1週間の期(学年)末試験が終わりました。やはり試験はそれなりに集中しますし、教室を出て2-3分で、あ!?間違えたと気づくことはしっかり覚えるでしょう。また、研究に向かえるウキウキ感もあります。さて、

インドネシアは、香港、オランダ、タイなどに次ぐ錦鯉の輸入国だそうで、アジアの楽園地区の伸びは大きいそうです。当地でも洋風ホテルのロビーとレストランの間に見つけて、へ~と思いました。水の流れは滝風で、そしてやはり船があるのが此処らしい。それらを佳しと感ずるところが楽園らしく、また、我が国の心情に通ずるものと感じます。

鯉 船鯉

同じく、やはり目貫通りのレストラン喫茶は、ゴルフ用品販売などと併設された当地ではこじゃれた店です。そのインテリアは、壁にはアート写真、そして日本では考えられない万年前からのくり抜きの舟と農作業の笠・竹籠です。外では、子供のおもちゃですが、竹のバネを利用したスタビライザー付きのよくできた物運び(写真では小石)で、大型の実物は、グヌン・パダン遺跡造りにも使われたんだろうなと思わせられます。

農漁舟 竹橇

Frame-work of theory

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Frame-work

Manusia-Modern

日本の皆さんも連休で行楽地に行かれていることでしょう。

先般、半年の学期に1度の日帰り研修バス旅行に行き、レポートも提出終わりましたので、ご報告です。前回の旅行は、学生がルーズで7時出発予定が9時近くになり、5時起きで示された集合時間前に来ていた日本人組をあきれさせましたが、今回は名簿確認、Tシャツ及び朝食受領などの後、7時過ぎに出発できました。向かったのは、バンドゥン南東約2時間のGarut地区で、お菓子工場見学と観光施設でした。学生は遠足気分ですが、企業の工場管理、販促、問題点、助言など5枚以上書いて提出というのが気になります。

それはさておき、観光施設はNaga村でした。入口に此処スンダの人が大切にする小刀Kujangが飾られ、土産物店が並ぶ中を通り、川のある低地(比高差約15m)まで階段を降ります。途中で視界が開けると、教室で教わったように、川のそばに家々が並び田畑がある伝統の風景が目に入ります。130人くらいの人たちが今も電気の無い(!)昔の生活をしています。そして、やはりここでも家には日本の神宮・大社と同じく千木があります。

朝食 Kujangnaga村 千木

ウガンダからのイブラヒム君は、国のと同じようなものだと懐かしそうに杵を手にします。人だかりで見えませんでしたが、ナイジェリアからのファルーク君は、村の人が20cm位の竹楽器を口元で演奏している(写真は、budaya-Indonesia.orgから)と合わせてスンダの歌を歌って驚かせてくれます。西アフリカとアジアの楽園のスンダは近いです。

杵 imagesFGBI2U3W

お日様とともに暮らし、隣も分かる長屋で農耕と民芸品作りが生計を支え、子供たちは階段を上り下りして通学していますが、町の騒音とは無縁、リストラもいじめも殺伐とした事件もない穏やかな生活です。途中休憩のガソリンスタンド前の空き地には、グヌン・パダン遺跡と同じ柱状節理の石柱を輪切りにした造形の敷石が作業を待っており、雨で霞む遠方にはピラミッド山が見えました。

生活 6角柱

見学を終えてスンダレストランで夕食し帰りました。たまたま着席し撮った写真を見ますと、手前2人がアフリカ、次の右は高地人が万年の暮らしをしているパプア、左は黒潮先の薩摩おごじょ、奥の隣の席の向うむき最右がエジプト、こちらを見ている右はアジアの楽園、マレーシア国境に近いタイ、左はアイヌの展示の充実を発表した北海道の道産子と、人類の旅さながらのものとなっています。現在、日本と韓国がダントツで学生多数派の双璧です。なお、今回のnaga村は、川そば低地でしたが、この国には山中で今も頑なに昔ながらの生活を守っているバドゥイ族の人々もいます(写真下右)。そこは、天国への橋を渡って行く聖地ピラミッド地区に入った外部の者は生きては帰れないと言われる所です。正に多様で昔が残っている国です。

