米ニューメキシコ・ホワイトサンドにおける23,000年前の少年足跡などの痕跡は、土層の明らかな上下と足跡の関係、そこに含まれる植物種子の年代分析等から信頼性が高い分析報告と受け止められています。問題は、アメリカ学者は、大人と子供の生活における仕事の役割分担の違いといった社会性に着目し重要性を指摘していますが、重要な点の指摘がありません。

それは、1図、最初のアメリカ人は、「A、B、誰が、いつ」小フネで北太平洋沿岸を入って来たのか(最新の定説化)という言わば人類史始まりの最終段階であるアメリカ新大陸への移住、「最初のアメリカ人」問題への関りの指摘の無いことです。実は今回の発見は、それまでの米大陸史を 数千年間 遡らせた点にあり、その重要な意味は、これまで定説だった北米から南米への移住拡がりが「急行」の千年ではなく、通常ペースの白紙的には8,500年間になることで、白紙的だからという事だけでなく喧伝してきたことが崩れて恥ずかしいという事もあるのでは邪推(失礼)します。しかしこのことは重要で、このペースを逆算すれば、例えばAルートの北海道やBルートのヤクーツクを3万年前頃に出発することになり、これも近年DNA研究家が唱えられてきた、ベリンジア(地峡)に早く到着して数千年間もそこに滞留してDNA変化を生じ、温暖化してから入って来たという説も崩れるのです。

しかし、出発3万年前は、Aは青森から狭くなっていた津軽海峡を越えて北海道に進出し、35-30,000年前頃には道東に暮らしてますので、そのまま滞留もなく北上を続けて行ったという実に素直に納得できるものです。Bの方は、バイカル湖地域のしっかり遺跡年代とヤナ遺跡が一時的とも言われていることから考えると、3万年前の集団の暮らしはどうだったかなとなりますが。Aは、図説明の始まりの北部九州への渡海、38,000年前からの伊豆の海の行き来、北海道旧石器遺跡数701など歴史的な基盤はしっかりです。千島列島は次々に島が見えましたし、最大離隔77kmも見えていたので海民は移住できた(既報のルートン族、オンキロン族の石器時代的な暮らしの痕跡もあり)でしょう。Aは海水面上昇数十mで痕跡は海底ですし、Bは現在も過疎で居住少なく開発発掘も限られ遺物の発見は困難ですので、学説化は難しいですが、このくらいのことは学校で教え、日本の状況を世界に発信すべきです。アメリカの議論では、「北海道」は登場してますので。

図左、明治人の東京帝大・鳥居助教授が、人類史最後の大きな謎「最初のアメリカ新大陸人」は“誰が何処から”に関する米国の専門家たちの最新の議論に、長い間の広域のフィールドワーク経験に基づく北千島の遊動海民「ルートン」(第1アイヌ)や東部シベリア・ベリンジア西端の海岸族「オンキロン」などに関する有益な研究成果を携えて参加できるレベルであることが驚きです。更に驚きは、議論を聞いていてそれほどビックリすることもなく、フムフムとうなずくだろうと想像できることです(源の人類が20万年前にアフリカで誕生して世界に散らばり、日本列島へは約4万年前頃にフネで北部九州に来た、DNAというものがある、などには驚きますが)。

明治23年に北千島の現地調査を行い、現地民の自称ルートン(第1アイヌ)の暮らしぶりが石器・骨器を使用し、北部千島、カムチャッカ南部を”遊動”して竪穴住居に住んでいることから、南から北上した「よほど古い」人たちだと認識するに至り第1・第2アイヌ(本道)と命名した慧眼です。北千島調査の直後は、現地民が(アイヌ伝承の)コロボックルは千島で聞いたことがないとの答えから居なかったとしたことが喧伝され、現在も学界ではおとぎ話扱いですが、大正6年には逆に存在の確信に変わり活字で発表しています。特に注目すべきは、シベリア東端(ベリンジア西端)に、やはり石器や竪穴住居の痕跡を残した先住海岸族オンキロンに強い関心を示し、解明の重要性を指摘しています。このことは、どこにも記述は見あたりませんが、「最初のアメリカ人」問題に意識があったのではと思わせられるほどです。図右、昨年9月のニューメキシコにおける古い足跡が、層位・種子等の分析から23,000年前と発表され、崩れていた定説「無氷回廊ルート」ではなく、益々沿岸ルートに関心が強まっていますが、アイダホ州立大Speer博士のNet動画説明でもそれらが語られ、質疑ではHokkaido、日本が登場しています。

研究視野がベリンジアに達していた明治人鳥居龍蔵助教授は、大正・昭和初期に既に現在(2021年9月)の最新の論議に参加できるレベルであった驚きなのです。令和の今、日本では何の説も発表がないどころか、論議さえなく、学校では未だ全く何も教えられていないのにです。現在、なぜこのような状況になっているのか、学界の大きな問題です。

