4万年前からの日本祖人は、その後の百mにも及ぶ海水面の上昇により、当時は主だった沿岸の生活痕跡は消えています。

従って、曙海のほとりから北部九州に渡って来た海の民であったことは想像されますが、その痕跡の発見は困難です。

いわゆる旧石器時代の特に4~3万年前の遺物、遺跡によって、その足跡は窺えますが。

今回、ティモールの北側、インドネシアのアロール島で12,000年前とされる埋葬された成人女性のアゴの傍に、世界でも珍しい事ですが、副葬されたツメタガイ系の釣り針が発見されました。

調査に当たった豪国立大の研究者は、男性が主体の釣りの時代に彼女自身が高名な釣り人であったのでは、しかもその釣り針の形状から深海魚の釣り手だったと考えています。

この地域では、ティモールで2万数千年前の舟で釣った外洋魚の骨も見つかっていますし、更には数十㎞の海を家族で越えて6.5万年前頃には、豪州に渡っていると考えられています。

こういう人たちが北上して赤道地域とは違う気候への適応に長期間を要しながら、日本列島の北部九州へ数十kmの海を越えて家族で渡って来た訳です。

外洋の荒海数十kmを家族で行くための舟造りや操舟という海の民のknow-howは大変なものです。

内陸狩猟族の人たちが海辺に来て、とても一朝一夕で出来るものではないと思うのです。

そして、この海の民の人たちの様々な暮らしぶりは、絶えることなく日本列島史に様相が刻まれています。

その海辺・川辺の生活は、弥生時代の米作りの渡来を大きな契機に、徐々にコメやられてしまいましたが。

しかし、アメリカへ初めて渡って行った人達であろうことは特筆されて良いと、環太平洋移動・移住MPOR説者として、強調したいのです。

(了)

アイヌ国会決議は、訂正を!

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4万年前に及ぶ長い歴史を有するこの国で、史実に何ら裏付けのない重要な国会決議は、何故なされたのか?

日本列島史は、4万年前頃から始まり、3万年前頃には北海道、沖縄にまで拡がっていました。

今この日本で、自分の家系は4万年前に遡れるなどというバカなことを言える人はいません。

アメリカや豪州などと違って、先住民などと言う語が登場しうる余地のない長い歴史なのです。

実は、文字を持たなかったアイヌの伝承は、侮れない正確さを有しており、その中で小柄な(先住民)コロボックルを千島の方へ追いやったという内容さえあるのです。

色々な事のあった4万年の歴史です。史実に裏付けのないイデオロギーに影響された見方が生ずるとすれば問題です。

戦前は、牢獄に入れられようとも、権威ある教授に逆らっても、学問のために異論を唱えた学者は居ました。

しかし、このいかがわしい国会決議に異論を唱えた学者は一人もいなかった、そこに戦後の深い闇があり、学問に及ぶ歪みがあります。

先住民族などという、正しくない決議は、訂正されねばなりません。

(了)

学校教育で新たに「歴史総合」として、充実が図られるようです。

ところで、重要な我が日本列島史については、人骨などの確証が得にくい、当時の重要な遺跡は100mに及ぶ海面上昇により今は海中にあって発見が困難、また、旧石器ねつ造事件が尾を引いているのか、論じられていないのが現状です。

そもそも、旧人と現生人類を区分もせずに旧石器時代としていることは問題で、いわば始まりの創業者を2代目縄文人の単に先代としか意識せずに社史を書いている違和感です。

この背景には、荒唐無稽のギリシャ神話はよくて、日本神話は認めないという教育上の歪みも影響していることでしょう。

語り伝える民族の神話は何であれ重要であり、また、その中に重要な史実を背景にした内容がある事も認識されてきています。

その時代の様相を考えた基礎用語を定め、創業者に想いを致しての「歴史総合」だと考えます。

大筋で異論はないと考えていますが、如何でしょうか。厳密を口にされる先生方も、これまで相当大きな修正をしてきていますし。

何より、諸学協同による研究の重点指向を期待しております。

何しろ、初期の世界現生人類史で、4~3万年前とある程度はっきりしている移動・移住が、遺跡・遺物で確認し得ているのは貴重な基準区間となるものです。

そして、実は南北アメリカ大陸の古い遺跡等の状況が明らかになって来るにつれ、最初にアメリカ大陸に沿岸から拡がって行ったものと考えられるからでもあるのです。

(了)

 

日本祖人については、始まりの曙海の畔の事が重要ですが、実はその後のアメリカ大陸先住民にも痕跡が残っていると考えています。

それは、米Harvard医科大が、アマゾンの古い部族のDNAを調べたところ、人類の出アフリカ後の時代を残しているSundaland地域の人たちが、最も親縁性が強いという驚きの結果です。

万年の古い時代に、直路多くの家族が舟で太平洋を渡ったことは考えられませんので、環太平洋ルートであったとする当サイトの見方になりますが、Harvard医科大の先生はこの結果に冗談言って頭抱え、また、欧米の先生方はこの結果に何のコメントもしていません。