夕食 バドゥイ

4月に開催された「アジア・アフリカAA会議」60周年記念行事は、
盛会のうちに閉幕しました。

過去の投稿をまとめたので、ご覧ください。

2015.04.11 【予定】2015年4月18~24日 アジア・アフリカ AA会議60周年記念行事

2015.04.22 アジア・アフリカ会議60周年記念行事

2015.04.23 アジア・アフリカ会議(2)

2015.04.23 アジア・アフリカ会議(3)

2015.04.25 アジア・アフリカ会議(4-1)

2015.04.25 アジア・アフリカ会議(4-2)

2015.04.26 AA会議関連イベント

AA会議関連イベント

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AA会議行事の後、昨日は、観光大臣、バンドゥン市長などや20ケ国(日本含む)からの参加を得て、会議場から大モスク前広場まで2kmにわたるパレードが賑やかに行われ、集まった1万人がお祝いしました(Kompas紙)。

今日もイベントは続いており、通学通りのいつもの歩行者天国では、スンダ文化イベントが行われ、催し物、テントブースで展示が行われました。

歩行者天国 スンダ文化展

アジア・アフリカの国だけでなく、豪、ギリシャなどの参加もあり、我が大学の日本語科学生も和装で出陣、日本ブースに参加しています。

学生出陣勢ぞろい

ずらりと並ぶブースでは、日・中・韓が隣り合わせで並んでますが、日本代表は、バンドゥン市と長く交流を続けられ、毎年来訪しているという浜松市中田島町さんです。ブースは、ダントツの人気で写真を撮りたい人の列が絶えませんでした。

綿菓子機から巻き取られる綿菓子と、此処の人はしたことがないのか、輪投げが人気でした。

日中韓の展示 中田島町中田島町ブース 輪投げ

ナイジェリアブースの同級生と東京お寿司の私は、会場ご視察のバンドゥン市長令夫人から、Good! の評価をいただきました。

doukyuu 御奥様

 

期間中、東アジアについての世界経済フォーラム(World Economic Forum on East Asia)が開催されています。ジョコ大統領は、今チャレンジを受けているがこれはいい機会であり、消費から生産・投資への創成を図ると述べ、過去も転換してきたし、100%できると言っています。

そして、投資はインフラや産業ということだけなく、人的資源への投資であると言って大きな拍手を受けています。

インドネシアは、東アジアという認識です。これは、「アジアの楽園」で書きましたように、歴史的には、輝く太陽の昇る「東」の地であり、今や日・中・韓~シンガポール・インドネシアにまで至る経度線の地域認識となり、長い時を経て巡って来た世界の焦点地域です。

バンドゥンでは、2万人による伝統の竹製楽器による演奏が行われました。ギネス記録になるそうです。

竹の醸し出す和音・ハーモニーを世界へというタイトルは、万年の「アジアの楽園」からの新しい風を5大陸に吹き渡らせましょうという我がサイトマークと軌を一にするものだと思っています。

2万人アンクルン

24日付 Pikiran Rakyat(国民思い)紙から

バンドゥンでは、今日も関連イベントは続いており、我がジャパン・ハウスBJHの釜我さんと大和田さんは朝から動き回って活躍しています。

今回の会議のとりあえずの所見は、中国の経済力を背景とする大きな存在感と日本の国際場裡における政治的発言という、従来の状況と逆転したかのような時代の変化です。

そして、ASEANの雄インドネシアが、その一都市を含めてこの大イベントをテロの脅威もある中、やり遂げたことでしょう。

グヌン・パダン遺跡で研究者の人たちが、深夜まで出てきた遺物の意味合いを議論していますが、このKAA60もこれからいろいろな事象が出てくる中で、意味合いが定まっていくのだろうと思います。 -歴史ニアの前線ルポ

AA会議は、昨日、厳戒態勢の中、サボイ・ホマンホテルから斜め前の会議場(独立館・博物館)まで、アジア・アフリカ通りを100mくらいの行進に引き続く行事、昼食会で無事終了しました。