フィールドワーカー鳥居龍蔵・東京東京帝大助教授・鳥居人類学研究所長(自宅)・「総合人類学者」の足跡は、当時、北千島・カムチャッカ半島、長野黒耀石原産地、沖縄、台湾・朝鮮・シベリア・蒙古・満州・シナ西南部・樺太等の各地に及び、後に南米(インカ)にも足跡を残されました。

現生人類は、DNA分析等から30-20万年前にアフリカで誕生、その後、数万年前に「出アフリカ」で全世界に拡散したことなど全く想像もできない時代に、当時大きなテーマだった「日本人とは」の問題意識を堅持され、「第1先住アイヌ・ルートン・コロボックル、そして、樺太から進入の新第2アイヌ」の区別論を唱えられ、ベーリング地峡・ベリンジア西端・アジア側東端のチュクチ族、特に海岸先住オンキロンに強い関心を示され、チュクチ族からの聞き取り内容を単に昔話でない注意すべき重要なことと書き記されました。チュクチ族の内陸狩猟族ですら、元々海外族という意見も貴重な重要さで、そのオンキロン竪穴住居と遺物の研究から、1.竪穴遺物はオンキロン(チュクチ前)の物だと答えた事は、吾人の大いに注意すべきものなり。2.先人をアイヌがコロボックル(樺太アイヌが、トンチ)(北海道祖人系)と言うに似る。3.海豹アザラシを追い漂泊(遊動)・猟漁。竪穴住居(アレウト、ルートン、エスキモー等)、石器・骨器、土鍋・ランプ、ごみ溜め動物骨、4.入れ墨(縄文土偶的)舟は皮製(カムチャ・ルートンは木製)、小舟仲間・シャーマン信頼社会、5.犬で狩り(アイヌ犬は南方系)、無言交易などの特徴把握は、現代視点で重要です。

学者としての慎重さからか、オンキロン貫頭衣の南方性や「最初のアメリカ人」には言及されていませんが、オンキロンに大いに注目すべしとされたやや尋常でない関心を示された記述は、記し得なかった問題意識をうかがわせ、驚きの先進性なのです。現在、2.3万年前の米国南部ニューメキシコの足跡発見で定説が崩れて模索中の世界祖史学界にとっては正に温故知新で、勿論当時の限界から全てが正しい訳ではないですが、今こそ鳥居研究成果に光を当て学ぶべきです。

図左鳥居龍蔵が「よほど古い」と認識し第1アイヌと命名した北千島ルートン(北海道祖人・海民系)が、北上してカムチャッカ半島沿岸からにベリンジアに入って行ったのか?数十m以上の海水面の上昇と万年の年月経過で海岸痕跡は見つかりません。

図右、現生人類の認知性については、一説には海産物を食するようになったので脳力が向上し、南アフリカの海岸洞窟で7.5万年前の穴開きビーズ装身具や線刻( 赤色オーカー彩色を施した物もあり) などが発見されていて、現生人類は、アフリカを出る段階で既にそのレベルの認知力を有して東に西に北に移住して行ったと考えられます。図中のように、装身具は各地で形態に違いがありますが、この地域のどこが最初かは、出アフリカ認知力でその後作り出した物であり、何とも言えません。北海道函館知内町の有名な湯の里4の遺跡と北海道~ベリンジアルート上のカムチャッカ半島の遺跡が、①埋葬にあたり同じように副葬品・装身具を墓に入れていること、②その装身具が極めて形態がよく似ており、東部ユーラシアを見ても他にこれ程の類縁は見られず、また、③湯の里4遺跡の台形石器(赤丸)は、祖代前半(3.5万年前頃)から列島各地でみられたものですが、➃道北、樺太、沿海州など大陸の東部には見られないことなどから、特にその装身具の形態類似から、祖人が伝えた知内~ウシュキの伝搬とみられます。即ち、青森地区は最古土器や芸術的土偶でもよく知られていますが、日本海側、太平洋側、北側の3者が交差する豊かな特質がありました。青森から、知内町~道東~カムチャッカへの北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの北上のつながりが考えられるルートの痕跡と言えるでしょう。図左下、カムチャッカの中部にまで至れば、後はもう、ベリンジア行きに問題ない「指呼の間」と言ってもよいでしょう。

アジアからアメリカ新大陸への最初の人類の移住ルートは、図左Aオホーツク海沿岸から米臨海北岸のルート、BヤナRHS遺跡が発見されている北極海沿岸を東進するという2ルートであり、巷間本に無造作に線が引かれているバイカル湖~ベリンジアという山間極寒の生活移住 ルート は困難です。

