人間の進化の歴史では、顎と脊椎が出来た4億年前頃の魚が原点だそうです。

その後、両生類として海辺で暮らし、やがて幾多の変化を経てサルになって、現生人類に進化していきました。

ここで、ヒトの体に残る海・水辺で暮らしたと思われる体験、泳ぎや潜水能力、イルカなどと共に知能に優れ音声コミュニケーション力に優れる点などの海に関わる点が注目され、進化の過程で水辺に馴染む暮らしをしていた種族なのではと思わせます。

4万年前頃、曙海の畔から両生類が陸上に上がるように現生人類が九州に上がり北上しましたが、太平洋側の早い段階での神津島への渡海による黒耀石採取が注目されます。

そして、当時からは海水面が数十mも上昇したために祖代の暮らしの痕跡は見つかりませんが、その近くの海沿い、万年前の三浦半島の夏島遺跡は、何とか祖人の暮らしを想像させます。

四季折々の海の幸や山の幸など今の日本の特色を思わせる多彩な物を食していたことが、貝塚で発見された物から分かります。

既に丸木舟で外洋魚を釣ったり漁網で魚を獲ったりしていたようです。

長く島だったので遺跡が運よく残っていたと言えます。

(遺跡説明)貝類以外に魚類も利用していたことが分かる。出土量が多いボラクロダイスズキハモコチなどは水面近くを回遊する習性を持つことから、やヤスによる突き漁、小型の骨製U字型釣り針が出土していることから釣り針を用いた釣り漁、漁網を用いた漁などが行われていたことが推測できる。またマグロカツオなど外洋性の魚類も見られ、丸木舟によってかなり沖合へ乗り出して漁労活動していたと考えられる。固い殻で覆われたドングリクルミなどの木の実をたたいて砕いたり、すり潰したりする石皿磨石などの石器の道具類が貝層の中から出土している。また、シカイノシシなどの動物の骨や釣り針なども出土している。

四面環海、長い海岸線と島に、そして川辺の高地にも日本祖人のこのような暮らしがあったことを想わせられます。

鹿児島―高知ー和歌山南ー東海南ー伊豆・三浦ー房総、4万年前からの「海の民」日本祖人の暮らしの微かな痕跡が感じられます。

日本祖人をさておいて、アイヌが先住民?腹筋崩壊です。国会決議は、先住民の語を外し、アイヌの人権を尊重する決議と名称変更すべし、日本歴史学の恥辱です。

さて、それでは、早めに渋谷ハロウィンをお楽しみください。

https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

(了)

現在、台湾と日本は1時間の時差がありますが、台湾の人たちの中にこの時差をなくして日本や韓国と同じ時間にしようという意見が出てきています。

現在の日本文化や日本統治時代の良い想い出があることも一因でしょう。

ところでそうなりますと、正に4万年前頃の日本列島史始まりの日本祖代に戻り、下図の曙海の畔が注目されます。

日本祖代の人たちは、どんな顔立ちだったのでしょう?後の時代の縄文人と出アフリカからSundaland(東南アジア)を北上してきた人たちの混じったような顔でしたでしょうか。

さて、よく縄文人は何処から来たのか?という問いが発せられますが、これは誤りです。

日本祖人が、3万年前頃、概ね列島全域に拡がった後、大陸からの新たな異質な狩猟族の進入を2万年前頃に受け、列島での暮らしを多様に熟成させた日本祖代の約2万3,500年という長い時を経て、土器が現れて縄文人と呼ばれていきます。

その頃の人は、当然、列島に継続して住んでいる祖代の人たちであって、ある日に皆が縄文人に変わった訳ではありません。

ところで、「江戸人」と言って1枚の絵を出せるでしょうか?

北の北海道から南の八重山迄生活している多様な人々を1枚でこういう人と言うのはムリでしょう、誤解の元です。

この始まりの日本祖代は、世界の行き止まりの列島で2万年を越える長い時代を過ごした海の民である日本祖人の列島における風俗習慣、文化が作られた時代です。

西・南と北・東の違いや地域ごとの人と暮らしぶりの違いも出てきていることが、残された石器などから分かります。

この日本祖代は、決して無視されるべきではない、ある時から縄文時代と呼ばれていく、未だ学術的な名前すら与えられていない、私たちの遠い祖先である日本祖人が暮らした始まりの時代です。

この国の原風景であり、近年、世界で認められている日本文明の始まりなのです。そして祖先である日本祖人は、おそらくは世界史上初めて北海道から環太平洋地域をアメリカ大陸に渡って行ったと考えられる人たちなのです。
https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

4万年前頃、南方のSundalandから北上した子孫たちが、曙海の畔での暮らしから家族で越えて九州にやって来て北上して行き、北海道にまで拡がった日本祖人の暮らしに迫ります。

下図のように、先ず、列島全域に拡がった「海の民」の暮らし振りの基層の上に、大陸からの第2層の人々が、北の樺太からと西の曙海越えの両方向から流入しました。

そのためその特徴は、西と東・北に別れ、人と文化の流れから太平洋側と日本海側に別れ、更にこの2つの流れの重なった中央部分に重心があった、重層そして熟成されたものと言えるでしょう。

