It’s about New Theory on human migration to American continent and explanation of answer about mysterious result on the latest DNA analysis of 3 Amazon tribes by Harvard Madical School.

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StepInAmericaRLPP

日本から千島列島、カムチャッカ東部、シベリア東部、万年前は陸峡であったベリンギアを経て現生人類である日本祖人が米新大陸に進入したことに関し、実は両地域には鏡面対称構造という聞き慣れない大変興味深い、そして人類にとってはラッキーだった状況があります。

それは下図で、太平洋の中央に南北の線(図の鏡面線)を引いて左右を折り重ねると、西側は台湾からシベリア東部、東側は北米大陸西岸地域からアラスカ西岸のそれぞれ約16,000kmが緩やかな弧を描いて重なり合い(鏡面対称)ます。海岸性の環境に生息する甲虫など生物の「群集」が、属や種を異にしても似た生態系ネットワークを持った構造を作り出しており、気候、気温、海水温などもそれぞれの側が似たように変化しています。(モーリーNo39号 大原雅宏 北大総合博物館教授記事から)

(同上 大原雅宏教授の記事掲載図に付記)

ハーヴァード大のアーサー・グレイ教授によれば、大昔(新生代第3紀)には極圏まで温暖でシベリア、アラスカが温帯性の典型的な落葉性広葉樹林で覆われ、その後の極寒第4紀にはその地域の広大な範囲が氷河で覆われたが、再び温暖化して氷河が消え植物が(極圏に向かい)北上し現在のようになった、同一の起源に由来するからに違いないとしています。(同上、大原 雅 北大地球科学研究院教授)

即ち、現生人類たる日本祖人・子孫の米西海岸への沿海の拡がりは、緩やかに環境に適応し北上して行きながら山に登り降りて来たように感じられます。そして思いのほか、沿岸部では出発地と頂上の温度差が無かったということでした。

ベーリングを越えたら全く違う世界ということではなく、似た環境をどんどん曾祖父が昔聞いたと言う遠い昔話の世界に戻って入っていくような不思議なラッキーな状況でした。

さて、

前回は、日本祖人-縄文人の南方海人型の人達とエスキモー・アレウトの人達との人間・暮らしの近さという明治時代の先達の研究を現代の視点で見直すことから、当サイト新説の北米新大陸への日本祖人の進入をみました。

この進入に関し、先ず先達の論争で注目すべきは、千島列島の最大は70kmに及ぶ①海峡・水道を小舟で家族が渡るという容易でないこと、②最寒のシベリア東岸を生き抜いて米大陸に進入していく厳しい行動をしたこと、に対し当時の論争においてそんなことは無理だと言う否定または批判する言説が全く無いことです。

この北太平洋地域をコロボックル・エスキモー・アレウトとみなす人々が南下しまた北上して拡がり行動したのだろうと思いを巡らせた当時の学者さんたちが、事が3千年前にしろ、万年前と考えていたにしろその実行の可能性に誰も問題を感じずに、ただアイヌだったのかそうでなかったのかについて議論していたことは、特筆されて良いと思います。

といいますのは、江戸や明治の時代になってもそれら種族の衣・食・住、小舟、漁撈・海獣狩りなどの暮らしぶりは大昔の原型をかなり留めていたとみられますので、そういう状況でこの北辺長距離の生活移動が可能で何ら問題なかった行き来と認識していたことになります。

さて次に続きまして、このベーリング海沿岸の米大陸アラスカ進入後の南下については、③氷河が一部の地域では海岸にまで迫っていた(下図の赤丸)らしいという問題があります。

アラスカ湾のこの地域では、海水面が100m下がっていたとしても氷河に覆われなかった島があったという沿岸海中の状況ではなく、どうも取り付くシマも無かったようです。

アラスカ・アンカレッジを過ぎて東進南下して、ここまで来れば寒冷の問題はそれほどではなく食料の問題もないので、夏季に百数十kmを1泊行程、向かう行先の地域に至る状況の偵察が出来ている家族移動ですから、まあ暖かい南の地への沿岸航海を果たし得たでしょう。

その行先の方には、今も海の民の子孫であることを誇りにするハイダ(「沿岸の」の意」)族が太平洋岸の島で健在です。

日本側では、歴史書に倭人は海物を食し沈没して魚鰒(あわび)などを獲るとありますが、荘園制が出来た時に海人・網人などが百姓と分類されて後には「士農工商」となり、海の民が分かり難くなりました。

民俗学者の柳田國男が訪れた沖縄では、海に囲まれた島であっても意外にも海に背を向けた暮らしの人々であると記すほどその後の時代に九州と大陸からも人の流入があってすっかり暮らしぶりは変わりました。

しかし、魚貝を獲りに行くことを「海を歩く」と言い、12歳頃から筆舌に尽くしがたい年季奉公で鍛えられた熟練で名高い糸満海人ウミンチュ、長崎県北の家船民、薩摩隼人海人、伊勢の海人など各地に海の民の痕跡があることを大昔の貝塚などと共に感じることができます。

また、三浦三崎の漁民がシャチを海の主として捕らず、捕れば家が絶えるとしてますが、北のアレウト族などはシャチを神としており、また、獲得物は神からの贈り物あるいは御贄として貪らず平等に分けるといったことなど、南から北まで海の民の共通性も感じられます。

これらのことは、現生人類の海の民による北海道太平洋岸からベリンギア南沿を経て米国北西岸まで、正に沿海の鏡面対称の人の繫がりのように感じられます。

そして、当サイトで長く紹介してきました大昔の東南アジア・パンカル半島Sundaland地域の人々の北上から南米アマゾンの古いDNAを持った部族の人々に至った赤道下の大いに離隔した繫がりがあり、この環太平洋の旅路の始まりと終着の行路(RLPP)は、ある意味で鏡面対称的になっていることが不思議に面白いと思っています。

 

21世紀の世界の理解は、この太平洋鏡面対称的地図が適切だと言いたいです、米トランプさんにも。

(了)

ご愛読有難うございました。行く年来る年に想いを馳せつつ暫く休憩しましてからまた研究を続け、いつの日にか再びご報告ができますよう、「微力でもお国に」を目指して歳に応じマイペースで努めて参ります。

来年は酉年、世界特にアジアではバタバタ激動の予感もありますが、皆さまのご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げます。

Merry Christmas & Happy New Year酉

結論的に、明治時代の日本人類学創設の頃に存否論争があった日本の「先住民コロボックル」はエスキモー・アレウトに想定されましたが、現代の視点からすれば日本祖人-縄文人の南方海人型の子孫であり、北のベーリング海域に渡って行きアラスカ、アリューシャン列島にも至ったものと考えます。(当サイト新説)

いずれにしても、今と比べ全く不十分な資料から3千年前か、数千年前か、万年前かと想いをめぐらした明治の先達でしたが、アイヌと異なる、アイヌより前の先住民コロボックルが北のカムチャッカ、アリーシャンに行ったのだろうと現代の当サイトと同じようなことを考えていたことは誠に驚くべきことです。

現代において北海道から同じルートで渡米を果たした、往時を模した小舟で千島の海峡・水道を越えて苦労の多い冒険航海を試みた記録がありますが、同様の移動を果たした「海の民」日本祖人(子孫)は相当なものだったと感じます。(勿論、多くの失敗の悲劇もあったでしょうが)

さて前述の結論に至る話に戻ります。

前回、4万年前頃からの日本の始まりにおける「海の民」に注目し、日本祖人の渡米に関して今に残る痕跡をかすかに窺がわせるベーリング海南部に暮らすアレウト(アリューシャン人)を紹介しました。

(写真は上下とも、アリュート民族 ウィリアム・ラフリンから)

そして当サイトが注目しますのは、明治17年、初めてコロボックルについて学会報告を行った渡瀬東大教授が、札幌近傍遺跡で暮らした人たちがそれであり、アリウト人(コロボックル)はアイヌに追われ、と移住の可能性を示唆したことです。(下線部は、長野県の三上徹也先生の著書 「人猿同祖なり・坪井正五郎の真実」、以下下線は、三上本)

当時の外人教師の英人ジョン・ミルンは、北海道を比類無く広範囲に調査し、「カムチャッカ、樺太サハリン、千島から北海道・エゾの西部の札幌に至るまで、エスキモーとの関係が推定される竪穴に住む人たちが居たとし、コロポクグルに充て、アイヌと異なる別の種族」として論文に書きました。日本人類学の祖、坪井正五郎東大教授が実在説を唱え、石器時代人民と言い換えて日本人類史にはっきり位置づけました。そして、エスキモーに似たものと思っていると述べています。(三上本から)

長く続いた論争は、当時の第1級のフィールドワーカーで大陸から千島などまで実地に踏査研究した、坪井教授の弟子と言うべき鳥居龍蔵(東大職員)が、北千島を調査したが居たのは北千島アイヌであり、「コロボックルなど聞いたことも無く祖先の頃から此処に居たと答えた。」としてコロボックルはアイヌだという否定論が優勢となり、坪井教授が亡くなられて自然に消え忘れられています。(三上本)

―今考えても、調査時の北千島のアイヌが北海道本島のコロボックルの語の使用を知らないこともあり得ますし、何よりも昔から此処に居たと言いますが、それ以前に居たコロボックルを祖先が更に北に追いやった可能性は残ります。

さて、その後かなり経ってから、師の説に反する主張をなした当の鳥居龍蔵が、「近ごろになって北極文化に考えが傾き坪井説を見直してみたい、バルケット—スミツ博士の著書に接し、その感が甚だしくなって来た」とエスキモーに頭が向いたものの既にアイヌだという学界の流れを戻すことは時期を失していたということです。(三上本から)

当時、コロボックルをエスキモー・アリウトと関連付けた論の先達は、先ず、エスキモー・アリウトが北・カムチャッカから南下し、その後、内地でアイヌが日本人(大和人:筆者注)に追われ、そのアイヌが北海道の(エスキモー・アリウト)コロボックルを北に追いやったというものでした。(三上本)

仮に当時の先達が、日本の始まりからの時期と遺跡の流れを知り得たならば、その延長で坪井説は受け入れられていたことでしょう。

さて、コロボックル説に関してです。

彼らについての話は、なんと既に江戸時代初期(1613年)、北海道での聞き取りを行った英人の本に現れ、また、北海道を訪れたり調査した人たちが明らかにアイヌ人とは異なる種族の小人・矮人たちがいたとして10指に余る記録が有ります。発掘に基づく学問的な始まりは、明治10年に大森貝塚を発見し大きな影響を与えた米人招聘教授モースが、貝塚があった当時の人たちはアイヌ人とは違う、それ以前のプレ・アイヌ人だと述べたことでした。(三上本から)