次に、1983年のTurnerの下図の歯の分析結果ですが、Harvard医科大の結果など最近の成果を加え、また、ユカタンが離れてますので素直に4分類として色分けました。

上図の赤い北西海岸が注目点です。

これに、北米Oregon州や南米チリの古い遺物、何よりも12,500年前頃に氷床が融けて開通した無氷回廊を南下して拡大したアメリカ史上特筆される薄青の大きな動きを加えます。

入って来た経路、順番、その消滅と勢いのある拡がり(薄青)のアメリカ先住史の様子がよく理解できます。

勿論、①は、②、③、④に拡がったのだろうと思いますが、痕跡はよくわからないという状況です。

そしてその歴史と生活ぶりから普通に考えれば、この北米北西の島々に残る①は海の民系であり、日本祖人系と考えられます。

何よりも海水面が100mくらい上昇していますので、沿岸の痕跡はなかなか発見されませんが。

日本祖人の4万年前の曙海越えの九州進入、北上、3万年前に北海道東部に進出という考古遺跡・遺物の示すことにそれ以前とそれ以後が、矛盾なく環太平洋移動・移住説で連接して理解できる結果となっています。

欧米の先生方がコメントしないのは、この4万年から3万年前という環太平洋史の区間基準となり得る日本列島史が、よく理解されていないからだろうと残念に思っています。

千島列島を伝っては行けなかったろう、極寒のベーリング地峡を越えて行けなかったろう、と言われそうな意見への反論は、当サイト(オホーツク沿岸ルート含め)で既に十分にしています。

北極海の冷水が入り込んでいなかった、ハワイに繋がる比較的温かったベーリング海を考えることが重要です。

新たな発見報告である23,120年前?というブラジルのSanta Malina遺跡は、古過ぎて欧米の先生方は全く理解しようがありませんが、3万年前の北海道の日本祖人が、そのまま北上を続けていたとすれば理解可能なんですよ。

(了)

昨年末、縄紋人の祖先たち(即ち日本祖人)という当ブログと同様の問題意識のリードタイトルの本が出ました。

しかし先ず第1に、下図(以下、赤字はNara)の北ルートは、約2万年の大きな差があり、同列に扱うべきではないです。

既にお伝えしています様に、日本列島史の始まりは下図です。

此のことの重要性は、アイヌ先住民問題に関わります。

アイヌの人たちが迫害差別を受けその人権が尊重されねばならないとしても、著者も明瞭に九州から北海道にまで一方向で拡がったとしており、「先住民」を冠した国会決議が史的学問からは立証できない誤りであり、訂正されるべき事を示しています。

即ち、アイヌの人たちが北部九州に存在していたことを立証できるのかと言う事ですが、むしろ大方は、時代を下ってから樺太を南下してきたと考えていることでしょう。

実は問題は、学問的におかしいと思っている人はいたと思いますが、最高機関である国会の史的裏付けのない決議に明確に反対を唱えた歴史学者の居なかった事です。

戦前の皇国史観の時代でも異論を唱える学者は居ましたが、今回のこの史観に学問上、異を唱える学者が居なったことは、いずれ歴史学界の汚点として記録されるでしょう。

因みに以前報告のコロボックルは、アイヌの先住でアイヌに追われたとアイヌ自身が伝承していたのです。

著者も私も北部九州が始まりと考えていますので、勿論、沖縄も列島の「先住民」ではありません。

米国、豪などと異なり、4万年の歴史の我が国には「先住民」と言い得る人はいないことが一つの特徴なのです。

次に、著者は特に論拠を示すことなく、始まりを降雪寒冷の内陸狩猟族Bルートとしていますが、反対です。

約80㎞の海峡を家族が舟で越える必要があったことは容易な事ではないです。

舟造り、天文、気象・海象、操舟、様々なノウハウを必要としますので、一朝一夕には無理です。

出アフリカ後の豪への渡海時期の早さや日本祖人が降雪寒冷の北上に1万年も要した事、人体・DNA・言葉などの他との比較から、海の民系Aルートでしょう。

何よりも学界や類書が、最も可能性が高いと考えられるA-1ルートを認識していないこと、また、やっと「縄紋人の祖先」まで来ましたが、旧石器の語しか無く、「日本祖人・祖代」、「曙海」や「北東ア平野」、台湾山地、朝鮮山地などのキーワードの名すら依然として無い現状は驚くべきことです。

真正面から列島史の始まり~縄紋時代に取り組んだ専門家の祖代研究の登場を待つのみです。

創業者は2代目の先代としてだけで、2代目から書かれた社史では困ります。

(了)

 

(前回報告関連)

万年前に過半が沈んだ東南アジアの半島大陸地Sundalandの地域は、ジャワ原人やフロレス島の原人ホビット、日本祖人と関係が深いジャワ島のワジャック人など、遺跡・遺物を含めて人類史の百貨店です。