行進は、前日からの車両運行規制などと当日の周辺地域への立ち入り規制のため、集まった人たちには王様方の服は見えませんでした。コマンド部隊も加わった軍・警察の規制は、「バパ(オトーサン)、どちらへ行かれますか?こっちはダメですよ。下がって下さい。」という実に穏やかなものでした。

なお、会議当初に当国ジョコ大統領とともに紙面を演説で飾った日本、ヨルダン、イランの3ケ国、その他シンガポールなど何ケ国かが既にこの「歴史的行進」以前に帰国していたと報じています。

AA行進縮 行進警備

25日付Kompas紙(ジャカルタ)から

会議場では、当地のリドワン・カミル(1971年生)バンドゥン市長が、youtubeを観るとホスト役としてまず挨拶し、建国の父がアジア・アフリカの将来のために公式なものとした(ここでジョコ大統領、大きく頷く)として平和十原則を逐条説明しています。wikipediaにも載っていない細部にわたる説明は授業のようで、安倍さんが英語で話しているかのような内容に聞こえます。そして、最後にバンドゥンは、①アジア・アフリカの首都 ②人権の都市 ③創造性ある大きな心の家 であると述べています。やはり、此処では家が出ます。また、この創造性については、市長は3年でバンドゥンをスマート・シティにすると言われていますが、当地でも名古屋大教授の創案として知られています。歓迎の挨拶授業は、サンバル(食卓必須の辛子)の効いた内容のためか、拍手は普通より大き目というところです。

なお、昼食会のインドネシア料理のシメは、キャラメル・バナナだったそうです(25日付Kompas紙)。やはり、農耕の始まりと言われここでは豊富なバナナでした。

55年当時の1年前に、市長さんの説明の元になる5原則をまとめた中・周恩来首相と印・ネール首相が仮に会場に居ましたら、自分たちをも対象にしている時代の変化に驚かれるのではと感じています。

今日は、北部の中心部に行ってみました。総じて普段どうり、というところです。

ジャワのパリと呼ばれる、「そごう」も入っている一角は、入口の特設スタジオでライブを賑やかにやっておりました。聞けばAA会議お祝いということですが、販促の色合いが強いです。他方、チハンプラス通りは、まあ渋谷というところですが、こちらは入口に55年当時の写真パネルを展示しておりました(近づいて見る人もいませんでしたが)。いずれもエリアの中は、普段どおりです。結局、大学の警備所が横断幕を張り、明日に向け柵にペンキを塗り、草花に水をやり、というところが歓迎の気持ちの表れでしょうか。

パリジャワ縮 そごう縮チハンプラス縮 警備所縮

東部シリワンギ スタジアムでは、2万人が伝統の竹製楽器アンクルンを演奏する、KAA60記念「アンクルンのハーモニーを世界へ」の大イベントが行われました。

当地の新聞(ジャカルタ)は、当国ジョコ大統領が、左に安倍首相、右に習主席という配席の会議写真を載せています。真ん中の大統領が「どうしようかな?」と考えているように見えるのは気のせいでしょうか。それにしても55年当時、オブザーバー参加だった日本がこの位置に着席していることに感懐を覚えます。

AA会議新聞縮

23日付 Koran Jakarta(ジャカルタ新聞)紙から

南部に行ってきました。

観光客、地元の人、会議関係者、デートの人・・・ここだけは、きれいな外灯が灯る会場付近は大変な賑わいでした。会場近くのバンドゥン銀座ブラガ通りにはメディアセンターが準備され、24日を待っています。因みにこちらでは、コンフェレンシ、アジア・アフリカでKAA60と言っています。

会議委員会の職員さんに聞くと、ジャカルタからの要人を午前に迎え、会議場とその前の伝統のサボイホテルとで、行進、式典、会議、昼食会という日程で行われるようです。自己紹介したら、大学UNPADの先輩ということで写真もOKもらいました。準備は着々のようです。

会場縮 人出メディアセンター縮 職員縮

バンドゥン銀座ブラガ通りも人が出てきました。此処では絵が売り物で道にも並べています。日本と同じファミレス、喫茶もありますが、通りの横道へ入れば地元の人向けの普通の店が軒を連ねています。