そしてBは、ヤナからの東進は環境と痕跡などから時代は新しく、やはり花綵(はなづな)海(オホーツク海沿岸から米臨海北岸)が有力で、更に言えば進入直前地の痕跡としてチュクチ・海岸族オンキロンが注目です。さて右図、米オハイオ・Kent州立大のマーチン・エレン実験考古学者等は、マンモスの個体特性を踏まえ、有名な狩猟族のクローヴィス石器により種々の実験を行い、石器はスイス・アーミーナイフのような諸作業用であり、マンモスは密集した毛と厚い皮膚・脂肪で守られていて、とても槍投げで致命傷を与えるようなものではないという実験結果を発表しましたが、納得です(依然、マンモスハント説の主張反論ありですが)。エレン等は、せいぜい負傷していたり孤立したマンモスを稀に狩り、多くは死亡した肉の解体であってマンモス・ハンターとは言えないと、欧州・中央シベリアに対しても考えています。以前から、マンモス狩りなんて、「父親が息子に生涯の自慢話として(脚色加えて)するような稀なもの」という学者はいましたが、正に実証されたと言えます。

このことはマンモスの絶滅期まで数千年以上も人類と共存しており、絶滅は温暖化の環境要因が主という最近の研究も傍証です。そうなると東部シベリアにもハンターはいなかった訳で、先に述べたA、B2ルート観と符合する重要なイメージ変更事です。巷間本の①マンモスハンターが北から北海道へ、②マンモスハンターがベリンジアからアメリカ新大陸へは否定され、トナカイと暮らす内陸族と海岸族ということになります。これらのことから、最初のアメリカ人は、①昆布ハイウェイA系‐1・2ルート、②北海道は有力な出発地として注目であり、③2.5万年前頃以前にベリンジアに達していて、➃一時的列島Temporary Archipelagoからアラスカ湾沿岸をフネを使用して進入して行った、と考えられます。問題は、はっきりしないからと学界は教科書に書かず、教育もしていませんが、一方で北からハンターが来たとか、ベリンジアを渡って行ったとか、誤りを教えていたわけですから、論理的に導かれる最新の①~④を先ずは教え世界に発信し、国際共同研究を主導すべきです。

北米における衝撃の2.3万年前の足跡発見で、「最初のアメリカ人」は、それまでの定説を数千年遡らせ、かつ、北太平洋岸の食豊かな昆布ハイウェイをフネで入って行ったと考えられ、複数の米国学者からは北海道ルート仮説も出ています(シベリアのマンモス・ハンター初渡米説は崩れ)。

この人類史のパラダイム変化で、先達の大森貝塚のエドワード・モースと坪井東京帝大人類学教授が北海道の竪穴遺跡と遺物から唱えた前プレ・アイヌ説は、その後、広範なフィールド調査の鳥居助教授も 4要件に合致する事からも 存在を確信し、北千島の第1アイヌ(遊動海民ルートン)だと思うと発表した北海道先住説話のコロボックルは注目です。図下曙海へと北上してきた現生人類は、多くの家族がフネで渡海して約4万年前に北部九州に至り(考古学界の共通認識)、3万年前頃には沖縄から北海道に拡がっていました。つまり列島実証最古級2.7万年前の沖縄・石垣島祖人とあまり違わない祖先の拡がりであったと考えられ(寒冷地適応のモンゴロイド化は未だしていなかった)、後の沖縄・港川人(1.8万年前)は当時の東南アジア・大半島陸地スンダランド・ジャワのワジャック人に類似と言われています。そして、西のスマトラにはコロボックル(蕗の下の小人)かと言いたい種族がともかく現実にいます。

いずれにしても原郷の南方から、特に祖語の共通性で注目される環太平洋の人類史を新たな視点で研究を深化させる事が求められています。子供・学生に紹介し、国際共同研究を日本学界がリードすべきです。「最初のアメリカ人」問題は、私たち日本人についての歴史理解を深めることにもなるのです。

先達の鳥居助教授は、明治32年の北千島調査によって、大森貝塚のモース博士(Edward Morse, 1838-1925)と師である人類学会長・坪井博士(東京帝大教授坪井 正五郎、文久3年(1863年) – 大正2年(1913年))によるプレ・アイヌ(アイヌ以前の北海道先住民)説を、現地調査に基づき否定したと受け止められました。坪井博士が亡くなられ、コロボックル(蕗の下の小人)話は、その後は漫画も出ておとぎ話のように扱われて全く学界の議論の対象になっていません。

しかし実は、図右、鳥居助教授は現地調査の整理等も行い4年後には各地のアイヌ伝承に共通するコロボックル4要件に、北千島第1アイヌ(遊動海民「ルートン」)が符合し、これは軽々に看過できない、つまり明言こそできないものの存在認識に至っていたのです。調査後に言われた「北千島アイヌは、コロボックルなど全く知らなかった」は、落ち着いて考えれば、彼の北千島アイヌ調査助手が話を聞いて怒ったように、小人だとか悪口を言われている当人たちが全く知らないのはありうる、むしろ当然で、逆に彼らこそと考えられるのです。いずれにしてもその後の広域のフィールドワーク研究も踏まえ、大正6年にはコロボックルを学問の対象として捉え、調査後の当初の同調者であった小金井博士とたもとを分かち、師の坪井博士によるエスキモー説も否定し、(コロボックルは存在)、北千島第1アイヌ(遊動海民「ルートン」)であると思うと日本学会で講演し、人類学雑誌に投稿して活字にしているのです。