(ジャワ原人博物館 4~5万年前とするワジャック人についての展示)

結論的に、やはりアイヌに追われた日本の先住民・小人コロボックル話に光をです(実は不十分な論拠で否定的扱いですが)。

また、魏志倭人伝などに見られる侏儒国などについてもです。

さて、スマトラ島では、以前にも林に逃げていく「ころぼっくる」を追う騒ぎだけ(実物映らず)のビデオがアップされていましたので話はありました。

このジャンビ州の人たちは、よく見るとタバコまで与えられ吸ってますが、同種の発見や話は謎として隣の州などでもあります。

数百年来、毛深くて恥ずかしがり屋で人の行動を真似てる・似てると言い伝えられる生き物が、時にワナで捕獲され、住民と結婚し、とスマトラ島では伝えられています。しかし、ヴァリエーションの有るこの人たちに関しては、十分に学術的な研究報告も未だ無い謎だとされています。

各州の考古学研究所や動植物研究など、貴重な百貨店の各階はもとより、地下、倉庫、海、などでの研究予算は極めて厳しい中で、若い人たちが儲けにもならないことに真面目に取り組んでいます。

日本人がここまで来て慰安婦の研究をし、豪華な出版をするもいいですが、日本政府は世界のために、インドネシア中央・各州のこの種の研究助成にもっと力を入れて欲しいと、納税者として強く思います。

(了)

ミリタリーの世界では、夜間にあるモノを見たいとき、そのモノを見ずに周りを見よ、さすれば見えて来るという「周辺視」の教えがあります。

4万年の始まりである日本祖代の追っかけって、その浮世離れは何なんだと言う家族の声があります。

ということから倭人伝を周辺視であるSundaland, 環太平洋人類史観の視点で、あの歴史学上の大問題、やまとの女王国に迫って見ました。

対馬まで千余里、唐津―福岡五百里、女王国から海を渡って千余里また倭種、倭の地は絶在1周五千里、侏儒国四千里、身の丈三、四尺、船行1年、など距離感と方向は一応納得できるものです。

(倭人伝は、全く信用できないという意見もありますが)

 

特に、あまり注目されない侏儒国、裸国・黒歯国を周辺視しますと、日本列島人類史の特色である北と南端の類似性やコロボックル話などがよく附合しています。

裸国は、ネグリト族のフィリッピンにしろこの地域では有ったでしょう。

そして黒歯国についても、マレーやインドネシアの檳榔樹から取れるビンローが噛みタバコのような物としてよく見られ、歯が赤黒くなり珍しいものとして魏の人などには認識されていたでしょう。

マレーのペナン島の名の由来にもなっていますし、台湾では今でも見られ、我が国でも女性が歯を黒く染めていたことはよく知られている環太平洋この地域の風習です。

文選によれば、漁師が、南の東の極みの黒歯の所へ行ってますので正にぴったりでしょう。

「至るべし」とありますので、単なる物語や噂話ではなく行き来があったものと思います。

因みに紀元前にフェニキア人が、金などの貴重品を得るため船行3年と言う遠洋航海行動(1年以上現地滞在?)が歴史的にありましたので、紀元後の1年は驚きに当たりませんし、何よりも祖先の地、Sundaland地域から北上して来た人たちですから。

船行1年ということで、この裸国や黒歯国を南米に比定する意見もありますが、文選にある極みはマレー・インドネシア、黒潮の果てでしょうし、流石に当時の漁師が南米まで行き来するのはムリでしたでしょう。

この「極み」は意味深長でして、倭人がニューギニアから比東側の正に黒潮沿いを行き来していたのではと思わせます。

結局、女王国はどこなのか?

倭人伝等からの周辺視では、ぼんやりと九州か四国あたりに見えます。

どうして、やまとの女王国、皆と違う表現にしてる?

はい、当時の列島に住む人たちが自分たちを蔑称で呼んでいたとするのは史的間違いだからです。

語をもってまだ自分たちを呼んでいなかったにしろ、呼んでいたが今は分からないにしろ、学者さん達がこうしようというのを待っているためです。

いつまで他国が付けた蔑称を間違いなのに使っているのでしょう?

(了)

 

日本祖人の痕跡を探る。

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産経ニュースで、かって存在した半島大陸地Sundalandの西のアンダマン諸島の原始的なセンチネル族の恐ろしい状況が報じられました。

出アフリカ後の日本祖人の足取りを考える上でこの地域は極めて重要であり、4万年前頃に日本列島に現生人類が至るルート上の要域です。

この地域では、今回のアンダマン諸島の他、マレーやパプアニューギニアの高地族など石器時代の部族かと言われる人たちが、今もそんな暮らしぶりを守っています。

が、結論的に、我が先人の様子は違かっただろうと考えます。

インドネシアのジャワ島西部バンテン州南部のインド洋に面した山中にも、石器時代的ではないですが、少なくとも何百年と暮らしを守っているプロト・マレー系のバドゥイ族の人々が居ます。

