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前回お伝えしましたように、フェニキアPhoenicia人の一般的なイメージは、地中海貿易で活躍し、その後の欧米文明の源とされるギリシャ(サラミス海戦 480BC)、ローマ(ポエニ戦役第1~3 最終146BC)に敗れた助演、いや敵役というところでしょう。

 しかし、その地には7千年前の宗教施設、居住跡等の遺跡が残り、DNA調査ではこの地で12,000年前に遡れる人たちだそうです。
十字路と言われる地で北には貿易ライバルのウガリットがおり、ヒクソス、ヒッタイトそしてエジプトなどに侵入したSea Peopleと呼ばれる盲動集団、更には東方のペルシア帝国などの攻防、興亡の地にあって、長期にわたるその遺跡に破壊された痕跡がないということが発掘した研究者を驚かせました。
ライバルのウガリットの地には破壊された痕跡(BC1182 陥落)があります。

興亡の中、常に地位を保って生き延びたことはフェニキアの特異な性格を示すものでり、その魅力、政治性や町の防護力などを示しています。

下図は、フェニキアの中心ビブロス(エジプトのパピルスの語源と言われる)周辺の興亡の地です。東方のシリア・パルミラは、最近ISISにより貴重な遺跡がかなり破壊さたことで有名です。シドン、タイアを含め3地の勢力が特に活躍しました。(wikipediaから作成)

そしてよく知られる貿易網は下図のとおりで、ギリシャ、伊ローマを除き一集団としては傑出した広域性を示しており、ローマの制海権の中、ヴェニスにも拠点があったという資料もあります。

ギリシャとのサラミス海戦(紀元前480年)に敗れてカルタゴに重点を移し、結局ローマとの長期3戦役(ポエニ戦役 紀元前264年から紀元前241年)も一時は遠征した名将ハンニバルが仏からの「アルプス越え」で進入し、ローマの心胆を寒からしめましたが留守の本国がローマ軍に崩されて結局敗れました。

最後は地域も人も徹底的に破壊されて歴史の波の中に消えていきました。しかし、各地の貿易拠点など受け継がれたその文化はあった筈です。

 

アラブキャラバンなどとの陸上貿易もありますが、フェニキアと言えば以上のようなイメージです。

他方、それ以前のあまり知られていない東方での貿易・輸送は、紀元前26世紀エジプト第4王朝クフ王の時代、プント国”Punt”から黄金がもたらされたという記録があるということからそれ以前からの活動も推測されます。

全盛である紀元前15世紀  Hatsyepsut女性ファラオの時代にはヒエログリフに”Punt”の記録がかなり細部にわたりはっきりあり、また、3千年まえのユダヤ栄華のSolomon 王のほうも3年に一度”Ophir”からもたらされる金等に関し記録があります。

正にこれらの大スポンサーのAが望むものを見つけ、基本的には入手先のBが望む物をアレンジすることで大きな財を成しました。

有る物を届けるだけというよりもサイドビジネスの記述もあり、前回お伝えした近年のOphir情報では、更に現地開発事業というべき状況にも至っていたようです。(海外で活躍する日本商社のはしりのようです。)

そこで疑問は、地中海東岸の小国フェニキアが何故、東方でもいわば独占的に広域にわたる貿易を成し得たかです。

実は万年前のDNAから推測し得るそもそもの始まりから、舟を操り海に馴染む特性有る漁民として理解されています。(ここに至る以前も興味深いです。)

そしてフェニキアのレバノン杉と松が、アカシアや葦程度のエジプトなどにとって権威の源の宗教施設等の建設のための貴重品であり、かつ、フェニキアが伐り出して波のある外海を(カイロ河口まで)運び得たことが何処も成しえない決定的なことでした。

そして、Solomon 王には、東方において3年に一度という長期の大航海・滞在力という真似のできない行動力を発揮して金 、また、ヤハウェの神殿や王宮の欄干及び歌唄い達の竪琴や琴を造ったアルムグの木、その他各種の貴重品を届け財を成しました。