(今に繋がる特徴と思いませんか?関ヶ原戦が話題ですし)

他国と違って、行き止まりと言われる日本列島における人々と文化の分かり易い特徴です。

因みに、祖代後に縄文時代を経て、弥生時代に西から米文化を持った第3層の人々が渡来して関西に重心が移り、徳川時代にまた実は大昔のように戻ったと言えるでしょう。

これが、長い旧石器時代と言われる後期の日本祖代における全国の遺跡・遺物(主に石器形式)から導かれる暮らし振りの「くにのかたち」です。

西からのA西型と北からのB北型という異なった石器形式に別れ、更に、黒曜石をみますと図のように、原産地を中心に円の広い地域の仲間で交換され、北海道の白滝産や北部九州の腰岳産は、域外にも出て行っていました。

更に、祖代から縄紋時代に移行していく頃には、細部の石器道具の作り方が地域ごとに違いを見せて来ていて暮らしぶりもグルーピングできそうな特色があったものと思わせます。

結構、道州制の議論とかみ合っていたり、今も見られる西と東・北の様々な違い(丸餅と角餅などなど)を思わせる驚きの附合と言えるものです。

日本祖代の時期的な区分は下記の前回投稿をご参照ください。

祖人分布10.5

さて、このように日本祖代を見てきますと、日本史は、近世以降を知れば十分という人もいますが、不遜でしょう。

海の民の暮らし、どんどん重なって行った4万年にわたる暮らしぶりは、精神面を含めていろいろ繋がっていることでしょう。

(了)

 

4万年前頃、曙海の畔から多くの家族が海を越えて九州(八重山にも?)にやって来て、3万年前頃には日本祖人は北海道にまで拡がりました。

しかし、2.9万年前、鹿児島・姶良大噴火に遭って九州と西日本は大きな被害を受けました。そして一部の渡来を含めて或る程度その回復がありました。

最寒期の2万年前頃には、北と西の双方から暮らし振りの違う狩猟族、寒冷適応族の新たなかなりの人々の流入がありました。

1.35万年前頃には、関東にはっきり人々の多い列島の新たな形が整いました。そして、列島における生活に一般的に土器が含まれる縄紋時代となります。

このように、日本祖代(約2.8万年)で始まりの「くにのかたち」が出来上がって縄紋時代に移行していくときは、関東に人が多い現代の「国のかたち」に似ていたことが驚きです!(この後の時代には色々変化しますが)

日本全国に残された旧石器遺跡から人々―日本祖人に注目すれば、

①前期 曙海の畔の西・南から第1回目の人々が、初めて海を越え入って来て北に拡がって行った西高北低

②中期 姶良大噴火の九州・西日本被害により相対的な西低北高と一部渡来によるその回復化

③後期 最寒期に北と西から第2回目の多くの人々が入って来て、寒気が緩む中で列島に広く及んで平準化、そして関東のはっきりした肥大化

です。

暮らし振りは、先ず列島地域に「海の民」の暮らしを主に高地の川辺にも人々が拡がって始原風景が出来ました。ちょっと前まで、日本人は生魚と海藻を食べる、好む、変なヤツと言われていました。

そして、噴火大災害に遭ってその損失・傷を何とか回復していった2万年前頃の最寒期に、新たに大陸の狩猟・寒冷適応族という暮らしぶりの異なる人々が北の樺太から、また、狭くなった西の曙海の海峡を越えてかなり入って来ました。

そのことで生業が海、そして更にはっきり陸の狩猟等もとなって行き、関東に更に人が集まって縄紋時代(万年間)に移行していったようです。

日本祖代とは、初めて日本列島に今に繋がる現生人類の海の民が入って来て列島中に拡がり、後期には更に北と西の2方向から大陸より暮らしぶりの違う狩猟・寒冷適応の人々が入って来て拡がりの収まりを見せ、一応「くにのかたち」が整った時代と言えるでしょう。

そこには、列島の北・東北部と西・南部及び太平洋側と日本海側の違い、関東と甲信越の繋がりといった実は今に続く特色が窺がえるものでした。日本史は、中世から、近世から学べば十分と言う人がいますが、誤解でしょう。

祖代の後期には世界最古の土器も出現しましたが、やがて文字通り縄紋の土器が広範に使われる縄紋時代へと暮らし振りもはっきり変わっていきます。

(因みに万年を経た縄紋末期には、お米を持った人々が西から入って来て陸上主体の弥生時代になって行き西高北低化の人口は増加し、盛んに争いも生じました。)

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

 

4万年前頃から始まった我が国の歴史において、日本祖人が37,000年前頃という大昔に、伊豆半島沖の神津島に舟で海を越えて黒耀石を採取に行き来していました。

そして南関東や伊豆などの広域においてそんな古い時代にその黒耀石の交換が行われていた事も世界の学界に驚きをもって迎えられています。

先史人たちの狩りなどの重要な道具の宝であった輝く切れ味鋭い黒耀石は、他に北海道、本州中央、隠岐の島、九州北部などの原産地が良く知られています。

海水面が数十m低かった当時の日本祖代の「海の民」の木・竹・骨・皮などを活用した暮らしは今は海の下ですが、陸に残された黒耀石の石器は、当時の状況を探る大きな要素です。