因みに、

平成18年の第169回国会で可決された「アイヌの人々を日本列島北部周辺、とりわけ北海道における先住民である」とした決議は誤りであって、アイヌに追われるように北に去って行った小柄で漁を主とする人々、日本祖人-縄文人の南方海人型の人々などこそ先住民です。

無論、この見方はアイヌの人たちがその後、迫害や差別を受けたことを軽視するものでは全くなく、ただ先住民の語を冠するのは適切でなく、米・中・豪などの先住民問題とは全く性格を異にする点を指摘しているものです。

長い歴史を有する日本国民の中の争いの新旧、性質の問題であり、迫害・差別をした者は西日本からのいわば混血した、アイヌより先住民の子孫たちですから。

そして、

理論歴史考古学からすれば、旧石器時代中期~後期の日本からの渡米を想像しうる論拠となりうるものは、時代が下った新しい遺跡・遺物ですが関連地域にあります。

シベリア東部・カムチャッカにおけるよりも古く、「海の民」が拡がって行った日本列島から、人類史における初めての渡米を日本学界は世界に提唱すべきと思います。

先ずは、シベリア内陸発の寒冷降雪地における生活環境に適応するようDNAを変化させた北方適応型だけでなく、海の民である日本祖人・南方海人型にしっかり目を向けて、北方だけでなく沖縄・南西諸島の古い遺跡など更にこの視点で研究を進めることでしょう。

このことが、米ネイティブ・インディアンなどと異なる、昨年米ハーヴァード医科大が南米アマゾンで見つけたと言う、出アフリカを果たした現生人類human journeyの古いタイプのDNAを理解する事にもなる極めて重要な点でしょう。

以下次回、更に続けます。

(了)

 

 

 

万年の昔を探っていく場合、当然に遺跡・遺物が頼りになりますが、一番の問題は気候が今とは違ってましたのでそこを考慮することが必要であり、その端的な大きな違いは海岸線です。

下図左のように、氷河期には寒冷により海水となるべき水蒸気が南北極、ユーラシアや北米の北部、高山等で氷・積雪になったため、海水面が100m以上低下していました。

そしてその後温暖化して上昇に転じ、7千年前頃に概ね今の状態になったという訳です。

今仮に、海水面が100m上昇した場合は、宇都宮―前橋―八王子が海岸線となり、東京などは海没して遠くに房総諸島が残ります。

万年前を探ると言うことは、未来に仮に天変地異で海水面が100m上昇した場合、例えば前橋の海岸において、昔々あの海の向こうに東京という大きな街があったらしいよというような話です。

100mになる時間の長さのもたらす効果も凄いもので、2万年で100mということは、年間わずか5mm、一生で5cmですから、各人は気付かないうちに進みました。

それでも、2万年前頃からは3度とも言われる大きな急上昇による大洪水と陸地喪失があり、その語り伝えが世界の各地に今もあります。

さて、このことから逆に海水面を100m低く海の方に下げていきますと、海の傍の崖の前には砂浜が拡がり侵食も受けていないなだらかな丘であったでしょう。

今は海の下ですが、随分と拡がった沿岸に人々の暮らしがあったことは容易に想像でき、その暮らしぶりは残された近傍の遺跡から「海の民」のものであったことが分かります。

我が国の始まりは、南方起源で海を越えてやってきた人たちによる九州・沖縄から北上して北海道までの沿岸を水平に拡がっていったもの(水平拡散)と、途中の各地の沿岸から河川を山中に遡上していったもの(垂直拡散)から成り、かつ、日本列島の細長い多様な各地に適応し熟成発展させたものと言えます。

そして、ユーラシア東部近隣の西南と北から時にはかなり大量に人が入って来てサラダボールのように混在し、かつ交じり合っていることが特徴です。

歴史がずっと下って3千年前頃から入って来た農業・稲作の影響は極めて大きく、沿岸の暮らしを分かりにくくし、遡上した川岸山中の暮らしは狩猟暮らしとともに絶え絶えです。

海の民のことがよく見えないことは「士農工商」の語がよくその辺の事情を示しています。最近は海賊や水軍の語が本によく見られますが、「海部」の名(郡及び郷)の拡がりがあった時代の往時を感じさせてくれますし、沖縄の糸満海人も有名です。

さて、前回までお伝えした万年前の水平拡散で、北海道太平洋岸に続き千島、カムチャッカ、ベーリング海にまで至った現生人類、日本祖人ですが、上記のことからその痕跡を感じられるとすれば「海の民」についてでしょう。

さて前回説明した現生人類の米大陸進入の下図ベーリングルートですが、DNAはもはや殆どがβ系で、米国本土のネイティブ・インディアン、ベーリング両岸のエスキモーです。

わずかにα系の暮らしが残っていると感じさせるのはエスキモーに近いものの「海の民」であるアリューシャンのアレウト(アリュート)族やカナダ西海岸のハイダ族などです。因みにアイヌの人たちも主にβ系でしょう。

アレウト族の確かな遺跡は、鯨の形をした小島のアナングラ遺跡で9千年前をたどれる遺物が発掘されています

このα系の人たちの特徴は、何と言っても舟を操り、食物や生活用品を主に海で獲れる・採れる物に頼っていること、そして、魚介類を食してきた小柄で胴長短足なことです。

「海の民」の特徴である入れ墨、信ずる天・神とシャチを神のように畏れ崇めること、海や舟に関する様々な仕来りやタブーなどの生活における精神性です。

エスキモーのうち沿岸で暮らすの人たちも海辺の動植物に頼りますが、舟は陸地が見える近い所でしか行動せず、極めて慎重であると評される本来のβ系です。

一方、アレウト人は、小舟カヤックに彼らの体を合わせたかのようと評される小柄で背筋を伸ばし、陸ではガニ股歩きするのは、舟に乗った長い年月の伝統の作り上げた賜物です。舟との関係は陸で言えば正に人馬一体です。

(写真2枚とも アリュート民族 ウィリアム・ラフリンから)

6・7歳になれば綱付けられてカヤックに乗り始め、20歳前には既に立派に一人で乗れるようになります。他に崖の上の海鳥の卵取りや動物狩りも。

風・潮の流れ・獲物などについての知識を学び、操舟と投槍器を使う狩りを実地で身につけますが、この膨大な量のknow-howの全てが生死に直結する厳しいものです。

そして、沖に出て大物を仕留めて帰って来て誇れる男が尊敬される社会です。日本本土にも残ってますが、同様に鍛えられた沖縄の糸満漁師の社会が有名で様相が近いことが「海の民」の流れが残る痕跡と思います。

全般に沖縄の遺跡では、酸性土壌の本土ではなかなか見つからない3~2万年前の人骨まで発見されていますが、意外に石器の出土が少ないことで知られています。私は、早い時代に骨器を多用した正に「海の民」の証と考えており、いずれにしろ糸満の人たちがそういう直系だろうと。

シベリア内陸の大型哺乳動物を狩猟するβ族ではない、全く異なる膨大な伝統のknow-howを要する海人α族の流れに特に注目する所以です。そして、無理なく九州・沖縄からアリューシャン、北米大陸西岸の海洋族に繋がると考えるからです。

よく分からないため、よくカムチャッカの半ばから線が引かれて始まるエスキモー、アレウトの北米進入ですが、少なくともアレウトは、北海道から北上した「海の民」である日本祖人系、少なくとも伝統を受け継ぐその暮らし系として良いと考えます。

さて、近しいエスキモーの人たちが短命なのにアレウトは長生きし、十数名を基礎とする古くからのバンド社会で、農耕民から見たら不毛の地において豊かな海産物を得て欧州人にバカンスと言われる自然の中の暮らしです。

近くのカムチャッカ傍のコマンドル諸島では、上陸して暮らした露人が餓死全滅した記録が残っていますが。

ラッコの毛皮に群がった露人船が来て、アレウトの住む海岸が容易に砲撃されて大被害を受け、無理やり狩りを強制されましたが、他族と違って内陸に逃げて暮らそうとしない、暮らせない海の民の人たちでした。

そして、重要な小舟カヤック造りにも特色があります。アリューシャンの島々ではいい木が得られない所ですので、鯨・セイウチの骨や流れ着く流木を骨組みとし、小舟カヤックを3-4頭の海獣の皮で覆います。

これに対し、凍傷に繋がる水を避ける(冬の海中30分で死)ため、女たちが鯨のヒゲや動物の腱などから作った糸で外科医の手術に例えられる比類ない緻密高度な心のこもった縫製によって男たちを守り、成果を得て無事で帰るのを待ちます。

この造舟のための膨大なknow-howの詰まった伝統のカヤック作りに数ケ月をかけ、しっかり仕上げるのも「海の民」らしいことです。

そして、衣・食・住とその暮らしぶりにも「海の民」なりの違いがあることは言うまでもありません。どう考えても人類史の早い古い時代においては、内陸の狩猟民族と島や沿岸の「海の民」は人も暮らしぶりも全く違っていたと思います。

実は明治時代の日本人類学の曙の頃、江戸時代から語り継がれアイヌの口碑にもある”先住民コロボックル”がアイヌに追われ北海道から千島の方へ去ったという説を巡る熱い存否論争がありました。

日本人類学の祖、坪井正五郎東大教授が実在説を唱えましたが、確たる遺跡・遺物は見つからず否定的な論が優勢となり、教授が亡くなって自然に消滅しています。

が、そのコロボックルが、「小柄」で「魚を獲るに従事」する人たちだったというのでこのサイトが注目するのは十分ご理解いただけるでしょう。古い時代の「海の民」系、日本祖人系としてです。

以下、次回に続きます。

(了)

 

 

 

 

 

前回、北海道・北方領土から海峡・水道の多い千島列島越えを見てきましたが、北のカムチャッカ半島沿岸を北上して最北端に向かいます。

現在、学界は米新大陸への現生人類の進入について、ベーリング海峡が海水面低下でベリンギア地峡となっていた所を越えて下図シベリアのβ北方適応型人が北米本土に入っていったという従来のβ2ルート定説を修正し、β1沿岸ルートであったようだとしています。

その理由は、アラスカ~カナダの無氷回廊ルート約1,500kmの長い道のりを人類が通って行けたのは氷河期が温暖化してルートの氷が融け動植物を食せるようになった12,600年前頃以降だが、それだと北米の14,000年前、更には同時期頃のずっと南の南米の遺跡の説明がつかないからです。