バンドゥン銀座 此処では絵ファミレス横道は地元向け

夜ともなれば、通りにはシーバスバーもあればビアホールもあって楽しめます。他方、安くておいしいとなれば、ラーメンは、若い人に人気です。そして、通りに向かうロータリーのモニュメントが作られていますが、竹なのも万年のここらしいことです。

シーバス縮 ビアホール娘ラーメン 竹モニュメント

大学では、検討の結果、明日は、授業のないことが伝えられました。お祝いもさることながら、会議場地区の警戒態勢のため、車両運行が制限されるためです。

記念行事が始まりました。ジャカルタでの会議が開催されていますが、外国からパレード参加含む会議関係者2,500人(報道関係は、1,000人)を見込んでいるとのことです。55年のバンドゥン宣言を想起するとともに、先進国とも連携して貧困などの諸問題から脱却し、発展を期する未来志向のものと報じられています。

此処バンドゥンでは、大学前を通る長距離専用バス停留所に向かうバスが、普段は日本の車検は無理と思われる年代ものですが、今は新車に変わりました。いろいろな催しが行われています。

バス 宝石縮

中心から離れた我が地区にもおめでたい行事の波は及んできています。まず、動き出しで目についたのは、石、すなわち宝石です。軽くて小さく持ち運びに便利。そうです、万年前の狩りなどのための黒曜石、宝石・真珠などの装飾品、お金にもなった宝貝、近世は欧州が目の色変えて求めた胡椒など、人類の百貨店は何でも扱います。

研磨縮 指輪

我がバンドゥン・ジャパン・ハウスBJH近くのあの石積みの家も長い階段を備え、新築完成です。花売りが登場し、24日には間に合うのでしょう、側溝の整備も今急ピッチです。

同学ながら、1時間ほど離れた広大な新キャンパスの学生さんの学食での誕生パーティも普段よりめでたい感じがします。こちらは、20年ですが。

新築縮 花売り縮側溝 パ^ティ縮

2015.4.18~24 アジア・アフリカAA会議60周年記念行事予定

バンドゥンの鉄道線路の南側地区の歴史ある第1回会議場においても記念行事が行われる予定です。

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2015.4.4-4.5 グヌン・パダン及びスンダ文化説明会

雨模様も何とかおさまった夕刻、グヌン・パダン後方稜線上の小学校において、地域の方々約50名に対して、遺跡の説明とスンダ文化の紹介が行われました。

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スハルジャ教授のお誘いで出席し、「アジアの楽園」の電子出版によりグヌン・パダン、スンダランドを日本に紹介したこと、メソポタミアより古いグヌン・パダンが、最古の文明を実証しうる重要な遺跡であること、何か出来ることでお役に立ちたいと考えて語学を学び滞在していることなどを説明しました。

お役に立ちたいというところで拍手がありました。

インドネシア大学UI生が、グヌン・パダン遺跡の状況、発見された遺物等について、スクリーンで詳細な説明を行いました。

次いで、スハルジャ教授が、スンダ文化に根付く星、星座と農耕の関係などについて、奈良がアジアの楽園とグヌン・パダンについて、建築家ポン氏が遺跡の構造、河川で繋がる地域との関係などについて、スンダ会が、活動の状況、文化継承の重要性等についてそれぞれ説明し、スンダの太鼓と子供たちの踊りの披露、スンダカレンダーの配布を行い、アクバル教授が、遺跡調査の意義、重要性についてシメの話をして終わりました。

その後、皆で夜食弁当を食べ散会となりましたが、金曜夕とはいえもう深夜近くなっていました。

研究者の人たちの遺跡の検討会といい、こういう会合といい、此処の人たちは夜遅いのをあまり気にしないようです。月が綺麗な滑る夜道をご高齢のスハルジャ教授と慎重に帰り、皆さんと民泊しました。

2015.3.24 ギョベクリ・テペ及びグヌン・パダン合同シンポジウム

バンドゥンのインドネシア科学院LIPIにギョベクリ・テペ研究ジャーナリストのAndrew Collins(英国)を招いて行われ、グヌン・パダンについては、LIPIのDanny Hilman博士が実施しました。万年を越える両遺跡等について、興味深い説明がありました。