鳥居助教授の掘り下げた研究は、図左上、当時先進の第1、第2、アイヌ論ともなっていたのです。コロボックルが土器製作の土を求めて本道にやって来たという話も特徴的な具体性ある意義深いものです。さて、現代における諸研究から、コロボックルは第1アイヌと言うよりも、遊動海民「ルートン」(北千島からカムチャッカ半島南端)の祖先と言うべきです。何よりも3.5-3万年前には北海道に拡がり、また昨年9月の米ニューメキシコにおける足跡発見で遡った2.3万年前以前の渡米関わり可能性の北海道祖人Proto-Japanese Hokkaido(伊豆の海を行き来した伊豆祖人子孫)の系統子孫だったであろうと考えられる事が、現下の最新の論点です。ともかく教育に採り挙げて子供・学生に理解させ、世界に発信、研究の深化を。

下1図ベリンジアで繋がっていた時代、確かにシベリア~アラスカのルートは、マンモス・ハンターがマンモスを追って入って行ったという理解しやすいものでしたが、最近はアメリカ側の「沿岸ルート進入」新説で、北海道ルート仮説を複数の学者がtestableとして提唱していました。

昨年9月のニューメキシコの2.3万年前足跡の衝撃的な発見の発表により、マンモス狩猟族(最近、これも実験考古学でマンモス・ハンターは居なかったと否定)でなく沿岸・舟乗り説が確定的となって太平洋沿岸の支持が強まる状況です。2図実は、北米での足跡発見により狩猟族でなく「北の舟乗り」であった事と共に、北米から南米への南下移住が、急行千年ではなく通常の8千5百年レベルだったと考えられることも重要です。即ち、人類史おいて急行移住などなく、シベリアにおける移住においても一時的な進出は別にして、寒さが緩和したある時代に急行で移住したのではなく、行きつ戻りつして牛歩で極寒の地に暮らしながら少しづつ東進した事になります。2図のように、東部シベリアの山脈、北極海沿岸をそのように東進するのは容易でなく、無論、痕跡もありません。ここで検討の出発点として北海道と比較すべきは、実は前回説明の年代確かな遺跡で知られる1図Bバイカル湖地域ではなく2図のヤクーツク地域ですが、ヤナRHS遺跡などバイカル湖より東方にあって古い年代が言われているのがちょっと不思議です。地域は河川沿いの遺跡であり前面のヴェ・スン山脈に阻まれたように赤破線、レナ川沿いに北極海沿岸に進出し、一方で南東のマガダン遺跡へ出られたかもしれません。いずれにしても、バイカル湖地域から東部シベリア中央山中をベーリング迄簡単に東進線を引いている巷間資料が多いですがムリで誤解の元です。東進は、あってもオホーツク海北岸地域であり、環日本海諸語族の北上が主体だったでしょう。北極海沿岸は、温暖化した新石器時代以降の新しい東進移住だったでしょう。

これらに比べれば①北海道遺跡は古さと桁違いの遺跡数の多さで充実しており、②次々に千島列島の島が見えた食豊かな昆布ハイウェイの北上と痕跡であるウシュキ遺跡は墓の副葬品が2万年前の函館・知内町遺跡と似ているといわれており、③ベリンジア南岸は、小島が連なる「一時的な列島」(temporary archipelago)と研究発表されているルートを進入した北の舟乗りとの直接的な繋がりの海民性は、北千島からカムチャッカにも進出していた、石器時代的な暮らしの「遊動海民」ルートンの痕跡が支持します。そして➃アメリカ新大陸が環太平洋言語圏で共通なことの意義も注目すべきことで、仮にヤクーツク種族が東進して来たとしても影響されて内陸言語から変化している訳で、先住・「最初の」ではアリエナイ事は重要です。また、⑤シベリア東端のチュクチ族が、石器時代的な遺跡が残る海岸族オンキロンとトナカイ狩猟族の2種に分かれていますが、図のようにオホーツク海南北地域を移住して行った結果と考えれば納得です。やっぱり北海道は重要です、子供・学生に、世界に、そして国際共同研究で深化を。

