり、パンカル地域の古い民族に(アフリカ系とも)近いものであるという驚きの発見が出てきました。

従って、南米進入はA,C,D,E,ルートが一応考えられますが、C,D,Eルートはその時代のこれまでの考古学上の認識からはとても考えられず、Aルートが注目されるところとなっています。

ここで重要なことは、アマゾン古部族とシベリア型が似ておらず原南方型のパンカル地域の古い人たちが近かったとすれば、Aルートということは日本列島を経由していることとなり、その事は日本祖人が新大陸アメリカに渡ったことを意味する人類史上の注目すべき大きなこと!になります。

それではその当時の日本はどんな状況だったのかということになりますが、先に述べました通り、那覇山下遺跡を含め北海道の十勝青葉の森遺跡まで十分列島沿岸地域に拡がっており、経由地として納得しうるものです。

 

海水面は数十m当時より上昇しているため、遺跡・遺物は今は海中で発見が極めて困難なことと、3.2万年前頃には、伊豆半島から当時の貴重な石材である黒曜石を取るために舟で神津島に渡っている事が確認されています。

そして、関東から静岡の広域で黒曜石の交易が行われていた日本祖人の社会文化性も経由地として注目されます。

残念ながら、この時代の日本祖人の人骨を列島の土壌で発見することも極めて困難ですし、万年の時は鉄をも融かし残しませんが。

下図は、そもそも現生人類の始まり時代がどのようであったのかをグリーンランドの厚い氷床を最高峰から3千mの深さまでボーリングし、氷に残された結果を分析して気温の面から考察したものです。

太い黒線枠内は、25万年前(下部)から1万年前(上部)の間の気温変化を示したもので、今に比べると2.5℃の幅で温暖湿潤と寒冷乾燥の変化の大きい時代であったことが分かります。(左枠内は1万年前から現在で、変化は小さく安定的です。)

既に火と石器を使いユーラシア大陸にジャワや北京などの原人の時代を経て、20万年前頃、現生人類がアフリカで誕生し定着しました。そして、出アフリカを果たしアジアに拡がりました。

5万年前頃には言葉・コミュニケーションの格段の発達があったと言われており、5~4万年前頃には数十kmを舟(筏?)で豪にまで渡っています。

そして、4万年頃には舟で外洋に出て漁撈し、洞窟で手型や動物絵を描画し亡くなった人を埋葬するというというような精神性がみられる事も注目されます。

暖かい良い環境で活発に活動し人口を増加させたことが進歩発展を促したのか、寒い乾燥の厳しい環境が生き残り適応の進化を促したのか興味深い点です。

基礎能力は既に現代人とあまり違わず、赤子を今、東京に存在させることができれば中学校は卒業できるでしょうし、海での行動や動植物、環境に関する知見と対応行動力は都会の現代人より遥かに進んでいたことだろうと思います。

さて、そのような日本祖人(主体はα、原南方型)は、アメリカ新大陸に行けたのでしょうか?いろいろ検討していきます。

(了)

現生人類が20万年前頃アフリカで誕生し、出北東アフリカにより紅海~アラビア半島南端~ホルムズ地域からユーラシアに達しました(10万年前頃?)。

その後、下図のように寒冷乾燥化の氷河期であったため海水面が数十m低下して陸地が拡がった沿岸地域をゆっくり(7.4万年前頃のスマトラ島トバの大噴火で人口激減、回復しつつ)生活の場と人口を拡大しながら進み、4万年前頃、日本の九州に達したとみられています。

当時拡がっていた東アジア平野までは沿岸ルートと内陸ルートがあります。アフリカ出身の人たちの気候への適応、移動及び食料安定獲得の容易性、安全性などから沿岸ルートの可能性が高いとみられています。

東アジア平野から日本へは、海浜地域での生活に慣れ操舟力と海に関する知見に優れた部族が舟で海を渡って来ました。平野北部から北部九州への渡海ルートと平野南部から南西諸島を北上して南九州に達したルートが考えられます。

当時の東アジア平野沿岸部の暮らしを考えますと、北部と南部で暮らしぶりに大きな差があったとは考えられませんので、九州のいずれの地域であっても渡来してその後北上して行った始まりの人々(日本祖人)は一様性あるものでしたでしょう。