バンドゥンの都会からバンテン州を訪れていて、広報担当の人たちと下山してきた彼を初めて見た時は、やはり驚きと遥かな歴史への感慨を覚えました。

さて、件のアンダマン・センチネル族などですが、赤ん坊をロンドンに連れて行けばちゃんと学校を出て社会人になれるだろうとみられています。

彼らは、明らかに外部と接したときに悪いことが有り、トラウマとなって部族の保存を図るためにこういう生き方になったのでしょう。

Sundalandの地域が、そして最近明らかになってきましたが南米のアマゾン地域でも石器時代的と言われる部族の存在がいろいろ新たに確認されていますが、やはり暑い暖かい赤道地域の環境であることが大きな要因でしょう。

10万年前頃に出アフリカを果たし、8~7万年前頃にSundalandに来て豪州に6.5万年前頃とすると、北上した日本列島が4万年前(40ka)頃というのは、緯度北上の厳しさを表しているのでしょう。

そして、日本列島の北上では4~3万年前の約1万年かかってますから、ここでもやはり緯度北上の厳しさが感じられます。

なにしろ、北海道の冬は、本州と異なる寒さと雪ですから。

(ところが実は、この北海道と北のベーリング地峡南岸の差の方は、海の影響からかイメージ程でなく、北上して渡米し得たものと考えています。)

センチネル族やバドゥイ族は、日本祖人を考えるために参考になりますが、例えば衣服一つ、食べ物、寝る住まい一つとっても全く違う暮らし振りだったでしょう。

そして現生人類は、のどの進化に加え数~5万年前頃までにはおそらく複雑な言葉の使用を可能にしたと考えられる、飛躍的な脳の働きの進化を遂げたようです。

ともかく、日本列島に来た頃には、私たちと遜色なかった素質をもって家族で海を越え環境に適応を果たしていったことでしょう。

3.7万年前頃には、日本祖人が伊豆・神津島に十数kmの外洋を舟で渡り、行き来して伊豆から南関東の広域で黒耀石を他のモノと交換していました。

また、2.3万年前頃の沖縄本島南部のサキタリ洞窟では貝製の磨かれた釣り針(世界最古)も見つかっています。

そこでは、3.5万年前頃には居住が始まっていたとみられ、九州からトカラ列島を南下したにしろ、宮古から200km以上の海峡を越えて北上したなら、それなりに進んでいた社会を思わせます。

縄紋時代以前は原始的、石器時代的とする意味内容は、近年になってイメージの修正を求められていると考えています。

自然を畏れ敬い調和して暮らし、後の縄紋時代にも列島内での殺し合いはあまり無かったようですし、何よりもイジメや生活苦などで自殺する人などはいなかったでしょう。(子供のなんて、考えられません)

インドネシアでは、男女が役割を担い、社会が助け合って成り立っていたと教えています。

原始は遅れていたと考えられがちですが、自然を畏れ敬い調和して暮らすことは、「幸せ」を尺度にすれば月に行くことよりも大事なのではと思います。

(了)

 

 

4万年前の始まりの日本祖人を探るのは容易では有りませんが、日本人は虫の声が聞けることから人類史の不思議に迫れ、そのことがまた、日本祖人の理解と確認に繋がります。

世界でコオロギや鈴虫などの虫の声を、雑音ではなく声として右耳から受け止め左脳で言葉のように聞いてる、聞けてるのは、実に不思議な事に世界で日本人とポリネシア人だけなのだそうです。(東京医科歯科大学の名誉教授・角田忠信先生)

チンチロ チンチロ チンチロリン あれ 鈴虫も鳴き出した ああ おもしろい 虫の声 -こんな変な事を言うのは日本人くらいで、他所では気にも留めない、どうかすると殺虫剤でも持ってこようかという対象です。

さて問題は、何故、ポリネシアなのかなのです。

現生人類は、出アフリカの後、東進してSundaland、そしてその方向でオーストラリアへと北上して日本へと、展開を続けました。

このSundalandが、アジア史における「補助線」でして、大半島陸地が2万年前頃から温暖化の海水面の上昇で沈み始め、1万年前頃には過半が沈み、インドネシアの現在のようなバラバラの島々になりました。

第1図

その東方を含めたSundaland地域は、①出アフリカ後の重要地域で今も痕跡が残っており、②特に5千年前頃、中国南部から大きな人の南下移動があり、はっきり混血が進みましたので分かりにくくなっていますが、百万年前のジャワ原人以来の恵まれたと言っていい地域なのです。

さてポリネシアは、よく古い人類の移動に関する問題で話題となります、例えば米西海岸ワシントン州で発見された9千年前頃のケネウィック人を復元した際に、誰に似てるかでポリネシア人も名が上がりました。

しかし、上の図のように②で南下した人たちがSundaland地域に至り、ポリネシアへの展開して行ったはせいぜい3千年前頃からの新しいもので、端のハワイやあのモアイ像のイースター島は、紀元後7~900年前頃という最近のことなんです。