神津島行きの渡海の時代と広く見つかっている事実から、日本祖人は曙海の畔から海を家族で越えて九州(八重山も?)に来た時には、既に黒耀石の価値を知っており、探して交換をした経験を有していただろうと考えられることが重要です。沈んだSundalandから北上してきましたので。

さて、例えば日本語はいつできたのか? 一昔前にある学者は、母音子音もはっきりしない状況からまあ言語らしくなったのは3,000年前頃だろうと言いました。

私は、日本祖人の作・操舟、渡海、黒耀石採集、交換などとSundaland地域の状況を考えれば、4万年前、九州に来た頃から既に結構な話コミュニケーションが出来ていたものと考えます。

日本語は、ぴったりした発地が分からない孤立語ですが、おら、あんた、好いとるは、英語や中国語のI love you.に比し古いことが分かります。シチュエーションを考えれば、おら、で十分、おら、あんたで十二分でしょう。見つめていますので。

同じような人たちによる以心伝心があった海岸の小社会の大きなものであったことを窺がわせ、いろんな部族が居る内陸狩猟族の慌ただしい暮らしぶりとは違ったのです。結論を早く言えなどと言われない。

ところで黒耀石です。

バンドゥンの小さな展示館にも黒耀石の石器は飾られ、隣町のGarutは大原産地ですが、国際学会の資料には載っていません。その資料から、不思議で当然かもしれませんが、人類世界の文明の源流痕跡が窺がわれます。

環太平洋の豊かな黒耀石分布は、現生人類の進出展開によく合っていて、日本は今や一文明と言われる理由が納得しうる豊かさですし、人類がユーラシアに出た地域やメソポタミア・欧州への進出の源流に符合していることも不思議です。

アメリカ新大陸の状況は、今後の解明ということかもしれませんね。

そして、既に報告した環太平洋の火山帯・人類展開史とも符合しているのです。鋭いガラス状の黒耀石が火山帯で見付かるのは当然ですが、人類史の進出展開と足並みを揃えていることが不思議です。

 
 (了)
歴史の裏付けのない「アイヌ先住民国会決議」は名称変更を!
我が国先史における皆さんの議論は、まだまだ「縄文」で留まっているようです。結論的に、4万年前頃からの列島史始まりの「日本祖代」は、少なくとも3つの大きな出来事が挙げられるようです。
1. 現生人類の移動及び我が国の旧石器遺跡分布の状況から、南方の現生人類・海の民が、4万年前頃、初めて曙海(仮称)を越えて九州(八重山含む?)にやって来ました。
 
そして太平洋側と日本海側を北上し、3万年前頃には北海道にまで拡がり至り、また、内陸高地にも拡がりました(当初の列島の原風景)。
2. 2.9万年前頃、鹿児島・姶良大噴火があり、特に九州は壊滅的に、西日本も大きな被害を受け、火山灰は東北にまで降りました。当時の人々が、海辺川辺で暮らしていたので、農業ほどではなかったとしても寒冷化や灰汚染は厳しいものでしたでしょう。
他方、この大災害が人々の精神心理に及ぼした影響も極めて大きかったものと思われます。
実は私は日本祖人が、北海道から千島~新大陸アメリカへ渡ったと考えていますが、この大噴火が人々を北方に押し出す契機になったのかも知れないと考えています。

3. 氷期最寒期の2万年前頃、大陸から樺太を経て北海道へ、また、北東ア平野から九州へと狩猟族の渡来があり、列島人は圧迫されあるいは混じり合い文化的に大きな影響が及びました。

因みにアイヌの先祖は、早くてもこの時期の渡来とみられ、我が国の南方発「先住民」からは史実の裏付けの無い政治的な国会決議(2008年)は名称変更が必要です(例えば、「アイヌの人権を尊重する国会決議」のように)。
何よりも、簡単に「先住民族」などと言える人がいないことが、万年熟成の長い歴史を有する我が国の特徴ですから。
なお、アイヌの古い言い伝えでは、小柄な海の民・先住民を北に追いやったとなっており、明治時代にこの事は一旦否定されてましたが、現生人類の出アフリカということなどが分かってきている現代の歴史認識からは、納得できる伝承です。
お雇い外国人のモース教授が大森貝塚を発見して考古学を導入し、坪井教授が唱えた先住小人コロボックル説は、今こそ見直されるべきと考えます。

そして、最寒期の終わる寒暖乾湿の変動の激しい状況の中、土器が出現し(1.65万年前頃)、生活の変化が始まって縄文時代(万年間強続く)と呼ばれていきます。
主たる海の民・日本祖人と大陸渡来の一部狩猟族の混じった縄文人という訳です。
地域によって違いがありましたが、何しろお国の始まりの事ですので、研究中だがとして、子供たちに教えて良いのではと思います。
遺跡から出て来る人骨は、水産物・植物を主に食し、多くが毛皮パンツで槍持って大型獣を追っていた訳ではないようです。
少し前までは、日本人と言えば生魚や海藻を好む変なヤツと言われていましたが、列島史始まりからの特徴をよく表していると考えます。
ところで祖代末期の最初の土器は、私は、堅いアクの強い植物や暖かくなって臭くなり易い水産物などを煮たのでは、と思っています。
そして、百年前の日本人を撮った写真は、魏志倭人伝に書かれた海の民・倭人そのもののようです。曙海を越えて来た日本祖人の子孫であることを感じさせますね。
(了)