さて結論的に、このサイトではそのβ前に、α日本祖人(南方海人型)が北海道~千島列島からベーリング海沿岸を回って米大陸西岸を経て南米にまで沿岸ルートを先行していたのだろうという新説を提唱しています。

これは、昨年米ハーヴァード医科大が発表した、南米アマゾンの古い部族のDNAが北米ネイティブやシベリアの先住民ではなく、豪アボリジニや印アンダマン諸島に今も生活している出アフリカ後の早い時代の古い人に近いという頭を抱えている問題が説明できると考えるからです。

インドネシアの仲間は、ともかく豪・東南アジア地域から(直路)太平洋を渡って南米に行ったのだと言いますが、地域の歴史、大平洋の遺跡の状況から世界の考古学界はそれを全く否定しています。

渡ったとしても万年前でなく、ゼロが一つか二つ少ない新しい時代の事だと。

さてそれでは、その日本祖人(南方海人型)の2万数千年前のカムチャッカ半島・ベーリング海回りルートの検討です。

ルートのこの部分では(そこを通過以降も)、前回のように長い海峡を舟で、しかもいくつもの家族が500人といったレベルで渡って歩みを続けるといった問題はありません。北米西岸までずっと陸地伝いです。

前掲図の通り、下図のアッツ島へは、発見された遺跡などの状況から、カムチャッカ半島の半ばから長距離の海を越えたのではなく東から伝って行ったとみられていますので。

ベーリング海沿岸はステップツンドラ、一部の南には針葉樹もあったでしょう。水産物、アザラシなどの海獣・鯨、陸上哺乳動物、海藻草などの植物、海鳥・卵など食料には事欠かなかったとみられています。

従って、問題は最寒冷の下図1.A地域はどうだったのだろうかとなります。

実は下図のとおり、北海道太平洋岸で暮らしていた3万年前頃は氷河前進の寒冷期で、1.A地域に達した2万5千年前頃は氷河後退の寒冷緩和期でした。

ベーリング海峡ではなく、海水面低下で地峡となっていましたので北極海の冷たい海水がベーリング海に入って来ることはありませんでしたので、沿岸の海水温度は今より低くないが緩和期とはいえ氷河期でした(ベーリング海の冬の流氷の状況は今ほどではなかったでしょう)。

まあ、従って地域の気温は低かったとしても今より2~3℃というところだったでしょう。地域のナヴァリン岬の気温は、下表のとおりです。冬のシベリア・アラスカは―40℃というイメージとは大分違います。

一方、北海道太平洋岸の冬の最低気温が―20℃くらいですので(前々回参照)、当時の氷河寒冷期3~5℃低いことを考慮すればルート最寒の1.Aナヴァリン岬地域とそれ程の差がない状況だったと考えられます。

4万年前頃、九州から太平洋岸と日本海岸を黒潮に沿うように日本本土沿岸を北上し始めた日本祖人が、3万年前頃、北海道太平洋岸に至って寒い冬の雪国の暮らしにも慣れました。

従って上記2点から、南方からの特質を保持したまま千島列島、次に暖流で今は不凍大軍港であるペトロパブロフスクのあるカムチャッカ半島、北のナヴァリン岬を経て当時のベリンギア地峡沿岸からアラスカ半島・湾岸に入ることは、それほど無理はなかったと考えます。

千島列島と違ってカムチャッカ半島では、身近に熊がいる脅威はありましたが、日本からのそれまでの道のりでもいましたので爺さんの語り伝え話で対応はしっかり聞いていたことでしょう。

水産物、アザラシなどの海獣・鯨、陸上哺乳動物、海藻草などの植物、海鳥などの状況は、ベリンギアによって北極海と別れたベーリング海の内海的な環境変化による今との違いがどうであったのかをはっきり記述はできませんが、今より暖かめの北太平洋の波に抱かれたものでした。問題はなかったでしょう。

ベリンギア沿岸では、ピナクルやプリビロフ諸島が小山であり、マンモスやバイソンなどの大型哺乳動物がステップツンドラを動き回っていたことでしょう。

因みに、大陸内部のバイカル湖方面から発展してきたβ北方適応型の狩猟人たちが来る前に、仮に来ていたとしても沿岸をマイペースで日本祖人(南方海人型)と子孫は発展していったものと考えています(南方アマゾンのゴールテープを目指したかのように)。

{成る程、ところでそんな2万5千年前といった古い時代に日本祖人(南方海人型)が、ベーリング海を回りアラスカ湾を越えて南下していったという証拠、痕跡でもあるのか?}

はい。

歴シニアとしましては、シベリア、アラスカに実に多くの種族がいますが、ロシア人を驚かせた操舟・狩猟技量の海の民であるアリューシャン列島のアレウト族や自ら”海洋民族”と言うカナダ太平洋岸クィーン・シャーロット諸島の誇り高いハイダ族などは(下図赤丸)、場所が米大陸本土から離れているが故に古い独自の、伝統ある海の民αの生活の痕跡を留め得たもの(DNAは違うようですが)と感じています。

アリューシャン列島の島々はもとより、米大陸西岸のカナダ、クィーン・シャーロット諸島のハイダ族の居住地も大陸から離れたルート沿いの島です。

考えてみますと、ユーラシア大陸内陸の狩猟人たちと異なる南方海人型の人や風俗習慣は、消えてしまうことなく、日本・古い時代の千島列島についての話に残っており今も受け継がれていると言えます。

明治時代の文明開化で欧米の科学者が来日し、米人エドワード・モースによる大森貝塚の発見を契機に初めて日本人の先史に関する科学的な研究議論がなされて日本人類学が立ち上がりました。

そして、日本の始まりについての研究が本格的に歩み出しましたが、百年を超える昔の熱い議論の中には大変興味深い内容があります。

以下、次回です。

(了)

 

 

 

 

前回は、表題のスタートである十勝帯広地域とそこに至る九州から北海道太平洋岸への拡がり状況をお伝えしましたが、いよいよ出発、まずは千島列島への進出です。

今、話題になってきています北海道の国後島や択捉島から、列島最北の占守島(終戦後の8月18日、ソ連軍が侵攻)まで約1,280km。他方のオホーツク回りルートは、オホーツク海北部の気温が低くルートも非常に長いので、飛び石ですが千島列島ルートが注目されます。

結論的に日本祖人は、3万年前頃の遺跡が残る帯広地域において、北での衣食住、濃霧・流氷などに慣れた、寒い冬の暮らしを含む準備行動がしっかり出来ていました。

そして、①いつも行く手に山が、島が見えていたラッキー。②島々は、海水面低下(100m)で砂浜が拡がり、ホップ(国後水道20km)、ステップ(択捉海峡35km)、ジャンプ(北得撫ウルップ水道77km)と着実に慣れながら最長難関に挑みえたラッキー。③渡った先々にも手つかずの様々な食べ物の魅力があったラッキー。④最も条件の良いときに船出すればよく、かつ、何人かでトライし誰かが成功すれば良かった確率のhuman journey。

そして、今のアリュート人などの凄さには及ばなくとも小舟は10km/hくらいの速度は出たでしょうから、最長海峡も明るくなる朝4―5時ころ漕ぎ出して夕には十分達し得る距離でもありました。

実はこのhuman journeyは、帯広―千島列島―カムチャッカ半島―ベリンギア(ベーリング海峡が陸地で繋がり)沿岸―アラスカ半島・同湾岸の沿岸という約9千kmの行程であり、3万年前頃から2万強年前のことです。

即ち、その歩みは平均すれば年間にせいぜい1km強程度の実にゆっくりしたものです。

勿論、進んで行ってから戻ったこともあったでしょうし、ある所で長い間、待つようにずっと水産物を獲り定住で暮らしていたこともあったでしょう。後続の新手が先住者を越えて前進して行ったのでしょう。暖かめの時期の移動は相当に早かったのかも知れません。

その旅路が、現代の冒険家、研究者の似せた行動体験の挑戦と一番違うのは、このスケジュールを意識しない、無理の無い、犠牲は出ましたが冒険を望まないゆっくりさです。

小説家がサラリーマンを書きますが、何十年という通勤の満員電車に揺られる名も無いサラリーマン暮らしをしないと分からないこともありますよね。

も一つは、今も6-7歳になると北の海に出て最初は綱付けられて海人となるべく学びます。失敗と小さな成功を重ねて見よう見まね口伝で鍛えられていく小舟乗り漁師のノウハウ、潮流潮汐に応ずる操舟術、そして造舟、祈りを伴う海人のしきたりなどを身につけます。

それに優れた者が尊敬される、若者が目指すはっきりした職人の世界のような社会、寡黙ながら言の葉の世界です。風についてだけでも何十という言葉の表現があり、字が無ければ文化・文明でないとしがちな歴史観は改める必要があります。

サッカーのメッシや体操の内村の技など、長い間に鍛えられ磨かれたものをとても記述できるものじゃないです。

続く者は、わずかな言葉、見様見真似でその境地を目指すわけですが、当時の人たちは北の海のこの分野では明らかに現代人より優れていたことでしょう。

他方、南方のポリネシアの海人と違うのは、エスキモーの人たちは極めて慎重で海岸からあまり離れることは無く、また、その技でロシア人を驚嘆させた(結局それが仇)アリューシャン列島に残るアリュートは、正に北の海人で、漁だけでなく長距離輸送もこなしますが、決して遥か沖合まで漕ぎ出し向かっては行かない慎重さがあるそうです。

全く見えない島々を庭を歩くように渡って行って現代人を驚かせるポリネシア人の動き回る海は、陽気も水も暖かいことが背景にあるのでしょう。

北の海は、水に浸かること、濡れることは命に関わってきますし、濃霧を動き回るのも容易ではないことです。また、潮流があり、海岸・浅瀬では砕け波、ねじれ波があったりして厄介です。

それでも海に迫る接岸できない崖は当時はその前が砂浜であり、今の大型船には評判のよくない港の少なさなども当時の小舟には何の問題もありません。

さて、最初の国後島は野付から歩いていけます。そして、択捉島へのホップの国後水道は、約20km、既に日本祖人としては、伊豆半島から見える黒曜石の宝庫の神津島まで丸木舟でその程度の距離を縦横に行き来(3.2万年前頃には)していました。

そして、ここでも行く手が見えていたことはラッキーでした。

最長水道を越える際の得撫ウルップ島小三頭山から新知岳まで150km、70強mの高さが見通し高ですので、山に100、200m上れば前方に陸地がある、途中の知理保以チルポイ島もあることが分ります(鳥の動きや流木などからも分かったと思いますが)。