この「海の王子たち」と形容される傑出した操船航海、恵まれた木材による当時斬新な竜骨ある船体の造船、広域情報・交渉・海賊対策等の貿易力などに注目すれば、活躍の中から西洋文明の基礎となるアルファベットを生み出してそれが広域に拡ったのも不思議ではないです。

時代は下りますが、ペルシアアケメネス朝haxāmanišiya紀元前550年紀元前330年)とも折り合いをつけて生き延び活躍しています。

 

フェニキアは、当初はアラブキャラバンの運び込んだ香料、香辛料などでギリシアとの貿易も扱っていました。

が、ペルシア帝国下で地中海の貿易相手・拠点を競う同種の海運ギリシア、また、制海力を有し大帝国に発展していく異種ながらローマというこれらの眼前のライバルたちとは、結局折り合いはつかず、戦いに敗れ消え去った訳です。

基本が大帝国を指向しない・できない海の貿易大商人であったということでしょう。前述のファラオやSolomon王といった大スポンサーがいなくなった時代は、フェニキアが縦横に活躍する時代ではなくなったとも言えるのでしょう。

一つ注目したいのは、エジプトにとっての宝の島”Punt”、Solomon 王にとっての宝の地”Ophir” が今もって研究者を迷わせるその秘密保持、あるいは多少分かったとしても全く真似できない独占的な航海貿易力です。

フェニキアの長期にわたる東方航海貿易は、上図の紅海からアラビア海を経てのものですが、それではペルシアやインドの昔の状況はどうだったのか?その更に東方はどうか?については、次回、お伝えします。

以上

 

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プラトンPlatoのアトランティス話は、ギリシャの政治家・立法者ソロンがエジプトMusirの神官から聞いたとされる遠い昔(11,600年前頃)に繁栄したが、堕落し邪悪な意図で地中海に艦隊が攻め込みギリシャ連合に敗れて本国も海没した王国についてのものです。

何しろ万年前の遠い昔のことですので、遺物を見つける事も困難です。そこで筆者のプラトンの当時の認識についてですが、先生がソクラテスでありその前には最初の哲学者と言われるタレスの存在があり、タレスは前述のソロンと共にギリシャ七賢人の一人です。

 Thales – タレス – Wikipedia
エジプトはナイルNilの賜とは、豊かな産物をもたらしたということだけでなく貿易による幅広い知の獲得が含まれており、エジプト神官の知の源で、タレスが船乗り、商人であったこともそれを象徴しています。
プラトンのアトランティス話は、アトランティス側が大艦隊を地中海に送ったことでもわかりますが、このような当時の海洋活動と「知」を背景にしているということです。
そのエジプトの貿易、更には人々をしてあの壮大なピラミッドを造築しうる求心的な体制維持にも寄与したのが、フェニキア大航海人です。
フェニキアPhoenicia人の一般的なイメージは、地中海貿易で活躍し、その後の欧米文明の源とされるギリシャ(サラミス海戦 480BC)、ローマ(ポエニ戦役第1~3 最終146BC)に敗れた助演というところでしょう。
このことは、フェニキア人が地中海で活躍する以前の東方貿易で果たした重要な役割について確定的な史実の確認の難しさもあり、見え難くしています。
その第1は、エジプトHatsyepsut女性ファラオ時代の神の国・宝物の地”Punt”から大量の貴重な品々を得たとヒエログリフにはっきり詳しく刻まれている大航海(15世紀BC)です。サラミス海戦の千年も前のことです。
その場所は、依然謎とされていますが、大航海であること、得た品々、Puntの様子などから通説より遠いインド洋を越えたパンカルPangkal地域と考えられます。
フェニキア人なしにはこの大航海は考えられず、実は船もフェニキア人の物でありフェニキアの船がヒエログリフに刻まれていると言われています。
その第2は、古代イスラエルの最盛期を築いたソロモンSolomon王(紀元前1011年頃 – 紀元前931年頃 wikipedia)の神殿の建設木材はもとより、東方から貴重な品々を得て届けたのもフェニキア人です。