沿岸ルートでは、パンカル半島Sundalandが、その広さ、長い海岸線と多い河川、今より気温が3-5℃くらい低い過ごし易さと豊かな動植物食料などから多くの人々の文化が育まれたでしょうし、更に豪にまで進出していったことからも注目されます。

そこの遺跡・遺物については、前回お伝えしたとおりです。

広大な地域を生活の場としており、いわゆる石器人の狩猟採集の暮らしというよりは水産物の比重が高く、外洋魚も含まれてますので操舟力はもとより網・釣り針を使うに至っていたとも考えられ、また、洞窟絵や素朴な土偶作りなどから精神的な成熟も見られます。

人類は既に言語によるコミュニケーション力が高まっていましたし、竹・木及び石器等による道具の製作などが行われ、Sundalandから豪Sahur Landにまで渡っていますが、下図の点線のように動植物様相を異にする地域に適応しつつ、時に数十kmを舟で渡っています。

これらの状況を見ますと、かなり進んだ海の民が海浜地域を北上して東アジア平野に達していたことが窺がわれます。

なお、その後、3万数千年を経た三国志・日巫子の時代にあっても当時やって来た海の民の子孫が、内陸系の魏呉蜀の激しい争いの外側で、狭められた半島や沿岸地域、島々で暮らしを続けていた様子が窺がえます。

他方、4万年前頃に九州に渡来した日本祖人が、下図のとおり伊豆の南海上の神津島に黒曜石を取りに舟で渡っていて研究者を驚かせていますが、パンカル地域の遺跡や豪への進出などを考えますと無理なく理解できます。

(神津島への渡海)

そしてこの黒曜石が、関東及び伊豆地方など広域で交易されていたことから、日本祖人の進んだ社会性も窺がえるものとなっています。

それでは、九州に渡来してからはどうかと見ますと、太平洋岸地域と日本海側に残った旧石器時代の当該時期の遺跡の状況は下図のとおりです。

誠に残念ながら、姶良大噴火の影響から見え難いところがありますが、両正面とも同じような速度で沿岸を北に進出して行っている状況が分かります。

そして、太平洋岸沿いは北海道にまで達し、また、関東から日本海側などや中国山地など、沿岸のみならず高地川傍にまで広域に進出している適応・活動力が窺がえます。

このように、東南アジアのパンカル地域から日本列島の北海道にまで沿岸地域を、また、川傍の内陸高地にまで着実に現生人類が進出している状況が分かります。

そして、この長い進出展開に特に黒潮が大きな影響を及ぼしていることと思われます。無ければあるいは逆流であれば歩みの速度が変わり、内陸の人々の流入による混合なども違ったものとなったでしょうし、その後の国柄にも影響したかもしれません。

そして、この後にいろいろな人たちが西、南、北から入ってきて中で混じり合い日本人が形成されますが、ある時期に大量の人たちが短期に入って来て日本人の組成に大影響を与えたという部族の痕跡はないそうで、長い間の部族ごとの違いがあるサラダボールのやがて坩堝ということでしょう。

さて、こういう状況から我が国に先住民族と言える人びとはいたでしょうか? 後に樺太の方から南下してきた人たちの子孫であれば先住ではないですし、北上していった人たちの中のグループの一つであれば、そういう中の争いであって先住民族問題ではないでしょう。

長~い歴史ある島国とはそういう性格のものでしょう。

ところで、

当時からは海水面が数十m上昇しているため、海浜の遺跡・遺物は海中ですし、万年の時は鉄をも融かすと言われていますので生活痕跡を知り得る多くの物の発見は困難です。

しかし、見つかっている遺物などから、旧石器人に分類される日本祖人は、これまで考えられていたよりも進んでいたであろうことが窺がわれ、特に、東南アジアのパンカル地域、北上途上の他の地域と関連付け乍ら研究する重要性に思い至ります。

更に、東南アジアのパンカル地域が日本祖人の、いや、我々の遠~い父祖の地であることを感じます。

(了)

 

 

Facebook; Nara Akira

日本史の授業は具体的には縄文時代(1.6万年前~)からであり、日本の始まりの4万年前頃は、学校で教わった記憶はなくどうも教科書に様子が書かれることもないようですが、とても重要なことと考えています。