それまで暮らして体験してきた北方領土には、手つかずの魚貝、海藻草・植物、アザラシ・トド・ラッコなどの海獣、海鳥・卵、時に鯨まで手に入れましたので、これまでの成功体験から前方に見える陸地にも十分期待したことでしょう。

現代の学者は、何故、更に寒いであろう北に向かうのかと問いますが分かりません。「山が見えたから」でしょうか。

列島は、(3大漁場の一つとして)その期待を裏切りませんでした。時代は早かったですが下図の縄文人の食(うち同種の水産物・海獣・海鳥主体の分)を準用できたことでしょう。そして、衣食住の改善を図り、島の暮らしに合わせて手に入る物で工夫していたのでしょう。

食材の豊富さと共に、流木が特徴として書かれていますので、造船、住まい、道具などに利用されていたようです。島によっては、シベリア松、白樺、はんの木、柳などや草花などが咲き乱れています。

海獣・海鳥などの皮は、衣類や履物としても活用されます。海の民の一つの特徴の入れ墨は、今でも見られます。

中には火を噴く火山、時に襲われる津波がありましたが、言い伝えて天・神に祈り捧げ物するだけです(確率のhuman journey)。

恐らく寒い冬の間は、竪穴皮テントの中で保存食料を飲食し、昔を語らい、天・神に祈り、ちょっとした祭りをし、晴れて様子がよければ猟漁をするといったことでしたでしょう。温泉もありますし。

島内を調べ、次に行くのは太平洋側にするか、オホーツク側を行くかも磯波や岩礁などの状況を慎重に見極めて選んだことでしょう。分かりませんでしたが、行く先のカムチャッカ半島とは熊の脅威が違いますので、基本的には安全に十勝帯広時代の延長の現地適応でいけたでしょう。

因みに、1999年、米人サイエンスライター・冒険家のジョン・タークは、大昔を想定した小舟シーカヤックで根室を出発し、千島列島を渡り最終的にはベーリング海峡のセントフローレンス島までの3千マイル、2度に分けた約6ケ月間の冒険航海を行っています。

こう見てきますと、日本祖人が、多くの水道・海峡で隔てられた寒い北の千島列島を渡っていくことは無理だったとは言えないでしょう。

次回、更に北上を続ける検討をします。実はベリンギアでシベリア・アラスカが繋がっていましたので、米新大陸進入の時期・場所は論じられないのですが。

(了)

 

 

 

 

 

現生人類が出アフリカを果たし、現在のイラン―パキスタン地域から東進し、東南アジアから北上して、当時の海水面低下で現れていた東アジア平野(朝鮮南部~台湾の東シナ海、黄海部分)から海を渡って九州に入って来たのが4万年前頃とみられています。

その後、太平洋側と日本海側の両方向から北上して拡がり、3万年前頃には北海道太平洋岸に至っています。

さて、日本祖人の北海道太平洋岸からの米新大陸への進入問題についての話ですが、結論的に、

当時は海水面が数十m低かったためシベリア東端とアラスカは陸地が現れたステップツンドラのベリンギア地峡となっており、前回まで説明しました日本祖人の移動進出のルートとそこにおける主要な問題点は、①最北の寒さは大丈夫だったか? ②千島列島の長距離の海峡は越えたのか ③アラスカ湾岸の一部には氷床があったが問題は?でしょう。

さて、九州から北海道太平洋岸まで1万年という長い期間を要していますが、これは今よりも2-4℃くらいは低かった時代の環境にあると思います。

そもそもアフリカを出て赤道から北緯20度くらいまでの暑い・暖かい地域を行動していた人類が、年のうち3-4ケ月も雪の降る、草原と針葉樹の列島北部(北緯40度越え)にまで生活圏を伸ばしましたので。

他方、暖かい黒潮が北上する細長い日本列島を南から北へ、海水面が数十m低下した津軽地峡を越えて北海道太平洋岸で生活するようになったことは、大きな環境変化に着実に順応しつつ歩み得た大変ラッキーな事だったと考えます。

更に、後続の人々を含めて太平洋岸を進んだ人々と日本海側を進んだ人々の血と生活が、1万年の間に細長い地で混じり合えたことも正に「二本」祖人で、いよいよ出北海道、千島列島から北のベリンギアに進んで行く上で大変良かった、ラッキーだったと思います。

因みに、縄文人(1.65万年前頃から)と呼ばれる前に南方海人型の人々は、更に1万年間、特に直前には大陸の大柄な北方適応型の狩猟民族を北から、西からも交えています。

日本祖人は、素朴なものではあったでしょうが、この列島に籠ったように特有の精神性ある基層となる暮らしの列島文化の芽を育んでいたと考えます。

おそらく、九州に入った頃は色黒だった人々も北海道に入った頃には、茶褐色に変わっていたことでしょう(欧州白人が、アフリカの色黒からユーラシア北部暮らしを経てそうなったのは約8千年間でと言われてますので)。

さて、出発点として現在分かっている当時の日本北端遺跡である帯広地域の遺跡は次のとおりで、下図の右手の大平洋に注ぐ十勝川の南、平野の中央に最古の若葉の森遺跡の他、縄文時代などの多くの遺跡が確認されています。

若葉の森遺跡では、9,700点の石器が出てきていて、その殆どが当時の貴重な黒曜石、かつ、地元十勝産であることが大変興味深く、数km歩けば手に入る恵まれた、万年の昔から道東の中心であったのかも知れません。

そして海水面の低下を考えれば、今は自然豊かな海に近い浦幌や長節の台地などにも人々の暮らしがあったことだろうと思います。

野火でしょう、焼けた土から年代が分かり、また、炭化した木からエゾ松、グイ松などの針葉樹林が拡がっていたことが分っています。ヤチカンバ(湿原の塚状の高まりヤチボウズの上に株立ちし、5-15本の幹を持つ株が多い。成熟しても樹高1.5mほどの低木にしかならない)もありました。

沿岸部の特色は、降水量が内陸より多く夏は海霧で気温が低いというものです。

注目の冬の気温ですが、真冬は平均して―10℃、寒いときは―20℃で当時は2-4℃低く、雪は北海道の他地域(南部除く)よりは少なく(年:3-4m)、北のオホーツクから風向きで2-3月に流氷が来ます。

さて、南方海人型の日本祖人がこの帯広の気温の環境下で、食材豊かな、動物毛皮利用の衣食住を整え暮らし得た経験を有します。毛皮は風に強いことが良く、エスキモーの人たちの様々な生活の工夫が当時の暮らしを窺がわせます。

(この南から北へ無理なく移動進出していった経験をよく認識しないことが、渡米問題論の低調の一因でしょう。)

さて、日本祖人の渡って行ったルートについて状況を見ていきます。

まず、千島及びカムチャッカですが、千島列島のウルップ島勤務の旧軍兵隊さんやカムチャッカ半島沿岸(ペトロ、パブロフスク)で日本語・文化を9年教えた先生の体験記などを読みますと、―20℃が寒い時期の気温のようです。

ウルップ島の兵隊さんは、雪の積もった中、2月末上陸したが思ったより寒くなかったとし、厳冬期含む1年半の滞在での印象はおいしい魚、岩のりなどを食べたことが書かれています。

カムチャッカ駐在の先生は、冬(厳冬は―20℃)が6ケ月と長くて雪が多く夏が短くて暑くないとし、沿岸暖流のためか寒さの印象の記述がないです。鮭、鱒の大漁や温泉、夏の木の実や秋の茸などが書かれています。

カムチャッカに抑留された兵隊さんもやはり―20℃で、ストーブの火を消した後の幕舎の朝、起きるとまつ毛が凍っていたとし、-40℃(かっての不凍液も凍るか)になったときは作業は休みだった(頻度少ない)と書いていますが、水産物やアイヌネギを食べれたときのおいしさが印象深く書かれています。

以上のように、千島列島やカムチャッカ半島太平洋側沿岸の状況は、霧、風の強さや冬長く雪が多いことはあっても寒さが厳しく非常に辛いということではないようで、帯広とそんなに変わらないようです。

次にベーリング海周辺ですが、最北端のシベリア東端南部沿岸(上図1.A)のナヴァリン岬の真冬(12月―3月)の最低気温は、23-24℃であり、帯広の冬の最低気温とそれ程大きな差はなく、やはり期間が長く夏の気温が低いという特徴も千島、カムチャッカと同様であり、訪れた者は想像に反しそんなに寒くはないという所感を述べています。

(Vacations To Goから)

ベーリング海東南部の沿岸島では、冬12-2月は―13℃(夏6-8月は12℃)で流氷が接岸する。また、南のアリューシャンでは1月が―19.7℃、夏の7月9.9℃で帯広の最低気温の暮らしで対応できます。

また、アラスカのアンカレッジでは、12-1月の最低気温が―13℃、夏は15℃くらいで問題ありません。

なお、北海道大学での勤務経験がある米ミシガン大のセオドア・バンクは、アラスカ・アリューシャンは北海道の島々と気候・地形・動植物に驚くほど類似性があると書いていますが、こういう所見が一般的です。

帯広の若い人たちが、東京大阪よりもカナダ北米に親近感を持って旅行に出るというのも私には何とも示唆的です。

因みに感じでは、風が無ければ-20℃は、鼻毛むずむずそこまで10数分なら手袋・耳覆い等をせずに歩ける気温で、-30℃くらいは天幕で寝て起きたらまつ毛凍ってる、-40℃は体内の骨が凍ると言いたい寒さです(-50℃は出たお小水を手で払いながらする?)。

以上の検討で明らかになりましたように、日本経由の米新大陸への進入がこれまで歴史考古学において相手にされていないのは、①3-2万年頃という人の遺骨や遺物がベーリング海地域ではっきり見つかっていない ことのほか、②槍持った裸・毛皮イメージの原始人が「あのシベリア・アラスカ」を行動するのは無理 ということがあるのでしょう。

①については、海水面の上昇で当時の遺跡が海面下であることや沿岸で万年の間に津波を受けていることもあるでしょうし、人口少ないシベリア・アラスカでの遺跡発見の機会の乏しさもあるでしょう。

②については、ア 日本祖人が南から北に結果として長い間の良い準備行動をしていたことや出発点の帯広の遺跡と寒冷状況で動物毛皮利用の衣食住を整えて日本祖人が暮らしていたことが世界の学者によく認識されていない。 イ 何より、-40℃が普通の内陸のシベリア・アラスカとは異なる沿岸の状況が、イメージと違って帯広とそんなに違わないことがよく知られていない。ウ 帯広出発の頃は寒冷が進んだ時期であり、最寒のベーリング海地域に進出した頃は寒冷緩和期に通過したことになる。 などの理由のためと思っています。