ここで、

1.南下した人たちは、中国南部・台湾からと言われてますが、彼らは欧米人などと

同じく虫の声を聞けてません。同じく南下を受けたインドネシア人も聞けてませ

ん。

2.何よりも途中通ったミクロネシア、メラネシアにもはっきり見つからない。

それでは何故?となりますが、先ず、補助線のSundalandに鍵があるでしょう。

出アフリカ後の①の人たちが、Sundalandを経て北上し、日本を通過して行ったわけです。

日本にも2万年前頃には、大陸から狩猟族の人たちが入って来て元の祖人と合わせて縄紋人となっていきますが、虫の声が聞けてるのは、それ以前の始まりの日本祖人の影響が大きな影響、即ち基層が残っているからだとなります。

そこで、虫の声を聞けていたのは①の時代だったのだろうとなります。

ポリネシア人の祖先は、その後の5千年前頃には南下して来てSundaland地域で混じって、更にミクロネシア、メラネシアの一部を経ていますが、上図の①移動時代のSundalandの痕跡をひとり今も残していると言う訳です。

これらは何故か?

日本もポリネシアも行き止まりの端の国々だから、①移動時代のものが残ったのだろうとなります。

世界でわずか2つの端の地域で虫の声が聞けるという事から、人類の移動、日本祖代の事、日本祖人と縄紋人・現代人など様々な事に思い至ります。

2万年前頃、大陸の狩猟族が北から、西から入っても、始まりの日本祖人の文化が失われず基層として、縄紋を経たその後も稲作族などが渡来してこようとも残ってきたことが重要です。

ところで此の虫の声が雑音ではなく聞けるという、この残った感性は何なのでしょうか?

それは自然を尊び、木々にまで神が宿るといった心性に繋がる大切な事で、生活、芸術、発明、仕事など万般の日本人らしさに及び、世界にとっても独特の意味ある事でしょう。

あ~、う~母音の、虫がチンチロリン、雨がしとしと、と教えてくれるお母さんに抱かれた母国語が決め手であって、DNAではないことが重要です。

お母さんは、わずかなGNPの押し上げなど比較にならない極めて重要な人です。

(了)

 

 

 

いよいよ大寒です。

ロシアの方から、東シベリアのサハ共和国(正に下図シベリア)で車が故障し歩いた2人が凍死したとの悲報が届いてます。-65℃という凄さです。

成る程、日本祖人がベーリング海峡を越えてアメリカに入って行った、という話をしても「シベリア」と聞けばやはりムリだと思いますので補足します。

大方の学者さんは、シベリアからアメリカへ入って来た、それも従来定説の無氷回廊ルートではなく、北太平洋沿岸の昆布Kelpハイウェイ沿いだとなってきています。(回廊が開通する前にTexas, Oregonに現れてる遺跡が発見されています)

そして、東シベリアやアラスカ内陸の厳寒を考えれば、当時のBeringia地峡が比較的厳しい寒冷でなく、低木・草地ツンドラでヘラ鹿などもいたようなので、気温のいい時期に地峡に来て、氷期が終わる15-13,000年前くらいまで、一時滞留していただろう、溶け出して動き出し米本土に入って来たという説なんです。

問題は、カナダ・アラスカ国境で確認されたムツ洞窟遺物が、24,800年前と発表されていますので、此の事と矛盾しています。

また、シベリア人というのは、バイカツ湖地域Malta遺跡などからの人達となりますが、現在の北・南アメリカのNativeインディアン・インディオの人たちとDNAが違うというので、従来の単純な説ではないのではとなっています。

当サイトは前回報告しましたように、日本祖人が北海道から北上でき、Bering地峡沿岸を行くルートが米臨海などの諸要因から有り得たと提唱していますが、内陸の想像以上の厳寒から、あらためて意を強くしています。

旧石器時代の人たちが、厳寒のシベリア内陸に長期存在して地峡を越え、古いアメリカの遺跡に登場するのは、ムリだと考えます。北海道から沿岸を、でしょう。

氷期でない、温かい米臨海ではない環境の今の気温ですが。

先生、ハワイに繋がる米臨海も考慮してください、そして、カナダ・南北米の古い遺跡を苦労されて分析した結果を認めてください。

想定よりも早い時期に渡っていると思います。

最後に、地図を作っていてふと思いました。

学者先生はあり得ませんが、ロンドン中心の地図を小学校から見てる人たちは、右端シベリアから左端アラスカへ渡って行くことは、議論どころかイメージすらし難いのかなあと思いました。(失礼!)