約4万年前、我が日本列島史の始まりである日本祖代の状況に迫ります。

現生人類が出アフリカを果たし、東進して東南アジアのSundalandの地域に至り、6.5万年前に豪州に数十㎞の海を越えて渡っています。

注目されますのは、東チモール東部のジェリマライ遺跡で5万点もの魚骨が発見されて、4.2万年前と判断される、捕獲が容易でない外洋表層魚(サバ科、鰹やキハダなど)が含まれ、時代は下りますが釣り針も発見されています。(京都府大 小野林太郎博士)

これらの事から、人類の豪州渡洋は、単なるハプニングではなくかなりの数の外洋渡航に長けた海の民家族の必然の渡航であったと言えます。

そして、日本列島史の始まりを考えます時に、Sundaland地域から北上して来た人々が、外洋渡航に長けた「海の民」の子孫であったであろうことは重要です。

海を越えて九州に至り、3万年前頃には北海道にまで達して拡がり、我が列島の原風景が出来ました。その後、樺太から北海道へ、また、西から九州へかなりの人が特に2万年前頃、渡来したようです。

こう考えますと、列島史始まりの日本祖代は、曙海の畔からとなります。

先ず気温が4℃くらい低い時代でした。海水面が80mくらい低下していましたので、北東ア平野が台湾山地から朝鮮山地まで長い海岸線を作っていました。

次に、気温から今と違って曙海の畔には温帯広葉樹林が拡がり、林内には猪や鹿などの動物たちが居たであろうことです。木、竹、骨など十分な道具や暮らしの材料が得られたでしょう。

寒暖と乾湿が、年により季節によりかなり変動が激しい厳しい時代だったようですが、このことは返って適応を図る人々の発達を促したのかも知れません。

その後の早い時期から、関東伊豆の神津島に渡海して黒曜石を採りに行っていますので、やはりそもそもの海の民で曙海の畔で水産物を主に食し暮らしていた事でしょう。

台湾山地から北上して九州に定着するのに約2万年くらいかかったのではと思われますが、これは北上による寒さへの適応(又は南西の長距離海峡越え)とみられます。

欧州の例からこれだけの期間ですと、皮膚の色は大分薄くなっていたものと思われます。

しかし、この初期の寒冷適応によって、九州から北陸、東北、北海道と降雪寒冷地へ拡がって行く基盤が出来ていたのでしょう。

この時代は、国境も無い曙海の畔の人たちはまあ似たような海の民の暮らしぶりであったでしょう。

そしてこの事から、従来の黒潮「海上の道」論ですが、逆に五島から南九州、沖縄本島という時計回りの日本祖人進出ではなかったのかという問題が出てきます。

現在の遺跡・人骨では、山下洞人が八重山人骨よりも古いですし、何よりも長距離の宮古~本島間の海峡越えがあります。八重山へすら、長距離の黒潮越えの厳しさから、台湾からではなく、時計回りに経験を積んだ人々による本島—>八重山であったかも知れないと考えます。

やがて、北東ア平野の人たちは、海水面の上昇に追われて西進し、内陸から来た大型哺乳動物の狩猟民族に圧迫されることになります。

九州から北上した日本祖人は、海水面の上昇でより大陸側と離れて独自の熟成の度を強めたのでしょう。

そんな海の民集団が、太平洋側と日本海側の両ルートで北へ拡がって行ったようです。そして、川を遡行して高地にまで暮らしの範囲を拡げて行きました。

更には、北海道から千島列島、ベーリング地峡南岸を経てアメリカ新大陸へ渡って行ったものと考えます。(https://youtu.be/BGrhO1ntyYo)

(了)

 

これまで、旧石器遺跡の状況からとその後の文献からと2回にわたり我が国始まりの祖代を探りました。今回は、言葉の痕跡から探ります。

現生人類の流れの基本(約10万年前頃の出アフリカが始まりで、Sundaland-豪へ拡がり、北上)を考えれば、如何に遠く離れているとはいえ、日本語とタミル語が近い(大野 晋博士)とか、タミル語とも近いアルタイそしてツングース系と日本語が近いと言われても驚くことはないです。

日本語が混合言語であり、タミル、アルタイ・ツングースの要素があるという事は納得理解できます。

しかしここで注目したいのは、漢字を共通にする大陸の中国中央部の漢語とは違う種の言葉であり、暮らしの習俗も異なることが実に興味深いです。

この事は、既に日本祖語が出来上がっていたことを示します。丁度、戦後アメリカに占領されても米語にはならなかったようにです。

北東ア地中海の古語の痕跡を探ります。

例えば、八重山とインドネシアの語の「山芋」、南方ルートの語「海浜」は薩摩の隼人、アイヌにまで共通です。

また、太陽、月、光その他の語や真っ白・真っ黒のマ、出る・動く・抱く等の動詞や食・果物など南方インドネシア等、台湾、比、日本など明らかに南方ルートの共通性が実に沢山残っている(琉球方言の成立をめぐって 村山七郎)ようです。