そこはOphirと呼ばれ3年ごとに金、銀、白檀材、真珠、象牙、孔雀などを得ていますが、やはりOphirの場所は謎です。これもパンカルPangkal地域であり、フェニキア人の長期にわたる大航海能力を示す比類ないものです。

そして、2003年に豪Sarinaで興味ある情報が研究者infomasi oleh peneritiから寄せられています。先住民に係る土地に絡んだ難しい問題があり、研究は進捗していないようですが、パンカル地域東端への航海事例として興味深いものです。

このように、フェニキア人の東方での航海能力は史上重要な興味深いもので、甲が正に望む権威に係る得難い物を遠隔であっても長期航海し乙から入手して届けました。

また、プラトン時代からほど遠からぬ昔のパンカル地域の豊かさも確認されます。

次回、更にフェニキア人を追ってみます。

以上

 

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プラトンPlatoのアトランティス話は、遠い昔の繁栄したが海没した王国についてのものです。そこで、人類史の流れの中でロマンの「宝島」は何処かを求め続けた活動の視点から考えます。

①我々に繫がる現生人類は、アフリカで誕生し出アフリカ(10万年前頃)後、アジアではユーラシア南部をパンカルPangkal地域(南印~北豪:古DNA共通)に至り、北上して拡がり続けました。

2万年前頃には寒冷降雪地への適応変化をしたDNA型の人々がシベリアからベーリングBering地峡を越えて新大陸アメリカに渡り、南下を続けて学者を驚かすスピードで南米南端にまで達しています。

②ところが最近の研究(Harvard医科大)で、一部の南米アマゾン部族に古い南方のパンカル原型DNA(寒冷降雪地への適応型でない、ベーリング地峡からの進入型でない)が見つかるという驚きの発見がありました。

パンカル地域から直路、赤道沿いに南米に至るルートは、これまで確認された遺物等では1桁違いの全く新しい(3千年前頃以降)ものであることから、日本を経由しlewat Jepang北太平洋を横断、米大陸太平洋岸を南下したルートRLPPが、これまでの古い遺物の発見などから考えられます。

③他方、アトランティスに類似したこととして、エジプトのヒエログリフに残る神の国・宝物のある地”Punt”、そしてユダヤ民族栄光の実在のソロモン王が宝物を得た”Ophir”があります。

これらは、マルコ・ポーロが伝えた”Zipangu”(当地ではJepang)含め大航海時代のポルトガル、スペインの海外進出にも影響しています。

④そして、Atlantis, Punt, Ophir は何処かについてという関係から大変興味深いのが大航海商人のフェニキアPhoenicia人です。

これらを下図に記し検討することとします。白字・線は万年の先史で、黒字は古代史と地名、黄色はフェニキアについてです。

標題は、人類の展開、ルートLPP説(RLPP)、「宝島」伝説、そしてフェニキアとし、関連を総合的に考えるものです。

 

赤は、「宝島」関連地です。

白部から説明しますと、まず出アフリカ、パンカル原型DNAの遠隔地における共通性、米大陸への2ルート、そしてAtlantisです。米大陸への2ルートについては、近年、とみに先史遺跡研究に成果を挙げている米国に期待しています。

黒部の「宝島」の特にOphir候補地説ですが、Solomon諸島は正に王の名のとおりですし、南米Peru説を唱える学者がいます。Puntについては、世界の学者が依然、探していますがフェニキアとの関係をもっと調べる必要があると思い紹介します。

黄色のフェニキアPhoeniciaは、同民族の移動、確認された初期及び活躍の時代です。特にエジプトとの関係が大変興味深いですし、確認されている始まりの12,000年前は、Atlantis同様に人類史上で注目される画期的な時期(更新世から完新世)です。

次回、それぞれのファクターから総合的に検討いたします。

 

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