(了)

現生人類のアメリカ新大陸への進入は、ギネス記録的にはアラスカ進入の時期になるでしょうが、人類史の意味的には米本土に進入し南米にまで拡がった事が焦点です。

かっての定説であるシベリア~ベリンギア(地峡)~アラスカ・カナダ内の無氷回廊という陸路の通過が覆された(回廊開通よりも古い遺跡が米本土で発見)ため、沿岸ルート(食料豊かな沿岸の昆布Kelpのハイウェイ)ということで、その時期が議論を呼んでいます。

第1図

大方は、シベリア~ベーリング地峡地域の厳しい寒冷から、氷河期の最も寒かった時期LGM(2万年前頃)の後、氷河期を脱した18,000年前頃以降をイメージしています。

ところが、南米で23,000年前かというブラジルのSanta Malia遺跡が発見され、年代を含め問題となっています。(大西洋横断ルートは、この時代ではトンデモ話です)

そこで渡米問題についてですが、先ず第1に当時はベーリング地峡によって北極海の冷水とベーリング海が分離された「米臨海」であり暖かいハワイに繋がる海でした。

実は、この認識が無い事が大きな問題です。

第2図

此の事が、当時のこの地域の沿岸の気象、海象、動植物などにいかなる影響を及ぼしたのかを考察し環境を推論した研究は無く、氷河期が終わるまではムリというのが大方のイメージです。

また、地域のこの時代の遺跡の見つからなさも原因で、ベーリング地峡地域では14,000年前がせいぜいというところです。

開発が進む日本のこの時代の北海道には、十勝をはじめLGM前の有力な遺跡がいくつもありますが、千島列島(中、北)、カムチャッカ半島には見つかっていません。

シベリア、アラスカ・カナダでは、下図のYana川畔遺跡とムツ洞窟遺跡のいわば単発の状況ですので、北海道~千島・オホーツクからと考えるべきですが、氷河期の寒さが検討を阻んでいます。

この地域の真冬は、-40~50℃がイメージでしょう。

第3図

ところが沿岸に注目しますと、そのイメージとは全く異なります。下表のとおり、ベーリング地峡地域でも内陸と違って岬では—24℃くらいであり、帯広の—20℃の暮らしを経験していれば不可能とは言えません。

また、何よりも下表右のように、16~14,000年前くらいにはベリンギア沿岸を米本土に来ていますから、最寒期LGM以前の同様の気温の時期には来れるチャンスがあった筈です。

第4図

この通り、沿岸地域では不可能でなく、氷河期の寒さも米臨海の比較的な温かさで緩和されていた事を考えればあり得たと言えます。

最後に北海道ルートについてですが、上第3図の千島列島ルートと樺太・沿海州地域からのオホーツクルートがあり、寒さの沿岸気温は前述のとおりですので、千島の島々を経ることが難しかったろうとイメージされています。

しかしこれもよく見れば、次々に行く手の島々が見え、独り占めしうる食料も期待できましたので、乗り出さない、乗り出しても渡米していくのはムリとは言えない状況なのです。

第5図

そもそも日本列島にやって来る時に家族で8okmくらいを操舟して曙海(九州西部~南西諸島~当時の北東ア平野に囲まれた海)の五島・対馬正面を越え、伊豆神津島の黒耀石を獲りに行き来し、道東に来て雪と寒さの中、海獣を獲って暮らした海の民の子孫ですから。

やはり、こちら側と似た鏡面対称性あるあちら側へ、比較的温かい時代の夏などに暮らしを築きながら昆布ハイウェイを行けたと考えるのです。

第6図

米本土内及び南米への拡大と発展は、その後陸路を無氷回廊が開通した後にやって来た、戦いに強かったシベリアからの人たちだったのでしょうが、先住民の痕跡はアマゾンやアンデスなどにあるようです。

(了)

 

環太平洋種族の成人通過儀礼

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成人の日は、悪質な着付け業者に騙されたものの、善意の人々や自治体によって何とか泣きかけた多くの娘さんが式を祝われたことが話題になりました。

実はこの成人行事ですが、環太平洋地域における大昔からの通過儀礼としての共通性が注目されます。

その特色は、抜歯や胸ピアスなど身体を傷つけることや時には死傷の危険性のある行動が求められることです。

人類始まりのアフリカの一部にも見られますが、環太平洋地域の種族の際立った特徴であり、欧米白人やモンゴル、ツングースなどの内陸部には見られないもので、人類の環太平洋移動・移住MPOR説の歴しニアとしては注目しています。