科学信仰のある種の誤解から、神話や国の開闢の様相は歴史・考古学的な裏付けがないとして扱われませんが、民族の記憶としてあるいは始まりの原点として見つめる努力は必要です。例えばギリシャ神話は、荒唐無稽な事であっても教えられており今の人にも大きな影響を与えていますね。

さて、日本の始まり頃の様子ですが、当時は氷河期であり最も寒かった最終氷期最寒冷LGM期(2万年前頃)よりは少し暖かかったですが、今より2-4度C寒かったでしょう。

寒暖が不安定で、気温もさることながら海水面が数十m今より低下し上下していましたので、列島の地形も様相が大分違っていましたし、針葉樹と草原がかなり拡がっていたことでしょう。

そして、東南アジアから北上した黒潮が列島を挟むように流れていたのが大きな特徴です。海や川は今の乱獲もなく極めて豊富な魚介類がいたことでしょう。例えば北海道ではかなり前になりますが、にしん御殿と呼ばれる家屋敷が沢山建つほどニシンが獲れていました。

当時は、朝鮮半島も台湾もなく広大な東アジア平野と緑豊かな朝鮮山地、台湾高地でした。いずれにしても日本の始まりは、西の東アジア平野から一家が、一族が舟で九州に渡来しました。

黒潮の太平洋沿岸はもとより、近代に至っても北前船が活躍していますことから、まずは列島沿岸沿いを北上して拡がって行ったとみられます。

南西諸島方向からも舟で渡り九州にまで来たのかは関心のあるところです。

当時の東アジア平野は、北と南で人びとの暮らしぶりががそれほど違っていたとも思われず、また、海に馴染み海を越えて舟で家族として九州にやって来た人たちですので、渡海の時期が同じ頃であれば日本祖人としてのその特徴に差はあまりなかったことでしょう。

問題は、渡って来る前の東アジア平野沿岸にどういう人たちが居たかです。

東南アジア沿岸から北上したか、中国内陸から東進して来たかですが、出アフリカ後の移動の容易、食料の獲得、猛獣・毒蛇などに対する生活の安全、アフリカに近い気候などから、南方からの海岸の北上沿いルートと思われています。

出アフリカで紅海を越えた人類の豪にまで至る進出の早さ、舟・筏で数十kmを渡っていることなどからもそう考えられます。大きな海面上昇で遺物などは今や水中ですが。

板子1枚下は地獄と言われる渡海は、長い間積み重ねられた豊富な経験と知見knowhowがものをいう世界ですので、寒い内陸での狩猟生活を続けてきた人が海辺に来て渡海できるというものでは有りません。(蒙古来襲の失敗、難しい遣唐使船の渡海成功)

現代の軍においても海・海浜で移動・活動するとなればやはり海軍・海兵隊であり、”塩っ気”のない陸軍兵には厳しいことです。海を越えて陸に上がってもかなりの間は地面が揺れていますので。

さてそうなりますと、出発の東南アジア沿岸での現生人類の状況はどうであったかですが、暑さで人骨が残らず万年の時は鉄をも融かす難しさと言われる地での遺跡・遺物を発見する訳ですが、その後人々があまり使わなかった洞窟などに結構残っています。

下図の通り、広範囲で多くの人たちが海の民を感じさせる暮らしていたことが分かります。

舟で外洋に出て漁をしていて海産物をよく食し、磨かれた石器を使用し、埋葬はもとより既に洞窟絵や素朴な作りですが土製の飾りなどの精神性も見られます。彼らと子孫が北上して日本に着く頃は更にいろいろなことを身に付けていたことでしょう。

因みにオーストラリアへの旧石器時代の現生人類の進出は、数十kmの海を越えて4万年前頃から5万年前と言われています。上図のフィリピン南部タボン遺跡群で4.7万年前頃の人骨が発見されていますので、それらの事から北上して日本列島へは、4-3.8万年前頃に初めて渡来したものと考えられています。

さて、やって来た日本祖人はどんな様子でしょう? おそらく肌の色はまだ黒褐色、貝などの飾りも付けかなり入れ墨をした目のくりっとした小柄な人たちで、会話コミュニケーション、基本脳力はかなり現代に近く、動植物・自然に対する理解と対応力は優れていたでしょう。