1図最初のアメリカ人は、シベリアとアラスカを繋ぐ地図で語られますが、歴史を知るためには、A北海道とBバイカル湖地域の遺跡が基礎として重要です。

図左下、学界をリードした欧米では、ロシアからアラスカを購入しましたので、シベリアは近く向き合っているのは知られますが、北海道は極東Far Eastの端と認識されていることが影響しているとも言われています。そして、モンゴル・ジンギスカンに蹂躙された強烈な記憶からか、アジア人を単に新・旧モンゴロイドで大雑把に命名したことも問題で、人類誕生のアフリカから出て東進し沿岸・熱帯雨林の暮らしで「インマレイド」に変化してから、緯度を北上して行ったのが始まりで、北の寒冷・積雪・強風の地に適応して顔も身体も変化しモンゴロイドに成ったのが基本です。その後、今度は逆にそのモンゴロイドが南下して拡がり混血もしましたのが東部アジア史です。従って、シベリアを西から東へ移動した線だけでは全くダメなのです。②北海道は、氷河時代にあって太平洋に面した海獣・海鳥・海産物に恵まれた食豊かな処女地で、当時の宝物の黒耀石にも恵まれて(日本一の白滝モノなど)864の遺跡を数えますが、シベリア、アラスカ合わせても1桁違う多さなのです。千島列島越えは次々に島が見えましたし、北海道祖人は、伊豆の海を越えて3.8万年前から黒耀石を採取していた(世界考古学史上の金メダル)海民の子孫なのです。その基盤となった青森は、太平洋からと当時は大雪の降らなかった(対馬暖流無し)日本海側の両側から北上した文化融合の先進性があり、津軽海峡も狭く冬季は歩いて渡れたでしょう。これらから、米2学者が北海道ルート仮説をすでに動画発表し、取り込んだ他の歴史解説動画も出ているのです。

アラスカに迫る移住ルートですが、③aは食豊かな昆布ハイウェイで、明治32年に北千島を調査した鳥居龍蔵は、その石器時代的な「遊動」海民の暮らしをしている(「第1アイヌ」である)自称「ルートン」の人々が結局はアイヌ伝承の「コロボックル」であるとの心証を得たなどのルートを支持する痕跡もあります。③2aは、松本博士の「環日本海諸語」族による陸地部~オホーツク海北岸地域~陸地部をベリンジアへと狩猟移住したものです。内陸バイカル湖地域からの③bは、巷間書ではシベリア東部中央をアラスカにまで線が無造作に引かれていますが、「ヴェ」ルホヤンスクと「スン」タルハヌスなどの山脈が立ちはだかる地で、始まり時代のそんな線の東進はムリだったでしょう。北の北極海沿岸地域にRHSヤナ遺跡がありますが、東方に通常ペースで移住して行ったとは見られず、寒さ緩和期の一時的な使用だったと考えられています。東部シベリアは、現代でも冬季には最寒―70度Cで、2名の死者を出している厳しい地であり、遺跡空白地域でもあって、移住があったとしても図赤破線オホーツク北岸からの陸地移住だったでしょう。

いよいよ米本土進入ですが、今回の2.3万年前の足跡発見で、➃内陸の無氷回廊の開いていない時代の「北の舟乗り」による沿岸昆布ハイウェイからの第1多波移住となります。北の冬の海は転覆・浸水などで海水につかれば、凍傷や死となる厳しいものであり、狩猟族が簡単に成れるのかという問題もあって、ここでも伊豆を行き来していた海民史は、再度想起されるべきです。子供・学生、世界に、北海道と伊豆史を。国際共同研究による更なる深化を。

「最初のアメリカ人」問題は、米学者に北海道発ルート説を唱える者が出て来ていましたが、Aニューメキシコの2.3万年前の足跡から沿岸進入で整合し、B言語的にも30語族も類縁の五月雨多波です。

B1境界を考慮すれば、B2環日本海諸語族(当然、北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoを含む)の北上がはっきりしました。重要なのは、定説が崩れた北米から南米への移住が、C急行などではなく8,500年間の通常ペースであったと考えられる事で、やはり移住は行き先が分かっていたわけではない、行きつ戻りつ少しづつだったのです。すると、C1その分の同一距離をアジアに戻した出発(シベリア東部~千島)は3.2万年前となり、最寒期LGM前の寒さが緩和していた時代で、北海道からの出発もぴったりであり納得しうるものです。そしてDNA論者が唱えていた、「人類はベリンジアで数千年足止め滞留してDNA変化し、寒期の終わりから南下を始めた」説も、特に滞留は必要なく崩れる事でしょう。そして、アメリカ先住民のDNAは新しいB3ユーラシア内陸言語圏系が強いとDNA論者が言いますが、ともかくB1境界を越えた以降、環太平洋言語圏特徴に溶けていったことは重要です。顔や体やDNAが私たちに似ていても、日本語がしゃべれず、生魚よりハンバーガーが好きなら、その日系4世はアメリカ人なのです。DNAが万能ではないのです。

更に、最新の実験考古学研究(オハイオの州立大)によれば、マンモス生体の厚い皮膚や石器のアーミーナイフ的な状況等から狩りは一般的でなく、マンモスは孤立・病気・死後などの状況での解体であり、よく言われた「父が子に誇張して自慢するくらいにまれな事」であったようです。北海道の始まりは北からマンモス・ハンターが入ってきて始まったという巷間多数の書籍は訂正しましょう。問題は、このようなことなどを日本の学界は、はっきりしていないからと言い訳して教えませんが、米大陸「急行」移住説の否定、マンモス・ハンターの来なかったどころか「居なかった」ことなど、教えていたことがどんどん否定される程度の事なのですから、周回遅れを止めて子供・学生にこういう話があると教えましょう、世界に発信しましょう。国際共同研究を主導しましょう。