上図左下のインドネシア・スマトラ沖のニアス島は、戦いの陣羽織、裃が余りに江戸侍ものに似てますので、日本のチャンバラテレビを観ると、あっ、ニアスだ!となります。

また、跳び箱がオヤジには懐かしいですが、大人になるために石の跳び箱を手を突かずに空中を飛び越える戦士の能力を求められます。

かっては、跳び箱台上に逆さ竹槍先が立てられてましたので危なく、大人入りを目指す若者は、早くから必死の練習で真剣でした(高さ1.5~2m)。

隣の南太平洋バヌアツのバンジージャンプは、皆さんご承知の恐ろしいものです。時に外れたり切れたりしたことも絶無ではなかったでしょう。

台湾で撮られた写真に残る抜歯は、何か服用したにしろ兎も角痛かったでしょう。

これは、縄紋人もアメリカ新大陸にまでも拡がった特徴的なアジア東部沿岸の風習です。亡くなった人への服喪の意味で行われることもありました。

他方、日本の武家社会では、俵担ぎや広い面積の田植えなどもあったようですので、各地ではもはや残っていないいろいろな通過儀礼があったことでしょう。

東シベリアでは父親に連れられ、極寒地で狩猟を果たさねばなりません。

インディアンでは、4日間、炎天下で踊り続ける、また、胸に小枝をピアスして引きちぎって自由になる痛さのピアッシング儀礼があります。

メキシコでは、30mの塔に逆さ宙づりで13回も回される怖さと、降ろされてちゃんと降り立つことが求められます。

アマゾンでは、刺し針蟻の袋に10分間手を入れて刺されまくるのを耐え、出したその後も24時間は痛みが続く荒行を何回かします。

インカでは、丸太登りや吊り輪での向こう側への相手よりも早い渡りなどを仲間が支える揺れる柱で競争するアスレチックで勝利することです。

女子も種々の通過儀礼の風習がありました。

こういう痛みや恐怖を克服する精神的な強さや大人や戦士としての能力を求められるものを、種族として共通の心でやってこれていることが、何より環太平洋の先住の人々ーMPORの深い共通性と言えるでしょう。

(了)

列島史始まりの日本祖人は、結論的にやはり「西郷どん」系です。

隼人に関しては、日本人類学の大家である金関博士が既に比フィリピンのネグリトとの関連を推論しています(学者先生の金関博士は、証拠がはっきりしないとして、この説を断定的に言ってはいませんが)。

ポイントは、比・ネグリト、隼人、そして、各地に拡がっている海人族の関連です。

比ネグリトは、アフリカのピグミーなどと似ていますが、DNAは全く違ってあくまでモンゴロイドが日差しの強い島の環境でああいうようになったものです。

名前もいろいろに言われていますが、イタムとはインドネシア・マレー語のヒタムhitamで、「黒い」を意味します。

中国・宋の書物には、このネグリトは小柄で肌の黒い海胆ハイタン人として書かれていますが、ハイタン―hitamは繋がりが分かります。

そして、黒、このハイタン、日本のハヤト・ハヤヒト・ハイタン隼人は、無理なく繋がる訳で、ネグリトの特徴を一般に表現したものと、金関博士が薩摩で見た隼人の特徴もよく附合しています(上図右下)。

更には九州北部の筑紫地域は、「あた守る筑紫」と言われていますが、この「あた」とは、隼人を示し隼人から防衛する筑紫と解すべきものと博士は言っています。

他方、「あた」隼人は海人族で、上図のように茨城常陸や日本海側の沿岸にまで拡がり、何と岡山美作、長野信濃という内陸高地にまで拡がっています。

前回、インド洋から北海道に至るまで、人類史の流れを踏まえながら人の類似性を指摘しましたが、金関博士の説は十分納得し得るものです。

曙海の畔から始まった列島史から、比、台湾、五島や薩摩、沖縄の人たちが類似なのは当然です。

そして、北上して3万年前までに北海道にまで拡がっていますが、正に始まりの先住の人々と言って良いでしょう。

特徴は、海を越えて渡って来た海の民であって、隼人だけでなく微妙に呼び方を換えてますが、今もその痕跡の名が各地に残っていると博士は言っています。

曙海の畔からの始まりが「西郷どん」系であったというだけでなく、列島中に拡がっていた事、そしてその後に、暮らし振りの違うユーラシア内陸の狩猟族や稲作渡来族に込めやられた歴史も窺がえます。

ともかく、ユーラシア東部沿岸(今のベトナムなど)や比・ルソン島、曙海の畔の人々、皆同じような種族でしたでしょう。

繰り返しますが、金関博士は残った言葉などから想像も交え推論したとして、学者としては、慎重に断定を避けてます。(ご謙遜です)

しかし、「歴しニア」的には人類史の流れ、日本人とは、日本史の始まり、日本祖代と縄紋・弥生時代などを明きらかにしうる納得のビンゴ!です(はい、我田引水と言われるでしょうが)。

やはり、「西郷どん」系が、始まりのご先祖様なんです!(アイヌに追われたコロボックルにも光を)

明治維新150年、いや「西郷どん」が怒ります、ち・が・う・だ・ろ~、4万年前に想いを致せと!