そして、歴史考古学界をリードする欧米は、子供のころから欧州アフリカ中心の地図を見ているため、シベリアとアラスカが紙の右端と左端に全く離れている、なども案外、総合的な連携研究が乏しかった一因ではと思っています。

次回から、第2、第3の渡海・氷床の問題点や寒冷降雪地での暮らしぶりなどを探り紹介していきます。

(了)

 

 

前回は、現生人類が出アフリカを果たし東進後の古い東南アジアSundaland地域の当時の人々のDNA(今は大分違います)と南米アマゾンの古い部族のものが他のどこよりも近いということから、北海道からアラスカ南部に至る進入のルートと時期について、結論的に当サイトの仮説(下図、2.5万年前頃でその時期の海岸線沿い)を紹介しました。

結論的に言いますと、寒いベーリング海地域を越えれたのかという一番の問題について、①沿岸地域の気温に着目しますと実は思いのほか状況が北海道太平洋岸(道内最古の遺跡)と差があまりない。従って、地図を敢えて北海道とベーリング海域を近くしています(実は思いのほかもっと近いのですが、図が分からなくなりますので)。

②日本列島の北上がとても良い準備行動となっていた。③進出して行く行程と当時の寒期・緩和期の状況が、納得できるマッチしています。

更に幸いにも、北海道~シベリア東端沿岸 と アラスカ~米国北西海岸は、図の真ん中(ベーリング海峡部~ハワイ西方)で折れば鏡面対象になっている(大原昌宏・北大総合博物館教授)と言われる、動植物の近似性もあり生活に慣れ易いです。

縄文人が、その土器出現をもって16,500年前頃からと定義されていますので、それ以前に日本列島から米新大陸に沿岸沿いに進出していった人々は、そのまま日本祖人・海人型と言えます。

そして、日本列島に縄文人が出現した以降、既にアラスカを越えて米西海岸から南米の西沿岸・アマゾンへ進出していった人々は日本祖人の子孫であり、縄文人と同時代のポスト日本祖人とでも呼ばれるべきでしょう。

日本列島には、2万年前頃から、寒冷降雪に適応した狩猟系の北方適応型の人々が北(樺太)から西(東アジア平野)から進入して来ていますので、列島であるいはベーリング海地域に留まって暮らしていた日本祖人は、それらの人々に追われたり混血したり棲み分けたりいろいろあったでしょう。

そしてその後は、列島縄文人、千島ベーリング海域は後日本祖人あるいはエスキモー・イヌイット祖人などと呼ばれていくことになります。

南米に進入したポスト日本祖人のごく一部はアマゾンに今も残り、途中の後日本祖人は最早融けて分からなくなっているようです。

さて、

3万年前頃に北海道から北上していった南方海人型の人たちの移動・進出については、基本的にルート上の焦点は、寒さが最も厳しいベーリング海域の沿岸を移動進入する細部ルート・時期になり、下図となります。

通説の人類移動は、発見された遺跡をもとに図のベーリング地峡中央のNativeインディアンのBルートと、少し遅れたと言われるエスキモー・アリュート族のCルートですが、これは既に寒冷降雪地に適応したDNA変化を起こした北方適応型の人々でしたでしょう。

アラスカで最も古い遺跡が見つかってるのは1.5万年前頃のアラスカ・ユーコン川畔のものであり、東方から島々を伝って行ったとみられるアリューシャンでは9千年前の遺跡が発見されています。

この時期は最終氷期最寒冷期LGM(2万年前頃)が終わった後の温暖化期のもので、寒いアラスカや孤立的なアリューシャンで生活し得ていたことはよく理解できます。

ところが問題は、LGMが終わった後のこの温暖期に初めてアラスカへ進入したとすると、遥か南の南米チリのモンテ・ベルデ遺跡に到達し生活した(1.4万年前頃)のが早過ぎ、ましてそれより早いとみられるアマゾン3古部族(南方型)の存在が理解できなくなります。

更に、最寒期にベーリング海域を移動し進入して行ったのもあまりに厳しいです。

従って、最寒のベーリング海地域を経たのはLGMの前の寒冷最緩和期2.5万年前頃が最適であり、北海道太平洋岸(3万年前頃)出発からの移動とLGM前にアラスカ湾の氷床近傍を抜け、南米に到達(1.5万年前以前)していたと考えればトライした多くの人たちのうちの最適な行程が導かれます。(図中の丸青色3万年、2万年は寒い時期、丸橙色2.5万年は寒冷の最緩和期です。)

また、ベーリング海域までは、千島列島経由のαルートとオホーツク海回りのβルートのいずれが早いかが一応考えられますが、南方海人型の移動としては暖かい太平洋岸を北上し得た、距離の短いαルートとしてよいでしょう。

ルート上のこの古い人の生活遺跡は、現在の数十mの海面上昇下で発見されない沿岸地域にあり、人々は後から進入してきた強い狩猟族である北方適応型に追われたりして分からなくなっているのでしょう。

いずれにしましても、米新大陸の中にいくつか渡って行ったとみられる物や時期の不思議な遺物があるにも拘わらずこれまで相手にされてきませんでしたが、このように行程を考えますと、南方海人型の人たちが渡って行ったのだろうと考えられます。

次回は、この米新大陸進入に関わる個々の状況について説明していきます。

(了)

 

 

前回、Harvard医科大が昨年行った南米の3古部族のDNA調査において、同じ南米や北米、更にシベリアなどにも見つからず、古さの残る豪アボリジニやパプア、アンダマン諸島等の人に近く、かつ、直路南米に至ることが考古学的に考えられないので、日本を経由する環太平洋ルートで南米アマゾンにまで子孫が達したと考えられることを紹介しました。

以下説明していきますが、結論的に言いますと、現生人類は出アフリカ後の東進、北上後の4万年前(BP)頃に九州に至り、北上して3万年前頃に北海道太平洋岸に達し、北方冬季の気候・生活環境を経験しました。

渡米が成功し発展したグループは、寒さが緩和した2.5万年前頃に、ルート上の最寒冷のベーリング海域を経てアラスカ南部に達し、最も寒かった最終氷期最寒冷期LGM2万年前頃の前には氷河のない米西太平洋岸に至っていたものと考えられます。

その後は、特に問題なく南下して南米最古の遺跡の形成以前にアマゾン流域に達したと考えられます。

まず、ルート上で一番問題となるベーリング海域を通過する点については、前回、最新の研究からカナダ、北米への進出は大平洋沿岸ルートであることを紹介しました。

時期については、Harvard医科大の発表前の通説である最寒冷期LGM後の温暖化時期ではなく、LGM以前に通過したと考えます。そうでないと、最寒冷期のベーリング海域通過はあまりに条件が厳しいですし、また、南米最古のチリ南部のモンテ・ベルデ遺跡(1.4万年前頃)よりずっと原始的で古いと思われるアマゾン古部族の存在が説明できません。

こう考えてくれば、南米アマゾンの南方型DNAを残す人たちは、寒冷降雪の北方適応型DNAの闘いに強い多くの人たちの2万年前頃の進出以前の寒冷緩和期にベーリング海域を越えて米新大陸沿岸に進入したとみられます。

その後の婚姻による人類の発展を考えれば200人以上の人々が、丸木舟で海流に乗って直路北太平洋を渡ったとは思われず、着実に歩を進めるベーリング海域ルートでしたでしょう。

当時の氷河・気候の状況をみますと、北海道太平洋岸に居た頃は下図の3万年前頃のアフトーニアン寒冷期であり、その後緩和期に千島列島からカムチャッカ半島、ベーリング海域を通過し、カナダ氷床を通過してLGM期には氷床の無い北米に達していれば進入発展の成功確率が高いでしょう。

さて次に、下図の細部のルートですが、前述のαルートの他に沿海州の方を回るオホーツク海ルートβもあり得ますが、寒冷の沿海州・樺太方向から北海道への多くの人の進入が2万年前頃ですので、αルートの可能性が高いでしょう。南方型人が初期にこの氷期を緯度を上げて北へ行くのは時間を要したのでは。

次に、ベーリング地峡南部海岸沿いAとアリューシャン列島沿いBのルートが考えられますが、B上のアッツ島とカムチャッカ東方のコマンドル諸島の間が400kmくらいあり、潮の流れも複雑で強いことから当時の舟では厳しく、寒いですがAの可能性が高いでしょう。

この地域のエスキモーの人たちは大変慎重なことで知られ、ここは波があり霧がたちこめることもあるため、岸からあまり離れずに航行するそうです。何しろ、転覆などして冷たい水に浸かればそのまま死を意味しますので。

他方、考古学的にも(9千年前頃のアリューシャン遺跡ながら)、アッツ島へはアラスカ半島の方から島伝いに西進して達したものと考えられております。

米大陸への進入は、比較的寒さが緩和された時期にルート上を着実な歩みで最寒期LGM前に氷床の無い北米に進入したとすれば最も好条件であったとみられます。いずれにしても、多く進入を試みた人々の中の数十%の成功した人たちが創った歴史とみられる厳しいものです。

以上の事から、当初、結論的にお示しした行程が一応の妥当性があり、人々の進入・南下に最も好条件なものとなります。

さて次回は、それでは日本祖人がそのルートを進むのはどうであったかです。

寒くなっていきます時期に正に寒い地域の話で恐縮です。

あまり注目されない寂しい地域で、かつ、万年の古さの日本祖人のアラスカ渡米の歩みがどうだったんだろうかについて、南方ボケ者が探って参ります(一応、出発地である北海道の雪深い道南の倶知安とオホーツクに近い道北で約10年間の勤務経験者です)。丁度、プーチンも来るようですし。

(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨年、ハーバードHarvard医科大チームにより、南米アマゾン3部族Suku AmazonのDNAは古いもので、しかも近隣南米はおろか北米やシベリアにも見当たらず、豪アボリジニAborigine、パプアニューギニアPapua、アンダマンAndaman諸島の人々と近いという驚きの発表がなされました。

どうして?と記者に問われた先生は、太平洋を渡って植民地化colonizeしたんだろうか?とニガ笑いです。そして、今や途中の経路上の人々は消滅してしまっているのだろうと答えています。

さて、赤道地域を直進して南米に至る”colonize”化は、アフリカで誕生した我々の祖先である現生人類の出アフリカ後の足取りを知る人類学・考古学者等からすれば、人類が太平洋に漕ぎ出したのはせいぜいのところ3-4千年前であり、ゼロが一つ違う全く新しいことで認められないです。