1.時期・場所
・3月24日 09:30-16:00
・インドネシア科学院LIPI 10号館1F,3F
会場1階には、関連パネルが展示されていました。

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2.興味深い内容
(1) Andrew Collins .
ア 北から来た人たち
遺跡建造に関わった人たちは、黒海北側のSwiderian地域に居たが、ヤンガー・ドリアス寒冷期(13,000-11,500年前頃)に黒海東側をコーカサスに南下し、トルコ東南のギョベクリ・テペに至った狩猟採集民族である。当時の住民数は分からない。数千~1万か。
GordonChilde等によれば、元々は、4万―1万7千年前頃、東欧で勢力を有していたGravettiansで、ドン川沿いの上中流でも遺跡が発見されている。(紹介された想像図では丸太小屋に住み、フード付の長いコートやマントを着ている石器時代人である。)

イ テペ遺跡
テペ遺跡は、11,500年前ころのものだが、近くの南東(約37km)にKarahanテペ遺跡があり、10,500年前ころで、同じくT型の巨石建造を行っており、巨石の切り口もシャープである。
まだ地下にも遺跡はある。地域は、200m×300mくらい。一時伝えられたほど多い数ではない。

ウ 寒冷気候変動
原因は、彗星群の衝突によるものと考えられ、オオカミの石彫りは尾が彗星、手足がその抑制のシンボルと考えている。シャーマンが戦っているものもある。

エ 遺跡軸線の方向と星座
遺跡中央の2大石柱の真ん中から入口の方向の軸線は、真北から18度北北西で白鳥座のデネブ星に向いているが、グヌン・パダンとこの点は同じである。中国や日本の織姫・彦星神話が相当する。

オ 黒曜石
テペ人は、洗練された手法の狩猟族で、シャーマンがおり、交易者で、鉱物特に黒曜石の使用に優れていた。15,000年前ころバンドゥンの山斜面にも黒曜石の製作場があった。グヌン・パダンとの黒曜石文化があった。

ギョベクリ・テペでは、金属でなく石工具で石柱及び動物描画作業等が行われている。

(2) Danny Hilman博士
ア カタストロフィによる人類史における気候変動及び人類数の増減について考えるべきで、1000年前、産業革命まで何万年も人類数は一定で少ない定説に疑義あり。フローレス人の存在とその消滅は、ヤンガー・ドリアスYD期のカタストロフィ気候変動によるのではないか。

イ YD期を終わらせ急激温度上昇をもたらしたのは、太陽プラズマの爆発かも知れない。プラズマの起きた場合の形態と古代人の絵に類似性がある。マンモス消滅、北米クロービス文化消滅、火山活動の活発化、ギョベクリ・テペ建設、スンダランド陸地の変化など画期的な事象が表れている。スンダ海峡では、音響探査で海中に港のような形が出ている。

ウ タイランド湾内の灌漑遺構
湾中央部で、海中に大河から枝分かれした網の目のような人工運河があるが、1万年以上前の灌漑遺構か。(まずは洪水の治水、乾季の食糧生産であることから灌漑遺構であろう。)

エ スラウェシ島等の巨石文化
おなかの前で手を組んだ石像は、ギョベクリ・テペと類似で、彫られた動物にも類似性がある。また、石器で作るのは容易でない滑らかな曲 線形状の巨石遺物がある。メキシコとスマトラ巨石像の類似性もある。

オ グヌン・パダンの概要及び石柱、構造及び年代、発掘遺物
スカブミ西(チケンバン)を中心とする50km圏内にグヌン・パダンの他に6ケ所の巨石ピラミッド等が確認されている。(やはりスカブミ地区は注目される。)
第5テラスは、石積斜面に土を盛った部分が大きい。
最下層は、蛇の鎌首溶岩の頭部上面の安山岩層である。(灰白色の柱状列石は、周囲が緑の中、目だった景観を呈していたことと思われる。)