また、あかあかいらいらなど繰り返す畳語は、日本語と南方語の共通性を強く感ずるもので、米インディアンにもみられるようです。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

因みに、こういう点に関しよくポリネシアからという人がいますが、万と千で日本の古さはゼロが一つ違う古さですので、スンダランドからというべきです。

これらの痕跡からも、南方と関係の深い遠い昔の日本祖代の言葉の成り立ちが窺がわれ、それはまた、祖人の成り立ちでもあります。

無論、これらについて黒潮北上の流れが関係している事は言うまでもありません。

さて、先史時代のユーラシア東部は、ざっくり、A(旧)タイプ:沿海川漁撈の根菜・稲作系とB(新)タイプ:大陸狩猟の牧畜・麦作系の地域グループに大別されます。

Bにより内陸高地に追われ、その状況に適応していったA系もいたようです。

そして、日本は東の行き止まりの海中の細長い列島でしたので、他と違って坩堝で地域差を持ちつつ熟成されたということが大きな特徴でしょう。

(了)

既に報告しましたように、今とは大分環境が違いました4万年前、北東ア地中海の畔から海を越えて九州にやって来た人々は北上し、旧人とも遭遇しつつやがて北海道にまで拡がりました(3万年前頃)。

約2万年間(6-4万年前)とみられる長い北東ア地中海の畔における暮らしは、その後の列島での暮らしの原点でした。

北上した北海道までの沿岸部の拡がりとともに、結構早い段階から内陸の高地部にも拡がっていたことが残された旧石器遺跡から窺がわれます。

さて、日本史最大の謎、3世紀の倭の邪馬台国については今も論争が続いているようです。その後の7世紀には、隋に船が派遣されて学びの交流接触がありました。

その隋書では、下図のように依然として倭国の位置の認識が会稽の東と少し変ですが、東西南北の大きさ(行程5及び3ケ月)や朝鮮半島からの距離(3千里)などがしっかり示されています。

そこから、最初に書かれた魏志・倭人伝の侏儒国、裸国・黒歯国に注目すると、あまり違和感なくそれらが上図のように収まります。

重要な事は、裸国・黒歯国が船で1年くらいかかる所で、交易があったことです。

その行程と地域の状態からは、フィリピンだったのだろうと思われますが(インドネシアかも?)、紀元前後の簡単な船で熟練のノウハウを要するそんな長期の外洋航海が行われていたことが重要です。

無論、黒潮流を活用したものですが、海人の航海行動力があったこと、また何よりも、代々語り伝えて来たその方の地からやって来たからこそ、交流したのだと思われます(貴重な貝などを求めての事でもありますが)。

日本祖人は、基本的に南方からやって来た人たちと考えられ、その子孫の海人がまだ多く倭国各地に存在した邪馬台国話からも遥かな「日本祖代」の状況が窺われるのです。

因みに隋書は、「新羅・百済は、みな倭を大国で珍物が多い国とし、ともにこれを敬仰し、つねに通使・往来する。」と書いています。

(了)

現生人類による4万年前頃の我が国始まりの時代は、今より気温も海水面も低く、私たちとは異なる旧人(デニソワ人系)がまだ存在(鬼の記憶?)していたようです。

日本祖人を考える場合、現生人類の出アフリカ後の歩みとこの時代の日本列島に残る遺跡の状況を考えれば、基本的に南から北に北上して拡がったものであり、何よりまず揺籃の地である「北東ア地中海」が注目されます。

南方から台湾山地地域に北上して来た海の民が、九州北部(八重山にも?)に至りました。九州に達した時代には、同種の人々がこの地中海ほとりの海辺や島々に住んでいたことでしょう。

台湾山地以降(海水面低下を考慮)は、八重山へは家族で容易ではない75km幅くらいの黒潮の強い流れの深い海を渡って行く必要があり、一方の九州北部へは、北東ア平野沿岸の長距離を気温の低さ(現在-4度C)に適応しつつ北上し、対馬へは、よく見えていたものの数十km幅の浅い海を越える必要がありました。

北東ア地中海の西岸地域から海を越えて日本祖人になるのに、現時点の判断では約2万年(!)をも要したことになります。

この事は、①台湾からの長距離北上の気候適応と②家族集団での渡海に至ることが容易ではなかったということです。

また、宮古島―沖縄本島間の離隔(約170km)の大きさを考えますと、私は沖縄本島への当時の定着は、北の南九州・奄美大島から南下したのかもと考えています。

つまり、日本の始まりは、先ず当時の「北東ア地中海」の畔での暮らしぶりに想いを馳せることが極めて重要です。

そして日本祖人は、新たな人々の渡来を得つつ列島を北上して降雪寒冷の厳しい北海道にまで拡がって原風景を作り、島国独特の文化を長い間に熟成させる基盤となりました。

その後の画期としては、特に西日本が大きな被害を受けた鹿児島・姶良大噴火(AT、2.9万年前頃)があり、その時期以降は祖代後期となります。

次いで最後の氷河期が終わっていく状況の中、土器出現(1.65万年前)をもって縄文時代・縄文人と呼ばれることになりますが連続したものです。

また、この日本祖代には、ベーリング地峡沿岸から昆布ハイウェイを、人類として初めてアメリカ新大陸に進入して行ったイベントが含まれているものと考えています。

3万年前に北海道東部に達した日本祖人が、食料豊かな地への北上をプーチンもいないのに続けなかったとは思えませんので。1.6万年前頃には、アメリカ北西部オレゴン州の太平洋沿岸や他の内陸でさえ海沿いから既に人間は達していましたし。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