後ほど細部説明しますが、私は、まず最初に東南アジア・パンカル地域を北上した色黒の南方型の子孫が日本列島経由の環太平洋ルートで米新大陸沿岸部に達して入り、北・南米大陸の太平洋岸を南下して南米に至ったものとみます。

そして、大型哺乳動物を狩猟し、寒冷降雪地への適応を果たしたDNAの狩りと闘いに強い北方適応型が、遅れて(もしかしたら前後あるいは混在)シベリアからアラスカへと入って来て沿岸部に先着していた南方型は攻められて散りじりに消えていき、その沿岸の生活の痕跡も海面上昇で消えたものと考えています。僅かに、広大な南米アマゾンの人里離れた所に逃げ隠れ生き残っていたという訳です。

リオ北で発見されたパンカル地域やアフリカ人に近いと言われる1.3万年前頃の南方型の女性人骨「ルシア」、チリの14000年前頃のモンテ・ヴェルデ遺跡では、北米とは異なる様式の古い石器類、海藻を食し炉もある生活痕が発見されていることなどや岩絵を描き主に淡水魚を食したアマゾン川域遺跡など、南米に点在する幾つかの痕跡が繋がって線になってきて元々が海の民の太平洋岸南下を示しています。

そして前述の考えに私が至った記者が気づかない注目すべき第2の点は、アフリカを出て東進した南方型の子孫がそのまま南米にまで行っているということで、北米のNativeのような北方適応型(アジア北方内陸部が原型)ではない人たちというものです。

Nativeアメリカンの北米と南米、シベリアや今の東アジア人との関係、そして北・南米大陸の各地で発見されている遺跡の分析において、このDNAの南方型と北方適応型を意識しないことが発見遺跡の分析や議論の混迷の元にあると私は考えています。

さて翻って、パンカル地域の人々が太平洋を赤道沿いに直進して南米に渡って行ったのではないとなれば、北回りか南回りのルートとなりますが南回りの南極の方は全く取り付く島もなく何の遺跡上の裏付けもありませんから北回りとなり、俄かに日本列島が注目されます。

このサイトで既に述べましたとおり、確かに日本列島には4万年前頃から、南方型の子孫が西・南から進出して北上し拡がっていきました。

2万年前頃、マンモスを追って北方適応型の人たちが北・西から入って来る前に北海道太平洋岸にまで至っていますので、3万年前頃の北海道太平洋岸からその後も南方型のまま新大陸に入っていればぴったり辻褄は合いますが、問題は、米新大陸に渡り得たのか?です。調べ得る痕跡は無いに等しいですが。

Nativeインディアンは、2~1.5万年前頃にシベリアから当時の氷河期の海水面低下により現れていたベーリング地峡を越え、下図のカナダ内陸の氷床の隙間の無氷回廊ルートを南下して北米に入ったという従来の定説が、実は最近のアメリカにおける研究で否定されました。

2つの湖の氷の層の環境分析から、約1500kmの無氷回廊を人びとが通過し得たのは、温暖化した12600年前頃以降のことでそれ以前は痕跡も無く無理であるという結果です。

他方、このことによって既に北米で発見されている14000年前頃の遺跡を説明できなくなり、舟も利用する西側の太平洋岸ルートであろうということになって、俄かに注目されることとなりました。

それまで相手にされなかった太平洋岸ルートということになりますと、米国に至れば南下して南米に至ることは大きな問題はありませんし、学者を驚かしたいいスピードで南端にまで至っていることも、沿岸を舟を使えばよく理解できますので、焦点は当時の北太平洋、ベーリング海地域を人々が渡れたのかということになります。

そして下図の地域を見ますと、北海道以降のルートで2万年前頃の最終氷期最寒冷LGM期以前の渡米進入路として、ベーリング海北側の地峡沿いA、アリューシャン列島沿いB、北太平洋の海流に乗って直接渡るCというルートが一応考えられます。

先ごろ、東北大震災で八戸の神社鳥居の笠木が米オレゴン州の西海岸に流れ着いた(Cルート)と話題になりましたが、無人の野のアメリカ大陸で人が増えて定着するには、事故や病気で人が失われる、また、婚姻と正常な遺伝による部族の発展を考えると少なくとも200人くらいの母数が必要と見られています。

Cルートは、渡海が実行可能と言われ、かつ、最も暖かいルートですが、1舟2舟はともかく前述の母数を考えますと丸木舟の時代に多数の人々が見通しをもって計画的に漕ぎ出して行ったという可能性は低いと言わざるを得ないでしょう。

仮にあったとすれば、姶良大噴火(2.9万年前)後、シャーマンに率いられた難を逃れる多数の人々が日が昇る海の彼方の神の地を目指して漕ぎ出し、その生き残りの人々が到達したとでもいうことでしょうか。

さて、今から直前の氷河期は7-1万年前頃のことで、寒い中でも寒暖の波はあり、最も寒かった2万年前頃の最寒冷LGM期における状況は下図の通りで、広範囲の沿岸・島嶼部(白部)では、寒冷なステップツンドラの草原でマンモス、ステップバイソンなどがいる状況だったとみられています。

最初に南方型が新大陸に進出して南下し始めた注目の時期であるLGMの前の2.5万年前頃は、少し寒さが緩和されていたために海水面も図より3-40mは上昇していました。

カムチャッカ半島~ベーリング海北側沿岸ルートAは、最も寒かったでしょう。カムチャッカ半島~アリューシャン列島ルートBは総じて曇りがちで霧が深いと言われ、現在の米露国境のアッツ島とコマンドル諸島間は潮流が激しく、その離隔も数百kmあります。

いずれのルートにしてもよく見ますと、南下して行くアラスカ湾の一部(赤丸地域)は氷床が海辺にまで来ています。とても人は行動できなかったのでしょうか?

アラスカ湾赤丸地域を地図で見ますと下図の通りです。米国アラスカとカナダが国境を接しており、カナダのブリティッシュコロンビア州地域とアラスカ湾の間にも米国アラスカ州の領土が細長く伸びています。

当時の海水面は下地図よりも約90m位低く、入り組んだ海岸線地域の陸地部を氷床が覆っていたことでしょう。アラスカと言えば寒いイメージですが、旅行書によるとアンカレッジの夏は思いのほか暑く、半袖でいいそうです。

そして、この地域で生活するイヌイット(生肉を食べる人の意ではエスキモー)の人たちは、氷壁の前でも漁をする人たちのようで、特にアリュート族(アリューシャン列島人)は、舟造りや操舟、漁に長け長距離の輸送航海に慣れた正に優れ者の北の海の民だそうです。

次回は、当時の千島・カムチャッカ・ベーリング海域・アラスカの人々の存在に関して思いを巡らせ探ります(近代になって毛皮を求めに来た露人に海の民アリュート族がほぼ壊滅されましたので、安倍首相が、露プーチンさんに騙されませんようにと祈りつつ)。

(了)

 

 

 

 

 

私たち現生人類”新人”の出アフリカ後のアジアへの移動、進出について、既にお伝えしているイメージに合った図がネットに出てきました。当時のパンカル半島Sundalandの意義を押さえていないと思いますが。

私は、この半島地域を「アジアの楽園」と表現しています。当時の遺跡にも見られますが、温暖で動植物に恵まれた広大な地域でしたので、基本的な素質では現代人にあまり遜色無い多くの人々が出入りし混じり合って文化が生まれていた楽園と考えています。

各地に拡がり、豪には数十kmの海を舟か筏で数百人が渡り根付いていますし、地域の洞窟には人手型や動物絵など当時の精神性あるものが残されています。

残念ながら、北東アジア、日本に関してはラフですので東アジア平野、東亜地中海、そして日本国内を2ルートでの北上としました。

日本列島へは、東アジア平野沿岸地域で暮らす海の民が、東亜地中海の北部と南部から舟で入ってきました。

当時の人の骨は本土地域が酸性土壌のこともあり、発見は容易でないですが、石器などが残された遺跡を見ますと、1万年くらいの間にほぼ日本列島の沿岸部(水平拡散)や一部の高原地域(垂直拡散)に拡がっていたようです。

既に、伊豆沖の神津島に黒曜石を求めて舟で渡っていますし、その貴重な黒曜石が広域で交易されており、また、冬の寒さの北海道の大平洋岸に進出していたことなどが注目されます。

容易でない船路を渡って来た海の民の家族の群れが、今よりも海水面が数十m低下していた黒潮沿いや瀬戸内盆地などの海浜・河川沿いに北上し、主に水産物や植物を食べ狩の獲物を加えて、自殺する人もいない案外と結構な暮らしをしていたのではないでしょうか。

日本列島地域の魚介・海藻類の豊かさや雨と多様な地質のもたらす植物の豊かさも特筆すべきでしょう。主に海辺、一部は川辺の暮らしであったでしょう。

その後、2万年前頃、大陸から大型哺乳類を狩猟する寒冷降雪地に適応した人たち(北方適応型)が入って来てますし、今日に至るまで途切れることなく人は入ってきています。

しかし、日本史は後から来た多数の人が前から居た人を排除して入れ替わるというようなことではなかった(攻防はありましたが)と見られていますので、地震津波、火山の噴火もある列島地域のこの頃の万年の海の民の暮らしと精神性は、基層としてわずかですが今でも残っているように感じます。

下図のように、ずっと下った紀元後の古代でも「海部」という名が広域の沿岸地域に、一部の高原にも残っていますし、また、薨去された三笠宮様は、「お舟入り」(我々の納棺)されます。

日本の祭りには、相当古い伝統なのではと感じさせるものもありますし。

そして今、そんな4-3万年、2万数千年前の海の民である日本祖人が注目されるには実は訳があります。

近年、アメリカ人は、自分たちの住む大陸に最初に人が来たのはいつ頃、どうやってということに大きな関心をやっと持つに至り、精力的に研究が進んでおり、新たな発見が出てきています。

その一つは、下図のように海水面が低かった万年の大昔にマンモスなどを追ってシベリアとカナダの間のベーリング地峡を越えて新大陸アラスカに入り込み、従来は米大陸氷床の空き間の回廊ルートから南下してきたと見られてきました。

ところが最近の研究により、1500kmになろうかという回廊ルートは、動ける夏・秋の間でそういう状況になったのは暖かくなった12600年前頃以降であり、回廊にはそれ以前の古い痕跡も全く発見されていないという状況です。

従って、既に北米で発見されている14000年前頃の遺跡状況を説明できず、その後の海水面上昇で痕跡は海中だが太平洋岸ルートだろうとなってきました。

現生人類が世界に拡がったグレートジャーニーにおいて、北米、南米で14000年前級の遺跡が発見されてますが、下図のベリンギア地峡ルートでないとなりますと太平洋岸ルートをよく見なければということになります。