上図で紹介した人たちの子孫である彼らは、舟を操り木竹道具と石器を上手に操り、海浜・河口・川の魚介類・小動物・植物を主に食し、女性・老人・子供たちは既に浜辺や川傍の素朴な苫屋での定住的な暮らしぶりであり、今で言う自然共生の生活であっただろうと私は考えています。

勇を鼓して渡海した日本列島は、緑豊かで手つかずの動植物食物がある良い所でしたので、家族が増え更に渡来してくる人もおり北へと拡がって行ったことでしょう。

火山噴火、地震、津波、そして台風が難点でしたが。

あるべき遺跡・遺物の多くは水中ですが、この程度のことは学校で子供たちに教えて良いと思います。更なる暮らしぶりについては、今も世界に残る中から子供たちが適当と思うものを選んでイメージを膨らませたら良いでしょう。

結論は、自然を大切に共生適応することの意義の見直しであり、災害対応を忘れず、そしてポケモン遊びはそこそこに野外に親しむことの重要さでしょう。

(了)

 

 

 

 

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パンカル地域と日本の関わりにつきまして、巡り来る暑い夏ですので現代史に飛びましてスカルノ碑を紹介します。

今回、インドネシアの若いジャーナリストWenri Wanhar(ジャカルタのスカルノ大卒、雑誌「歴史」記者)が、碑に光を当てインドネシアの独立における日本人の活躍と寄与を掘り起こし出版しました。標題は、日本の情報活動の軌跡というものです。

本の話の中心は、大東亜戦争でインドネシアに進駐した日本軍の海軍武官府の活動であり、インドネシア独立宣言に至る関連と独立闘争の物心両面の支援です。

彼は、スカルノ碑から話をはじめていますが、それは東京の真ん中、江戸市中を見下ろせる、曲垣平九郎が見事馬で石段を駆け上がって全国にその名を轟かせたという逸話があり、愛宕神社、NHK記念館のある愛宕山の上り口で青松寺に接する植垣の中にひっそりとあります。

(以下、写真はJejak Intel Jepang、wikipediaから)

 

碑は、諸般の事情からスカルノ(これで姓名)とだけ書かれ肩書がありません。碑文の拙訳は、市来龍夫君と吉住留五郎君へ(あなた方が寄与したインドネシアの)独立は一(インドネシア)民族の(ための)ものならず、全人類のものなり(なんですよ!)1958年2月15日東京にてスカルノ というものです。

肩書の無いことが、かえって人間から人間に贈られた心の碑文と感じます。人類20万年史の十大ニュースに入る戦後のアジア・アフリカの植民地解放・独立。長く困難な独立達成における日本人・軍の物心両面の寄与を身に染みて知り、バンドンでのAA会議を主導したスカルノ大統領ならではの表白碑文です。

スカルノ大統領によって手書きされた碑文は、国章の入ったインドネシア大統領の用箋に書かれ、碑の樹立に奔走した西嶋重忠氏に渡されたもので、同じく手書きの独立宣言と違って全く修正のないものです。

なお、碑文の裏面には、インドネシア勤務歴ある作家の富沢有為男氏(冨澤元陸幕長の父)が両名の在イ歴等について記しています。

市来、吉住両名とも海外雄飛で戦前にインドネシアに渡航して職に就き言葉を身に付け、共に商業新聞で勤務して日本の国策、現地の民族主義運動等を理解し、嘱託として日本軍に関わっていきました。

市来龍夫は、熊本人吉出身、日本進駐後に創設された郷土防衛軍PETAで歩兵操典を翻訳しつつ訓練生を指導し、戦後はアブドゥル・ラフマン名で闘争の現場に身を投じて敵の銃弾により戦死した英雄戦士です。

他方、吉住留五郎は、山形鶴岡出身、海軍武官府嘱託でジャカルタ本部員として活躍したことから本でかなりの頁が割かれています。

渡航間にスパイ容疑で蘭軍に逮捕され拷問を受けた豪刑務所での収監病歴、闘争闘士への車両通信機等の物的な支援、憲兵隊に目を付けられているスカルノ等の闘士たちを守りながら草案の起草及び宣言の実施へと進めた支援、進駐する連合軍に渡すべき日本軍の武器等を基地隊長と闘争勢力の間に立って引き渡しのお膳立ての交渉に尽力するなど裏面史での活躍がよく描かれています。