この間に、西・南と北から、種々の人たちが入って坩堝の中で日本人が出来上がっていますが、基本的には2種類と考えています。

アフリカを出た頃の面影を留めながら沿岸を移動した海の民A系か、内陸での厳しい気候に適応し大型動物を狩猟したDNA変化のB系かです。

現在は、長い万年の歴史からは最近ですが、闘いに強い内陸狩猟民族B系の影響が強いようです。

地球の温暖化、汚染、自然破壊などを見ますと、現代の私たちは色々な意味において、基底にある海の民系の自然と調和した質実の暮らしぶりに注目する必要があると考えています。

(了)

成人T細胞白血病(ALT)をご存知でしょうか?

ALTは、腫瘍ウイルスであるHTLV-1感染を原因とする白血病、もしくは悪性リンパ腫であり、HTLV-1キャリアは日本全国で100万以上いるとされています。

このALTは、日本、特に沖縄県と南九州、太平洋沿岸に多く、九州五島列島や北海道アイヌの人たちにもよく見られます。

海外では、カリブ海沿岸諸国、中央アフリカ、南米、ニューギニアやアメリカNativeインディアンなどに感染者がみられます。

日本で発見、命名されたこの病について調べた日沼頼夫医学博士は、特にこのウイルスの日本におけるキャリア好発地域は、縄文系の人々が高密度で残存している所であることを示していると結論付けました。

日沼博士の結論は、現生人類の移動史を併せて考察するときに、その持つ意味は大きいです。

即ちこのALT調査は、正に、アフリカ—東南アジア—日本列島—アメリカ新大陸へのわれわれ現生人類の最古の移動史と符合することをも示すものとなっているのです。

前回、縄文時代の前、我が国の始まりである日本祖代に関して東亜地中海—九州—北上して津軽海峡を越えて北海道(3万年前頃)という約1万年の拡がりの我が国の原風景を報告しました。

そして、この拡がりは、更に1万年強の人々の渡来を含み文化を積み重ねて、縄文時代(1.65万年前~)と呼ばれるものに成って行きます。

このALT調査結果は、世界史の流れの中で、我が国初期の日本祖人—縄文人に関する渡米などの推定を裏付けるとも言える興味深いものです。

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

 (了)

 

夏休みです。この列島における私たちに繋がる日本人の最初の歴史、その始まりと世界史的な意義を有する渡米に関して大胆に思いを馳せてみます。

現在の私たちに直結する現生人類が暮らした4万年前頃の我が国始まりの時代は、今より気温も海水面も低く、私たちとは異なる少なくとも何十万年前からこの地域に居た原人の子孫や旧人(デニソワ人系)がまだ存在(鬼の記憶?)していました。

私は始まりの「日本祖人」、「日本祖代」と言ってますが、歴史考古学的には「旧石器」時代・人でして、4~3万年前頃の日本列島の始まりの人々とその来着の様子に焦点が当てて語られている学界資料は有りません。(私には驚きです)

欧州では、旧人ネアンデルタールと新人の関係が大いに注目されていますが、こちらでは考古資料発掘が厳しいこともあって研究はなかなかです。

日本列島の日本祖人を考える場合、現生人類の出アフリカ後の歩みを考えれば、何よりまず台湾山地と揺籃の地である東亜地中海(台湾 凌教授の命名)が注目されます。

始まりの日本祖人は、海を越えて九州北部(八重山にも?)に至りましたが、西から(到達に遅れ)というよりも、南から台湾山地地域に北上して来た海の民の人々であり、日本祖人が九州に達した頃からは、同種の人々が同地中海ほとりの海辺や島々に住んでいたこととなりました。

台湾山地以降(海水面低下を考慮)は、八重山へは家族で容易ではない75km幅くらいの黒潮の強い流れの海を渡って行く必要があり、一方の九州北部へは、東アジア平野沿岸の長距離を北上して気温の低さに適応しつつ、渡海はよく見えていた同様の幅の対馬に浅い海を越える必要がありました。

フィリピンの遺跡などから、新人類は6万年前頃には台湾山地沿岸に至っていた(東南アジアは約7万年前以前)と考えます。

このことから、長距離北上の気候適応と家族集団の渡海のために、東亜地中海西岸地域から日本祖人になるのに約2万年(!)をも要したことになりますが、更に知恵ある新人の到着待ちだったのかも知れません?