現生人類の東方拡がりは、出アフリカからベリンジアへ登山するように北上し、下山するように南米南端に拡がりましたので、「環太平洋」という認識は前回の金関博士の習俗文化論や 今回の松本博士の言語論 は自然なものですが、学界は未だ教育にこれを打ち出していないのが現状です。感覚的に 「極東」認識の欧州学者がリードしてきたために、導入が遅れた影響も一因でしょう。(以下、日本祖代研究会が理解し、各国の最新の研究成果を踏まえ付加した内容の紹介です)

元日本言語学会長の松本克己博士(昭和4年・1929~)は、6~7千年前まで遡るのが限界と言われる言語研究において、数万年前を視野に言語の起源をグローバルな観点で考究され、旧来の方法を超越して奥深い類縁要素を見出し、その物差しで世界の語族の時代影響(辺境に押しやられ、隔離地域に孤立)も考慮されて、言語類型地理論のアプローチにより、従来の北方・南方論でない画期的な論を導かれました。
結論的に言えば、 1.環太平洋沿岸(ユーラシア東岸地域とアメリカ大陸)の言語に類縁性を見出し、2.ユーラシア内陸の言語との明確な違いで区分され、3.西太平洋沿岸の北部群と南部群や米国の東部と西部、米新大陸太平洋側の帯状地の特質、チベット・ビルマ諸語の意義、消えた南方スンダランド地域やベーリング地域古語への考察などを明らかにされ、4.孤立語と言われ古さのSVO型などの特性を有する日本語の位置は北上した北部群で、かつこの環日本海諸語はアメリカ大陸へ北上継続したとされました。普通には北海道は含まれる(含まない事情無し)と考えるべきでしょう。また、5.ウラル・アルタイ、タミル、拡大シナ・チベット説など巷間幾多の日本語系統論、言語論の誤りを正されました。そして、日本語の遠い同型語を探し、起源を明らかにするためには、特に1.東南アジアと2.アメリカ先住民を研究するべきと述べられています。

さて、A米国ニューメキシコで、それまでの認識を数千年遡る2.3万年前の足跡発見により、当時は内陸の無氷回廊は氷床に覆われて不通であったことから沿岸・昆布ハイウェイ沿いの進入が新定説化しています。このB環太平洋・沿岸ということで、松本克己博士の同名の語族論ですが、あまり知られていません。言葉のルーツ研究は、時の経過で変形が原型を留めなくなる6~7千年前程度が限界と言われています。近代欧州語と違うということで粗雑にくくられたことに端を発する、戦前からのウラル・アルタイ説など 巷間幾多の日本語起源論は、実は殆ど学問的に役に立たない 古典的な比較方法などによる もので、批判と吟味に耐えない代物なの です。博士は数万年前の後期旧石器時代(祖代)を視野に、言語の内的に 根強く 存続する「類型的特徴」10数項目の要素の奥深い骨格のつながりである「類縁性」に着目し、個別言語でなく語族を対象に探究(例えばRとLを聞き語りで区別できるかどうか、一人2匹のように対象で異なるかどうかなど)され、その物差しに照らし「類型地理論」アプローチにより、前述の諸成果をあげられたわけです。太平洋の島々などのオーストロネシア語も環太平洋に含まれ、何よりもアメリカ南北新大陸が類似であることを見出している独創性であり、それまでの長く論議されてきた甲論乙駁の北方・南方起源諸説を超越しています。その内陸との概ねの違いとなる図の破線(言語比較要素によって線形に多少の差異)に着目すると、日本祖代研究会では最新の歴史研究成果も踏まえ、基本的に⓪アンダマン海から➃環日本海諸語、⑤「米臨海古語」は新語で上書きという「花づな」のような海の連なり「花綵海」沿岸に、+内陸高地の特にチベット・ビルマ東部が加わっていると理解しています。

これは、男系Y遺伝子の最古 D 型が、アンダマン諸島・チベット・日本で共通に高い頻度で現れて不思議とされてきた事を普通に理解できるものとなっています。Dが残ったのは、人里離れた高山か離島というわけです。更に、この 「花綵海」 沿岸史観は、チベット・ビルマについて、学界に見られる北ヒマラヤの内陸ルートではなく、インド洋沿岸から河川沿いを遡行北上した沿岸系なのではと言語の類縁性の面からも考えさせ、アジア史において重要な意味を有しています。いずれにしても、「最初のアメリカ人」は、3万年前頃、この「花綵海」ルートからの第1波は五月雨の多波であった(言語数の膨大・語族多数から)と考えられ、その万年後、無氷回廊が開いてから影響力の強い種族が、第2波で 陸続と 進入し拡がったとする重要な歴史説です。問題は、内陸言語圏の者がシベリア~ベリンジア~米大陸に入って行って、DNAはともかく、先住の太平洋沿岸圏の特徴に変わっていったと考えられることです。この環太平洋に着目した論について、学界は第1級の研究者である金関博士の習俗文化論、松本博士の言語圏論を子供・学生に教え世界に発信、国際共同研究を主導して深化させるべきです。