その後、アリフ名でインドネシア独立軍に参加、東部ジャワの山中で病死しました。

 

吉住留五郎                     市来龍夫

戦後のインドネシアの独立闘争には、約千名にのぼる日本軍人等が身を賭して関わったと言われていますので、碑に記された両名はその代表と言ってよいでしょう。

戦後のアジア・アフリカの植民地からの解放と独立は、人類史に特筆される出来事ですが、中でもアジア・アフリカ会議を主導したインドネシアの血を流した困難な独立闘争と達成は際立っており、それに対する日本人の寄与は高く評価されてよいものです。

本件、欧米には愉快な事でなく現下の日本には重要な協調相手ですし、インドネシアにとっては自らの活躍による達成であることから、注目されない事情は理解できますが、静かに小さくとも日本人は語り伝えるべき事です。

碑は、愛宕山のNHK記念館の足元にある日本、アジア、世界史の正に第1級の歴史資料で灯台下暗しです。スペシャルやクローズアップ現代してほしいですし、池上 彰の子供解説もしてもらいたいものです。

他方、インドネシアの独立は、終戦2年前に日本軍によって創設され教育訓練された郷土防衛軍PETAの要員の活躍が中核でした。歩兵操典・軍人勅諭をもとに日本軍人教官に育てられた幹部が終戦時には3万数千人の勢力にまで発展させていました。

PETAと地域の若者、インドネシア名に変えて戦いに身を投じたいわゆる残留日本軍人たちが、戻って来て再び植民地を復活させようとした蘭正規軍に対し立ち上がって闘争しました。独立宣言後、4年5ヶ月にわたる戦争で80万人と言われる犠牲によって困難な独立が達成されました。

 

この独立からスカルノ大統領は、その後のアジア・アフリカ会議(1955年)を主導し、バンドン精神・平和十原則が高らかに謳い上げられました。尤も、現在の南・東シナ海での緊張のように、まさか平和宣言した仲間が大きな問題になるなど当時は全く想像もできなかった時の流れですが。

スカルノ碑は、ジュウグンイアンフ、ロウムシャをテーマとする日本の教授が採り上げることも教科書に載ることもなく、不都合な真実であるかのように佇んでいます。戦後、いまだ終わらずです。

 (了)

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ジャワのマジャパヒト王国は、13世紀末から約200年間、パンカル地域に広大な支配を及ぼし(下写真図が最大)、遠く琉球王国とも交流があったことで知られています。

当時のレプリカの木造帆船(20m)が建造され、今回、ジャカルタを出発して79日をかけて下写真図のような北上の親善航海を果たして東京湾の船橋港に到着しています。

日本の始まりを考えますと、日本祖人は4万年前頃、数十mは海水面が低下して拡がっていた海浜をパンカル地域、ベトナムから東アジア平野北部を経て舟で、狭まっていた対馬海峡を渡り北九州に入ったものと思います。

他方、東アジア平野南部(台湾地区)正面から舟で島伝いに沖縄(3.2万年前の人骨遺跡)まで、あるいはパンカル地域からフィリピン(北部に6.7万年前の人骨遺跡)までは同様に進出しており、もしかするとそこから舟でこの正面に渡って、日本祖人は南西諸島を北上し南九州に達していたかも知れません(トカラ列島越えは厳しく図も点線!?)。

私がそのように考えるのは、紅海を越え出アフリカを果たした現生人類の小部族が、下図のように海面下降によって拡がった海浜沿いに進出展開していくことが安全な移動や食料の獲得など種々の点で容易であると考えるからです。

数十万年前頃、ジャワ原人や北京原人が居たアジアにおいては、日本でも12万年前くらいの石器が発見され、インドネシアのフローレス島では小人ホモエレクトス原人が発見されていますので、アジアにおいても原人は広範囲にいた筈です。

では何故、欧州がネアンデルタール人との共存軋轢による進出展開の遅れがあったのに、アジアでは無かったように見えるのか?私は、海浜河川沿いに発展した言わば海・水辺の民であったため、内陸の原人と軋轢無くまずは進出展開できたことによるのではと考えています。