すると、ベリンギア地峡南側のルートA、アリューシャン列島沿いB、そして海流に乗る北大平洋ルートC が一応考えられますが、この新大陸行き問題を日本の先生は誰もまともに相手していませんので仮説も無い状況です。

更に昨年、ハーヴァード医科大のチームが、アマゾン3部族のDNAを調べたところ、大変古いとみられるとともに、南米はもとより北米のネイティブインディアンにもシベリアにも近いものが見つからず、パンカル地域の豪アボリジニやアンダマン諸島の人のものが近いという驚きの結果を発表しました。

チームは、途中に居た人たちは既に痕跡も無く消えている種族であり、そもそもそんな古い時代にどうやって南米・アマゾンに来たのか何とも言えないとし、冗談に太平洋でも渡って植民したんだろうと言って笑うしかない状況です。

人類が大平洋ポリネシアのイースター島やハワイにたどり着いたのはゼロが2つも違うかという新しさですので頭を抱えます。

ともかく、当時の人たちの痕跡が残っていたとしても数十mの海面下ですのでどうしようもありません。しかし、出発点と終着点は明らかになっていると考えられる正に、日本の歴史学にはない「理論先史学」の分野です。

出アフリカの現生人類が、パンカル地域から寒冷降雪地適応のDNA変化を生ずることなく南方の海の民の子孫として南米に至るのは、日本列島経由でしょう。

日本祖人は、ベリンギア地峡南方・北太平洋沿いを米新大陸に渡り南米にまで沿岸を南下したという、日本の歴史考古学の先生方が誰も相手にしないことに思い至ることになります。

次回、更に深掘りに挑戦します。

(了)

現生人類が、数万年前に出アフリカを果たしてインドを経て東進し、サフルランド(豪オーストラリア)には5-4万年前頃に数十kmの海を越えて移動進出、また、パンカル半島地域から北上して日本には、大陸沿岸Xルート・比Yルートを経て4万年前頃に同じように海を越えて入ってきました。

日本人のDNAが、遠く離れたアンダマン諸島の人と近いことや日本語がインドのタミル語と近いという話を聞いても、私は驚きません。

当時は海水面が数十m低かったために、北の朝鮮山地と南の台湾高地の間に広大な東アジア平野が形成されており、今よりずっと近づいた日本列島との間に台湾の凌教授が命名した東亜地中海がありました。

パンカル半島地域のスラウェシやパプアなどに残された古い洞窟絵には舟を描いた(帆があるのは驚き)ものがあり、発掘された貝塚遺跡からは、外洋を含む水産物を食した海の民の暮らしぶりが広範囲で確認されていますので、東亜地中海のほとりは、舟を操り水産物を主に食する人たちで満ちていたことでしょう。

それは、木、竹、石器、骨器を使って様々な物を作りだし、葬送、祭祀、信仰、素朴な芸術のある文化を有するはっきり新人になった、類人猿・旧人とは全く異なることが窺える暮らしぶりです。(日本祖人は、もしかしたら東北の金取遺跡などの旧人と遭遇していたことでしょう。「なまはげ」などはその遠い記憶かも知れませんね。)

 

この海の民は、内陸で主に大型動物を狩猟して暮らしている人たちとは明らかに違う習俗で、寒冷降雪地に適応した色白になり大型の人たちと風貌もすでに違っていました。

パンカル地域では、今も大竹を使用する筏が普通に使われており、山中であっても伝統様式の家々は舟を模るもので海の民の末裔であることを誇りにしています。

 

そのような文化の流れと同様な暮らしが、氷河期の寒さが少し緩んだ東亜地中海のほとりでは一般的でしたでしょう。

そして、多くの男女家族が舟で海を渡って来るということが決して容易ではない時代に、海についての知識、造舟及び操舟のノウ・ハウを有する海に馴染んだ人たちであり、十分に実際の経験を積んだ潮の香りのする人たちであって内陸の山野狩猟人とははっきり異なります。

このことが、日本祖人始まりのイメージにとって大変重要な事で、黒潮に沿う形で沿岸を北上してやがて北海道にまで至りますが、2万年は続いた日本人の基層、原風景です。

貝塚、海人、西日本の広い範囲の沿岸から長野などに残る海部の人名、山中であるのに舟・船の名の地名など、遠い昔からの深い結びつきを窺がわせます。

さて今では、4万年の時が流れて地形も変わり、海水面も上昇しており生活の痕跡を見出すことは困難ですが、米国に残る海辺のネイティブ・アメリカンの暮らしのようなものであったでしょう。漁撈、採集を主に狩猟や植物の栽培も並行的にあり得たものと考えます。

何しろ、パンカル地域の豊かな文化の海の民の子孫が、北上して東亜地中海を男女家族のグループが舟で渡って来て定着したのですから。

それではどんな人たちだったのでしょう。

まず第1に、海の民であったのでその後の状況から一部の地域では現在まで続く、入れ墨・文身で描き飾っていたものと思います。海中で活動する場合、サメなどに襲われないため入れ墨が効果的で一般的だったと言われていますし、他部族もいる社会生活で意味を持っていたものと思います。

 

も一つは、現在も首都ジャカルタの高層ビル街から200kmくらい南西の山中で全く独自の伝統文化を守り、世間と隔絶して暮らしているバドュイ族の人たちに見られる首飾り、腕輪などの装身具をしていただろうということです。

これは、パプアなど原始的な暮らしを残す世界の各地で、今も一般的によく見られます。東亜地中海では、貝がよく使われたことでしょう。

さてでは、どんな風貌の人たちだったのでしょう?

これは全く難しい質問ですが、強いて答えれば、大陸沿岸の江南に見られる海の民の絵の人と、比の先住民の人たちの混ざり合った人のようであったのではと思います。

いずれにしても大事なことは、当時の東亜地中海のほとりの人々が概ね同様で、日本列島に東アジア平野の北部から入って来ても南部から上がって入って来ても似たような人たち、暮らしぶりの人たちであったろうということです。

アフリカを出た黒い肌の人たちは、その後、約8千年くらいで今の欧州人のように肌が白くなったそうですが、4万年前頃の東亜地中海のほとりにおいては、前述の案のようでしたでしょう。日本祖人の始まりの風貌です(何方か絵にしてください)。

その後時代が過ぎて、地形もそして大陸の内陸から多くの人たちの進出で沿岸の人たちも大きく変わりましたが、現在の私たちはこの東亜地中海に思いを致し、も少しお互いが仲良くしてもよいだろうと思います。

(了)

 

 

 

 

前回、人類史上の現生人類の移動進出の流れから、日本列島へは東南アジア方向から沿岸を北上し(仮に内陸からであったとしても)、数十mの海水面の低下で現れていた広大な東アジア平野に至り、舟で海を越えて来たことをお伝えしました。

同平野北部のAルートか、それとも南部の南西諸島沿いのBルートからCルートにより、九州南北のいずれに先に達したのだろうかは大いに興味のあるところです。

南部に先に達しているでしょうが、B—Cルートは、長距離で一部地域では生活は厳しかったのではと言われる島伝いです。しかし、どちらが先に達していたとしても、台湾の凌 教授が名づけられた東亜地中海の周りの出来事だということに思い至ります。

4万年前頃、女性をなどを含む家族で日本列島へ渡ることは、舟で来たことを思えば決して容易ではなく、、水産物・植物を多く食す明らかによく海に馴染んだ海の民で、内陸で大型動物を狩猟して暮らす人たちとは違います。

石器偏重史観は、狩猟にウエイトを置いた先史の見方をしますが、日本の始まりは海の民であっただろうと認識することは重要です。勿論、今は海水面が上昇したため当時の沿岸の人、いや生活の痕跡すら見つけることが困難で実証できませんが。

実証できないことは相手にしないということでは当時の事は考えられませんが、至当に考えればこうだろうということは言え、物理など他学問同様にこの「理論先史学」をもっと一つの分野として確立する必要があります。

ゼッタイと思われたニュートン力学も、アインシュタイン以降、大いに見直され発展を続けています。新たに人骨・遺物などが見つかり、必要になれば理論・定説を修正していけばいいだけのことです。

洞窟絵に舟が描かれていますし、時代はずっと新しくなりますが、入れ墨に鯨面の人(もっと色黒?)が倭人として魏志倭人伝にも書かれており、縄文時代の丸木舟や埴輪の舟なども見つかっています。

いずれにしても現代よりもゆっくり歴史が動いていた時代、意外に万年前の人たちは進んでいたというギョベクリ・テペ遺跡や洞窟絵など、近年の発見を踏まえた旧石器人のイメージはカエル必要があるでしょう。

4万年前当時の赤子を今、東京に誕生させるなら、あまり今の子と遜色なく成人するだろうと言われていますので。そして、東南アジアのパンカル半島(Sundaland)地域を北上してきた子孫は、その海辺での暮らし・操舟のknowhowは相当なものでしたでしょうから。

3.2万年前頃には、黒曜石の採取で伊豆半島と神津島の少なくとも10数kmは舟で大いに行き来していましたし。

一部に、大陸内陸の人のDNAと縄文人などが近いのでと言う人がいますが、日本祖人については、この地中海のほとりで海に馴染んだ民であるということを踏まえていない論です。それくらい内陸の民と海の民は、長い長い間に受け継いできた暮らしぶりが違います。

大陸の陸地がもっとずっと日本に近かった東亜の地中海のほとりの人々について思いを巡らし、舟で海を渡ることが容易でなかった時代に日本列島に至ることを考えますと、何といっても先ずは黒潮流があります。逆流していたとすれば、我々にはクレオパトラの鼻どころではないでしょう。

従って、東アジア平野南部の台湾高地地域へは、ベトナムなどの沿岸から北上したXルートにしろ、フィリッピンを北上するYのルートも無視できない興味あるものです。

当時の遺跡は、むしろYルート上のボルネオや比・フィリッピンの方で発見されていますし、比では、アフリカを出た頃とあまり変わっていない肌の黒いネグリト族もいますので。(従って、東亜地中海人は色黒?としました)

そして、比のルソンから台湾高地、南西諸島を経て南九州までうまく島々が点在していることが、舟で海を越えた移動進出を裏付けるものとして第2の要素と考えさせられます。沖縄では、日本で唯一、3.5万年前の人骨が発見されていますし。

東南アジア直系ではと思わせる風貌の南九州の隼人族、以南の人たちは、日本史において古い独特の文化を保ってきたと感じさせます。

 