我々はこの4~6万年前に注目しますが、丁度5万年前頃、ビッグ・バンのように言語力の発達を軸に新人の脳力・心が画期的に開花した(こちらにも伝播)という説もあります。

八重山方面ですが、台湾―与那国島間及び宮古島―沖縄本島間(約170km)を考えますと、私は沖縄本島への定着は、南九州・奄美大島から南下したのかもと考えています。

特に西日本が大きな被害を受けた鹿児島・姶良大噴火(AT、2.9万年前頃)があり、その時期以降は祖代後期となります。

次いで最後の氷河期が終わっていく状況の中、土器出現(1.65万年前)をもって縄文時代・縄文人と呼ばれることになりますが連続したものです。

ここで縄文初期の人々・日本祖人が周辺国に見られない独特の顔を作り上げていたことは重要で、日本祖代間に列島の中で混じり合い熟成されたものです。

さて、3万年前頃には北海道に渡り降雪寒冷地に定着した日本祖人のその後です。

米テキサス州Gault考古学研の長年の発掘調査で、オースティン近郊遺跡は16,000年前という報告がありました。90個の石器、動物の骨、若い女性の歯などが分析されています。

米大陸最古のものですが、無氷回廊が開いたのが12,500年前ですので、最初の新人類が「昆布ハイウェイ」からやって来た事がはっきりした点に大きな意義があります。

すると、A:海の民の日本祖人か、B:降雪寒冷地に適応したDNAの内陸人(現在の米大陸の主体人)かということになります。

さて、南米アマゾンの古い3部族のDNAが、印アンダマン諸島人~豪アボリジニのA型に近いという驚きのHarvard医科大の分析結果があります。

従って、環太平洋ルート(POR)で北海道東部から3万年前以降、日本祖人が昆布ハイウェイで渡米し、子孫はアマゾンにまで至っていたものと考える訳です。

何故、渡って行ったのか?高尚な説を唱える学者さんもいます。

まあ、前人未到の処女地に、幸いにも鏡面対称的に昆布・貝、エビ・鮭等、海獣鳥・卵、陸上植物などの食料がしっかり得られたためと思います。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

現生人類が、4万年前に東亜地中海から海を越えて日本列島に進入し、縄文時代と呼ばれるようになるまでの我が国始まりの日本祖人が過ごした日本祖代(4万年前~16,500年前)の時期の区分は次の3つの特色で区分されます。

  • 前期は、列島に進入し、八重山から北海道まで、また、高地の野尻湖や島々などにまで生活の場が発展し、日本文化の基層が形成され、原風景となりました。また、伊豆諸島の神津島に黒曜石を採りに十数km以上の外洋を行き来し、関東南部や伊豆で交易が行われていたことは、世界史的にも注目されます。
  • 中期は、姶良大噴火が起き、この特筆すべき残念な大災害からの復興、再生が主でした。当時先進の九州は大被害で、西日本は大きな影響を受け、火山灰は東北にまで及びました。火山灰のみならず寒冷化したことも考えられる厳しい状況から復興を果たしたことになります。この文字通りの天変地異が人々の精神性に及ぼしたことも重要な事と考えます。その後の農耕の民に比して、漁撈の民であったことが復興にとってはよかったのではないでしょうか?
  • 後期は、大陸の寒冷降雪地に適応した形質・DNAの変化を生じた狩猟民族の流入でした。その後も列島には人の流入の波が何波かありましたが、この流入は、戦いをも持ち込んだものであったとみられます。そして、現代に至る私たちのDNAにも大きな影響を与えたものと考えます。但し、それ以前の約2万年の間に列島で形作られた海の民としての漁撈採集を主とする暮らしの文化がありましたので、坩堝の中に混ぜられていったのでしょう。穏やかなのに時には激しく闘う日本人の2面性は、こんな歴史のなせる事とも考えられます。

勿論、人々も文化も断絶することなく、土器の出現に着目した縄文時代と呼ばれることになって行く、長く熟成された歴史です。

やはり、東は太平洋の大海原という行き詰まりの島々であったこと、北と南の2方向から人々が入ってきたことが、独特の文化を醸成したものと考えています。

このくらいの事は、子供たちに教えて良いのではないかと思います。

(了)

 

日本祖代の状況について

沖縄石垣島で発見されていた古人骨の年代は、27,000年前と発表されました。

4万年前頃、東亜地中海の海を越えて、家族で日本列島に渡って来た海の民、日本祖人による列島史の初期の人骨が確認されました。大災害である姶良大噴火後のものですが。以前から居た人たちか、新たに渡ってきたのか興味深いです。

既に、生活の場と葬る墓域が分かたれる精神性を有していて、風葬であったとみられています。

石器は、おそらくあまり発見されないでしょう。竹、木、草、海藻、骨、貝、サンゴなどの道具で生活し得た海の民であったことを示しているものと考えます。

そして、3万年前頃には、水平適応では北海道から八重山迄、垂直適応では高地の野尻湖などにまで、日本祖人は概ね列島に拡がり、我が国の文化の基層、原風景が形作られていました。

この間、少なくとも十数kmの外洋に漕ぎ出し、伊豆の神津島に貴重な黒曜石を採りに行っていた、そして、それが南関東や伊豆で広く交易されていたことは世界史的にも特筆されることです。

なお、沖縄本島へは、宮古島との距離(約300km)と当時の操舟力を考えれば、南九州からトカラ列島を越えて南下してきたのでしょう。

 