(了)

 

 

最新の人類史(まとめ)

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年の初めに最新の人類史をまとめてお知らせいたします。

万年前の歴史は何処にもはっきり書き残されてかれているわけでは有りませんので、研究者が発見した遺物を種々の年代測定法で正式に鑑定したものの検討を経て、論文や専門科学誌などで紹介されます。

私たちに直接繋がる現生人類について、アフリカ北西部のモロッコで30万年前という発見が昨年有り、現生人類の真の出現時期、場所に関心が向かっています。

このこともあり、ユーラシアへの出アフリカの時期、場所も依然としてはっきりしません。

出アフリカ後につきましては、豪州北部における調査が続いていた遺跡で6.5万年前という報告がありました。

また依然として、そこへは家族が数十kmを舟か筏で渡ったものと考えられていますので、そういう点では世界最古です。

此の点で、インドネシア東部地域(Sundalandの東方海域)において、入り組んだ海岸線、島、サンゴ礁、マングローブでの暮らしが準備行動(Jared Diamond説)であったのだろうというのは納得です。

東チモールでは、世界最古の外洋魚の釣りなど海の民の暮らしが見つかっていますし。

日本へのルートは、①ユーラシア東側と②フィリッピン経由ルートの2つが考えられますが、九州へ渡海した状況から、前述のこともあり私は海の民のフィリッピンルートにも注目しています。

まあ此の大昔は、沿岸の民は似たような人たちであったのではと思いますが。

注目すべきは、アメリカへ渡って行ったと考えられる環太平洋ルートにおいて、日本列島においては、入りと出の時代がはっきりしている(約1万年間)ことが意義深いです。

また、日本列島への初渡来を考察すれば分かりますが、家族で曙海を越え、島へ渡って行っているノウハウを持った海の民です。

従って、渡来後の早い時期に伊豆の神津島で黒耀石を取るために外洋を少なくとも10数km舟で行き来し、南関東・伊豆地域で広く交換していたことが不思議でなく特筆され、世界で注目されています。

流れの激しい黒潮の内側本土寄りだったのが、ラッキーだったようです。

当サイトでは、始まりの日本祖人が、環太平洋をアメリカ大陸に移動・移住したというMPOR説を唱えていますが、当時の環境、祖人の状況の更なる分析や渡米に関わる遺物の(奇跡的な)発見などを期待しています。

戌年であり此処掘れワンワンで、考古学分野における貴重な品が発見されますよう切に祈っております。

(了)

 

 

 

4万年前頃、海を越えて日本列島に渡って来て北上し、3万年前には北海道東部にまで拡がったご先祖様である日本祖人は、どんな人だったのか?

結論的に言いますと、いよいよ始まる「西郷どん」に痕跡が残されていると思うのです。

下の写真の左下、アンダマン諸島の古い先住民ジャラワ族の人をご覧ください。

フィリッピンのアエタ族の子、台湾の高砂族の兵士、なども同類だと感じます。

始まり当時は曙海と北東ア平野という地域の状況であり、台湾と八重山の間は黒潮が走り距離も数十kmありましたので、遺跡からも北上して先に五島や北部九州に渡ったと考えています。

注目すべきは、縄紋語を残していたとみられる五島の人は、顔が(薩摩)隼人に似てると古い風土記に驚きを込めて記されています。

ところで、魏志倭人伝の邪馬台国は大いに研究されてますが、末尾に記されている侏儒(小柄な人)国、裸国については、注目も無く議論されてません。

南米だと言う人もいますが、最近、侏儒国は奄美大島だという説が出ています。

まあそれらが、南西諸島、小笠原・マリアナ、比、インドネシアにしろ、とも角、全く空想の意味無い話ではないことが大変重要です。

人類史の展開ルートで、我が国の周辺に小柄な人、裸で暮らす人がおり交流があったことが史実として信じ得るものだからです。

敢えて言えば、同族の古い遠い親族です。

此の点で、明治期に議論になった小柄なコロボックルは、改めて光が当てられるべきでしょう。

コロボックルがアイヌに追われて逃げて行ったという千島を、明治期に学者が訪れたがアイヌしかおらなかったと言うことで簡単に否定されてしまいました。

当時は万年に及ぶアフリカからの人類の移動・移住の展開などは想像すらできませんでした。

江戸期の話を明治期には消えて確認できなくなっていたことなど十分有り得ることで、居なかったからかって存在したことは無いとすることは不適当です。

更に北へ逃げて行ったか、滅亡してしまったのか、いろいろあり得ます。

伝承や資料もありますから、小柄な海の民という先住民が居たのだろうと考えて、有り得ることですし矛盾はありません。

これらの事から、肌の色は薄まった茶褐色で小柄な目元涼しい海の民の人たちに大陸から進入した狩猟族が加わりました。

縄紋時代と呼ばれるまでの2万数千年間、日本史の約7割くらいの期間、閉ざされがちな島々での熟成された暮らしぶりが、列島文化の始まりです。

この日本祖代の長い期間の原点に思いを致すことなく、日本史を語る事は出来ないと考えています。

そして既に述べました通り、3万年前からも北上は続き、やがてアメリカ新大陸に至ったものと考えています。

日本祖代・祖人は、世界史上も重要なのだと「歴しニア」は考えているのです。

4万年の、今に繋がる受け継がれた歴史を科学的に語れるのは、世界でも日本人くらいではないでしょうか。 誇るべき〇千年の歴史?可愛いもんです。

(了)

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