2015.12.29~30 現地調査

インドネシア大学に行ってきました。

充実のインドネシア大学は、そのまま通勤電車の駅名になっており、駅から歩いて5分です。

最初はアクバル教授にお会いするために行き、いろいろな施設があることを知りました。

特に、日本センターがあり、こういう文化面で支援しているのは、素晴らしいことと感じました。

正門のようなものはないユニークな広大な緑のキャンパスで、全般のセキュリティと建物毎の受付というシステムです。
此処の人たちが、尊敬し誇りに思っているトップ大学ならではのことと思います。モダンな図書館では、日本人、年寄り、大学生証、使用料50円で、充実の諸資料を閲覧させていただきました。

大学には、有料の宿泊施設があり、池を観ながら静かに過ごせ、朝食は和食でした。
此処の人たちは日本に行って、最初は食事で苦労するそうです。学生食堂でも安価で和食が食べれて練習できたらと感じました。

駅からジャカルタなどにすぐ行けるためか、大学街の駅前通りは思っていたよりも小ぶりです。

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2014.12.15~18 現地調査
スカブミ、女王の港、スンダ海峡を回りました。

休みに入った第2段で、グヌン・パダンからよく見えるスカブミなどを回ることにし、出かけました。

いつもは、バンドゥンからスカブミ行きの長距離バスに乗りますが、チアンジュールを過ぎてから幹線道途中のワルンコンダンで、オジェッに乗り換えてグヌン・パダンに向かっています。

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今回は、終点までということから車内でゆっくりでしたが、珍しい雨でした。着くと小雨になっており、まずは情報センターと図書館で調べものをしましたが、地名の由来や古い洋館の千木など興味深いものでした。予想に違わず、ゲデ山は迫るように街中から見え、グヌン・パダンは、後方稜線に溶けていますが、往時、今の緑がなく安山岩石柱のピラミッドでしたから、光り輝いていただろうことは確認できました。移動の窓から田植えの終わった田、稲刈りの終わった田、稲穂が頭を垂れようかという田、など豊かな状況を確認しました。縦横の街の通りも店が立ち並んでいます。

ゲデ山からの豊かな水量の川は、また、グヌン・パダンの方にも通じており、関係の深さを確認しました。

1泊し、川沿いを西南進して女王の港に向かいました。港のバスターミナルを降りると直ぐ海、インド洋です。漁船の群れや海上の釣り小屋など、港町らしい風情で、海沿いにも店が並んでいます。不思議に、観光センターでは、女王については5つ星ホテルに行って聞いてという対応なので行きました。成る程のタイアップで、話のパンフと有料見学の女王の部屋がありました。

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美貌のカディタ姫が讒言等により、容貌も醜くされ、女王とともにお城を放逐されて放浪、女王は亡くなり絶望の姫は此処に彷徨い着きました。疲労困憊の中、海に身を投げ生まれ変われとの神の声に従い身を投じ、かつての美貌を取り戻し、南海の支配者、女王として復活し、漁民たちの厚い信仰を集めています。岬の方を見学していましたら運よくバドゥイ族の人に遭遇し、ツーショットが撮れました。

港からボゴール、ジャカルタ行きのバスが出ていて、ジャワ島西北のスンダ海峡最狭部のマラッ港に向かうべくボゴール行に乗り、スカブミ西方の状況、ゲデ山の西方からの見え具合を確認しながらの前進となりました。やはり大山の名にふさわしいことを確認しました。

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ところが、ボゴールでは、その路線は廃止となっており、まずジャカルタに行ってそれからとなりました。運ちゃんが降ろしてくれたジャカルタ幹線道で待つこと30分、何とか乗れて深夜に港地区に入りました。宿も食事も問題なく、次の日早朝から、港と周辺をオジェッとアンコッにより見学することが出来ました。今では海の難所だそうですが、海峡は往時の賑わいを感じさせてくれ、地域は、工業団地としての変貌を見せていました。日本企業も進出していて、朝の工場労働者の大群も圧巻でした。南方へは、あのクラカトウ火山が見える、行けるということで観光バスが向かっていました。

帰りはバンドゥン直行便が出ているというラッキーさでしたが、客を沢山掴もうと諸所で止まりましたので、実に長時間かかってたどり着きました。

成果を得て、何とか無事に長旅を終え、夜に部屋にもどりました。

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