姶良大噴火は、当時先進の地域に起きた誠に残念な大災害で、北北東方向に火山灰は東北にまで拡がりましたが、祖先はそれを乗り越えて発展してきたものです。

日本の始まり(4万年前)-概ね列島全域への拡がり(3万年前)・姶良大噴火(2.9万年前)―大陸狩猟民族の流入(2万年前頃)ー縄文時代の始まり(1.65万年前)となります。

因みに、アイヌの人たちの祖先が北から渡って来たのは、2万年前頃以降と考えています。国会の先住民決議は、史実の裏付けが有りません。

推進した人たちが、日本神話に裏付けがないと言うのは遥かに笑止の沙汰です。

アイヌの人たちの人権は尊重され、習俗は守られ、差別があるならば是正されねばなりませんが、長い歴史を有する我が国に先住民問題なるものは有りません。

(了)

「歴しニア」のこぼれ話—我が国の始まりは、東亜地中海の畔(ほとり)

当サイトをご覧の方は既にご存知ですが、標題の内容をFacebook Nara Akiraに投稿提起しました。(本記事の字の何故かの濃淡は意味ありません。facebookに加えた分です。)

4万年前頃、海水面は数十m低く東アジア平野があり、我が国により囲まれた東亜地中海の畔で海産物を主に食す「海の民」が育んだ暮らしが原点です。

我が国へは外海を越えて、容易でない操舟による幾つもの家族の渡来が必要でしたので。例えば、沖縄の糸満の人たちやアリューシャン列島のアレウトの人たちの海の民として生きる、今に伝える厳しい鍛錬の痕跡からも窺がえます。

さて、始まりの主ルートは、上図の①台湾正面から八重山Bか、更に北上して②北部東アジア平野から北・北西九州Aか、我が国への一番乗りは大変興味あります(いずれも町興しに宣言出来ます。肯定も否定も学者先生はしないでしょうから)。

トカラCは、当初の学説では動植物状況から島での持続的な生活は厳しかっただろうと言われましたが、その後、植生状況も良くて暮らせただろうということのようです。

厳しい黒潮流越えがありますが、あり得たかもしれませんね。この場合は、南九州は有明ルートでなく南西諸島ルートとなり、かつ、相当の外洋航海力があったことになります。

3万年以前に伊豆神津島の黒曜石取りに渡海し頻繁に行き来できてますので、「海の民」の実態は大変興味深いことです。

主ルートは、渡海の難易や現在発見されている旧石器時代の遺跡状況などから、個人的には後者の図Aからかなと考えますが、実はたいした問題ではないでしょう。

いずれにしろ今と全く違って緩やかに歴史が流れていたあの時代、畔は似たような肌の黒い小柄な人たちによる似たような海辺・川辺の暮らしぶりでしたので、まずは九州に拡がっていった始まりの日本祖人像に大きな違いはなかったことでしょう。

決め手は、東亜地中海のほとりの「海の民」の暮らしぶりでしたので。

その後、日本列島の今よりも拡がっていた沿岸地域を北上して行って、約1万年かかって北海道太平洋岸に至ってますが、後半の寒冷降雪に慣れるのに時間を要したのでしょう。

つまり、3万年前頃、我が国ほぼ全域の沿岸地域で、外洋の渡海を果たした当時としては高度の知識・技能を有する「海の民」・子孫を主とする我が国の原風景が形成されたことが重要です。

真の遺跡は海中ですが、島や沿岸に残された古い遺跡から窺がい知れます。黒曜石産地で豊富な遺跡群でも有名な遠軽町白滝、その古さから日本祖人が大平洋岸の十勝、釧路の方から回って行ったものと考えています。

実はこれらのことは、大陸内部で大型哺乳動物を狩猟する人たちの生活との対比において大変重要な意味を有するものと考えています。DNAの変化問題もありますし。

さて、南から更に人の流入が続いている中、2万年前頃には大型哺乳動物を狩猟する人たちが陸続きの北海道へも稚内から南下して入って来ました。

この狩猟民族は、当然にして西からも入って来てますので大きな変化をもたらしました。

温暖化した状況での1.65万年前頃からは縄文時代と呼ばれていきます。何故、こんなに古い時代に日本で土器が登場したのか? 私は、温暖化によって生ものが腐りやすくなった、採集植物と組み合わせした、煮炊きが契機なのではと思っています。

そして当時の世界的なグルメだったのではないかと。

2.9万年前頃の南九州の姶良大噴火は、始まりの頃の日本祖人の生活に実に大きな痛手を与えた日本祖代の誠に残念な大事件でした。しかし、この大苦難を乗り越えたことは良い影響もあったと言えるかもしれません。

その後も、種々の人々が主に海を越えて入って来て海辺・川辺から全域へと文化が積み重ねられ熟成されていった長い長い独特の歴史です。

恵まれた日本列島に南・西・北から人が入ってきますが、通過して東の太平洋にどんどん流れていくことの無い、基本的には溜まる一方と言ってよい熟成という点が他所と異なる国柄を作った大きな特色と考えます。

まあ、このくらいの事は、子供たちに教えて良いのではないでしょうか。仮に大きく違う遺跡が発見されるようなら修正すればよいですから。通説を覆した驚きの三内丸山遺跡による縄文時代観の大修正も学界は行っていますから。

奇しくも建国記念日に記述しました。

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

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