さて、列島に拡がった日本始まりの日本祖人は、下図のAルート北部九州なのか、B・Cルート南九州だったのかが次の問題です。

当時は氷河期でしたので、台湾高地から朝鮮山地への展開は緯度を大きく変える気温の低下(3℃前後?)があり、南西諸島沿いは、石垣島—沖縄本島間の長距離渡海やトカラ列島の小資源、黒潮流越えという問題もありました。

東亜地中海人は、日本列島を丁度黒潮の流れるように北上して北海道にまで拡がって行って日本祖人となったわけです。

祖人は主に、北からの人か南からの人かは、無論、解明は容易でないです。

しかし、例えばその後の生活に大きな影響を及ぼした貴重な石器となる下図の黒曜石の交易の拡がり(産地のお蔭でもあり)を見ると、また、既にお伝えした瀬戸盆地・日本海の遺跡などの状況から、日本祖人の原動力は北説であったのではとなります。

  

実は2.9万年前頃、南九州・錦江湾の姶良カルデラ大噴火が、大変な被害を九州に齎しました(西日本、更に火山灰は東北まで)ので、肝心のCルートの分がよく分かりません。

もしかしたら、北から進出して来たまだそれ程違いの無い人たちが被害の鎮まった後、逆に南下して沖縄の方に行ったのかも知れません。

いずれにしろ日本の始まりは4万年前頃、この東亜地中海のほとりの海の民の人たちですが、台湾の凌 教授のこの命名が今は顧みられず教科書にも出てこないのが全く不思議な事だと歴シニアは思います。

そして最近の沖縄での人骨発見やDNAの研究の進展などを見てますと、始まりの頃の東亜地中海のほとりの人たちのイメージは遠からず生まれるものと期待しています。

(了)

現生人類は、出アフリカを果たして緯度にあまり差がない印度南部から東方の海浜沿いにパンカル半島Sundalandを経て、4.5~5万年前頃には数十kmの海を越えて豪に達しています。

他方、遺跡などから4万年前頃には、日本列島に達していると考えられています。まずはベトナム方向からとフィリッピン方向から北上したことが考えられ、内陸方向からもあり得ますが、内陸は起伏激しい道なき道で猛獣や毒蛇などもおり、寒暖の差も大きいです。

DNAを調べますと、日本人は近くの中国や朝鮮半島の人たちでなく、なんとパンカル半島に近い西のあまり人が行かないアンダマン諸島及び内陸奥のチベットの人たちが近い、古い痕跡が残っているということでということですので、始まりの4万年前頃は、この地域が広い範囲で同様の人たちであったことが分かります。

いずれにしても日本へは、東アジア平野に至り東部沿岸から舟で海を越えることになります。海で舟を操って目的地に達するためには多くのknowhowを必要としますので、九州へは、沿岸ルートを北上してきた海辺の民であったろうと考えます。

日本へ渡来する1万年前の約5万年前頃に、現生人類は、画期的な進化を遂げたとみられています。それは神経系の進化による言語コミュニケーションの大きな進化と複雑な自然や自分たちの社会を把握理解し、それへの対応を組み立てる脳力だと言われています。

日本へ来る前のパンカル半島地域では、洞窟において岩絵が描かれており、豪へは舟か筏か、数十kmの海を越えて渡り住んでいます。また、貝塚などから水産物をよく食していたことが知られています。

これらのことから、日本祖人は、はっきり原人・旧人と異なり、現代人への一歩を踏み出した状況で舟で海を渡って日本列島にやってきたことに思いを致す必要があります。

今では数十mの海面上昇により遺跡の発見は困難ですが、石器のほかに木や竹を使った種々の道具などがあったものと考えます。

当時は海水面が低かったため、東アジア平野が日本列島に迫っており、地域は陸地で取り巻かれた東亜地中海(台湾 凌教授)と呼ばれる状況で同様のものでしたので、日本の始まりが、下図のAからか、Bからかは、それ程大きな問題ではないでしょう。

日本祖人は、色の浅黒いあるいは茶褐色で眼のクリッとした小柄でがっしり、体に入れ墨や彩色を施して舟を操り、水産物を多く食する採集狩猟の海辺・川辺の民で、まとまった地域間の交流のある暮らしぶりでしたでしょう。

 

瀬戸内海や東京湾などが陸地であった日本列島を、まずは九州から列島の海浜地域(瀬戸内盆地を含む)を北上し進出(水平拡散)していったでしょう。気温が今よりも2-3℃は低かったものの、遺跡の状況から、3万年前くらいには本州及び北海道東部にまで進出していたようです。

また、当然のことながら後からも同族が渡って来たことでしょうから、海辺から河川を内陸に上がって(垂直拡散)海辺とは違った山間丘陵の川辺の暮らしに適応していった人たちもいました。日本の始まり約1万年間の始原時代は、このようなものであったでしょう。

ところが、2万9千年前頃に南九州錦江湾で姶良大噴火が発生し、火山灰は東北にまで至り、寒冷化した(千年くらいともいわれる)と考えられ、九州は壊滅的な被害を、西日本も大きな被害を被り、日本祖人が列島に定着を果たした始原時代は終わったものと考えます。

明らかに人口急減の西日本と残った東日本という変わり果てた日本祖人の状況で、大噴火の影響がおさまるにつれて同族、一部新たな部族が東アジア平野から進入し、一方、東日本から西日本に移り住む人たちとで被害も回復し再興していく時代が約1万年、そして土器出現により命名されている縄文時代となっていきます。

日本は、いろいろな点で西日本と東日本に違いがありますが、太平洋側と日本海側の違いをも含めて最初のこの姶良大噴火の影響が契機なのではと考えています。

さて、再興時代の後半には、質的に新たな寒冷降雪環境への北方適応を遂げた人たちが、新たな生活文化を携えて北部東アジア平野のみならず樺太方向からもマンモスを追い多くの人が入ってきました。

正に、狩猟中心の内陸勢力の東進南下の進入です。

そして、東方ユーラシア先史の基軸となります、2万年前頃の本格的な内陸勢力の東進南下の渡来進入が、その後も気候などの環境要因により、あるいは戦乱を逃れるなどで断続的に古代まで繰り返されることになります。

但し、日本の場合は、進入勢力が大きくてそれまでの人々を排除して入れ替わってしまうということはいつの時代も無かったようです。弥生時代のように、渡来勢力が数は多くなくとも人口増加率が大きいなど、その影響力が大きかった時代もありますが。

ユーラシア東部のアジアでは、内陸でのこの北方適応を果たした勢力による東進南下の各地への進入が、歴史の大きな基本的特徴でしょう。

さて、この4万年にわたる長い時代を有する日本には、当時を全く想像すらできなかった明治のお抱え外国人学者が欧米史をもとに唱えた「先住民」という概念は適切でなく、強い者が他を攻撃する、抑圧する、差別するといった勢力争いや人権問題はありますが、いわゆる先住民問題は無いと考えます。

アイヌの人たちの語り伝えでも、先住していた人たちを北千島の方へ追い払ってしまったような話があります。4万年前頃の日本祖人の進入・定着からこの太平洋に面する行き止まりの島々にいろいろな人が入って来ました。

坩堝のようになって熟成されたこの国には、現在も人権問題はあるのだろうと思いますが、はっきり先に来て住んで居たと言える人たちの先住民問題と呼ぶべき状況ではないでしょう。

どちらが先かは容易にはわからず、先に来て住んでいた先住民の子孫勢力が、後から新たな方向から来た人たちを抑圧している場合もあると考えられますので、明らかに米・豪のケースや後からの漢族が先住少数民族を抑圧している中国の状況などとは異なります。

長い歴史を有する日本の場合は、あくまで先住民という表現を冠すべきでない人権改善問題であり、誤解を与えないように国連での取り扱いなどを是正する必要があると考えます。

(了)

沖縄南部の南城市カンガラーの谷のサキタリ洞窟遺跡で大きな発見があったとの沖縄博物館の報告が此のたびありました。

沖縄博物館によれば、2009年から発掘調査が進められており、2万3千~2万年前の人骨や貝器、1万4千年前の石英製石器と人骨、9千年前の土器などがこれまで発見されてきています。

今回発表されたところによれば、2万3千年前頃の巻き貝製の釣り針2点が発見されましたが、世界最古になります。岩で研いだとみられる痕跡のあるもので人の技術が窺がわれるものです。

また、大量のモクズガニの爪や河川の巻貝、大ウナギ、青魚のイラブチャーなどが発見され、豊かな水産物食料の生活が窺がわれます。

出典www.tokyo-np.co.jp

モクズガニ、巻貝や焼けた鹿の化石は、約3万5千年以上前の物とみられ、少なくとも沖縄本島にまで人が進出し、1万4千年前頃の石器が発見されてることから2万年間くらいは継続して生活が営まれていたことが分かります。

琉球列島は、動物や石材に乏しいので長期間にわたって居住はしていなかったのではという仮説を覆しました。

そして、本サイトでは、東南アジア方向から北上した海の民の人たちが4万年前頃既に、東アジア平野に達し北部から北・北西九州に渡海して暮らし始め日本列島に広まり日本祖人になったと考えていましたが、案外早い時期に東アジア平野の南部から南西諸島ルートでトカラ列島をも越えて南九州に達していたかもしれません。

 

日本祖人は、水産物を主に食する海川辺の民の人たちと考えてきましたので、今回の発見で更にそれが裏付けられ驚きではありません。

そもそも東南アジアで発見されている当該時期の古い遺跡では、よく水産物を食していたこと、外洋魚をも食す操舟力、時期は新しいですが、貝製釣り針を有していたことが知られていました。

沖縄、東アジア平野の人々は、東南アジアに共通する海川辺の民の生活であったことが、今回のサキタリ遺跡における発見においても裏付けられたものと考えています。

旧石器人は狩猟の民というイメージは、欧州やもっと新しい時代の事でしょう。

このように、日本での発見を東南アジアでの発見に照らし合わせて考えると、出アフリカの現生人類の移動進出、生活ぶりが流れとして日本列島に至り、日本の始まりの日本祖人を形成していったことが理解できます。

そして、日本歴史界の石器・狩猟偏重の史観を、木・竹などの植物や動物の骨器を活用した海川辺の民の早い持期の定住的な暮らしのイメージに修正する必要があると考えています。

それが列島本土では、舟の活用と広域の人びとの交易へと結びついていくと考えますが、そもそも東南アジアを出た時から相当程度進んでいたのではと思います。

植物・骨などの南方での遺物の発見は容易でなく、全て日本列島に来てから獲得され作られたものとも思えませんので。

(了)

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