更には、そもそも出アフリカを果たした小部族は、海浜・水産物食に適応した人たちであったのではと考えています。さすれば早い豪までの進出展開も理解できます。

さて、アジアの楽園Sundaland地域では、最終氷期の最寒期(2万年前頃)でさえも温暖な気候、広大な海浜・陸地の動植物の食料など恵まれた条件下にありましたので、人口も増大し多くの人の集まりの中から文化も育まれたものと考えます。

そして、2万年前頃にはベーリング地峡を越えて北米大陸へ入って行ったものと考えられていましたが、もっと早い時期に入っていたのではという説が出てきました。

昨年、Harvard医科大が、アマゾン3部族のDNAを調べたところ、北米やユーラシアには同種のものを見いだせず、アボリジニ、アンダマン、パプアなどの出アフリカ後の早い時期の人々が近いという驚きの調査結果を発表しました。

このことの意味合いは、内陸での寒冷降雪地に適応を果たしDNA変化をさせた人々でないことを示しています。従って、ベーリング地峡から入ったインディアンの人たちでないということでDNAが合わないこともよく理解できます。

別に、アボリジニと南インドの人たちのDNAが近いということから本サイトでは、そこも含め下図点線部をパンカル人・地域と認識することとしました。

 

問題は、上図のAからBに直路渡ったとは考えられないことです。現在の考古学の成果では太平洋に人類が乗り出したのはせいぜい3,500年前くらいでゼロが一つ違うのです。

すると、黒潮ルート沿いに日本を経由してDNA変化を起こすことなく北米大陸に達し、南下してアマゾンに至ったと考えざるを得ません(RLPPルート自説)。

他方、

日本における石器の調査から2.5~2万年前頃、 沿海州から樺太を経て北海道に多くの人々が入ってきています。

シベリア南部・沿海州との石器の共通性などから既に寒冷降雪地に適応したDNA変化を果たした人たちと見られますので、前述のパンカル子孫が日本を経由して北米へ渡って入って行ったのはそれ以前だろうと私は考えます。

下図のように、4万年前頃、日本列島に入って来て北海道にまで進出展開していった日本祖人は、樺太からの南下以前に北海道に達していることが石器調査から明らかですので、前述の内容と矛盾なく理解できます。

更に近年の研究により、パンカル人と日本人のDNAの近さも認められますので、パンカル地域からの北上、日本経由の北米渡米が一通り矛盾なく理解できます。

おそらく日本祖人は、小柄で肌の色もかなり黒茶色であったでしょう。これが今も南西諸島に多く見られる人たちの特徴に近いものでもあります。

洞窟絵を描き、欧州では小屋を造り、言語コミュニケーション能力は基本的に現代人と近いレベルのパンカル人の子孫は、3.2万年前頃には那覇市に存在し、伊豆の神津島に黒曜石を獲りに舟を操って渡洋し、関東の各地で交易しています。

今回のマジャパヒト号の親善訪問は、14世紀の頃のことだけでなく、実は基本的なところで4万年前頃の日本の始まり時代をも推測させるものであると考えています。

そして、これまで全く歯牙にもかけられなかった日本からの北太平洋ルートの北米渡洋と南米への南下も、Harvard医科大の調査成果から荒唐無稽なことではなく、研究に値するものであると思わせる状況になってきていると考えます。

(了)

 

 

 

 

 

 

番外―Cool Japan へ一歩前進

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ゴキほいほい

中の”待つぞえ”の所へぞろぞろと入って行く。

唯一、彼のした良い事がこれ。先頭は、よせばいいのに恥かくために最後に顔出した口舌だけの噂の男、お次は、それは曲が違うだろうといういつもの歌で呆れられている他を非難するだけの男・女のブーメラン4人組、アブない学生もどきの連中、暗い隅のドンだのゴロ、一部の歪みマスゴミ、・・・やったね~~の一掃ポイ。

少しは子供たちに見せられるものになっていくなら仕方ない出費のゴキほい設置料。ちゃんとした批判勢力がいない地方にもしっかり置いて積年のゴキを除去し、次の永田町向けは〇側をぐっと大きくして、あ、それと退場すべき年寄が杖なしでも入れるのにしなくちゃ。

政治は、最も大切にされ尊敬をもって見られるものであるべきでしょう。党利党略は論外、無知利己の輩や食い扶持にしてる政治屋は排除されねばなりません。

これを疎かにしているといずれ大きな災禍に襲われることは戦前に、いや数年前に体験済みです。

(了)

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