右図、50年前の金関博士の「環太平洋文化圏」素論は驚きの慧眼であり、米国南部ニューメキシコにおける2.3万年前の足跡発見で、「最初のアメリカ人」に関する定説が揺れ崩れた世界史界が注目すべき温故知新です。

他方、それは当然にして博士が本来追究していた日本の起源に迫るものです。左図、DNA分析の出アフリカ史観を当時知る由も無かったですが、専門の古人骨の研究に加えて諸学による習俗文化研究の成果を俯瞰し、甲論乙駁の議論があった起源問題に対し、南方原郷認識に基づき、①大規模な渡来、民族の入れ替えのようなものはなかった、五月雨渡来による混血影響はあったという最も優れた説に達しました。これは現代の1a~dまでの認識、即ち騎馬民族来なかった、マンモスハンター族の痕跡は無い(大陸の細石器文化の影響とみられるものは、中小動物の狩猟用)、始まりの日本祖人Proto-Japaneseの列島広がりは北部九州からの南下と東進北上であり、今、北海道からアメリカ新大陸ヘの北上継続に世界史界の注目していることなどと整合しています。

そして特筆すべきは、②女性文化の伝統継続論です。2a入れ墨や土器の製作という女性に関わりが深いものが、縄文から弥生へと途切れなく継続していた事に着目し、2b大陸・半島からの渡来は、前衛たる男であったので、混血しても女性文化伝統が失われることがなかった事を思料されていますが納得です。このことは重要で、天照御大神、日巫子、神功皇后、「ノーベル文学賞」の紫式部・清少納言、話題の北条政子・・・から現代の肝っ玉母さんに至るまで、日本の大きな特性になっています。日本史を知らない洋風かぶれのフェミニスト達の告げ口で、国連は日本の女性の扱いが120何位とか言っていますが、全くトンデモないことであり、フェミニストらが日本女性を貶めています。ともかく、50年も前に博士の到達した日本の起源についての論も素晴らしい内容です。むしろ、博士が俯瞰した基本に反し、曲解している現代のDNA分析の例が散見されますが、温故知新で正されるべきであり、残念ながら博士を超える説が見当たらないのが現状です。子供・学生に教育し、世界に発信し、国際共同研究を主導して真の深化を図るべきです。

参考 金関丈夫・日本民族の起源及び解説・池田次郎 


既に登場していた右図北海道ルートに加え、 昨年の米国ニューメキシコにおける2.3万年前の足跡発見で、 これ迄の諸定説が崩れ揺らぎ、前回のスミソニアン博物館の解説を皮切りに、新定説の再確立の時代の模索の幕開けです。

さて温故知新、①半世紀前の金関博士の「環太平洋文化圏」提唱は、当時把握できた史実について、東部ユーラシアとアメリカ新大陸を俯瞰されて、習俗文化に着目し、かつ、発表されたことも今の時代の腰が引けた陽だまり学究時代に、学問的に高く評価されるべきものです。習俗文化については、例えばアメリカ日系4世がDNAは私たちに近くとも日本語を話せず、生魚よりはハンバーガーが好きなら、はっきりアメリカ人であり、DNA分析を万能の如く振り回すのは誤りです。仮に万年前のDNAの影響が消滅していても、習俗文化が残されていれば学問的に尊重すべきです。金関博士は縄文期の事ながら、特異な②石器や③抜歯風習に着目し、「環太平洋」における類似性という視点の認識に至り、しかも日本で発見された最古級のモノだからといって日本発とは言えない、例えば豪の旧石器文化と共伴する物は注意すべしなどとされているのも誠実な学者として素晴らしいです。更に、➃圏内の他の類似にも言及されています。現生人類のアフリカ発もDNA分析による系統図も分からない時代に、現在よりは各地に痕跡が感じられたとはいえ、起源追求の視野と慧眼には敬服いたします。今では例えばA入れ墨の習俗は、裸体で見せることに意味のある南方発の精神性を伴う習俗文化ですが、中・南米にまで受け入れられて共通性が見られ、他方、北から鎌倉時代に北海道に入って来たアイヌが、美しいと感じて北海道先住のコロボックル(当初否定論と言われた鳥居龍蔵は、明治38年頃には諸事象―①低い身長、②口辺・手に入れ墨、③竪穴住居、➃石器時代の人民で土器・骨器使用、からむしろ符合として 肯定的であった)から学んだと伝承に残していることは、 内陸性と沿岸性の違いを示す重要な指標です。   

同じくB日本語について、松本克己博士が軌を一にする「環太平洋語族」論を発表され、また、アンダマン、チベット古語との祖代語以来の共通性(上垣外憲一―ハイブリッド日本)は南方を基層とし、その上に大陸アルタイ系の影響が重なったという認識は今では一般的です。そもそも金関博士が、そういう認識に至ったのは、北部九州から始まったものは大陸の北方要素とする当時の論調に疑念を持たれ、賑やかな南方、北方要素論議を超越するかのように考究されて「環太平洋文化圏」認識を打ち出されたのも素晴らしいことで、南方沿岸性と大陸内陸性の違いという、私たちが有するこの2重性をも既に認識されていたのではと推察します。因みに、日本祖代研究会では、図右上Cの東南アジア最古人種のインマレイド(出アフリカ黒人が東進により、沿岸・熱帯雨林等の暮らしで多少の変化。ともかく旧モンゴロイドと欧州学者が命名したのが誤解の元で、寒冷・降雪・強風に適応し身体変化した新モンゴロイドを、モンゴロイドと呼称すべきです)に着目し、出アフリカ現生人類の東進による始まり時代の有力移住ルートとして、環太平洋沿岸ルートのIMPOR(Inmalaid Migration along Pacific Ocean Rim)仮説を提唱していますが、その基本は半世紀も前に金関博士が認識され、発表もされていました。無論、半世紀前の事ですから、全てが正しい訳ではありませんが、「最初のアメリカ人」を巡り新たな定説の模索に入っている今、等閑に付されている「環太平洋」視点を子供・学生に教え世界に発信し、TPPやインド太平洋戦略の時代に、国際共同研究を主導して学問の進展に寄与し、教育を向上させるべきです。

AT THE SMITHSONIAN(December 28, 2021)で、昨年ニューメキシコで発見された2.3万年前の足跡について、①図4項目の解説が出ました。

1.最終氷期最寒期LGM前に来たのだろう、即ち、足跡が発見されたLGM時代は寒くて東部シベリアやベリンジアを移住していくのはムリと言う判断で、同じ見解の納得です。2.それまでの1.3万が実証で2万年前ということになったとするスミソニアン認定は重要で、事実として踏まえて今後諸説を考察することになります。そして、米大陸進入が数千年遡ったため、3.欧米学界を反映し、議論盛んな大型動物の絶滅問題について、人との共存の期間が長く、絶滅は進入狩猟族のせいではなかったと判断したことです(これは、気候環境派に凱歌が挙がったとされる重要なスミソニアン認定です)。述べられていませんが、「入って来たのは沿岸族で大型動物は狩猟しなかった」とする判断もできるのです。そして、4.大人と少年・子供の「分業」の可能性問題は、先史学者にとって重要な社会問題です。
他方、 慎重なためか、南米へは急行ではなかった、即ち移住は、ず~と牛歩の歩みだったという重要な事があります。これによりアジアからも厳しい環境を牛歩で来た状況であっただろうと思われますから、①寒さと②牛歩から、相対的に既に出ている北海道ルート(伊豆の海を行き来していた祖人の子孫による)の方が良そうですが、スミソニアンは触れていません。


これまで沈黙の日本学界 は、②図に関する国際共同研究を主導して深化させ、寄与することが求められているのです。(なお、これまで既述の発見足跡の時代2.3-2.1万年前、LGM2.6-2万年前に、修正します。判断内容の記述には変更有りません)

渡米が数千年遡り、最寒期LGMの発見は極寒の東部シベリア~ベリンジア行動に疑念が。1.4万年頃からの無氷回廊は未だ開いていないので沿岸進入に、そして北米から南米へ急行1,000年南下の定説が崩れ、8,000年を要したのならば、それ以前からの普通のペースだった。

するとアジア出発は3万年前と言う数字に(寒さもやや緩和期)。米2学者が発表していた北海道出発ルート仮説は「マンモスを追った」定説ではないが注目され、「昆布ハイウェイ」やベリンジア南岸は小島が連なる「ベルトコンベア」の様な「一時的な列島」状態だったと沿岸進入説を補強する研究も登場。さて、シベリアの狩猟族はまあ分かっていますが、北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoはどうだったのか? 縄文前の初代、約4万年前からの始まりの(日本)祖代は、夜に灯りをともしたとすると結構今と似ていました(近畿・東海は少)。何よりも「曙海」沿岸から多くの家族が渡海して来た民であり、造舟・海洋漕舟能力等を有する祖先は、原始人と言うべきではないでしょう。従って、3.8万年前には伊豆の海を当時の宝物の黒耀石を求めて島へ行き来し(世界考古学史上の金メダル)広域で交易していたのも驚きではなく、オットセイが仙台で見られたように(北海道には慣れ易かった)、渡来から渡米(「昆布ハイウェイ」)までまあ食に恵まれていたルートと言えます。いずれにしても、これまでの定説は大きく揺らぎ、日本の祖代の様子は知られておらず(要発信・研究)、足跡衝撃にコメント出来ずに新たな定説の構築へ向かう「行く年来る年」です。ともかく現状の沈黙しているのはダメで、世界に発信、子供・学生に教えて将来に期待、国際共同研究の主導を、です。

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